外伝03-FASE14@deflag.utina
まだ青い空 まだ青い海(続々続々)

 ゾクゾクッと,題名が何だか風邪引きそーなことになってまいりました。そろそろ蛇足にも程があるし…収束に向かいます。

 8時半,河原町バス停から11系統山越中町行きの市バスに乗車。
 嵐山へ。阪急じゃなく路線バスで向かってみました。
 繁華街を後にすると,雪の残る寂し気な街並みが窓外に広がり始める。その寂寥感が,太秦辺りから逆に幽玄な味わい深さに昇華していくけれど。
 ――京都の本質は山里なんだ。霜のまだ溶けない嵐山の山河で確信しました。


▲寂寥たる嵐山――京都の本質は山里

 突如として話はデカくなるけど――九州から東征してきた邪馬台国分派がようやく築いた新天地が飛鳥や奈良だよね。それが内部抗争と制度疲労で行き詰まってどないもこないもなりまへんって状況で,起死回生のヤケっぱちに,当時の世界観からすりゃトンでもない北の果ての偏狭な山里へ一気に遷都しちゃった!その土地が,当時は出雲や大陸からの移民の難民キャンプ地だった今の京都。
 小松左京の「遷都」に移転決定前の山城に立つ桓武帝が,「ホントにこんなとこへ都を?」と馬上で呆然とする描写がある。
 決して合理的な選考じゃなかったはずです。家康の着目した江戸に比べ,はるかに不利な地勢の選択でしょう。
 中世の物資の供給や流通上は元々無理があるし,軍事的にもこんな攻められ易くて守りにくい地勢はない。当時技術的に移転可能な範囲でだけど…遠くの場所でやり直せるなら私どこへでも行くわ…ってのが本音クサい。奈良時代末の日本はそれ程時代に追い詰められてたのね。
 かくして山城国のこの盆地は,一躍日本史のど真ん中に躍り出る。この出生の数奇さが,京都の独自性の根源なんでしょね。

 第三次の買い食い爆撃の後,目指した「うさぎ亭」が見つからず,結局11時半まで待って錦市場の池政に入りました。
 店頭は京野菜を専門に売る八百屋さん。その奥手の露天のベンチみたいなとこに座る。メニューは月替わりのお昼の定食のみ。
 このシチュエーションで普通なら1800円は馬鹿高なんだけど,食い終えた実感は――倍だって払うぞ!!
 鰆の照り焼き。
 堀川牛蒡の天ぷら。
 百合根のあんかけ。
 白味噌。鶴を形どったニンジンと亀の大根が入る。
 煮物。れんこんと大根が主体。
 こ…これが京都の実力かあ!!――どれもこれもが淡白で超奥深い。食って「あ!ウメー!」っちゅー短絡的な味覚と別次元の,胃からコダマのようにエコーしてくる満足感。
 完敗だって痛感。今のわしにはまだ,ここのおばんざいを完全に味わうには力不足にも程がある。3割も理解できてないと思う…中途半端なグルメでスミマセン…修行してから出直しますんでその節はまたよろしくお願いッス…


▲池政の昼定食

 これまで全く興味のなかった素人の自習ノートなんで,南倍南さんを始め玄人様におかれては温かく見守って頂きたく存じますんですが。(一気に弱気)
 11月。鰆(さわら)の幽庵焼き。
 12月。聖護院カブラの千枚漬,すぐき漬。
 1月。白味噌雑煮。
 京都初心者向けっぽい「京都の事典」(木野木啓人他著,ランダムハウス講談社,2007)によると――京都には,こんな感じの季節に応じた産地や旬のアタリ料理がある。そんな感じで,京都のおばんざいには慣習や決まりごととして細かく社会システム化されてるみたい。
「おばんざいというのは,ケの日,つまり普段の日に食べるおかずのことで,お番菜とも書く。番の字は,番茶や番傘に使われるのと同じく,粗末な,普段の,という意味がある。」
「月に数度,何日には何を食べるかを決めていたもので,ある家では,朔日(ついたち)は,小豆ご飯,なます,にしんこぶ。別の家では,十三日は,小豆,小芋,焼き豆腐を入れた白味噌汁,二十一日は茶飯,豆腐のおすまし。月末にはおからを食べることを決まりにしている家もあった。今日,おばんざいの代表的な料理としては,おからの炊いたん,ひじきの炊いたん,大豆と小海老の炊いたんなどがあげられるだろう。」(前掲書) へえ~全然知らんかった…
 ただ,この本には「いま流行のスローフードのスピリッツは精進料理にあった」なんて記述もあるけど――そーゆーのとは違うと思うわ。
 つまり。貧困な食材しか入らないこの無理矢理な急造の都には,地勢的な実力以上に,多量かつ最高ランクの美食を供給しなけりゃなんないプレッシャーがかけられたからなんだと思うわけ。
 これは,日本の社会史上この上ない難題だったはず。だからこそ飢饉や経済破綻も繰り返された。
 けど,それこそが,日本史上最高級の美味を生み出す環境になった。そして――最高に緻密な食文化システムを。
 漬け物や寿司など保存食を特色とする京都料理。
 カロリーや鮮度に乏しい,貧困な食材しか流通できない悪条件下だからこそ,食材選別と調理方法の工夫が生まれる。長い歴史を通じて,その工夫が人間に適した食文化スタイルを形成してく。思うんだけど…それが美味の唯一の条件なんだよなヤッパ!
 そこんとこで――体重半減のための低カロリー生活のもとで鋭敏になったわしの舌と,劣悪な食材環境下で生み出された京都の美味とが,原理的にクロスするんだって感じたわけさあ。

 京都最後の1食はグリグラカフェへ。
 木造の町屋,15席位のメチャクチャちっちゃい店。
 お家の昼ご飯1000円プラスコーヒー100円としました。
 釜炊きご飯,白味噌汁,椎茸と筍の煮込み,春菊のチヂミ,豚の角煮,杏仁豆腐。
 「自分たちが食べたい料理」を出すモットーの店だって。京都風の日本食を中心に,韓国,中華がプラス1品…おまけに豚角煮,つまり沖縄料理のラフティーときたもんだ!
 オシャレさはともかく味は正直カフェとして抜群じゃないけど,食感覚の健全さに共感。那覇の豆腐屋食堂と同じ納得がありました。食の「標準時」みたいな心地良い平衡感覚。
 ところで3食目はって?
 四条京阪へ。京橋で東西線に乗換えて新福島に最大戦速!リミットは15時!
 もちろん,チョウクのミルスを今度こそ手で食うためであります!

 とゆーわけで多忙を極めたんで,第三次爆撃の戦果を味わうのは広島に帰ってからでした。
 最後は京都だけに清水の舞台から飛び降りる高ッい買い食い。
 うちだ:緋の菜漬,すぐき漬,千枚漬
 田中鶏卵:だし巻き
 魚重:なれ寿司
 どれが高いか関西人なら一目瞭然――なれ寿司です。300g位のセットに2600円払ったけど…食べて納得!ブッ飛ぶの妙味でした!魚も米も糠も渾然一体に超臭いッ!のに超ハマる!!…これは他の何にも例え難い。是非トライしてね。
 スグキ漬もお握り1個位の塊が800円した。けどコイツも最高!酸っぱ辛いのにほんのり高貴な甘さ。
 実は昨日高知ひろめ市場近くの漬け物専門店でスグキ漬けを売ってたんで,「高知でも取れるの?」とオバチャンに訪ねたら「これは京都だけです。けど京都でも扱う農家は年々減ってるの」だって。この味の理解できる消費者がいかに減少してるかを痛感――ってわしも理解して1週間ですけど。


▲広島人として気になってしょーがない衣笠丼。やっぱり…超濃口でグジャッとしてんの!?

 さて時は流れて世は移り,話はウチナーに戻るんですが。
 「まだ青い空」の章題は,これに続くフレーズが今回ウチナーに感じた率直な印象(というか悪寒)だったからです。ジャンキーとしてそれは書きたくないんで意地でも書きません。
 奄美は沖縄以上に旧習を残している。その是非は問わない。けどそれに比べて,今回垣間見た大阪ウチナンチュは,大阪の下町に吸収される直前の姿に見えた。
 強烈な個性を持つ沖縄は,同時に時代に同化できる傾向を持つ。それは強国の狭間に生き抜いてきた環境適応の逞しさでもあるのだけど。
 昭和の沖縄は,旧日本軍と米軍に蹂躙された被害者である一方で,基地経済という特殊環境によって独自性を守られる恩恵も受けてきたとも言える。
 今後の極東外交地図の変化で,そのガードは解かれる。
 その時代はもう始まってる。ナイチの郊外ベットタウンそっくりの天久新都心の姿は,それを最も示してる。
 ウチナンチュのアイデンティティは根幹から切り崩されつつある。昭和30年代のナイチと同じ自己喪失が,その時代にはそれを経験しないで済んでた沖縄に,より大きな段差で襲いかかるでしょう。
 全国最貧県にして失業率最高の沖縄がそれで経済的に救われるならまだしも,モノカルチャーで製造業も金融も弱い沖縄経済は,外資流入の前になすすべもない。今後この外資には,低労賃の中国や韓国,インドが含まれるだろからなおさらです。
 文化と経済両面の破局を予感させる最後の煌めき。わしには今の沖縄がそう見えたわけさあ。

 希望がないのに希望をほのめかすほど無責任なことはありません。
 ジュゴンでCoccoは「泣き疲れても名も無き花は咲いてくれよう」と歌うけど,フラット化した世界にそんなもの残りゃしない。もののけ姫のラストの花を息子の希望のために許したのと同じ思いだろけど。
 ただ,生き残る条件だけを記して,筆を置こう。

 わしは食文化を,無形の文化がその諸相の中で最も有形化した結果を示す相として着目する。食文化は掛け値のない文化の実情です。
 日本一の長寿県の座を失った沖縄の「ルビー」には,Cランチなど「軽食」を食うウチナンチュが溢れる。
 けど,一方で「沖縄奄美スローフード」のウェーブは広く深く理解されつつある。それを明記した店舗も増えてる。それはやはり軽薄で偽善的だけど,少なしナイチより余程リアルで切実な感触。
 来るべきサバイブ(生き残り)には,涙や感傷は当然だけど,怪しいダイエット業者の健康信仰や,お上が笛吹くエコやメタボなんか屁のツッパリにもならん。Coccoは「悲しみは要らない。優しい歌だけでいい」って歌うけど,優しい歌だってかろうじて踏みとどまる力になるだけよ。
 冷静に理知的に合理的にファイティングする。前進するなら,それしか選択肢はない。
 無力さは世界のフラット化である程度カバーされうる。
 沖縄奄美の利点は素材レベル。生産量的な薄さは否めないけど,質と種類はナイチとは桁違いの豊富さと伝統がある。調理レベルでも京都にすら比肩できる。
 ただ,食文化レベルでは,食材レベルの絶対的不利を補うためにシステム化された京都のそれに比べ,まだまだ脆弱。ナイチ一般水準よりは何歩か先って程度。
 食文化のこの状況から文化一般を推定すれば,ウチナーにはまだ戦える体力がある。
 その時必要なのはクレバーな戦略。かつての国場氏など四天王のよなリーダーも必要だろけど,ウチナンチュ全体の意識革命が先ず必須。
 戦後の無秩序を乗り切って来たウチナンチュが,迫り来る時代に耐え得ると確証はしない。だけどナイチよりは大爆発できる潜在力はある。
 その時代が来たら。ウンタマギルーが日本の総理になってるはずよ!