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[前日日計]
支出1300/収入1300
▼13.0[①076]
/負債 –
[前日累計]
利益 -/負債 87
一月三日(二休)
0824Danken Coffee §初売2日
グリルセット ミートチーズセット(アメリカン)370×.8=296
1056末吉
うな重(松)550
2000(ハルタ)よもぎ餅,(イケダパン)マーラカオみないなの 500
[前日日計]
支出1300/収入1346
▼13.0[①077]
負債 46/
[前日累計]
利益 -/負債 41
一月四日(三休)
DankenCafeで朝ごはん
Victory Cafeが初売4日なのかあっ!
可能性が最もある天文館エリアを歩く。え?開いてるじゃんダンケンのカフェ?──駅前本店が4日だから同じだと思いこんでました。
ここのサンドは確かです。具はもちろんですけどやはりパン生地が素晴らしい。
「おいどんな うなぎすき」西郷どんが自らうなぎを捕まえとる?
1056末吉
うな重(松)550
0733鹿児島中央駅→0816喜入
0953喜入→1035鹿児島中央駅
鹿児島中央 (12:35発)
→広島 (15:10着)
喜入→鹿児島中央駅
1318特 32
1401 31 55
1529特 35
1248喜入駅
1255北側高架を越える。
田園というほどではないけれどかなりのどかな町です。
1256喜入駅から南西山中へ
1300戦没者慰霊碑そばに「清涼院」との白杭
寛文十一年六月三日肝付兼屋夫人(太守家久公の女法名芳屋雲英庵主清涼院殿)[九/十]去し寛文十二年四月二十二日菩提所を鹿府松原山中に建て萬年宗祝和尚を開基とす(略)明治二年廃寺。〔案内板〕
1308Y字を「旧麓(もとふもと)入口」と案内板のある左の細い方へ。
1319「心慶寺跡→」という小さな案内板に沿って右折
1321喜入町8千番台番地集落へ
1224白杭
瑞泉山心慶寺跡 旧麓集落 平成十年
喜入肝付家の始祖,肝付兼光が菩提寺として文明十五年(1483年)大崎に建立。溝辺,生見,仮屋崎,仮屋跡と転々と遷寺し,最後はここ牧薗に元禄五年(1692年)に遷寺した。(略)〔案内板〕
心慶寺へ続くらしき山道
とりあえず何の遺構も見えないし,山道も荒れてる。引き返す。
1332心慶寺跡から東南への集落景観
1333心慶寺の山を振り返る。
1334今日の桜島は少し噴いてます。
1336喜入の畑地越しに桜島
1341「景観形成重点地区 喜入旧麓地区」案内板
「景観形成重点地区 喜入旧麓地区」案内板
その手前が「旧麓の田の神」でした。1341
1346「旧麓の田の神」全景
元文元(1736)年,天神の近くにあったと伝えられたものが何度か移設され,現在の地に移されたものである。昔は苗代をするときと,収穫の時には盛んな祭りがなされたという。
この田の神の特徴は,県下各地で見られる柔和な顔と,右手に飯杓,擂粉木(すりこぎ)を持ち古い田の神の代表的な形をしている。(ママ)〔案内板,平26鹿児島市教委〕
米粒と一円玉の供え物
供え物が一円玉貯金,米粒とエラく律儀です。
右側「田の神」の表情
確かにお顔は柔和でひょうきん。ただ二体ある左の神様はモアイ風に無表情。なぜこの二人が並ぶのでしょう?
右側「田の神」左斜めから
左側「田の神」全景
左側「田の神」表情
裏面までよく彫ってあり,あんまり見ない頭の笠のひだが残る。「有中 寄進」と書いてあるのは意味不明。モアイ側にも書いてあるようだけれどこちらは全く読めない。
右側「田の神」の裏面
1359旧麓の家並み
1400旧麓の家屋の撤去跡に門柱だけが残る。
1401旧麓の家並み
1404旧麓の家並みと蒼天
1406給黎城の山を真東から見上げる
1407真西に城跡……の山
1410「肝付家墓所↑/南方神社→/←香梅ケ渕」の看板。とりあえず直進。
1414「肝付家墓地と玉繁寺跡」看板。
「墓石の形態変化」
宝篋印塔→五輪塔→神式
「墓石の形態変化」
宝篋印塔→五輪塔→神式
1420肝付家墓地
1423前面に丸穴のお墓
四代兼屋1422
1423同丸穴直下のレリーフ
1425首の断たれた仏像
九代(兼満)兄(兼次)1424
1426前面丸穴が壊されたお墓
五代(久兼)妹1426
1428「年三歳」と記されたお墓
1429動物のレリーフ
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室町時代の薩摩国守護職であった島津氏の勢力が、必ずしも安泰でなかったことは、具体的には、名主層の小領主が地域的に連合して国方と称して、守護大名に反抗するものがあったことに基づくものであった。
給黎地方でも、室町時代初期から、その影響を受けていた。すなわち、応永七年(一四〇〇)十二月十三日付の島津久哲(伊久)の預け状によれば、島津久哲は澁谷重頼に対して、薩摩国の谷山郡と給黎院半分とを預けるために預け状を発行している。(略)
澁谷重頼は、澁谷氏七代の当主で、川内川流域に位置する入来院に根拠をおき、薩摩国内では、島津に次ぐ豪族であった。したがって、薩摩国の守護大名であった島津久哲が、澁谷重頼へ薩摩国谷山郡と給黎院半分とを領所として預けおいた目的は、島津久哲が澁谷重頼を配下に入れるためであった。ことに当時の戦争には、食糧補給基地としての料所が、戦争地域に程近い所に必要であった実状から考えれば、澁谷重頼の軍勢を薩摩半島へ将来動員する場合に備えた布石であったと解釈される。
応永十年(一四〇三)、島津元久は谷山郡司入道仏心を滅し谷山一八〇町を領有し、つづいて給黎院四十町、揖宿(いぶすき)郡四〇町、頴娃(えい)四〇町を取り、島津久豊(元久の弟)を頴娃に居城させ、南殿と呼び揖宿路の要所とした。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第四節〕
島津久豊の時代には、薩摩国の大部分の小領主が、伊集院頼久を盟主に仰いで連合結集し、守護勢力に反抗する運動を展開した。世にこれを国一揆と称している。したがって島津久豊は、この勢力に対する苦心の連続であったことがわかる。
伊集院頼久は給黎のほかに伊集院、川辺をも領有し、さらに薩摩半島において「国一揆」を結成することに成功した。
島津久豊と伊集院頼久との二大勢力の衝突は、応永二十年(一四一三)に起こった。この二大勢力の衝突の渦中に給黎が置かれていたことは、島津国史に明記されている。すなわち、応永二十一年(一四一四)七月、伊集
院頼久は、中村但馬守、野田某、時吉某らの国方の武士に命じて給黎城を守備させた。これに対して島津久豊は、吉田、蒲生らの守護方の武士を率いて、給黎城を数日間包囲したが、守備が固く、給黎城を落城させることはできなかったのみでなく、伊集院頼久の救援軍のために、島津久豊の給黎城包囲軍が敗北するありさまであった。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第四節〕
(続)また、この年の八月一日には、伊集院頼久が川内平佐の島津上総介久世、伊作の大隅久義等の国方の武士を率いて、給黎院の松ヶ平、荒平に陣した。島津久豊は、守護方の武将本田信濃守重恒らを派遣して、伊集院頼久の軍を攻撃させたが、戦い利あらず敗北して去った。ここにおいて伊集院頼久は、戦勝の勢に乗じて給黎城に自ら入って、守備を固めた。しかし、島津久豊は敗走の途中、瀬々串駒返り(この時よりこの名がつく)にて、肥後国球磨(くま)の城主相良前継の軍勢が救援に来るのに遭い、駒返りより軍勢を引き返して給黎城の伊集院頼久を攻めた。頼久はこの救援の大軍を見て防ぎきれないと思い、八月六日の夜陰に乗じて給黎城を逃れ伊集院に去った。(略)
さらに久豊は戦勝を祝して給黎を喜入と改めた。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第四節〕
(続)久豊は、川辺の松尾城を守備していた酒勾紀伊守を応永二十四年(一四一七)九月には味方にして、守護方の勢力拡大をはかった。これに対して、伊集院頼久は、別府山田、阿多、田布施、伊作などの国方の武士を率いて、松尾城を包囲した。松尾城の兵は、食糧に窮したので島津久豊は鹿児島、谷山その他の守護方の武士を率いて、松尾城の救援に向かったが、戦は極めて激しく一進一退、多数の死者を出した。
久豊の軍は非常な困難に陥り危険が眼前に迫ったので、吉田清正をして和平を申し出た。伊集院頼久は谷山給黎の領有を条件に和平に同意したので、給黎は再び頼久の領地となった。
しかし、伊集院頼久は谷山にあって、鹿児島も領有を要求していたため、久豊は頼久の谷山城を攻めた。頼久は戦の不利を見て、給黎、谷山および伊集院石谷村三〇町を献じて和をこうて伊集院に帰った。ここにおいて松尾城の変よりわずか二〇日ばかりにして、給黎は再び久豊の領するところとなった。
これから以後は、伊集院頼久は、島津久豊に対して協力的になった。薩摩の国方の実力者であった頼久が島津久豊に降伏して、伊集院に帰ってからは、薩摩の国一揆は、中心人物を失って、その勢力も次第に衰え、国方衆が守護の被官に変化した。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第四節〕
長禄三年(一四五九)、島津忠国は、蒲生領主十郎三郎刑部少輔宣清を給黎郡の領主として補任した。(略)
蒲生宣清は頴娃兵部少輔兼心、根占の祢寝重清、肝付兼忠らと相謀って、文明八年(一四七六)三月五日、島津九郎右衛門久継を指宿城に攻め、同年五月二十二日、暗夜風雨に乗じて攻撃ついに陥落させた。なお同年九月十二日、桜島が爆発して、人畜に死傷者が多く、溶岩は東西二里余の海中を埋め、降灰は数日間も続き数十里の間を覆うて大被害をこうむる天変地異が起こったことが島津国史に記されている。給黎地方でも相当の被害があったと思われる。
明応四年(一四九五)二月、蒲生宣清は、旧領の蒲生に移封されたが、蒲生氏の給黎を領すること実に三七年間であった。
当時の名残として、蒲生田、蒲生山野の地名が明治のころまでも残っている。なお、蒲生氏の在城時代に成太神社、諏訪上下大明神(現在の南方神社)の建立が行われている。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第四節〕
蒲生氏系図〔後掲喜入町誌〕
島津氏の豊後討ち入りは、天正十四年(一五八六)十月十五日に決行された。すなわち、この日に義弘が肥後口から、家久が日向口から、それぞれ豊後へ進攻し、比志島義基が船大将として島津氏の水軍を率いて海路豊後に迫った。〔後掲喜入町誌,第二編第二章第六節〕
島津義弘は島津勢一万五〇〇〇人を率いて、文禄元年(一五九二)五月、朝鮮半島へ渡海した。その島津勢の中に参加して、喜入久道の弟忠政が喜入、鹿籠の家臣を率いて渡海したことを枕崎市史が伝えている。(略)
これよりさき、喜入浜の租借地事件があったことが、薩摩旧伝集に、次のような趣旨の伝説を伝えている。すなわち、島津義久時代に、薩摩国山川の山伏の鮫島円成坊が、南蛮人が山川から喜入辺までの浜辺の「芦原無用の地横壱町程、長さ三里許」を借地に希望し、そのお礼として、銀二百貫目を進上することを申し出たのを取り次いだものである。しかし義久の家老島津図書頭忠長の同意を得ることができなかったと伝えている。
〔後掲喜入町誌,第二編第二章第六節〕
字図/喜入地区〔後掲喜入町誌〕
字図/喜入地区/北部分〔後掲喜入町誌〕
★展開文字列★
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