
目録
今帰仁の19の小字※のうち、西の島※※7の伝承と、今帰仁城の歴史について、これなら一本の糸になるという「ストーリー」を思い付くことができました。通説と懸け離れているので、一応の作業仮説として、議論の出発点にして頂ければと思い提起します。
※※越地(こえち)・謝名(じやな)以東はアガーリンシマー(東の島)、平敷(へしき)以西はイリンシマー(西の島)の通称があり、言葉や風習の点で東西の相違がみられる。〔日本歴史地名大系 「今帰仁村」←コトバンク/今帰仁村(読み)なちじんむら〕
従って西の島は、東から平敷・崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次・今泊となる。
しばらく何してるのか分かりにくいと思いますけど、最終的に「
まず、通説化されている今帰仁城史年表を下記のとおり掲げます。うち、「■」部は以下の各節にリンクしており、即ち目次代わりにしています。
■先史代
((12C 推定∶喜界島→沖縄本島農業植民))
■12C
((13C 推定∶今帰仁・中城集落形成))
■13C
13世紀末築城 今帰仁城の土地に人がすみ着き始める
■13C末
1314 沖縄本島は北山、中山、南山の 3勢力に分かれる。
1322 伯尼芝(はにじ)、中北山を滅ぼし北山王となる。
■1383年
1383 山北王伯尼芝、明国に使者を派遣し交易を行う (6回)
1395 山北王伯尼芝、明国と交易を行う(1回)
1396 山北王伯尼芝、明国と交易を行う (11回)
1400 明実録によると、伯尼芝(はにじ)・瑕(みん)・攀案知(はんあんち)の3代の王統33年間に18回の朝貢がおこなわれた。
1406 首里王統一
{中山侵攻∶尚巴志、中山王武寧を攻撃
察度王統を滅ぼす。
遷都∶首都を浦添から首里に遷す。
中山王即位∶尚巴志の父・尚思紹が
第一尚氏初代王に即位}
1416 攀案知(はんあんち)、尚巴志に滅ぼされる。
■1422年
1422 尚巴志、次男の尚忠を今帰仁監守として派遣する。
1429 南山王が中山に滅ぼされ、三山が統一される。
1440 山北監守尚忠が尚巴志を継いで王に即位する。
1440 尚忠を継ぎ弟の具志頭王子が北山監守説がある。
1469 第一尚王統が滅び、北山第一監守も離散する。
山北監守に大臣を交代で派遣する。
1490 尚真王第三子の紹威を北山監守に派遣する。
■1609年
1609 薩摩軍の琉球侵攻で今帰仁城は焼き討ちにあい、克祉死亡する。その頃、今帰仁村と志慶真村が城下に移動したため、今帰仁城内にいた北山監守(今帰仁按司)も城下へ移リ住む。
1665 北山監守(今帰仁按司)は首里に引き上げる
■1838年
先史代)仏ン当遺跡からの海岸線推定
前章で、小字名・与那嶺の音は、海岸地を指すものであるという説を示しました。
(再掲)方言ではユナミという。「ユナ」「ユーナ」「ヨナ」などはいずれも海岸地を指す言葉であることから,集落もはじめは海岸に形成されたと思われる。沖縄考古編年前Ⅴ期の東長浜原遺跡,前Ⅳ・Ⅴ期の西長浜原遺跡,前Ⅳ期の仏ン当洞穴遺跡,後期の仏ン当貝塚がある。〔角川日本地名大辞典/与那嶺【よなみね】〕
うち、最後期に当たるのが仏ン当ですけど……土地勘がないのでどこだか分かりませんでした。今帰仁村1984の遺跡地図によると、ここ。旧・梯梧荘※(≒現・コテージ・シーウィンド今帰仁)の南西、与那嶺-諸志の境線上。つまりこの地点が、先史代の集落地の一つでした。

ではこの位置を、前章で用いた色別標高図に落としてみます。

名護湾や那覇港に似た、小島の点在する浅海がここにあったことが推定されます。加えて、この旧集落位置は近世以降の集落地に準じたものではないことも推測されています。
(与那嶺)主集落は,腰当の森を後背にしてではなく,海岸台地の南端に形成されている。これは,サトウキビ作の振興を目的として海岸台地が開発されたことに伴って,計画的な集落移転が行われたことによると思われる。(続A)〔角川日本地名大辞典/与那嶺【よなみね】〕

西の島の南北に細長い小字配置は、その区画が後代、行政・政治的に強要されたものであることを暗示します。
ただし、それ以前から続く拝所については別です。前章から参照している寡黙庵さんが、この点は数々の例で実証しています。
西の島の各集落は、採取地の海浜と里山の棲み分けがあっただけで、ほぼ重なり合う生活圏で暮らしてきた人々だったのだと思います。東の島の例では小字区分が変わっても独立している(ex.天底→FASE85-1@\湧川・勢理客神アサギ/ウプユミを祝う天底ノロのこえ)のに対し、西の島のそれが拝所を共有しているように見えるのは「緩い集落連合」としての在り方の違いだと思えるのです。
(続A)拝所のうちムコリガワ嶽御イビは郡ノロの崇べ所,神アシャギは中城ノロの祭祀(由来記)。ムコリガワ嶽御イビは,現在では諸志御嶽(方言でシクーヂャウガミ)と呼ばれる杜の中にある。また神アシャギは,松の大木に囲まれ,与那嶺公民館や集落広場と一体となって,斜面の地形を生かした素晴らしい空間を形成している。〔角川日本地名大辞典/与那嶺【よなみね】〕
この祭祀による緩い集落連合は、「中城」という名で呼ばれていたようです。後に、首里王権がこの「中城」名の使用を禁じたと言われる名称ですけど──やや遠く翻って見ると、この「祭祀連邦」のイメージは邪馬台国にも通ずるものです。
諸志は明治36年に諸喜田と志慶真の二つの村(ムラ)が合併した字(アザ)である、諸志は十八の小字からなり、方言でスクジャと呼ばれている。スクジャは諸喜田村の方言での呼び方である。
スクジャのスクは地形の底を意味する場合もあるが、グスク(城)のスクに通じ、拝所や御獄の意。ジャあるいはジャーは川平(ハンジャ)の潮平(スンジャ)や寒水川(スンジャガー)などのジャと同じで、清らかな水が湧き出る泉のこと。諸喜田(諸志)には御獄があり、清水が湧き出る泉(フプガー)があり、先人たちはそれに因んでムラ名をつけたのであろう。諸志は南に山地があり、台地・御獄・集落・低地・海岸台地、そして海へと続く。
諸志の小字は、集落部分が村屋敷原でムラウチと呼ばれる。ムラウチはさらにアガリンバーリ・イリンバーリ・メーンバーリ・シリンバーリ・ナファンバーリの五つに区分される。集落の北側に北港原・南港原・港上原の港がつく原名やナートゥ・トーシングムイなどの港に因んだ地名があり、ナハガーラを遡上した諸志の港原一帯が港として機能していた時代があったことが伺える。
諸志の御獄にあるフプガーやフキンジュからナハガーラに流れ込む流域はワタンジャーと呼ばれ、渡川原の小字名がついている。かつて、一帯の水田はユピータ(深田)であった。海岸寄りのシンボローには佐田道原・仲切原・佐田安原がある。ナハガーラ沿いに崎原と竹原がある。ナハガーラ沿いの、かつての水田地帯は今では区画整理がなされ畑地となっている。〔後掲今帰仁村歴史文化センター〕
先史代に北遠方から訪れた交易者があったとすれば、彼はこのような光景を見たでしょう。
❛先史代 ジャーの見た光景❜
徳之島のジャーは若輩二十歳ながら風と潮読みに長けます。この度は島の同い年三人の衆と訳もなく気炎を上げ、奄美(大島)赤尾木の湊に赴くことと相成りました。この頃高く買う者の増えたと聞くヤコウ貝を、徳之島出身の商い人からしこたま積み込むや、南に転進、一路久米島を目指し大儲けを目論んだのです。
「この貝を、何でそんなに欲しがる?」ジャーは徒然に、舳先の隣で行く手の夕闇に目を凝らす浅黒い大柄男に絡んできます。男は百済のコン、唐の国から漂着した倭船の臨時雇いの漕ぎ手で、奄美で略奪され囚われていたのをジャーが従者に買った者でした。※斉明5年(659年)第4回遣唐使の一船は百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、原住民に略奪に遭う。
「それだ、俺も久米島で見た」徳之島手々のトゥカーは、嘘か誠か、生まれは久米島と言っていたので、ジャーは同行を許した男でした。「唐船から下される器には、光る粒が埋められている。この貝がそうなるのか?器はヤマトへ、それはもう凄い値で売られて…」
「見ゆ」コンの腕が前を指す。ジャーが応える。「日があるうちに着こう」
左を過ぎていく伊平屋と伊是名の影よりも、遥かに実体感のある山塊が近づいてきました。左遥かにも山影。トゥカーが「前が八重岳、左が与那覇だ」と若手二人に教えています。
「南のあの深い湾ではないのだな?」百済のコンは確認します。確かに、見かけの様相は、左手南、後の運天港や羽地内海の方がよい湊です。
「今回は違う」ジャーは正面、八重岳北を迷わず指しました。
トゥカーが言葉を継ぎます。「久米島、そして唐国はこちらだ。今日着けるのは、その中継港だ」
「奄美の加計呂麻みたいだな」ジャーがつぶやきます。「島と海がぐちゃぐちゃだ。あれほど大きくはないが…さて、今夜はここで眠ろう。明日、風が良ければ久米島だ」
「南の山、良い山だ」戦地を歩いてきた百済のコンが、凝視します。
「八重岳が?」尋ねたトゥカーにコンは
「いや、その手前の険しい峰。東に谷、深い」
「よく見えるな」ジャーは少しゾッとしながら笑みを浮かべます。「志慶真川というらしい。あの崖の西上に砦を築けば、唐も百済も落とせない、と中城の者が噂している」
「中城って?」トゥカーが問うと、ジャーは身を横たえながら「中城は、この湊一円の集落をまとめて言う。南の森を御嶽にして拝む者たちだそうだ。明日朝には、水をもらいに行かねば」

12C)喜界→今帰仁南征
さて、本稿で想定する「みやきせん」海人圏は西九州から沖縄本島北部までの広大な海です。この海に、大陸から伝わった農業をやっと吸収し終えた古代ヤマトから、島嶼の規模と岩質でも可能な小規模・多角的農業経営へ変形を重ねながら、米麦作がゆっくり伝わっていきます。

上記で言うと最も南の円が「狭義の」みやきせん海域です。その北端の喜界島で、琉球島弧型農業経営が完成されます。かつ、それに基づくグスク型の政体・貿易企業体の可能性が、城久で形成されます。ただしそれは、喜界島では小規模過ぎ、奄美大島では土壌が違うので、展開できなかった。だから喜界城久人は、(狭義)みやきせん海域の北端から南端へ「南征」を試みます。
南端目的地とは沖縄本島です。「展開」とは「城久セット」、つまり喜界島台地上で完成させた農法・政体・貿易経済の、本島各地への「移植実験」です。

──現代の知見を持って振り返ると、そのための土壌は、島尻マージ(隆起サンゴ礁石灰岩質・弱アルカリ性)の本島中南部、即ち三山時代の中山・南山領域に当たります。
でも当時の喜界島発南征「軍」には、敵地の判定材料と言えば土の色くらいではなかったでしょうか?恐らくは気の毒なことに……沖縄本島のあちこちに稲を植えては飢え、という試行錯誤の果てに、漸く、北から来ると最も遠い南側に島尻マージの農業好地を見つけたと想像されます。
言い換えるとそれ以前、まず喜界島植民団が上陸した「農業できそうな土地」は、本部半島の付け根の羽地、あるいは北端の平地・今帰仁だったと考えるのが自然です。──その根拠はないのですけど、「喜界島システム」が最も大きく開花するのが沖縄本島中南部である、という正解には、当時の海民のコモンセンスからはそう簡単にたどり着けなかった、と思えるのです。それほど、

高宮・千田(2014)は、奄美・沖縄諸島で、まさに農耕のはじまった時期の遺跡から検出された植物検体を分析する機会に恵まれました。これらの遺跡から出土したイネ、オオムギ、コムギおよびアワの年代測定をした結果、奄美諸島では8世紀から12世紀に、沖縄諸島では10世紀から12世紀に農耕がはじまったことが明らかになりました(高宮・千田2014)。奄美・沖縄諸島における農耕のはじまりが、ある程度ピンポイントで理解できたのです。〔後掲高宮2021〕
城久遺跡群第Ⅱ期に,遺物構成における琉球化だけでなく,農耕技術,交易システム,ヒトの形質,さらには階層社会関係などを含めた広い意味での「グスク文化の原型」が成立したのではないかと考えたい。 一方,Ⅰ期~Ⅱ期におけるグスク時代的な冬作システム麦作の成立によって,グスク時代に琉球列島の石灰岩の島々で展開した遺跡の激増=人口増大という現象がまずは喜界島で発生し,これが人口圧となっていたのではないかと思われる。そして,11世紀における城久遺跡群の転換を契機に,農耕民と支配層の移住が,琉球列島の石灰岩の島々を中心に始まっていったのではないかと推定できる。
こうした「グスク文化の原型」を背負った城久遺跡群からの移住者たちが,琉球列島の島々で南島人と混血しながら文化的にも融合していくことで,琉球列島のグスク時代人やグスク文化の地域性(多様性)が成立したのではないかと想定したい。〔後掲安里,26-27枚目pp416-417〕
換言すれば、沖縄本島の農業とこれに基づく政経構造は、琉球島弧で開発されたものが伝わったとしか考えられない。中国大陸やヤマトの農業を移植できるほど、沖縄本島はモノカルチャー的に豊かな台地ではないからです。
かつ、12C当時に八重山-沖縄本島間を往来できる船舶を、両島は有してなかった。だから農業は北から伝播したとしか考えられません。それは「みやきせん」海域から移植されたはずです。
❛12C ジラーの見た光景❜
「先の薩摩阿多の乱※にては一敗地に塗れたが、まだ我らが海には、ほれ、あのように」と顎をしゃくる先には黄色くくすんだ岩くれ。「ユワウ(硫黄)の山がある。これを買うてくれる宋国のある限り…」 ※『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条に、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ島」に逃亡したという。
タダカゲがヤマト薩摩のどこの馬の骨かは知らねども、今は機が良かった。喜界島城久の統領は多数の船頭を欲しており、タダカゲは統領に取り入って何とかこの船を任された、とジラーらは聞いておりました。統領はそれほど愚かではありませんが、この度の琉球の大嶋への南征船団は百艘を下らぬ、奄美の群島始まって以来の大船団。すぐ前で汗を流すヤマトからの逃げてきたタロウが、覚えたての琉球言葉で「鶏ぬ糞にん取所あん」※と皮肉ったのに、ジラーも頷いたのでした。 ※トゥイヌクスニン チュティンドゥクローアン:鶏の糞にも一つの取所はある。
ただし、南に近づく琉球の大嶋・本部半島の、船団の多くは左手・地峡部に進むのに対し、タダカゲの指揮するジラーたちの船は右手、半島北縁へ向かいます。地峡部には広い平地があり、タロウらが喜界・城久でようよう実りを得るまでにした稲と麦は、そこでなら育つと信じる者が多くありました。タダカゲが仮に率いる船団が近づく北の半島の岬、後代に「みやきせん」(今帰仁)と呼ばれる地域は、けれども目に映る限りでも上下にうねる丘地です。
「へえ。土地は平らでもカジフチ(台風)吹けば鉄砲水がありそうです」ジラーは一応、追従しておきます。
「でも統領、この西は少し高い土地に見えますぜ」タロウが目を凝らして言うと、タダカゲは機嫌を損ねたような顔を見せつつ、実際は自信を失ったものか
「そう思うな、湊にするならここだろう」と船団に着岸を指示しました。
南の丘が少し低い、後の具志堅の湊に入りますと、水脈を読めるタロウが南側の少し小高い土地を勧めました。先遣隊が進んでみると、こんこんと水の湧く泉。感極まったタダカゲが「何という大川(フプガー)じゃ!」※と役者っぽく叫んだほどでした。 ※現・具志堅のフブガー GM. URL=https://maps.app.goo.gl/HS6FaUCSf48QPKrF7
こうして喜界島南征支隊が天下った古具志堅は、後の今泊まで東へ1.5km。中城、後の諸志まで3km。タダカゲに断って、タロウが「支隊の支隊」として移ったその土地が、結果的には支隊の入植地中で稲と麦の最も根付いた土地となりました。現在、諸志の海岸に残る赤墓は、この入植者たちの墓石ですけれど、もうそれを伝える人はいません。

上記は農林省による現代の水田面積分布マップ(eMAFF農地ナビ)で、12Cのそれではもちろんありませんけど──8百年後の適地度合いを示す傍証ではありえるでしょう。
なお、本部の古集落・具志堅とここに由来する赤墓、さらに伊是名島と第二尚氏初代・尚円との関係性は次の通り非常に複雑です。
赤墓は諸志の散策道を通り佐田浜にある。所以は墓の前面にある赤い漆喰が塗られている。あるいは墓室に赤い石棺があることに因んでいるという。尚円王の弟の上間大親(上間家の先祖)を葬った拝領墓といわれている。1500年代に尚真王が行幸したときに荒波にもまれているのを上間の親子が助けたことで具志堅村と土地を賜った。その頃は今の本部町も今帰仁間切の内であった。赤墓は本部町具志堅の上間屋(ウイマヤー)の先祖を葬った墓とされる。赤墓の向きは上間大親の故郷である伊是名島に向けて造られている。〔「諸志の散策道と赤墓」案内板←後掲盛幸タクシーグループ〕
従って、上記以上に何かの裏がある可能性はありますけど──ここでは今帰仁城へのJから少しソレるので、具志堅のデータを拾うだけにして次へ進みます。
なお、物語中で元の居住地に比定したのは下記のプルグシチン(古具志堅)ですけど、距離的には大川(フプカー)よりさらに南、富盛グスク(→GM.)の付近かとも思えるけれど、分からないので当面、単純に大川付近としました。
方言ではグシチンという。「おもろさうし」には「くしけん」と見える。沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島北部に位置し,東シナ海に面する。天孫氏25代が滅亡したとき,同系の今帰仁(なきじん)城城主も追撃に遭い,難を避けて具志堅に逃れたと伝える。その場所は,現在の具志堅集落形成前の通称プルグシチン(古具志堅)である(具志堅誌)。古具志堅は現集落の南方約500m,標高約60mの南面した山麓に位置した。古具志堅から移った具志堅村,尚円王ゆかりの上間村,西方丘陵地から移った真部村の3か村の合併によって形成された現集落西部の地域をプシマ(大島)といっている。その後形成された地域をミージマ(新島),さらに新しく形成された地域をサガヤ(佐賀屋)と呼んでいる。いずれも大島の北東に位置する。〔角川日本地名大辞典/具志堅
【ぐしけん】〕
さて、ここから今帰仁西の島の陸上史に移ります。その前に、土地勘のない我々ナイチャーのための参考として、寡黙庵さんの示す小字の変遷図を掲げておきます。
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なお、今帰仁現行19集落と琉球国由来記(1713年)記載の6人のノロ管轄との対照を、寡黙庵さんは次のようにまとめてますけど──あまりにも複雑だし、明らかに域内にも多様性かある。当面は中城(ノロ管轄地)と5集落の対称のみを押さえておきます。
『琉球国由来記』(1713年)にな(ママ)今帰仁間切(ママ)のノロは今帰仁巫(ノロ)・中城巫・玉城巫・岸本巫・勢理客巫(シマセンコ巫)・郡巫とトモノカネ巫が登場する。その頃の天底巫は本部間切(天底村)であり、まだ今帰仁間切に移動してきていない。そして湧川村の創設は1738年なので、湧川巫はまだ登場しない。当時湧川地内は羽地間切であり、そこに我部ノロが管轄する我部村・松田村・振慶名村・呉我村・(桃原村)があった頃である。当時の巫(ノロ)管轄する村を下に掲げる。その管轄は今に継承されている。
・今帰仁ノロ……今帰仁村・親泊村・志慶真村
・中城ノロ………中城(仲尾次)村・崎山村・与那嶺村・諸喜田村・兼次村
・玉城ノロ………玉城村・謝名村・平敷村・仲宗根村
・岸本ノロ………岸本村・寒水村(明治36年に合併して現玉城)
・勢理客ノロ……勢理客村・上運天村・運天村
・郡(古宇利)ノロ…古宇利村
〔寡黙庵/沖縄の地域調査研究/今帰仁間切のヌルドゥンチ〕
13C)私貿易時代 今帰仁・中城の興隆
「中城」というとどうしても本島中部・中城村を考えてしまうので、ネットでこの今帰仁・中城のデータを探すのは一苦労です。ここは諸志という近代住所名を、厳密な小字の範囲をやや越えた広域名として使っておきますけど、厳密には上記の通り近世の早い段階で「語ってはならないあの地名」になってしまった「中城」と同義です。
混乱しそうになったら上の変遷図にお戻りくたさい。王朝期及び現集落名に対応させれば、崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次の五集落です。
なぜ中城村に屋敷がないのでしょうか。
それは中城ノロを輩出する家は古来より5つのムラそれぞれの祭祀を執り行うノロを輩出するという役割があったためです。
5つのムラとは崎山・仲尾次・与那嶺・諸志・兼次を指します。
そして中城ノロの屋敷は仲尾次にありましたが、この仲尾次は「中城ムラ」と呼ばれていたのです。
そのため住んでいた場所を冠して「中城ノロ殿内」と呼んでいますが1668年に琉球王府によって「中城ムラ」の使用が禁止されました。
中城ムラのかわりに仲尾次ムラの名称が使用されるようになりましたが、中城ノロは名称を変えることなく継承されていきました。
また仲尾次・諸志・上間の集落の境界線は長く曖昧でした。
そのためますます中城ノロ殿内が名称とは異なる地域に存在しているという状況に陥ってしまったようです。
(略)中城ノロ殿内は諸志のパラヤー近くの交差点にある民家です。〔後掲TRAVELERS〕
寡黙庵さんが故・山内さんから伝えられたとする手書きの図を、ここで紹介しておきます。なお、下側は出来るだけ同範囲をとった前掲今帰仁村教委遺跡マップです。


中心部にロータリーのような半円形路が見えます。この南半円に当たるのが諸志御嶽の森です。国道505号で分断される前は、環状の大祭祀場だったでしょう。
諸志御嶽、と現代でこそ呼ばれるこの森は、既に見たように中城ノロの神域です。
寡黙庵さんは、中城ノロが管轄5村の間を動く時の「ヌル道」を記録しています。管内が行政的にこれほど分割される例は少ないから性格が確認しにくいですけど、諸志から東西にこのルートで移動したと伝わるらしい。

ということは、大まかにこのヌル道は当時の五村の中心域と重なるはずです。それは固い地面のラインという意味での海岸線を意味します。同時に当時、実質的に集落(と住む者が感じるエリア)が連なっていたことを示唆してもいます。
つまり、このような形で今帰仁・中城ムラは確かに一つの系を成して存在していたのです。
さて御嶽はどこだろうかと振り返ると、脇に森に続く石段があった。
上ってみると舗装された短い参道の奥に、ひっそりと石の祭壇が設けられ、香炉が三つ載っている。よく整備された拝所だ。先のご主人が言うには、遠方から拝みに来る人がひきもきらないとの由。前述のクバの御嶽のような際立った聖性は感じられないが、大切に守られている場だということはよくわかる。
諸志集落は明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併してできた村で、神ハサギが二つ並んでいるのもこれが理由だ。合併したとはいえ、祭祀はそれぞれの間切で行われているようだ。〔後掲無用ノ介〕
上記の神ハサギの形態は、要するに──宗教的には、諸志は諸喜田と志慶真との「連合王国」だということを意味します。同様に今帰仁・中城とは、五集落の連合信仰圏王国であったことが想像されるのです。
さて、この東西の五村共管道に対し直交する南北の道が、さらに存在したようです。
「由来記」に現在の諸志御嶽に当たる御嶽はないが,中城ノロが祭祀する神アシャギが見え,現在御嶽西側の小山にある神アシャギから北にハーミチ(川道)と呼ばれる神道が延び,シリガー(後泉)の湧水が台地縁から湧き出す所にノロ殿内があった集落は,このノロ殿内から南の御嶽に向かって形成されている御嶽の北に神女の拝するハーヌクァーの古い泉,東に神女が身を清めたヌルグムイの池,西には人々の生活用水であったウフガーの泉がある江港に藻黒江が見える(旧記)〔角川日本地名大辞典(旧地名編)/諸喜田村(近世)〕
水の要素が多いけれど、これは飲水ですから海のクリークではなく地下水系も豊かだったと思われます。
これは本編の訪問時には完全に通り過ぎてますけど、諸志の焚字炉すぐに「パラヤー」という拝所があったそうです。まあ、正規の今帰仁上りで寄る場所で、観光客が寄り付くのは迷惑だと思いますけど……。
「諸志のパラヤー」は焚字炉から、50~60m先の右側にあった。普通の民家なので、なかなか特定できず、行ったり来たりを繰返していたが、ここまで拝所を巡っていると勘のようなものが働いて、民家の庭先に、これだ、と思えるコンクリート造りの建物が目についた。これまた、図々しく他人様の庭先に入り込んでいった。でも、帽子を取って、ちゃんと頭は下げている。
パラヤーとは、旧家の「原屋」のことを指して、こう呼んでいるらしい。神屋はコンクリート造りで、比較的新しく造られた建物のようだ。左側の壁に落成祝として寄付者の芳名を刻んだ扁額が揚げられている。施工主に島袋幸弘の名がみえるが、今は、原屋の分家筋にあたる島袋家が拝所を継ぎ、維持管理されていることが伺われる。(続)〔後掲沖縄てくてく歩記/諸志のパラヤー〕

(続)祭壇には二つの香炉が置かれ、左側にも香炉が二つ並び、一段高くなった後ろに「火ぬ神」のご神体で、綺麗に揃った三個の石が祀られていた。位牌は置かれていないが、第一尚氏、尚巴志の三男、具師頭王子の位牌が祀られていたと云う。初代の北山監守は尚巴志の次男尚忠で、尚忠が第一尚氏三代目の王位(1440年~1444年)に就いた後、北山監守を務めたのが弟の具師頭王子である。ただ、史料に乏しく、初代監守尚忠以降、第二尚氏が監守を務めるようになった1470年までの凡そ30年間の監守は、未だ明確にはなっていないそうだ。〔後掲沖縄てくてく歩記/諸志のパラヤー〕
尚、この第二尚氏と北山監守の親近さはパッと見ても奇妙です。琉球統一戦の敵地の占領軍司令官が、なぜ元首の息子なのでしょう?──という政治的に壮大な問題には別途取り組むといたしまして。

❛13C初 ジャネの見た光景❜
西の海の遥か先の波斯国の異人の裔でありながら、ジャネは先代に霊力を見出されてパラヤー※に仕えることとなったユタで、毎朝の南の御嶽※※への供物を捧げに行くところ。左手、東の崎山は、もう半刻もすれば日照が上る気配を帯びます。 ※旧家「原家」(前掲) ※※現・諸志の御嶽(前掲)
ハーミチは低い丘の間を左右にうねって、御嶽の北へ。まず現れるハームクァーの泉。「ユタ様」と一礼する屈強な御嶽の番人・マレーの出迎えを受けて、ジャネは膝を突いて深い拝ん(うがん)を捧げます。それから東のヌルグムイの泉に回って沐浴。「あぬひゃー!」(彼奴等!) 周囲をくまなく見張るマレーが、かなり遠くからの覗きを見つけたらしく山犬のように駆けました。交易船が増えて異郷からの来訪者を見かける昨今、マレーのような力自慢の引きは数多です。用意された新衣を纏い、ようやく御嶽の丘を登るのを、曲者を無事打ち散らし汗を流すマレーが見送ります。
祝詞の最後の句が唇を出るや、眩暈のような光の帯が伸びました。龍のような光は、しかし音もなく、ぐいと南へ、そしてゆっくりと西へと雄大に湾曲を描いていきました。これほど壮大な幻視はジャネも初めて見ます。「美しい」……たまらず藪の間から南を眺望しますと、虹の蛇は南西、志慶真川上の崖上へと上っていくのでした。
務めを終え帰宅したジャネが、父親から聞いた噂に──近く、交易で得た宝物類を、ムラの長らのみが知る道で崖上に隠すことにしたという。かつての先祖の島(喜界島)では、そうして宝物を海盗どもから守ってきたということでした。

13C末)諸志奥宮としての今帰仁城築城
諸志御嶽の史跡としての評価は、次のようなものになっています。墓地でもイビでもあるけれど、城又は宝物置場の色彩も持つらしい、意外と複雑な場所です。
40 諸志御嶽
諸志御嶽は1972年5月15日に国指定の天然記念物に指定されている。
県道124号線字諸志部落の共同売店西南側約200mの標高約38mの丘陵地である。
御嵩内には岩陰墓が数基あり、墓の周辺より青磁盤、碗などが得られた。また、北側斜面よりグスク系土器が僅かに表採される。
なお、頂部付近での遺物は得られないが、石塁状の石垣が確認される〔今帰仁村 1984、79枚目 p74〕

[21]諸志御嶽
国指定の天然記念物に指定され亜熱帯地万の植物がよく残る。御嶽内には岩陰墓が数基あり、頂部付近では石塁状の石垣が確認される。〔後掲今帰仁村/今帰仁城跡・今帰仁グスク関連遺産・遺品2〕
奇妙です。言い方は悪いけど、中城のクニの中心部としては色々と半端過ぎる。
諸志から西へ500m、同じ中城ノロ管内の兼次集落はどうでしょうか?
39 兼次古島遣跡
兼次中学校の南東側約600mの標高約50m程の石灰岩台地上に立地する中期~グスク時代にかけての遺跡である。
遺跡は兼次部落より台地へ登る道路を造る時点で、すでに破壊を受けている。(略)
なお、遺物は中期~後期の土器、石斧、叩き石類、青磁器、褐粕陶器、鉄津、獣骨、貝殻類が採取される〔今帰仁村 1984、77枚目 p72〕
褐粕陶器について、兼次遺跡のそれは特定に至っていないようてすけど、一般的に12Cのこの陶器と言えば、クメール王国で量産されるようになった褐釉を掛けた器のことです。
諸志以上に、交易品の積載地を感じさせますけど、ここは海から遠い内陸地です。また、現集落以前から内陸地に住み続けた人々をコアにした集落のようです。
親泊(いえーどうまい)村の東に位置し、イリンシマー(西の島)のなかで唯一海岸線をもたない。方音ではハニーシ、あるいはカニシともいう。故地は集落の南側の標高約五〇メートルの石灰岩の台地上にあり、
兼次古島 遺跡とよばれ、貝塚時代中期―後期の土器・石斧・叩石類、また青磁器・褐釉陶器・鉄滓・獣骨・貝殻類などが採取されている。その後集落は下方に移動し、現在の集落を形成する。絵図郷村帳に「兼城村」とみえ、「琉球国由来記」に兼次村とあり、神アシアゲでの祭祀は中城(仲尾次)ノロの管轄。また同書に「兼次之御イベ」とみえ、今帰仁(なちじん)間切の中城巫崇所五ヵ所の一としてあげられる当地の御嶽は古島の西の崖上にある。〔日本歴史地名大系 「兼次村」←コトバンク/兼次村(読み)はにしむら〕
古島の西の崖上とは──それは今帰仁城かその外延城の領域を指すのではないでしょうか?
先ほどパスしましたけど、兼次を絵図郷村帳は「兼城村」と記します。「城を兼ねる村」の「城」をその音から「次」に直した……のでしょうか?
要するに、諸志から今帰仁城の東谷・志慶真川のエリアまで、防衛地又は退避地のような色彩が強い地域があるのです。
該当する時代の該当するリスクと言えば、これはもう前期倭寇(13~14世紀)しか考えられません。
14世紀後半から活発化する倭寇の活動は「前期倭寇」と呼ばれており、この時期に中国大陸沿岸部の治安は悪化の一途を辿っていました。そのような中で琉球王国は明朝へ使節を派遣していていました。治安の悪い海域を往来することは琉球王国にとって大きな課題であったと思われますが、明朝は大型船を琉球へ与えることで、その問題を解消させていきます。
この大型船は福建省の崇武千戸所(写真3)に所属していた軍船であることが岡本弘道氏の研究※によって明らかになっています。さらにこの軍船は最大乗員数366人であることが考えられていることから、当時としては最大級の軍船を琉球王国は明朝から与えられ、使いこなしていったと言うことができます。倭寇にとってこのような大型の軍船を襲撃することはとてもリスクを伴うものと考えられることから、琉球王国の使節を乗せた船は中国大陸沿岸部を航行する際に襲撃に遭わなかったことも想像されます。(略)このように前期倭寇と琉球王国とは直接的な関係を史料上においてほとんど見ることはできませんが、当時における琉球王国の進貢船からその関係を透かして見ることができます。 〔後掲沖縄県立博物館・美術館〕
即ち、グスク時代後期の琉球が倭寇の被害地だったのか、もしくは根拠地だったのか?という点は、大型船による防御をとった点から、被害者だったと沖縄県おきみゅーは主張してます。やや弱いけれど、本当に倭寇の根拠地だったとすれば、そもそも進貢船による大型貿易で海賊排斥という企画自体が成立しなかったでしょう。
では、諸志御嶽や兼次遺跡と同様の色を、そのさらに内陸にある今帰仁城はどのくらい持っているでしょう。換言すれば、世界遺産

※「発掘調査による出上品は大変多く、ここでは外郭Ⅳ地区に限っての遺物出 土品表(注12)から、 13世紀後半~ 15世中頃と時代推定できる出土品だけを抽出した」〔後掲三上〕
注 12)今帰仁城跡発掘調査報告書 5.沖縄県今帰仁村教育委員会 2011年。
白磁・青磁は中国から、褐釉・タイ陶器は東南アジアからと推定される交易品です。三上さんのカウント対象は推定年代13世紀後半~15世中頃、、、即ち概ね北山王国時代。出土場所は一番北入口に近い外郭ですけど、これは監守時代など後代に移された可能性があります。
今帰仁城が「希少交易品の金庫」だった可能性は、あると考えます。本稿では、喜界島の城久も本島中部の首里も、海寇から唯一の財である交易品を守るのを主機能にしたと想定します。
次の点に進みます。今帰仁城の
これは、多分、城を見慣れた人は気が付かれたと思います。現在観光用に歩かされる北の一本道、あれ一本だけが通路、というような防御施設はあり得ないはずです。籠城する権力者というのは本質的に臆病で、最後の逃げ道を必ず求めます。にも関わらず、
尚巴志軍がそこから突入したと語られる、今帰仁城のバックドアは、本当に
今帰仁城の地勢を再確認しますと──
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上図は三上さんのチームによるらしい今帰仁城付近の3DCG復元図です。概ね城の南からの鳥瞰で、中央に諸建物が見えるのが城郭です。つまり、左手前の崖上に突出した高台が志慶真門郭(→GM.)、その直下、右手前に示される深い谷間が志慶真川になります。地理院地図が示す標高によると、今帰仁城直下の川傍が35m。今帰仁城最高所で105m、志慶真門郭付近が90m強ですから、標高差は55〜70m。
喜界島城久から南側崖下、阿伝へ繋ぐ道は標高差200m以上でした。単なる一枚岩の崖ではありませんから、外部を寄せ付けない、という意味では「金庫」入口にはうってつけのルートです。
「志慶真」と言えば観光ガイド的には、「乙樽」姫の物語が必ず出てきて、その墓がある、というお話に導かれます(→GM.)。墓の場所は志慶真川と国道505の交点近くで分かりやすいけど、行ったことはありません。でもこの位置は不思議です。
今泊の集落からバス通りに出て、諸志方面に向かって少し歩き、志慶真川に架かる親泊橋の手前を土手伝いに下って行くと、対岸に古い岩窟墓が見えて来る。イラストマップに記されていた「志慶真乙樽の墓(しげまうとぅだるのはか)」であることは間違いない。標識も無ければ、説明板もないから、これも事前に調べておかないと見過ごしてしまう。「今帰仁城のカラウカー」の項で書いたが、その美貌が国中の噂になり、王の側室として迎えられたと伝承される女性である。側室とはいえ、王家の存続に重要な役割を果たした女性である。何故に今泊集落の外れに葬られているのか、そこんところが分からない。
〔沖縄てくてく歩記/志慶真乙樽の墓と今泊の拝所〕
側室とは言え国王姫が、今帰仁城域を外れて拝まれているというのは、この姫を敬う王統が絶え、にも関わらずこれを敬う庶民の集団があったということです。集団とは志慶真集落でしょう。かつ、それが後の第一尚氏のように秘密の崇拝でなかったのは、上記王統の断絶に関わらず志慶真集落の人々が志慶真川付近を居住域として許された、若しくは志慶真流域に縛り付けられたことを推測させます。
志慶真門郭(しじまじょうあと)の南側に城壁が途中で繋がらず崩れ落ちているところがあります。これが門の跡です。志慶真門郭の南側に志慶真ムラ跡があります。『琉球国由来記』には「本部大原、裏門、志慶真門郭ヲ守護シタル」として登場、かつて城門は木造の供門(きょうもん)がのっていたと推定されます。
この城は標高約100メートル、古期石灰岩(こきせっかいがん)のほぼ独立した丘の上にあります。そのため、城内の生活用水については不便であったとされています。地元の古老によると、志慶真川から急な崖を登って水をかつぎあげたといわれています。実際、志慶真門郭の北東部には水揚げ場跡が残り、石垣は志慶真川に突き出すようにして積まれています。現在では石垣の崩壊も著しく元の形はわかりませんが、今後の調査の成果が期待される地区の一つです。〔後掲今帰仁村/今帰仁城跡・志慶真門郭、志慶真門跡、水揚げ場の跡〕
北側正面があれだけ厳しい石造の今帰仁城の裏門・志慶真門がなぜ木造供門だったのか、どうも不可思議です。いつの時代からそうなのか分かりませんけど、少なくとも今帰仁城が実防御力より威嚇を目的とした時代には、裏門は城域のロジスティックを担ったであろう志慶真集落民の統治に特化した、ということではないでしょうか。いわば旧名家の使用人専用の勝手口のようなものだったのではないでしょうか?
けれども、そうすると「難攻不落の」今帰仁城が実防御力を求められた時代に、志慶真の門及び集落はどんな態様だったのか──という、より大きな問題が浮上します。琉球史最大の城郭(後掲)・今帰仁城がその歴史を通じて威嚇専用だったとは想定し辛いでしょう。
実用時代、志慶真門は北側同様の堅牢な石門だったとしましょう。では、そんな防御の要地点に存在し続けた志慶真集落とは、如何なる機能を負った集団だったのでしょうか?
それを推測させる事象として、上記引用にある「志慶真川から急な崖を登って水をかつぎあげたといわれ」る水揚げ場の跡のほか、地中を通る抜け穴の伝承があります。
一番低い所には「大隅の洞窟」というのがあり、かつては志慶真郭の外の志慶真川沿いの崖の中腹に抜け出ると言われた抜け穴だったらしい。(もちろん今は通り抜けできない。)〔後掲coocan〕
この抜け穴は、実際に通じてるかどうか定かでなく、伝説に過ぎないのかもしれません。水揚げ場ルートの利用者を訝しんで、彼らは地中でも通ってるのでは?という想像を生んだのかもしれません。

❛13C末 ジャナーの見た光景❜
朝が来、志慶真の一行は東の志慶真川の谷を、間道を通って降りていきました。志慶真のムラ(当時)は志慶真川西崖上の高み(のちの今帰仁城域)の南の窪地にありましたが、その間道は七十七曲り※※と呼ばれる志慶真のムラびとしか知らない細道でした。海へ行くにも山へ行くにも使わないこの道で、谷向こうの兼次とその向こうの諸喜田の長からの強い願いで落ち合うことになっていたのです。
各ムラ5人ずつの取り決めでした。志慶真の5人が谷底に近づくと、東岸の同じような暗い道に兼次・諸喜田の各5名の姿が認められました。兼次はともかく、諸喜田の人々は相応の山道※を越えてきたはずです。 ※現・畜産研究センター付近
やや雲が刺した頃、十五人の一同は谷底で出会いました。
諸喜田の長がまず谷の北を指差しました。「洞窟とはあれか?」
「そうだ」ジャナーは、志慶真のグンダリがそう答えるのを聞きました。「我らは大隅の洞窟という。上の高み※まで通じているが、これは本当に志慶真でも2~3人しか知らない。」 ※後の今帰仁城内・志慶真門郭(主廓真南)に通じるとされる。
「…それで良いのか?」志慶真グンダリの、あまりの好条件に涎を垂らしそうな顔を、ジャナーは見上げます。父は欲深でした。
「イーブーさーにタマン釣ゆん」と兼次の長。 ※小さい元手で大きな利益を手に入れる。小さく人気のないイーブー(ハゼ)で高級魚のタマン(ハマフエフキ)を釣るという例え。
「銭しどぅ銭の儲きる」と諸喜田の長。 ※お金を儲けるには、元手がないと儲けられないという例え。
三者の合意を約し、大隅の洞窟口の谷底に、小さな祠が設けられました。志慶真からはジャナー、諸喜田からはジャネという老婆が祈りを捧げました。ジャナーがこっそりジャネの顔を覗くと、なぜ感づいたものかジャネが青い瞳で微かに笑みを返します。美しい眼だな、とジャナーは見惚れていました。

※※ 喜界島の百之台から標高差200mの崖下の阿伝へ下る道。昭和30年代以降、台風での倒木のため通行止めになっているという。本作ではこれを流用しました。 すけさん 2023 Rakutenブログ/百之台地から阿伝集落への抜け道 URL=https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/14984654
(その他参考)・ 続く宮城Ⅴ期が、沖縄でもっとも多くの銭貨が発見されている時期である。Ⅴ期は14世紀後半~16世紀に相当し、沖縄島の按司から山北、中山、山南の王が現れ、15世紀前半に中山が統一して琉球王国となり、16世紀には奄美・先島などへと勢力を拡大する時期に当たる。
宮城はこの時期の事例112遺跡を抽出した。その中から寛永通寳、清朝銭、無紋銭および判読不明を取り除いた3,935枚について、その銭種構成を報告している。それによれば中国の各王朝の銭貨が99%を占め、ほかにベトナム、朝鮮(李朝)、琉球の銭貨が含まれていた。中国銭では北宋銭と明銭が主体となっており、北宋銭が44.9%、明銭が42.8%となっている。〔後掲三宅 3枚目p83〕
・銭の単位は、1,000個で貫・緡または千と呼ぶ。また96個の1文銭を銭通しに通してまとめても100文として通用し、通し100文と呼ぶ(→「短陌」)。さらに通し100文を10個、つまり960文を銭通しに通してまとめても1貫(通し一貫)として通用した。〔wiki/宋銭〕
只そんな状況は──志慶真ムラに一般的に「幸せな」情景をもたらしたとは思えません。
今帰仁城の、IT的に言えばバックドア用のパッチみたいな、城防御組織の隷属民だったのではないでしょうか?──成立過程としては、今帰仁城設置に際し、ムラ側からその機能の提供を申し出、城統治側からムラの存続と引き換えに受け容れられた役割だった、とも想像できます。多分最初は──前記創作通りなら諸喜田と兼次からの受託契約段階では──志慶真乙樽の物語にあるような重臣又は特権階級扱いだったものが、最終的には疎んじられ直属民に転じたのではないでしょうか。初期大和朝廷における秦や隼人の一族のように。
乙樽物語から滲み出るもの
次段階への繋ぎとして、先にも触れた乙樽物語をやや冷酷に読んでみます。
志慶真から出た志慶真乙樽(しげまおとだる、シヂマウトゥダル)の嫁した家は、北山世主今帰仁按司の世主家。この夫君の祖父(伝えによっては父親)・湧川王子が、「中北山系図」によると英祖(英祖王統初代国王)、「古琉球三山由来記集」では今帰仁仲宗根若按司であったとされます。
この世主が薨去した後、乙樽が千代松を産んだけれども、その世継ぎ祝いの日に本部大主の反乱が勃発、乙樽は幼君を抱え泊城(とまりぐすく、とぅまいぐしく、読谷村渡具知)へ逃げ延びます。この際、同じく逃げた丘春の実弟が名護城主名護按司の祖となり、同兄弟が羽地・国頭按司となった。──この辺りの血縁設定は、北山滅亡時に中山に付いた読谷(護佐丸)や大宜味按司側の「祖先の仇討ち」による正当化、と窺えます。この直系がやと伝わります
さて、前記の乱の首謀者・本部大主(もとぶうふす)は本部方面の家臣と思われます。彼が18年後にようやく討たれた後、丘春は今帰仁城主の座に戻るんだけれども、今度は湧川按司二世の子・怕尼芝(はにじ)が反乱、丘春一族は再び離散。この時点が1322年とされます〔wiki/湧川王子〕。
なお、怕尼芝は北山王国初代王。明史書に名を残す北山三王の初めの一人。──この王名・怕尼芝は、唐音でパニジと発音され、それは「羽地」から出たものであろう、とする見方は伊波・東恩納両巨星が指摘する通説です。
不思議なことに、「ハニジ」の呼称又は地名はさらに二度、北山王国中世史に登場します。一つは、怕尼芝の三代目・北山王国最後の王たる攀安知(ハニジ)。もう一人は、その攀安知を滅ばした尚巴志に助勢をしたという羽地(ハネジ)按司〔後掲yannaki〕。
ハニジ。先の創作では、喜界島南征本隊の上陸地と仮定した、羽地内海奥、現在の地理感覚だと名護市街から北へ一山越えた農業地域のことです。
「北山初代の王である怕尼芝と、三代目の王である攀安知は実は、同じ呼び名だったのではないかという説があります。これは、明が両者を区別するために、当て字を用いたのではないかと言われています。この二人の王の本当の呼び名は、「はねじ」であったと考えられているのです。
そして、この「はねじ」と呼ばれる血筋がもう一つ存在しているのです。それは、「羽地」の字が当てられており、この血筋は第二尚氏の分家として存在しています。
これは、偶然の一致だと考えることも出来るでしょう。しかし、第二尚氏の初代の王、尚円が攀安知の息子である虎寿金に、按司としての道を開いたのは事実です。
また、尚円の出身地は沖縄本島北西部にある島、伊是名(いぜな)島出身という事実もあります。北山王の支配地域であった伊是名島出身の王が、元北山王の息子を助けたと言うことは、どのようなことを意味するのでしょうか。そして、その王統に「羽地」という分家が存在しているのは、一体何を意味しているのでしょうか。
北山の支配層であった怕尼芝王統は、攀安知王の死によって途絶えたと考えられています。しかし、第二尚氏の動きを見ていると、もしかすると怕尼芝王統の血は琉球王府の中で生きていたのではないかと考えさせられはしないでしょうか。琉球統一の勝者は、尚巴志だったのでしょうか、それとも、実は攀安知だったのでしょうか。〔さらっと日本史〕」

1383年)短い公交易時代 (羽地三王∶北山王国)
さて、観光的に又は伝承で語られることとは別に、次の文章はドライな考古学サイドの筆です。少し先までを含む文章てすけど、これは最もシンプルに言うと、「北山滅亡」で
この時代山北は沖縄北部地域と奄美大島近隣まで領域として支配していたとされる。
しかし、その山北(攀安知)も本島内で急速に勢力を拡大する中山王尚巴志によって1416年(1422年の和田説もある)に滅ぼされてしまう。中山の山北平定後、城地には中山によって中山王の子弟や重臣を山北監守に任じ、沖縄本島北部やんばる地域を管理している。それは1665年に監守体制が廃止されるまで続く。この間のことを監守時代と呼んでいる(仲原・ほか1993)。この監守時代の間、1609年には薩摩軍によるいわゆる琉球入りがあり、今帰仁城に立ち寄っていることが従軍日記「琉球渡海日々記」に記されている(村上1983・参照)。日記によれば「首里城へ向かう途中、運天港に停泊、親泊での和議が受け入れられず城へ放火した」とあり、実質的な廃城は監守引き揚げよりも早い、1609年頃にあったと考えられる。
さて、この今帰仁城跡の周辺には「シニグンニ」「ミームングスク」「ターラグスク」と呼ばれる石積遺構が存在し、これらはいずれも城跡に関わる施設と考えられている。また同様に城跡の南側の緩斜面には志慶真ムラ跡が、北側緩斜面には今帰仁ムラ跡が立地し、今帰仁城の城下町的な集落として展開していたことが伝承されている。特に今回の調査地域と一体となる北側今帰仁ムラ跡には石囲遺構が確認され、今帰仁城が機能していた頃の時代に相当する遺物が採集されることから、城跡と関わりの深い集落跡の可能性が指摘されている。
〔沖縄県今帰仁村教育委員会 2005/13枚目 p4〕
いつ滅びたかも未だ議論かある。時折言われる極論「中山の北山監守は北山王の改名に過ぎない」というのももっともで、確実に外部勢力に渡ったのは薩摩侵攻時(1609)。
ただ、ならば1609年まで北山が存続した、と想定してしまうと──その後の今帰仁、なかんずく西の島の集落を見舞った「強い力」が説明できません。

今帰仁の集落は、まず自発的とは思えないほど移動してます。特に今帰仁城周辺の集落は、上記のように「追い散らされて」います。普通に考えると、外部勢力が今帰仁城に陣取って、防衛上邪魔な既集落を強制撤去させた……ように見えます。
まとめますと、
本稿ではこの最終形態こそが、羽地・喜界島本流による諸志・分流の再統合だった、と仮想してみたいのです。本質的に諸勢力の烏合の衆だった「みやきせん」海民集団は、交易蓄財とその金庫たる今帰仁城に、その資本力を背景にした羽地「王」が入り、かつ海民一般にも朝貢の「神輿」として王が必要たったことで、最後の一世紀のみ王権化した、と。
羽地から来た北山三王祖
前述の創作通り、今帰仁「城域」が交易品金庫として利用が開始されたとすれば、その機能を更に高く買い取った「北山王国」は、諸喜田など諸志エリアを上回る富を蓄えたクニだったはずです。その財力は交易(投資)の前提として、農業力により蓄積された資本力を背景にした、と考えれば、当時の山原では羽地しか考えにくいでしょう。

羽地の登場は、羽地大川とされる1735年以前から登場する。「おもろさうし」で「まはねち」「まはねぢ」と謡われている。古琉球から近世の過渡期の二枚の辞令書で「はねしまきり」(羽地間切)とあり、『琉球国絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』(1648年)で「はねし」に「羽地」と漢字が充てられている。羽地の語義は「はねち」「はねぢ」あるいは「はねじ」に求められるべきであろう。
「はねぢ」「はねち」「はにし」の方音は、ハニヂ、ハニジ、パニヂ、ハニシとみてよさそうである。〔後掲yannaki〕
後掲の今帰仁城の規模(→三上比較図∶今帰仁vs首里)からも、今帰仁に入った政治権力の財力は推認できます。
けれども、羽地の農業適性と、それに近接しない西の島の今帰仁城、という微妙な位置関係の不整合は、何かの歴史を語りそうです。疑問点に換言すると──羽地の集団は、なぜ隣接する本部半島の山塊東縁や東山中の(護郷隊が転戦した)多野岳を「金庫」城に選ばなかったのでしょうか?
──実はこの「今帰仁城のプロトタイプ」論は、前に触れました。
羽地の捨てたシイナグスク

シイナグスク(→GM.)は、本編で訪れた呉我山と天底の中間辺りです。羽地の平野部からは10km弱離れた大井川沿い、標高は百mない(乙羽岳∶275m、八重岳∶453m、多野岳∶385m)。羽地内海から運天の水路沿いという意味では、戦略的要地に見えたのでしょうか?
状況的に破壊されたのではなく放棄されているので、最終評価としては、不適任地とされた城地だったと推定されます。
ただ、注目されるのは、今帰仁城との類似です。同時代性というだけでなく、発掘品から
シイナグスクと今帰仁城跡主郭出土のグスク土器を比べると、多くの共通点が確認できる。両遺跡出土土器は主要となる器種は鍋・甕・壷・碗の4器種となる。型式的なまとまりを確認できる鍋・甕形土器を詳しく見てみると、両遺跡とも鍋形土器は、口縁部が内湾し、口唇部が丸みを帯び舌状となり、成形痕である指頭痕が口縁部に残る型式が主体となり、雲形土器は頚部屈曲部から口唇部までの長さが短く、また屈曲の弱くなった型式が主体となる。
上記のような状況から、シイナグスク・今帰仁城跡主郭出土のグスク土器は共に、グスク土器の第3段階に相当すると考えられる。また今帰仁城跡では、Ⅸ~Ⅶ層においてはグスク土器が大量に出土しているのに対して、その上層のⅣ・Ⅴ層では出土量を急激に減じている(金武ほか1991)。このことから、両遺跡出土のグスク土器はグスク土器の終末型式に位置づけられると考えられる(具志堅2006)。〔今帰仁村2009 9-10枚目p7-8〕
具志堅亮2006「今帰仁城跡、シイナグスク出土土器の検討」『麿友会誌』第2号廣友会
かつ、その使用時期は今帰仁城とほぼ重なるわけです。発掘の進んだ今帰仁城の遺物から、それは今帰仁城第Ⅳ・Ⅴ層より前、最も遅く見ても15C以前と確定されます。
(今帰仁城の)これらの層序で、出土遺物によって時期差の把握ができた。第Ⅰ層~第Ⅲ層までが15~16世紀、第Ⅳ層から最下層の第Ⅶ層までが14~15世紀の層であることが確認できた。なお、第V層は炭化米・麦が集中的に検出される層である。〔後掲今帰仁村教委1982 3枚目p2〕

下記引用にもあるとおり、シイナグスクの発掘面積は40㎡にとどまっており、これ以上の推定は抽出データ不足と考えられているようですけど──その精度の前提内で、

以上の中国陶磁器をみると年代が重なり合うのが13世紀後半という短時間である。これらの陶磁器は今帰仁城跡主郭第Ⅸ層や今帰仁城跡周辺遺跡の最古陶磁器と同じである。このことはシイナグスクと今帰仁城跡の陶磁器組成が強い関連性を示していると言える。
さらに第1表においてシイナグスクと今帰仁城跡の出土破片数の比較を試みた。今帰仁城跡においては城柵を廻らせ、砦を構築し始めるのは第Ⅶ層である。その第Ⅶ層で白磁ビロースクタイプ(14世紀前半頃)の出土が確認されているが、第Ⅸ層やシイナグスクでの出土がみられない。さらにシイナグスクの調査面積が約40㎡と狭いにもかかわらず多くの土器が多く出土していることを考慮すると、シイナグスクの活況さを窺うことが出来る。〔今帰仁村2009 11枚目p9〕
白磁やカムイヤキといった東シナ海の一般的な交易物比が多いのみならず、琉球海域独自と言われる今帰仁・ビロースクタイプ(後掲)が、今帰仁城の方が圧倒的に多い。つまり、両城とも宝物金庫として機能したのは確かながら、その在庫品の質は今帰仁城の方が交換性が高い──であろうと推定されているのです。

今帰仁村(埋文)は、これらの知見に伝承との整合を加えた上で、シイナグスクの勢力が今帰仁城に移ったとする仮説の提起にまで至っています。ここまでの議論を客観的に見る限り、確証はないけれど、蓋然性は高いでしょう。
1.シイナグスクの築城に関する伝承
シイナグスクには、次のような伝承がある。
北山王が居城を造るとき、初め呉我山のシイナ城の場所は、裏側の岩間から湧水量の多い泉があったので、そこに城を築こうと人夫を集めて石を積み始めると、6ケ月雨が続き、6ケ月日照りが続いた。そのとき湧き水が枯れたので、「旱魃になると水が枯れるからここでは駄目だ。」と言って、今の北山城の場所に城を造ったという(遠藤2001)。
遠藤庄治が今帰仁で民話の収集を行ったのは平成に入ってからであるが、それ以前にもシイナグスクについては同種の説話が記録されている。戦後ではあるが『今帰仁村史』(1975)や『沖縄の城」(1982)にも同種の説話が著されている。大正生まれの方から、戦中避難した際にこのシイナグスクの伝承を記憶していたことを勘案すると、少なくとも戦前よりこれらの説話が語られていたことは間違いない。
また、現在の周辺の住民には、シイナグスクは今帰仁城跡築城以前の城であること、水の便から城造りが断念されたことが語り継がれている。〔今帰仁村2009 13枚目p11〕
※原注 遠藤庄治2001「今帰仁の伝説にみる北山-北山城と関連人物伝-」『シンポジウム今帰仁の伝説・史話に見る人と歴史と文化資料集』今帰仁村教育委員
(略)
5.まとめ
これまで、琉球史における伝承の史料としての位置づけ、シイナグスクの伝承と野史に記される「湧川按司」が何らかの関連性をもつのではないかということを見てきた。これらのまとめとして、シイナグスクの伝承を再度、発掘調査の成果と照らし合わせてまとめとしたい。
シイナグスクは発掘調査により、13世紀後半の陶磁器・土器のみで、その後の遺物はなく、概ね14世紀代には廃絶した、非常に短期間のグスクであることが分かっている。このことは、まさに、水の便で途中で築城をやめたという伝承を祐梯させるような事実と言える。
一方、今帰仁城跡はシイナグスクと同時期に築城されたがその主体が14世紀代以降であることが発掘調査で明らかになっている。このことは、シイナグスクから今帰仁城跡に移ったという伝承とは、遺跡の主体時期から見ると、矛盾はないと考えられる。〔今帰仁村2009 15枚目p13〕
本稿で創作しているのは、諸志と羽地の農耕民がともに喜界島発の移植民だった、という部分です。今帰仁城とシイナグスクは「双子の城」として成立したけれど、何かの事情でシイナグスクが「脱落」して、多分相応の軋轢を経て今帰仁城に移転したと推定されるのです。
なお、シイナグスク放棄の伝説内で「水の便の悪さ」が理由にされていることは記憶されてよいと思います。今帰仁城の場合でも、城壁外のノロ殿内まで井戸はなく、川から汲み上げていたと言われます。その川とは、志慶真川です。
「はねじ」のおもろ
中山に伝わる「おもろ」には全く唄われない諸志とは対照的に、「はねじ」は
おもろさうし中、4ヒットかあります(「まはねじ」「まはねち」で検索)。
一名護酒/親酒 来よもの/親門 開けて/吾 入れゝ/又掟にしや/物言にしや 来よもの/又真羽地の/たれしけち 来よもの/又阿和 屋部の/せにたまり 来よもの
一なこさかい/おやさかい きよもの/おやちやう あけて/わん いれゝ/又おきてにしや/ものいにしや きよもの/又まはねしの/たれしけち きよもの/又あわ やふの/せにたまり きよもの
17-1184(10) あおりやへ節
一聞ゑ打ち高が/げらへたる真羽地/按司添いが/雲子寄せぐすく/又鳴響む打ち高が
一きこゑうちたかか/けらへたるまはねし/あんしおそいか/くむこよせくすく/又とよむうちたかか
13-816(72)しよりゑとの節
一伊江のはたころ/按司にせに鳴り思い/真羽地は/按司添いに みおやせ/又離れはたころ/按司にせ鳴り思い
一いへのはたころ/あちにせになりよもい/まはねちは/あんしおそいに みおやせ/又はなれはたころ/あちにせなりよもい
13-817(73)(同)しよりゑとの節
一霜月が 立ち居れば/吾 持ち居れ/真羽地 真羽地や/肝からも 去らん/又若夏が 立ち居れば
一しもつきか たちよれは/あん まちよれ/まはあし まはねしや/きもからも さらん/又わかなつか たちよれは〔後掲明治大学〕
第二・三首は按司が絡んでます。また全てが「真羽地」で、「真」の付かないものがありません。
素人の私見で恐縮ですけど──羽地という名の集団がAからBへゴッソリ移住したら、Bが「新A」と呼ぶ(ex.New york)ほか、Aを「元B」と呼ぶ(ex.元宇品・(神戸)元町)差別化パターンがあると思います。「真」羽地とは後者の一種、いわば「シンゴジラ」のようなもので、「こちらの羽地はホンモノだよ」という差別化なのではないでしょうか?つまりこれらおもろの作られた時代、羽地と言えば今帰仁(城)を指してしまっていた、と。
けれど、その解釈はむしろ疑問を大きくします。ならばなぜタダの羽地=今帰仁を詠ったおもろが存在しないのか?

❛14C ジーツィンの見た光景❜
どういう定めの星なのか、そのジーツィンが志慶真川の流れる故地に戻ってくることになったのは、二十歳になる前のことでした。志慶真のムラの交通は、羽地の王により著しい制限下に置かれているらしい。けれど、海賊の統領ワンは、志慶真川崖上に羽地の築いた今帰仁の城に貿易業者として招かれておりました。なぜか統領に気に入られていたジーツィンは、その伴として北の正門から堂々と入城したのでした。
「大きいな」宋の国の砦をジーツィンはいくつか見ましたが、近づく今帰仁の城は壮大に見えました。
「大きいが」統領ワンは、海寇らしく冷静に「半ばは元の地形のおかげだ。人の造った部分はそれを活かしている」
元の住民である志慶真ほか周辺のムラびとは、労働力のほか技術を提供したと予想されます。
「南へ抜けよ」驚くジーツィンを制しつつ、ワンは続けました。「汝の出身は知っている。馴染みでも要人でも見つけて、裏道の情報を掴め」
「何故?」ジーツィンの問いに、ワンは短く答えました。「高く売れる情報だ。それに、我は」とニヤリと笑って「羽地王がとうも気に入らない」
飛ぶように志慶真に抜けたジーツィンは、しかしムラの内に如何なる馴染みも見つけられませんでした。連行されたのはジーツィンだけではなく、ムラは悲惨な生活苦の中に滅びかけていたからです。せめて裏道を見つけて、と東の志慶真川へ降りかけた時、ふいに背後に老婆が立ちました。
「中城への道かな」へらへらと笑う老婆が、正気かどうか、ジーツィンは判断しかねました。「来よ。こちらじゃ」
「到底爾是誰?」(一体お前は誰だ?)思わず宋語で問うと、老婆はジーツィンを闇へ手招きしつつ驚くほどしっかりした言葉で答えました。「我叫邪那。快走」(ジャナーという。急げ。)
忌言葉「はねじ」と蔑称「みやきせん」

これもやや不確実な推定ですけど、中心城郭のスケールがある程度、その政治権力の大きさと比例すると仮定しますと──上記は今帰仁と首里の同一縮尺での城郭規模の比較です。両者はほぼ同一、または今帰仁の方が少し大きい。
ただ繰り返しになりますけど、これだけの規模の今帰仁城の政治権力の存在を実証するのは、朝貢を受けた中国側の記録だけです。
曰く──怕尼芝(ハニジ)、珉(ミン)、攀安知(ハンアンジ)の三王が、洪武十六年(1383)から永楽十三年(1415)までの間に中国の明進貢を行った──。
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薩摩、さらにヤマトが行った「過去の隠蔽」というのとは、どうも手応えが違います。今帰仁や北山そのものについての伝承は、今も山ほど語られているのですから。
考えられる解釈は、一つしかないと思います。
「首里城は、沖縄のシンボル的存在として親しまれてきました。正確な築城年や築城主はわかっていませんが、琉球王国が成立する以前の14世紀末ごろまでに創建されたとみられてい」〔後掲おきなわ物語〕ますけど、これは前記の恐怖と後進性を念頭に読めば、
より単純に換言します。早くとも第二尚氏の王権樹立まで、琉球とは「みやきせん」海民の集合体でした。北山三王から第一尚氏王権は、中国進貢用の神輿でしかなかった。──彼らの側からすると非陸人「みやきせん」は(神経症的に)蔑視すべきものだったし、「はねじ」を初めとする北山王の事績は悍ましくも恐怖すべきもの、語るべからざる忌語だったのです。だから、第二尚氏代にそれが文字化されるに際し、その筆致で記述されてしまった。
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今帰仁城がその巨躯を歴史に浮上させた時代、志慶真ムラは城運営の陰で酷使された末に下記図・右下の反時計1/4回りを描いて、現・諸志付近に移されます。本稿で「今帰仁のJ」と呼ぶのは、このルート、つまり赤墓方面から今帰仁城に流れ込み、逆に吐き出されもした庶民とその負った荷物(交易品)の道です。


(なんと……続)
〉〉〉〉〉参考資料
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URL:https://health-tourism.skr.u-ryukyu.ac.jp/deepseawater
(いいね)e燃費/ガソリンスタンド地図検索
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