目録
【AnotherStory】もう一つの朝廷内地域嘱託集団:隼人司
上の図は,前掲の卜部三国の周圏論モデルに,隼人の点を追加したものです。このポイントも,同じ同心円孤上に辺ります。
前掲の各論・組織項の記述をしていたときに連想したのが,大嘗祭を含む朝廷儀式に「出演」する隼人のことでした。
彼らもまた,①出身地域限定の②特異技能集団として③朝廷最重要儀礼の重要な役という意味で,卜部三国と同じ位置にいます。
大嘗祭での「隼人」の機能
まず単純に,大嘗祭の行事進行について見ておきます。天皇から順に参列者が入場した段階の部分です。
卯日 巳刻(10時)に仮屋から5000人の行列が大嘗宮へ向かい、(略)神門に衛門が着いたあと、掌典職により悠紀主基両殿の設営が行われる(神座奉安)。(略)
戌四刻(21時)、天皇が廻立殿から悠紀殿へ渡御する。(略)同時に諸員が参入する。(略)皇太子(皇嗣)、親王、大臣以下、六位以下、それぞれ参入。この時、【●】隼人は犬声を発する[注釈 13]。
参入後、それぞれ行事を行う。(略)
・【A】国栖が古風を奏する。
応神天皇19年(288年)、天皇の吉野行幸に際して奉納して以来、国栖の民が産物献上と古風の奉納をたびたび行っており、その縁故によるもの。平成以降は、宮内庁楽部が奏している。
・【B】悠紀国/主基国の国風を奏する[注釈 12]。 嘉永元年大嘗会図〔後掲日本神話.com〕※赤丸2つ及び赤字は日本神話.com
それぞれの地方独特の歌詞をもって歌ったもので、国つ神からの寿歌である。平成以降は、宮内庁楽部が奏している。
・【C】語部が古詞を奏する。
各地の国造からの寿詞。国造は古くは国魂神の体現者であったことから、国魂神による寿詞とみることが出来る。平成以降は、行われていない。
・【D】隼人司が隼人を率いて参入、風俗歌舞を奏する。
隼人は山幸海幸神話にさかのぼる古い部族であることから、古層の文化を再現しているといえる。平成以降は、行われていない。(以下略)〔wiki/大嘗祭/本祭〕※アルファベットは引用者
[注釈 12] 悠紀殿の儀に際しては悠紀国、主基殿の儀に際しては主基国のものをそれぞれ行う。
概ね統治域内の各地方が式典を寿ぐ内容です。このうち参加者の地域属性が特定されるのは【A】と【D】。なお,【B】二国の選定のための亀卜執行者が上記対馬編で見た三国卜部です。
【B】悠紀国/主基国(亀卜により選定された東西2カ国):演奏
【C】各地国造:祝詞
【D】隼人:歌舞
これに先立ち,参列者の入場終了と同時に隼人が【●】「犬声を発」す。祭礼の場の完成の最初と最後を,隼人が設定しているような進行順です。
※隼人の警護描写例
十四年春二月戊子朔壬寅、(略)夏六月、(略)三輪君逆、使隼人相距於殯庭。穴穗部皇子欲取天下、發憤稱曰「何故事死王之庭、弗事生王之所也。」〔日本書紀敏達14(585)年条〕
面白いのは,これらいずれもが平成代に廃止又は宮内庁の代行に切替えられている点です。廃止等の理由を書いたものが見当たらないけれど,仮にも憲法に基本的人権が謳われて初めての大嘗祭で,被支配者又は民族への差別感覚を伴う要素を丹念に摘み取ったと思われます。
まずは,【D】部と【●】部の解釈及び周辺情報を見ていきますけど──以下,中村明蔵さん(日本史学,国際大学国際文化学部教授)の隼人観を多用します。飛鳥・奈良時代の古代律令政府による九州地方南部の支配政策研究の重鎮で,特に隼人政策面の精緻な研究で知られる方です〔wiki/中村明蔵〕。この人が,鹿児島市史の地域別編中,郡山郷土史(2006年,後掲鹿児島市HPで閲覧可)の「第五編 古代」部を記述しておられましたので,主にこれに依ります。
河鍋暁斎・画「海幸山幸」『日本神話シリーズ』,山口静一氏蔵,1878(明治11)年〔後掲神社と古事記〕※大古事記展 – I.古代の人々が紡いだ物語 「旅」 海幸彦と山幸彦
【D】隼人舞:溺れ様の再現舞踊
大嘗祭の「隼人の歌舞」を独立させて演じるのが,現在に「隼人舞」と伝わるものとされます。
隼人舞(はやとまい)は、皇室にゆかりのある宮中の儀式用の風俗歌舞。大嘗祭などで南九州の大隅国・薩摩国に居住した隼人が演じた風俗歌舞で、令制では衛門府(大同3年(808年)に兵部省へ移管)の隼人司で教習された。(略)
舞については、隼人の祖と伝えられる火照命(ほでりのみこと、あるいは火闌降命(ほのすそりのみこと)、海幸彦)が海水に溺れる様子を写したものであり、(略)〔wiki/隼人舞〕
隼人舞が伝わるのは京田辺市(→GM.∶地点)。「大住隼人舞」と呼ばれます。伝わると言っても,ごく近年に地域芸能として再興されたものらしい。
京田辺市大住の月讀神社には、「隼人舞発祥之碑」があり、毎年10月14日の秋期例祭宵宮に奉納されている。大住隼人舞は、昭和50年(1975年)12月19日に田辺町(現・京田辺市)指定無形民俗文化財第1号に指定された[10]。
〔wiki/隼人舞〕
[10] 京田辺市. “「月読神社と隼人舞」” (日本語). 京田辺市. 2019年9月20日閲覧。
画像では「溺れる」シーンは見つからないけれど,表現されるイメージは,要するに隼人(海幸)がヤマト(山幸)に屈服する前掲画像のような場面ですから……本当はあまりスカッとするものではありません。隼人の裔は,自らの敗北を象徴するこのシーンを千数百年踊らされ続けてきたことになるのですから。
この「溺れ」再現の旨は記紀にも繰り返し描かれています。
682年の隼人相撲
日本書紀の682(天武11)年の相撲記事も,「阿多隼人」の記述もあって研究者の間ではよく論じられるものです。
隼人多く来たる。方物(ほうぶつ)を貢(みつ)ぐ。是(この)日、大隅隼人・阿多隼人と庭で相撲す。大隅隼人勝つ。〔日本書紀〕
この相撲の後にも,隼人が何らかの歌舞らしきイベント(下記「楽を発す」)を催したことが記録に残り,かつ一般見物人の目にも触れたといいます。
隼人たちが方物を貢物として差し出し、服属儀礼としての相撲を奉納したあと、隼人たちは朝廷からもてなしを受けたことが記されている(以下も、とくに断らない限り『日本書紀』の記述にもとづく)。その記事は、つぎのようなものである。
隼人らを明日香寺(飛鳥寺)の西で饗(あえ)す。種々の楽を発す。仍(よ)りて禄を賜うこと各差あり。道俗ことごとく見る。
すなわち、隼人たちが遠路はるばるやってきて貢物を献じ、相撲を奉納したことに対し、朝廷ではかれらへの慰労のため、飛鳥寺の西で饗応(きょうおう)し、禄(物品)を各々に応じて賜った。また、音楽・舞を奏した。この様子を僧侶も俗人も皆見ていた。というのである。〔後掲鹿児島市郡山郷土史〕
隼人舞と同列に,隼人相撲も「服属儀礼」という表現で論じられるのが一般的です。けれど,相撲は武威を示すものではあっても,服属のイメージはあまり感じにくい。本当にそれだけでしょうか?あるいは,朝廷にとっては「服属」を象徴する行為でも,隼人側は別の象徴を踊った,といった両義的な歌舞だった可能性はないのでしょうか──というのが本稿の主旨になります。
なお,「貢物を献じ」たというのは,9世紀初までは隼人本国から6年周期での朝貢の制があったことを指します。中国への朝貢のフレームを日本国内の服属国にも適用したものらしい。698(文武天皇2)年,大和朝廷は南島覓国(べっこく)使なる使節を現・奄美諸島に派し,翌699(文武天皇3)年には度感島(現・徳之島と推定される)からの貢納があった。これ以前に種子島・屋久島・奄美大島からも同等の朝貢があったとされています。
【●】王権を護る隼人の吠声の「呪力」
飛鳥奈良の頃の都の夜には,隼人の吠声(はいせい)が響いていたらしい。おそらく朝廷の慣例として,ある時刻には声を発する決まりごとが出来ていたのではないでしょうか。
隼人は吠声(はいせい)(犬の吠え声に似た発声)によって、目に見えない霊・邪気を祓(はら)うことができると信じられていたからである。『万集』には「隼人(はやひと)の名に負ふ夜声…」(巻十一、二四九七※)の一首がある。「名に負う夜声」とは、有名な吠声が夜発せられていたようである。また、『古事記』『日本書紀』などの神話の中にも、隼人の吠声が天皇の身辺を守る呪力として用いられている。〔後掲鹿児島市郡山郷土史第二節1〕
:巻11-2497 作者未詳
(現代語訳)隼人の名だたる夜警の声。その大きな声のようにはっきりと私の名を申しました。この上は私を妻として頼みになさって下さいませ。〔後掲万葉集遊楽〕
「呪力」という解釈は,正確には,文字に記された史料はありません。現代史家の推測です。
感覚的には,超能力めいた意味での呪力や呪術とは少し違う気がします。
大嘗祭の場合,行事進行との文脈から推測すると,参列すべき全員の後ろから邪悪な異物が付いて入って来ないように,場を封鎖するような意味合いが想像されます。wiki注釈にある「能におけるシテの登場の際の掛け声」というのが的を得ていると思う。あるいは神事で用いられる警蹕に似るという指摘〔後掲正木〕も的を得ています。
権威を完成させる,あるいは完成を認知させるような意味合いです。
隼人の畿内「強制移住」
先述の吠声解釈を含む中村さんの隼人評の全体はこうです。
朝廷は隼人の勢力を分断して、その弱体化を計る政策をとったことが知られる。というのは、政権の所在地、大周辺の畿内(きない)(現在の近畿地方にほぼ当たる)各地に隼人が居住した痕跡が見出せるからである。南九州の隼人の一部を畿内各地に強制移住させたのである。この移住には、隼人勢力の分断の他に、もう一つの目的があったようである。それは、隼人特有の呪力(じゅりよく)(まじないの力)をもって、朝廷及びその周辺部を守護させることである。
(再掲)隼人は吠声(はいせい)(犬の吠え声に似た発声)によって、目に見えない霊・邪気を祓(はら)うことができると信じられていたからである。『万集』には「隼人(はやひと)の名に負ふ夜声…」(巻十一、二四九七)の一首がある。「名に負う夜声」とは、有名な吠声が夜発せられていたようである。また、『古事記』『日本書紀』などの神話の中にも、隼人の吠声が天皇の身辺を守る呪力として用いられている。
このような二つの目的を考えると、隼人が朝廷の所在地やその周辺部に移住させられた理由が理解できよう。なお、八世紀の律令制の組織内でも、これら畿内隼人の一部は、宮門を守衛する衛門府(えもんふ)下の隼人司(はやとのつかさ※)に属し、朝廷の守護役を務めていた。〔後掲鹿児島市郡山郷土史第二節1〕
この文脈で,衛門-【●】吠声-【D】歌舞が繋がります。畿内の広域においても,隼人はその機能を担ったわけです。
具体の地域としては,次の図のような場所になります。隼人舞を伝える京田辺の大住も,その一つです。
中村さんは,ここで南の蛮族・隼人と北の蝦夷とを比較しています。確かに隼人の移住地は①畿内に多いというだけでなく,②地理的な便地・要地が目立ちます。
②は先述地図の括弧書き部から現在の地名を拾ってみると(特に土地勘のある人なら)よく分かります。(奈良)五條市,(京都)京田辺市,(京都)宇治田辺町,(大阪)八尾市,(滋賀)大津市,(京都)亀岡市です。
隼人は、しばしば日本列島北東部に居住していた蝦夷(えみし)と並記・並称される。両者は列島の辺境に住む蛮人(ばんじん)であり、夷人(いじん)であるとされていた。しかし、両者への朝廷の対応をみると、蝦夷とは違って隼人には二面性が見出される。蝦夷も移住させられ (俘囚(ふしゅう)といわれる)、 各地に分布しているが、畿内にその痕跡は稀薄である。それに対し隼人移住地は畿内に集中し、朝廷に奉仕する役割を負わされていたことである。〔後掲鹿児島市郡山郷土史第二節1〕
佐伯(推定・蝦夷俘囚地)との比較
大和朝廷草創期の大量移住は,抵抗勢力の俘虜ばかりとは考えにくく,明らかに特定集団による植民の色彩のものも多いと考えられています。けれど,理由や背景を問わず同時期の移住により成立した地域ということでいくとそれは地名でかなり差異化できるようです。
後掲鏡味によると,品部・名代・子代・部民・屯倉・田莊などと呼ばれるこの移住集団は,具体的な地名としては日置・佐伯・陶(須恵)・土師・弓削・矢部・矢作・服部名を付された地域に植民したとされます。
このうち,日本書紀に記述(※原文後掲)があるために最も分かりやすいのが,蝦夷の俘虜による佐伯名の地名の土地への移住です。
景行天皇の「畿内に住むべからず」との指示に基づく移住なので,畿内以外の居住地のバイアスが働いたことは想像しやすい。ただこの前段で伊勢や三輪山に一度は住んだのに,再移住させられたことになっています。最初から畿内へ移住可の集団と不可のものが選別されていたわけではないようですけど,それにしても隼人移住地との差が歴然としてます。
京田辺市への隼人移住伝承
畿内への隼人移住伝を持つ前掲6ヶ所は,けれどもほとんどが「そういう伝承がある」というだけで掘り下げにくい。かろうじて①伝承のほかに②民俗(隼人舞)を有する京田辺市は,もう一つ③史料的及び④考古学的根拠を持ちますから,この詳細を見ておきます。
現在の京都府京田辺(きょうたなべ)市では、毎年一〇月中旬に古代隼人の芸能「隼人舞」を演じる行事が続けられてもいる。実は、この地に住んでいた隼人のものとみられる計帳(けいちょう)(歴名(れきみょう)帳)という徴税台帳らしい文書が正倉院文書の中に伝えられている。そこには「隼人」「隼人国公(くにきみ)」などを氏の名とする者が八一名、他に「大住忌寸(おおすみのいみき)」を氏姓とする二名もいる。大住=大隅で、おそらく大隅隼人の系譜をひく者であろう〔後掲鹿児島市郡山郷土史〕
③計帳記載の納税義務者名中に「隼人国公」「大住忌寸」姓(又は役職)名がある。ここから「大住」が「大隅」に由来する説が説得力を持ってきます。
「大隅」は,先の相撲(682年日本書紀記事)で対戦した阿多隼人と大隅隼人の名称から,隼人の部族名として7C当時から通じていた推測も成立ちます。
この計帳について,中村さんが他のHP記事で次のように詳述しています。
「明治時代に小杉榲邨によって正倉院から持出されたものであるが、近時藤江家から発見された。正倉院以外に伝存する計帳としては最も纒ったもので、伝存稀れな奈良時代計帳残巻として貴重である。」
もっとも移住地としての確証のある大住郷について、その移住者周辺をさぐってみたい。じつは、山城国大住郷については「山背(やましろ)国隼人計帳」※(歴名帳)と称されている正倉院文書(断簡)が伝在している。この文書は八世紀前半の天平期のものとみられるが、そこに「隼人」「隼人国公」などを氏の名とする八一名と、ほかに「大住忌寸(いきみ)」を氏姓とする二名もいる。
「忌寸」姓は六八四年の天武八姓の制によって定められたものであるから、大住氏はそれ以前に畿内に移住していたとみられよう。南部九州では大隅直(あたい)を氏姓としていたので、直姓を改めて忌寸姓を賜わったことが確認できる(六八五年六月)。これからみると、移住者集団には引率者として大隅直一族のような豪族クラスの有力者も含まれていたことがわかる。〔後掲中村〕
「忌寸」姓の制度化年(684年天武八姓の制)から隼人居住開始がそれより前,7C半ばより早いことが推定されます。
また,豪族クラスの大隅直を交えていることは,それが蝦夷同様の「強制移住」とすることに疑いを持たせます。以下は吉村武彦さんの類似論旨部分です。
10世紀初めにできた『和名類褻抄』に、山城国綴喜(つづき)郡大住郷の名がある。南山城の木津川の左岸に位置するかつての大住村で、現在は京都府綴喜郡田辺町大字大住付近である。正倉院文書にある山背国隼人計帳の故地にあたり、八世紀の天平年間に大住忌寸(いみき)足人らが住んでいたことがわかっている。この大住郷の故地の近くの丘陵に、六世紀後半から七世紀にかけての横穴墓が点在する。これらは大住隼人の墓地である(江谷寛「畿内隼人の遺跡」)。つまり、六世紀後半に大隅隼人の集団が、この地域に居住していたのである。
大隅からでてきて、南山城に居住した直接の理由はわからない。しかし、のちの隼人の処遇から考えれば、何らかのかたちで大和王権に仕えた隼人と関係があるとみていいだろう。『日本書紀』敏達一四年(五八五年)条に、敏達天皇の殯宮(もがりのみや)を警護する隼人の記事※があるが、こうした王権に近習する隼人と同じように王に仕えた隼人ではなかろうか。〔後掲吉村〕
※日本書紀敏達一四年(五八五年)条 リンク→前掲
敏達代の殯宮警護の隼人記事は585年,大住の横穴墓は6C後半から。ここから荒く出る6C以前という時代は,記録上7C以後と考えられる隼人の反乱※より一世紀早い。
以下のように,隼人本国での7C以前の中央統制が非常に緩かったことは定評があります。6C以前の隼人の畿内移住が敗者又は被制服者として「強制」された集団移住だったとはどうも考え難いのです。
國造時代に於ける中央政府の施政方針は極めて寛大であつて、
大化直後に於いては、班田収授法さへ實施せずして、なほ特別の行政區としたとは云へ、漸次他地方と同一に律せんとした事は争はれない事で、そこに當地方の豪族としては窮屈になつたに違ひない。
これが文武天皇の御代以後の隼人反亂の原因と考へられるのであらう。〔後掲鹿兒島縣史 〕
※第一巻/第二編 國造時代/第四章 國造縣主の設置と諸豪族,1939
このように「隼人の強制移住」に疑念を持って,先の隼人の畿内移住箇所を再度見直してみると,それが奈良盆地(時代的には奈良・飛鳥・纏向)を囲む軍事的要地のベルトであることに気付かされます。
※凡例(引用者) 茶:隼人移住地の所在ベルト 青:近隣敵対勢力(ナガスネヒコ:登美能那賀須泥毘古)勢力想定地
奈良の王権側から見て,強力な抵抗を示した「敵」残党を配置する位置にはとうしても思えません。むしろ高い信頼を置く親衛部隊の配置です。
先述の殯宮警護の事例を想定すると,隼人は奈良盆地にも相当数が住んだはずで,これら隼人移住伝承地はやや後代の隼人専住地と考えられ,かつそれが非隼人からモザイク状に隔離されていたようにも見えません。
つまり,記紀の先入観を排して素直に見ると──おそらく纏向代の2〜4C,畿内に隼人の植民地域がまず存在し,それを基盤として大和王権が出現した,との捉えが自然に感じられるのです。
最初の同心円図の対馬・壱岐・薩摩・伊豆に戻ると,彼の四地の出自限定の役職が永く朝廷内に残存したのは,四地に発した勢力が大和王権のフレームを成したからではないでしょうか。情景的な言い方をするなら──神武東征とは,これら海民集団による古代人の大移動に,後代記紀が付した名前なのではないでしょうか。
或云:日本旧小国,併倭国之地。其人入朝者,多自矜大,不以実対,故中国疑焉。
日本国は倭国の別種である。(略)
また、日本は古くは小国だったが、倭国の領土を併呑したという。日本人が入朝するときはおおかた自分を誇張して大きく見せようとし、実をもって答えようとしないので、中国はこれを疑った。〔蒋立峰 厳紹璗ほか 「第三節 新羅統一が東アジア国際関係におよぼした影響」『日中歴史共同研究』(日本語論文翻訳版)2010 による現代語訳〕
※中國哲學書電子化計劃→原文:卷一百九十九上 高麗 百濟 新羅 倭國 日本 No.70
【Synopsis】八百万の神武東征群
先に結論像を記してから,各論的に立証していきます。
2C後半の倭国大乱期とは,稲作先進地の九州で日本史上初の人口爆発〘A〙を背景とした。その混乱をプッシュ要因として,中国四国地方以東への急激な人口移動〘B〙が始まったけれど,それを可能にしたのは同時期までにネットワーク化された海民集団群〘C〙でした。
海民側から言えば,中四国以東への大規模稲作植民移送が,大きな利益をもたらす時代です〘D〙。
海民の中でも一定規模の陸人を抱え,かつ故地が稲作に適さない大隅・阿多(後の薩摩)からも,早くからこの古代日本人大移動の先駆けとして植民する者がいた。ただし,難波津(大阪湾)方面の陸人族は敵対〘E〙したので,伊勢湾の海人族の協力を得て〘F〙濃尾平野,さらに伊豆から関東へ移民団が運ばれた〘G〙。濃尾からはさらに畿内内陸へも植民の手が伸びた〘H〙。
この方面の集団中に,九州の争乱を一時的に和らげた巫女・卑弥呼に連なる政治・行政的勢力も混ざっており,新天地への植民が落ち着き,それを聞いた薩摩からの本格移民が寄せると,その政治・行政能力を発揮して次第に上層となった。これが大和王権の祖です。
隼人:大和は徐々に軍事:政治に機能分化し,後代には地理的にも分住傾向が強まる。日本列島の掌握と朝鮮との対立下,王権の完成が国家存続の条件と認識される時期に,大隅阿多本国も一地方として再規定せざるをえなくなる。同様に集権確立のために書かれた記紀の物語上は,畿内の多量の隼人は「俘虜」と記されるに至った。
論点〘A〙稲作伝播に伴う人口激増
2〜4世紀の日本人口は,推計によると60万から3百万程度に激増,これが7世紀まで続いています。このスピードでの増はその後,江戸期までありませんでした。
〔後掲渡部・中2019〕
縄文から弥生の過渡期に,縄文人系の集団が急激に人口を減じたことは遺伝子学的に立証されています。
上図の「系統1」とは渡部・中ほかの研究がデータ元とした日本人男性のうち縄文人由来のY染色体保持者についてのみのものです(詳細は下記リンク参照)。
最初に上げた古代の総人口推計は,文献史料※の郷数を基礎データにしています〔後掲今津〕。
従って,この時期の人口増は非縄文系≒弥生系によるもので,その増加率に追いつかない縄文人の増は,彼らのうち弥生系の生活様式中に混じっていけた集団だけが生存できたことを意味します。
縄文系人口減の同時期の気候寒冷化(縄文海進期の反動)は気象学上確認されていますから,その生活様式の変化とは,気候変動下でも植物系食料を安定供給する方法,即ち農業を意味すると推定できます。その農業とは,具体的には稲作の伝播だとしか考えられないのです。
縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで食料供給量が減ったことが、急激な人口減少の要因の一つではないかと思われる。また、その後人口が増加したのは、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられる。〔後掲渡部・中ほか〕
なお,稲の伝播と,それが社会人口を増加させることは完全にイコールではありません。稲作を基盤とする陸人社会構造(協業・水利・教育・流通等の諸機能を有す組織経営体≒初期的な行政)が必要です。それは,狭義の稲という植物又は稲作の生育技術が伝わったからといって,自然に起こる変化ではありません。
論点〘B〙プル要因は「とにかく東へ」
神武東征に関しては,熊野大迂回の非合理性と東征否定説(九州→近畿の土器・墓制等の文化的痕跡が無い)から真偽の議論が絶えないけれど,これらは全て「文化と組織を持つ集団が予め移動行程を組む」想定ならば矛盾するということです。
予め定めた行程のない,着の身着のままの移動≒漂泊であったならば,不合理なルートも生活痕の無さもむしろ当然です。それは,神武東征の自信のなさ気な進行にも共通します。
自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。亦従其国上幸而、於阿岐国之多祁理宮七年坐。亦従其国遷上幸而、於吉備之高島宮八年坐。
(読み下し)其地(そこ:宇佐)より遷移(うつ)りまして、竺紫(つくし)の岡田(をかだ)の宮に一年(ひととせ)坐(ま)しき。またその国より上(のぼ)り幸(い)でまして、阿岐(あき)の国の多祁理(たけり)の宮に七年(ななとせ)坐しき。またその国より遷り上り幸(い)でまして、吉備(きび)の高島宮に八年(やとせ)坐しき。〔古事記/神武東征〕
──ワシ個人は先の二点以上に,安芸(7年)と吉備(8年)で計15年も過ごしたことの方が謎と見てますけど……これは,九州から漠然と東を目指す中,さらに漠然と吉備辺り(中国地方山陽)を移住先と頭に置いてたからではないかと想像するのです。記紀的な読みをするなら,山陽からは出雲勢力の侵食により再移転せざるを得なくなったのではないでしょうか?
「漠然と東を目指した」理由は,その方面にフロンティアがあると言われており,要は流行だったからでしょう。
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫,2000 ※※東山:(旧国名)甲斐・信濃・飛騨
現在の地域別推計では,弥生期に東山-畿内-南九州の3極構造を成していた人口分布──東山(≒信濃)と南九州は縄文系採取民,畿内は弥生系農耕民と考えられます──が,畿内を中心にした東海-畿内周辺-山陽にまたがる広域に人口がまとまっていきます。
人口重心で見ると,次のようになりますけど──
──弥生→古墳代の人口分布は3極→1極の収斂方向に推移したので,重心移動の線はそれほど大きな変化を示しません。ただ弥生という長期を一点にしているので,おそらく弥生末期には相当西にまで移動したと推定されます。
先の棒グラフで言えば,縄文後期には日本最大の人口を擁した東北地方が,他の地方の激増傾向から一人古墳代まで取り残された結果です。
上図「725」点で分かる通り,おそらく何百年かぶりの東への重心移動があった。この東方回帰のムーブメントこそが,「神武東征」と物語化された古代大移住だと考えるのです。
第二の移動集団:「海の民」
2018年から複合分野研究として展開している「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」研究(領域略称:ヤポネシアゲノム,斎藤成也さんなど)は,早い時期に,いわゆる二重構造モデル(日本人=縄文人+弥生人)の後者の初期あるいは両者の中間に「海の民」の渡来期を想定するようになっています。
第二段階は、約4400年前〜約3000年前(縄文時代の後期と晩期)である。「日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の『海の民』だった可能性がある。彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは園耕民(農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている人々)だったかもしれない。以下に登場する第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島の中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった」。〔後掲ほんばこや→斎藤成也『日本人の源流――核DNA解析でたどる』〕
「神武東征」集団がこの海の民だったとしたら,「第3波」の大陸発弥生人集団に圧迫される形で,一次渡来地だったであろう九州地域から東への大移動が行われたものかもしれません。
この場合でも,その移動の基点が、「第3波」集団の居着いた西日本陸域の外周であったことは理に合っています。ヤポネシアゲノム研究の語るところからは、この「第2波」集団は第1波(縄文)や「第3波」(弥生)に比べて小規模かつ(混血が起こるほどの)時間をかけて移入したことが推定されます。ただし、海民であったという点で、初期の日本人構成に与えたインパクトは非常に大きかった。
本稿で強調したいのは、そのインパクトが最終的に近畿・濃尾に、これはやや爆発的にもたらされた奔流が「隼人東征」ではなかったか、という点なのです。
論点〘C〙古墳代初頭=日本太平洋岸海路がネットワーク化された時代
少なくとも縄文末期までは,東西日本の流通圏は接続されていませんでした〘C1〙。
弥生時代から古墳時代への移行,農業と鉄器とそれらを基盤とする社会集団の組織化は,これらのテクノロジーを物的に伝達する海路交通の恒常化により可能になったと考えられます〘C2〙。
九州の社会集団が東方にフロンティアが存するとする情報が伝わるためには,まず東方がフロンティアであるという認識が必要ですけど,それは弥生代末までになされた海民による冒険航海〘C3〙がもたらしたものだったでしょう。多分「神武東征」は,東方航海が冒険でなくなったごく初期の先駆的移民だったと思われます。
各論〘C1〙縄文期の海上ネットワーク規模
石器時代の黒曜石流通の研究は,①鉄器普及まで最も硬度のある素材と確認されていること,②鉱石であるため地質学的な個性から産地が特定しうること※,さらにこの両特性に基づき③その遠方集団間の流通の事実が確認できることなどの好条件で,東京都教委による研究が進められた結果,1980年代以降急速に詳細が明らかになりつつあります。
東の産地は和田峠と神津島のほか東北・北海道(十勝・白滝),西は北九州の三地点(姫島・腰岳・大石(阿蘇))と隠岐。
このうち隠岐の黒曜石は,沿海州出土の鏃の半数に用いられていたことが判明しています。
また,神津島産黒曜石の時代毎の使用圏域は次のように分析されています。
神津島黒曜石は,縄文後期に日本海側まで伝わったほか,北は竹之内(福島県),西は川地(愛知県・渥美半島西端)まで出土例があります。
北への陸路は,当時の日本で最大の人口を擁した長野(先述),おそらく諏訪地方の縄文人が拓いたものです。これに対し後の東海道の東西の海路は,伊豆大島をハブとする海民集団が担ったものと推測されています。
「原産地圏」である伊豆諸島には,神津島産黒曜石を採掘・搬出する独自の集団組織があって,この組織から近隣地域に多量の黒曜石が供給された可能性も考えられることから,搬出拠点である伊豆大島などで,今後は全遺物を対象とした分析や新たな遺跡発掘調査により,神津島産黒曜石の流通経路や組織について議論を深めたい。〔後掲杉原〕
杉原さんは彼らの機能として「採掘」までを推していますけど──これも後の海民のマルチプルな活動を見ると,故なしとは思えません。
陸域としては小国である伊豆は,海民拠点としては極めて古く巨大な,見方によっては縄文日本の基幹集団であったと言っていい。
ただし,先の神津島産黒曜石出土に依るなら,彼らは単独では畿内以西には到達していません。
なお,後掲白井さんはこの流通圏を「富士山の可視圏」(障害物のない場合,約6百km)という面白い捉え方で見ています。航海者の視点からすると,存外富士山はリアルな海上目標だったかもしれません。
A:妙法寺(那智勝浦) B:八丈島 C:犬吠埼(銚子市) D:檜山(岩代町)
〔後掲白井〕
各論〘C2〙九州と関東に集中する円形周溝墓
円形周溝墓という型の古墳は,その歴史的位相から注目されてはいる。でもその地理的位置については,畿内中心の歴史的観に引きづられて正面から説明したものがないように思います。
塚原古墳群(熊本県)を中心とする熊本平野と埼玉古墳群(埼玉県)の利根川東岸平野部に多い。
※さきたま古墳群には2方向にブリッジのあるものもある。
(上)下の形状部のみ (下)原文表〔後掲【ちょっと深堀り】古墳の豆知識 | ヒストリアンベル〕
バイアス抜きで自然に考えると──この前代のプレ・前方後円墳がある九州と関東がかつては古墳文化の中心だったけれど,その後の時代になって畿内に急速に中心が移動したように見えます。
そう考えると,前方後円墳は畿内でまず円形周溝墓の特化型として創造されたという発想が可能になります。
ブリッジ付き円墳は,古墳時代を通して築造されているが,前期では群としてまとまって検出された例がなく,群在する例は5世紀後半以降のものである。いわゆる後期の群集墳が出現する時期に増え始め,5世紀末から6世紀前葉をビークに6世紀後葉までを盛行期と考えてよいだろう。そして横穴式石室が採用され,次第に石室中心の指向性が進むにつれ,ブリッジは形骸化し,衰退していく。〔後掲白井〕
その想定を敷衍すれば──①九州で円形周溝墓が創造され,②それがまず関東に伝わり,③後におこった畿内で変形して前方後円墳になった,と考えるのが自然なのです。
①→②のメインストリームの亜流として,①→③──つまり途中下車組も出た。それが神武東征と伝わる移動だったのではないでしょうか?
〘C1〙から海民の市場史を考えるなら,弥生末期から古墳初頭は東西の黒曜石流通圏が,伊勢湾方面,海上からすると難所・潮崎〜白浜付近を越え,接続された時代です。この接続点が,いわゆる熊野大迂回のルートに当たることは重視されていいと思います。
隼人移民集団と「神武帝」と象徴される一団は,最初は何かの事情でやむを得ず,後には意志的に
安房神社の創始は、今から2670年以上も前に遡り、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。
その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。
この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。
各論〘C3〙完遂された東征=徳島→房総移民伝承
関東が本来の執着駅だったというのは,円形周溝墓からの推定だけでなく,以下のようにそれを完遂したグループがあることからも分かります。
天富命更求沃壌分阿波齋部率往東土播殖麻穀好麻所生故謂之總國穀木所生故謂之結城郡(古語麻謂之總今爲上總下總二國是也)阿波忌部所居便名安房郡(今安房國是也)
〔読み下し〕天富命は更に沃壌を求め、阿波齋部を分かち率ひて東の土播し麻と穀を殖え好く麻を生む所へ往く。故にこの總國の穀木を生む所と謂ふ、故に結城郡と謂ふ。(古語に麻を總と謂ふ。今の上總下總二國を爲すは是なり。)阿波忌部の居る所は便り安房郡と名づく。(今の安房國は是なり)
〔現代語訳〕天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、 良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、 是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。〔後掲竹取翁/古語拾遺一巻〕
出典は古語拾遺。記紀には全く触れられない話です。
斎部広成による807(大同2)年編纂。そもそもこの史料の性格が「古語の遺(も)りたるを拾ふ」,つまり記紀において忘れられようとしている神道伝承を後に伝える使命感から編まれたものです。
※古事記:712(和銅5)年太安万侶編
日本書紀:720(養老4)年太安万侶・舎人親王編
だいたい古代豪族が管理していた玉造りの仕事が国の生産力からはずされていってからというもの、祭祀にかかわる部族たちはおしなべてしだいに衰えていたのだが、それなのに、古来このかた忌部とともに祭祀や祝詞を司ってきた中臣氏だけはあいかわらず重用されていた。とくに伊勢神宮の祭祀が中臣氏に独占されつつあった。
そのため、斎部広成がそうした現状に対する憤懣を迸しらせ、その本来の由来をかくかくしかじかのものだったということを、「古語の遺(も)りたるを拾ふ」という立場であからさまに伝えたくて撰述したのが本書である。〔後掲松岡〕
朝廷内の政治的駆引きはあるものの,逆に言えば「中臣≒藤原氏が破却したかった伝承」が含まれているものとして注目してよい。
簡単に考えると,天皇家と藤原氏は神武東征が最初から畿内を目指した「遠征」だったことにしたかったわけです。
論点〘D〙移動請負業者としての海民
稲作導入による人口爆発渦中の九州では,まず九州内での移住が加熱し,これが治安と対立を累乗的に加速させ,「倭国大乱」状況の九州からの脱出へのプッシュ要因になり,真偽入り混ぜた脱出組の成功譚がプル要因になり──と大乱のスパイラルが誘発されていたでしょう。
「東征」は,従って整然と秩序立った大集団によるものではあり得ません。近代中国福建南部から台湾・東南アジアへの華僑のように,秩序を欠く小集団が無数に東を目指したのです。
海民が歴史上果たした役割のうち,大きなものに,この人流の触媒があるようです。かの状況は,彼らにはまたとない「稼ぎ時」です。しかも稼いだのは金銭だけではない。
17Cの第一次の福建→台湾移住ブームの募集者の最大のものが鄭成功でした。というかその父・鄭芝龍は日本からの移住者と海賊の相まぜのような存在でした。
鄭成功はその末年,「台湾鄭氏王朝」を建てるに至ります。
例えば鄭成功は,自分が王統を成すとは想像してなかったでしょう。移民と海賊を率いて暴れ回っているうちにそうなってしまった。ゼーランディア城陥落の年に死亡している経歴からして,あるいは本人も台湾の独立など知らなかったかもしれません。
神武東征の場合は,後掲の記紀の記述からして,そういう「英雄」すらいないと思われます。流れに揉まれているうちにそうなってしまった,旧九州のどこかの王家の末裔集団があったのでしょう。
彼らを喰い物にしていた海民たちは,(鄭成功時代の五商のような)ブローカー集団だったと考えられます。
さてこの大移民の奔流の渦中で「神武東征」一行がどうなって行ったかですけど──
論点〘E〙ナガスネヒコは「戦を興して戦」ったか?
畿内から先のストーリーは,瀬戸内海までと完全に転調してます。簡単に言って,瀬戸内までは戦闘や対立が全くない。ところが大阪湾からはいきなり血に塗れます。比喩ではなく,古事記の次の記述からは,神武本人の手が塗れてます。
到血沼海洗其御手之血
{読み下し}血沼(ちぬの)海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。〔後掲古事記の原文『イワレビコの東征』〕
古事記では神武の大阪の陣の前段に,「乗亀甲為釣乍打羽挙来人」(亀の
甲(せ)に乗りて、釣(つり)しつつ打ち羽挙(はぶ)き来(く)る人」)に出会い,首尾よく「海道」を案内してもらってます。海民でしょう。
地理的に言っても,神武一行は海民系の集団で,瀬戸内海までは地勢的に戸惑いがなかった。でも畿内には確固たる地場を持つ陸人集団がいて,彼らとの関係はそれまでと全く異質なものだった。──即ち,浪速は神武東征一行の知る海民ネットワークの東端だったのです。
故、従其国上行之時、経浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古、興軍待向以戦。
{読み下し}故、その国より上り行(い)でましし時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経(へ)て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき。この時、登美(とみ)の那賀須泥毘古(ながすねびこ)、軍(いくさ)を興して待ち向(むか)へて戦ひき。〔後掲古事記の原文『イワレビコの東征』〕
記紀の「雑音」を排したと推測できる前掲古語拾遺の記述は,たったこれだけです。ナガスネヒコの名すら出てこない。
逮于神武天皇東征之年 大伴氏遠祖日臣命 督將元戎 剪除兇渠 佐命之勳 無有比肩 物部氏遠祖饒速日命 殺虜帥衆 歸順官軍 忠誠之効 殊蒙褒寵
{現代語訳} 神武天皇の東征の年になりました。大伴氏(オオトモ)の遠祖(=遠い先祖)である日臣命(ヒノオミノミコト)は元戎(オオツワモノ=大軍)の督将(イクサノキミ=将軍)として、兇渠(アタドモ=敵たち)をなぎ払い、取り除きました。命(キミ=神武天皇のこと)を補佐した勲功は比肩するものはありませんでした。物部氏(モノノベ)の遠祖の饒速日(ニギハヤヒ)は虜(アタ=敵)を殺して衆人を率いて、官軍(ミイクサ=神武天皇の軍隊)に帰順しました(=神武天皇に降り、合流した)。忠誠(タダシキ)ものなので褒寵(ミメグミ)として(神武天皇の身に)受けるものである。〔後掲古語拾遺15〕
初代天皇最大の難関だけに何氏が○○の功を為したという点に文字が割かれて本筋がボケてます。
戊午年春二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳艫相接。方到難波之碕、會有奔潮太急。(略)
{現代語訳}戊午の年、春二月十一日に、天皇の軍はついに東に向った。
舳艫(じくろ)あいつぎ、まさに難波琦(なにわのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。(略)
三月丁卯朔丙子、遡流而上、徑至河內國草香邑靑雲白肩之津。
{現代語訳}三月十日、川を遡って、河内国草香村(くさかむら)(日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。
夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天神子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。
{現代語訳}夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。
その道は狭く険しくて、人が並んで行くことができなかった。
そこで引き返して、さらに東の方、生駒山(いこまやま)を越えて内つ国に入ろうとした。
そのときに長髄彦(ナガスネヒコ)がそれを聞き、
「天神(あまつかみ)の子がやってくるわけは、きっと我が国を奪おうとするのだろう」
と言って、全軍を率いて孔舍衛坂(くさえのさか)で戦った。〔後掲日本書紀,現代語訳:古代日本まとめ〕
日下・白肩津にたどり着いて,そこで一か月も逗留しています。その後,ようやく竜田経由で東へ向かうと,道が細くて通れないので引き返し,生駒を越えようとしたらナガスネヒコに迎撃されました。
(下)縄文期大阪平野鳥瞰図〔後掲諏訪部〕
(下)〔後掲日本神話.com神武紀〕 ※青線は引用者
とても「東征」の軍事行動とは思えません。──白肩津に居る間に山道を調査したり,そこまでのように案内人を頼んだり出来なかったものでしょうか?それにこんな状態では,東征どころか敵対者の攻撃に耐えられるはずがありません。
次の図は橿原神宮で公開された絵巻ですけど,まさにこんな幽鬼のような集団が東へ向かっていたのではないでしょうか。
逆にナガスネヒコの立場になってみると──西から怒涛のように移民が寄せる時代,様々な上陸者が河内湖(現・大阪湾)に姿を現すので,生駒山を天然の城壁とし警戒を厳としている矢先,また一団,一か月もうろうろと生駒を越えにかかってるのが目に入ったので,何十回目かの迎撃を行った。
別にナガスネヒコは,神武東征一行に限って,総力を上げて「軍を興」したわけではありません。
対して神武側の上陸・居住地点の河内湖,これは彼らが七年滞在した瀬戸内の中間地点・多家神社(古事記:「阿岐(あきの)国の多祁理(たけりの宮」,日本書紀:「安藝國に至り、埃宮に居す」,位置の同定は伝承)に似たラグーン内の湾奥です。
安芸国での行動パターンから考えると,神武一行は河内湖奥にしばらく居住しようとした,と見るのが妥当と思えます。それを既住陸人が許さず,生活はおろか防備も整わないうちに海上へ退去させられてしまったのだと想像するのです。
論点〘F〙伊勢湾が東西海民ハブ港だった時代
本稿が,古代に東西から拡張された海民ネットワークの接合点と考える伊勢湾方面について,その海民の姿を残した史料は現在ほぼありません。でもゼロではない。
一つは,安濃津(≒現・津市)付近での考古学的成果です。個別の文物の価値がワシにはよく分からないけれど,考古学は既に九州又は大陸直達渡来の可能性を示唆しています。
古墳時代前期から後期にかけて、六大A遺跡(津市大里窪田町)が形成されている。ここからは、組紐文や火炎状透かしを持つような、出現間もない須恵器や韓式系土器のほか、湧水点祭祀を示す遺構やそれに伴う端正な木製品類が数多く確認されている。六大A遺跡の確認によって、伝来間もない大陸文化を伊勢でいち早く受け入れている地域として、この地域が重視されるに至った。
さて、六大A遺跡が形成されている時期、5世紀後半には、志摩の海岸部におじょか古墳(阿児町)が造成される。北部九州の石室構造を受容したと考えられるこの古墳は、明らかに海上交通によってもたらされたものと考えられる。〔後掲三重県埋文〕※下線は引用者。次の引用についても同じ。
津市埋文はさらに以下の刺戟的な記述をしています。
おじょか古墳の存在は、古墳時代における海上交通が、想像以上に活発であったことを雄弁に物語る記念物である。そして、このことを念頭におくと、六大A遺跡に見られる大陸文化受容の背景には、近畿地方からの陸路による間接的伝達以上に、海上交通による九州あるいは大陸からの直接的伝達を考慮するべきかと思われる。そして、六大A遺跡あるいはおじょか古墳の存在は、日本列島では古来より海運が盛んで、大きく見れば東アジアという海域に形成された文化域の一地域として把握する必要にあることを如実に物語っている。この視点に立てば、日本列島に見られる”先進的”とされている文化を、全て近畿地方を経由しなければその東方へと伝播することができないと考える必要は全くない。そして、安濃津という港の原形は、少なくとも古墳時代にまで遡ることは充分に考えられるのである。〔後掲三重県埋文〕
また,文学面では万葉集(1033番歌)に大伴家持の次の歌があります。
御食(みけ)つ国 志摩の海人ならし ま熊野の 小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ
この歌は,前後の家持の歌から,藤原広嗣の乱を契機とした740(天平12)年の所謂「聖武天皇の彷徨」への随行中に詠まれたと推測されています。
1033番歌の主な口訳
◆森本治吉•新村出『萬葉集練謀第三』(楽浪書院、1935年)
大君の御前の物を差上げる国なる志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗つて、沖のあたりを漕いでゐるのが見える。
◆澤潟久孝『萬葉集注窟巻第六』(中央公論社、1960年)
天皇の御餞を奉る国の志摩の漁師であろう。小さい熊野舟に乗つて沖の方を漕いでゐるのがみえる。
◆土屋文明『萬葉集私注三』(筑摩書房、1969年)
み食つ国志摩の海人たちであらう。ま熊野のを船に乗って、沖の方へこぐのが見える
◆吉井巌『萬葉集全注巻第六』(有斐閣、1984年)
御食つ国の志摩の海人らしい。小さな熊野舟に乗って、沖辺を漕いでいる。
◆伊藤博『萬葉集精注三』(集英社、1996年)
あれは、御食(みけ)つ国、志摩の海人であるらしい。熊野型の小舟に乗って、今しも沖の方を漕いでいる。
◆多田一臣『万葉集全解2』(筑摩書房、2009年)
大君の食膳に奉仕する国、志摩の海人であるらしい。熊野の小舟に乗って、沖のあたりを漕いでいるのが見える。〔後掲市〕
「御食(みけ)つ国」が志摩国の枕詞のように使われています。この名は,志摩がその豊富な海産物(鮑・サザエ・貝・海草など)を天皇の食事として貢いだ土地であることから来ています〔後掲万葉集の風景〕。そのことは平城宮跡から出土した木簡資料等の史料で立証されてもいる。
沖の小舟が熊野舟かどうか見えたのか?という問題を提起する論もあるけれど,熊野舟と伊勢の海民がセットで描かれていることまでは理解できます。
家持歌にはさらに「羇旅にして作る」群に次の二首があります。
的形の 湊の洲鳥 波立てや 妻呼び立てて 辺に近づくも〔万葉集1162番〕
「的形」は,伊勢雲出川の河口付近の円方(まとかた:現・津市と松阪市の中間辺り)だと言われます。
年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ〔万葉集1163番〕
「年魚市潟」は尾張年魚市潟(あゆちがた)を指すとされます。つまり,雲出川から尾張の市へ,さらに知多半島へと舟が行き交っている様子が描かれているのです〔後掲栄原〕。
「尾張太古之図」(717(養老元)年)によると,古代の伊勢湾奥の海岸線は現・桑名-大垣-岐阜-犬山-小牧-名古屋市緑区を結ぶラインにあり,現・名古屋市を含む濃尾平野の大半が海に覆われています〔後掲田中〕。
極めて霧が深い情景ながら,古代の伊勢湾は現在よりもはるかに奥行きのある海域で,しかも東は伊豆・八丈島,西は九州にまで海路を拓いた,海民の豊かな世界があった可能性があります。またそこは,後代まで天皇権力に非常に近しい場所だったと考えられます。
論点〘G〙九州からの入植目的地は濃尾・関東平野が自然
農耕作地の地域別統計として確かな数値は,太閤検地まで待たなければいけないけれど,それを図化すると上のようになります。
豊織期以前にも徴税はなされていたわけですけど,一元的統計がなく,これを集計するには相当の操作が必要になるようです。その結果得られた10世紀の本稲数(束)及び田籍数(町段)は次のとおり。
『延喜式』主税式では全国のデータが完備しており、諸国の出挙稲として、正税・公廨・雑稲が計上されている。雑稲には国分寺料・修理池溝料など諸国の事情に応じた細々とした稲が規定されているが、表1にはこれらを合算して計上した。『延喜式』は延喜5年(905)に醍醐天皇の命により編纂が開始され、延長5年(927)に一応の完成をみるが、その後も断続的な修訂を経て施行された。そのため、式の詳細についても史料批判が必要なのだが、ひとまず10世紀の数値とみなしておく。〔後掲今津〕
16武蔵及び18-20の関東の本稲貢納は既に相当多い。
なお,今津さんが上記数値を算出した際の基礎資料とした傾斜量と平地郷密度も掲げます。傾斜量が暖色の地域ほど,また既存郷密度の低い地域ほど,農地開発の新規参入は容易だったはずです。──後者は,本稿で検討する2-4Cと10Cの間の6〜8百年の差があり,かつその間に畿内で大和朝廷中心の国家形成が進んだのだから郷密度の集中もそれ以前を推定する必要がありますけど,それにしても東西の違いは顕著です。
以上,非常にシンプルな資料を挙げたけれど,古墳代初期の人口移動が既に水稲を知った人々のものだったなら,彼らは
稲作の新天地を求めた集団が,九州から一路目指すなら,それが大和であるはずがないのです。
古事記にも大和へ行くとは書かれない
目的地を大和とする記述は,記紀にすら書かれていません。
神倭伊波礼毘古命、(略)坐高千穂宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。
{読み下し}神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこの)命、(略)高千穂宮(たかちほのみや)に坐(ま)して議(はか)りて云(の)りたまひけらく、「何地(いづこ)に坐(ま)さば、平らけく天(あめ)の下(した)の政(まつりごと)を聞(き)こしめさむ。なほ東(ひむがし)に行かむ」〔後掲古事記の原文〕
神武一行は「東」のどこかへ出立したのです。
「流浪民」をイメージさせるこの点に,日本書紀では補筆して「靑山四周」の「美地」で,饒速日命(物部氏祖神)が既に天下っていたとしています。
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「(略)抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」
〔後掲日本書紀 巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇〕
{現代語訳}四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに語られた。
「さてまた塩土(シオツツ)の翁に聞くと、『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(ニギハヤヒ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」〔後掲古代日本まとめ〕
けれど,これで一応大和を始めから目指していた体にはなるけれど,よく考えたら無茶苦茶です。饒速日が「ひょい」と天磐舟で降臨した大和に,なぜ神武は何年も海路を移動した上で熊野から戦闘しながら入域したのでしょう?
また,饒速日が居ることがなぜ大和を目指す理由なのでしょう?饒速日を味方と信じる理由でもあったのでしょうか?仮に饒速日が神武を招いた(移民募集?)のだとして,彼は生駒で神武を迎え撃ったナガスネヒコの姻族です。──かように書紀は,大和=東征目的地とする記述を相当に無理をして書いています。これは逆に,本稿の採る無目的説を補強してもいます。
論点〘H〙神武東征の終点として大和がいつ構想されたか?
そう仮定すると,神武東征一行の「漂泊」の終点がなぜメリットの薄い大和盆地になったのか,という難問にぶつかります。
漂泊なので偶々そうなった,というのが本質にはなりますけど,出来る限りそのあり得る経緯を考えてみると──
日本書紀や古語拾遺(リンクは前掲原文)で追加されたニギハヤヒ関係記述は,神武一行の大和入りにおける物部氏始祖の貢献についてです。
おそらく記紀編纂当時に繰り広げられた自家の貢献の記述量アップ運動の中で,既に衰えた物部氏に筆を割いたのは,余程辻褄が合わなかったからでしょう。それは前掲のように,物部氏抜きでは大和を選んた理由が成り立たないからです。
ニギハヤヒの由来はこれまた定かではない。原田常治さんによると,大物主(大神神社主祭神)・加茂別雷大神(上賀茂神社)・事解之男尊(熊野本宮大社)・日本大国魂大神(大和神社)・布留御魂(石上神宮)・大歳神(大歳尊,大歳神社)と同一神とする〔後掲Japanese Wiki Corpus〕。けれど最も一般的なのは天火明命との同一神説らしい。
解釈抜きで,社伝上,ニギハヤヒと同一神を祭神であるとする神社が2つあります。
– 尾張国一宮
(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と社伝にいう)
②籠神社
– 元伊勢の最初の神社
(祭神の彦火明命はニギハヤヒの別名と社伝にいう)
本稿の立場からすると,これで十分です。即ち──書紀の言う飛行船から大和に降り立った説を否定するなら──尾張(現・一宮)や伊勢,つまり伊勢湾沿岸を,ニギハヤヒに連なる勢力は出自にしていたのではないでしょうか。
そう仮定すると,勢力の均衡から考えて──神武集団は
嗚呼 暴虐の道臣命
熊野上陸直後の貢献者としては,案内人としては八咫烏(ヤタガラス)が名高い。また,結果味方となった集団としては大嘗祭のもう一者の地域属性を持つ集団・土蜘蛛(国栖)があります。
けれど,実際の戦闘の先駆け大将としては道臣命(初名・日臣命,大伴氏の祖)が記されます。
熊野戦での所業は誠にえげつない。
──兄猾(えうかし)が神武に家屋の崩れる罠(押機(おし))を仕掛けた際,兄猾自身を武器で脅して(因案劒彎弓逼令催入〔書紀〕)追い込み圧死させた。道臣はその死体を切り刻んだ(時陳其屍而斬之〔書紀〕)。
──八十梟帥(ヤソタケル)を討った後,忍坂邑の大室でその残党と酒宴を開き,宴の酣で道臣が歌う久米歌を合図に彼の精鋭兵が残党を殲滅した。
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜、虜無復噍類者。皇軍大悅、仰天而咲、因歌之曰〔書紀〕
{現代語訳}味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に頭椎(くぶつつ)の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに悦び、天を仰いで笑った。そして歌を読んだ。〔後掲古代日本まとめ〕
八十梟帥残党皆殺しについては,流石に道臣独断の行としては残虐と思ったのか,書紀では天皇の密命だったという記述になってます。
重要な点は,神武軍が浪速までの道に迷ったような頼りない漂泊者から,かくもえげつない絶滅戦兵団に豹変していることです。
神武東征一行は,浪速から逃れた後,すぐに熊野大迂回の途についたように書かれているけれど,それだと上記の集団性格の激変は説明がつきません。安芸や吉備と同等期間を伊勢湾で過ごしたか,あるいは道臣が進めていた征討の統率役に後から充てられたかしたのではないでしょうか?
さて,そうした激しい戦闘を経て神武が即位する際,日本書紀はこの道臣命を不思議な役に任じています。先のジェノサイドの際にも登場した歌に加え「倒語」(逆さ言葉)で即位式の呪術的防衛に当たっているのです。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。(略)初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。〔後掲日本書紀〕
この年を天皇の元年とする。(略)初めて天皇が国政を始められる日に、大伴氏(おおとものうじ)の道臣命(ミチノオミノミコト)が、大来目部(おおくらめべ)を率いて密命を受け、よく諷歌(そえうた)(比喩的な歌)、倒語(さかしまごと)(合言葉・暗号)をもって、災いを払い除いた。〔後掲古代日本まとめ〕
式典時に門番に回されたといえば現代感覚なら疎外かイジメかに聞こえますけど,道臣は記紀記述上,論考勲章の第一として築坂邑の領有を許されています。当時の感覚としては最も信頼感ある役職であるはずです。
この役は,大嘗祭の際の「隼人の吠声」風景に酷似します。
「倒語」の呪術的意味ははっきりしませんけど……ローマで言うバーバリアン,「分からない言葉を話す」ことの象徴的表現とも解されます。
嗚呼 朧なる久米命
道臣と共通する武力行使シーンでの登場人物に,大久米命があります。
古事記では道臣と同列・同格の動きをしています。
爾大伴連等之祖、道臣命、久米直等之祖、大久米命二人、召兄宇迦斯罵詈云〔古事記〕
{現代語訳}ここに大伴連(おおとものむらじ)等(ら)の祖(おや)、道臣(みちのおみの)命、久米直(くめのあたへ)等(ら)の祖、大久米命の二人、兄宇迦斯を召(よ)びて、罵詈(の)りて云ひけらく〔後掲古事記の原文〕
けれど日本書紀では道臣の配下のように記され,古語拾遺では道臣だけが記されています(前掲原文)。この推移は,大伴氏の祖とされる道臣が子孫の勢力ゆえに久米氏の業績を食った形で,伝承の原型としては久米命が実行部隊だった可能性があります。
前掲の道臣の歌や舞は「久米歌」「久米舞」として伝承されています。
ほかに,久米命が目に入れ墨をしており(黥利目),神武の新しい奥様から奇異に思われたという記述があります。
爾大久米命以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時 見其大久米命黥利目而思奇歌曰
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
爾大久米命答歌曰
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
【読み下し】爾(かれ)大久米命天皇(すめらみこと)之(の)命(みこと)を以ち、其の伊須気余理比売を詔(め)しし[之]時、
其の大久米命黥(さ)くる利目(とめ)を見て[而]奇(あやし)と思ひ歌曰(うたはく)、
あめつつ ちどりましとと などさけるとめ
爾(かれ)大久米命答へ歌曰(うたはく)、
をとめに ただにあはむと わがさけるとめ
{現代語訳}大久米命は天皇の命を以ち、その伊須気余理比売を召した時、伊須気余理比売は、大久米命の黥(いれずみ)した鋭い目を見て、怪しく思い歌いました。
胡鷰子(あめ)鶺鴒(つつ) 千鳥ま鵐(しとと) 何故(など)黥(さ)ける利目(とめ)
《大意》
胡鷰子(あめつばめ)、鶺鴒(せきれい)、千鳥、あら頬白(ほおじろ)かしら、どうしてそんな黥(いれずみ)した鋭い目なの?
それに、大久米命は返歌しました。
乙女に 直(ただ)に逢はむと 吾が黥ける利目
《大意》
あなたのような乙女と会おうとして、こんな黥の鋭い目なのですよ。
〔後掲古事記をそのまま読む《20》〕
そもそも,全国に残る久米の地名は,目の入れ墨に由来すると書く伝承もあるらしい(播磨国風土記)。
魏志倭人伝にあるように,入れ墨は古代九州の地方人の常習です。記紀の記述が大伴氏の権力基盤となる段階では薄められて当然だと思うけれど──これらは,道臣や久米に象徴される
移動する古代人は神武を何者と幻想したか?
2世紀頃の伊勢湾で起こった出来事の詳細を,以上の想定で再構成します。
①浪速を追われた神武東征一行は,満身創痍で伊勢湾近辺に漂着した。
②尾張一宮方面を拠点にしたニギハヤヒ集団は,内政的には流入し続ける植民集団,特に風俗を異にする隼人の対処,外交的には西面する紀伊山地の「土蜘蛛」集団の脅威を抱えていた。
③そこでニギハヤヒは,隼人集団を紀伊への征討軍傭兵として活用していた。
④神武東征一行は,西日本からの移民集団の先陣を切って一定の偶像となっていたので,ニギハヤヒは紀伊への征討軍のまとめ役に据えた。
⑤神武東征一行と隼人集団は紀伊半島を苦戦の末に鎮圧し,その向こうの奈良盆地に拠点を得るに至った。
──浪速から熊野へ回る際,書紀では五瀬命に続き四人の兄弟中二人が海難で死に,計三人が絶命しています。下記は熊野入り当初の神武東征一行の様子ですけど……
故、神倭伊波礼毘古命、従其地廻幸、到熊野村之時、大熊髪出入即失。爾神倭伊波礼毘古命、倏忽為遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。〔古事記〕※緑字:維基文庫による追記
{読み下し}故、神倭伊波礼毘古命、其地(そこ)より廻り幸でまして、熊野(くまのの)村に到りまししとき、大熊(おほくま)髪(ほの)かに出で入りてすなはち失せき。ここに神倭伊波礼毘古命、倏忽(には)かに惑(を)えまし、また御軍(みいくさ)も皆惑(を)えて伏(ふ)しき。〔後掲古事記の原文『八咫烏』〕
※倏忽(には)かに惑(を)え:妖気に苦しみ気絶した
──「倏忽かに惑え」という訳の分からない表現からは,集団の統率が取れない混乱状態が読み取れます。
遅くともこの熊野漂着段階で,神武東征一行は最早,軍の体を維持していません。それが大和制圧に至ったのは,伊勢湾方面でニギハヤヒによる立て直しがあったからでしょう。
あるいは,神武という個人は紀伊半島に至らなかったかもしれない。「神武東征一行」は熊野や伊勢にたどり着かずに崩壊した,と仮定してもいい。同じことです。諸々の移民集団が持った「東征」イメージだけがあって,伊勢湾方面でその象徴だけを利用してニギハヤヒが熊野・大和進攻軍を事実上新制したと捉えても,それほど事実と遠くないと想像します。
まあ……ここまでも大概,恐れ多いことを書いてきたからお許し頂きたいけれど──この状況下,ニギハヤヒにとっては
隼人その他西日本移民群にとってもそうでしょう。東を目指す希望の灯があればいい。──これは,モーセやジャンヌ・ダルク,天草四郎を想像して頂ければよいでしょう。
可能性としては,そうした現実の歴史マターとの関係を記紀が記さないのは,ジャンヌ・ダルクと見るのが近いと想像できます。
かくして,神話的(=神輿の立場)に語れば記紀のようになる推移を,歴史的(=人間集団の立場)に語り直せば──古墳代初期,隼人が畿内中央を制圧した,ということになります。
奈良王権が亀卜のような天皇制原初の風俗を発掘しようとしたとき,それが陸域ではなく
以上,古代日本はまさに「異形の王権」からスタートした,という仮想をしてみました。