
[前日日計]
支出1300/収入1800
▼13.0[①074]
負債 337/
利益 163/
[前日累計]
利益 163/負債 –
§沖縄県937人
一月一日(天)
1201西洋亭ひろはま
お正月スペシャル550
1900(霧島市隼人町)迫田食品
けせんだんご,あずきふくれ500
[前日日計]
支出1300/収入1050
▼13.0[①075]
/利益 163
/負債 87
[前日累計]
利益 -/負債 87
一月二日(一休)
1102 みなと食堂二号店
A定食(造り・頭アラ炊き・かき揚げ・小鉢・ご飯・味噌汁・漬物) 550
1900 フェスティバロ
淡雪ラブリー,知覧茶750
[前日日計]
支出1300/収入1300
▼13.0[①076]
/負債 –
[前日累計]
利益 -/負債 87
一月三日(二休)
0922那覇発のANAはかなり早めに鹿児島空港着陸。
沖縄もだけど……慣習の拘束力の強い九州は正月きっちり休む店が高率です。前もって馴染みの店の初出の日を電話で調べておきましたけど──あかね(コーヒー:宇宿)も松重(うなぎ:二中通)もアウト。ただまあ何とか過ごせる目処はギリギリ立った。
年始鹿児島1/1 2 3 4
あかね ※5〜
松重 ※4〜ただ配達が……
みなと食堂 × ○○○
山田屋 × × × ○
ハルタいずろ-× ○○
ひろはま ○ ○○○
うなぎの末吉× ○○○
ヴォアラ × × ○○11°-
B.DANKEN × × ×○10°-
凪 × ○○○
銭湯の閉店を見越して宿は自家温泉のあるところを選んでます。ここも鹿児島通いを初めてすぐからぼちぼち利用させて頂いてますけど(良い宿なので値段が高く常宿には出来んけど……),シルクイン。最高の温泉宿です。
さてとりあえずランチです。コロナで鹿児島正月を過ごす時,元旦から必ず開店するこのお店は重宝します。
1201西洋亭ひろはま
お正月スペシャル550
そこから鹿児島中央駅に接続したAMU内のミッテ10で「ラーゲリから愛をこめて」を見終わると,宿のチェックインタイムを過ぎました。
あと駅前イオンの地下は元旦から営業してます。ここで少量ながらふくれやけせんだんごを置いてる。
中央駅の土産物売り場で重久盛一酢醸造所(霧島市)の黒酢も購入できた。これを三泊で飲みつつ温泉に浸かって過ごします。

ただ頭の中的には平和な元旦とは言えず──最終日にD NAHAのジュンク堂で購入した本(中楯與編「日本における海洋民の総合研究──糸満系漁民を中心として」九大出版会,1987)が凄すぎて──
そんなんで正月二日目,朝から快活クラブで史料まとめをしてたら時間になってしまいました。鹿屋のアンテナショップを兼ねるみなと食堂二号店でカンパチあら炊きの定食を喰らう!
で,前から行こうとして逃してた谷山の山中へ。たまたま町中で企画展の真っ最中で,今日から開館してるのを見たのでした。
1235鹿児島中央駅→慈眼寺
慈眼寺→鹿児島中央
1438
1505 33
1609 35 53
谷山神社のあるこの丘,考古学的には間違いなく谷山の戦後頃までの中心地なんですけど──何でここがそんなに濃いエリアなのか見当がつきません。
1316鹿児島市立ふるさと考古歴史館
「すわ,谷山! 中世・谷山城跡とその周辺」2022.11.19-23.1.22
『三国名勝図会』では,谷山城について「谷山郡司,谷山氏,世々此に居住す」(略)
谷山氏は(略)平季基(たいらのすえもと)の子孫,平(伊作)良道を祖とします。良道の四男・阿多忠景(あたただかげ)は,12世紀中葉に強大な権力をふるっており(後に没落),その弟である忠明(別府氏)も,本領である加世田別府と谷山郡の領地権を有していました。その跡を継いだのが,忠明の三男・信忠(のぶただ)で,谷山氏の初代当主と目されています。信忠は建仁3年(1203年)には幕府御家人及び谷山郡司としての地位を認められていたとされることから,谷山城築城の詳細な記録はないものの,築城時期は13世紀前半以降と想定されます。〔案内板〕
つまり,谷山城の創始の明確な史料は,ない。
巻末に谷山城の由緒に係る定説(谷山市史)を転記しましたけど,これだけ奪い奪われしてきた要地にないというのは,誰かに,おそらく近世島津氏(貴久?)を含む谷山氏以降の新支配者の何れかに意図的にデリートされた可能性が高い。
だとすれば,現・資料館など研究者には大変残念なことながら,それは決して今の世に出ることはないでしょう。
南朝方に組した谷山氏5代当主忠隆(ただたか 法名・隆信)は,後醍醐天皇の皇子で征西大将軍に任じられた懐良親王を興国3年(1342年)に谷山城へ迎え,島津氏(北朝方)と”武力”を介した争いを繰り広げていきます。その”最前線基地”となったのが谷山城でした。〔案内板〕
15〜16世紀の谷山城は,島津氏8代当主久豊と伊集院氏7代当主頼久の戦い(応永24年:1417年),後の島津氏15代当主・島津貴久と薩州島津家5代当主実久の戦い(大永6年〜天文8年:1526〜1539年)などの舞台となりました。〔案内板〕
1349
タイ(メナムノイ)産黒褐釉四耳壺(15世紀後半〜16世紀中頃)。
貿易用のコンテナで,内容物は酒,香辛料,硫黄などの南蛮の産物〔案内板〕
泡盛の元になったタイの酒が入っていた壺というのは,こういうもののことではないでしょうか。
谷山城跡発掘調査5回中初回の弓場城跡で出土。同地から瀬戸美濃産陶器天目碗(16世紀)も出土。
弓場城(ゆんばじょう)の成立時期は,谷山氏退去後の15世紀以降と考えられます。〔案内板〕

谷山城跡に近接する不動寺遺跡では,古代(9〜11世紀)の遺構・遺物が発見され,公的施設や有力者の居館があったとされます(本展1.1)。一方,中世に位置づけられる遺構・遺物は相対的に僅少な中,断面V字型の溝が北西-南東方向に並行して3条検出されています。〔案内板〕
「中世に位置づけられる遺構・遺物は相対的に僅少」であることは定見になっている模様。この3条について,資料館は「内と外」の境界線論を持っており幾つか関連記述もありましたが,正直これだけでそこまで推測するのには無理があると思います。
つまり,中世の谷山勢力の地理的構造は,今のところ皆目見当がついていません。
総柱建物跡の北側では(略)その南側(総柱建物跡と大溝群との間)には大量の土師器が破棄された土師器集積遺構が3基発見されました。(略)3,880点もの遺物が検出されました。(略)出土遺物や遺構間の前後関係から,共に13世紀後半〜14世紀初頭に位置づけられます。〔案内板〕

谷山郡における”平時”の拠点とは北麓遺跡であったと考えられます。〔案内板〕
1412
谷山外城(郷)における地頭仮屋は,現在の谷山小学校の敷地に該当するとされます。そのすぐ西側は,北麓遺跡の総柱建物跡が検出された地点のため,中世来の谷山の中心地は江戸時代においても変わらなかったといえます。〔案内板〕

小学校を正面に見た場合,北麓遺跡は左側(西側)に位置する。〔案内板〕
この地頭館だけは位置的な推測が相当できているらしい。
2 仮屋馬場。仮屋馬場とは今の市役所通のことで本馬場(今の国道筋)から西馬場に至る間延長一九三・五メートルである
3 仮屋の境内。本門の左右は棟石(むねいし)のある石垣造りで延長一一三・五メートル、高さ二・一二メートル、他の三面も石垣で囲み北方に裏門があった。境内は杉、楠、柞(いす)、孟宗(もうそう)竹などが茂っていたので森山といい、ことに「森山尋小学校」が建てられた俗に「仮屋学校」と呼ばれていた。
常石造の門をはいると、右側に 噯(あつかい) (年寄)横目(よこめ)などの詰所があり、左側に門番所があり、地頭仮屋本館は今の小学校玄関より二十八メートル位の北方の地と推測される。前庭の西側に井戸(つるべがあり、かたわらに□の面積一・四四平方メートル高さ一・二メートルの非常用石鉢二個が備えてあった。〔後掲谷山市史/二十二.地頭仮屋〕

現在も往時の区割りや石垣が,谷山1丁目・4丁目を中心に残る。武家門についても残っている個人宅が存在する。なお,石垣が赤色を呈しているのは,阿多溶結凝灰岩を石材としているため。谷山では「見寄石」と呼ばれ,現在の慈眼寺東公園あたりには石切り場があったとされる。〔案内板〕
麓には手工業の痕跡も考古学的に残る。
万之瀬川流域におけるピークが最も広範に及ぶ13世紀前半は谷山氏の谷山郡入りの時期と重なります。〔案内板〕
白磁碗 13-14C 中国・徳化窯産(福建)
上水流遺跡(南さつま市)
青花碗 15C後半〜16C前半 中国・漳州窯産
芝原遺跡(南さつま市)


「うとけい子〜」と歌う街宣車。「子どもたちが幸せな鹿児島!うとけい子〜」
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谷山の生活〔谷山市史〕▼▲
昔から明治時代に至るまでは全く半農半漁の村で、特に谷山の漁業は県下においてはなはだ有名であった。漁業者の多い部落は、まず南から平川、古屋敷、草野の南海岸の一帯。掛下、森山、一番組、和田塩屋の和田海岸の一帯。寺下、中組、下町、新地、東塩屋の町下海岸の一帯である。このうち、南海岸一帯は農業の兼業が多かったが、和田海岸と町下海岸の一帯は専業漁家が多く、谷山漁業の主体となっている。発動船の盛んな頃の魚獲高の金額は、当時の農業における米、葉たばこなどを加えた農産物の額よりも多かった。また、村外からはいる収入も海の幸の方が多かった。 〔後掲谷山市誌,第四編第四章第一節〕
漁船のあやつり方について、谷山の漁士には誇りがあった。それは櫓を漕ぐことがじょうずで、櫓にかけては県下の先生であった。串木野の漁士は帆を掛けることが県下一で、谷山の櫓漕ぎと串木野の帆掛けは共に有名である。そこで、谷山にきては櫓のことを言うな、串木野に行っては帆のことを言うな、言うと笑われるぞと、各地の漁士の間で取りざたされていた。
谷山の海岸部落の俗謡に、次のような歌詞が残っている。
肩をゆすぶいが兵児なら丸木の舟子も兵児じや。
武士の兵児へこにも劣らぬ舟子の意気と威勢を見るべきである。
風は北風汐は下げ汐、谷山の一丁櫓じや早うのぼれ、二丁も三丁もせっぺせっぺ(一生懸命)押せば、はあ、港も近かろ港も近かろ。
早櫓が目に見えるようである。また
谷山下町通れば蛸たこが吸いつく、おしお(美女の名)が抱っつく、こげなこっちゆうはめったにござらぬ、めったござれば体がたまらぬ、はっは、体がたまらぬ。
谷山名物の蛸たこと結びつけた歌の情趣が面白い。 〔後掲谷山市誌,第四編第四章第一節〕
漁撈法と網
漁撈法として谷山の一本釣りは昔から有名で、一本釣りにかけては谷山の漁士が県下の大先生である。〔後掲谷山市誌,第四編第四章第一節〕
谷山の水産業としては、鱶ふかひれと塩干魚がある。鱶ひれは谷山で獲れた鱶や串木野魚港から仕入れて、鱶のひれと尻尾を切り取りこれを天日に乾かしたものであって、その製品は長崎港を経て古くから中国に輸出されていた。支那料理にはなくてはならぬ珍品とせられ、中国との貿易が中絶してからは、内地の支那料理店でこれを愛好している。谷山で鱶ひれを取り扱ったのは国生嘉之助、東幸八、市来貞蔵、浜崎常吉、山下矢一郎、有川勇吉らであった。塩干魚として鰯の「目ざし」は、昔から谷山の名物であった。目ざしと言っても、それは鰓えらを竹串で刺したものである。〔後掲谷山市誌,第四編第四章第一節〕
ここで「駄売り」のことについて述べる。駄売りというのは、魚籠を「いねさし」(天秤棒)で担かついで行商する婦女の売り手である。その「いねさし」は普通の天秤棒と違って上に反そったもので、谷山地方特有の担い棒である。飛か白すりの筒袖着に前垂れをかけ、草履をつっかけて二里半(一〇キロ)もある鹿児島市の家庭に売り歩いたもので、その数は三百人もあった。鮮魚を早く届けなければならないので、駈走し同然、その威勢の良さは他に見られない姿であった。鹿児島市内にも納屋はあったが、谷山の「駄売り」が鹿児島の各台所に御用聞きして「ぶえん」(塩つけしてない鮮魚)を売り、鹿児島の各家庭では毎日谷山の「駄売り」を待っていた。「いねさし」を担いで威勢よく魚の行商をする婦女子の姿は全国でも珍しいもので、まさに谷山名物として遠近に聞こえていた。〔後掲谷山市誌,第四編第四章第二節〕
谷山の漁士たちは、谷山に住んで湾内や沿岸に出て漁業を営んだだけではない。その一部の漁士は他の漁業基地を根拠として操業し、あるいはその家族を引き連れて県下のあちこちに移住し、ここでこれら地方の漁業を開拓した。ある所では谷山の漁士部落が形成され、ある所では谷山漁士の二世、三世が漁業を営んでいる。またそこには谷山の風俗や歌が伝わり、神社を建てた所もある。
まず、屋久島の一湊には帆船時代から谷山の漁士が集まって漁業部落を形成した。ここでは、谷山の漁村でよく歌われていた大津絵節(おちえぶし)も伝わっており、また生仏のように信仰されていた中塩屋の是枝千亀女史も一湊で布教していた。種子島の中種子の熊之浦にも谷山の漁民が移住して、ここでは熊野神社(谷山の伊佐智佐神社と関係あり)を建てて二世、三世も奉仕している。また明治初年頃谷山に疱瘡(ほうそう)が大流行したことがあり、これを避けるために海岸部落の漁民の一部は根占、高須、佐多方面に移った。現在、高須や根占などで漁船を持ち一本釣りなどしている人々は大抵谷山出身の子孫と伝えられている。山川の漁業協同組合の幹部には、谷山出身の漁民もいるという。〔後掲谷山市誌,第四編第四章第四節〕
なお、朝鮮の釜山付近は漁業基地の一つであるが、ここには麓出身の入佐清静が大日本水産会後援のもとに漁業組合を作ってその組合長となった。釜山付近の巨文島に「入佐村」が今でも残っている。これは入佐氏が漁業のために開拓した村であって、朝鮮の漁士がたくさん住んでいるが、谷山の人で入佐氏を頼って土地を求めた者もあった。
ともかく、谷山の漁士は一本釣りと櫓漕ぎにかけては県下の先生であっただけに、至る所に足跡を留め、あるいは人移しによって子孫をあちこちに残しているのである。 〔後掲谷山市誌,第四編第四章第四節〕
最後に、谷山漁船の海難史におよぶ。谷山でも海難は昔からしばしばあったが明かでなく、ただ故老の記憶として残るものに次のものがある。
大正十三年頃 有神丸十二人乗 五島沖 全員死亡
昭和十一年頃 海光丸十二人乗 屋久島沖 全員死亡
昭和十二年頃 常盤丸 朝鮮沖 三人生還
昭和十三年頃 浅見丸 屋久島沖 一人生還
昭和二十六年ルース台風 新川丸 甑島沖 全員死亡
昭和二十八年二二号台風 正芳丸 屋久島沖 全員死亡
〔後掲谷山市誌,第四編第四章第四節〕

もいどんは薩摩、大隅半島に広く分布しているといわれるが、谷山でも永田川を中心とする農耕地帯であちこち見られる。永田部落の小迎森、田中氏のもいどん、田辺、七村、上西、木ノ下部落にのこっている。もいどんは藩政時代、門かどの人々によって祀られている門神で、氏神と違って普通祠も神体もなく、「もいやま」といわれる木立ちのの大きな木を神体のようにしているものが多いといわれる。永田中部落の小迎森のもいどんは、田圃の中にこんもり繁った森があるが、この付近の小字名は島森とよばれている。「西藩野史之六」によれば「応永三十二年(一四二五)春正月(二十一日)久豊公薨ス享五十一義天存忠ト謚ス(伝云公ヲ葬ルノ地ヲ詳ニセス或云谷山ノ中森アリ島津森ト号ス、是即チ公ヲ葬ルノ地ナリ、或ハ云穆佐護年田証寺中石墳アリ石棺ヲ埋ムコレナリ、二説拠ナクシテ詳ナラス」とある。代々小迎森門によって祀ってきたものであるが、村人はたたりがあるといってあまり近よらない。たぶの大木のもとに丸石が土中にうづまっている。近くの田中門のもいどんは、大木の下にわらづくりの神祠がのこっていて、年一回シベを取り替え、祭典をしている。上西部落の「もいどん」は、馬頭神があり、初午の時は最初に初午踊を奉納している。別に五輪塔二基とわらづくりの神祠があり、今では畦地周二氏が所有し中福永の永田栄吉氏が花香をとっている。田辺の「もいどん」は現在の田辺部落の中心にあたる場所に位置しているが、この付近は戦時中田辺航空工場のあった所で、もともと谷山の一等田を、不動寺の山からシラスを運んで埋めた所である。田圃の中にあった「もいどん」がそのまま残っている。辻ノ堂、惣郷御中の郷士たちによって寄進された、文化十二年(一八一五)建立の石祠がのこり、毎年六月燈が行なわれている。今は辻ノ堂の的場氏が花香をとっているが荒神様といわれている。木ノ下部落の「もいどん」は木ノ下川の改修により取こわされたが、そこにあった田の神、馬頭神、水神は移転され、慈眼寺道路の道下にのこっている。田の神は宝暦六年(一七五六)に建立されたものである。「もいどん」は一般に門の神といわれるが、氏神(内神)と重複したものもある。 〔後掲谷山市誌,第八編民俗第五節 二、もいどん(森殿)〕
谷山市誌(昭和42年3月発行)第4編 産業経済史 第4章 水産業史 第四節 人移しと海難史 p563
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