第四日
あくまでも:エディゲッチナ 어디까지나
【本句】二万語の果ての十七音の夏 (第2回小川めぐる)
支出1300/収入1320
▼13.0[②241]
負債 20/
[本日累計]
利益 -/負債 343
十二月二十九日(天)
0600 ISAAC
그랄드 불갈비 Griled Bulugogi 370
1606 7공주식당 7ゴンチャ食堂
장어탕 ジャンオタン 400
1716 아라식당 アラ食堂
장어탕 ジャンオタン 400
1700 市場のカステラ200
[本日合計]
支出1300/収入1370
▼13.0[②242]
負債 70/
[本日累計]
利益 -/負債 273
十二月三十日(一祭)
『密輸 1970』のインスピレーションは、リュ・スンワン監督の映画制作会社「外柔内剛」のチョ・ソンミン副社長が撮影で群山を訪れた際、地域の博物館で目にした資料だった。“1970年代、群山で横行した密輸に地元の海女たちが加わっていた”――チョ副社長が持ち帰ったそんな短いヒントに、リュ・スンワン監督が興味を抱いたという。〔後掲MOVIE WALKER PRESS〕
群山道と呼ばれた船遊島に朝鮮太祖が錦江と万景江に沿って内陸に侵入する倭寇を防御しようと水軍部隊である万湖営を設置した。世宗の時に来て、水軍部隊が獄区軍の北面鎮浦(現群山)に移っていくにつれ、鎮浦が群山陣となり、既存の群山島は旧群山という意味で高群山と呼ばれるようになったことから由来したものと伝えられる。〔後掲韓国民族文化大百科辞典〕
群山で語られる古の戦いの記憶といえば、高麗末、錦江河口に押し寄せた倭寇の大船団を崔茂宣の発明した火薬を使った砲撃で撃滅した鎮浦大捷(大勝利)であって、白村江の戦いについてはどこにも説明がない。〔後掲多胡〕
かつて鎮浦(ジンポ)と呼ばれていたこの街は、韓国有数の大河である錦江(クムガン)が西海(ソヘ。黄海)へと注ぐ河口に位置しているため、古くから港町として発展してきました。そうした地の利から、高麗時代には租税の穀物を都へ移送するまで一時保管する「鎮成倉(ジンソンチャン)」が設置され、これは朝鮮時代にも「群山倉(クンサンチャン)」と名を変えて受け継がれています。
このような理由から、鎮浦は高麗時代から幾度となく倭寇の襲撃を受けてきました。中でも高麗末期、1380年夏のそれは500隻あまりもの大軍によるものでしたが、このとき崔茂宣(촤무선:チェ・ムソン、1325-1395)が中国から導入した火砲を用いてこれを全滅させた戦いは「鎮浦大捷(ジンポ・テジョッ)」として今日まで語り継がれています。
一方、群山市西側の西海上に浮かぶ小島であり、現在は同市の一大観光地となっている仙遊島(ソニュド)はかつて「群山島」と呼ばれ、一帯には水軍の鎮(地方の軍事拠点)である「群山鎮(クンサンジン)」が設置されていました。これが朝鮮時代初期の15世紀初頭に鎮浦へ移転。
〔後掲ぽんぽこ日和〕
古群山から鎮浦への「移転」は普通に推測して、臨海の島は容易に倭寇の攻撃目標となりしばしば陥落したため、清初の遷海令と類似の一種の縦深陣地構想を採り(あるいは採らざるを得ず)、古群山を緩衝帯として放棄したということでしょう。
任実郡は、全羅北道庁所在地である全州市から南に約29キロ離れた場所に位置している。(略)「蟾(ヒキガエル)と津(船着場)の川」という意味の蟾津江は、韓国の川の中で4番目に長い。高麗禑王 11年(1385年)頃に倭寇が蟾津江河口に侵入すると、ヒキガエル数十万匹の大群が一斉に鳴き出し、驚いた倭寇が光陽方面に逃げていったという伝説が名前の由来だ。〔後掲Korea.net〕
1380年※初秋 ※北朝:康暦2年 南朝:天授6年 明:洪武13年 朝鮮(高麗):辛禑6年
八幡大菩薩の小舟に従った倭寇船団が、二手に分かれる。一手はそのまま錦江を遡っていき、いま一手は舟先を揃えて群山湾から上陸してくる。
(略)錦江の河口では、高麗軍の司令官が、頭を抱えている。倭寇たちの錦江突破を許したうえに、群山湾には倭寇の基地を築かれてしまった。この群山湾に浮かぶ城は、前進していった倭寇軍の後方支援(補給を含めた)に当たるだけでなく、付近の制海権をも得たことになる。〔後掲高橋〕
日清戦争の勝利によって、日本の朝鮮進出に拍車が掛かっていった。穀倉地帯の全羅道でも、1897年に
목포 (木浦)、1900年には군산 (群山)が開港することになった。
特に群山には米屋や地主が進出し「米の群山」として知られるようになったという。
1909年末、日本人地主の所有面積を見ると、全国の3割以上が群山にあり、1914年には群山の日本人人口が朝鮮人人口を超えるほどになっていた。
群山では、現在もこの時代の日本式家屋が数多く見られ、韓国で唯一の日本式の寺「동국사 (東国寺)」も残っている。
〔後掲hana+〕
日本の仏教は1877年、釜山(プサン)の開港とともに、日本政府の要請により流入してきました。
一番最初に浄土真宗大谷派が布教を開始し、1904年群山にも布教所を開設し、日蓮宗が続きました。
日本の仏教が韓国に進出した理由ですが、純粋な仏教布教が目的ではなく、韓国を日本に同化させようとした日本政府の意向をそのまま反映したものと言われています。
その後、朝鮮総督府は日本の仏教を普及するため、1911年6月3日付で寺刹令も発布しています。
寺刹令を契機に、日本の仏教界は全土に別院・出張所・布教所などを設立しました。
錦江禅寺が建立される前、群山には本願寺、群山寺、安国寺がすでにありました。錦江禅寺を創建した内田仏観は布教を始めた1909年当時、すでに77歳の高齢で、群山地域を布教活動している途中、群山の一条通りにあった家屋を借り、布教所を開設しました。1913年7月に現在の場所に移り、現在の東国寺の建物を新たに建立しました。
(略)東国寺は日帝強占期に建立された寺です。日帝強占期に建てられ現在まで残っている日本式の寺はすべて壊され、唯一残っているのが東国寺です。特に、東国寺大雄殿は2003年登録文化財に指定されました。〔後掲VISITKOREA〕
国内唯一の日本式寺院である東国寺は、日帝強占期の1913年、日本人僧侶によって建立され、「金剛寺」と名付けられた。韓国の伝統寺院とは異なる様式で、解放後には「東国寺」と名を変えた。1970年代に大韓仏教曹渓宗(チョゲジョン)に登録されている。
群山市民たちは義援金を集め、2015年8月12日に東国寺の中に平和の少女像を建てた。椅子に座っている少女像とは異なり、裸足で立っている姿をしている。
移転に賛成する側は、少女像設置の精神と趣旨を生かすためには、旧市役所広場や近代文化歴史通りに移すべきだと主張する。同市の市議会議員のソ・ドンワンさんは「私有地である東国寺にある平和の少女像を多くの市民に知ってもらうためには、人の来ない場所から公共の場所に移さなければならない。特に群山は日帝強占期に米の収奪というつらい歴史があるし、日帝に立ち向かって抗争していた都市であるだけに、少女像を日本式寺院に閉じ込めておくのはこのような歴史性に反する」と述べた。
〔後掲ハンギョレ新聞〕
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0615雪は止み、路面は溶けてる。
コインロッカーの入金が国内カードに限られるらしい。リュックを抱えたまま行く。
0629 9番乗車。群山大前へ。この路線は南周り、群山市庁から西へ入る……けどどうせ分からん。
0650が滑り込みで間に合わない時間だけど、とにかく0750には確実に乗れそうです。あ……대전문って「……大前門」か?改めてよく見ると、大前門付近の街区は西半分が大学、東半分を高校などが占める学園都市のようです。
川を渡った。新市街を南北に分ける川です。
ただ周り真っ暗。何が何やら。バスは、多分時刻表通りに時間調整してるらしく、大変のんびりと朝闇を進んでおります。
e-mart24の灯が目立つ。
0650回ったとこで湖の西道へと左折。
0659下車。ガーン、スタバも開いてないがな!
おおっ?待合ボックス内の椅子って暖気が来てるのか?これならあと──
えっ?0707に99番が来た??訳分からんけどとにかく乗り込む。も一人の客もあたふたと乗るから多分遅れてたんでしょか?でも始発だぞ?
なぜかしばし停止。もしかすると0750発が早目に来た……のか?いや0711走り出しましたけど?
▼10-17 or41-44
근산대전문
▼99番
장자도
선유도 酔◯島
0717白み始めた辺りは原野。
もう一人の客が降りて車内は運ちゃんとワシのみ。
陸揚げされた船十数隻。空漠とした港。海鮮市場の灯。
0736海上?凄い長さの橋です。ほの明るくなった南西に島影。
かなり起伏がある。奥の島影はさらに険しい。
0745yamidoに入った。直線路。人工物っぽい。okudo側が本体でしょう。
漁港。船は数隻。
集落。0752橋。
天草のようです。
0752munyeodo
潟多し。
平地。また集落。大きい。構造には乏しい。
0755橋。下に漁港。
seonyudo
右南に集落。
右に入る?
0802とにかく下車。歩いてみる。
何かアーミーが一群。
南の集落側へ戻る。砂州を歩く格好。
岩肌が険しい。堆積岩に見えない。縦に不規則なシマが入ってる。
0812jangjado側。
0815反対側山手。
0843BTを見つけた。0915。HOLLYSでアメリカーノ。
このseonyudoの北側は中岳で、外周の島々は外輪山だと予測されます。やや小ぶりながら隠岐島前に似てます。
大船を着けるのは辛いけれど小船を寄せるには絶好の海域です。
バスの不規則さが怖い。
0900にバス停ボックスに入る。目の前に砂州北側の縦縞岩。遠目からも宗教的な祠類は全く見当たりません。韓国海域アジアの不思議さです。
本日は雲は多いけれど基本晴れらしい。日差しも尻もがほんのり暖かい。
0903バスが砂州を北へ向かった。きっとあれが折り返して──来ました!
0907エエッ通り過ぎた??0910──これは海側で待てということか?折り返してきたバスは無事ドアを開けてくれました。でも時間調整らしい。
しかしこの潟は何だろう?この岩質と火口ならば遠浅のはずはない。道にも多量にあるように、砂がかなり流れ込んできてるけれど、砂岩質はないような気がします。0915発──いやも一人客が乗ってきて、やっと出発0916。
チャリダーがいる。
元の道に戻って西へ。短いトンネル。
0919橋
jangjado。道下に店が多い。ロータリーで回転折り返す。ここで泊まれば優雅でしょね。
0923munyeodo。この北西側集落が一番大きい。
客四人になる。
南東の集落
yamidoまで帰った。0926
ここの集落もまずまず大きい。内陸に数枚の畑。
林相は薄い。
ここらの岩質も縦縞。
0929直線に入る。直線北側に少し集落、おそらく元は独立の島。
南南東への橋が見える。これもゴッツい長さです。
古群山へは計3本の橋がかかってる格好です。こんな巨大投資をなぜ?
海上に浮いてるのは太陽発電機でしょうか?塩気は大丈夫なのか?
群山側陸地から多量の煙。何の工場でしょう?
この長い橋を自転車で渡ってる人がある。夏場なら最高でしょう。この時期には──よくやるなと思うけど。
──教訓:古群山諸島へは夏に来ましょう。
0943陸側に着いた。橋口の港町をぐるっと回っていくらしい。
0948群山方向への直線に入りました。この辺りも多分埋立地。凄まじい広さの工業用地が、まだガラガラ。
1011下車スタバでエスプレッソダブルとWC。あー漏れそうでした。
KSNU kunsan National Universityのロゴ前のバス停……と昨日は気づかなかったけど、41番乗車。1020、直近光州行1120の1時間前。(照32)
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「ターミナルムニッカ?」と乗ってきたカップル。
~行きますか? ~갑니까? 갑니 = ムニツ 까? = カ?
へえ、41はアンパン十字まで行かずに東西を通る。この低地辺りもやや建て込んだ界隈です。でも路地がある感じではない。うーん、見えない町だな。
アーミーコートの男がゆったりと車道を歩く。
1039NH十字。
光州 광주 gwangju
0630 0720 0800 0840
0940 1040 1120 1240 1405 1530 1720 1940 2040……計13本/日
1120便が買えた。WCで最後の一滴まで排出してからバスへ。4番乗り場からでした。
人件費削減なのか人間一人以外は全部機械、なのにどこか長閑なバス停です。
──最も多い便は全州らしい。JeonJuExpressという赤い車体がどんどん発着する。──なぜかJeonJu全部州とGwangJu光州を何度となく混同してしまう。なお경주 慶州はもっと発音が近いけど、ここと間違うと最も危険。
隣のABCコーヒーについに行けなかったけど、今買うと危険過ぎる。
えっ?김해金海から直通があるの?0935 1410の2本だけ。
仁川からは15本。
5分前に来た。切符は取り上げられた。──前方テレビによるとどこかで飛行機が真っ黒焦げで着陸したらしい。
帝国、もとい定刻出発。
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