FASE85-4-2@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#九月の今帰仁がざらついてきた\ 【作業仮説】今帰仁へ上るJ-2

書で実証される怕尼芝・珉・攀安知の北山三王による18回の朝貢記録は、以前、既に列挙してみました。

北山王統の王達には、正式な記録がほとんど残されていません。彼らのことが伝えらるのは、口伝であったり、琉球王府が編纂した歌謡集である『おもろさうし(おもろそうし)』に限られています。〔後掲(再掲)さらっと日本史〕

 北山三王の姿は、けれどこれら18記事を総合しても、何ら見えてはきませんでした。「神輿」説に立ち、かつ中山以上に北山では「神輿」度がより高かったとすれば、これら「進貢」は単なる演出であってほとんど本質には関係ないのではないか──という反省の元に記しているのが本稿です。なおかつ、中山・第二尚氏のブレインたる久米三十六姓のエリートたちは、史書(明実録)の北山記事を完璧に頭に入れてそれに整合する「沖縄統一物語」を創作してるわけですから、史書の実証によるアプローチでは「本質」には近づけない道理です。
 そこで……蛇の道は蛇。なるべく大胆な仮説として、当方も「物語」を創作してみてるわけです。

今帰仁のJ

1422年)北山王国ぐだぐだ滅亡

❛15C初 ジルーの見た光景❜

 伊是名島のジルーは「火吹きの目から天道拝む」※激越なる海商。諸喜田の産ですけどこの頃手入れの厳しい今帰仁城下を離れ、海路を自由に採れる海上を拠点としていました。
 海に弱い元朝下の海域で興隆した大陸交易を、明朝新興に乗じ進貢の体に再拡大しようとする沖縄本島各勢力の動きを見据えた結果、やはり農業民からの徴税力に裏打ちされた王国らしい王国が要ると見ました。その上で、大陸から見て「琉球王」らしい神輿としては、南の佐敷から先年首里の高地を制したばかりの尚思紹・巴志の親子が適合すると見、この点で首里王権に近い久米の中国人海商と認識を一にします。
 そこでジルーは得意の「商談」へ。曰く「首里中山王に『山北』(今帰仁・羽地)を攻めさせ『琉球統一』王に仕立てて明帝に朝貢しないか?」。久米の豪商どもは嘲笑います。「今帰仁の城は難攻不落。佐敷から25里(10km)の首里にようやく登れたあの王に陥とせと?」
 ジルーの脇にいた老人が、その時唐語で喋り始めると、しかし久米の表情は真顔に転じ、最後にはジルーの「投資」話に応じたのでした。
 永楽4(1406)年から十年も首里に止まっていた二代・尚巴志王が、突如「山北征服」の号令を発しました(1416年)。
本部大原(平原とも)〔後掲伊江村 2015〕
 さて、ジルーが分厚い永楽通宝を積んだ本部大原(ていはら)もまた、羽地王の重臣ながら、本部湊からの交易を『中山琉球統一王』の神輿で興隆する旨味を感じた一人。首里軍到来を聞き、早くも今帰仁城内で挙兵。首尾よく王を弑したはよいが、数年を経て大宜見に逃げた王子の反攻を受け三日天下で負死※…と既に内から崩れた今帰仁城へ、永楽20(1422)年、ようやく首里軍が近づきます。まず今帰仁勢力の本貫地・羽地に駐屯。もちろん無血です。
 うち首里兵精鋭千人を、ジルーの率いる伊是名島海民一統の船団が羽地内海から諸喜田へ輸送上陸。夜半、諸喜田で兵団を迎えたジルーの連れた老人・ジーツィンは、これを「今帰仁のJ」へ誘導します。志慶真川谷底から大隅の洞窟路へ千人隊が侵入してから、今帰仁城に炎が上がるまで一刻ほど。難攻不落の今帰仁城は朝を待たずに滅びました。
 ほぼ最後に今帰仁城に登ってきた尚巴志・琉球統一王※は、齢五十、相は一見豪傑ながら時に怯え顔を垣間見せます。これを城正門で迎えたジルーとジーツィンは、ニヤニヤと会釈を浮かべます。頭の中で、もう既に算盤を弾きつつ。

※ 火吹きの目から天道拝む : 読み方)ひーふちぬみーから、てぃんとううがむん 解説)(訳)火吹き竹の小さな穴から天空を仰ぐ 自分の小さな目線から、大きな事柄を推測するという事の例え 似たような日本のことわざ)針の穴から天井を見る 〔後掲あじまぁ沖縄方言辞典〕
※ 明初の沖縄での流通貨幣は、永楽通宝に切り替わっていたかどうかは不確かで、通説ではもう少し先とする見方が強いが、ここでは流通を促進した倭寇等に近い琉球海商が「先駆的」に使用したものと想定した。「永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国明代の第3代皇帝永楽帝の永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。(略)
永楽通宝従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗・破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭であったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭・鐚銭の流通が中心であった[7]とされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見されそれらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから窺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い。〔wiki/永楽通宝〕」
  原注7) 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年
※ 本部大原が羽地王を討つも、その子・若按司に逆襲されるストーリーは、「組踊 本部大主」〔後掲池村〕の通り。「琉球統一戦争」色を強める必要上、正史では、山北王を討ったのは首里軍であるというストーリーに書き換えられたものと想像されます。
※ 正史上は、1416年山北(北山)滅亡。この時点では南山王国がまだ存続し、1429年他魯毎の治世の時に中山が滅ぼしたことになっているが、最強勢力・今帰仁の崩壊をもって、本稿では事実上の琉球統一と見た。

北山王統の王達には、正式な記録がほとんど残されていません。彼らのことが伝えらるのは、口伝であったり、琉球王府が編纂した歌謡集である『おもろさうし(おもろそうし)』に限られています。攀安知に関しては、琉球王府の正史である『球陽』や『中山世鑑』に見られますが、その内容は中山王である尚巴志が北山を攻め滅ぼした一場面に限られています。〔後掲(再掲)さらっと日本史〕

ち、中国進貢だけできればいい第二尚氏王権のエリート官僚たちにとって、北山王又は王権とは、尚巴志の武勇の引き立て役でしかありません。
 そうでありさえすれば、北山がいつ滅んだかなどどうでも良い、という「不誠実さ」が見え見えなのです。

1416年 (通説)北山王国滅亡       史料根拠:蔡温本『中山世譜』
(一説には1422(永楽20)年=北山監守設置年 史料根拠:蔡鐸本『中山世譜』、『中山世鑑』 永楽20(1422)年3月13日~17日)
 和田久徳 : 蔡温は『明実録』の北山王の朝貢が永楽13年(1415年)4月を最後に止まっているため、
       北山侵攻を永楽14年としたのだろうが、北山は三山の中で最も朝貢回数が少なく、
       永楽13年の前は10年近く前の永楽3年(1405年)12月なので最後の朝貢の直後に北山王国が滅亡したとは言い切れない。
        蔡温が若くして清に渡ったことで染み付いた「国があれば朝貢をするはず」という中華帝国的思想から来ている。                             〔wiki/尚巴志の北山侵攻を引用者が整理〕

って──「尚巴志の北山侵攻」(wiki項目名)の本質は、軍事行動はもちろん、政治史上の統合過程にすらないのだと思うのです。
 本質は経済です。つまり、民間の海商グループ間の経済戦争です。
 軍事行動を重視しない、あるいは軍事制圧がなかったのではと疑うのは──例えば下記の史料(中山世鑑)を純粋に解釈すれば、北山の「大半」は自主的に帰順してます。征服戦争はなかったか、あっても天下分け目の…ではなく形だけのもの(ex.戊辰戦争)だったとしか解釈できません。なお、球陽(遺老説伝)等「正史」の語る侵攻戦の経緯は下記(資料)遺老説伝:「尚巴志の北山侵攻」段(漢文))のとおりですけど、これすら、性格的に第二尚氏代になってからの創作であることはほぼ確実なのです。
 刺激的な言い方をしてみます。尚巴志北山侵攻は●●●●●●●●、大阪夏の陣ではなくて、応仁の乱だった●●●●●●●──とイメージを再配置してみて頂きたいのです。

共徳澤、枯骨禽獣ニ及ケレバ、中山・山北ノ二山モ、半ハ皆、山南王ニゾ、歸シタリケル。依テ始テ、兵ヲ發シテ、浦添ヨリゾ征シ給。
(和訳)その仁愛に満ちた恵みは、朽ち果てた骨、鳥や獣までにもあまねく浸透し、中山と北山の大半も山南王に帰順したため、いよいよ挙兵して浦添に進攻された。〔『中山世鑑』←諸見友重 2011 『訳注中山世鑑』 榕樹書林←後掲南城市/資料編〕

尚巴志 第三話「尚巴志 vs 北山王」〔後掲ryupot(りゅぽっと)〕

第一尚氏代という戦国時代▼▲

山滅亡」を本格進貢交易のための●●●●●●●●●●琉球産軍複合体再構築●●●●●●●●●●と捉え直した時、政治・軍事史的にはともかく、海商から見ると要するに「みやきせん●●●●●交易圏の後継者である首里王権●●●●●●●●●●●●●●、という琉球史の連続性に初めて立脚することができます。──蔡温を代表する第二尚氏のエリートが物語る、源為朝-舜天-英祖-天孫のファンタジー的連続性とは異なる、貝の道から連なる海民経済圏としての連続性です。

第1表 沖縄におけるグスク・集落遺跡の出土陶磁器等の傾向と画期(表頭:国内・中国以外 表側:Ⅴ期(15C前半・半ば)以降)〔後掲瀬戸 18枚目、p72〕※引用者が一部を抽出加工 ※ピンク囲い∶今帰仁・首里両城

図は、琉球出土陶磁器を縦∶遺跡×横∶産地のクロスに落としたものの一部です。中世のこの時期(14-15C)に新発売のシャム(現・タイ)陶磁器は、今帰仁城と首里城からのみ出土します。

 なお、よりメジャーな東南アジア陶器であるベトナム陶器は、両城と仲間村跡(南風原町津嘉山古山)からのみです。ただし、東南アジア交易は第二尚氏代には廃れてます。
 つまり、今帰仁=北山三王と首里=第一尚氏は、経営思想が相似してます。
 三時代を定義し直してみます。
 戦国∶グスク時代→統一∶第一尚氏→継承∶第二尚氏 という捉えが、第二尚氏(のエリート群)が自己正当化のために用意したフレームです。けれど、経済史的に捉えるなら、第一尚氏代63年間(1406(永楽4)-1469(成化5)年)こそが経済戦争期です。つまり、自由経済∶グスク(みやきせん)時代→対立∶第一尚氏→(明)ブロック経済∶第二尚氏 という段階を経て、琉球交易経済は明清ブロックに取り込まれたのです。
 明(清)側から見てみます。前期倭寇と同質の自由交易集団=「みやきせん」海民を懐柔しようと、最初は北山三王に、次には第一尚氏に進貢を許してやったのに、どちらも平気で東南アジアと直接交易する。朝貢国=属国の分際を弁えさせろ、と久米の福建系顧問団に激が飛んだでしょう。「どうにもならないのなら、ちゃんと進貢国を演じる王にすげ替えろ」とまで具体の指示があったかどうかはともかくとして。
 これを横∶経済戦争のサイド別と、縦∶時間軸のクロスに落としてみますと──

   [みやきせん  [中国朝貢
    自由交易派]  ブロック派]
   ※東南ア含む  ※明清にのみ
    多元的志向   一元隷属
13C ●諸志・志慶真代
14C    ●北山三王時代
15C初       ●第一尚氏
15C末          第二尚氏●

巴志の三山統一」を演出した経済勢力には、自由交易派(前期創作内のジルー)と中国ブロック派(久米)が含まれ、共同で中山を盛り立てた(統一成功の物語を創作した)のでしょう。ところが、「統一」後に両派の内紛が始まった。そのきっかけは、中国ブロック派に対する明朝経済官僚からの「裏切り」行動の追及だったでしょう。明(清)から見た裏切りとは、本来の朝貢モデルでは自由意志を持って交易しないはずの東南アジア諸国や琉球が、そこから「逸脱」した直接交易を行ったことです。北山三王や尚巴志ら、自由交易派からすれば予定され、かつ期待されたその行動が、明清や久米から見ると言語道断な「海賊行為」又は「密貿易」だったのです。「尚巴志の北山侵攻」で中国ブロック属国としての琉球王国が成立した、と久米派遣団からは報告されたのに、第一尚氏が半ば北山の「自由交易性」を継ぎ、滅ぼしたはずの前期倭寇≒「北山王国のゾンビ」として蘇ってしまった。
 換言すれば、第二尚氏の成立とは、中国ブロック派の勝利、又は琉球の属国化という目的の完遂を意味します。その捉えで、つまり経済戦争の文脈で言えば、北山王国は1416年に滅びなかった。みやきせん自由交易圏は、1469年に第二尚氏によって滅ぼされたのです。



分、両派の拮抗は事実上は薩摩侵攻(1609)まで続いたものと思われます。島津家はさすがに、薩摩本国で行なったのと同様(ex.坊津崩れ)、自由交易派を完全統制しました。もちろん日中両属状態での「中国朝貢」は「仮面」で、島津家そのものが密貿易者であり海賊性を持っていたわけですけど……とにかく交易を自家の下に完全統制したのは間違いありません。
 しかし、中国の禅譲(天からの使命を帯びた王統の継続性)観念で続いている「中山」の概念上は、第二尚氏はいかに「落第朝貢国」でも第一の後を継承する必要がありました。だから、第二尚氏代に「尚巴志の北山侵攻」で自由交易派は滅びたのだ、という正史を創作する必要があったのです。
 島津家を「海賊」と見るなら1609年以降、自由交易派は滅びたどころか、王国中枢を制圧されてたんだけれど──もっとも、この状況を逆手に取って「お前ら薩摩かいぞくが制圧してると清にバレたら進貢出来なくなるからね」と島津家を抑制するクレバーさは維持し続けた訳ですけど。

2018年に公開された国宝・千代金丸

間奏曲(中山外伝) 三十六姓にダメ出しされた第一王朝

千代金丸(ちよがねまる)は、16世紀に作られたとされる日本刀(太刀)である。日本の国宝に指定されており、沖縄県那覇市にある那覇市歴史博物館所蔵[注釈 1]。琉球国王尚家に伝来した三振りの宝剣の一つ[1]。文化財指定名称は、「金装宝剣拵 刀身無銘(号 千代金丸)」。
概要
伝来は「千代金丸宝刀ノ由来」によれば、尚巴志により攻め滅ぼされた北山王攀安知[2]の所持した宝刀で、城を守りきれなかったことに怒って、守護の霊石を切りつけ、更にこの刀で自害しようとしたが、主の命を守る霊力が込められた刀であり、死にきれず、重間(志慶間)川に投げ捨ててから命を絶った。これを伊平屋の住人が拾い上げて中山王に献上したという。
尚家当主尚裕より平成7年(1995年)、平成8年(1996年)に同家伝承文化財が沖縄県那覇市に寄贈され、平成14年(2002年)に三振りとも「琉球王家尚家伝来品」の一つとして重要文化財に指定された。更に平成18年(2006年)、歴史文書類を加えて「琉球国王尚家関係資料」として国宝に指定された。後述の伝承があるが、刀身は三振りとも本土製の日本刀である。国宝としての指定は前述の通り、尚家に伝承された文化財全ての価値を総合したものであり、単体での評価ではない。(略)
それぞれの名称の入れ違いについての問題
千代金丸の鍔には「てかね丸」の文字が刻まれている。『おもろさうし』にも宝刀「てがねまる(手金丸)」の歌があり、「筑紫だら(つくしぢゃら)」は手金丸の別名と原注されている。「だら」は「太郎」の琉球方言訛りであり、転じて「大切なもの」を意味する。〔wiki/千代金丸〕

※原注 注釈1^ 本作の国宝指定は、歴史文書類も加わった「琉球国王尚家関係資料」の一つとしての指定であり、本作単体での文化財指定ではない。
注1^ 上間 篤 編『千代金丸の来歴を探る』 14巻、名桜大学〈名桜大学紀要〉、2008年

々引用しておいて恐縮ですけど……ようするにこの刀、日本刀です。日本刀としては大したことはありませんけど、「尚家に伝承された文化財全ての価値を総合」した霊力セジ高い文化財なのです。まあ天皇家に伝わるのと同じですよね。
 それよりも、第一尚氏の東南アジア交易──明帝国からは許され難い「密貿易」の実態を追っておきましょう。この作業は、歴代宝案に明記されてますから問題ありません。

琉球王国の『歴代宝案』は全270巻に及ぶ世界屈指の外交文書集である。1425年から1570年までに、海上交易を行った東南アジアの国や地域との交換文書が収められている。交換文書の数からみて、主な交易先は15世紀前半はシャム・バレンバン・ジャワ、15世紀後半はシャム・マラッカ、16世紀前半はシャム・パタニ、16世紀後半はシャムのみであった。それを琉球船の派遣回数をみると、暹羅(シャム)58回、満刺加(マラッカ)20回、仏太泥(パタニ)11回、爪哇(ジャワ)6回、旧港(バレンバン)4回、蘇門答刺(スマトラ)3回、巡達(スンダ)2回、安南(ベトナム)1回、単純合計105回となっている(高良前同、p.94)。それら以外を含めた派遣船の隻数はすてみた通りである。また、この引用回数とは、異なる集計もある。
 古琉球史(1609年薩摩侵入までの歴史)において、14世紀後半から16世紀半ばまでの150年間を「大交易時代」とする。琉球の交易船の派遣数が最多となった暹羅(シャム)との交易は、『歴代宝案』記載期間通り、1425年にはじまり1570年に終わる。そのはじまりは尚巴志の三山統一直前で、永楽帝による第6次鄭和遠征後に当たり、その終わりは海禁が1567(隆慶元)年に緩和されて数年後、ビルマ軍が侵入して暹羅(シャム)を属国とした翌年、そしてポルトガル船が長崎に初めて来航した3年後に当たる。
 それに次ぐ回数のある満刺加(マラッカ)とは、1463年という明が海外への積極性を失った中期にはじまり、ポルトガルがマラッカを占領した1511年に終わる。この満刺加(マラッカ)を代替するかのように、仏太泥(パタニ)には1490年から1543年にかけて派遣されている。なお、1510年代、ポルトガルのマラッカ占領以後は、暹羅(シャム)と仏太泥(パタニ)にほぼ限られる状況となる。
 すでにみたように、琉球は貢期を制限されたものの明への朝貢を続けるが、東南アジアからの中継交易品の入手が次第に困難となってしまう。〔後掲SHINOHARA/続2・3・2 15-16世紀 朝貢と密貿易、琉球の世界〕

交易時代が琉球になぜ訪れたのかは、世界史上のその問いと同様、定説はありません。けれど本稿では、シンプルに仮定しました。交易は、各回の取引が新起業のようなものです。だから一定規模の「資本金」が必要です。それは、安定収入を確保できる農業を基盤とした統治機構からしか生み出せない。それは、喜界島からの農業移植が、複雑な沖縄本島の土壌での適地選定・農法調整など試行錯誤を経て根付いた13-14Cのグスク時代に初めて可能になったのではないでしょうか。

❛15C(外伝) プラの見た光景❜

 アユタヤの男児プラは、港町の商人に育てられました。語学に才あり、外国の船人から異国語を綿のように吸い、見る間に数か国語を習得。齢22で意を決しマレー半島を南下したのは、アユタヤ軍がまだ隣国アンコールとスコタイの間で苦闘している最中でした。 
「黄金の国(スヴァルナプーミ)」マラッカにプラが入ったのは、当時東南アジア随一のこの港市国家に、その頃、新興・明朝が企てた鄭和遠征艦隊が繰り返し入港すると聞いたからでした。アユタヤの育ての親たちから、プラは、東方から来た「じーつぃん」なる名も知らぬ東海中の国の人とシャム人の女との間にもうけた子と聞いています。そのこともあってか、四度目の遠征帰路にあった鄭和艦隊からの通事(通訳)採用に応じたのですが…マラッカの人には多国語を話す者は多くありました。当面は、西のベンガルから運んでいると聞く麒麟の世話を兼任させらましたけど…ともかくついに北の、明国人の言う「東海」へ出発したのです。
 マラッカを発った艦隊は百隻を数えましたが、悪しくもプラの乗船は舵を損傷したらしく、チャンパの国のヴィジャヤに漂着。さらに何が支障となったのか…それきり数か月の停泊。
沈度「瑞応麒麟図」〔wiki/鄭和〕
※原キャプション「 On 20 September 1414, Bengali envoys presented a tribute giraffe in the name of King Saif Al-Din Hamzah Shah of Bengal (r. 141012) to the Yongle Emperor of Ming China (r. 140224). The Yongle Emperor commissioned Shen Du to paint this giraffe. This file depicts the original painting by Shen Du.」→[Google翻訳]1414年9月20日、ベンガルの使節団は、ベンガルのサイフ・アル=ディン・ハムザ・シャー王(在位141012)の名で、明の永楽帝(在位140224)にキリンの貢物を贈った。永楽帝は沈度にこのキリンを描かせた。このファイルは沈度による原画を描写している。
 ある朝、霧のヴィジャヤ港に北の海から船が入りました。顔かたちが似ているとかでプラが呼ばれ、習い終えたばかりのチャンパ語で折衝役に立ちますと--先年統一国家になったばかりという「りゅうきゅう」という島から、シャムに向かう使節であるとのこと。帰路便にも加わる契約で、プラは琉球一行に同行することになったのでしたが。
 琉球船がヴィジャヤを出航しようとした丁度その時、あれほど待った明の迎えの船が到着しました。ところが明艦は、琉球船に漢語で威嚇し、事実上拿捕したのでした。琉球側の通訳に立ったプラに明艦司令曰く「明朝に進貢する琉球が、独断で暹羅と国交する意図を問う」。
 琉球船首脳は頭をひねって弁解しましたが、鄭和大艦隊の支隊たる明艦の要求は誠に強硬。プラは「海を囲む国ぐにの事情は難解なことだ」と頭を悩ませながらも、「それなら琉球から鄭和艦隊に援軍しては?」と提言してみました。琉球船首脳は奇想天外なアイデアに顔を見合わせましたが…尚巴志王が当初口にしていた大言壮語「鄭和に合流して大遠征に参加する」論を思い出した者がありました。怯えを含みつつ明艦に回答すると、明司令は失笑しつつも断る理由を思いつけなかった様子。プラは鄭和艦隊となった琉球船で故国へ、さらに、本人は知らないままに父祖の島国への船路に着くことになったのでした。

※アユタヤ朝(シャム)がアンコール朝(カンボジア)の首都アンコールを占領、壊滅させたのは1431年。さらに1438年には北方のスコータイ朝を併合し、安定王朝となる。
※ 山田長政の史料記述として、1629年ごろの氏名がオークヤー・セーナピモックであったことが確認される(オランダのアユタヤ商館長、エレミヤス・ファン・フリート著「シャム革命史話」)。「セーナピモック」とは「戦の神」を意味する[27][28]欽錫名と言われるが、別にラーチャブリー親王が編纂した『コットマイ・ラブリー』という法制史の文献に、日本人義勇軍の隊長名としてプラ・セーナピモックが登場する〔wiki/山田長政〕ので、この名から流用しました。 [26][28]原注:小和田哲男『山田長政 知られざる実像』講談社、1987年 [27]山田長政顕彰会 編『山田長政資料集成』山田長政顕彰会、1974年
※ シャム帝国は、13世紀のラームカームヘン王によるスコータイ王国設立により創始されたとされ、少なくともシャムのアイデンティティと文化的伝統を形成する基盤となります(最初のタイ文字形成)。これが、14世紀により強力なアユタヤ王国に継承され、首都アユタヤは15世紀から16世紀にかけ貿易と外交の中心になっており(帝国の黄金時代はナライ王(1656-1688)治世とされる)、本物語の舞台たるシャムの首都はアユタヤと設定しました。
※ マラッカとシャムとの関係は、「マラッカ王国は周辺の海洋民族を従えていったが、そのころ有力であったタイのアユタヤ朝には服従」〔世界史の窓/マラッカ王国/マラッカ〕したとされるが、「マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進を阻んだ」〔永積昭『世界の歴史 第13巻 アジアの多島海』(第1刷)講談社、1977年←wiki/鄭和〕と解する論者もあり、本稿でも一応、双方の通商関係は途絶していたものとした。
※「鄭和の南海遠征」:永楽帝の命令により1405~1430年の計7回(最終回時は宣徳帝)行われた大遠征。鄭和を指揮官とし2万数千人の乗組員を有す大艦隊だった。ルート上で最も明への朝貢に熱心だったのがマラッカだったというのが通説。第4次航海(1413年-1415年)の図として「瑞応麒麟図」が残り、ベンガルから進貢されたキリンが描かれている。
※ 東シナ海の呼称は、現在も各国の政治的意図で問題視されているが、古称としては中国で用いられた「東海」しかない。ネット上では「鯨海」のヒットもあるが、メジャーだったとは認められない。なお、東シナ海に東面しない日本や朝鮮でこの海をどう呼んだのか、調べきれなかった。単に「海」だったのかもしれない。
※ チャンパ:南ベトナムに、2~19Cに渡り存続したとされる国。中国では唐代まで林邑、宋代以降は占城と呼んだ。首都はウリク Ulik(192-1000)、ヴィジャヤ Vijaya(1000-1471)、ビュフ・バン・バッティヌン Byuh Bal Battinang (1433-1485)、バン・チャナン Bal Canar(1485-1832)と記される。
※ 第一尚氏2代尚巴志が、シャムへ使者を派遣したのは1419年と記録されるが、明船に「二股」を咎められ出航を妨害、または引き返しを強要された、さらには鄭和艦隊に合流した、それを尚巴志が構想していた、という記録はいずれも、ない(本稿創作)。

15C琉球-東南アジア航路▼▲

 次の記述は、SHINOHARAさんという方がメモ的に綴ったものでした。まあワシのこのプログも一種の公開メモだし、ここでの論点には非常に近いので、形式に関わらず転載させて頂き、論を進めます。

疑問(5/23)
大交易時代と称されているが、それは第一尚氏の尚巴志、尚忠、尚徳が目指したもので、金丸の謀反により 志半ばで阻止されてしまった、のだろうか?
金丸と久米村にとっては、冊封下での明との朝貢貿易の促進が最重要であり、それ以外の交易先の拡大などは関心は薄かった、と思える。
 大交易時代と云われる内容を拾いだした。(出典:琉球王国交流史・デジタルアーカイブ →「歴史年表」)
2代 尚巴志 在位1422~1439
          18年【23】)
・1419年 シャムへ使者を派遣 その後、毎年のように18回派遣。
・1428年 パレンバンへ使者を派遣。  3回使者を派遣
・1430年 ジャワへ使者を派遣。  2回使者を派遣
3代 尚忠 在位1440~1444
       5年【4】)
・1440年 ジャワへ使者を派遣  毎年のように4回派遣
4代 尚思達 在位1445~1449
        5年 使者派遣無し
5代 尚金福 在位1450~1453
        4年 使者派遣無し
6代 尚泰久 在位1454~1460
        7年 使者派遣無し
 ・金丸が貿易長官として王を補佐した時代。
7代 尚徳 在位1461~1469
         9年【11】)
・1463年 マラッカへ使者を派遣 5回
・1463年 スマトラへ使者を派遣 3回
・1464年 シャムへ使者を派遣 3回
 (【】は引用者算出の小計)

 ※その後、第2尚氏時代に新たに交易開始したのは、3代尚真の時代にパタニ、スンダへの使者派遣。
 ①これを見ると、東南アジアとの交易拡大の基礎を築いたのは第1尚氏であったことが明白だ。
  ・シャム、パレンバン、ジャワ、マラッカ、スマトラとの交易を行っている。
 ②6代尚泰久を補佐していた貿易長官・金丸は、交易拡大には背を向けている。久米村との関係を優先してることが見てとれる。
 ③4代、5代、6代と東南アジア諸国への使者派遣は無かったのが、7代の尚徳王でまた、マラッカ、スマトラ、シャムへと活発に再開された。
  久米村と、久米村と組んだ金丸にとって、これは早いうちに阻止しなければ、と危機感を抱いたのだろう。
〔後掲SHINOHARA/「琉球国王のルーツをさぐる」(2)〕

(交易回数)から考えて、6代・尚徳は、実質初代の英雄・尚巴志の真似をした途端に王座を追われ、一族もろとも葬られた、と見るのが自然な成り行きです。
 琉球-東南アジア交易は朝貢関係てはないので、国王主催の交易がない期間にも民間ベースの交流はあったでしょう。尚巴志後も抑えようがなく継続されていたものを、尚徳王が20年ぶりに国王主催で公式実施、これに同調した自由交易の再興機運が、自由vs保護貿易両サイドの対立が極度に高まったのでしょう。

文献によると、この時期に琉球が東南アジアで交易していたのは暹羅(タイ)・旧港(パレンバン)・爪哇(ジャワ)・満刺加(マラッカ)・蘇門答刺(スマトラ)・安南(ベトナム)・巡達(スンダ)・仏大尼(パタニ)の8ヶ国で、全てが中国と朝貢関係を結んでいます。いわば琉球は身内同士で貿易を行っていたのですが、その理由は進貢貿易に必要な南方物産の胡椒と蘇木を入手するためでした。当時の中国では高級香辛料であった胡椒と、漢方薬の材料であった蘇木の需要が高く、琉球は東南アジアでこれらを大量に購入し、中国へ輸出していたのです。琉球が進貢貿易に備えて南海を往来した結果が、東南アジア陶磁器の増加に繋がったといえます。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター 6枚目、p4〕

「琉球は東南アジアでこれらを大量に購入し、中国へ輸出していた」ということは、要するに中間マージンを取ったわけです。それは、明朝サイドの逆鱗に触れても当然でしょう。属国(朝貢国)「一年生」のフリをして、実は先代の「倭寇」同様に利ザヤを稼ごうとしたのですから。

14-16Cの琉球の交易路(東南アジアのみ)〔後掲沖縄県埋文〕

文献にみる東南アジア派船年代一覧表(真栄平 2004 を改変)〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター 6枚目、p4〕

※原注 真栄平2004 : 真栄平房昭「清代中国における海賊問題と琉球ー東アジア海域史研究の一視点ー」『東洋史研究』第63巻第3号、2004年 と推定

り流布されない尚巴志像なので、少し戸惑われる方もおられたらすみません。次のものは地元・南城市のHP文書ですけど、それでも、よく注意すると、尚巴志の「外交的な多元性」、久米サイドに言わせれば「節操のないアピールぶり」は定評があるのです。

・尚巴志の鋭い先見性は海外交易においても大きく発揮された。彼は東南アジアとの貿易を隆盛させた。シャム国との活発な交易から始まり、スマトラのパレンバン、ジャワとの通行も行なった。この南方貿易の展開により、進貢貿易をはじめとする海外交易は活気をおびていく。(略)
・尚巴志の時代の交易を通して、三線や紅型や泡盛といったものがアジア各地から伝わり、後の豊かな琉球文化の原型となっていく。(略)
・懐機(かいき)という久米村の明人を参謀として登用し、内政、外交の担当として重用した。また、朝鮮との通交の際には対馬の倭寇の早田六郎次郎の船に使者を便乗させた。このように尚巴志は積極的に外国人を登用するなど常に国際的な視点を持ち、そのことで次々と的確な政策を打ち出すことができたのであろう。(『琉球王国 人物列伝』参照)
・15世紀に李朝朝鮮と日本の外交に活躍した李芸(りげい)という人物がいる。李芸は、倭寇に捕らわれて売られた朝鮮人を連れ戻すため、尚巴志が北山を滅ぼした1416年に琉球にもきており、44人を連れ帰った。尚巴志がこれに協力したと考えられている。尚巴志はこのように人情に厚く、当時の国際政治をよく理解し、多忙な中でも何を行うべきかを決断できた人物であった。
・三山統一前から室町幕府4代将軍・足利義持、三山統一後には6代将軍・足利義教と書簡を交わすなど、尚巴志と父思紹は日本とも通じ、琉球の統一王であることをアピールしていた。〔南城市/第3章 尚巴志とは誰か? pdf2-3枚目、p33-34〕

 朝鮮使節・李芸が「尚巴志が北山を滅ぼした1416年に琉球にもきており、44人を連れ帰った」という話は興味深い。「44人」の朝鮮人が今帰仁城に拉致されていた、少なくとも友好的でない扱いを受けていて、尚巴志は「人質奪還」側として朝鮮系海民と連携した可能性があるからです。李芸さんは、データは少ないけれど、クレバーな実力官僚だった模様で、尚巴志側の外交家で彼らと生々しいインテリジェンスをやり取りした形跡が感じられるのです。
 次のものはやや冒険的な推論に戻ります。──2022年、沖縄南部・玉城富里「神座原古墓群」の78体の人骨のミトコンドリアDNA分析を行った結果、西ヨーロッパ・中央アジアに由来する男性人骨と分かった(時代∶琉球王朝前期(1400~1600年代))件で、この来訪者をマラッカ人と推定しての想像です。

彼は何故、(殺害された尚徳王の遺族と共に)南部に逃げたか? 
<私はこう考える。>
・金丸の謀反は、開明派(第一尚氏)と保守派(金丸尚氏)の抗争だった、と。
 第一尚氏は、沖縄島の倭寇の棟梁であり、交易を求めて渡琉してきた気風も残っており、国際的な交易の拡大に積極的だった。
・尚巴志は、東南アジアとの交流(1419年暹羅(せんら、シャム:現在のタイ)、1428年パレンバン(現在のインドネシア))を開始した。
・その後、万国津梁の鐘を造り、尚徳王は奄美を支配し北方交易を拡大し、マラッカ王国に使者を派遣して南方交易を始めた(1463年)。
 若い国王尚徳は、祖父・尚巴志に倣って 更なる交易の拡大を志向していたのだろう。
 第二尚氏の祖・金丸は農民の出身であり、事務官僚として出世を遂げ、久米村と密接な関係にあった。
 久米村の商人は、中国との朝貢貿易が主体で、王国の交易網が華僑ネットワーク外に拡大することは、利益が脅かされることで反対だった。
(奄美、)マラッカ、更にマラッカの西方などへの交易拡大は、ライバルの新出現となり、これは阻止せねばならなかった。
(西ヨーロッパ・中央アジア由来の)マラッカ人は、久米村の中国商人とは対立した ライバルとなる立場に居た。
従って、金丸クーデターに際して、王の顧問として身の危険を感じ、第一尚氏と行動を共にしたものと推察する。
もう一体の朝鮮半島系の人物も同じだろう。第一尚氏は、交易の為に外国人顧問を重用する開けた王政だったようだ。
〔後掲SHINOHARA/「琉球国王のルーツをさぐる」(2)〕

 前記のプラの物語は、この想像に負けない気で創作したものです。
 ただ、ここで議論を精緻にするため、及び今後の議論で重要なフレームになる可能性から、「今帰仁」「ビロースク」タイプ白磁という概念に寄り道させてください。

今帰仁タイプ及びビロースクタイプ白磁碗

来、明朝への進貢前の時代における琉球の貿易陶磁はヤマト本土に輸送されたものが、二次的に流れてきたものとするのが通説でした。つまり、朝貢以前の私貿易は「もしかしたらあったかもしれないが」という傍流と考えられていました。

亀井は、薩南諸島から奄美諸島における貿易陶磁器を集成する中で、「14世紀中葉以前、厳密には後述するように13世紀代以前には、(薩摩以上に)膨大な量の陶磁器を検出できる遺跡は上述したように沖縄諸島に確認できない」ことから、この頃までの琉球列島における中国陶磁器は九州本土から薩摩を経由する交易船の往来によってもたらされたと述べている(亀井1993、30頁、括弧内筆者)。亀井は従来の説に修正を加えながら琉球列島における14世紀以前の中国陶磁器需要の背景に九州との関係を重視したが、「14世紀前半代には沖縄各地の有力領主の中に中国との交易により、陶磁器を入手している蓋然性はある」として、朝貢貿易の以前の私貿易の存在を想定している。〔後掲新里 3-4枚目、p145-6〕

※原注 亀井 1993:「南西諸島における貿易陶磁器の流通経路」『上智アジア学』11 11-45頁 上智大学アジア文化研究所

ころが、千年紀を跨ぐ頃になってようやく、同時代のヤマトにあり得ない陶磁器が●●●●●●●●●●●●●琉球から出土する●●●●●●●●ことが指摘されるようになります。胎土分析など陶磁器の科学的分析技術の発展によるものでしょう。

 個別資料の観察によってそれらの特徴が明確になってくると、奄美諸島・沖縄諸島・先島諸島からは日本列島では稀な陶磁器が出土することが次第に明らかになってきた。金武が調査を行った石垣島ビロースク遺跡では、厚手で内湾する器形の白磁器がまとまって検出され、その特異性からビロースクタイプ白磁碗(金武1983(ママ))、今帰仁城跡で多く発見された薄手の浅碗は今帰仁タイプ白磁碗と命名された(金武2007)。これらの白磁碗は13世紀末から14世紀代に位置付けられ、中国福建省の閩江流域に窯元がある可能性が想定されている(田中・森本2004、本報告第3章)。〔後掲新里 4枚目、p146〕

※原注 金武 1988(本文1983は誤記と思われる):「ビロースクタイプ白磁碗について」『貿易陶磁研究』8 148-158頁 日本貿易陶磁研究会
 金武 2007:「今帰仁タイプ白磁碗」『南島考古』No.26 沖縄考古学会
 田中・森本 2004:「沖縄出土の貿易陶磁の問題点-中国粗製白磁とベトナム初期貿易陶磁-」『グスク文化を考える』353-370頁

まり田中・森本2004によって、福建南部の窯元までが特定され、今帰仁・ビロースクタイプは決定的に他と判別され、かつそれが福建閩江から今帰仁▼▲▼▲

表1~3〔宮城・新里2010〕

1609年薩摩侵攻

兼次(はにし)村の東に位置し、北は諸喜田(すくじや)村。志慶真はシゲマともよんだ。集落はかつて今帰仁(なきじん)グスクの一角をなす志慶真門(シジマジョー)郭の南方一帯にあったと伝える。慶長一四年(一六〇九)の薩摩島津氏の琉球侵攻で同グスクが焼打ちにあった後、時期ははっきりしないが親泊(いえーどうまい)村の兼久(はにく)へ移動、次いで親泊村と兼次村の間の地(現在志慶真原ともいう)へ移り、さらに諸喜田村の西隣にあたる現在地へ移動した。当村が今帰仁グスクの近くから離れ、城下へ移動した理由については、今帰仁(なちじん)村の場合と同様、場所が良くないとされたからで(向姓具志川家家譜)、そのほかのことははっきりしない。〔日本歴史地名大系 「志慶真村」←コトバンク/志慶真村(読み)しじまむら〕

1838年冊封使林鴻年琉球訪問

・『間切内法』に次のような条文を見つけたので紹介。
字紙取扱方入念候様ニトノ義厳重被仰渡置赴有之焚字炉仕等仕立方被付至テ大切成事候間平常無用ノ字紙ハ不散様取集焚字炉へ焼納灰相疊リ候ハゝ海中ヘ可相流候若シ方々ヘ取散シ簾抹ノ仕形有之候ハゝ番毎捌吏科銭五貫文宛文子ハ勤星五日削除候事
(現代語訳)字の書かれた紙の扱いは入念にするようにとのこと。厳重に言い渡しておく。焚字炉を作ることも大切なことである。日ごろ無用の字の書いた紙は散らかさないように、取り集め焚字炉で焼却し、灰が沢山になったら海へ流す。若し方々に散らかしていたならば、捌吏(間切役人)は五貫文づつ科銭し、文子(ティクグ)は勤星を五日分削減する。
・今帰仁村諸志にある焚字炉は石燈籠とも呼ばれている(形が燈籠に似ていることから)。その石燈籠を番する役目をする家があったようでトゥルバンヤー(燈籠番屋)の屋号の家が近くにある。〔後掲寡黙庵/2005年9月調査メモ/2005.09.30(金)〕

成文化された各間切内法の集成集。一八八五年、沖縄県は琉球王府時代に執行されていた農民の自治的規範である内法・村約束などを届出るように命じ、以降間切・島・村ごとに現行内法を各条項に成文化し届出された。旧大蔵省所蔵本と山城善三氏所蔵本があり、後者が「沖縄県史」一四に収録されている。〔日本歴史地名大系 「沖縄県旧慣間切内法」←コトバンク/沖縄県旧慣間切内法(読み)おきなわけんきゆうかんまぎりないほう〕

〉〉〉〉〉参考資料 

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※国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ URL:https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2096
※※原注「安里[2010・2011ab]をベースにして大幅な加筆を加えたものである。」
あじまぁ沖縄 2025 沖縄方言辞典/ことわざ・慣用表現に関する沖縄方言
URL=https://hougen.ajima.jp/category/language/proverbs/
 /カテゴリ>言葉に関する方言>ことわざ・慣用表現> 火吹きの目から 天道拝む
URL=https://hougen.ajima.jp/e1589
荒川雅志(国立大学法人琉球大学大学院観光科学研究科教授) 国立大学法人琉球大学 ウェルネス研究分野/海洋深層水のエビデンス Evidence for Deep Sea Water ※平成29年度沖縄ハワイ協力推進事業(沖縄県科学技術振興センター))報告書,及び平成29年度沖縄離島活性化推進事業「久米島海洋ウェルネスプログラム開発事業」報告書(受託:琉球大学大学院観光科学研究科ウェルネス研究分野)一部改編まとめ
URL:https://health-tourism.skr.u-ryukyu.ac.jp/deepseawater
(いいね)e燃費/ガソリンスタンド地図検索
URL:https://e-nenpi.com/gs/map_search
(いえむ)沖縄県国頭郡伊江村 2015 > カテゴリ > 分野 > 観光・イベント > 観る > 芸能文化 /組踊 本部大主(北山敵討)
URL=https://www.iejima.org/document/2015022100032/
大阪関帝廟/施設案内
URL:http://www.kanteibyo.org/html/kantei_5.html
岡本弘道 2008「古琉球期の琉球王国における「海船」をめぐる諸相」『東アジア文化交渉研究』第1号 p.221-248
※関西大学学術情報レポジトリ URL=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/12207
沖縄県立埋蔵文化財センター 平24(2012)「平成23年度 重要文化財公開 首里城京の内跡出土品展 東南アジアと琉球」
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沖縄県立博物館・美術館 2023/倭寇について考える③/3.琉球と前期倭寇は関係があったのか URL=https://okimu.jp/museum/column/1692057956/
沖縄てくてく歩記・87歳の雑録帳
/(しげま)「志慶真乙樽の墓と今泊の拝所 (しげまうとぅだるのはかといまどまりのうがんじゅ)・フクギ並木を歩いた。」URL=https://okinawanouganju.seesaa.net/article/201504article_1.html
/(しよし)諸志のパラヤー(しょしのぱらやー)・内地では見かけない「焚字炉」。沖縄の貴重な文化遺産。
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沖縄生麺協同組合 |沖縄そばの歴史 – 地域団体商標(沖縄そば)取得団体
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加藤麻美 2006「女性の名前の変遷から見る本土と沖縄の意識差」p131-146 URL=https://hougen.sakura.ne.jp/hidaka/okinawa/2006/3_16.pdf
寡黙庵/沖縄の地域調査研究/今帰仁間切のヌルドゥンチ
URL=https://yannaki.jp/nakijinnorodonti.html
寡黙庵/【中城ノロが関わる祭祀】(ウチマチと五月ウマチー)(中間まとめ:仲原)
URL=https://yannaki.jp/nakanoro.html
寡黙庵/名護の神アサギ
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寡黙庵/2005年9月調査メモ/2005.09.30(金)
URL=https://www.yannaki.jp/20059memo.html
寡黙庵/2022年7月 URL=https://yannaki.jp/2022nen7gatu.html
グスクへの道標/シイナグスク |
URL:https://gusukumitisirube.jp/about/siinagusuku/02.html
(こうじ)攻城団/知念グスクの写真:焚字炉[しろやまさん]
URL:https://kojodan.jp/castle/343/photo/110537.html
高知県産業振興推進部地産地消・外商課/一般財団法人高知県地産外商公社/PRTIMES/高知県 室戸海洋深層水の飲用効果が明らかに腸内環境を整えることを臨床試験で証明!<高知の海から健康をサポート!> 2020年
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▼▲ た
タウンチェック/沖縄県国頭郡今帰仁村字諸志の人口・世帯
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(たかみ)高宮広土「奇跡の島々の先史学 琉球列島先史・原史時代の島嶼文明」ボーダーインク,2021
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南城市
/資料編「資料1.文献・史料の整理」 ※pdf URL=https://www.city.nanjo.okinawa.jp/userfiles/files/kanko_bunka/375/07.pdf
/「第3章 尚巴志とは誰か?の整理」「3-1.尚巴志の人物像・功績の整理」
※pdf URL=https://www.city.nanjo.okinawa.jp/userfiles/files/kanko_bunka/375/03.pdf
(とらべ)TRAVELERS/中城ノロ殿内は仲尾次にある理由~今帰仁にあるのに「中城」のワケ
URL:https://travelers.co.jp/2018/02/16/post-0-45/
▼▲ な
なきじん議会だより 第153号 平成31(2019)年3月1日
※議会だより URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/somuka/3/5/2/2/516.html
 153号PDF URL:https://www.nakijin.jp/material/files/group/3/153.pdf
(なきじんそん)今帰仁村
/今泊(いまどまり)
 URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/shuraku/810.html
/諸志(しょし)
 URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/shuraku/808.html
/(なきじ)今帰仁村19の集落
URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/shuraku/index.html
/1984「今帰仁村の遺跡」『今帰仁村文化財調査報告書10』
※全国文化財総覧 URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/35732
/2024/今帰仁城跡・志慶真門郭、志慶真門跡、水揚げ場の跡 URL=https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/somuka/3/3/5/442.html
/2024/今帰仁城跡・今帰仁グスク関連遺産・遺品2 URL=https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/somuka/3/3/5/439.html
(なきじ)今帰仁村教育委員会
/1982「史跡 今帰仁城跡 第二次発掘調査概報」『今帰仁村文化財調査報告書 第6集』
PDF URL:https://www.nakijin.jp/material/files/group/39/6-2-1.pdf
/1984「今帰仁村の遺跡 分布調査報告書」『今帰仁村文化財調査報告書 第10号』
PDF URL:https://www.nakijin.jp/material/files/group/39/10-1.pdf
/1991(金武正紀・ほか)「今帰仁城跡発掘調査報告書Ⅱ」今帰仁村文化財調査報告書第14集今帰仁村教育委員会
※今帰仁村教育委員会 文化財調査報告書 URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/kyoiku_iinkai/3/3/565.html
 /第14集-1 PDF URL:https://www.nakijin.jp/material/files/group/39/80188177.pdf
/2005「今帰仁城跡周辺遺跡Ⅱ-今帰仁城跡周辺整備事業に伴う緊急発掘調査報告-」『今帰仁村文化財調査報告書 第20集』
※今帰仁村HP URL=https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/kyoiku_iinkai/3/3/565.html
/第1章第2節 歴史的環境 PDF URL=https://www.nakijin.jp/material/files/group/39/62237037.pdf
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※今帰仁村教育委員会 文化財調査報告書 URL=https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/kyoiku_iinkai/3/3/565.html
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ryupot(りゅぽっと)/尚巴志 第3話「尚巴志 vs 北山王」
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LeeSunHee 이선희 ‘ToJ’ ‘J에게’in1984

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