目録
駅西編
川内元旦
元旦も朝九時過ぎから,鹿児島中央駅から九州新幹線川内行きに乗車致しました。
「もう幾つ寝ると寝正月
寝正月には凧上げず
独楽も回さず眠りましょ
早く来い来い寝正月」
というとてもポジティブな替え歌が頭を離れないけど……これどうでしょう。
さて新年なので希望に満ち満ちてるかと言えば──本日の川内も全く自信がない。
川内・新田神社は薩摩一宮との説もあり,ニニギの尊伝説もあり,宣教師が甑島から着いた歴史もあり,もちろん密貿易港と記されもしますけど,今に何が残りそれがどのエリアか……となると全く不明のままですけど……とにかく向かってます。
0911到着。早!新幹線10分です。
「日本一!川内大綱引」展示の綱あり。あと,次の甑島便の時間表示あり。──この便には他日,乗船することになりました(→第三十七波 甑島編)。
駅から西の展望は,前方にすぐ山塊,北に開けてる。古い町らしき気配はない。
川内温泉センターに,いきなりですけど浸かる。1016。
川内ホテルとしか看板はない。けれど裏に回ると小さく入口あり。
適度に広く,何より……なかなかのお湯でございました。
1019,湯気のたつ西の道を北へ。
唯水神祠
春日川と表示のある,幅10mもない川。1022。
川の石積を認める。
公園脇に水神の祠。側面に昭和2年の彫りこみがあります。榊と白短冊の供えもある。
▲春日川。岸に石垣あり。
川に沿い蛇行,概ね北東へ。石積に段差があり船着き場を思わせる。
1028,川を背に北行。町並みは普通だけど道に微かなアップダウンと湾曲が出てきた。
1031,おおとり荘。まだ西に川が見える?その向こうに山形屋の看板?GM.と位置情報をオン。──どうもこの辺りの意外な斜道を舐めてたらしく,今から思うと道に迷ってます。
え?まだ北の大きな川は越えてなかったか?結構大きな町です。西の山形屋方向へ左折。隈之城川沿いに北へ。
▲隈之城川。ここにも水神祠。
橋桁にまた水神祠。1037。こちらは古い。やはり大小の2柱。
この地区は,一体何なんだろう?──この疑問は今でも解けてません。
1040,西へ。「そうしん」の信号交差点を過ぎると,俄かに町めいてきた。南にアーケード。
1044,向田交差点。右折北行。タイヨー川内店を過ぐ。バス停,各路線1時間に1本程度。
九州泰平
大平橋をようやっと北へ渡る。1048。西にコンビナートが煙吐く。
1055,ローヤルイン川内前の交差点を右折,泰平寺に向かってみる。バス停大小路。
1100,川内教会,公園,寺。公園に「秀吉・義久の和睦」像。秀吉が1587年,泰平寺に本営を構えたイメージらしい。
▲泰平寺の案内看板と地図
和睦石脇の案内板に歴史地図。国分寺はこのさらに北になるらしい。──もうこの辺りで,行く気は失せてしまってます。
秀吉侵攻時の住職・宥印法印の墓は五輪塔。他の僧墓はもなべてそうらしい。
▲1111秀吉九州征伐時の住職・宥印法印の墓から
宥印さんの墓の案内図には薩摩国府推定域表示あり。この真北です。
また,川内川の渡し・渡瀬口は寺の真南。その対岸,駅川の渡しは──「渡唐口」とある。「唐」なのか?
▲泰平寺案内板の地図
和銅元年(708)元明天皇の勅願寺として,天下泰平,万民安楽を願って薬師如来を本尊として創建されたとされています。(略)戦国期の享禄年間(1528~1531)に,宥海法印により真言宗大乗院の末寺として再建開山されました。
その昔,境内は極めて広大であったとされていますが,境内は今では大部分が墓地になっています。〔案内板〕
零戦墜落
1 128,川内川方向へ南行してみる。
何ということはない車道です。ただ,なぜか緩いアップダウンと蛇行があります。元の河原だけど原型は古い道てしょうか?
▲1130泰平寺から川内川方向への道(2)
鎮魂碑。1135。
昭和20年3月18日に川内川河畔に墜落した零戦パイロット小島満範さんを旧海軍生存者の会「川内かもめ会」が祀ったものとある。──この飛行士や目撃談は,ネットではヒットがありません。時期的に特攻機の可能性が高い。地元では,当時の鮮烈な記憶だったと予想されます。
川岸は整備され歩道もなし。
帰ろう。
▲太平橋から眺める南岸・渡唐口
1153,橋から見ると「渡唐口」側はそれほど開発で荒らされてはいない風です。駅側への川もここから分岐してる(今は取水口になってるけれど)。
立ち寄る気になりました。
逆方向,北側海手のコンビナートの向こうは原発らしい。反対看板あり。
▲原発反対看板
渡唐之口
なぜなのか,両岸ともこの渡し推定地に大がかりな出っ張りを構築してある。船をつける金属のキノコ状(何て言うんだアレ?艀?)も残ってて,ここは近代まで船着き場に使用されたものらしい。橋がない時代の渡しだろうけど,ここはいつまでそうだったんだろう?
ここには案内板あり。
▲「渡唐口」の案内看板の地図
「薩摩街道渡唐口(ルビ:ととんくち) 薩摩街道保存会
江戸時代,参勤交代のときに,薩摩藩主以下随行の一行が宿泊した場所を御仮屋とよびました。薩摩川内市には向田(むこうだ)御仮屋と西方(にしかた)御仮屋がありました。
向田御仮屋で一泊した一行は御仮屋馬場の川内川岸の渡唐口から渡瀬口に川舟で渡り,陸路小倉を目指しました。小倉から船で大坂(現在の大阪)に行き,そこから東海道線沿いに江戸に向かいました。
なお,薩摩藩の参勤交代には陸路のほかに,渡唐口から川舟で川内川河口の京泊に下り,そこで対岸の久見崎(くみざき)軍港で用意した御座船に乗り換えて長崎・玄界灘・瀬戸内海を経て大坂まで行き,そこから江戸へ向かう海路もありました。〔案内看板〕
なるほど。だけど,薩摩からの上京路でなぜこの川内ポイントが,航路の中継点に選ばれてるんでしょう?
分からない。でもとりあえず,この渡唐口からの旧道を歩いてみたい。1214南行。
▲1218渡唐口から南への正面風景
NTT西日本川内ピル。うーん。まるで……そんな面影を感じさせないぞ?
1217,先に通ったそうしんの交差点。まるで,です。ついでに飲み屋街らしいのに開いてる店もない(元旦だからね)。
1227。もう昭和通に出たので左折。今東を仰いだ道を進む。元旦の向田本通は静かでした。
駅に「平佐北郷家 龍神伝説庵之城」との看板を見る。1303,鹿児島行きに乗車,帰路へ。
庵之城?
──一寸待て?「平佐北郷家 龍神伝説庵之城」はどうなったんだ?
……と自分でもツッコミたくなるメモを残してます。
平佐北郷家とは,南北朝期の島津宗家4代・忠宗の子,資忠を祖とする都之城(現・宮崎県都城市)の北郷家中,薩摩郡平佐村(現・薩摩川内市内)の「私領領主」となった分家〔wiki/北郷氏〕。1595年の所領替に纏わる移動らしい。庵之城は,この平佐北郷家の居城・平佐城のうち東の一角を指す。明治初年までは北郷家菩提寺・梁月寺(りょうげつじ)がありました〔後掲薩摩川内観光物産ガイド〕。
駅の東側すぐです……。
この北面,東横イン薩摩川内駅東口には何度か宿泊もしてます。宿前から南面する辺りを見やりながらタバコを吸った記憶があるけれど──一服しとる場合じゃないがな!
沖縄Xによる集落地図の精査──といっても元ネタは地理院地図を開けば見れるそのものですけど──こんな貌のエリアでした。
Xっとるやんけ!
道も迷路状だし,神社も多い。地名は平佐,東の微高地には「平佐麓」と書いてある。
麓やんけ!
これは悔しい。キーッというレベルである。お正月気分だったとは言えあまりの迂闊さに──さらに不味いことに,たまたまコレに気付いたのが鹿児島行き計画中だったので──2年半を経て再訪することにしたのでした。
駅東編
流石に雪辱戦には調べて行きました。
平佐城に関する初出史料は,15C初めの記録という(ただし出典史料名不詳)。
応永14(1407)年、島津家6代当主(総州家初代)・師久の次男、伊久は、川辺の平山城を伊集院順久に追われ、伊久の子・忠朝が拠点としていた平佐城に逃れ没した記録が確認できる一番古いものになります。直後に島津家7代当主(奥州家2代)・元久に攻められこの城は放棄され、天文元(1532)年には入来院重朝が攻略しますが、永禄12(1569)年に入来院氏が島津氏に降伏すると平佐城は島津氏のものとなりました。〔後掲鹿児島日本遺産/平佐〕
北郷家が平佐入りしたのは,10代時久が1595(文禄4)年に都城から移封された際。この時に平佐を割りふられた三男・三久が平佐北郷家の初代になります。
──この時の事情は,実際には前述よりもっと複雑だったらしく,wikiは「11代・忠虎は島津義弘に従って朝鮮出兵に出征し,戦地で病没」,移封はその後とする。都城の旧領には伊集院忠棟が入る。この伊集院家が1599(慶長4)年,島津家史中で最大の反乱と言われる庄内の乱を起こし,北郷家はその鎮圧に功あって旧領の一部を回復します。ただ北郷家の全盛期は既に去り,どちらかと言えば平佐に留まった一派の方が藩政に名を記すことが多かった,ということのようです。
つまり豊織末期の何らかの政治闘争で,壊滅はしなかったけれど劣勢に陥った経緯があるらしい。
なお,平佐麓は鹿児島日本遺産が掲げる12か所には入っていません〔後掲鹿児島日本遺産
/エリア一覧(麓) 〕(その他の麓にカウント)。
白猫一匹
GM.(経路)
新幹線が「下り専用」と書いてあるエスカレーターの上から発車?なぜじゃ?それは分からないぞ……。
0917,鹿児島中央発。ゆくりする間もなく0929薩摩川内着。
〇937,東横イン喫煙所前。
東行。ファミマ前のT字を南行。
少し登りになる十字を左折東行。
0944,次のY字を左へ道なりに進んでみる。石垣が少しある。
坂の真ん中に白猫一匹。道がくねり始めた。
右に湾曲後のT字を右折南行。0947。緩い登り。
東横インを振り返り一枚。
丸っきり住宅地です。ただ,前方から左手にかけ尾根が見えてきました。奥之園公民館。
延寶七年
◯950,愛宕神社を確認。坂を登る。
どうということはない界隈です。ここがどんな意味を持つのでしょう。
寶寶暦七年の「奉寄進石燈盧一對」の石碑。奥の元社らしき祠には「延寶七已未年」銘。祠本体には「文政三庚辰三月吉日」銘。
※寶暦七年≒(宝暦7年)1757年
延寶七年≒(延宝7年)1679年
文政三年≒1820年
やはり奥の延寶七年銘の祠が最も古い。
ただそれならば,文政三年銘の祠本体がなぜ150年近く新しいのでしょう。建替えたなら,前柱はなぜ前のままだったのでしょう。
公民館前に戻り再び南行。1001。
公民館道路脇に共同井戸らしきものあり。これはなぜかここでしか見ませんでした。
「太陽光発電のやまと」の先の脇道へ左折。前もってチェックしていた道なんですけど──この道も家並みはやはり普通です。ただし?道のくねりは出てきました。
天然虎口
なるほど。これは,さっき見た尾根道の下沿いで,道は地形に沿って揺らいでるらしい。
道が地形に沿うというのは,地形を壊して道をブチ抜く機械力のない時代に出来た道だということです。
この土地の地形を,やや先走りになりますけど見ておきましょう。
上記陰影図で見ると,川内川のおそらく氾濫原に突出した異様に複雑な起伏が浮かんできます。昔の海岸線ははっきりしませんけど,急坂南西,おそらく先の愛宕神社辺りではないでしょうか。そこから平佐麓────への谷間のような地形を,この時に登っていたことになります。
1007,T字。山側に石垣のライン。右折東行。──このラインが,川内川湾入部から平佐麓への入口だったと想像できます。血腥い時代には,天然の虎口として用いられたでしょう。
突然に急坂。
これは……以前の尾根越え古道を,車道に拡張したものか。──平佐麓への入口だったなら,この辺りに門,ことによれば関所のような場所があったようにも思えます。
尾根トップ。1013。
周りはやはり新興住宅地。その一棟からクラシック,激しいピアノの音。
しばらく平らな道。
平佐麓郷
T字を右折。1015。
はっきりと尾根東縁の道。つまりT字は崖にぶつかっての分岐です。
下に墓地が見えた。おそらく北郷家墓地です。
次のT字は左折南行。
左手に10mほどの壇になった石垣──これは先の陰影図にも確認できます。──でも道側は新興住宅地が続く。
ふいに左手に「庵之城公園」。でもここには緑地のみ。
ガードレールを強引に越えて神社(南方らしい)へ出てみたけれどここから奥の本郷家墓地へは行けない。──後で調べると,どうやらこのブロックの西側のキレイな車道(→この辺り?:GM.)から入るらしい。※観光したい方は,こちらをご参照→薩摩川内観光物産ガイド/平佐西の歴史散策(4)北郷家墓地と兼喜神社
1
変則十字
027。うーん,ならば参道を下るか?いや,もう少しこの高台──おそらく平佐麓を歩いてみよう。ガードレールを再びまたいで西南行。
T字というか道の右湾曲地点から,左というか脇道へ。1032。
あれれ?行き過ぎた。少し登り直して途中の電信柱,ごみ収集所から右折西行。1038。
Z字に折れて行けそうもないけど……おおっ抜けれた。
変則十字。1041。対面の細道へ。
道の向こうに真っ直ぐ東横イン。さらに向こうに煙がモクモク。原発でしょうか?
南四官竈
何だろうこの道は?私道にしてはすっきりしてるし,公道にしては荒れてる。
古道というにはのどか過ぎるけど……そういう古道だと思われます。
あ?ここが竈門神社なのか。
──平佐麓では,どうやらいつもこんな風に,いきなり中世が姿を見せます。
右手へ入る。1047。右手に平佐麓自治会館。
(略)平佐北郷家初代三久朝鮮の役凱旋の折鉢の製法を能くする。(ママ)「南四官」を連れ帰り家人大山周左衛門をして就いでその製法を学ぶしむ。爾来鋭意之が進展。完成を期せんが為竈門神社を建て火之迦具土神を勧請した。(略)〔案内板〕
この「南四官」という用語は,平佐麓関係記述にしかヒットはありません。当時の朝鮮の官名でしょうか?
蜘蛛の巣は張ってるけど酒の供えがあります。正面はアルミサッシのドアで,ヤマトならば敬虔な建造ではないですけど,祈っているのはヤマト人ではない。
三年片頬
車道に出て,一つ左手の道を西行。1102。
この辺りからは,また一気に新興住宅地です。それは駅までずっと続いてるけれど,道はやはりどこか古びたくねりを残します。
平佐西小学校。平佐城跡──とGM.にポイントのある場所だけど,特に表示や痕跡なし。校内なんでしょうか?
1107東横イン方向へ北行。
や……やまぐちが日曜定休!迂闊でした!!そこで……今回食べてなかった鹿児島ラーメンにギアを切り替えます。
1118石走ラーメン
ラーメン550
鹿児島ラーメンからの川内温泉センター。自分的には鹿児島満喫コースです。温泉センター前の喫煙所で正午の鐘を聞く。
薩摩隼人は「三年片頬」(かたふ),三年に一度それも片頬を緩ませるほどにしか笑わぬというけれど,川内は──一見の観光客にそう簡単に微笑んではくれないシブい町でした。
1219発のつばめにて本州へ還る。
▲(再掲)「大綱引の恋」普通の恋とは違うのだよ!普通の恋とは!
■レポ:大綱引の教育心理学
本文中では終始ネタにしてる川内の綱引は,実は,前章照島(→民俗:照島秘伝の韋駄天走は鞍馬楊心流)で見た以上の……かなり本格的な「戦闘訓練」でした。
朝鮮出兵では、島津軍は久見崎軍港より出帆しましたが、兵士の士気を高めるため、古くからこの地域で行なわれていた綱引きを行いました。川内大綱引はこれに由来するといわれています。〔後掲川薩地区法定合併協議会〕
この時に目指したイメージの土地は,ここにある久見崎でした。これについては後掲することとして──まずは綱引です。
「けんか綱」ではありません
川内大綱引保存会(以下「保存会」)が丁寧に記述している次の解説は,むしろこの行事の古態を浮き彫りにしています。
「けんか綱」の通称は現在使用しておりません
上半身裸の男たちが、綱の中心で押し合いをする勇壮な様を表すのに、以前は通称として「けんか綱」という言葉を使用していました。ですが、綱中心部で繰り広げられる押し合戦は、相手を綱の上から押しのけるための押し合いであり、決してケンカをしているわけではありません。〔後掲保存会/歴史〕
「押し合戦」というのが川内綱引の特徴らしい。
通常の,例えばお子様が運動会でやる綱引は「引き合う」だけですけど,川内のは「押し合う」,つまり引き隊を潰し合うのです。
集まった人々を三つの部隊に配属する。一つは「押し隊」である。綱の中央部に陣どる一団で,もっばら肉弾攻撃をもって押しまくり相手の体勢を崩しにかかる。押しの後方に位置するのが「引き隊」である。太鼓の合図に合わせて文字通り引きまくるのであるが,時には綱を高く上げたり,また綱に乗ったり座り込んで動かないようにしたり,種々攻防のテクニックを使って勝利に導く役目である。〔後掲保存会/ルール〕
この「押し隊」の存在が「けんか綱」のイメージを具現してるようなんですけど,ワシ個人がある意味ゾッとしたのは第三の隊「ワサ隊」です。
繰り返される挽回の応酬
博多山笠追山で言う後走りのような予備軍または綱の余りをさばく人たちなのかな……と思ってましたけど,この隊が実は最重要ポスト。しくじりの許されない最終防衛線を担ってて──ラグビーで言えばフルバック。
三つ目が「わさ係」である。ワサというのは綱の両端にある太い輪のことで,ワサ係とはそれを扱う人たちのことである。綱の中心点には,一本の杭がうち込まれておりこれは「ダン木」と呼ばれている。これには通常生のヒノキを使う。綱引の途中に形勢不利となった時,敵方に綱が引かれつくす寸前にワサ係がワサをダン木に掛けることにより,敵の攻勢にストップをかけて,これ以上は引かれないようにする。〔後掲保存会/ルール〕
「輪っかを杭に引っ掛けるだけ?」とこれを読んでも思ってました。でも記述を読んでると,このワサ隊の引っ掛け作業には決死の覚悟が窺えます。
ワサをダン木に確実に掛けるために、また、曲げたワサのところに巻き込まれて大けがをしないようにするために、ワサ係・ワサ払いは水色のハチマキを締め・水色のTシャツを着て、笛を吹きながら走ってきてダン木周辺の人を払っていきます。笛が鳴って水色ハチマキが見えたらすぐに脇に避けてください。〔後掲保存会/ルール〕
重要なのは,ワサを掛けてしまえば3隊間の配分を一時的に変更できるということです。ワサ隊と引き隊から押し隊に臨時動員できる。この再編成部隊による攻撃で敵の押し隊は粉砕され,彼の引き隊を妨害した後,ワサを外して改めて引くことで劣勢を巻き返すのです。
過去,ワサを掛けるのに失敗して綱を持ち去られ敗北,という展開も無くはなかった,ような書き方がHPにはされてますけど……ワサの掛け損ねがなければ,このルールだと,当然綱引は延々継続されます。だから──
時間内に引き・ワサ掛け・押し・引き・ワサ掛け・押し・引きを繰り返し、一定時間たつと綱にノコが入れられます。その時に綱の中央を自陣側に持っている方の勝ちとなります。〔後掲保存会/ルール〕

鬼石曼子養成プログラム
川内綱引の由緒には,朝鮮出兵と関ヶ原戦との創始時期のブレはありますけど,当時の兵の士気を高めるためと明記するものが多くあります。
この大綱引きは、最初、関が原の戦いに向かう島津軍の士気を高めるため行われたといわれます。それ以来、江戸期を通して北薩摩の各地に広まり継承されていました。川内地域の最も大きな綱として残ったこの大綱引きは、近年は向田地区と大小路地区の商業の繁栄を占う祭りとなり、毎年9月22日の夜開催されます。
関が原の戦い(1600年)の数年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津軍が朝鮮に駐留していたことがありましたが、その折りに、この祭りを持ち帰ったのではないかとの説もあるようです。〔後掲ふるさと薩摩川内〕
もう一つ,朝鮮起源説も根強い。必ずしも知られてないけれど,韓国の綱引は2015年にユネスコの世界人類無形文化遺産に登録されています。現在も「学校や職場の運動会などで,協調性や結束力を高めるためによく行われ」るという〔後掲Korean Net〕。
綱引そのものは隣国韓国にそのルーツがあるとされ、これをいわゆる青少年教育である郷中教育(子弟制度)の中に取り入れつつ継承されてきたものであるという説もあります。〔後掲保存会/歴史〕
ここで問いを設定してみます。朝鮮出兵時に島津兵団が朝鮮で見たか,より悲しい想像としては強制連行された朝鮮人が収容地でやってたか──とにかく16C末の島津-朝鮮の接点で綱引の原型が伝わったとして,島津エリート層はその伝播にどんな教育効果を期待したでしょう?
「引き隊」の役割からは,単なる根性とか結束を高める意義も見いだせます。又「押し隊」からは攻撃性や突貫精神も想定できます。でもそれだけなら普通の綱引通り,勝った負けたの短期対決でよい。
川内綱引は違う。簡単に勝てないし,負けもしない。双方が完敗ギリギリのところで踏み止まり負けを挽回するようルール設定されてるわけで,ワシには──「諦め悪く最後まで攻撃し続ける」,いわば死兵の養成プログラムのように思えてなりません。
1600(慶長5)年9月15日午後,関ヶ原。西軍の敗色を認めた島津軍千は敵中突破後,追撃する東軍進路に数名ずつを胡座に座しめ,迎撃の鉄砲を撃ち尽くした後に突撃するよう命ず。必死の殿軍,いわゆる島津の捨て奸(すてがまり)です。島津側は島津豊久や長寿院盛淳が戦死,徳川側では井伊直政と本多忠勝が負傷(この傷が元で死んだとも)。島津方千のうち大阪に着き得たのは80名。
触れざるべき島津を造り出す教育心理学的装置の残存が,川内の綱引とは呼び難い綱引であるように思えるのです。