m19Q@1m第三十六波m回天の砦映ゆ海域アジアm鞆 /【特論1】存城と廃城

駄馬と馬子(2)(撮影者:内田九一か 撮影地未詳,1870年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

目録

■レポ:いわゆる「廃城令」原典から見る明治

城令」と呼ばれるものは,1873(明治6年)1月14日太政官発の「達」2通の総称です。
 福山城の廃城過程を確認するうち,この政策全体,またその各城の推移に気をとられることになりました。
 城郭取壊令又は存城廃城令とも呼ばれます。少し調べれば分かるけど,単に城を壊しただけじゃなく,多様な側面を持ってます。なのでこの一章を起こさなきゃならなくなった訳で──「廃城令」の呼称に反発する研究者も多い。多いけれど一旦通称に従ってこの語を踏襲していきます。
 戊辰戦争での「占領地」として管轄していた陸軍省に対しては,

【1号(存城)】陸軍の行政財産(行政目的に供用)

となるもの以外の城等,すなわち

【2号(廃城)】大蔵省の普通財産(行政目的に供用しないもの)

を大蔵省へ移管すること,新所管庁たる大蔵省に対しては処分を含む管理を指示したものです。
 行政の財産管理の操作はやや面倒な体裁を取ってしまうのですけど──要するに,軍用地として官庁が要るものと要らないものに選別し,後者は大蔵省所有に移して「処分」してもらう,という発想に,少なくとも当初のコンセプトでは立った制度です。

帯刀の武士(ベアト撮影,川村記念美術館所蔵,幕末)〔幕末〜明治の日本を撮影したフェリーチェ・ ベアトの写真展が開催中 – Japaaan〕

前史:城はなぜ軍のものだったか?

城令の紹介をその前段抜きに下記規定から始めちゃいますと,また軍部が横暴を!!──と単純に解されがちです。けど──流石にそれは,この件に限っては酷い勘違いです。
 明治当初の日本軍は,国内の治安維持でいっぱいいっぱいでした。

中央集権国家の成立を目指す政府は、明治4 (1871)年2月22日、鹿児島・山ロ・高知三藩の兵を徴して政府直属の御親兵を設置し4)、同年4月23日、地方軍事機関として東山道・西海道両鎮台を置くと5)、同年7月14日、御親兵の力を背景に廃藩置県を断行した6)。続いて政府は、同年8月20日、既に設置されていた東山道、西海道両鎮台を廃止し、新たに東京、大阪、鎮西、東北の四鎮台と八分営を置き、旧溜兵の一部を召集して常備兵とするとともに、そのほかの旧藩兵は元の大・中藩に一小隊を残して解散させた。また「地方城郭ノ儀兵部省管轄被仰付候事、但県二於テ明細ノ図面相調早々兵部省へ可差出事」7)と達し、城郭をすべて兵部省の管轄とした。これに先立ち、同年7月28日、兵部省陸軍部内条例書8)が執行され、陸軍部内に「城堡竝二築造兵二関スル諸務ヲ司ル」陸軍築造局が設置された。〔後掲森山〕

※原注4) 「鹿児島藩外二藩へ御親兵召出ノ儀心得達」『公文録』明治4年第20巻辛未2月兵部省伺、「鹿児島山口高知三藩ヨリ御親兵ヲ徴シ兵部省二管セシム」『法令全書』明治4年p.92
5) 「東山西海両道へ鎮台新置御達」『公文録』明治4年第22巻辛未4月兵部省伺
6) 「藩ヲ廃シ県ヲ置ク」『法令全書』明治4年p.284
7) 「東京大坂ノ両所へ鎮台設置伺」『公文録』明治4年第135巻辛未8月-9月兵部省伺「四鎮台ヲ置キ管地ヲ定メ地方城郭ヲ兵部省二管ス」『法令全書』明治4年p.757
8) 「兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書」『法令全書』明治4年p.709

 つまり,明治初めの国内の治安,というより,何とか制圧した状態を維持するために兵部省が軍事施設を「立入禁止」状態で専管したのです。
 廃城令は,大政奉還そのものより巨大な革命と見なされる廃藩置県の2年後,これら立入禁止区域を廃藩の履行確認として処置した政策です。
 維新軍団(いわゆる「御親兵」)とほぼ等しい東山道・西海道両鎮台軍は,この時点では,万一怒り狂って蜂起する藩への備えでした。
 廃藩置県をやっと終えた(1871.7.14)一ヶ月後,実質的な維新軍はようやく「日本軍」の実質を持ちます。具体的には1871(明治4)年8月20日,次の四鎮軍を編成します。──この編成と同時に,廃藩後の全ての「地方城郭」は一度兵部省(陸海軍省前身※)の管轄と整理された訳です。

※兵部省(ひょうぶしょう,和訓:つわもののつかさ)。初代兵部卿は仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王,大輔は大村益次郎。1869年(明治2)7月に軍務官を廃し設立。翌年,省内に陸軍掛・海軍掛が設置され,さらに陸軍部・海軍部となる。両部が1872(明治5)年に兵部省を分割する形で陸軍省・海軍省となった。〔山川 日本史小辞典 改訂新版 「兵部省」2←コトバンク/兵部省〕

東京鎮台 本営 東京
 、第一分営・新潟
 、第二分営・上田
 、第三分営・名古屋
大阪鎮台 本営 大阪
 、第一分営・小浜
 、第二分営・高松
鎮西鎮台 本営 小倉
  当分熊本
 、第一分営・広島
 、第二分営・鹿児島
東北鎮台 本営 石巻
  当分仙台
 、第一分営•青森
〔後掲森山〕

明治6年の徴兵令と廃城令の同時性

明治6年の徴兵令〔後掲国立国会図書館〕

城令は,1873(明治6)年1月の徴兵令と同月に施行されています。
 半年後,ということはかなりの作業を要したのでしょう,おそらく実際の招集兵が集まるギリギリになってから,初めて編成される全国規模の国民・鎮台軍の設置場所を滑り込みで整理します。それが明治6年(7月11日)改訂鎮台条例(太政官布告第255号)。
 この時点で,鎮台-師管-営所の三段階の軍制が設けられます。これらは,以下のような後年の地域名を付けた師団等のような属地性を持っていました。フランス軍の編成を真似たと言われる初期の日本軍制ですけど,素直に見ると発想は藩の新設に見えなくもない。

第一軍管 東京鎮台
 第一師管(営所東京)
 第二師管(営所佐倉)
 第三師管(営所新潟)
第二軍管 仙台鎮台
 第四師管(営所仙台)
 第五師管(営所青森)
第三軍管 名古屋鎮台
 第六師管(営所名古屋)
 第七師管(営所金沢)
第四軍管 大阪鎖台
 第八師管(営所大阪)
 第九師管(営所大津)
 第十師管(営所姫路)
第五軍管 広島鎮台
 第十一師管(営所広島)
第六軍管 熊本鎮台
 第十三師管(営所熊本)
 第十四師管(営所小倉)〔後掲森山,改訂条例第一条相当〕

若い娘の座像(撮影者:上野彦馬 アルバム名:幕末明治期長崎来訪人物写真集 長崎,1867-1868年頃)〔後掲長崎大学図書館〕
 以下が師管-営所の体系です。これらの軍組織は,明治6年段階ではいずれも旧藩の城郭を本部としました。

一軍一城の主

持ち」軍隊というのは,独仏辺りにはあったようですけどいかにも江戸的です。廃城令が廃城ばかりしてたんじゃない,という論拠はまさにここで──

東京師管管内 小田原 静岡 甲府
佐倉師管管内 ◯木更津 水戸 宇都宮
新潟◯師管管内 高田 高崎
仙台師管管内 福島 ◯水沢 若松
青森◯師管管内 盛岡 秋田 山形
名古屋師管管内 豊橋 ◯岐阜 松本
金沢師管管内 ◯七尾 福井
大阪師管管内 ◯兵庫(神戸) 和歌山 西京
大津◯師管管内 ◯敦賀 津
姫路師管管内 鳥取 岡山 豊岡
広島師管管内 松江 ◯浜田 山口
丸亀師管管内 徳島 ◯須崎浦(須崎) 宇和島
熊本師管管内 ◯千歳(大分) 妖肥 鹿児島 琉球
小倉師管管内 福岡 ◯長崎 対馬
 このほか、木更津、新潟、水沢、青森、岐阜、七尾、兵庫(神戸)、大津、敦賀、浜田、須崎浦(須崎)、千歳(大分)、長崎の13ヶ所は、現今城郭がないが必用の区域を選定して大蔵省と協議の上で地所を受取るべきこととされた。
〔後掲森山,改訂条例第二条相当〕※◯は引用者

 以上の中で◯を付した13の軍組織は,新たに持ち城を造改築しており,これが実は後掲「廃城令」の三号として規定化されています。──この13城のうち10は臨海。明治陸軍はこれらを,すぐ後から日本各地に置き初める要塞と同じ用途,即ち外敵侵攻の火砲から日本を防御する防衛施設に変貌させようとしたらしい。
 繰り返しですけど「廃城令」は略称です。この法令は,僅かながら城を造改築する根拠ともなっています。だからこの法規は,「城持ち軍隊制度」の一環という本質を意識して読んだ方がいい。
 ではその法令原文です。

太政官達2本 (廃城令原文)

政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」
一月十四日
 陸軍省ヘ達
全国城郭及軍事ニ関渉スル地所建物是迄其省管轄ノ処今度別冊第一号ノ通陸軍必用ノ分改テ管轄被仰付其余第二号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条附属ノ建物木石ニ至迄総テ大蔵省可引渡事
一 右管轄ノ土地へ屯営建築落成ノ上地所木石等有余ハ大蔵省へ可引渡地所不足スレバ更ニ撰定シ大蔵省協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ可相渡事
一 今後屯営地所練兵場等有用ノ節且全国防禦線決定ノ日ニ至砲墪塁壁等建築ノ地所ヘ無代ニテ可相渡候条其省ニ於テ撰定シ大蔵省協議之上可伺出事
一 木更津新潟水沢青森岐阜七尾兵庫大津敦賀浜田須崎浦千歳長崎十三ヶ所必用ノ区域相定大蔵省協議ノ上地所可受取事〔wiki/全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方〕

 後掲の江戸城=東京城の議論でも分かるとおり,当時の軍も江戸期の城塞が近代火力に対抗できないことは理解していました。というより──

太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」
大蔵省ヘ達
全国城郭及軍事ニ関渉スル地所建物是迄陸軍省管轄ノ処今度別冊第一号ノ通陸軍必用ノ分改テ同省管轄ニ被仰付其余第二号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条附属ノ建物木石ニ至ル迄総テ其省へ可引渡ニ付同省ヨリ受取候上処分可致事
一 右管轄ノ土地へ築落成ノ上地所有余ハ其省へ引渡地所不足スレハ更ニ撰定シ其省協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ相渡スヘク筈ニ付地代等ハ於其省可取計事
一 今後屯営地所練兵場等有用ノ節且全国防禦線決定ノ日ニ至リ砲墪塁壁等建築ノ地所ハ陸軍省ニ於テ撰定シ其省ヘ協議ノ上伺出候ハヽ無代ニテ可渡筈ニ付地代等ハ是亦於其省可取計事
一 木更津新潟水沢青森岐阜七尾兵庫大津敦賀浜田須崎浦千歳長崎十三箇所必用ノ区域陸軍省ニ於テ相定其省協議ノ上地所可受取筈ニ付引渡方可取計事〔wiki/全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方〕

 軍の母体たる薩長が実際に戦ってそう感じた恐怖が維新の最大理由なのですから,その認識は岸田秀じゃないけれど神経症的なほどだったでしょう。廃城令による防衛力再編は,富国強兵当時,持てるインフラを軍事に投入し尽くすその強迫観念に根を持っています。

長崎医学校の学生たち(撮影者:上野彦馬か アルバム名:マンスフェルトアルバム 長崎,1871年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら「国民」になった日本人たちは,日本史上の最初の体験者として,その新鮮さに昂揚した。
 この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ,この段階の歴史は分からない。〔司馬遼太郎「坂の上の雲」〕

 けれどかの高揚は,寒々しいばかりの恐怖感と裏表の関係にありました。リスク管理に最も必要なのは,怖れです。黒船騒ぎを考えるだけでも,それは旧武士階級だけではなかったと想像できます。海民的気質を備える当時の日本人は,他のアジア諸国よりひしひしと怖れるという資質●●●●●●●●に富んでいたのだろうと想像します。

田植え(31)(撮影者未詳,アルバム名:ボードイン小アルバム,撮影地未詳,明治初期)〔後掲長崎大学図書館〕

1号城・2号城の選定表

?具体にどの城がどうなったんだ?
 以上の法規にある「別冊第一号」(存城→軍用・行政財産)と「其余第二号」(廃城→払下対象・普通財産)のリストを見やすくしたものが,次の表になります。

国名 軍管 第一号 存城
※○印ハ新築可相成分
第二号 廃城
山城 第四軍管 二条城 淀城
大和 第四軍管 (空白) 郡山城
、高取城
、柳生陣屋
、小泉陣屋
、田原本陣屋
、柳本陣屋
、芝村陣屋
、櫛羅陣屋
河内 (空白) (空白) 狭山陣屋
、丹南陣屋
和泉 (空白) (空白) 岸和田城
、伯太陣屋
、吉見陣屋
摂津 第四軍管 大坂城
、○兵庫
尼崎城
、高槻城
、三田陣屋
、麻田陣屋
伊賀 (空白) (空白) 伊賀上野城
伊勢 第四軍管 津城 長島城
、桑名城
、亀山城
、神戸城
、松坂城
、田丸城
、菰野陣屋
、久居陣屋
志摩 (空白) (空白) 鳥羽城
尾張 第三軍管 名古屋城 犬山城
三河 第三軍管 豊橋城 岡崎城
、挙母城
、刈谷城
、西尾城
、田原城
遠江 (空白) (空白) 浜松城
、横須賀城
、掛川城
駿河 第一軍管 静岡城 沼津城
、田中城
甲斐 第一軍管 山梨城 (空白)
伊豆 (空白) (空白) (空白)
相模 第一軍管 小田原城 (空白)
武蔵 第一軍管 東京城 岩槻城
、忍城
安房 (空白) (空白) (空白)
上総 第一軍管 ○木更津 大多喜城
、久留里城
、佐貫城
下総 第一軍管 佐倉城 結城城
、古河城
、関宿城
常陸 第一軍管 水戸城 土浦城
、下館城
、松岡城
、笠間城
近江 第四軍管 彦根城
、○大津
膳所城
、水口城
、西大路陣屋
、山上陣屋
、大溝陣屋
、宮川陣屋
美濃 第三軍管 ○岐阜 大垣城
、加納城
、岩村城
、郡上八幡城
、苗木城
、高須陣屋
、野村陣屋
飛騨 (空白) (空白) (空白)
信濃 (空白) (空白) 須坂陣屋
、松代城
、小諸城
、岩村田陣屋
、龍岡城
、高島城
、高遠城
、飯田城
、松本城
上野 第一軍管 高崎城 館林城
、安中城
、沼田城
、岩櫃城
、伊勢崎陣屋
、小幡陣屋
、七日市陣屋
下野 第一軍管 宇都宮城 烏山城
、黒羽城
、大田原城
磐城 第二軍管 白河城 平城
、湯長谷陣屋
、棚倉城
、守山陣屋
、泉陣屋
、三春城
、坂元城
、小堤城
岩代 第二軍管 若松城 二本松城
、白石城
、角田城
、船岡城
、福島城
陸前 第二軍管 仙台城
、○水沢
岩出山城
、岩沼城
、涌谷城
、高清水城
陸中 第二軍管 盛岡城 一関城
、岩谷堂城
、金ヶ崎城
、宮津
、花巻城
陸奥 第二軍管 ○青森 八戸城
、七戸城
、黒石陣屋
羽前 第二軍管 山形城 大泉城
、新庄城
、上山城
、天童陣屋
、米沢城
羽後 第二軍管 秋田城 酒田城
、本荘城
、亀田陣屋
、矢島陣屋
、岩崎陣屋
、大館城
、横手城
、松嶺城
若狭 (空白) (空白) 小浜城
越前 第三軍管 福井城
、○敦賀
大野城
、勝山城
、丸岡城
、鯖江陣屋
加賀 第三軍管 金沢城 大聖寺城
能登 第三軍管 ○七尾 (空白)
越中 (空白) (空白) 富山城
越後 第一軍管 ○新潟
、新発田城
、高田城
三日市陣屋
、黒川陣屋
、上山藩七日市陣屋
、峰岡陣屋
、村松城
、与板城
、椎谷陣屋
、清崎陣屋
佐渡 (空白) (空白) 相川陣屋
丹波 (空白) (空白) 柏原陣屋
、篠山城
、福知山城
、綾部陣屋
、山家陣屋
、園部城
、亀岡陣屋
丹後 (空白) (空白) 峰山陣屋
、舞鶴城
、宮津城
但馬 第四軍管 ○豊岡 出石城
、村岡陣屋
因幡 第四軍管 鳥取城 (空白)
伯耆 (空白) (空白) 米子城
出雲 第五軍管 松江城 広瀬陣屋
、母里陣屋
石見 第五軍管 ○浜田 津和野城
隠岐 (空白) (空白) (空白)
播磨 第四軍管 姫路城 明石城
、三日月陣屋
、林田陣屋
、龍野城
、安志陣屋
、三草陣屋
、山崎陣屋
、小野陣屋
、赤穂城
美作 (空白) (空白) 津山城
、真島城
備前 第四軍管 岡山城 (空白)
備中 (空白) (空白) 浅尾陣屋
、成羽陣屋
、足守陣屋
、庭瀬城
、高梁城
、新見陣屋
、岡田陣屋
、鴨方陣屋
備後 (空白) (空白) 福山城
安芸 第五軍管 広島城 (空白)
周防 第五軍管 山口城 岩国城
、徳山陣屋
長門 (空白) (空白) 清末陣屋
、豊浦城
、萩城
紀伊 第四軍管 和歌山城 田辺城
、新宮城
淡路 (空白) (空白) 洲本城
阿波 第五軍管 徳島城 (空白)
讃岐 第五軍管 丸亀城
、高松城
多度津陣屋
伊予 第五軍管 松山城
、宇和島城
西条陣屋
、小松陣屋
、新谷陣屋
、大洲城
、伊予吉田陣屋
土佐 第五軍管 ○須崎浦 (空白)
筑前 第六軍管 福岡城 秋月城
筑後 (空白) (空白) 久留米城
、柳川城
、三池陣屋
豊前 第六軍管 小倉城 中津城
、千束陣屋
、豊津陣屋
豊後 第六軍管 ○千歳 佐伯城
、府内城
、臼杵城
、岡城
、杵築城
、日出城
、森陣屋
肥前 第六軍管 ○長崎 唐津城
、島原城
、諫早陣屋
、大村城
、平戸城
、鹿島城
、小城陣屋
、佐賀城
、蓮池城
、福江城
肥後 第六軍管 熊本城 八代城
、宇土陣屋
、人吉城
日向 第六軍管 飫肥城 高鍋城
、延岡城
、佐土原城
大隅 (空白) (空白) (空白)
薩摩 第六軍管 鹿児島城 (空白)
壱岐 (空白) (空白) 武生水陣屋
対馬 第六軍管 厳原城 (空白)
琉球 第六軍管 首里城 (空白)

※原注:函館五稜郭は、この時点での処分からは除かれていたが、同年12月の太政官達(「1873年(明治6年)12月3日開拓使ヘ達」其使管下函館五稜郭陸軍省所管被仰付候条同省ヘ可引渡比旨相達候事)により、陸軍省所管の存城と同様の処分となった。
 引用者注:首里城については後掲のとおり,1882(明治15)年の陸軍卿大山巌の願い出が許可されたことで存城と整理されています。1872(明治5)年に琉球藩が設置されたばかりのこの段階での廃城は考えられず,1873(明治6)年廃城令段階では首里城に限っては「保留」されたと解すべき。

茶摘み(13)(撮影者未詳,撮影地未詳,明治初期)〔後掲長崎大学図書館〕

陸軍→元藩主払渡特例

わゆる「軍払い下げ」の形を取らずに大蔵省に移したのは,町の中心地の大規模な施設なので処分そのものを相当に組織的・効率的に行う必要があるとみられたからでしょうか?
 逆に,陸軍としては今回大蔵省に移さなかった城について,今後もずっと処分できない,というのは困る。特に,どうやら元藩主(維新後の華族)からの払受希望の実例に対処するためでしょう,次の閣議決定を受けています(正確に言うと,1889(明治22)年に実施した公売を継続するための閣議決定)。

『不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ官庁ニ於テ受払ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス払渡シヲ認許ス』
明治二十三年二月一二日(決裁)
「別紙陸軍大臣請議不用城郭中元藩主ニ於テ払受ヲ志願シ及散在地ノ内官庁ニ於テ払受ヲ企望スルトキハ公売ニ付セス相当代価ヲ以テ払渡ノ件ハ来二十三年度以降ハ会計法ノ明文モ有之公売ニ付スヘキハ勿論ナレトモ本件ハ二十二年度中ニ執行ノ趣ニ付本議ノ通相当代価ヲ以テ売却ノ儀執行シ可然ト認ム
右閣議ニ供ス」〔国立公文書館 明治二十三年『公文類聚第十四編巻之二十三』
請求番号 本館-2A-011-00・類00469100-050←wiki/全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方〕

 1889(明治22)年の公売は,野中2014によると次のような結果になっています。明治後半1円=現代2万円〔後掲野村・日経〕と換算すると,最高額の静岡城で現・8億円,最低額の飫肥城は3千万円弱で売られたことになります。

第1師管
 小田原城 大久保忠礼 10,000円
 宇都宮城 戸田忠友ほか 3,700円
第2師管
 秋田城 佐竹義生 4,500円
 盛岡城 南部利恭 4,000円
 若松城 松平容大 2,000円
 白河城 阿部正功 保留
 山形城 水野忠弘 15,000円
 高田城 榊原政敬 12,200円
第3師管
 静岡城 静岡市長ほか 40,300円
 福井城 松平茂昭 9,000円
 津城 藤堂高潔 10,000円
第4師管
 鳥取城 池田輝知 4,000円
 岡山城 池田章政 10,000円
第5師管
 松江城 松平直亮 4,500円
 浜田城 松平武修 1,850円
 高松城 松平頼聰 5,000円
 徳島城 蜂須賀茂紹 11,300円
 宇和島城 伊達宗城 9,500円
第6師管
 飫肥城 伊東祐帰 1,450円
〔後掲森山〕
※原注226)野中勝利2014「1980年の『存城』の払下げとその後の土地利用における公園化の位置づけ」『都市計画論文集』日本都市計画学会 pp.1053-1058

城を取られた殿様はキレなかった?

──いう点が気になられるかもしれません。「非道也!城を枕に討死ぢゃ!!」といった挙に,直接廃城令を受けて及んだ藩は,結局記録になくて(後日,もっとキチンと挙兵したいわゆる士族の反乱は多数ありましたけど)……現代の立退き騒ぎを想像すると,どうも納得しにくい。
 この点,後掲森山さんは,明治初年段階では不動産所有の観念が薄く,まして改易・転封がまま行われた江戸期にあって城は「引き払え」と言われれば即退去すべき「借物」意識が強かった。そこに英仏式の近代的財産観念がいきなり持ち込まれた,という法観念的段差を指摘してます。
 藩はエリート集団ではあったけれど,土地に根付いてはいなかった。もちろん所有権観念も薄かった。
 一方で,廃城令の制定側の法的観念は士族層より格段に高かったらしい。特に,日本軍制が参照したフランスの影響は大きかったと考えられてます。──何と,フランス民法には「城」という財産項目があるのです。

「幕末に蘭学を学び、『万国公法』を訳刊し(略)山県有朋(1838-1922)の顧問として働いた西は、明治6(1873)年1月に発布された徴兵令の制定や軍人勅諭の起草に関与するなど、軍制の整備に当たった。本資料は、徴兵令制定の過程で、軍隊の規模を定めるに当たりフランスの軍制を調査したものと思われ、パリをはじめ各地域に駐屯している軍団の兵員数などが記載されている。」〔後掲国立国会図書館/(画像)西周関係文書 /(文)2. フランス軍事顧問団と軍隊の近代〕

 フランス民法では、城郭について、第二編(財産及び所有権の変容)において第540条•第541条に規定を置いている。箕作の『仏蘭西法律書民法』52)は次のように訳している。

第五百四十条 城砦ノ門、墜、壕、探等ハ亦公領ノ一部トス
第五百四十一条 既二戦闘ノ用二供セサル城砦中ノ地及ヒ壁、壕、探ハ亦公領トス、但シ官ヨリ之ヲ売払ヒ又ハ官ヨリ其所有者二対シ定期ノ時間訴訟ヲ為サ丶ル時ハ格別ナリトス

〔後掲森山〕※原注52) 箕作麟祥訳1871『仏蘭西法律書民法』(大学南校)第四 なお、原文で門はporte、壁はmur、壕はfosse、垜はrempart

 よって,日本の城の所有権は明治初めに軍に一元化された後,さらに大蔵省と山分けにされ,さらに通常の不動産として払下げられていったわけですけど──フランスのように財産法上「城」が位置づけられているならともかく,戦国割拠も幕藩体制も背景にしない「城」はよく考えると何者でもありません。1929(昭和5)年の国宝保存法施行(→後掲年表)まで,日本国所有の城は練兵場か,処分を待つ普通財産かのいずれかでした。軍用となった存城も旧態で保存される保証はないし,廃城を払下げられた個人が丁寧に保存した例もある。

天守数の推移から見る城の消滅

掲一之瀬さんのHPで,「天守」の数の時系列比較をされた記述がありました。いわゆる天守閣※を持つ城を「城っぽい状態を保つ城」と仮定義するのは,無謀でなく,かつ分かりよい。戦国には小さなものも含めて5万あったとも言われれる日本のお城〔後掲しずおか賢人〕を,いつ,何が損ねたのか?──廃城令の罪深さの数値的比率の算出,ということにもなります。

※天守:1560(永禄3)年に松永弾正が大和・佐保山(東大寺の北側)に築いた多聞山城に最初に造られたとされる〔後掲まっぷる/松永久秀……多聞山城〕。ただし江戸期の地方城郭では,「天守」の語を憚り「櫓」と表現する場合が多かった〔wiki/天守〕こともあり,明確な定義はない。代表的な区別として,
望楼型:慶長年間初期,大きな入母屋屋根,望楼部に柱や長押有
層塔型:慶長年間以降(藤堂高虎築の今治城が初),小ぶりな破風と寄棟屋根,望楼部は内部望楼型,廻り縁を持たない造り,下層から上層に向けて規則正しく逓減
天守の種類〔後掲ホームメイト,攻城団〕
※青字はサイト内リンク色のみを指し,当面関係ない。
日本の城の天守数推移
戦国時代 3000以上
▼1615年 一国一城令
1867年   200以下
※江戸末年の城主大名(国許に城が認められている大名)151家の城廓数
▼1873年 廃城令
       50以下
※1号城郭数から推定?
▼明治・大正 払下等
1929年 国宝保存法
1925年頃   20
▼1945年 空襲等戦災
※7城水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の天守喪失
▼1949年 松前城火災
      (天守喪失)
現存     12
【国宝】五城(松本・犬山・彦根・姫路・松江)
【重文】七城(弘前・丸岡・備中松山・丸亀・松山・宇和島・高知※※)
※※本丸の建造物が完全に残っている唯一の城

〔後掲一之瀬〕

 簡単に比較すると──
【一国一城令】1/15に減
【明治廃城令】1/4 に減
と,徳川の方が遥かに無茶をしてます。

一国一城令という諸侯による城の自主的損壊

国一城令は,豊臣秀頼が切腹した1615(慶長20)年6月8日から僅か五日後,6月13日に家康が命じたものです(同年施行の武家諸法度で公式に法文化)。「主として西日本の大名を対象とし,数日のうちに約400の城がこわされた」〔世界大百科事典 第2版 「一国一城令」←コトバンク/一国一城令〕とされる。
 自城を壊す行為は「敗北し軍門に下った敵将が「二度と城に籠って抗戦しない」という意思表示の儀式」〔後掲ほのぼの日本史〕として戦国期から定着していたもので,夏の陣後の神経症的な廃城は半ば自律的な徳川家への恭順の意思表示だったようです。──一国一城令は,早くとも廃城・原城を抵抗拠点にした島原の乱までは,制度的にはさほどの徹底度を要件化していないと言われる。大阪役を見せつけられた特に西国諸大名が,隣を戦々兢々見やりつつ我先に廃城したのです。

共振する江戸と明治の廃城ムーブメント

治廃城令は,西周の仏視察での知見(→前掲)に立脚し極めて理知的に進行したように見えます。けれどその2年前,まさに1615年に雪崩を打った廃城「運動」と似た性急さで進んだ版籍奉還から廃藩置県という,新統治者・明治帝への恭順「合戦」の総仕上げであると捉えるなら,「御親兵」による幕藩体制の瓦解を明示,という象徴的又は感情的な行動であった可能性は否定できないように思うのです。
 ただし,翌1874(明治7)年には新生日本軍の初外征・台湾出兵(征台の役・牡丹社事件)が起こり,国内では一連の士族反乱の初発・佐賀の乱が発生して,新政府軍には,そんな過去に向いた勝利者の愉悦に浸る暇はなくなってしまうわけですけど。

縄を作る人々(撮影者:内田九一か 撮影地未詳,1870)〔後掲長崎大学図書館〕

【各論】江戸城:唯一の現存居住用日本城郭

有財産は,法に基づく評価基準(平13.3.30財理第1317号)により算定した資産価値を台帳記載しなければならない。
 だから東京城(江戸城)にも価格があります。財産としての皇居の価値は,2146億4487万円と報道されてます〔『皇室 Our Imperial Family』43号(扶桑社、2009年)15頁←wiki/皇居〕。

将軍が去って天子の宿る城

新後,江戸城は東京城と改名され,皇居として用いられた〔後掲森山,原注2「東京城日誌」戊辰十月、「江戸城ヲ東京城卜称セシム」『法令全書」明治元年p.332〕のは周知の通りです。
 1868(慶応4)年4月4日の西郷軍江戸城入場の前後から,徳川慶喜は寛永寺に「謹慎」していたらしい。最後の将軍は同11日に「謹慎所を水戸に移す」ために江戸を退去してます。〔wiki/江戸開城〕
 明治天皇は9月20日に京都発,10月13日に改名されたての「東京城」に到着。これは行幸の名目通り,2か月の滞在で一旦帰京します〔後掲城びと〕。翌1869年の「行幸」後,天皇家は現在まで旅行先の東京城に「長居」をし続けてるわけです。
 政府内では東京遷都は賛否両論でした。強力な賛成論者だったのは前島密で「江戸にある大名屋敷や官庁をそのまま新政府の役所に利用することができ,江戸城を皇居にあてがうことができる」という経費節約論が結局決め手になったらしい。──前島密は明治元年中は駿河藩に出入りしてて,明治政府入りは2年からです。大久保利通を中心に進められていた大阪城遷都の動きに対し,前島は建白書を出した,というのが正確なところです。鳥羽伏見戦で舞台となった大阪城は,皇居選定と同時期に兵部省所管となり陸軍所という役所が置かれているから,廃城令が真似たとすれば大阪城の例です。
 さて,皇居・東京城からは徳川三百年の霊も含めて一掃されてます。

政府も江戸城を皇居にすると、明治元年12月、徳川家達に命じて城内紅莱山にあった東照宮や歴代将軍の霊屋を撤去させている169)。〔後掲森山〕
※原注169)東京市役所編纂1916『東京市史稿皇城篇』第4 pp.166-186

もっこを持つ蓑笠姿の農夫たち(2)(撮影者:R. シュティルフリート 撮影地未詳,1875年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

東京城破壊目論む近衛軍

藩主たる華族には,前掲(→払下リスト)のように明治20年代に入って払下げが始まったわけですけど,かくして東京城は,居住者があるまま国法上も存城している唯一の城となりました。
 ただ,この皇居すら,廃城令の前年・1872(明治5)年に城郭廃止論が出てます。主張したのは近衛局※で,江戸のお城では天皇が守れない,という感情からです。

※1872(明治5)年に近衛条例により設置された近衛諸兵の司令部。
1868(慶応4)年3月 軍防局隷下に「御親兵掛」設置:主に長州藩の亀山隊と致人隊
1871(明治4)年4月 山縣有朋らの立案で薩摩・長州・土佐の各藩の献兵から成る「御親兵」組織に再編
1872(明治5)年 近衛局設置と共に①陸軍隷下に置かれ,②御親兵から「近衛兵」に改称
1885(明治18)年6月「近衛」に改称
1891年12月「近衛師団」に改編
〔後掲アジ歴〕

 問題になったのは、皇居が置かれている東京城の取り扱いで、皇居と城塞を併存させるという築造局の意見に対し、近衛局は数百年来の攻守に応ずる建築を施した城塞が現在の火器戦闘に役立つはずがないので、城郭の名目を廃し、内郭は皇居とし、外郭は廃棄して郊外に攻守の建築施設を設けることを主張して対立した。折しも同年6月、大蔵省から朽廃が進んだ外郭諸門の取壊しの伺いが提出され、陸軍省に意見を求められたので、7月27日、山県陸軍大輔から伺を立てた結果、「城郭ノ儘、御住居被遊候事」との決定が下った20)。そのため、東京城は皇居と城郭が併存することになった。〔後掲森山〕
※原注20) 「諸御門渡櫓取毀伺」『公文録』明治5年第28巻壬申8月大蔵省伺ー

要塞は築かず終にうつろの森

由はどうも分からないけれど……つまり,陸軍中央の決定で東京城は外郭のみとは言え,城のまま残されることになった訳です。この決定がなされず,近衛の意見が通っていたなら,東京の中心には緑の皇居ではなく,巨大な近代要塞が構築されていたと想像されます。
 けれども,そうはならなかった。繰り返すけど,なぜかは分からないけれど,江戸城は家康転封時の原野の臭いを留めたような空虚として,据え置かれています。

(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。(略)緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。
〔ロラン・バルト(Roland Barthes、1915-1980)L’Empire des signes, 1970
『表徴の帝国』宗左近訳、新潮社「創造の小径」 1974年/ちくま学芸文庫 1996年〕

首里王城の図(瑞泉門) Environs du palais de l’Ô-Sama, à Tchouri(1877年仏・ルヴェルテガ少尉撮影,原版所蔵者:Hervé Bernard, France) 現存する最古の首里城画像とされます。〔後掲沖縄県立図書館〕

【各論】首里城:将来必要之地

上の如く進行した内地の「廃城」と,一海を隔てつつある意味密接に関わり合ったのが,五百年弱の間琉球尚氏が拠点とした首里城の帰趨です。
 結論として,首里城は「存城」となり,何度か燃え落ちつつも現在に至っています。
 ヤマトの完全な支配に属さなかったけれど存城か廃城かが問われた唯一の城を巡る史料は,明治初の異形の日本を浮かび上がらせてくれる感を持ったので,各論として入り込んでみます。

沖縄の一つの特殊な例に光を当てることで,日本史の時代区分問題を解く鍵が見つかるかもしれない〔牧瀬恒二・山口啓二「『日本史の再発見としての沖縄の歴史』をめぐって」『歴史評論』259号,1972 p16〕

『琉球漫録』絵図(1879年 渡辺重綱 著)※赤丸:分遣隊の宿営地
著者・渡辺は分遣隊軍医として1878(明治11)年に沖縄に半年間滞在。明治10年代の沖縄の実状を記す貴重な史料。〔沖縄県公文書館/あの日の沖縄
1879年3月27日「沖縄県」の設置

琉球が処分されるまで

治政府は,琉球藩を沖縄県に変じると同時に,首里城に駐屯兵を置いています。規模は中隊ですから二百人程度。

琉球藩については、明治8年3月10日、内務卿大久保利通が「琉球藩処分方之俄二付再応上申」197)提出して、同藩内に内務省出張所と分遣隊を置くことを上申し、太政官もこれを認めて、同年5月7日、琉球藩に「其藩内保護之為メ第六軍管熊本鎮台分遣隊被置候条其旨相達候事」と達し、陸軍省には実地検査のうえ派遣に着手するよう達した。198)陸軍省は、真和志間切古波蔵村(現那覇市古波蔵)に分営を建設し、199)明治9年6月、熊本鎮台から一分隊を派遣して駐屯させた200)。
 廃藩後、沖縄県には熊本鎮台から歩兵ー中隊が分遣されて常駐することになり、旧藩王尚泰が去った首里城に駐屯した。(続)

 古波蔵の分営とは,にーちぇ前の三角公園のことでした。この場所に18千坪の兵舎と練兵場があって,沖縄戦後は「与儀タンク」が置かれた場所です。
 この位置は,首里城と尾根伝いに連携は出来るけれど,それよりもはっきりと那覇市内と港を圧する監視場所です。

内部リンク→m19Km第三十波mm2古波蔵迷宮 (ニライF71)/■レポ:古波蔵とはどこだろう?にーちぇの真上によぎたんく
熊本鎮台分営所跡の案内板〔後掲那覇市歴史博物館〕
GM.:地点

琉球が処分されたあと

は,1884(明治17)年頃,沖縄県設置から5年も経ってから首里城を本拠とするよう中央から達せられています。

(続)分遣隊は当初は一部が首里城に移駐したのみで、他は古波蔵村の分営に駐屯していたが、翌13年7月15日、陸軍省は、西部監軍部に「沖縄県下分遣熊本鎮台歩兵ー中隊ノ内、古波蔵村在屯ノ分、今般同県下首里城へ引纏メ駐屯致候様、御沙汰候事」201)と達して全隊を首里城に移駐させた。廃藩後も軍隊を駐屯させたのは、琉球王家の旧臣の一部に清国に働きかけて王朝の再興を図る動きがあったためである。
 明治15年2月18日、陸軍卿大山巌は「沖縄県下琉球首里城内地所当省江受領之儀二付伺」202)を提出し、「将来必要之地二付、存城地トシテ其建物生樹等有形之儘官有地第二種二編入当省江受領致度」と願い出て、3月15日許可され、首里城は存城となった。分遣隊は、日清戦争後の明治29年(1896)7月まで21回にわたり交替で首里城に駐屯していた203)。明治26年6月3日、首里城を訪れた笹森儀助は「旧王城を一見ス。今ハ熊本鎮台ヨリ沖縄分遣隊ノ営卜ナレリ。而シテ歩兵第十三聯隊第六中隊之二居ル。隊長ハ陸軍大尉世良田氏ナリ」204)記している。〔後掲森山〕

※原注196)「琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ置ク」『法令全書』明治12年p.46
197)「琉球藩処分着手ノ儀再上申」『公文録』明治8年第106巻明治8年3月内務省伺五
198)「琉球藩内二熊本鎮台分遣隊ヲ置ク」、「琉球藩内ニ熊本鎮台分遣隊ヲ被置実地検壺ノ上着手セシム」『法令全書』明治8年p.856
199)「琉球藩内兵営建築経費金御渡ノ儀伺」『公文録』明治9年第30巻明治9年2月陸軍省伺(二)、「琉球藩内へ兵営等設備ノ地所御引渡ノ儀伺」同明治9年第31巻明治9年3月—4月陸軍省伺
200)「琉球藩へ熊本鎮台歩兵一分隊派遣届」同明治9年第32巻 明治9年5月〜6月陸軍省伺
201)『法規分類大全』第一編兵制門三p.280 202)「沖縄県下琉球首里城内地所受領ノ件」『公文録』明治15年第104巻明治15年3月〜4月陸軍省
203)原剛1992「明治初期の沖縄の兵備一琉球処分に伴う陸軍分遣隊の派遣ー」政治経済史学317pp.1〜11
204)笹森儀助『南嶋探検』1東洋文庫p.30

 首里城の存城は,内地の廃城令より10年も後に単独で決しています。この間の駐留は「王朝の再興を図る動き」があったため,という。
 これは多分,脱清人(だっしんにん)とその運動のことを指しています。wiki/脱清人は百人以上の人数を挙げてますけど,久米の中国系ばかりだったのか,これは氷山の一角で一般の琉球人も難民化したのかどうかは不透明です。脱清人の林世功(名城春傍)という人が北京で抗議の服毒自殺をした〔後掲新しい沖縄歴史教科書を作る会〕とか,逆に「平民は琉球藩の過酷な政治を恨み日本の直轄を望んでいる。」〔後掲日本沖縄政策研究フォーラム〕とか,民族主義的な両極の言説があって,どうにも把握できないけれど,中隊(約200人)規模の内地兵部隊が東京の指示で屯営したのは確かなのです。
 存城の理由にある「将来必要之地」とは,この駐屯を経て,国際間のパワーポリティクス上,沖縄を確保すべきであるという認識が生じたからでしょう。内地廃城令当時,専ら国内の治安維持の観点に立っていた軍は,首里城に関しては外海を見据えて判断しているはずです。
 琉球処分の本質的フレームも,どうやらその辺りにあるようです。

まくとぅーそーけー なんくるないさー

【各論補稿】天気晴朗ナレドモ琉球処分

こで,ある程度リアルな理解をしておくため,琉球処分の史料原典に触れていきたいと思います。
 まず,年表を掲げます。──琉球処分という事象は,実はどの範囲の行為を指すのか今も議論されています。「処分」の意味も,藩王=琉球王への現代の懲罰的意味合いとも言えるし,単に「プログラム」のような呼称だったとも考えられています。

1866年
 尚泰,清から琉球王に冊封
 (即位後18年目。清朝の情勢による異例な遅延)
1869(明治2)年1月20日
 薩長土肥4藩主による連署上表(いわゆる版籍奉還)
 ※版籍奉還未提出14藩に版籍奉還命令
1871(明治4)年
 鹿児島県管轄編入
1872(明治5)年
 琉球藩設置
 =尚泰が明治天皇により琉球藩王に冊封
  (琉球所管は鹿児島県から外務省に移管)1872(明治5)年
 琉球藩設置   ①
 尚泰華族となる ②
 (一等官)
1874(明治7)年
 台湾出兵(蕃地処分)
 ←琉球人遭難に対する問罪
   同年7月
 琉球藩事務が請願により外務省→内務省に移管
   同年  
 清国,征台を義挙と容認
1875(明治8)年
 琉球官吏の東京召致
 →清国への冊封・朝貢停止と藩政改革を命ず。
   同年5月29日
 太政大臣発琉球藩宛「琉清関係断絶命令」
1876(明治9)年5月17日
 琉球藩宛「裁判権接収命令」
1878(明治11)年11月
「琉球藩処分方法」14条を松田道之が起草
1879(明治12)年3月11日
 松田への最終的指令
 処分官・松田道之から藩王・尚泰に廃藩置県と東京居住を布達
 ※警察官・軍隊数百名を連れる。
   同年4月 沖縄県設置布告④
1880(明治13)年10月21日「球案条約擬稿」上奏
 ※井上外務卿→三条実美太政大臣
1882(明治15)年
 首里城存城決定 ③

琉球処分の時空は緊迫している

科書的な「琉球処分」は,概ね次のような認識に基づきます。

Q 琉球処分ですが、なぜ最初から沖縄県として設置しなかったのですか?なぜ琉球藩としたのですか?
A1 廃藩置県という流れがあります。藩が廃され県が置かれるのです。ですから藩が先ですね。
 琉球は清国と薩摩の二重支配を受けていました。落日の清国と琉球を切り離すのに琉球を藩にしたのです。琉球から清国に訴えが行きましたが清国は阿片戦争後の内政不安定状態でそれどころではなかったのです。
A2 県になるということは、独立を失い、日本の一部になることです。
 したがって、琉球王国が徹底して抵抗します。
 琉球に対する宗主権を主張した中国も反発しました。
 そこで、とりあえず日本側からは琉球藩ということにして、外務省の管轄とし、琉球王国の独立性を認めたのです。
 琉球藩王に命じられた尚泰は、首里城にて琉球王国の王であり続けます。
 それを終わらせたのが琉球処分です。
〔後掲Yahoo知恵袋〕


 A1・2の見解とも,本稿では前提にしていません。上記首里城存城の前提として,整合しないからです。
 清の弱体化又は関心が逸れた隙に,日帝が琉球を掠め取ったのなら,琉球処分は廃城令の一環として電撃的に行われたはずです。まして,独立王国としての認知したから琉球藩が成ったとするのは──欧米列強に力で対抗するために帝国主義に過激に適応しようとした明治政府は,もっとはるかに――――失礼ながら現代日本政府とは比較にならないほど,冷徹かつ切迫していました。
 結論から言って,琉球藩設置は明治政府の詐術又は一種の詰将棋の初手で,東アジアの外交術を熟知していたはずの琉球外交官は,隣の島国がそこまで,江戸期とは打って変わって帝国主義的な悪意を帯びているとは想定し得ませんでした。

傘をさす女性たち(3)(撮影者:F.ベアト 撮影地未詳・1870年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

 明治政府は「琉球藩処分」の理由として、琉球側が「琉清関係断絶命令」と「裁判権接収命令」という2つの命令に違反したことをあげた。そして、明治政府は琉球側の同意を前提とせず、武力による強制力を用いただけでなく、尚泰王の東京連行に際して、「編し」を行っていた。「琉球藩処分」は合法‘性を装い、琉球の国権を接収したがその実態は同意が存在しない「強制」であり、「武力」と「詐術」を行使したものであったのである。
 明治政府は「琉球藩処分」を国内問題として進めた。しかし、その理由や手続きから見れば、他地域の廃藩置県とは異なったもので、その実態は、琉球国政府を解体し外交権や裁判権、その他の統治権を接収した琉球の国権接収であり、その全体の過程は琉球国併合であった。そして、まさに日本のアジア侵略の始まりだったということができる〔後掲後田多〕

 こうした「倫理」的な見方も,現代の,ある程度は隣国が獣でないと信じうる国際環境での尺度でしょう。19C末から20C前半の帝国主義世界,なかんずく東アジアは詐術と武力と強制の修羅です。琉球処分に関する浅い論述は,その修羅を現代の和やかな価値観で測ろうとしてるものと見えます。

 琉球処分研究は,沖縄復帰(=施政権返還)の前後,量産された歴史を持つ。その大きな部分を担ったのは,沖縄出身で戦後世代の研究者たちであった(70)。その世代の琉球処分研究は,必ず引用される。(略)しかし,それをなしえた姿勢・日本の地方編成の在り方の[ママ]対する視角が,同時代に沖縄復帰(=施政権返還)運動を経験することで,逆に柔軟性を欠いてしまった部分もありはしないだろうか。
 前述した「琉球処分」という呪縛からの解放とともに,その枠組みからの脱却が必要であろう。〔後掲川畑〕

※原注(70)琉球処分研究に限れば,田港朝昭・金城正篤・比屋根照夫・我部政男・仲地哲夫・西里喜行 ほかの各氏。(高良倉吉「研究展望 琉球史研究の状況」『日本史研究』第325号,1989年 p84)

内地置県のバリエーションで演習された琉球処分手法

治維新の核心とも言える置県までのフローは,内地では概ね次の四段階を踏むデッサンだったと考えられます。

①【版籍奉還】江戸期の諸侯が天皇に領地を還す。
②【華族叙任】奉還を讃えて諸侯は華族に叙される。
③【存・廃城】城は徴兵軍が有し利用を委ねられる。
④【廃藩置県】県知藩事たる旧藩主に領地経営権が戻る。

 このうち,まず④が初手だけに終わり,フリーな官選に切り替わります。①奉還の見返りは②叙任のみになる。③城を奪われている旧諸侯は,栄誉に満足するか半端な反乱を起こす程しか選択肢を与えられない。

魚売り(撮影者・撮影地域:未詳 明治初期)〔後掲長崎大学図書館〕
 ただ,三百諸侯のうちには既に①版籍奉還段階で逸脱する者もありました。

 阿波徳島藩ほか一四の未提出藩(19)には,改めて版籍奉還が命令された(20)。未提出藩それぞれに事情は異なるであろうが,例えば川越藩は,府藩県三治の藩県併立論に立っていたといわれている(21)。宇都宮藩主戸田忠友は四月三日付弁官に宛て,
(前略)今般版籍奉還之儀各藩追々及建白候趣伝承仕候,元来爵録取与之大権ハ 朝廷之被為執候処也,尺地一民モ人臣ノ敢テ不可私有儀天下之公道ト奉存候,依之微臣唯百事奉仰 天裁候ニ付今更ニ奉還之儀不奉願候(後略)
と言い,その添書が示す戸田(=宇都宮藩)の不奉還の論理は,時勢が変わったからといって,改めて版籍返上を申し上げることはなく,返上しなかったのは決して怠慢に及んだわけではない,ということである。これは王土王臣論を自明のこととしているとの背景があった。つまり王土王臣論的不奉還を唱えていた(22)。琉球との最大の差異は,天皇の王土王臣論を自明とするか否かである。政府は,王土王臣論の通用しない琉球を編入するにあたり,王土王臣論を押しつけるか,もしくは王土王臣論抜きの新たな論理の構築を迫られたが,論理構築の代わりに,近い過去,すなわち島津氏を通じて幕藩体制下に編成されていたという歴史を根拠として,編入の既成事実化を進めていくことになる。そして,すべての藩が自主的に版籍を返納しなかったことは,返納命令を出し得るという経験を政府に与えたことで,琉球処分方針作成にあたって大きな材料ともなった。琉球が版籍奉還・廃藩置県を拒否するのであれば,その対処法に,経験を生かせることを学習したのである。〔後掲川畑〕

※原注(19)未提出藩リスト(引用者において略)
(20)「今般版籍奉還之儀列藩及建言候ニ付深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採政令帰一之 思食ヲ以テ言上之通被 聞食候仍於其藩モ封土版籍返上被 仰付候事」(「太政官日誌」第67号)
(21)『新編埼玉県史 通史編五 近代一』(埼玉県,1988年3月)p65
(22)栃木県史編さん委員会編『栃木県史 史料編 近現代一』(栃木県,1976年3月)p53-54 原文は引用者において略

 三百の藩での置県までのバリエーションは,初期の県の乱立・統合過程を見ても目まぐるしかった。この「版籍奉還命令」手法も含めた多様さが,琉球処分時の貴重な先例として明治中央政府の役人に与えられていたのです。
 多様さだけではない。②華族制度は本質的に独立していた諸藩を,天皇の臣として一元化する装置としても機能しました。

旧来の公卿・諸侯を一体化して,新たに華族を創出すれば,その新設の華族には琉球王という『異物』も吸収することが可能になる。華族創設の際に,琉球王の存在は意識されてはいなかったにせよ,結果としては,琉球王を処遇するに適当な吸収媒体ができたことになる。版籍奉還が実施されたからこそ,華族が誕生したとも言える。
 版籍奉還は,不奉還藩へ返納命令を出し得ること,そして華族という琉球王を吸収する媒体を創出した意味で,琉球処分にも多大な影響を与えたと言える。〔後掲川畑〕

内地・廃藩置県フローをそのまま琉球に適用

球処分は,伊藤博文とか井上馨とか一個人の「陰謀」で行われてはいません。それどころか,終始それを牽引した組織すらありません。
「西郷に騙された」「長州の陰謀だ」と騒いだ島津久光が廃藩置県までの流れと,基本的には対応しているからです。

靴の修理屋(撮影者:THE FAR EAST 撮影地未詳,明治初期)〔後掲長崎大学図書館〕

①【版籍奉還】藩王「昇格」した19代・尚泰

球王」は,江戸期,日本内地の誰かから貼られたラベルではありません。清に王位を冊封されていたのです。
 だから第二尚氏19代・尚泰は,日本内地から王位を受けた最初で最後の琉球王です。
 藩王への任命の模様はこんな具合だったことが,明治天皇紀に記録されています。──1972(明治5)年に「維新慶賀使」として尚健(伊江朝直※)が東京入り。これは,江戸期に計18回行われたいわゆる江戸上り※※を考えれば,特段異例な行動でもありませんし,それを尚健が務めるのもごく自然です。

※尚健(伊江朝直):1818(嘉慶23)年生-1896(明治29)年没。伊江御殿十一世,17代尚灝王の四男,19代尚泰王の叔父。1854年の徳川家定将軍継承,1860年の同家茂継承の二度,慶賀正使に選出(いずれも中止・延期)。1872(明治)年の江戸入り直前(6月)に仮の摂政,帰国途上で正式に摂政与那城王子の後任。帰国後は親清派の亀川親方等から廃藩置県の責を追求され,1876年に病を理由に摂政辞任。〔wiki/伊江朝直〕
※※江戸上り:琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と,幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使の総称。1872年の直前(18回目)は1850(道光30・嘉永3)年で,19代尚泰(1848(道光28)年に4歳(数え6年歳)で即位後3年目)から12代徳川家慶への謝恩使で,この際の正使も王族の玉川王子朝達(尚慎)。〔wiki/江戸上り〕
維新慶賀の際に鹿児島県で撮影された写真。前列中央が伊江朝直。〔wiki/伊江朝直〕

七二年九月一四日、上京した維新慶賀使は、
朕上天ノ景命ニ膺リ萬世一系ノ帝祚ヲ紹キ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス今琉球近ク南服ニ在リ気類相同ク言文殊ナル無ク世々薩摩ノ附庸タリ而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス宜ク顕爵ヲ予フヘシ陞シテ琉球藩王卜為シ叙シテ華族ニ列ス咨爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ衆庶ノ上二立チ切ニ朕力意ヲ体シテ永ク皇室ニ輔タレ欽ヨ哉(47)
との詔書を受けた。(続)〔後掲川畑〕※下線は引用者

※原注(47)『明治天皇紀第二』、七五六頁

「附庸」は付属する,つき従うの意味で〔精選版 日本国語大辞典 「付庸・附庸」←コトバンク/附庸〕,「附庸国」は従属国〔精選版 日本国語大辞典 「付庸国」(原典:袖珍新聞語辞典(1919))←コトバンク/付庸国〕
「陞シテ」(しょうして)は地位が上がる,地位を上げることで,「陞叙」「陞進」と用います〔デジタル大辞泉 「陞」←コトバンク/陞〕※「昇」と通用し訓読みは「陞る」(のぼる)。
 つまり,君たち琉球は薩摩の従属国なのによくやってる(「能ク勤誠」)よね,だから昇進して朕の意を受け皇室を支えて(「朕力意ヲ体シテ永ク皇室ニ輔タレ」)くれ給え,と言ってる訳です。──「附庸」の立場からの昇進を語りつつ,それを脱却させるとは言わないところが巧み,というか外交的には小気味よいダーティさです。でも,薩摩支配に263年苦しんできた琉球王の立場からは,少なくとも魅力的な言葉に聞こえたでしょう。

(続)この拝謁の実態は、明治国家の琉球に対する冊封儀礼にほかならなかったが、まずこの拝謁の中心的役割を果たした外務省の琉球方策について検討する必要がある。
「陞シ」た結果が藩王であるから、琉球王より琉球藩王の方が上位に置かれていることに注目したい 。李氏朝鮮王朝が、清朝皇帝から藩王に封ぜられ、冊封体制下に置かれた(48)のとは、決定的に異なっており、政府は冊封ー朝貢体制下における王より、日本国家が管理する藩主を重視しているのである。〔後掲川畑〕

※原注(48)青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、二〇〇六年三月)、103頁

 川畑さん言うように,日本側(この時点では外務省)は「冊封ー朝貢体制下における王より,日本国家が管理する藩主を重視し」たというのが本質です。薩摩島津の廃藩置県時には薩摩・鹿児島藩による琉球管轄は変更がなく〔後掲川畑8枚目・p153〕,旧宗主国・薩摩がメジャーな明治新政府内での裏の調整は厳しいものがあったでしょうけど……明治政府は日本史上初めて,琉球を直接の支配下に置いた。手持ちの飴を出し尽くしてでも,それを優先させたのです。
 もう一点重要なのは,この藩王「昇格」に際し琉球側から「領収書」を徴している点です。この意義については後述しますけど──藩王になることを受容する書面を,慶賀使は提出しています。

正使伊江王子尚健ほかは、(1972(明治5)年9月14日の勅語:藩王叙任を受け:引用者追記)すぐさま「(前略)聖恩寡君ヲ封シテ藩王トナシ且華族二班セシム(後略)
」(54)との御請申上(「藩王御請」)を行った。〔後掲川畑〕

※原注(54)『琉球処分』、一九頁
(5)明治文化資料叢書刊行会編『明治文化資料叢書 第四巻外交篇』(風間書房、1962年7月) 以下『琉球処分』
刺青姿の男性(10)(撮影者:R. シュティルフリート 撮影地未詳,1875年頃)〔後掲長崎大学図書館〕
叙任と御請≒ヤマト天皇-琉球藩王の契約

れが俄に信じられませんでした。琉球藩王就任をその勅語の直後に「確かに受領した」と書面を出すのは,通常「嬉しい」という感情表現です。もちろん事前にネゴがあったから書面を準備してたわけですけど,そうなるとなおさら──琉球尚王朝は国家組織として,日帝配下に入るのを喜んだ,ということになります。
 それでネットを探すと……「国立公文書館デジタル……」(URL:https://onl.la/R36JTYf (短縮))という断片のようなファイルが見つかりました。
 上記の書面のやり取りは,どうやら確かです。

明治5年9月14日勅語〔前記史料p4〕

 上が勅語。下が問題の,琉球藩王の受領書面です。
 前掲引用「藩王トナシ且華族二班セシム」に続き,「聖恩重涯恐感丿至ニ勝ヘス……詔命ノ辱ヲ拝ス」という文字が読めます。「ありがとう」という謝意は含意しませんけど,「恐縮し有難くお受けする」と言った文意です。
明治5年9月14日正使尚健〔前記史料p5〕

 無理に解せば,尚健又はその意を受けた作文者にも,謝意や満足を示すのではなく,つまり我の判断を挟まずに恐懼して受領した,というだけの文面にしておいた方が安全だ,という考えがあった可能性はあります。ただ,琉球「藩王」側が受領した,受け入れたという事実は否定し難い。

分明ニ両属ト看做スヘシ

球処分のうち藩王叙任ステージでの方法については,大蔵省-外務省-内務省の間で異論があり,事前に相当議論がなされています〔後掲川畑〕。特に左院(当時の立法院≒後の元老院)の方針は,日清両属を容認する次のような発想まで記されます。

琉球ヲ封シテ王国ト為ストモ候国トナストモ我為ント欲スル所ノ儀ナレハ藩号ヲ除キ琉球王ト宣下アリテモ我帝国ノ所属タルニ妨ケナシ〔明治文化資料叢書刊行会編『明治文化資料叢書 第四巻外交編』(風間書房,1962年7月)(以下,川畑例により「琉球処分」と略)p9←後掲川畑 注39〕

 両属問題についてすら,こんな記述があるのです。

我ヨリ琉球王ニ封シタリトモ更ニ清国ヨリモ王号ノ封冊ヲ受クルヲ許シ分明ニ両属ト看做スヘシ〔琉球処分第八章←後掲川畑〕

 ただし,川畑さんの見立てによると,この書面はやはり日本主導型志向なのだという。

 左院の琉球処分論は,政府部内の欧米の脅威を意識した琉球処分論とは,対照的な欧米観をとっていたとの見方(40)があり,また左院答議はどこまでも両属を固執しているにすぎないとの指摘もある(41)。しかしその両属とは,あくまで左院が理解する両属であって,琉球及び清国が共通して理解しているものとは隔たりがある。(略)明治維新以降,琉球を日本国家へ統合していく過程において,琉球の日清両属という伝統的関係を再編することは必然とされていく中で,左院答議は両属関係を,日本主導型に置き換えることを模索していたのである。〔後掲川畑〕

※原注(40)小熊英二「日本人の境界」新曜社,1998 p22
(41)中島昭三「沖縄政治史研究(一)」『國學院法学』第九巻第四号,1972 p114

 本稿では,①藩王叙任段階でそこまで,つまり清と日本とどちらが「より主人か?」を決着したいとまで明治政府は考えてなかったし,それは最後までそうだった,と捉えるべきと考えます。日本軍の体が整った日清戦争の1894(明治27)年段階と国内維持がやっとの維新直後は,地政学的状況が全く異なります。琉球経営の組織横断的かつ長期のヴィジョンなど,新政府には持つ余裕がない。琉球藩王を日本国天皇の下に置き,維新後五年にして初めて版図拡張に成功した成果だけで当面満足だったのではないでしょうか?

大村純熙と家族(撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 1872年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

②【華族叙任】尚泰の一等官取扱

872(明治5)年段階で尚康が勝ち取った琉球藩王の叙階は,特に沖縄民族主義的な言説は「華族」としか記さないけれど──異様な高位です。
 太政大臣と同等なのです。

拝謁が終わった(1872年:引用者追記)九月二九日付で、藩王は一等官(64) 取扱を仰せつけられている。同時期の状況をみれば、ー等官は、正院における太政大臣・左大臣・右大臣・参議・左院議長・諸省長官、神宮における祭主、開拓使長官および各省の卿のみであり、府県の長としては、府知事が三等官・県令が四等官であることを比すれば、尚泰の一等官は開拓使長官と並ぷ等級である。尚泰の一等官待遇は、「等級定めず候てハ不都合二候故王爵の廉を以て」与えられ(65) たものであったとしても、かなりの優遇なのである。そして「爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ」とは、初めて琉球人が皇室の藩屏となった(させられた)ことを宣言するものであった。(続)〔後掲川畑〕

※原注(64)「官製表」1973年8月28日
(65)原口邦紘「外務省六等出仕伊地知貞馨と琉球藩(上)」(「西南地域史研究会編『西南地域史研究』第七輯、文献出版、一九九二年―二月)、496頁

 官制の朝三暮四の時代で,何等官が何なのかも入り乱れてるけれど,1872(明治5)年の官制は,1871(明治4)年に制定された太政官制・官位相当制時代の5等制だと思われます。その前の時代の制度である職員令・官位相当制(1869(明治2)年制定)下で府・大藩の知事は従三位,中藩の知事は正四位。1871年制下で従三位は左院の一等議員,正四位は左院の二等議員とされています〔後掲owlapps〕。そう考えると,琉球藩王が一等官だったのは,川畑さんの書くほど高位ではなくとも,低くとも大藩諸侯相当だったとは言えます。──薩摩は大藩諸侯相当でしょう。
 さて,前掲の尚健による御請の意味ですけど,要するに日帝天皇による詔書に加え琉球全権による受理があったことで,日帝と琉球の相互了解,つまり契約状態が成ったということです。従来,琉球王は日本麾下にいなかったのだから,日帝に人事権はありません。相互の了解があって史上初めて,主従関係が成立したのです。

(続) 詔書の示すことは、あくまで日本政府による一方的な通知であったが、維新慶賀使がそれを収受したことにより、詔書を琉球で一方的に拒否できないものとなった。つまり、藩王御請があったからこそ、詔書が示す内容が琉球に対し効力を持った、ということである。片方による一方的な宣言だけではなく、受容側が「御請」という儀式をとることにより、初めて関係が成り立ったのである。〔後掲川畑〕

 流石に明・清との長い外交戦の経験を有す琉球の正使・尚健側は,明治政府の甘言を鵜呑みにしたわけではないらしい。次のような外務大丞文書が存在するということは,「琉球藩王と琉球藩をまさか短期で解体する気ではないですよね?」という疑念を呈していたからでしょう。

(1873年:引用者追記)九月には伊地知・外務大丞花房義質より伊江王子に宛て,朝廷への反抗あるいは被治民への残虐行為のない限り廃藩処分はないこと,またすでに締結した外交条約・外交案件は外務省の指示に従うよう書面が提出され,十月には再度「国躰政躰永久不相替」についての確認がなされている(60)。〔後掲川畑〕

原注(60)「那覇市史資料篇第二巻中の四」那覇市役所,1971 p126
「国躰政躰永久不相替」,つまり永久の国体護持の約束をとりつけた,というのは,まるで70年後のポツダム宣言受諾時の日本のような約定です。

食事風景(7)(撮影者:内田九一か 撮影地未詳,1870年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

台湾出兵:琉球海域の緊迫化

 1871(明治4)年に宮古島島民54人が台湾漂着後にパイワン族に殺害される事件が発生していました※。琉球藩設置同年の1873(明治6)年3月8日に備中柏島村(当時・小田県浅江郡柏島村。現・倉敷市玉島地域)船が台湾漂着,乗組員4名が略奪される。翌1874(明治7)年5月,熊本鎮台兵三千が台湾へ出兵,同地を制圧※※(台湾出兵)。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「台湾出兵」毛利敏彦←コトバンク/台湾出兵〕

※コトバンク原典:戴天昭著「台湾国際政治史研究」法政大学出版局,1971
※明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが,清国政府は管轄外(「毛外之地」)として拒否〔後掲note-mori〕。船は,宮古島から首里へ年貢輸送した帰路の琉球御用船(66名乗組)。那覇港出航後,1871(明治4)年11月1日に嵐のため漂流し,6日に八瑶湾(台湾南部・恒春半島東海岸)に漂着。乗組員は上陸後,先住民・パイワン族に救助を求め,食事を与えられたけれど「不穏な雰囲気」から広東商人の家に逃げ込んだところ,追尾のパイワン族に54人が殺害,12人生還。3年後の柏島漁民は身ぐるみ剥がれて生還しており〔後掲日米交流〕,恒春半島という土地柄からも財産目的の強奪と推定されます。
※※直前に駐日イギリス公使とアメリカ公使が出兵に反対したけれど,台湾蕃地事務都督に任命されていた陸軍中将・西郷従道が出兵を強行した,と言われる。〔前掲日本大百科全書〕

10月31日「日清両国互換条款」が調印され、清国が日本の出兵を認め遭難民に見舞金(撫恤(ぶじゅつ)金)を支払うことを条件に日本は撤兵に同意することになって事件は落着した。かつ清国が日本軍の行動を承認したので八重山島民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に確認された形となった。〔前掲日本大百科全書〕

 この国際紛争は明治日本が初めて経験したもので,軍編成・輸送船確保・軍運用・対外交渉とも不慣れさが目立ったけれど,とにかく短期で決着します。

※軍編成:旧薩摩藩士三百名が参加(征韓論の延長線上と推測)〔後掲世界史の窓〕
 輸送船確保:輸送力は政府購入・三菱受託運用の外国製船10隻を使用〔後掲三菱グループ〕
軍運用:戦死者はパラワン族30名に対し日本軍6〜12名と,戦闘の実態は希薄ながら,マラリアによる病死561名,罹患延べ数16,409名(全軍属平均2.7回/人)と医務部門の欠陥が際立った。〔wiki/台湾出兵〕※原典:毛利俊彦「台湾出兵」日本大百科全書

 西郷の独断出兵が言われるほどなので,対外調整はまるで行われていません。全権弁理大臣として北京入りした大久保利通は,ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問※に交渉し日清両国互換条款の締結に至っています。清が撫恤金(見舞金)10万両と台湾諸設備費40万両を支出することに落ち着いたわけですけど,外交としては明らかによちよち歩きです。

※wiki/台湾出兵。原典:遠山茂樹「征台の役」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第6巻 す-ち』河出書房新社、1979年 p.113

(上)水門の戦を描いた錦絵(日日新聞)。国内的には壮挙として報じられた気分がよく現れています。 (下)出兵時の西郷従道(画面中央,椅子に着席)とその幕僚および現地住民(1874 Japanese photograph, Yasukuni Shrine, 2)〔wiki/台湾出兵〕

 日清両国互換条款の原文(読み下し記号付)が次のものです。

「我が藩属たる琉球人民」から「日本國属民等」へ

日清両国間互換条款(1874年10月31日)〔後掲外務省〕

 事件の共通認識記述として「茲以臺灣生蕃曾将日本國属民等妄為加害」という表現があります。
 琉球人(宮古人)54人が殺されて3年待ったけれど,備前人4人の略奪後14か月で行われた「鬼退治」的初外征は,瓢箪から駒が出たようなこの一文により琉球帰属問題の帰趨を決定的にします。──中国側の意図が入った文面ではなく,おそらく李鴻章の「誤記」でしょう。もしかすると,この時点まで清側には琉球の帰属を日本と争う気分はなかったのかもしれません。その傍証として,この条款に「琉球」の語は全く語られていません。
 清のみならず欧米の第三国の前で,琉球(宮古)人が「日本國属民等」とする前提で議論が進んで書面化された。これは国内的に時を弄している間に,国際的に一気に琉球の日本帰属が結論づけられてしまったことを意味します。
 日清折衝に先立って日本が琉球=日本帰属を結論づけしきっていなかったことは,次の書面で明確にされています。──琉球人・柏島漁民遭難への報復問題(「台湾蛮地処分取調」)の処理担当は参議・大久保利通と大隈重信でした。その処理方針として1874(明治7)2月6日の朝議に提出,可決されたのが次の 「台湾蛮地処分要略」です。

   第一条
台湾土蕃の部落は清国政府政権及ばざるの地にして、その證(あかし)は従来清国刊行の書籍にも著しく、殊に昨年、前参議副島種臣使清の節彼の朝官吏の答えにも判然たれば、無主の地と見做すべきの道理備われリ。就いては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理も茲(ここ)に大基を得べし。然りして処分に至りては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、其の件に付き清国より一二の議論生じ来るを容とすべし。〔後掲日米交流〕

「我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務」という文面は,琉球は(内地ではなく)藩属=衛星国に過ぎないけれど,そうは言ってもその人民が殺害までされてしまったなら,宗主国としては報復しないと外交的に宜しくない,といった語感で読めます。
 つまり,台湾出兵に先立って日帝,なかんずく大久保及び大隈に琉球併合の予定企図はなかった。なかったのに国際政治の気紛れな賽の目が「琉球併合」に出てしまったのです。

④【廃藩置県】琉球藩王行政機構の無血継承

王権の官吏・喜舎場朝賢の記した一次史料「琉球見聞録」には,けれども不思議な記述があります。「清国交通の障碍を生ずる恐れある」ことを理由として,琉球の管轄を外務省から内務省に移すよう要請したと言うのです。

(略)初め琉球事務は外務省の管理する所と為るも外務省は清国及び西洋各国交際事務を取扱ふ所なれば琉球日本の隷属たると各国に敗露し清国交通の障碍を生ずる恐れあるを以て琉人自ら命を朝廷に請て外務省の管理を辞し内務省に改属するなり(略)〔喜舎場朝賢「琉球見聞録」ぺりかん社,1977年 p12←後掲川畑 注67〕

 前掲のように政府組織を横断する長期ヴィジョンが無く,置県に対する省庁固有の原理で明治政府が動いていたなら,外交の最適解を優先する外務省から内政のそれを重視する内務省への所管庁変更は,琉球の廃藩置県への流れを決定づけたように思えます。そんな要請を,なぜ琉球王府は行ってしまったのか?
 慣行の異なる清に向けて,監督省庁の名前が致命傷とは思えないし,内政を担当する内務省管下の方がより属国の疑念は深まったはずです。想像するに,王府内での政治でしょう。先述のとおり尚健の東京での対処は帰国後に攻撃対象になっているし,その後の藩王の対清貿易停止を強制する外務省への反発,もしかすると経験の長い琉球外交筋からの新帝国外務省への侮蔑もあったかもしれません。とにかく,琉球藩王は望んで内務省管轄に移管されます。
 西南の役(1877(明治10)年)で内地士族の鎮撫を終えた時期になって,つまり日本軍の動員に十分な余力が生じてから,内務省は琉球藩の廃藩置県(狭義の琉球処分)を施行します。
 この措置は行政文書としては複数の根拠を持ち,次の諸通達類から成ります。

琉球藩処分に係る達群〔後掲後田多〕※ピンク枠は引用者追記

 うち以下の五号太政大臣達が,措置の全体像と処分官松田※の権限を最も文字化してます。

※松田道之:1839(天保10生-1882(明治15)年没。鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子。1869(明治2)年から京都府・大津県・滋賀県令を歴任。当時の地方制度のエキスパートとして,内務大書記官時代に三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)を起草〔wiki/地方三新法〕。1875(明治8)年(年)に内務大丞,処分までに琉球に三度訪問。琉球処分後3年目に死去したのは,交通事情の悪い当時※※にこの三往復を行っての激務が原因とも言われる〔wiki/松田道之〕。「激務」には交通の負担に加えインテリジェンスの分析があったと想像します。
※※琉球処分(1879年)の6年後の1885(明治18)年に開設された大阪~沖縄航路(大阪商船が事実上独占)を開設。この航路の1936(昭和11)年頃の最短ルートでは,大阪発の4日目に沖縄着。明治初年には東京から一週間近くを要したと思われる。〔まっぷるトラベルガイド/沖縄航路〕
松田道之〔wiki/同〕原典:Peter Panzer und Sven Saaler: Japanische Impressioneneines kaiserlichen Gesandten. Karl von Eisendecher im japan der Meiji-Zeit. München 2007.

 今般琉球藩ニ出張被仰付候ニ付テハ左ノ旨趣ニ依テ処分可致此旨相達候事
     明治十二年三月十一日太政大臣三條実美
① 藩王及上王子等ニ別紙勅諭書ヲ示シ達書ヲ渡スヘキ事
② 旧藩王ハ速ニ居城ヲ退去セシメ東京ニ出発スル迄ハ其別第等便宜ノ場所ニ仮住セシムヘキ事
   但シ居城ハ追而正式ニ依テ陸軍ニ請渡シヲナス迄ハ仮リニ営所長ニ請取ラシムヘシ 
③ 旧藩王ヨリ県令ニ対シ土地人民及ヒ官簿其他諸般引渡ノ手続ヲ為サシムヘキ事
④ 旧藩王ニ命シ土地家屋倉庫金穀船舶其他諸物件ノ官ニ属スヘキモノト旧藩王ノ私有ニ属スヘキモノトヲ引分ケ具申セシメテ之ヲ監督シ且租税土木秩禄其他諸般ノ前途処分ヲ要スルヘキ事項ヲモ取調へ県令卜協議ノ上内務卿ニ具状スヘキ事
   但内務卿ノ指令ヲ待タス県令へ請取ラシメテ差支へナキモノハ其手続ヲナサシムヘキ事
⑤ 旧藩ノ苛政ハ詳細取調へ内務卿へ具状スヘシ然レトモ即時改正スレハ人心ノ帰向ヲ得テ随テ処分上ノ便宜トナリ而シテ其事タル前途ノ処分ニ差響カサルモノハ県令卜協議ノ上速ニ施行シ追而内務卿ニ報告スヘキ事
⑥ 処分上ニ就テハ旧藩王ニ対シ指揮スルヲ得ヘキ事
⑦ 県治上ニ就テハ県令ノ事務ニ参スヘク若シ県治ノ処分上ニ関係スル事項ハ県令ニ対シ指揮スルヲ得ルヘキ事
⑧ 旧藩王又ハ旧藩吏等ニ於テ今般ノ処分ヲ拒ミ居城ヲ退去セス土地人民官簿其他諸般ノ引渡ヲ為ササルニ於テハ本人ハ警察部ニ付シ拘引スルモ苦シカラス若シ反状ヲ顕ハシ兇暴ノ所為ニ及フトキハ営所ニ謀り兵カヲ以テ処分スヘキ事
⑨ 士人狼狽騒擾スルトキハ懇篤説諭其他適宜ノ方法ヲ以テ勉メテ鎮撫ヲ謀ルベシ若シ反状ヲ顕ハシ兇暴ノ所為ニ及フトキハ警察部ニ付シテ之ヲ捕縛スルトモ又ハ営所ニ謀り兵カヲ用ユルトモ其場合ニ依り相当ノ処分ヲ為スヘキ事
⑩ 旧藩王及上王子等東京居住ノ事ニ付歎願固辞スル等ノ事アルトモ決シテ許容ス可ラス若シ詐偽ヲ以テ規避セントスル等ノ所為アリテ不得止時ハ拘引シテ東京ニ送ルベシ然レトモ病気等ノ事故ニテ事実出発ナシカタキヲ視認ムルトキハー応政府ニ具状シ指令ヲ受クヘキ事
⑪ 入琉ノ時ニ際シ藩王ヨリ遵奉書ヲ呈スルトモ決シテ受納ス可カス命令ノ通行フヘキ事
⑫ 此命令ノ外臨機処分ヲ要セサルヲ得サル事アレハ場合ニ応シ相当ノ処分ヲナスヘキ事
⑬ 以上件々ノ事務ヲ畢レハ余ハ県令ノ本務ニ譲リ速ニ帰郷復命スヘキ事
〔後掲後田多〕

 ①は達の施行,②は琉球王の東京護送とこれを軟禁化に置くことですから,琉球からの王の切除が処分の最大ミッションです。──現代のスパイ工作でもよく見る手法です。
 琉球王側の抵抗又は牛歩戦術──不退去・嘆願・詐偽・遵奉書呈示等も⑧⑩⑪で想定し,一切交渉せず拘束しての連行まで可としてます。さらに⑫の「臨機処分」「相当ノ処分」とは,おそらく別途密命を帯びた軍事的な誘拐ということでしょう。そうすると,⑨「士人狼狽騒擾」の末の「兇暴ノ所為」とは琉球国挙げての反乱を想定してます。この場合の「兵力ヲ用」いる以上の「相当ノ処分」は反乱者の殺害までは指していると考えて無理はないでしょうけど──
 この際の同行兵力は2個中隊400人程度,仮に警官を加えても600人足らず(後述一覧表参照)です。一王国の反乱鎮圧に通常足る兵力ではない。──③〜⑦にある初代県令・木梨精一郎は1876(明治9)年内務少丞,松田より上位ながら同年9月に山城屋事件※に連座し閉門。琉球処分後は1880(明治13)年陸軍で後備役となり,1881(明治14)年に兼新潟県大書記官と降格してます。その後は長野県令・県知事,元老院議官,貴族院議員(1890(明治23)年)を歴任〔wiki/同人名〕。おそらく人事上は琉球処分の首切り要員です。
 松田に⑬「以上件々ノ事務ヲ畢」った後は「県令ノ本務ニ譲リ速ニ帰郷復命」せよとの指示からも,東京は現実に推移したような無風の琉球処分を確実視していなかったと考えていい。逆に言えば,二の手としての軍事侵攻までは想定していたはずです。
 ③④は徴税権を含む財産の移管についてです。これも現金な指示ですけど……これに続く⑤「旧藩ノ苛政」の詳細取調べはさらにエグい。この件の優先順位がこれほど高いのは,琉球処分の正当性を事後的に補強するためでしょう。

琉球藩廃藩の理由書面

は,上記①で琉球藩王に手交された太政大臣達(通達),つまり琉球処分の理由書面はどのようなものだったでしょう?

琉球藩王尚泰
 去ル明治八年五月廿九日并ニ同九年五月十七日ヲ以テ御達ノ係件有之処使命ヲ不恭実ニ難差置次第ニ立至リ依テ廃藩置県被仰出候係此旨相達候事
   明治十二年三月十一日太政大臣三係実美
〔後掲後田多〕

「明治八年五月廿九日并ニ同九年五月十七日ヲ以テ御達ノ係件」(→後掲原文)について「使命ヲ不恭実」,つまり二つのミッションに従わなかったことが明示された国権剥奪の理由です。──下記後田多に従って言い換えると外交権と裁判権の非行使です。

「廃藩置県(琉球藩処分)」の理由として「明治八年五月二十九日御達(以下「琉清関係断絶命令」とする)」と「同九年五月十七日御達(以下「裁判権接収命令」とする)」の命令に従わなかったことを挙げる。これが明治政府による琉球の「廃藩置県(琉球藩処分)」、つまり琉球の国権接収の直接的な理由である。明治政府は琉球藩王や琉球藩と上下関係にあることを前提にして、過去に出した命令に対する違反を「琉球藩処分」という新たな命令・強制の名目とした。
 従来の研究は、「琉球藩処分」理由を示した第8号(引用者注:前掲明12.3.11太政大臣発)の重要性に着目していない。(略)しかし、この第8号が琉球の国権接収の理由・名目であり、第8号の存在で「琉球藩処分」と日本の「廃藩置県」が本質的に異なっていることが確認できる。(続)〔後掲後田多〕

 この後田多指摘には疑問が残ります。命に従わないから行政機構を鎮圧する,というのは横暴ではあれ,内地の廃藩置県と「本質的に異なっている」でしょうか?他の内地藩主の行政機構も,武力鎮圧はされなかったにせよ,解体させられているのです。

琉球藩王昇格のもう一つの真意

(続)第8号は、琉球側が「外交権(清国との関係)」と「裁判・警察権」を接収する命令に逆らい、行使したことの問題を追求しているのである。日本で「外交権」や「裁判・警察権」の行使が「廃藩置県」の理由となった地域はない。外交権と警察・裁判権は、長い間王権を維持してきた琉球にとっても国権の根幹であり、本来なら他国は介入できない。外交権はまさに琉球の王権の正当性を担保する一つでもあった。明治政府は第8号の「琉球藩処分」の名目を示すなかで、結果的に琉球国が東アジアの国際秩序のなかで主体の一つであったことを認めてしまったことになる。そして、それは琉球が国家として存在してきたことが、「琉球藩処分」の理由とされたことを意味する。〔後掲後田多〕

 ここでの後田多の指摘は,あまり論じられてないようなので付記します。
 琉球処分の外交問題としての難しさは,薩摩時代にしつらえられた琉球の日清両属性でした。両属状態をそのままに行う処分は清の了解を要した,という点はよく指摘されます。けれど,日本側が琉球が外交主体である(「東アジアの国際秩序のなかで主体の一つであった」)ことを一度認める段階を踏む必要があった,という琉球藩設置の意義については割と見逃されてます。──沖縄視点の日帝の非道を強調する記述からは,一見,琉球王国の主権尊重のように見えるそんな行為は除外されがちなのでしょう。
 ただ本稿で指摘したいのはそういう日帝の「温かさ」ではない。この外交主体認定は,むしろ冷徹です。
 江戸期の琉球外交の二重性とは,国内的には薩摩の管理下に置かれつつ,対外的(対中国的)には朝貢主体,つまり自律的な外交主体であった,ということです。「日本型華夷秩序」の中に棲んだ幕府も島津も琉球王を,後者=外交主体と認めていなかった。

内部リンク→m19Cm第二十二波mm3奥武島観音(ニライF68)/F4)なぜ薩摩にバレないのか?(≒薩摩人はなぜ関与してないのか)

[見分の事例:1741年、中国人漂着民]見分そのものを目的とした簡素なもの …休太夫殿・甚蔵殿(検見の薩摩役人)から中国人を見分したいと言われたので、在番仮屋へ座を用意し戸口に簾などを掛け、琉球の装束で、与古田親雲上(鎖之側代理)と共に、御見分なさった。 〔渡辺美季「近世琉球における中国人漂着民の船隻・積荷の処置の実態─日本と中国の狭間で─」『アジア文化研究』別冊12号,2003年〕

 ところが,リアルな国際社会に対処する大目的を掲げた明治維新政府は,必然的に,列強の餌食となりつつあるとは言え隣接する大国と唯一外交関係を維持してきた琉球王国,という現実を認めざるを得ません。日本内地の国家としては初めて,①琉球を外交主体としてまず認める。同時に,あるいはその同義として,②琉球を薩摩の支配外に置き直す必要がありました。清との朝貢関係の解消を要求するためには,論理的に,その認知のステップが必須です。──これは簡単に思考実験できます。もし琉球を薩摩の属国の立場に置いたまま,それを法制化した状態で,琉球に「朝貢するな」と要求する。それは琉球という地方組織が清国と密貿易し,清は「琉球地方」を国と三百年間誤認していた,という日本国の見解を示すことになる。そんな独善的で曲解した論理は,国際社会のどの立場からも一笑されるでしょう。現代中国の香港のような一国二制度を構想することも不可能です。事は経済制度(共産主義vs資本主義)ではなく領土権の問題ですから,日中共管統治などという政治体制が,特に列強が喰らい合う19C末の状況下で成立する訳はない。
 明治日本は,琉球を自国に取り込むにせよ手放すにせよ,琉球を一度外交的に独立国として認める必要があったのです。

(上)琉球王国国旗。薩摩侵略後のものと推測 (中)廃藩置県直前 (下)実際に進貢船に掲げられた「国旗」〔後掲シーサーとキジムナーのblog〕

明治八年五月廿九日并ニ同九年五月十七日ヲ以テ御達ノ係件(原文)

藩前に琉球藩に日本政府が課し,かつ実施されなかった旨を不恭実とした二つのミッションは,次の文面です。

琉球藩
其藩ノ儀従来隔年朝貢卜唱へ清国へ使節ヲ派遣シ或ハ清帝即位ノ節慶賀使差遣シ候例規有之趣ニ候得共自今被差止候事
藩王代替ノ節従前清国ヨリ冊封受ケ来リ候趣ニ候得共〔後掲後田多〕

※原注9「内務大丞松田道之ヲ琉球藩二派遣ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03022995300、公文別録・琉球廃藩置県処分・明治八年・第一巻・明治八年(国立公文書館)。
 朝貢,慶賀使派遣,冊封の三つの禁止です。冊封に関しては,尚寧は既に清から封じられてますけど,「藩王代替ノ節」と言っているので「現冊封を返上せよ」とは言ってません。
 沖縄県設置後,上記三者抜きの対清貿易は「南清貿易」として実現しています。沖縄側の貿易主体は首里士族出資会社。
 仮に,明治初年にこの形へ移行していたと想像しましょう。先に引用したとおり,1873年に外務省は「国躰政躰永久不相替」の約定を交わしています。日帝は,琉球藩王を排撃する理由を持ち得たでしょうか?

内部リンク→m023m第二波mm能朴天/③ 19世紀末再興・南清貿易のブローカー丸一商店

琉球処分によって途絶された琉清貿易は、1899年頃に南清貿易(※日清戦争後、沖縄経済振興の梃子として推進された沖縄と中国南部の直接貿易)として再開され、丸一商店(※尚家の資金を投じて首里士族が経営した貿易会社)福州支店が置かれ[前掲中国琉球史跡←琉中関係研究会編『中国福建省における琉球関係史跡調査報告書』(同研究会、2009 琉球大学平成20年度特別教育研究経費《人の移動と21世紀のグローバル社会》調査報告書]

 もう一点の裁判権については,以下の通達です。

琉球藩
其藩治ノ内裁判ノ儀自今其地ニ在ル内務省出張所ニ被附右規則左ノ通被定候係此旨可相心得事
一 藩内人民相互ノ問二起ル刑事ハ藩庁之ヲ鞠訊シ内務省出張所ノ裁判ヲ求ムヘシ
一 藩内人民相互ノ間二起ル民事及上藩内人民卜他ノ府県人民(兵員卜普通人民トヲ論セス)トノ間二相関スル刑事民事ハ直チニ内務省出張所二訴ヘシムヘシ
  明治九年五月十七日〔後掲後田多〕

※原注30「内務省出張所へ裁判及警察事務ヲ附ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01000032500、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第百二十九巻・地方三十五・特別ノ地方琉球藩一(国立公文書館)。
 外交権の研究は盛んだけれど,こちらはなぜ「不恭実」だったのか全く分かりません。
 琉球処分の10年後,1891(明治22)年末に那覇地方裁判所が設置されています(那覇地方裁判所及那覇区裁判所設置法(明治24年法律第5号))〔wiki/那覇地方裁判所〕。これに対し内地の地裁は早いですけど,地域毎に時差があり,沖縄が特に冷遇された証拠は見つかりません。

東京:1871(明治4)年
※東京地方裁判所の紹介
URL:https://www.courts.go.jp/tokyo/about/syokai/index.html

大阪:1872(明治5)年
※弁護士山中理司のブログ/大阪地裁の沿革史(本庁)
URL:https://onl.la/B6QZ3Lf (短縮・PDF)
(府県裁判所としての設置)

名古屋:1882(明治15)年※名古屋高等裁判所の紹介
URL:https://www.courts.go.jp/nagoya-h/about/syokai/index.html
(名古屋控訴裁判所として。管轄区域は東海3県のみ)
琉球廃藩時の松田処分官同行隊の規模=400人

 松田さんが内地から同行した集団は,警官を含めても単純に言って三個中隊規模・六百人弱です。──比較対象が見つけにくいですけど……織田信長が斎藤道三と会見した聖徳寺へ同行した兵力は7〜8百と語られます。それに対し,2023年の広島サミット時の動員警官数は2万4千人でした。

所属など 詳 細 人数
行政官 処分官(松田道之) 1
 同上 属官 9
 同上 県御用掛兼勤予定内務官 32
警部・巡査 二等警視補の園田安賢以下 158
軍隊 陸軍(東京)益満邦介陸軍大尉ほか 3
 同上 熊本鎮台 413
616

※表③「琉球藩処分」での臨時派遣スタッフ〔後掲後田多〕ただし,計を加えるなど体裁を引用者が整えた。
原注出典 松田道之(内務大書記官)『琉球処分」3巻。『琉球処分』(上・中・下)の3巻は州立ハワイ大学同編纂委員会監修『琉球所属問題関係資料』(本邦書籍株式会社、1980年)の第6巻(上巻・中巻)と7巻(下巻)に復刻収録されている。
(警部・巡査数)32 前掲『琉球処分」下巻、155頁。158人だったと考えられる。
(熊本鎮台兵数)33 前掲『琉球処分」下巻、156-157頁。予算には、大尉1人、曹長1人、四等出仕1人の3人の東京からの旅費、熊本鎮台の大隊長以下413人分の鹿児島からの旅費が計上されている。(前掲『琉球処分』下巻、470-471頁)。

「規模の問題か?軍隊を送ったことが問題ではないか?」という反論はあり得るでしょうけど,内地で士族反乱が頻発し,かつ警察動員力が十分でないこの時代,一挙に独立戦争が発生するリスクを考えると,一定規模の動員は随行するのが当時の定例です。だから規模の問題だと思います。

琉装の5人の男性(所蔵:宮内省(現・宮内庁),吉川弘文館「明治の日本」)〔wiki/琉球民族〕

ある日出勤した役場は沖縄県だった

は,琉球藩廃藩-沖縄県設置の当時,行政の混乱があったかというと,その痕跡もあまり見当たりません。
「県令心得の木梨精一郎は3月29日、地方統治機構の吏員は、従前通りそのまま仕事をするように伝えた。」〔後掲後田多〕という。つまり役所の組織は暫時改編されたけれど,当座は旧態が維持され,命令系統が変わったから戸惑った,という具合だと想像されるのです。

第30号
首里泊久米那覇諸間切役人
今般琉球藩ヲ廃シ更ニ沖縄県ヲ被置候ニ付テハ則チ旧藩中申付有之処ノ官吏モー般廃止之儀ニ候処首里泊久米那覇其他諸間切之役人並ニ諸町村ノ役人ニ於テハ従前ノ通り相勤可申此旨相達候事
   明治十二年三月二十九日 沖縄県令心得
内務少書記官木梨精一郎〔後掲後田多〕

 上はその際に県令(心得)が発した通達です。「いつも通り勤務してください」と言っているだけです。
「松田は琉球の国権を接収し沖縄県を発足させたが、琉球側の抵抗が続いていたため、旧藩王の尚泰に次のような確認をしている。」〔後掲後田多〕と後田多さんは書いているけれど,その確認内容は次の書面です。

第37号
廃藩置県ノ御達有之ダル当日即チ去月二十七日以後ハ旧藩管民二対シ従前ノ事件ヲ整理スルノ外新令ヲ発シ新事ヲ行フ儀不相成筈ニ候條為心得此段申入置候也
   明治十二年四月九日
      於那覇
      処分官
内務大書記官松田道之
   旧琉球藩王尚泰殿
〔後掲後田多〕

 首里城退去後,尚泰一団はすぐ東京へ「連行」されたのではなく,中城御殿※に移ってしばらく住んだらしい。ここで従来通りに「新令ヲ発シ新事ヲ行フ儀」,つまり国政を指示しようとしたのを「不相成」,ダメですよと止められた,という意味です。抵抗というか,こんなにすんなり行くと廃藩の実感が湧かず,従来指示を仰いだ上司のところへ行ってしまうのも役人の常でしょう。

※中城御殿:現・県立首里高校に尚豊時代に建設。1870(明治3)年に龍譚北側に移築,尚泰が入居したのはこの場所の時代。首里城から北北西500m。
熊谷薫郎(松田随行者)への琉球藩出張の辞令書(内務省 1879年3月8日) 個人蔵〔前掲沖縄県公文書館〕

琉球処分の陰謀性の希薄さ

治政府の「琉球藩処分」の理由(第8号)は、琉球側が「琉清関係断絶命令」と「裁判権接収命令」という2つの命令に違反したということだった。この2つの命令の前提は、1872(明治5年)年の明治天皇による琉球国王への「擬似冊封」である。この「擬似冊封」が明治政府の「琉球藩処分」の理由への足がかりとなった。その点で、明治政府が「広義の琉球処分」の起点を「擬似冊封」の準備段階に設定したことは合理的である。そして、尚泰が日本の華族とされ金禄を受けたことは、琉球国王が日本の体制に位置づけられたことを意味する。それは琉球国併合の完成であった。そこで、金禄公債証書下賜が終点となる。
 明治政府は「琉球藩処分」を内政問題として進めたが、それ自体も併合の方法だった。琉球側からすれば、明治政府が琉球の中央政府を解体し、外交権や裁判権、その他の統治権を接収した「琉球藩処分」の実態は、根拠のない琉球の国権接収であり、その全体の過程は琉球国併合であった。〔後掲後田多〕

 以上の推移を一つ一つ見た時,「『広義の琉球処分』の起点を『擬似冊封』の準備段階に設定」し,その7年越しの陰謀を成就させた,と捉えうるでしょうか?

 明治政府の琉球国併合の理由(第8号)を遡れば、尚泰への琉球藩王冊封(擬似冊封、明治5年)にたどり着く。琉球国併合に対する国内的な「合法性」の創出は、琉球藩王冊封が画期となっていた。東アジアの伝統的な形式を利用した琉球藩王冊封は、琉球国併合の理由の遠因になっただけでなく、島津氏の武力侵略(1609年)に始まる琉球と日本の関係を組み替えて、新しい関係の「合法性」を国際的にも示すための仕掛けでもあった。〔後掲後田多〕

 琉球処分への注目とその研究は,戦後の米軍統治下での民族意識の高まりとともに高揚しています。逆に言えば,沖縄県設置当時には移行は──日帝側が想定し,入念に準備したのよりも──極めてスムーズで,旧外交エリートの久米三十六姓を中心とする中国系のグループ以外にさしたる動揺はなかった。さらに逆に言えば,脱清人らがあれだけ扇動して沖縄庶民に全く動揺の痕跡がないのは,沖縄人のマジョリティーが琉球処分を何物とも思わなかった証明にもなっていると考えます。
 要するに,明治維新政府は維新の目的に沿った地方政体の改編を行う中で,琉球についても旧王国という履歴からややバリエーションではあったけれど同じ原理で淡々と改編した。その淡白ぶりは,琉球-沖縄人にとっても同じ気分だった。──そういう単純なことなのだろうと解されるのです。
 そもそも陰謀と言うなら……版籍奉還から廃藩置県への維新政府の施策こそが旧藩主に対する皇室配下への強制編入の明らかな陰謀だったわけです。怒り狂った士族層が現実に内乱を起こしたほどの──この,どう考えても強引な手法を内地で採った理屈上,旧態から歩み寄らない琉球にこの手法を取らざるを得なかった,という点は理解してあげてもよいのではないでしょうか?

「琉球藩処分官一行」(1879年)【T00021952B】松田道之(前列中央)〔沖縄県公文書館/あの日の沖縄 前掲「沖縄県」の設置〕

日清外交のカードとしての琉球

だし,琉球「併合」はその後の日清関係上,つまり日清修好条規の改定の過程で度々論じられていきます。──台湾出兵時の清との合意書面(日清両国間互換条款:前掲原文画像参照)からも,台湾すら毛外之地と捉えている清は,元々琉球の領有に固執してなかった訳ですけど,台湾出兵に続く琉球処分の日本の強引さを逆手に取って外交カードとして頻用した,という文脈でしょう。
 けれど日本はさらにそれを逆手にとった形で,やはり左程固執していない琉球の領土権の切り売りを,外交カードに使っていきます。琉球処分の翌年にです。

清国ニシテ我カ請求ニ応セラレハ我政府ハ親睦ヲ将来ニ厚スルカ為メニ琉球ノ内清国地方ニ接近シタル宮古島八重山島ノ二島ヲ以テ之ヲ清国ニ属シ以テ両国ノ界域ヲ画定シ彊場ノ紛紜ヲ永遠ニ杜絶スヘシ
(宮古島と八重山諸島の割譲を提示)
(略)
抑琉球廃藩ノ挙ハ大号已ニ発シ中外人ノ皆知ル所ニ係ル今琉球全部ノ殆ント一半ヲ占ムル所ノ二島ヲ挙ケ以テ清国ニ属スルハ我国ニ於テ最モ至難ノ事タリ
(日本は自国の領土である琉球の半分を占める二島を清国に譲渡するという極めて難事を処理しようとしている)
(略)
我レ勉強シテ其ノ至難ノ事ヲ為シ以テ好意ヲ表シ清国ニ其ノ軽重スル所無キノ准可ヲ望ムハ決シテ不相当ニ非サルヲ信スルナリ
(しかし,清国にとって通商上の条約改正は決して難しいことではない)〔後掲山城〕

※原注(17)「井上外務卿ヨリ宍戸公使宛/内訓条-特命全権公使従四位勲二等 宍戸璣」明治13年6月29日(『琉球所属問題』第1(72)497~501頁)。なお,附属書の註によると「訓条及内訓条ハ一旦三月九日付ヲ以テ竹添氏ニ托シ発送シタルモ竹添氏李鴻章ト会談ノ上変更ヲ要スルモノト思料シ持帰リタル為メ更ニ六月二十九日附トシテ竹添氏ニ托シ送付シタルモノナリ」としている。「井上外務卿ヨリ清国駐箚宍戸公使宛/章程改正并琉球案件開談ニ関シ内訓ノ件」明治13年3月9日(『日本外交文書』13巻(124),附属書3「宍戸公使ヘ内訓条并増加条約案」,369頁~373頁

 宮古八重山域の清割譲と交換で最恵国待遇を買い戻そうとする政府方針は,以上のように1880年段階でほぼ腹決めがされていたようです。

宍戸璣(ししどたまき 1829(文政12)年生-1901(明治34)年没。長州藩出身)。藩儒・山県太華の養子となり半蔵と称す。第一次長州征伐で藩は半蔵を家老・宍戸家の養子とし広島・国泰寺で幕府問罪使に応接させる。1879(明治12)年3月に清国駐剳全権公使に任命。帰国後宮内省出仕,1884(明治17)年参事院議官。〔wiki/同名〕

 宍戸璣公使が1880(明治13)年8月18日から合計8回の交渉を経,同年10月21日に井上外務卿にその結果を報告。「井上外務卿は井上毅から条約に関する具体的な報告を受け,それを三条実美太政大臣へ上申した。」〔後掲山城〕 すなわち締結予定の条約内容が,この報告時に「球案条約擬稿」として作成されています。

「球案条約擬稿」
 大清国大日本国以専重和好,故将琉球一案所有従前議論置而不提,大清国大日本国公同商議,除沖縄島以北属大日本国管理外,其宮古八重山二島属大清国管轄,以清両国疆界,各聴自治,彼此永遠不相干預
 大清国大日本国現議酌加両国条約,以表真誠和好之意,茲大清国欽命総理各国事務王大臣,大日本国欽差全権大臣勲二等宍戸各慿所奉上諭便宜弁理,定立専条,画押鈐印為拠,現今条約,応由両国御筆批准,於三箇月限内在大清国都中互換,光緒七年正月明治十四年二月交割両島後之次月開弁加約事宜〔後掲山城〕

※後掲山城:大意「琉球の宮古島と八重山諸島を清国に属することを認める代わりに,日清修好条規を期限内に改正することで平和友好を保つ」
※※原注(20) 「井上外務卿ヨリ太政大臣宛/井上毅ノ持帰リタル条約案及附属書類」明治13年11月13日(『琉球所属問題』第2(126)186頁~207頁),条約案の内容については他にも「清国駐箚宍戸公使ヨリ井上外務卿宛/総理衙門ニ於ケル談判結了ノ模様報告ノ件」明治13年10月22日(『日本外交文書』13巻(129)附記「球案専條 」376頁~379頁)にも記載されている。なお,中国側の史料『清光緒朝中日交渉史料』,『清季外交史料』には交渉の経過と「球案条約底稿」,「加約底稿」,「慿単底稿」が合わせて記載されている。「総理各国事務衙門奏與日本使臣議結琉球案摺」(『清光緒朝中日交渉史料』巻2(53)光緒6年9月25日(以下引用者が「交渉史料」と略),8頁~9頁),「附件一 総理各国事務衙門録呈球案条約底稿」(交渉史料9頁),「附件二 総理各国事務衙門録呈加約底稿」(交渉史料9頁~10頁),「附件三 総理各国事務衙門録呈変通商約慿単底稿」(交渉史料10頁),「附件四 総理各国事務衙門申明議結球案情形片」(交渉史料10頁),「総署奏日本廃琉球一案已商議辦結摺」(『清季外交史料』巻23,光緒6年9月25日,15頁~17頁),「総署奏琉球南島名属華実属日不定議無以善後片/附球案条約慿単擬底」(『清季外交史料』巻23,光緒6年9月25日,17頁~19頁)。

 総合すると,台湾出兵で琉球の外交的価値を初めて認知した日帝は,琉球処分後,即座に外交カードとして使うことを決断していました。
 換言すると,日帝にとっての琉球処分とは,対清交渉のためのカードを拾うための作業だった,ということになります。ドス黒い陰謀で琉球を併合する,という意図はなかった。そういうホットな意図すらなかった,と言うべきでしょうか。
 その延長線を考えると,日清交渉上,清が琉球を求めたなら同じく外交カードに使っていたはずです。けれどそうはならなかった。これは,清側が断ってきたからです。

李鴻章「未知の南島 これ枯れて瘠せる也」

宍戸全権公使と総理衙門の交渉が終わり,その条約内容に清国内で賛否両論が飛び交っている頃,満を持して李鴻章が今後の対日政策に関する上奏文(32)を提出した。その内容は大きく3つに分けることができる。
① 日本が清露葛藤(イリ問題)を利用していることは明らかで,琉球帰属問題はロシアとの条約締結後に再開すること
② 日清修好条規の中に「内地通商」を引き出す「最恵国待遇」条項の追加を回避すること
③ 不毛の土地である宮古島と八重山諸島の割譲には清国にとって価値がないこと〔後掲山城〕

※原注32)「直隷總督李鴻章覆奏球案宜緩允摺」(『清光緒朝中日交渉史料』巻2(59)光緒6年10月初9日,14頁~17頁)/「直督李鴻章奏日本議結琉球案牽渉改約暫宜緩允摺」(『清季外交史料』巻24,光緒6年10月初9日,3頁~8頁)/「天津在勤竹添領事ヨリ井上外務卿宛/李鴻章ノ意向情報ノ件」(『日本外交文書』13(131)附記「光緒六年十月初九日李鴻章奏議」380頁~383頁 

 以上の清側の判断は,琉球の脱清人が北京にいくら請願しても琉球の中国復帰に清が動こうとしなかった点とシンクロします。
 上記③では具体的に日帝が清に割譲しようとした宮古八重山に限定して「未知南島之枯瘠也」(不毛の土地である)と言っていますけど,「宮古八重山以外なら欲しい」という議論もまた出てきていません。
 清側(主に李鴻章)は「沖縄は最恵国待遇条件と引き換えに得るほどの領土ではない」と判断しているのです。ただ,それが北京で議論になったということは,日本の用いた外交カードは最終的に失効したとは言え,それなりに有効だったことにもなります。
 以下,①③部の中国語原文を掲げておきます。
①の原文

旋聞日本公使宍戸璣屢在総理衙門催結球案,明知中俄之約未定,意在乗此機会,図佔便宜。臣愚以為琉球初廃之時,中国以体統攸関,不能不亟與理論,今則俄事方殷,中国之力暫難顧,且日人多所要求,允之則大受其損,拒之則多樹一敵,惟有用延宕之一法最為相宜。蓋此係彼曲我直之事,彼断不能以中国暫不詰問而転来尋衅。俟案事既結,再理球案,則力専而勢自張〔後掲山城〕

※後掲山城「宍戸が交渉時に総理衙門に対して琉球帰属問題に関する条約締結と日清修好条規に最恵国待遇を追加する改正案を要求していた背景には,明らかに清国とロシア間のイリ問題が解決に至っていないことを知った上での行動であることを指摘した。さらに,日本の要求をのめば清国は多大な損害を被り,逆に拒絶すると余計な敵を一つ増やしてしまうことになるので,ここは「延宕=遷延」,つまり条約の批准を先送りして,イリ問題の解決後に再度日本と交渉の場を持つことを力説している。」

③の原文

琉球原部三十六島,北部九島,中部十一島,南部雖有十六島,而周迴不及三百里。北部中有八島早被日本佔去,僅存一島。去年日本廃滅琉球,経中国叠次理論,又有美前統領格蘭忒従中排解,始有割島分隷之説。臣與総理衙門函商,謂中国若分球地,不便収管,只可還之球人,即代為日本計算,舎此別無結局之法。此時尚未知南島之枯瘠也。本年二月間,日本人竹添進一来津謁見,稱其政府之意,擬以北島,中島帰日本,南島帰中国,又添出改約一節。臣以其将球事與約章混作一案,顕係有挟而求,厳詞斥之,不稍假借,曾有筆談問答節略両件,抄寄総理衙門在案。〔後掲山城〕

※後掲山城「李鴻章は(略)と宮古島・八重山諸島の土地が瘠せて,人が住んで自立していくのはほとんど不可能に近いことを知らされていた。(略)日本が琉球王を釈放する見込みもないため,実際には清国が得るものは皆無に近いにもかかわらず,竹添は事前会談で宮古島・八重山諸島の割譲と日清修好条規の期限内改正を混同させてきたと批判している。」

参考:19C後半の清露の新疆紛争

記の清側分析にある「清露葛藤」即ちイリ問題について,①の「明知中俄之約未定,意在乗此機会」((日本は)明らかに中国-ロシアの条約締結難航を好機と見ている)というのは,当時南進を続けていたロシアが新疆の領土権を狙っていたことを指します。

※俄=俄羅斯(オロス):ロシア

 この紛争の図式は,まさに日帝の琉球カードの使い方にそっくりです。清側の想像通り,日帝の外交の筋書きは帝国主義の先輩・ロシアのやり口を真似ていたと推測できますから,浅くでも見ておくと当時の大久保らの頭の中が推測できます。

ロシアは、清朝に対する新疆しんきょう(東トルキスタン)=イスラーム教徒の反乱(1864〜78)を機に、居留民保護を名目として、1871年にイリ地方を占領した。反乱は、欽差大臣として清軍の指揮をとった左宗棠(1812〜85)の奮闘などにより鎮圧されたが、反乱終結後もロシアは同地方から撤兵しなかったため、露清間の紛争となった(イリ事件)。(略)1881年イリ条約が結ばれ、ロシアに新疆での通商権を認めるかわりに、イリ地方は清朝に返還された。〔後掲世界の歴史まっぷ〕

 イスラムの反乱は,1759年にジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した清による,イリ将軍府設置と同地への強制移住を前史とします。これによる民心離反が燻り,1862年の西北ムスリム大反乱(回民蜂起)を誘発。それを好機と見たコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが侵入,1867年には天山南路を統治します。

(上)清の領域 (下)ロシアの東方(南方)進出〔後掲世界の歴史マップ〕

 ロシアは1870年にこのヤクブ・ベク政権を承認。居住民保護を名目として翌1871年にイリ地方を占領します。──これは清側から見ると日本による琉球処分に相当します。
 1878年に、清国は全権大使の崇厚をロシア帝国サンクトペテルブルクに派遣、イリ地方の返却等の交渉が進められた。
 慌てた清は,持てる最精鋭部隊を投入したらしい。劉錦棠軍はヤクブ・ベクを1878年に平定。同年に清全権大使・崇厚がロシアとサンクトペテルブルクでの交渉を開始し,翌1879年──まさに琉球処分の年の──10月2日,リヴァディア条約に調印します。内容は,イリ西部・南部をロシアに割譲,ハミ・トルファン・ウルムチ等7カ所にロシア領事館設置,露清間の免税貿易許可……。──これが両国で批准されていれば,日清交渉で清ははるかに攻勢に出て,おそらく琉球を領土化できていたでしょう。
 けれども,リヴァディア条約の内容に西太后は激昂し,帰国した崇厚は死刑を宣告されます。イギリスが死刑恩赦を要請して崇厚は助命してますけど,もうこれは完全な内政干渉です。ロシアも露土戦争で余力のなかったため,サンクトペテルブルクで再交渉が始められ(全権・曽紀沢),1881年2月──宍戸による日清交渉の翌年──結ばれたのがイリ条約です。内容は,ロシアに新疆での通商権を認める代わり,イリ地方は清朝に返還する。──これは,日本に最恵国待遇を認める代わり,宮古八重山を割譲するという宍戸妥結案に酷似しています。
 繰り返しになりますけど──後の朝鮮併合と同等の意味での琉球併合が,琉球処分だったと考えるのは,当時世界を股に行われていたゲーム的なパワーポリティクスの感覚からズレています。ゲットした利益を元手にすぐ次のゲームが始まり,それが延々と続けられる,明治維新政府はそれに参加するために造られた国家形態です。琉球はその過程でドライにゲットされ,日清戦争へと続くゲームのカードになっていた。良くも悪くも,その現実認識から考え始めないと沖縄県の歴史のリアルに取り組めないのです。
 ところで,こうした帝国主義への過剰適応は,どうやら当時の新聞メディアに最も顕著に現れていたようです。

紙面論調:我が政府は夙に英断する所ありて此を挙行せしや

紙の論調を概観して明らかなのは琉球処分が民間から必ずしも積極的な評価を得ていなかったということである。すなわち,『朝野』が琉球処分を「国権」の発揚として称賛した(10)のに対して,『東京日日』(11)や『横浜毎日』(12)は,琉球処分は不可避だったが本来「政府の意」ではないはずだと批判した。また『郵便報知』は,琉球処分自体は当然としながら,琉球処分とは「琉球人民の幸福」なのであって,「我邦の利害」からは「国計」「国光」に大きな利益はないと評していたのである(13)。(略)
 琉球処分をめぐる評価の論点は,大きく見て(一)琉球処分そのものの正当性,(二)日清関係の悪化への懸念,の二つに分かれていた。〔後掲塩出〕

※原注(10) 「(無題)」『朝野新聞』1879年4月5日,「読日日新聞」同4月9日。
(11) 「琉球藩を廃し沖縄県を置く」『東京日日新聞』1879年4月8日,「琉球処分」同4月17日。
(12)「政府豈好廃琉球藩乎」『横浜毎日新聞』1879年4月12日,13日。
(13) 箕浦勝人「琉球人民の幸福」『郵便報知新聞』1879年4月8日。

明治12.6.7朝野新聞〔wiki/朝野新聞〕
「(一)琉球処分そのものの正当性」について,概ね朝野(ちょうや)新聞以外は否定的です。この否定論が,「(二)日清関係の悪化への懸念」の観点から重ね塗りされてる感じです。

 以前から琉球併合を強硬に主張してきた『朝野』は,1879年4月5日付の無題論説で,琉球処分は日本が「名分を正」し「国権」を保持するため当然だと説いた。曰く,琉球が日清に両属してきたのは,小国(「弾丸黒子の土地」「臣民の貧弱」)ゆえにやむをえない「勢」であった.しかし日本は,既に琉球の「内属を納れ」て,琉球のため台湾出兵を行い,「海外諸国」に対して「我が版図たるを承認」させただけでなく,「支那政府」に対しても「日本帝国の属地たるを明言するに至」った以上,もはや琉球が清国に朝貢するのを「傍観」は出来ないのだ,と。〔後掲塩出〕

明治7年10月9日付け朝野新聞〔コトバンク/朝野新聞〕

 推測になりますけど,明治初期の大衆心理は上記論旨に代表されていると想像します。──朝野新聞は1874(明治7)年発刊(1893年廃刊)。政界・社会風刺が好評を博し,統計はありませんけど,少なくとも1878年に日刊紙初の発行停止処分(大久保利通暗殺の報道と斬奸状掲載による)を受ける前後まで,当時の政論新聞中随一の発行部数を誇ったと言われます〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝野新聞」←コトバンク/朝野新聞〕。
 シンプルに国威発揚を賛美してます。それに対し──

『東京日日』は(略)「琉球処分」(4月17日)では,「之(琉球処分)を是挙なりと公言する者」は「輿論者を借りて世議を瞞着せんと試る者」だと,ほぼ名指しで『朝野』を批判した。
(略)『東京日日』は,1872年の琉球藩設置に際して日本政府には,「風俗故例の我に殊なると否とを問はず」,琉球の「自治の旧貫」を否定し,やがて「民刑の法律」まで「我本地に同じからしめん」との意図があったと解した。しかしその上で,なお琉球が両属を継続しようとして,「藩たるの務を怠たり藩たるの分を守ら」なかったため,日本政府は「之〔琉球〕を棄るか之を取るかの二様に断定」するしかなくなった。そして琉球の放棄は日本にとって「利」(利益)でも「栄」(対外的名誉)でもないため,琉球を「版図に加へ」ざるをえなくなったのだという(4月8日)。
 つまり琉球の「自治」を奪い制度的に日本に編入しようとの対内的意図が,琉球の両属維持の希望と両立せず,対外的に主権国事として琉球の放棄・領有如何を決定せざるを得なくなり,領有が選択されたというのである。このような理解から『東京日日』はそもそも琉球藩の設置自体,「属国を懐柔するの主義」としては「尽く計の得たるもの」でなかったと批判しながら,もはや今日では琉球処分は不可避だと追認したのであった(同)。〔後掲塩出〕

 東京日日(毎日新聞前身)の書く,琉球の「自治の旧貫」を否定した,という(一)正当性論は,そもそも琉球は独立王国という認識以外は現代の琉球処分観に近い。けれども琉球を「版図に加へ」ざるを得なかったのは,より端的に言えばそれが「利」かつ「栄」だったから,ということになります。やはり国威発揚的観点に立ってます。

『東京日日』以上に琉球処分に批判的だったのは,『横浜毎日』である。同紙は,琉球処分直前期に琉球の「外藩」としての維持を主張している(19)。これは『東京日日』の「自治」論と通ずる主張といえよう。そして『横浜毎日』は,琉球処分が行われると,「政府豊好廃琉球藩乎」(1879年4月12日,13日)で,①「政府琉球藩を廃するは当然の理なり」,②「今日琉球藩を廃せざれば国権立たざるなり」と「切歯扼腕」する「世の論者」に,以下のように反論した。
 まず①琉球は「内地の一部」でありながら唯一「藩制を存する」から廃藩が当然だというが,「古来の情勢」からみていまだ琉球は「純然たる我が内地」ではない。また日本の「内藩」でありながら「書を英蘭公使に呈」したことを「罪」とする(『朝野』)としても,「其情を察せば」,「其国を奪」わねばならないほどの罪ではない(「其情」とは,琉球にとっての両属維持の緊要性を指すのであろう)。
 次に,②「若し(琉球が)支那に朝貢し支那の正朔を奉ずるを以てせば,則ち支那もまた,『琉球は世々中国の封冊を受け中国の正朔を奉じながら貢税を日本に納むるは中国の国権立たず』と云はん」。つまり「国権」が立たないという論法は,琉球が日清に両属していた以上,清国側にも可能であり,領土画定上はどちらの版図にも入りうる。〔後掲塩出〕

※原注(19)「琉球論」『横浜毎日新聞』1879年1月22日,23日。
 横浜毎日新聞は現・毎日新聞とは別系統(1940(昭和15)年に「帝都日日新聞」に吸収合併)〔wiki/同紙名〕。
 それはともかく,「外藩」維持の主張,「純然たる我が内地」ではないとの認識は,独立容認ではなくとも琉球の「香港」状態を「罪」ではない,とする柔軟な立場です。
 ただ,後段の「中国の国権立たず」論は分かり易くはあるけれど,安直です。初発段階の維新政府と言えどそんなことは分かり切った上で,だからこそ慎重に処分を進めたわけですし,清がその「正論」を翳したからと言って日清交渉の決定的な日帝の失点になるほど,当時の帝国主義的外交はキレイ事ではありません。これは東京日日も五十歩百歩で──

『東京日日』が琉球処分を批判したのは,日本が琉球を併合することに充分な正当性はないという認識によってだけではなく,同時に,琉球処分が清国と日本との関係悪化を惹起することを懸念したからであった。日く、「万ーその事(琉球処分)より支那と紛議を起すに至るとも行はざる可からずと,我が政府は夙に英断する所ありて此を挙行せしや」,「勢」やむを得ずとはいえ,「実に今日に得策の国是なる耶否耶」(4月9日)。既に「台湾の事」,「朝鮮の論」でそれぞれ「数歩を我に譲」ってきた清国は,琉球処分で「愈々怨に怨を重ねて遺恨の種を懐(いだ)」くはずである(4月17日),と。『東京日日』は,琉球処分が最終的に清国の忍耐の限度を超えさせる可能性を恐れたのである。〔後掲塩出〕

 遺恨や忍耐で外交は動いてません。まして老獪過ぎるほど老獪な清外交は,台湾・朝鮮の先例を外交カードに使いこそすれ,現実には前述のように実にドライに対応しています。
 ただ,そうした現実の外交と比べての甘さとは別に,次のような記述ぶりからは,当時──おそらく日清戦勝利までの間は,まだまだ日本の世論一般は隣の大国・清にビビってた感じが拭えません。多少リアルな軍事バランス認識を持っていたとは言え,その点は維新後十余年しか経ていない政府も同様だったのではないでしょうか?
「清が怒ったらどうしよう?」と萎縮しつつ,琉球処分は入念に近代法的合理性を積み上げて実行されたのだと感じるのです。
 それにしても「我が政府は夙に英断する所ありて此を挙行せしや」とは痛いところを突いてます。本稿で見てきたとおり,琉球処分全般は行政の時々の事務的な流れで構成されており,苦渋の,あるいは戦々恐々とした判断ではあれ,決していつかの誰かによる「英断」で雄雄しく行われたものではない。それがこの施策の本質だからです。

『東京日日』と異なり、『横浜毎日』は日清関係について楽観的に見える。しかし,この議論は,清国が琉球の藩属維持のため行動しないという情勢判断のみを前提にしており,ゆえに同紙は,もし琉球が「日英の両属」または「日魯の両属」だったならこうは行かない,と留保していた。清国の出方一つで,「幸運」はただちに暗転するであろう。また留意すべきは,清国が欧米列国=主権国家とは異なる行動原理を持っているとの認識が,この判断に影響していたことである。〔後掲塩出〕

結論:守られた首里森「生樹等有形之儘……当省江受領致度」

論,というほどではないけれど──琉球処分は確かに大日本帝国の「初めての侵略」だったけれど,関係者たちはその場その場でドギマギしてた,という「いたいけな侵略者」の姿が見えてきます。もちろんフィクサーなんているとは思えません。
 琉球王国側からすると,全般的に別の展開への分岐点がいくつか有り得ました。清以上にしたたかな外交技術の蓄積があった琉球が,結果的にかなり最悪の道を選んでしまったのは,「こんな駆け出しの外交弱者の集団が琉球王国を消去できるものか」という侮りも手伝っていたのではないか,とも想像するのです。
 それを最も簡単に言うなら,まあ,ビギナーズラックです。
 さてそろそろ──忘れてましたけど首里城存城のことに戻りましょうね。
 1882(明治15)年の首里城存城決定に際しての陸軍卿・大山巌の願い出はこうでした。
「将来必要之地二付、存城地トシテ其建物生樹等有形之儘官有地第二種二編入当省江受領致度」(→前掲)
 建物に加え①「生樹等」を②「有形之儘」,つまり現状を保存したままにして,軍事利用すると言っています。
 実際,熊本鎮台の首里城駐屯軍は首里城本体に新規の要塞とかを建設していません。WW2での第32軍も首里の丘陵北麓の窪地を司令部壕にしています。

第32軍司令部壕の位置図 ※上が南〔後掲第32軍司令部壕の保存・公開を求める会〕

 この点,首里城存城決定に先立つ9年前,1873(明治6年)1月の廃城令本文ではどう書かれていたかと言うと──
「第二号ノ通旧来ノ城郭陣屋等被廃候条附属ノ建物木石ニ至迄総テ大蔵省可引渡事」
「右管轄ノ土地へ屯営建築落成ノ上地所木石等有余ハ大蔵省へ可引渡」
「今後屯営地所練兵場等有用ノ節且全国防禦線決定ノ日ニ至リ砲墪塁壁等建築ノ地所ハ陸軍省ニ於テ撰定シ」(→前掲)
 首里城存城願出にある「生樹」及び「有形之儘」という表現はありません。陸軍省が存城願出の際に廃城令原文を参照しなかったとは考えられませんから,首里城については明らかに,いわゆる首里森を認知し,その保全が留意されています。
 念のため,存城決定からWW2までの陸軍の管理状態を確認しておきます。

分遣隊が引き上げた後は学校や役所として城内が使用されており,一部の建物は校舎等に使用されたが,正殿は老朽化が続いた様だ。修復や再利用の目途が立たないまま,1923年には遂に正殿の取り壊しが決議されるが,鎌倉芳太郎※,伊藤忠太らによって中止され,1924年に沖縄神社拝殿,1925年には国宝に指定され,解体修理が行われている。〔後掲石井〕

※鎌倉芳太郎(1898(明治31)年生~1983(昭和58)年没)は,1923年の文化財指定で「沖縄の恩人」と呼ばれる他,その残した「鎌倉ノート」全81冊が1992(平成4)年と来たる2026年(予定)の復元の依拠資料となっており,「首里城を3度救った」と評されています。〔後掲三木町観光協会〕

 よく「日本軍は首里城を破壊しかけた」と書かれるのは,この老朽化による正殿取り壊しのことらしい。正確にはこの時に正殿以外に手をつけようとしていたか否かは,実行されなかったので疑問は残るけれど──いずれにせよ,王族関係以外のうちなんちゅが守りたい,即ち御嶽としての首里城とは,首里森=京の内のことだと思います。

内部リンク→FASE92-1@deflag.utinaR411withCoV-2_BA5.2#京の内まで/京の内(首里森)
京の内入口部

 一見,遊休地に見える首里森,おそらくは首里城の「生樹」は斯く護られました。
 正殿老朽化を放置していたことからして,軍に「文化財保護」の観点はなかったでしょう。では何を考えてこういう推移になったのか?──首里城の存城自体は,清による沖縄本島奇襲奪取!といった事態を恐れたのでしょう。でも首里森を守ったのは……上記のような極度のビビりモードを前提にすると,陸軍は何をするか分からない沖縄人の視線を相当に意識していたのではないでしょうか?

【各論】文部大臣森有礼の請議した「永久保存ノ方法」

て,首里城本殿陸軍取壊未遂事件の際に鎌倉芳太郎が中止工作をしたような文化財保護の観念というのが,廃城に絡む歴史の中に出てこないのを不思議に思われる方があるかもしれません。ワシもそれは日本の後進性なのかと思ってましたけど,森山さんの論文中には,鎌倉芳太郎に先立つこと三十余年,唯一文化財保護的な行動をした人物又は組織が見つかりました。
 先述の陸軍による大規模公売の時(→前掲1889年公売)に,文部大臣・森有礼が,公売ではなく文部省に所管を移すよう要請しています。

陸軍省が不用の城郭を公売しようとしているとの風聞が広がると、思わぬ所から意外な提案がなされた。明治22年1月19日、文部大臣森有礼は、内閣総理大臣黒田清隆に「現今陸軍省ノ所轄タル各府県二於ケル旧城地ノ中不用二属スルモノハ公売ニ付スルヲ可トスル説アリ、熟思フニ旧城地ハ本邦古今ノ軍事上及歴史上二於テ重要ノ関係ヲ有スルノミナラス帝国ノ観光ニモ亦重要ノ関係ヲ有ス、輙ラク(ママ)之ヲ一個人ノ私有二帰セシムヘカラス、必ス適宜ノ方法二依リ之ヲ永久二保存シ且ツ之ヲ最大ノ用二充テサル可ラス、

森有礼画像〔近世名士写真 其2, 1934–1935←wiki/森有礼〕
其方法ハ之ヲ文部省ノ所轄二移スニ如クモノ無カル可シ、然ルトキハ文部省ハ便宜之ヲ師範学校、中学校等ノ用地トシテ永久保存ノ方法ヲ設ケ、ーハ以テ教育ノ所要二充テ、ーハ以テ国家須用ナル師範学校、中学校等保持ノ資二充テ、又国家非常ノ用ニモ亦充ルヲ得ヘシ」として「陸軍不用ノ旧城地ハ之ヲ文部省ノ所轄二移サレタシ」として閣議請議を願った223)。〔後掲森山〕

※原注223)「全国旧砲台地ノ内存置ヲ要セサルモノ其他不用ノ土地建物ヲ売却シ練兵場及射的場増地」『公文類緊』第13編明治22年第30巻兵制四

 永久保存の方法は学校用地供用なので,現代の文化財登録制とはかけ離れてますけど,「本邦古今ノ軍事上及歴史上二於テ重要ノ関係ヲ有スルノミナラス帝国ノ観光ニモ亦重要ノ関係ヲ有ス」,つまり①歴史的価値と②観光資産価値を見出す観点が1889(明治22)年に公的見解として呈せられているのです。

僧侶たち(7)(撮影者:F. ベアト 撮影地未詳 1870年頃 色彩:handcolored)〔後掲長崎大学図書館〕

文化財保護制度簡史

本の文化財保護政策は,確かに欧米(初期は英仏,現代は米)の制度的影響を受けてはいるものの,維新後の独自の感性に牽引された面を持ちます。

文化財保護制度の創始
1830年頃(仏)歴史的記念物監察総監が文化遺産管理
1871(明治4)年
 古器旧物保存方の太政官布告(全国の宝物調査)
1874(明治7)年
 古墳発見ノ節届出方、1880(明治13)年
 人民私有地内古墳等発見ノ節届出方
 ※古墳の発掘規制と不時発見の届出制(天皇陵の比定と関連して)
1880(明治13)年頃〜
 内務省,主要な古社寺に宝物維持の保存金交付
1882年(英)古代記念物保護法制定
1887年(仏)歴史的建造物の保護に関する法律制定

1889(明治22)年1月19日
 森文相,存城の文部省移管を請願

1897(明治30)年
 古社寺保存法制定
 ※英仏の文化遺産保護制度を参考に
 ※次の調査結果に依拠
 ⅰ)文部省:1884(明治17)年頃〜 古社寺調査
  by アーネスト・フェノロサ,岡倉覚三(天心)
 ⅱ)宮内省:1888-1897(明治21-30)年 臨時全国宝物取調局(九鬼隆一委員長)調査

1911(明治44)年
 (民間)史蹟名勝天然紀念物保存協会設立
 by侯爵徳川頼倫ら
1928(昭和3)年
 史蹟名勝天然紀念物に関する行政が内務省→文部省移管
1929(昭和4)年
 国宝保存法制定
 ※施行時の登録
  宝物類3,704件
  建造物845件(1,081棟)
  ∋名古屋城・広島城の天守
   仙台城の大手門
   他計24か所の城郭建築

1972年
 世界遺産条約締結
 ※同15〜18条により基金設立
1978年 初回登録
 ※イエローストーン,ガラパゴス諸島など

〔wiki/文化遺産保護制度,後掲超入門!お城セミナー〕

 陸軍城郭公売の1889年は,世界史的にも文化財登録が英仏でようやく始まった頃,日本では「そうは言っても保護すべきじゃね?」という機運が芽生えかけた時代です。その時に上記要請を掲げた森有礼と文部省は,かなり驚くべき先見の明を持っていたと言ってよい。
 ちなみに,現・世界遺産制度は日本的にストイックな文化財保護からはややズレているけれど,それでも日本は世界第二位の拠出をしています。

拠出金上位国(2010年 – 2011年)
1 アメリカ合衆国
1,388,200US$
2 日本 1,049,100
3 ドイツ 541,276
4 イギリス419,174
5 フランス397,656
〔wiki/世界遺産基金〕

 日本は年間百万ドル。世界遺産はラベリング事業で,実際の保護事業は各国予算ですけど日本の場合は年間460億円と巨額です〔2016.06.16朝日新聞デジタル〕。国民一人当たり年365円余です。

憲法へ有礼の渡すバトン也

法制に連なる国法保存法施行の40年前,その種をまく請願を行った23日後,森有礼文部大臣は暗殺されています。大日本帝国憲法公布の日です。
 森の永眠2か月後,陸軍の既定の公売案が閣議で了解されます。

文部省の請議案について首相の照会を受けた大山陸相は、同月(引用者注:1889(明治22)年4月)18日、「当省二於テモ既二及請議置候通不用二属スル旧城地之儀ハ他之不用地卜共二売却之上練兵場及射的場地等買収之資二充ツルノ計画ニシテ別二文部省所轄二可移モノ無之」とにベもなく意見を述べ、文部省の請議案は「詮議二及ヒ難シ」として閣議に付せられず却下された。提案者の森文相は同年2月11日、憲法発布の日に国粋主義者によって暗殺され既にこの世にいなかった。陸軍省の請議案は閣議に付され、同年5月14日、「請議ノ通」として承認された。〔後掲森山〕

 文部省所管の文化財として城郭が登録されるのは,繰り返しですが40年を要しました。──前掲年表のとおり,39年後の1928(昭和3)年,文部省に文化財(当時:史蹟名勝天然紀念物)行政が移管され,翌年に国宝保存法が制定,城郭建築24がようやく保存対象になります。
 森の暗殺は,日頃の言動に反感を持っていた国粋主義者が,伊勢神宮不敬事件※の際に森だと憶測したため,と記すものが多い。大日本帝国憲法発布式典(1889(明治22)年2月11日)に参加するため官邸を出た所を短刀で脇腹を刺され,応急手当を受けますが翌日午前5時に死去。43歳。〔wiki/森有礼〕

※新聞が「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際,社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き,土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ,問題になったもの。
鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」15名中の森有礼。北西側,右手を天に上げてる中村博愛さんの下。右手に本,左手に羽根ペン。〔GM.,後掲カゴシマガジン〕

補論:森有礼略史

は鹿児島城下の春日小路町(現・春日町)の生(1847年)。1865(慶応元)年というから18歳で,五代友厚らとともにイギリスに密航。密航とは言え薩摩藩が,その前途を託し厳選した人材です。ロンドンでは長州五傑とも邂逅してます。

ローレンス・オリファント肖像〔Abdullah frères「Portrait of Laurence Oliphan」1882←wiki/ローレンス・オリファント〕
 この男が,旅行したロシアでローレンス・オリファントという神秘主義者(作家・旅行家・外交官)と胃気投合,彼が傾倒した新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団のコロニー(巻末参照)に1年程属していたけれど,日本からの命に従い1868(明治元)年6月帰国。
 1870-1873(明治3-6)年,少弁務使としてアメリカ赴任。
 帰国後の1873(明治6)年に明六社を結成。(福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥ら)
1875(明治8)年清国公使。1879(明治12)年英国公使。1885(明治18)年に第1次伊藤内閣の文部大臣(初代)に就任〔wiki/森有礼〕。
 文部相時代の行政的実績としては,教育令に代わる「学校令」一連の公布に関与しており,日本の学校制度のフレームを作ったとされる。明治六大教育家※の一人に数えられています。

※他に大木喬任,近藤真琴,中村正直,新島襄,福澤諭吉〔wiki/明治六大教育家〕

「明六の幽霊」(幽霊∞有礼)とその急進思想が皮肉られたけれど,英語の国語化(国語外国語化論)は確かに先鋭とは言え,「良妻賢母教育」を国是とすべきのと声明など,現代的には平衡感覚のある主張が多い。商法講習所(一橋大学の前身)の開設者でもある。
 珍談にも事欠かない。妻・広瀬常との結婚に際し「結婚契約」三箇条を交わしています。なお,常の妹・福子は明治屋(食料品等輸入業)創業者・磯野計の妻。
 ところが……結婚11年目に常の「素行上の理由」で双方納得のうえ離婚,つまり契約解消に合意しています。──後妻・岩倉寛子は岩倉具視の娘。ただこちらの結婚生活は,森の暗殺により約1年半で幕を閉じます。
 兄(四兄)・喜三次,長じて横山正太郎安武は,1870年に政府へ建白し自刃(後掲)。
 将棋の愛好家。福沢諭吉,服部金太郎,芳川顕正とともに当時の名人・小野五平の熱烈な後援者でもあったという。

トマス・レイク・ハリス (Thomas Lake Harris,1823年5月15日生-1906年3月23日没)〔後掲魔術人名録〕

補論2:米キリスト教原理主義コロニーで修道したサムライたち

.L.ハリス Thomas Lake Harris。この神秘主義者は,1859年頃にニューヨーク州ダッチェス郡ワセイクで創立した「新生兄弟会」The Brotherhood of the New Life の数十人と共に,1867年にシャトークア郡 (ニューヨーク州)ブロックトンに転居しました〔wiki/トマス・レイク・ハリス〕。

トマス・レーク・ハリス(Thomas Lake Harris 1823-1906)は、アメリカ十九世紀中期の大衆信教復興運動の最もユニークな、風変りな人物でもあったかもしれません。ハリスは、若い時に、ある降神術師の影響を受けて心霊論者になって、後にスエデンポルグ教派の信者になりましたが、ハリスは、①降神術の傾向と、②性的な神秘主義(sexual mysticism)が過ぎたためにスエデンポルグ教会から叩き出されて、ついに組織されたキリスト教全体と縁を切るに至りました。ハリスは工業社会の弊害と西洋文明の退廃を非難してへ模範的な生活団体を作ろうとしました。〔アイヴァン・ホール〕

エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg,1688生-1772没)。スウェーデン出身,科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記〔wiki/エマヌエル・スヴェーデンボリ〕※本稿ではスエデンボルグと記す。

 スエデンボルグは臨死体験を基にした神学を成します。常識的なキリスト教学との主な違いは,三位一体説を否定した「三一性」(父・子・精霊がイエスという人格内にある)です。正史からは無視されることが多い※けれど,当時の知識人に与えた影響は地震のように広大で,その著作は和訳も出てる※※。そう言えば丹波哲郎も何度か触れてました。

※2005年,ユネスコの「世界の記憶」Memory of the World に,ストックホルム王立科学アカデミー保存のスエデンボルグの手書文書類約二万ページが選定されています〔後掲日本スウェーデンボルグ協会HP〕。
※※『天界と地獄』高橋和夫編訳 春秋社 1997
『霊界日記』高橋和夫訳編 角川ソフィア文庫 1998
なお,和訳の初期のものとして鈴木大拙による明治42〜大正4年の「天国と地獄」ほかがあり,鈴木大拙全集にも収録される。
イマヌエル・カント「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」〔K・ペーリツ編『カントの形而上学講義』〕
ヘレン・ケラー「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」〔発言〕
夏目漱石「その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。」〔「こころ」※Kと「先生」の会話〕
三島由紀夫「六年来探してゐた、スウエーデンボルグの『天国と地獄』をみつけて有頂天になりました。」〔昭和21.9.16に川端康成宛葉書〕

 宗派としては,スエデンボルグ死後に新エルサレム教会(新教会 The New Church とも)が創設されています。※スヴェーデンボリ教義という組織もあるけれど,これはフリーメーソンリーの友愛組合の一つ。

1. 1850年代の米国思想界ではヒンズー教系神秘思想が流行しており、リグ・ヴェーダの英訳などがよく読まれていた。ハリスの同時代人エマソンなどにその影響は顕著であり、梵天や彌勒などが彼の詩作によく登場している。
2.ハリスの説によれば、かつて太陽系にはオリアナ Oriana という惑星およびオリアナ帝国が存在した。この惑星の指導者ルシファーがすべての科学を極めたすえに思い上がり、神のごとくなろうとして堕落したという。〔後掲魔術人名録〕

十九世紀末期の一般傾向として、世紀の中期アメリカで流行っていたユートピア的な社会主義の思想は、二つの流れに分裂して、その積極的な方は労働運動やアナーキズムに走り、その消極的な方はえせ科学的な神秘主義や神知学(すなわち“Theosophy”)など、インドの哲学を取り入れる方向へ逃げました。ハリスは後の方向を選びました。〔後掲アイヴァン・ホール〕

 近代文明の高揚期にそのリアクション又は不安感が,反動的な懐古主義的な伏流を生んだ,大まかに言えばそういうトレンドかと思います。T.L.ハリスは,トランス状態に入っての神秘的詩作で信者を集めた宗教家で,荒く言ってスエデンボルグの方向のさらなる先鋭だと想像されます。

 神及び天使は本来両性具有の存在であり、人間が愛するべき対象は、男子にとっては天使の女性的部分、女性にとっては天使の男性的部分である。この天使を「相対」 counterpart と称し、「相対」天使一名は二名の男女によって愛されるのである。二名の男女は同一の「相対」天使を愛するために結婚して、しかも純潔を守り通すことによって三位一体を完成させる。なお、神及び天使の愛は宇宙に満ち満ちていて、瞑想的呼吸を実践することで神の愛を得ることが出来る。〔後掲魔術人名録〕

 従って,彼のコロニーでの生活は率直に言って厳格で過酷な農業共同体だったようです。

ル・ハリスは退隠村居、門人三十人余有之、相共に耕して講学せり。(略)専ら良心を磨き私心を去る実行を主とし、日夜修行間断なし云々〔横井小楠の手紙※←後掲高木〕※森と鮫島が明治元年に帰国後物語ったものを,横井小楠が在米の二甥に詳報している書簡

──「家族であっても同居は許されず,他のメンバーとの会話を禁止される者もあ」った〔後掲林〕,「『神の呼吸』と称する手法で神と交信できるとし,精神的なカウンターパートは性交により見つけられるとしていた」〔The Bizarre History of Santa Rosa’s Fountaingrove NeighborhoodBeth Winegarner, Oct 11, 2017←wiki/同人名〕などの醜悪な記録もあるけれど,閉鎖的で記録の少ない中,少なからぬ脱退者が悪評を書き立てた事を想定すれば以下のような,大躍進期の中共人民公社のような思想統制型の重農業労働社会だったと考えるのが順当でしょう。

カルフォルニア州サンタ・ローザにあったハリスのコロニー「ファウンテングローブ」の遺構。2017年10月北カルフォルニア火災で消失〔Frank Schulenburg投稿:Round barn in Fountaingrove — Santa Rosa, Sonoma County, California. Built near the end of the 19th century, this was one of two surviving round barns in Santa Rosa until it was destroyed in a fire on October 9th, 2017.←wiki/トマス・レイク・ハリス〕

厳しい肉体労働とハリスを「父」と仰ぐ共同体の生活と秩序を通して、根本から自己を作り変え、再生するという考えのもと、長時間の農耕、無私、質素などが実践された。〔林竹二「森有礼とキリスト教」東北大学教育学部研究年報第16集、1968年←wiki/トマス・レイク・ハリス〕

 労働の過酷さを除けば,映画The Village(M・ナイト・シャマラン監督,2004年製作)に描かれた自律的にブラックホール化した閉鎖社会を連想します。

The Village 広告:(あらすじ)深い森に囲まれ外の世界と隔絶した村で,外界との絶対の非接触など古い掟を守りながら暮らす人々。ある日,盲目の少女・アイヴィーの恋人が刺され大怪我を負い,彼女は村の外に出て恋人のために薬を手に入れようとする。

森有礼の初めに見た「アメリカ」

867(慶応3)年に森有礼がローレンス・オリファントに導かれ(→前掲)滞在した「アメリカ」とは,このコロニーでした。1868(慶応4)年6月の帰国まで,丸一年の滞在と言われます。〔後掲トマス・レイク・ハリス/日本人留学生と教団 ※以下「ハリス/薩摩」と略〕──討幕の密勅(1867(慶応3).10.13-14)から鳥羽伏見の戦い(1868(慶応4).1.2-6),江戸城無血開城(4.11(新暦5.3))を挟んで奥羽戦争中に帰国した形です。
 オリファントがロンドンからコロニー入りを取り持った薩摩藩士は何と,計11人に上ります。──森を含む6名(薩摩藩第一次英国留学生15名※中)に加え,5名(薩摩藩第二次米国留学生※※8名中)。つまり薩摩藩の洋学人材育成プロジェクトの半数が,ハリス教団に入信したのです。

※1865(慶応元)年日本密出国組19名(薩摩藩遣英使節団)のうち,学生となった者
※※1866年5月12日(慶応2年3月28日)密出国組。ロンドン経由で渡米。

──個人的な見解を挟むと,時に残忍で呵責ないアメリカ人が底辺で有する「古き善きアメリカ」は,ピューリタン的な素朴さを秘めており,森らが接した「アメリカ」はある面で最もアメリカだったのかもしれないけれど……
 薩摩藩の上下関係上,先達からの引きはあったにせよ,実際の動向の多様さを見ても,藩選抜のこの二十歳前後の秀才たちのほとんどが各人自律した判断でハリス教団に関わっているようです。

新生兄弟会入信薩摩藩士
※姓の50音順。①②は薩摩藩留学の一次・二次の別。年齢は一次は薩藩海軍史,二次は仁礼景範航米日記からで,概ね密出国時点のものと推測される。
江夏蘇助②36歳【6月】
 67後半 一時入信
 68.05 モンソン・アカデミー(マサチューセッツ州)に復帰
 68.09 新政府の命令により帰国

鮫島尚信①23歳【14月】
 67.07 英出発→米(入信)
 68.08 日本帰国

谷元兵右衛門(道之)②21歳【13月】
 67.04下旬 横浜発
 (翌月米国入り?)
 68.05頃まで入信
 68.09 帰国

長澤鼎①14歳【33年】
 67.07 英出発→米(入信)
 90年代前半 ハリス教団解消
 1900 長澤がワイナリーを教団から買取り,経営 ※米国永住

野村一介(高文)②26歳【4年】
 67.04下旬 谷元と共に渡米(翌月米国入り?)
 71.09 帰国

仁礼景範(にれかげのり)②36歳【6月】
 67後半 一時入信
 68.05 江夏とともにモンソン復帰
 68.09 新政府の命令により帰国

畠山義成①23歳【10月】
 67.07 英出発→米(入信)
 68.05 教団を去る。オランダ改革教会のジョン・フェリス海外伝道協会長を介しニュージャージー州へ,9月よりラトガース大学入学

松村淳蔵①24歳【2月】
 67.07 英出発→米(入信)
 67.09?-ロンドン大学,米国ラトガース大学で学ぶ。
 69.12 アナポリス海軍兵学校入学

森有礼①21歳【14月】
 67.07 英出発→米(入信)
 68.08 日本帰国

吉田清成①20歳【5月】
 67.07 英出発→米(入信)
 67年中? 上野景範に随いて英国へ転出

湯地定基②23歳【11月?】
  (勝海舟の氷解塾生)
 67後半〜68.05 ハリス教団参加※
 70.01 一時帰国後再渡米
 71.10 帰国

〔後掲wiki/ハリス/薩摩,/薩摩藩第一次英国留学生,/薩摩藩第二次米国留学生,/長澤鼎,/畠山義成,/松村淳蔵,/仁礼景範 ※長沢鼎, アメリカに生きる : ニューヨーク州からカリフォルニア州へ 森孝晴、国際文化学部論集第18巻第3号(2017年12月)〕

 ハリス教団からの去り方を見ると,大多数がコロニーに失望して退去したらしい。ただ,森と鮫島の1868年帰国は「ハリスの助言」によるものとも書かれます〔後掲高木:林竹二「森有礼研究第二」p100,註,p161,wiki/薩摩藩第一次英国留学生〕。野村の最長4年滞在については史料を欠くけれど,1871(明治4)年に森が駐米公使になった時代にも新井奥邃(仙台出身)のハリス教団入信を案内しています〔後掲アイヴァン・ホール〕。

長澤鼎〔『実業之日本』6巻17号(1903年)←wiki/長澤鼎〕
 長澤に至っては,教団のカリフォルニアのブドウ園を教団解消後も経営していきます。その醸造ワインは米国内のワインコンクールで好成績を納めて,「ナガサワ・ワイン」としてイギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインになりました〔wiki/長澤鼎〕。

※大半の薩摩留学生はロンドン大学に入校したが,最年少だった長澤は,渡欧時に年齢が大学入学年齢に達していなかった。そこでスコットランドのアバディーンにあった貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に身を寄せ,地元のグラマー・スクールに2年間通った。〔後掲幕末明治の写真師 総覧〕
※※長澤は1934年に82歳で死去。ブドウ園は,1920年代から烈しくなった日系排斥の中,カリフォルニア州外国人土地法等のため後継者(伊地知共喜:長澤鼎の甥)が相続できず廃業。戦中は伊地知ほか長澤親族も日系人キャンプへ。その後忘れかけられていた長澤鼎が著名になったのは,1983年来日した米大統領ロナルド・レーガンが日米交流の祖として長澤の名を挙げたことから。2011年末,鹿児島県いちき串木野市職員がサンタローザから日本へ持ち帰った資料から,日記原文などが見つかり研究が進んでいる(森孝晴など)。〔wiki/長澤鼎〕

山形屋 Nagasawa Cabernet Sauvignon ナガサワワイン カベルネ・ソーヴィニヨン。鹿児島空港などで販売〔vioica
 薩英戦争敗戦に打ちひしがれたとは言え,幕末日本の最強藩として日本を牽引すべき薩摩人から選ばれ,強迫観念を負い密出国した若い秀才たちが,宗教的極右のハリス・コロニーになぜそれほどまでに吸引されたのでしょう?

interlude:謀略する紀行作家 ローレンス・オリファント

扈する新興宗教から身を守る習性を身に着けた現代人なら──「そりゃ,右も左も分からん薩摩人がローレンス・オリファントに騙されて送り込まれたんだろ?」と解しても当然な成り行きではあります。
 でもです。この薩摩人たちは若くとも選び抜かれた傑物揃いです。それに,このオリファントという人も,怪しい客引きどころじゃない,英国の国会議員で,かつ,その経歴も到底そんな小物ではありません。
 1829年にケープ(現・南ア)で生まれてます。父サー・アンソニーが植民地の法務長官だったためで,8歳で一旦英国に帰国するも,1841年(12歳)には父のコロンボ(現・スリランカ)赴任(最高裁長官)に同行。1846-1848年両親と共に欧州旅行〔wiki/同人名。以下w/L.O.と略〕。
 1851年(22歳),ネパール宰相ジャンガ・バハドゥル・ラナと共にネパールへ。その見聞から最初の小説「A Journey to Katmandu」(カトマンズへの旅)執筆(1852年刊)。以後,今で言う紀行作家として各地を旅行。変装してセヴァストポリに不法侵入,「The Russian Shores of the Black Sea」(黒海のロシア領沿岸,1853年刊)を出版してますけど──クリミア戦争(1853)直前です。発覚すればまず処刑,もしかすると拷問されるような明瞭なスパイ行為……をしてまで紀行を綴る危険な作家だったらしい。──この人の行動が詳細に追えるのは,要するに自分で派手に書き残たからです。
 危険と言えば,この頃以降のオリファントはさらに国際政治の怪しいプランに関わり,それが加速していきます。1853-1861年(32歳)にエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの秘書として北米へ。カナダ相互条約の交渉に立会った後,西への拡張期にあったアメリカ人を興奮させたクーデター未遂に関わった(と自供してる)。

1856年末から1857年にかけてはウィリアム・ウォーカーによる環カリブ海帝国の建設に参加したが、計画は失敗した。〔w/L.O.〕※出典未記載

 ウォーカーはテネシー州ナッシュビル出身。1853年,45人の部下を従えメキシコ領内を攻撃,バハ・カリフォルニア半島にロウアー・カリフォルニア共和国建国。1854年にソノラにソノラ共和国成立を宣言(双方とも米墨軍により鎮圧)。1855年,57人の部隊を率いニカラグアに入り,翌年大統領就任。ニカラグアを拠点とする環カリブ海帝国を構想(1857年コスタリカ軍等の中米連合軍に降伏)。
 1860年,ホンジュラスのトルヒーヨに上陸。これは現地の反発から失敗,同年にホンジュラス軍により36歳で処刑〔wiki/ウィリアム・ウォーカー〕。──とまさに「王になろうとした男」です。オリファントの関与方法は明らかではありません。
 危険度に磨きをかけたこのオリファントという男が,アロー戦争(1856-1860)の遠征軍司令官となったエルギン伯に秘書として同行,日英の通商条約締結に際し1858年,つまり幕府崩壊10年前の日本へやってきます。
 オリファントが在日本英国公使館の一等書記官に任命された1861年,公使館は攘夷派浪士に襲撃されてます(第一次東禅寺事件)。

第一次東禅寺事件イラスト。左手の,乗馬用の鞭で反撃しているのがオリファント〔1861.10.12日刊イラストレイテド・ロンドン・ニュースへの掲載画(チャールズ・ワーグマン画)※ワーグマンも現場で襲撃されており,一次史料性が高い。←w/L.O.〕

 この年に英公使-幕閣間で「秘密会議」が持たれている(と記録してます)。

オールコック、オリファント、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープ、老中・安藤信正、若年寄・酒井忠毗に通訳を加えただけの秘密会談がもたれた。ここでオールコックは日本の内情を理解し、開港延期賛成に回る。帰国するオリファントには、この方針変更を英国政府に伝え、同意を得る役目が与えられた。〔w/L.O.〕

──これは本当に何のことか分かりません。開港延期など実際にはなかったし,英国が理解し得るどんな内情を幕閣が主張したのか,想像もつきません。単にオリファントが「秘密会議」に出たことをアピールする文章かもしれないし,書かれないマターを決した重要な会議かもしれません。
 1865年,英スコットランドのスターリング・バーロウ選挙区(Stirling Burghs)から下院議員に選出されますけど──丁度この頃からハリス思想に罹患し,丁度ロンドン入りした薩摩藩士の「洗脳」に勤しんだものと思われます。

ハリスが「日本の予言」(A Prophecy of Japan)という覚え書き(一八六七年七月)に書いているように、彼は森らの留学生を日本に帰国させ、彼らを中心に若い武士を動員して、薩摩の大名をハリス教に改宗させて、全日本で宗教革命を起こす、という文字通りのクーデターを計画していたわけです。〔後掲アイヴァン・ホール〕

 オリファントは,ピューリタン的なキリスト教原理主義の素養※から,アジアに西欧が成し得なかったキリスト教原理主義の理想国家を建設しようとするハリスの「陰謀」に参加したわけです。

Laurence Oliphant ローレンス・オリファント‘Burton & Swinburne: The Strange Affair of Spring-Heeled Jack’のためのメモ | by PBGLK | わんわんがうがう | Medium〕

※父・アンソニーは禁欲主義のスコットランド監督教会派(エバンゲリカル)の敬虔な信者。母・マリアは厳格な福音主義の伝道者で「その(人生の:引用者追記)ほとんどを聖書を読んで過ごした」。〔wiki/ローレンス・オリファント〕

ハリスは一八六七年春から数カ月滞英したが(略)同年七月に滞英中のハリスは「日本の予言」のメモランダムと題する小冊子(林「幕末の海外留学生」──日米フォラム、一九六四、七─八号、五九─)を書いて、一雄藩の革命的復興により、日本国の更生が可能となろうという見透しと、藩制を廃して統一した国政の回復を期すべしとする構想を明にしている。〔後掲高木〕

 英-米間の渡航費をオリファントが負担した留学生たちが全て薩摩人だったのも,ハリスやオリファントの最終「陥落」目標が島津藩主だったからです。
 ハリスやオリファントのパーソナリティから予想して「若年薩摩藩士教化プラン」は,1867年のロンドンに薩摩二才※の集団を実見してから入道雲の如く湧き上がった妄想だったのでしょう。

※二才:にせ≒青少年。薩摩郷中教育での区分。

 彼ら近代西欧爛熟期の宗教的妄想度をこれ以上確認するのは,本稿の趣旨から逸れるのですけど,以下展開部にアイヴァン・ホール論文関係部を掲げておきます。



 薩摩二才の大半が次の人生に踏み出した後,オリファントは最後の国際謀略に着手します。1879年,現地に赴き「聖地の北半分を借りてそこにユダヤ人を入植させるという見込みのない交渉」〔wiki/ローレンス・オリファント〕に明け暮れます。1881年,一時的な渡米時にハリスと袂を分かったと言われるけれど,神秘主義と偏執狂の度合いはさらに独自の世界に入り込んだらしく,ハイファのドイツ人植民地中のテンプル騎士団に夫婦で移住。1885年末にガリラヤ湖周辺に蔓延した熱病で,妻・アリスは病死します。──結果的に,続く時代のシオニズムの先駆けとなったため,オリファント旧家は今も記念館になってます。
 1888年に著作の出版のために訪れた米国で,ロバート・オウエン※の孫娘・ロザモンドと再婚。──これも初期社会主義への接近と予想されますけど,この年内に病を得て年末に破天荒な生涯を閉じてます。59歳。

※ロバート・オウエン Robert Owen(1771生-1858没):イギリスの実業家から社会改革家,いわゆる空想社会主義者へ。環境決定論を主張,環境改善によって優良な性格形成を促せるとする教育運動を展開。協同組合の基礎を作り,労働組合運動の先駆けとなったとされる〔wiki/同人名〕。

 薩摩の逸才11人は,騙された,というより,欧米文明が醸成した怪人的人物二人に外地上陸早々にして激突したのです。そういう悲劇,または日本の文明史的にはある意味の僥倖を得ていました。

薩摩人が発見した「友強拒弱」の近代

867年の一・二次留学生計19人が何を考えたのか,物語的記述は多いけれど,一次史料は非常に少ない。

※薩摩藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国したけれど,ハリス・コロニーへの入信にはオリファントの経費負担があったので,さらに長期の欧米滞在のためにこれを利用した,とする見方もある。〔後掲幕末明治の写真師 総覧など〕

 けれど,1867(慶応3)年7月に留学生連名での藩への建言書が残っています。一次の留学生集団がコロニー入信のため渡米した時期ですから,藩の命ずる洋才習得を逸脱する行動の言い訳を兼ねた書と推測しますけど──若年の血気が感じられる直情的な筆です。

別紙にも段々古今の事実を記載せし通、欧土之人宇宙に災害を流布せし事、実に難数、唯未嘗一人の欧人己れの利を思はす人の為に赤心を尽せる例、古今之歴史に不見得と或翁の説を承り、尤私共にも夫等之処は至極注意仕居候得共、未た嘗て見聞に及ひ不申候。(中略)私共当国へ到著仕候砌は、朦々たる耳目の為に奪れ万端歎息にのみ相傾き居申候処、日を経るままに恐避すへきの節漸く相顕、当時に至り一の善友を求得、欧羅巴州は勿論米地の風情も委細承り、唯取るへきの小なると避忌すへきの大なるとを理解せし次第に御坐候。英の政府之形勢も外面は成程公平なる哉に蒙眉には相見得候へ共、反て左にあらす、皆技巧権暴のみと此の英人の説話を承り、実に其通之事御坐候。己を利せんには全く道を打忘れ、諸州諸島を奪掠し、友強拒弱は欧州米州之質也〔一八六七年七月一〇日付 大久保一蔵・伊集院左中宛書簡(公爵島津家編輯所編「薩藩海軍史」中巻,同史刊行会,昭和三年、九七九頁ー九八〇頁)←後掲ザビエル渡来450周年記念シンポジウム委員会〕※下線は引用者

 下線部一つ目は「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」〔wiki/薩摩藩第一次英国留学生〕。帝国主義の先鋭を謳歌していた当時の大英帝国を,倫理的に全否定しています。ただし「……と此の英人の説話を承」ったと記してます。この引用部だけを見る限り,ハリスとオリファントの受け売りであることを隠していません。
 ただ末尾一文(下線部二つ目)は彼らの結論として書いてます。「自分の利益になるなら道理を完全にかなぐり捨て,世界諸国を奪いとり,強ければ友とするも弱ければ否定する,それが欧米の本質なのだ」。

人力車に乗る女性(内田 九一か,撮影地未詳,1870年頃)〔後掲長崎大学/人力車に乗る女性 (11)〕
 英国での見聞──劣等感の反動も混ざってたことは否定できないでしょうけど,そこは薩摩藩の選んだ俊英と信じますけど──から内心直感しつつあった認識が,ハリス,オリファントの言に形を成したということでしょう。

そのうちの2人がハリスとの面会時の様子を『友人らと部屋でハリスの説教を聞いた際、非常に感動し、中には泣き出す者までいた。ハリスがみんなの間に座ってそれぞれの手を握ると、ひとりが右腕に震えを感じ、何週間もその影響が続いた。ハリスと別れてカナダを訪問しているときもハリスのことや彼が話したことで頭がいっぱいだった』と語った。〔英政治家ジョン・ブライト日記←ハリス/薩摩〕

 ジョン・ブライトは「彼らが経験したという変化がどういうものかはよく理解できなかった」とも綴りつつ,若い薩摩人たちの意気に圧倒されていたらしい。
 日本内地ではほどなく廃仏毀釈がピークを迎え,キリスト教は江戸期以上に迫害された時代に,次のような信じ難い記述まであります。 

かつて天皇の御霊に祈りを捧げていた留学生たちも今やゴッド(キリスト教の神)に祈り、聖書を読み、キリストを身近に感じており、『日本に帰ったら迫害されるのではないか』と尋ねると、『迫害されるとは思わないが、信仰とキリストのためなら死ぬ覚悟もできている』と答えた。〔英政治家ジョン・ブライト日記←ハリス/薩摩〕

 森有礼が帰国後,キリスト教布教に繋がる活動をした形跡はありません※。森の関わった教育制度には,特定宗教の関与が丹念に除かれていると言われます〔後掲アイヴァン・ホール〕。これは入信経歴を持つ他の薩摩藩士にも共通しています。

※森の学校制度設計中,「日本における宗教の自由」(Religious Freedom
in Japan:英文自家出版小冊,1872(明治5)年。明治文化全集「宗教編」巻末に1-16p英文復刻)で記した学校現場での宗教の自由は,「具体的には当時尚禁制であったキリスト教への寛容を意味した」とする説もある。(原文和訳一部)「良心の自由、殊に宗教の自由は、単にそれが、神聖にして奪うべからざる人権に属するだけでなく、人類の真の進歩の最も基本的な要素であるということ」〔後掲高木〕

 従って,薩摩藩士たちがハリス教団に求めたのは,宗教ではなく「あるべき近代人」とでも言うべき生活規範のようなものだったと考えられます。
 薩摩藩の武士は,郷中という組織に編入され,稚児(ちご)-二才(にせ)-長老(おせんし)の厳格な上下関係の元で厳しく鍛錬されます〔後掲白陽社〕。ハリスのコロニーは薩摩二才たちにとって割と馴染みやすく,また近代の社会規範の一つの理想像として受容されたのではないでしょうか?

化粧と読書(内田九一アルバム,撮影地未詳,1870年頃)〔後掲長崎大学図書館/化粧と読書〕

森有礼の教育構想に結集したもの

有礼に限って言えば──1882(明治15)年のパリ会議で意気投合した総理・伊藤博文から,文部大臣の内定※と「教育の基礎を定」めるヴィジョン構築を委ねられます。この初期に伊藤に示した最初のデッサン,「学政片言」に次のような記述があります。

※当時文部少輔だった九鬼隆一は,西洋思想の導入による急進的な改革を警戒し森の文部省入りに大反対したという。天皇侍講の元田永孚らも同調したが,伊藤博文総理が人事を強行した。〔後掲こたえのない学校〕

人二智能徳能体能アリ,薫陶涵養此三能ヲシテ均シク上達ヲ得セシム,是ヲ教育ノ本旨トス(中略)蓋シ近来民情軽薄浮躁二走リ,或ハ空論以テ政治ヲ紊リ或ハ暗想ヲ以テ商業ヲ害スル等ーニシテ足ラズ(後略)
〔後掲廣嶋:学政片言 原注14)大久保利謙監修「新修森有礼全集」第2巻,文泉堂,1998 pp.141-142〕

 今頃になって文科省が姦しく指導要領に書き始めたスペンサーの教育論「知徳体」※は,福澤諭吉が「学問のすすめ」(すゝめ,1872年)で国内に紹介した,と書かれることが多い。──でも実際の福澤論には,「智徳」は九回繰り返されてますけれど,「知徳体」は記されてません(参照→福沢諭吉 学問のすすめ:原文)。

※ハーバート・スペンサー『教育論』(1861年)など。知育・徳育・体育の3育を教育の基本原理として示した。

 少なくとも知徳体のバランスのとれた発展を初めて主張したのは,この初代文相のようです。
 ただ,もう少し政策として整理された次のような記述からは,現代の指導要領で扱われるような知徳体の「体」=体育という漢字からの連想より,「気質」「気力」という感覚で森は書いてるらしい。しかもそれは知徳体の三者の中で最重要,最終目的という書き方です。

生徒ノ気質ヲ鍛錬シテ正確ナラシメ以テ学業ヲ適用スルニ足ラシムルコト
〔後掲窪田:原注7)森有礼「学政要領要」(成案)大久保利謙編『森有礼全集』第一巻所収、p.356〕

※「気質」の重視は法令にも入っている。例えば師範学校令(明治19年4月10日勅令第13号)第一条は「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備へシムルコトニ注目スヘキモノトス」(師範学校は教員となるべき者を養成する所とする。ただし生徒に順良・信愛・威重の気質を備えさせることに注目すべき者とする。)。〔後掲文科省〕

学ヲカメ智ヲ研キー国ノ文明ヲ進ムル者此ノ気カナリ生産二労動シテ冨源ノ開発スル者此ノ気カナリ凢ソ万般ノ障碍ヲ芟除シテ国運ノ進歩ヲ迅速ナラシムル者総テ皆此ノ気力〔後掲窪田:原注8)教学局『教育に関する勅語澳発五十年記念資料展覧図録』所収、「閣議案」原文写真、同書p.42〜43 『森有礼全集』第一巻p. 344〜346〕

 二つ目は「閣議案」ですから──つまり国運を迅速ならしむるのは気力である,という教育論が閣議を通過した訳です。旧日本軍的な精神論にも聞こえますけど,長い武士の世が終わったばかりのこの時代,なかんずく薩摩の郷中教育とハリスのコロニーを体験した森の言葉と解すれば──これは薩摩で言う「肝」を鍛えるというニュアンスでしょう。 
 森はアメリカ駐在少弁務使(1872(明治5)年赴任)時代からスペンサーの研究を初めたらしい※。米国からの帰国の途上,イギリスに寄って本人と議論。1880(明治13)年に英国公使としてロンドンへ赴任した期間は,スペンサーが出入りしたアシニアーム・クラブで毎夜ビリヤードに興じつつ,さらに討議を重ねたという。

※後掲長谷川,木村匡「森有礼伝」1899 p62

 この辺りになると生半可に論じ辛いけれど──森の郷中での教育の原体験は,ハリス・コロニーで近代に受肉され,スペンサーの理論の衣を纏って,伊藤に認められる教育論に結集していったと考えることができます。

もうーつの関心事は、日本国民を近代国家の市民に再生させるための新しい社会倫理鯛でした。後年になって、森は知的なレベルにおいて、スペンサーの功利主義的な倫理観を完全に受け取っていたらしいのです。文部省が一八八八年に発行した『倫理書』の中で、森は彼自己流の概念、すなわち「自他並立」を説明して、それも英語で“The Cooperation of Self and Other”と訳しています。これは直接にスペンサーの概念を借りたもので、すなわちスペンサーが倫理の基本にしたe“Egoism and Altruism” (利己主義と利他主義)とのバランスを取り入れたものでした。〔後掲アイヴァン・ホール〕

 日本独自の教育カリキュラムとして修学旅行がありますけど,これは森の強い関わりにより東京師範学校で1886(明治19)年に始まった長途遠足に由来すると言われます。これが「行軍旅行」となり,当初は軍装で防御陣地法などの教練を含んでいたものが,翌1887年頃から軍事色より近代観光的な工場・寺院見学等の要素が強まった一方,兵式体操が分化する形でカリキュラム化されます〔後掲曽山〕。1888(明治21)年の「尋常師範学校設備準則」には「修学旅行ハ定期ノ仕業中ニ於テ1ヶ年60日以内トシ可成生徒常食以外ノ費用ヲ要セサルノ方法ニ依リテ之ヲ施行スヘシ」とあります。──坂の上の雲に描かれる秋山真之・正岡子規らの神田→鎌倉無銭旅行というのも,おそらく当時最も新しい自己鍛錬法だったのでしょう。

CH.J. エルメリンスと大阪の医学生たち(部分3:1875年頃)〔後掲長崎大学図書館〕

ハリスの教えの中心にあったピューリタン的な性欲の節制主義は森にとっては大変有意義なものでしたし、また若き侍の森にとっては、あの新生団におけるつらい肉体労働と規律の厳しい団体生活と忠夷と藍毎の教えは、全部たいへん親しみやすいものだったことは、よく想像できると思います。ハリスの影響は、おそらく森の身体教育への熱意、兵式体操政策や各師範学校における厳しい生活様式、また森が日本国民に期待していた献身的な教育者や従順な生徒たちや勤勉な市民たちの理想像までにも、その尾を引いていたのではないでしょうか。ハリスはまた、偶然にも森の国家主義やナショナリズムにも影響したかもしれません──ハリスが、日本の西洋に対しての防衛の必要性を説いたために──〔後掲アイヴァン・ホール〕

気力を慥かにし一国の富強を致す

育の国策性,というのは今でこそ疎んじられるどころか否定されてるけれど,明治時代というものがそもそも攘夷思想の具現化として成った以上,この時代の学問はそもそも……坂の上の雲で秋山好古から真之への言葉で言えば「一国独立」目的以外のものではありません。あえて「学問のすすめ」から別の箇所を採ります。

貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力を慥(たしか)にして、まず一身の独立を謀はかり、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。〔福澤諭吉「学問のすすめ」〕

CH.J. エルメリンスと大阪の医学生たち(部分2:1875年頃)〔後掲長崎大学図書館〕
 ここまで森の教育論に限定してきましたけど,スペンサーと森の間では相当に明治日本の「一国独立」戦略が語られていた形跡があります。次のものは,スペンサーが大日本帝国憲法を批判したものです。

森氏が彼の日本憲法草案を私に示した時、私が彼に極めて保守主義的な忠告を与え、従来専制的支配に馴れてきた日本人が直ちに立憲政治をなし得ることは不可能だと申しましたことは、あなたにお話ししましたし、恐らく覚えておいででしょう。私の忠告は、十分に留意されなかったようです。私が最近の日本に関する情報から集めた限り、あなた方は、自由と大盤振舞いしたことから生じる害悪を経験しておられるようです(15)。〔後掲山下〕※原注(15)山下重一「フェノロサの東京大学教授時代」『国学院法学』第一二巻第四号昭和50年 ー五四頁

 この分野に至ると,ハリスの影響を読み取ることは到底出来ません。森も目的論たる国家建設に際しては,現代人の目から見ると国家主義者,しかもかなり保守的(少なくとも漸進的)なそれ以外の何者でもない。

日本憲法及び之に付属する法律にして日本の歴史及び習慣と同一の精神及び性質を有するにあらざれば、其の憲法及び付属の法律を実施するに当り、将来非常の困難を生じ、終に憲法政治の目的を達すること能はざるに至らん。此の事につき、余は曾て在英日本公使森有礼氏に意見を陳述し、日本憲法を制定するには漸進保守の主義に甚き、其の国の歴史習慣を基礎とし、傍ら欧米各国の憲法主義を採用して、日本旧来の政体をして欧米の立憲主義に適応せしむるを必要とす。決して旧体を破壊して新制を創設するが如きことなからんことを希望す。何となれば、物質界に於て外国の草木を腐し来て之を自国に植付くるも外国と同一の果実を結ぶこと能はざるは植物学の原理なり。憲法も亦此の植物の原理と同一のものにして、憲法は欧米諸国各々其の歴史習慣等より成立せるものなれば、決して外国の憲法を反訳して直ちに之を執行し外国と同一の結果を生ぜしめんと欲するは誤解の甚だしきものなればなりと述べ置きたり。然るに今貴下より聞く所に依れば、日本の憲法は日本古来の歴史習慣を本とし、漸進保守の主義を以て起草せられたりと。然らば則ち此の憲法は余の尤も賛成する所なり。〔後掲山下〕※金子堅太郎。原注(24)山下重一「資料・明治初期におけるスペンサーの受容」『国学院法学』第一二巻第一号・昭和四九年 九〇-九二頁

 だから森において,教育は手法であり,ハリスのコロニーでの修身生活もそのための素材習得,いわば近代日本の下部構造の検討だったとも考えられます。
 先述のとおり森の実兄・横山安武は,陽明学を学んだ後,1870年8月23日(明治3年7月27日)に明治新政府を批判して諫死します。28歳。おそらく森有礼の米赴任中です。定説では津藩の裏門前での切腹〔wiki/横山安武,同注釈1〕。

CH.J. エルメリンスと大阪の医学生たち(部分1:1875年頃)〔後掲長崎大学図書館〕
 当時世評に上ったと言われるし,西郷隆盛の語が贈られているけれど,この年に安武に何があったのか実は定かではありません。──大迫貞清のほか,中島健彦と安田安彦の連名宛,高島鞆之助と田中周蔵の連名宛,親元宛、島津真之助(島津忠済)宛の計5通の遺書が残り,ここからは征韓論やアイヌ弾圧など帝国主義的政策に反対したと見られています。ただ,その後の「忠臣」との戦前評価,対して「侵略戦争への抗議」との現代評価が入り乱れ,何が直接の諌死の引き金だったのか分からない。
横山安武「征韓論ヲ駮スル(書)」前半部〔後掲国立国会図書館/維新奏議集 下〕※同じ永井徳鄰・編で「今代名臣献替録 下」という史料にも掲載

近代日本を創造せしめた焦燥の時代

かるのは,当時の初発期の明治日本を背負わなければならなかった薩摩藩士は,「一国独立」に割と当たり前に命を賭していたということです。兄は帝国主義化に抗し,弟は帝国主義的教育を創造したとすれば対極的立場に見えますけど,この気分だけは兄弟が共有しており,多分薩摩藩士が共振していたものでしょう。
 西欧近代と遭遇した森が当時語っている次のような言葉を聞くと,ロンドンからハリスのコロニー入りし近代を超越しようとした森ら薩摩藩士の姿と,森が近代日本教育を創造した焦燥感がダブルイメージになってくるように思うのです。

CH.J. エルメリンスと大阪の医学生たち(1875年頃)〔Old Japanese Photographs in Bakumatsu-Meiji Period\長崎大学図書館〕

常備軍について、また軍備競争によりヨーロッパ大陸が軍の野営のような状態へとなっていることに対して東洋人がどのような印象を持っているかについて、お尋ねになられましたが、実を言いますと、そのような光景は私にとりまして、今日、「競争」の名のもとに止むことなく続いている商業上の戦争ほどの印象を与えはしません。軍事的な競争においては平和な時期もあります。休戦や各種の条約もあり、国家が軍備競争を控える期間もあります。しかし、商業上の競争が終わることはあり得ません。世界の貿易と産業を独占しようとする国家問の競争は止むことのない過酷なものです。私はそのことに対して不平を言うつもりも、そのことを非難するつもりもありません。民族の進歩は自然淘汰の過程による最適者生存と弱者の排除によるものであることを私は学びました。そして商業上の競争は、より優れた有機体がより劣った有機体を征服する一形態です。その競争において日本がこれまでよりも卓越した位置を占めることを私は望みます。最近になってやっと私たちは封建制度から自らを解放しましたが、この封達制度は商業上の活動の発展にとって有利なものではありませんでした。…..製造工業に関しましては、我が国は鉄と石炭の原産地から遠く離れているために、不利な状況にありますが、可能な限り困難を克服しなくてはなりません。より小規模な工業においては大きな進展がなされてきておりますし、今後もさらに大きな進歩がなされるであろうと私は確信しております(35)。
〔後掲長谷川 森が英国公使の任を終えて帰国する際に「ポール・モール・ガゼット』(Paul Mall Gazette)紙に掲載されたインタヴュー記事。原注35)徳富蘇峰「森有礼君」(「森有礼全集」、宣文堂書店、1972(昭和47)年、第1巻、220頁、原文は英文)〕


 以上,本稿で触れてきた雑多な論点は,明治初期の手探りの制度構想の空気を模索したものです。それは,ある意味で司馬史観の訂正提言でもあります。
 登っていく坂の上に雲が無い,それどころか登っていく坂がまだ見つからない。そういう時代が,日清日露の一つ前にありました。そこでの群像は,狂気と狂気の狭間を何とか泳ぎ切ろうと遮二無二もがいた痕跡を残しています。