ヰ 紹興編・星期六6ヰ
柯橋\紹興老城水郷に三度遊ぶ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ
バス路
歩行路(経路)

柯橋へ:北西郊外,蒼天に雲なし

意の章です,最初に断っておきます。
 それも,書こうかどうかと迷うほどの豪快な空振りでした。
 ただこの時の光景──まさに生々しい現代中国の感覚,あるいは真意に思えるんですよね。なので,やっぱりどうしても書いときたい。

越府名園バス停から108路に乗車。北西7km,柯橋へ向かってみる。1007。
 席は右手窓際に陣取る。降り間違うと怖いパターンです。
 ルート確認してなかったけど,乗ってすぐ市のi-zhejang-yuechengというWifiに接続できた。百度地図のバスルートと重ねると,万达広場まで行ったら行き過ぎ。
 よし,行けるはずです。
 蒼天には雲一つなし。

第一医院バス停,1012。ここで右折,解放北路を北行に入った。次が城北橋。
 以前歩いた上大路と下大路の間の水路を越える。なるほど,ここも古道沿いに橋があるんだな。この形態の痕跡はずっと存続してるらしい。
 バス車内の標語「公交服務愛与你同行」って…いや,別に付いてきてもらう必要はなくてさ…。
 環城北路を西へ折れた?そのまま霞西路を進んで行きます。
 1022,国際摩尔城。もう完全に未知のエリアに入ってます。

公園都市。少し前まで農村が…

▲百度地図の紹興老城から北西・柯橋までの表示。湖水だらけ!

門橋を渡る。
 道が一気に3車線に。今やこれが,紹興の大多数の市民が住むエリアらしい。 
 1026,大きな車道…を超えずに右折したぞ?これは…越西路か。
 しかし!これは凄い眺め!
 また広い車道を横切る。鏡湖交警という建物。
 これ,忍城とか昔はこんなだったんかなあ。島々を渡っていく感じです。ただ,もはやアメリカ並みの自動車天国,路端に畑も農業者も牛もなく,もう公園そのもの。
 風林路を左折東行。
 1033,小善村バス停。名前の通り,少し前までは農村があったんでしょう。

▲柯橋地区の道路脇にあったマップ

突に右折北行?緑雲路か?
 さらに左折西行?ひいっ!浜江路??錫何とか中学???
 東浦派出所バス停。細い道になってきた?東浦汽車站,1040。
 水路沿いの,少しいい感じの道です。ただどうも,開発し残された街区に見えます。活気はない。

042,左折西行。
 金家工業園バス停。
 道は耶溪路,と表示を確認。とすると?梅福小区という表示も見えた。
 突き当たり湖東路を右折北行!もう湖の東側です。
 湖の眺望が開けた!
 群賢路を左折西行…した!ただこれは──

ルディングが無数に立ち並ぶ。
 わ,わ,右折北行しやがった!湖から北方向に離れてくぞ?
 慌てて降りたバス停は,湖中路群賢路口。1056。所要40分か。

▲柯橋の花園

你好珈琲,覚悟を決めて歩き出す

旦南行…する前に,ついでに北から回ろう。華宇路から西へ入る。
 入って唖然。
 モロ花園です。通りには何もない。──あ,中国で花園ってのは,周囲を壁と電気柵で覆って自衛設備バッチリのお城のようなマンションのことです。

▲牛&牛

イレ休憩のつもりでした。
1111HELLO COFFEE 你好珈琲
濃縮珈琲
 入ってみると,中は物凄い広さ。階も3階まであるぞ?
 調度は木目調。本も積まれて趣味がいい,というかそういうインテリアをバッチリ固めるコンセプトらしい。

▲ハロー・コーヒーでエスプレッソ

というか,ここの居心地の良さと,ぐんぐん縮んでいく期待感とで長居してしまいました。
 番号の代わりにぬいぐるみを渡される。管理上のメリットは疑わしいけれど,そういう個性を出したいみたい。
 ただエスプレッソ自体も,これかなりいいぞ?中国のコーヒーは,なんてもう全然言えないぞ?

▲東側を遠望。とても素敵なビル街です。

は言えそろそろ行かねばならんだろう。
 このハローコーヒー前の南北道が湖西路です。
 南行しよう。1126。
 当然ですけど花園の西側です。延々続くマンション群。
 日本料理店もちらほら見えます。そういう町です。

▲湖の水上橋。渡らない。

「まあキレイ」な都市の合間に

ルディングが途切れると東には湖水が広がります。
 まあキレイ。
 この辺りにごちゃごちゃっとした集落を予想してたんですけど,ホントにキレイな公園街。湖には長い橋とかかかってて,ハイソな,中国人は大好きだろうなという湖水でした。

▲ちょっと普通の通りあり

はお腹一杯になったので,1142,山陽路を右折西行。
 うーん。湖を離れても新市街が続くなあ。
 1153,金揚路を西へ右折!これでダメなら諦めよう。
 え?静かな佇まいになってきたぞ?南北は相変わらず花園なのに,その谷間に残る町並みが…?

▲同じく向かい側を撮影。人通りはかなり寂しい。

珠路。
 導かれるような臭いがない。迷う。直進…かな?1203。
 食堂街のような場所を過ぎる。「次鶏面」という料理の店で無座(席がない)を食らし,熱干面の店で迷った末にスルーする。
 さらに直進。

▲橋桁に今度は白菜がずらり

揚路に出た。1213。
 広い車道でした。
 西に巨大な白い建物──は病院か何かだと思うけど,ここで一気に視界が開ける。開けた視界にはこんな西の景色が遠望できまして──

▲西にはまだまだビル群にょきにょき

り返そう。
 少ししっとりした雰囲気の場所はこの辺りまでらしい。しかもその「しっとり」も水辺の公園のしっとりと見えます。老城の川辺とは似ても似つかぬ場所,要は紹興の市民はそっちを選択したようです。

喜羊羊のヤケ食いと環境調和な寂しい水辺

▲昼御飯

いうタイミングで自助(バイキング)店を見つけてしまったので,勢い,ヤケ食いになっちゃいました。
1213喜羊羊快餐
干物汁浸しのひき肉煮
のりの佃煮の三枚肉
筍と硬い葉っぱの水煮550
 1250,腹を満たして南行,康復橋から川辺を東行しました。以下4枚の写真を交えながら,ここの料理に触れていきます。

▲康復橋から川辺を東行。当然ながら釣りびとと散歩者の姿しかない。

茶苦茶フレンドリーで無茶苦茶美味い!
 一階席はほぼ満席。2階に上がっていいの?と尋ねると渋い顔。「不方便加飯」(おかわりするのが不便だよ)とたまたま空いた一階席に誘導して頂けました。
 干物は,昨日のを上回る魚香肉!軽やかな塩味と魚臭さに加えて軽い焼き焦げた香もちゃんと付く。これが肉の重い味覚に絡むのだから堪らない。

▲柯橋のキレイな川辺。橋も川辺も樹木も確かによく保存されてる。環境と調和した町並み,としては今の中国でよく頑張ってるとも言える。

日の干物は,八角など中華スパイスはあまり感じない。
 日本でも十分できそうにも思えるんだけど,なぜか出会した記憶がない。やはり隠し味に何か知らない調味が隠れてるんだろうか?それとも魚に肉という掛け算に,日本人が無意識に抵抗しちゃってるだけなんだろうか?
 最後のご飯かけもまた止められませんでした。

▲禁止事項の看板立つ柯橋の川辺。自治的な美化の意識も芽生えてる。市民の郷土愛は大したものなんである。

苔の佃煮もいつも以上。
 日本でやらないと言えば,この重い塩辛さの海苔に,三枚肉の脂身を合わせるのも日本にありそうで皆無の料理です。いわば重さの二乗,その旨さはご飯のお供に最高です。ただ,合わせ方のバランスが少し崩れると食べれなくなるでしょう。
 もう一品,筍。これに硬くて初め閉口してたあの葉っぱが合わせてあり,筍の柔らかな味覚と一緒になるとむしろアクセントになってしまう面白さ。

▲公園だったらいいとこな柯橋の川辺。この水辺と隣り合って,花園に住む暮らしを彼らは選んでる。

帰路:オランダ村に住んでるような

辺の道は寂しく続く。
 1317,やっと出た車道から166路で帰路につく。
 北市場の一つ前のバス停でした。橋の手前で左折東行すると公設市場の中の道に。相当の規模です。猥雑さを期待したけれど,小綺麗で大人しい商業区でした。
 いや,都市行政的には間違いなく大成功してる町造りです。その事はこの帰路の車窓でも確認できました。外部から非難するいわれは全くない。
 少し北向きの道へ。橋。雲集路。まだ市場っぽい風情。バス停は南岸公園。
 1325,空には薄ら雲。

世紀広場。1328。ここにも同名の花園が隣接してる。つまり花園専用として計画的に設けた商業エリアでしょう。
 この界隈の都市計画の基本発想は,島状の区画一つ一つを2~3ブロックの花園に分けてる感覚らしい。テーマパークみたいな構造です。長崎オランダ村に住んでる感じを想像してもらえればいい。
 道は島々を結ぶ都合上,決して方形を成してはおらず,程よくアップダウンしくねりながら続く。これも,見たい光景ではないけれど住感覚としては大変よく出来ました。
 1333,いきなり農家が増えた。バス停・沈家岸头。行きにもあったけどこの辺には水辺の生活が残ってるのかもしれない。
「でもおそらく残存してるだけでしょう。」とこの時はもう気分的に諦観しちゃってます。→巻末:次回用メモ:現魯西村=西墟,陸遊の郷

に開けた遠景には,巨大クレーンが砲列のように整列してる。
 1338,右折南行。バス停・風林路口。行きも通った辺りか?
 また凄い景色。水とマンションと街路樹の成す,一種異様に完成されたパラダイスの景観。
 大橋を南へ。線路越える。下に畑とビニールハウス…え?農家?
 網漁もやってます。二環西路と表示。南岸にも畑がまだぽつぽつ。
 この老城西域には,一次産業を手掛ける土地がまだ残ってる?郊外はあれだけ公園なのに──
 1345,左折東行。勝利路らしい。
 第七医院バス停の辺り,もうマンション群だらけになった。1347,雲栖村と表示が出たけれど,この辺りもに新興のマンション群。
 1350,元培中学で下車。実はこの場所も,秋瑾の専門学校(リンク集:31歳で処刑された革命専門学校長)が東すぐにある場所でした。

▲魯西村付近(Googleマップ/航空写真)

■次回用メモ:現魯西村=西墟,陸遊の郷

「沈家岸头」(位置:GM.)というこの呼称が,今まとめててどうも気になり,初めて地図を広げ,かつググってみました。
 観光情報にはヒットがない。もちろん日本語サイトにも引っ掛からない。
 ただGM.の航空写真とこの「岸头」名は…このバス停辺りがかつて港だった。南北の村の間,ということは両村共用の船着き場を,「沈」姓の業者が切り盛りしてたんでしょうか?
 港の地形は南からもえぐれたまま残ってます。このえぐれの場所に──半月を描くような集落があるらしい。
 村の名は魯西村。この名前を再度ググってみる。

※ 百科知識中文網/
「西墟,又名西魯墟,古地名。位於今紹興鏡湖新區東浦鎮魯西村。
在今紹興鏡湖新區東浦鎮魯西村與清水閘村交界河道處,曾有西墟斗門。宋慶元二年(1196),身任會稽縣尉的徐次鐸寫了一篇題為《復湖議》的重要文章。當時的鑑湖已大面積湮廢,水面所剩無幾。《嘉泰會稽志》用它那有限的篇幅,全文輯錄徐次鐸的《復湖議》,並用“頗有可取”四字來評價它,也可見編者對這篇文章的推崇。文中曰:“山陰者為斗門凡有三。一曰廣陵斗門,二曰新逕斗門,三曰西墟斗門。”」

 魯西村は古名を「西墟」といい,山陰(紹興北西のこの地方の古名→巻末レポ:日本海に面さない山陰県)の「斗門」の場所として知られてたという。
 出典は12世紀末の「復湖議」。え?12世紀末?
 そんな古い時代に有名だった「斗門」とは?──ここがなかなか分からなかったんだけど,意外にも答えは日本語サイトにありました。

※ コトバンク/大運河/「斗門」についての言及部
「これには労力を要し舟の損傷も免れなかったので,堰を廃止して閘に代えられることが多かった。閘は牐(そう)ともいい,唐代には斗門と呼ばれたもので,木造からしだいに石造に変わり規模も大きくなった。また運河道が湖沼の中を通過するときには,風浪の危険を避けるため湖沼中に石堤を築いて舟運の安全を計ったこともある。」

※ wiki/陸閘
「陸閘(りっこう、りくこう)とは、河川等の堤防を通常時は生活のため通行出来るよう途切れさせてあり、増水時にはそれをゲート等により塞いで暫定的に堤防の役割を果たす目的で設置された施設。」

 つまり「斗門」とは「閘」(こう),水門兼橋。それも「一日目は廣陵,二曰目に新逕,三曰目で西墟」と成語になるような要所だったわけです。
 二日目の「新逕」はどうしても分からない。一日目の「広陵」は揚州から泰州の古名しかヒットしない。その3つの水門が「山陰者為斗門」だという。「為」が建造した,という意味なら,「山陰人」と呼ばれた水利技術者集団が幅を効かせてたんだろうか?

※ 同/魯墟
「魯墟,古地名,是今紹興市鏡湖新區東浦鎮魯東村。是南宋偉大愛國詩人陸游先祖的祖籍地」
「村南有一座古橋–泗龍橋,當地人稱“廿眼橋”,是浙江省文物保護單位。此橋重建前的原橋應是宋朝詩人陸游在詩中多次題詠的魯墟橋。此橋在《中國科學技術史》(橋樑卷)有載。」

 魯西村から湾を挟んだ東側が魯東村。古名は「魯墟」,「墟」字が香港と同じ字義なら市場,つまり町としての中心は東岸だったのでしょう。
「泗龍橋」という水面をつたうような橋がここにある。文化財指定。

※ wiki/陸游
「南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰県(現在の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。」
「一向に進展しない対金国情勢もあって、単なる修辞主義を離れた気宇壮大かつ憂憤の情を込めた饒舌な詩風となった。」

 魯墟出身の有名人は,南宋代の陸游。対金主戦論の政治家で詩人。──金の北に西夏,さらに元が押し寄せてきてた宋末に,過激な主張を繰り返してた論者という。
 もう一人は清末。秋瑾(→別章小レポ参照)がサブを勤めた革命団のトップ,徐錫麟です。
 憂国の過激家を多く産む土地。そういう伝統だろうか?

※ 4travel/紹興の東浦古鎮 ~1/2の最後から2/2の最初にかけて泗龍橋が掲載されてます。
「東浦鎮は秋瑾と並ぶ清末の革命家・徐錫麟の生家跡がある。徐錫麟は、1873年の生まれ。 青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、のちに日本に遊学。帰国後、 当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。 だが、1907年、安慶での蜂起に失敗し、刑死した。」

 うーん。どうも色彩の濃い土地だとは分かったけれど,今すぐ飛んでいきたい場所とは映らない。
 ただ,次にこの老城北西に行くなら,ここへ行くと思う。全般の地名としては「東浦古鎮」と呼ばれる場所らしい。とにかく,観光地色は薄いみたいだし。

■小レポ:日本海に面さない山陰県

 この紹興老城北西域の史料を見てて何度も出てくる「山陰」とは何なのか,紹興って旧・越国の都「会稽」だったんじゃねーの?という疑問です。
 どうやら同じ「?」は現代中国人も抱いてるらしくて,「山陰_会稽」「山阴_会稽」で検索するとヒットがあります。※「阴」は「陰」の簡体字
 最初に驚いたのは,山陰県と会稽県が両立してた宋代中期までの県境。
 何と,今の解放路のラインそのままなのです。
▲山陰県と会稽県との境
 すぐ思い付いたのは異民族の亡国・越への呪詛?という疑いでした。
 敵地の都を境界線で分断するという記号的な「報復」は,ドイツに対して行われたのと同じ。
 ただよく考えると,漢族にとって恐るべき敵だった越族について,正確な情報蓄積はなかったろう。よく研究が深まってる邪馬台国論争での論点の一つ「会稽東『治』か会稽東『冶』か?」(後掲HP参照)論を見ると,漢代にすら「会稽」なるエリアは江蘇省の蘇州市辺りから福建省までの途方もない広域を指してる。
 つまり,現老城が越国都に厳密に重なっている保証などない。「かつての越の都・会稽」と言うと,今の老城域を越王勾践や夏王禹が歩いていたように聞こえるけど,今の紹興の町域ではない,とゼロクリアで考えた方が事実に近い。
 ただし,呪詛という意味では,「会稽」という広域名を県名まで縮小したのは,そういう意図も働いたかもしれない。
 また,もっと大がかりに──ほぼ確実に,長江の灌漑を成功させた越族の英雄・禹王を,黄河の灌漑をしたけれど黄帝に敗死した,として史書に収めてしまう方が,遥かに強力な呪いです。(後掲張論文参照)
 おそらく中国人は,境界で町を分断,なんてみみっちい呪い方はしないと思う。

 では,今の町域を県境が分断してた事実は,何を意味するか?
 逆に言えば分かりやすいのだと思う。かつての県境を中心軸とした町が現・紹興である,と。
 亡国とは言え永く影響を留めたであろう会稽県域と,漢族浸透が最も顕著だった大運河延長線上の山陰県域。──おそらくこの「山陰」名も,「会稽山の北辺り」という,ほとんど座標を記しただけの地名だったでしょう。それが植民漢族の一大中心になる。
 越族色を残す旧世界と漢族入植の新世界の境界に,交易場が置かれ,水運もルートづけられて,徐々にインフラ機能も備わった。その場所が,たまたま老城の真ん中に当たったから,あたかも老城を再興するような形で町が形成された。
 そう考えるのが妥当でしょう。紹興は越の後は,南宋の仮都になっただけなんだから,統治者側が計画的に整備した時期はほぼないわけです。
 そんな風に,民が自発的に造った町──というのは逆に中国で希有なんじゃないでしょうか?
 
※ 每日头条/紹興古稱山陰 為何魯迅卻說他不是山陰人
「原來是現在的紹興轄區,分為山陰縣和會稽縣兩處。而兩縣的衙門都設在同一城內。這就出現了一城二府的有趣現象。
而兩府的分界線是府河。」

※ 腾讯新闻/为啥绍兴古时叫山阴,会稽?
「按照秦朝的惯例,有郡还要有县,当时会稽郡共有26县,山阴县就是会稽郡26县之一。为啥叫山阴呢,主要这地在会稽山北侧,所以叫做山阴。」
「随着人口增加,经济繁荣,后来山阴县和会稽县平起平坐。六朝时期,随着中原人士大量南迁,山阴县人口众多,在陈永定年间,分为西部的山阴县和东部的会稽县,二县同城而治,同为会稽郡首县。
在中国历史上,两个县的县衙在同一个城市的事情非常少,而山阴和会稽却开创了中国历史的先河。」
「12世纪20年代,北宋北面日益强大的女真族政权——金,攻下了北宋首都东京汴梁(现开封)。当时,北宋皇帝钦宗和太上皇徽宗都成了金兵的俘虏。」
「高宗从海上逃到了会稽(绍兴原名),使会稽成了南宋王朝的临时都城。为了励精图治,匡兴宋室,即所谓的“绍祚中兴”,赵构决定用“绍兴”作为自己的年号,并把会稽改称“绍兴”。」
※ 时时彩计划/绍兴的绍是什么意思
「绍祚中兴,绍祚是继承的意思,简单来说就是继承国统,希望国家命运繁荣昌盛起来。」

※ amebaプログ/邪馬台国と日本書紀の界隈/邪馬台国があるのは「会稽東治」の東? 「会稽東冶」の東?
「「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、現在の江蘇省蘇州市辺りとなります。一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなります。」

※ 張 愛萍「呉越の「禹祭」から利根川の「泥祭」まで : 中日の治水神話源流考」上海シンポジウム 2011→ダウンロード

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です