油煳干青∈6貴陽&長沙:長沙入り4∋糟酸麻蒜

「ぎゅる~と」トレインで行こう!

▲藤子不二雄A「毛沢東伝」。特別付録が何だったのかとても気になる。

国4千8百万人の革命戦士諸君,お待たせしました。
 これから語る長沙は,毛沢東がその革命経歴のスタートを飾った,世界史的な町です。
 そこで長沙入りのレポートを記念し,本編ではその革命を称賛する画像の数々を挟んで参ります。
 なお,さらに詳しく学習したい方は巻末資料もご参照下さい…なんてね。まあ,上記の如くに左右に偏ってないサイトを選んだつもりですので。
 あ。ついでに私の政治的立場ですけど,労組にすら入ってないッス。ごめんプー。

題に戻って1223,貴陽地下鉄中山西路站ホームに立っております。
 この路線,正確には地下鉄じゃなく貴陽軌道交通。地上部分が長いからでしょう。略称はGYURT(Guiyang Urban Rail Transit)。「ぎゅる~と」と何だかキチャない音じゃね。
「往窦官方向」とある。反対側は「往小孟工业园方向」と表示。
 車両が来た。本日の乗車は6駅,貴陽北站まで。昨日のがらがら車内よりは少し客は多く,少し立客がいる程度には乗ってる。
 2駅目の北京路,つまり老城北限で1/3が降りる。
 5駅目,雅関で地上へ。周囲は煤汚れた平屋の民間が緩い谷を覆う。でも高架だけは何本も走ってる。
 再び車窓は闇。今度はトンネルか?山裾へ,再びトンネル。高度は高い。南山裾に人家なし。
 スピード緩む。少し平屋ある谷。なおも何本もトンネル。ここまでだけでもかなり難工事だったろうな。
 1244,貴陽北。所要20分弱。

▲貴陽北站にて。「為微信連Wifi」つまり微信経由でのWifi接続というチャンネルが多くなってきたらしい。一々SNSのパスなしでも繋がる。

山地公園省都・貴陽よ,さらば

地公園省 多彩貴陽風」とエスカレーターに看板。観光で一山当てよう,と行政が腹をくくった標語です。
 1252,駅前広場。東站よりは周囲にビル影あり。人も多い。
 回りには三角すいではなくおむすび型の小山。火山に見えます。ここに駅なんて,一体どう整地したんだろう?

▲貴陽北待合室。根強い人気のハローキティのキャリーバック。

陽北站 G1536 長沙南站
 2019年07月03日14:07 06車11A号
 ¥314.5元 二等座」
 駅の電光掲示板には,玉渓発郑州東行きと出ています。玉渓?それって確か…。

▲これは改札の中だけど「玉渓発郑州東行」です。

南省?!
 そうか,四川食文化圏にいるつもりだったから意識がなかったけれど,貴陽って5百km南西に行けば昆明です。雲南省は隣です。
 GM.は鉄道路を表示できなかったから,仮にここを乗用車で走る試算をGM.ですると──こんな感じ:GM.(経路)。
 高速経由で所要23時間44分。距離は2,013km。──東京-博多間の東海道山陽新幹線が1175km弱,ほぼ二倍です。
 …後日調べると,中国には他に西安-ウルムチ2300kmの高鉄というのもある。鉄ちゃんなら血のたぎる路線です。…いやワシは鉄ちゃんじゃないので関心はないけどさ,ふふっ(ここまで興奮してシミュレートまでしといて?)。

▲改札前のいつもの長蛇の列

毛沢東with女子高生

回の貴陽→長沙,所要4時間弱。
 これまでの中国新幹線で,広州行きに次ぐ最長乗車かもしれない。
 距離はそんなでもないのに何でこんなにかかるのか?まず間違いなく地形の峻烈さによるものです。
 あまり寝てる暇はなさそうじゃ!──いや,鉄ちゃんとしてじゃなく,地理的な知的関心からである。断じてそうであるから,決して誤解してはならない。
 1353,緑色の「正在検票」(検札中)表示が灯る。

▲新幹線ホームの喫煙所

車の入構が遅れてる。一服しよう。
 あ,中国の新幹線ホームって,どこでもタバコ吸えます。この駅は喫煙所が設置されてるからもちろんですけど,なくても皆さん吸ってます。もちろん中国人にも嫌がる方々は多くて,特に女性は露骨に手で仰いでますけど,喫煙者は気にせず吸ってます。…てゆーか,それでいーのか?と思うけど,彼らからすりゃ嫌がられる程度で電子タバコに転向する方が信じられんのでしょう。
 列車が滑りこみ,どどどっと皆さん乗車して,1407,定刻発車しました。

▲毛沢東with女子高生。日本漫画カブレの中国人漫画家が書いたんだろか?面白いけど。

際席です。
 窓際席…には爺さんが座っとるじゃないか!そこ僕の席,とニッポン人的に控え目に言うと,例によって「そっちに座れ」と当然のように主張する。ならばギアチェンジしよう。「窓際に座りたいんだ」と欧米人的に断固主張。ブツブツ言いながら3人がけの通路側へ移った爺さん,ガッツ石松に似とるな。
 通路を,スマホに怒鳴りまくってる子連れのオバハンが歩いてきた。2人だからよもやこの席じゃないよな?との期待は裏切られ,真ん中席に子どもを立たせたままオバハン,どすんと鎮座。
 ──何とかしろ。これ最強メンバーだぞ。
 凡例 黒いコートのオバハン:黒レンジャイ
    オバハンの前に立(たされ)ってるピンクで固め(られ)たガキ:桃レンジャイ

桃レンジャイの特等席

速ですけど,桃レンジャイの靴がさっきからわしの股を踏みにじってて,既に靴あとがついてます。
 列車の方は,ほぼ東へ進んでる。谷多し。トンネルが半分ほど。マンションだらけの谷あいを過ぎる。
 と冷静を保とうと記録してるスマホの画面を──桃レンジャイが覗きこんでくる。加えて,肩をトントンと叩く,もとい,ドンドンと突いてくる。ねえ遊んでよ,という具合じゃなく単に暴れとるのである。──殴るよ,桃。
 晴れ間が出てきた。──眩しいから閉めろ,と黒レンジャイが要求してくる予感がするけど努めて無視。
 速度260km/h。
──黒レンジャイ,テーブルを出して何をするのかと思えば,桃を座らせてしまった。テーブルには「請勿座或搁放重物在桌上 最大負荷25kg」ともろに書いてある。ほお,中国ではここに座ることを想定しとるわけですか。(んなわけない)
▲レアアイテム:毛沢東時計。秒針に合わせて毛さんが手をふるらしい。→イメージ:手が動く!毛沢東主席腕時計

黒レンジャイ熱唱!

424,貴定北。
 1436 谷の雪が積もった状態になってきた。降ってはないけど濃霧のようです。凄い底冷えだろな。
 年中のどかな里ではないように見える。ただ,というかだからこそでしょう,棚田は見事な景観を形成してます。
 1447,凱里南。ここにも繋がったのか?高鉄が?──と思って窓外を見ると,南北とも人家が皆無。相当な郊外らしい。※今調べると,凱里市街の25km南西
 1454,開車(発車)。結構長く停まった。空席も目立つ。
空は曇ったまま。
 1506,凄い長いトンネルに入った。2分ほど。出た場所は谷。民家は少数民族のではなさそう。さらにトンネル連続。相当な山奥です。アスファルトが見えなくなった。
 川。蛇行を挟み3百戸ほど人家。あれは少数民族っぽい。
 車内の速度表示は300km/h近い。この地形でか?
 川,5百戸ほどの町。

いういいところで──黒レンジャイがソングし始めた。すごい大声です。桃レンジャイも訳分からず,その歌に合わせて歌い始める。当然テーブルに座ったままだから揺りかごみたいに揺れてますけど,それ壊れるのは想定しとらんのか黒レンジャイ?是非ここで服務員,出来れば怖い奴に通りがかってほしいんだけど…こういう時には来ない。
 だから!桃レンジャイをテーブルに立たせてオムツ変えるのは止めろ,黒レンジャイ。便所とはもう言わん,せめて通路でやれ。てゆーか,そうか,だから歌わせてたのか。
 窓外はさらに凄い霧。
──さっきから通路を行ったり来たりしながら,赤ちゃんをあやしてるオヤジがいる。この赤ちゃんと,顔を付き合わせて黒レンジャイが遊び始めた。桃も反応し初めとる。ああっ!危険な核融合の気配が!
 1522,やや谷が緩やかになってきた。
──桃レンジャイ,ついにテーブル上で跳び跳ねて始めた。もう,やっちゃえ,そのテーブル壊しちゃえ!
 あ!一瞬見えた村に十段ほどの塔が!…美しいかった。
 幅数十mほどの川を何本も連続して渡る。同じく直行方向へ道路,あるいはその工事現場が何本もある。
 アナウンス。1531。下站新晃西。
 周囲は人家数軒のほかは山河のみ。いや?駅の谷には数十の家屋。

伏兵・赤レンジャイ登場

▲「毛沢東最新指示」を持って旅行する一行の版画。なぜそれを持って行く?

座り爺が下車した。窓際席は即座に桃レンジャイの座席に変わった。…状況から見て,黒レンジャイは一席分しか購入してないはずで…いーのか?いや,いい!とにかくこれでキックされることはなくなった。窓外に集中できる!
 1557,怀化南到着。一度は滞在を検討した町です。見た感じでも,凱里以来の大きさの町です。ただ,南北の山並みは滅法深い。線路の雪はむしろ多くなってる。
──黒レンジャイが飽きたらしく「ハアアッ」とため息をつく。そんなに大声で何したいねん?というかとにかく地声がデカいんだろうね。
──ガッツ爺は降りてなくて,どうも他の席を渡り歩いてるらしい。こいつ,おそらく無席(指定無)だな?──だから!桃がこっちの膝に体当たりして来るのを止めろよ黒レンジャイ!
──と!さらに伏兵出現!後ろ席が見てるスマホのテレビ音がけたたましくなってきた。振り替えると赤いジャンバーの目の光の乏しいガキ。そんなところから登場するのか赤レンジャイ!…てゆーか何でこの付近だけガキ密度が高いんじゃ?

怀化南を出る。1606。
 谷が深い。さらにトンネルばかりになってきた。
 速度はガンガン上がってきた。もう少しで300km/h。
──後方,赤レンジャイが怖いオバハンに叱られてる。敵の怪人,じゃなくておっ母さんらしい。でも喧しいのには変わりはない。
──桃レンジャイ,ミルク瓶を口にしたまま膝元へ忍び寄ってきた。ガタンと大きく膝を上げたら逃げ去ったけど,油断は禁物である。
 川の合流点らしき平坦地に平屋が広がってる風景。
 1612,谷間を埋める大河。岸に十数戸。美しい。
 1620,淑浦南。まるっきりの谷あいの場所。
 1626,谷に段々畑。人家なし。沢が見え,再びトンネル。

桃レンジャイ,更なる高みに挑む

▲レアアイテム:文革期のトランプらしい。

レンジャイが本気で飽きてきたらしく,桃レンジャイを叱り,もとい,ぐじゅぐじゅと苛め始めた。虐待をするおかあちゃんの典型だよなこれ。アクションの増えた黒レンジャイの肘突き。
 赤レンジャイの番組音がさらに大きく。
 おおっ有難い!黒レンジャイがうたた寝し始めた。けれどその隙に,桃レンジャイが他の席へ攻撃対象を移し始めたぞ!こっち来るなよ!
 1657なだらかな丘陵の地勢に合わせるように,村の家並みが道なりに続いては途切れる。

らかに土地利用の形態が変わってきた。
 雪がうっすらと屋根に残ってるけれど地面からは消えた。数が増えた家は,逆に密度が疎らになってる。使用可能な土地面積が増してきたからです。湖や沼を多く見るようになってきた。
 というか?さらに巨大な湖が南に見えてきてるぞ?
 1705,かなり高みに出た。南へ雄大に下る傾斜。
──桃レンジャイが最大限にぐずり始めた。どうやら…頭上の荷物棚上のたなに上がりたいと騒いでるらしい。アホやがな。黒レンジャイが外の景色をしきりに指差して誤魔化そうとしてるけど,桃レンジャイはそんなことで誤魔化され…て突然に眠り始めた。アホやがな。
 1711,アナウンス,下站(次の駅は)韶山南…って?まだ全然山の中です。あと30分で長沙へ着く気が全然しませんけど?

▲毛沢東と人民の麗しき会合図「毛主席は永遠に我々と一緒だよ♥️」

瞬,百度地図をオンに。もう50kmほどに近づいてる。
 まだ次は湘潭北という駅があるとアナウンス。長沙の南南西40kmほど。つまり列車は反時計回りに,一旦湘江を東へ渡って南から近づいていくようです(→イメージ:GM.)。水系が複雑だから直線で,という訳にはいかんわけやね。
 1722,まだ屋根に雪。山並みは古く緩く深々と,中国山地のようになってきました。
──黒レンジャイ,静かになったと思ったらテトリスやっとる。最初からそうしろ。てゆーか,今どきテトリスかよ?
 1726,湘潭北。外気9度と電光表示。貴陽よりは凍えずに済むか。
 デカい駅です。工場地帯か。駅前の駐車場の広さが尋常じゃない。その向こうに工場群。かなりの乗車がありました。長沙の南副都心候補地か。
 ガッツ爺さんも帰って来た。アナウンス,次が長沙南と告げる。
 1733,地勢はさらになだらかに。1734,湘江だろう,豊かな水流を渡って東岸へ。高速道路がちらほら。ただまだ山中なのには変わりがない。農村も広がってる。地勢もかなり高いし,速度も未だ230km/h強。
 あ,落ち始めた。200を切る。でもまだまだ山中。トンネル。どこへ着くんだ?
 1738,突如としてマンション群。線路にはやはり残雪。郊外らしくはなってきた。
 1742,到着した?大きい。引き込み線が20本近い巨大な構内です。

▲降車のどさくさに黒&桃レンジャイを激写!

~~~~~(m–)m長沙編2~~~~~(m–)m

ホテルに着いて10分で小碗菜

浮快線って何だ?
 駅構内で表示を見て戸惑う。字義通りならリニアです。机場から㮾梨という駅経由でこの高鉄站を結んでる。つまり,地下鉄とのはしごで机場まで行けると。上海形式だな。
 1803,地下鉄ホーム。11駅で五一広場。
 交通カード「瀟湘卡」は雷峰が印刷されたものでした。
 他路線とのジャンクションは6駅目の錦泰広場と今回の五一広場。つまりあまり地下鉄網は発達してない…のにリニア作っちゃうなんて強引です。でも前回疲れはてた五一からの南北を,地鉄で行けるのは有難いやね。
下鉄で動きながらイメージを作る。
 ここの城壁域は南北3km,東西1kmのせいぜい3km2程度の範囲です。他エリアはあまり当てにしてない。明後日正午まで,この範囲を徹底して歩こう。
 1/5の脱出時は,1635離陸←1435登記←1400リニア←1330五一発,つまり13時までは時間が取れる。
 1828,五一到着。所要25分,結構かかるなあ。
 1848,チェックイン。設備も位置もいい。2泊に変更できた。──これで今回の宿取りは終了しました。

▲1852夜の大平路

路,南行。大平路を急ぐ。
 土地勘はあるものの,だからこそこの変貌ぶりには…目がくらむほどです。前回,留学時から四半世紀ぶりに来て驚いたけれど,それからさらにこれだけの都市化を遂げてる。
 この変化は,どこまで行くんだ?
 さて飯の方は──もう閉まってるか?と心配してたとこら,この変貌を遂げた街区の中に見つけた。なので一軒目に迷わず突入。宿を出てわずかに10分!

ワラビとサワラと野生菌

▲1906長沙初食にありつけた。

902新華楼(坡子街店)500
①②
③飯

①蕨根粉
②刨盐魚
③野生菌排骨
 どうです?10分で見つけたにしてはまずまずでしょう!──と,どや顔だったんだけど,宿に帰ると何と隣,というか同じ建物にありました。早上6:30営業開始。

▲「蕨根粉」どアップ

根粉
 今回の貴陽で食べれなかったコレをここで見つけるとは!貴州出身者へのサービスなのか。あるいは長沙でも普通に食べてるのか?──今回は注意してみよう,長沙の常食ならば両地域の共通項があることになる。
 かなり良かった。まあ素材さえあれば出来るもんだろ──というものではないよな?確かあのつけ汁は貴州独特のはず。でもまさにアレでした。
 素直に甘くボッサリした顔をした粉を,もさもさ食べ進めてると,ふいにしかも赤青ダブルで突き上げる鋭い辛み。今回で言えば魚の汁と大して見かけは変わらないのに…この凶悪な味覚設計は忘れがたい。

▲「刨盐魚」どアップ

華楼はレシートに料理名が出てたので,漢字の名称を記録できてます。
②刨盐魚
 川魚でしょう(※巻末小レポ参照),見当のつかない骨の付き方と細かさで手こずりましたけど,味も調味も驚嘆。魚身は中国とは思えないプリプリ感です。
 調味は,これ脂ぎった醤油というべきもの。脂は魚由来っぽいから醤の薄いものなんですけど,日本の醤油からは濃口でも薄口でも類推し難い。八角も使ってあるかもですけど僅か,醤そのものが何か別のものです。
 華やかな香りを放つというのか,魚の旨味を格段に引き立てる。最後にこの汁だけを,大陸的には行儀悪くも飯にぶっかけましたけどその旨かったこと!何か卵のような生臭い感じも感じましたけど…これは一体何だったのか?
③野生菌排骨
 キノコ,おそらくえのきの類とスペアリブのスープ。香港でよくあるタイプでしょうか。味は最高です。長沙らしさという点ではどうでしょう??とは思うけど,排骨の図太い出汁とキノコの危険な酔いのような香のバランス感,これは香港並みです。

▲1938ネオンがギラつくようになった長沙の夜

粑」という看板が目立つ。長沙名物・臭豆腐と同じくらいメジャーみたいです。
 買ってみる。
1930糖油粑粑250
──この時は初見として喜んでまして,貴陽で食べた「热糍粑」のことは頭から抜け落ちてました(→巻末小レポ参照)。

▲ババ。旨かった!お茶漬けにもオススメ

のとおり砂糖をまぶして揚げてある,かなり甘いスイーツです。でも,中身は米の粉らしい。淡く端正な米の自然な甘味が,砂糖揚げのくどさといいバランスを作ってる。

▲1939夜の長沙のやや裏通り

極めが早すぎた!
 1946。前回,量り売りのシュークリーム屋があった通り,三泰路には小碗店が2軒残る。この時間にもまだ営業してました。かなり地元チックな雰囲気です。
 ここと,おそらく半湘街社区だったと思う。下黎家坡巷の名に覚えがある。百度地図上はまだ道そのものは残ってるようですけど──さてどうだか?
 明日は朝一番で先に中山亭辺りを攻めておいて,昼にこちらへ回ろう。…と考えると,結構行動想定範囲は広い。やはり地下鉄の開通は助かります。
 実は今回の四辛都中,意外にも総合的に最も面白いと感じた長沙の食。次章からその歩きをお話ししていきます。
「変化■ 計9
 辛さ■□
 旨味■■■
 面白■■■■」

▲2054。今回のお気に入りとなった大平路のスタバ。洒落てるのに下町感もたっぷり。

■小レポ:毛沢東が本当にしたことを左右にブレず考えてみる

 経歴を素直に読めば分かる点を幾つか並べる。
1 激烈に政治的な人物である
 変わらぬ意志を貫いてきた思想家ではないし,まして多数を魅力するカリスマ的な人格者でもない。
 熾烈な政治闘争と謀略戦を勝ち抜いてきた「政治家」です。──中国にいた頃に彼を評して「厲害」(凄い)と言う人が多かったけど,彼らも本心では豪腕政治家と捉えてたと思う。私見としては,この「厲害」って大阪弁の「えげつない」に近いと思う。中国人も大阪人も,これらの語を批判というより賛美のニュアンスで用いる。
 長征が始まった頃にすら傍流格だった。貴陽でソ連系勢力が失脚し,周恩来が権力を奪取する,この過程で何かえげつない事をやって周側に席を占め,さらに周恩来からも権力を奪った。
2 延安の奇跡の背景
 以上を考え合わせれば,日中戦争下の日帝-国民党-共産党(実際にはそれらの名義を騙った諸々の匪族もいた)の群雄割拠状態の中で,延安という,蒋介石の籠った重慶に比べれば遥かに容易に日本軍から狙われやすい陣地をどう守り抜いたかは見当がつきます。
 結べる勢力とは全て結んで,えげつなく生き残って最終的に勝利した。国民党とはもちろん,日本や米国と限定的な協力関係を持ったというのも,事実無根な話ではないでしょう。
 今,日本でそれを特ダネめいた扱いもされてるみたいだけど,おそらく中国人に言っても「やっぱり毛沢東は『厲害』だなあ,日本鬼子まで利用するなんて」という称賛にしかならないと思います。
3 その後の毛沢東イメージ
 山口県柳井の維新僧・月性の「人間到處有靑山」を気に入ってたというエピソードや,宮崎滔天の影響を受けたというのも驚きですけど,出身が新興地主だというのも予想外でした。
 文革期には打倒される勢力側だったわけです。
 それに,広州時代までの毛沢東は,今の共産党正史的には国民党内部に入り込んだ二重スパイのような語られ方ですけど,自然に見れば二股かけてたような活動をしてたと考えられます。まず国民党の幹部になってるわけですから。
 情報戦のプロですから,その辺りの話は徹底的に統制されてきたでしょう。おそらく本人も,別に弱点とも秘密とも捉えてなかったと思います。情報宣伝でそんな事実はいくらでも塗り替えがきく。そういうものだ,という意識で,この人が死の間際まで続けた政治闘争は戦われたのだと思います。
 ナイーヴなニッポン人と違って,真偽なんかどうでもいい。
 それと,ここが今の日本人には重要ですけど,現在の中国の政治家も,基本的には同様の心性を持ってる。そこは単に文化の違いです。
※ wiki/毛沢東
「毛沢東はその才覚で地主までなりあがった厳格な父によって(略)」
「1907年、14歳で年上の羅一秀と最初の結婚」
「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩『将東遊題壁』※を贈り」 ※人間到處有靑山 人間 到るところ青山あり
「1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席」
「(1923年)9月、毛は、共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織」
「1924年1月、第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年、毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。」
「国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月、毛は国民党中央宣伝部長代行となった。」
「(1927年)9月9日、湖南省で武装蜂起するも失敗(秋収起義)、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。(略)1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。」
「この(長征)最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。」
「毛沢東は『力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと』という指令を発している。(略)毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。」
「延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった。
また、対日爆撃を行っていた米国のカーチス・ルメイとも連絡をとり、中国北部から気象観測情報を提供する代わりに物資を支援されていた。」
※ HUFFPOST/文化大革命を君は知っているか? 中国にはかつてこんな時代があった
※ フランスの田舎から世界を見ると 土野繁樹の21世紀探訪/歴史探訪 その12 毛沢東の文化大革命
「建国の父は人民を売った」毛沢東 隠された歴史の真実
「1972年2月に胡耀邦氏(当時はまだ中共中央宣伝部長)が、ある座談会での演説中に突然、『中国人民がもし中国共産党の歴史の真相を知ったら、必ずわれわれの政権を転覆させるだろう』と発言した」(中国共産党史の歴史研究者、辛灏年(シン・ハオニェン)氏の証言)
「(遠藤誉「毛沢東 日本軍と共謀した男」新潮社,2015中)延安時代に毛沢東は国民党重慶政府の蒋介石と『国共合作』を行い、共に日本軍と戦うとしながら、陰では国民党の軍事情報を日本側に高値で売り、そのお金で共産党軍を増強していたことを明らかにしている。」

■小レポ:湖南名物・塩削り魚と「サワラ」の謎

 結論:使われてる「鲅鱼」は鰆(さわら)と思われます。海の魚です。
 発音はpao2yan2yu2。「刨」は削るの意。何を削るのか,中国人にとっては自明らしく何も書いてないけれど,レシピにある「盐」(塩)漬けにした状態から魚を「削り出す」動作を言うのでしょう。
 湖南省の田舎料理の一つ。これも書いてませんけど,牛より豚肉が高価な中国では,低級な「肉」代用品だったかもしれません。
 それとも呼応しますけど,「知乎」は日本では「鲅鱼」を五種類に呼び分けてる,と書いてます。
①[日本]鰆 [中国]蓝点马鲛
②[日本]横縞鰆 [中国]康氏马鲛
③[日本]牛鰆 [中国]中华马鲛
④[日本]台湾鰆 [中国]斑点马鲛
⑤[日本]平鰆 [中国]朝鲜马鲛
 中国人の感覚では,そもそも鰆は「馬みたいな鮫」と,距離感を感じさせる名称。狭義には「蓝点马鲛」(日本の鰆)だけど,広義には日本の五種の総称で,どちらかと言えば後者が普通の用法だという。
 つまり先述の結論「鲅鱼=鰆」は,おおまかな話であって,その語彙から正確に言えば「鲅鱼⊃鰆」です。
 だから,この日に食べた魚も日本で言う鰆かどうかは分からない。ただ,海の魚であることは確かだと言えそうです。
※ 美食天下/干烧刨盐鱼
「具有湖南农家风味的一道菜,刨盐鱼,就是用盐腌过的鱼,一般选用大个的鱼,通用盐腌,使鱼的肉质更加紧密,腌好后冰箱中放置一天,就可以料理了」
※ wiki(英語自動翻訳)/鲅鱼
「Scomberomorusは、サバ科のScombridaeのレイフィンの硬骨魚の属です。より具体的には、スペインのサバとして一般に知られているScomberomorini族のメンバー」
※ 百度百科/鲅鱼
「鲅鱼学名“蓝点马鲛”,我国的渤海、黄海、东海以及朝鲜近海是其主要分布地。」
「中文学名 鲅鱼
拉丁学名 Scomberomorus niphonius
别称 Japanese Spanish mackerel」
※ 知乎/这只叫鰆的鱼,最好吃的季节可能不是春天…
「鰆其实就是马鲛鱼的一种,中文称作蓝点马鲛」
「马鲛鱼在我国也称马加鰆、土魠、鲅鱼(想吃土魠鱼羹、鲅鱼饺子的同学立刻找到了归属感~)。马鲛鱼是鲭科马鲛鱼属鱼类的统称,全球共有18种。在我国和日本都可以找到其中5种的足迹:蓝点马鲛(鰆)、康氏马鲛(横縞鰆)、中华马鲛(牛鰆)、斑点马鲛(台湾鰆)、 朝鲜马鲛(平鰆)。」

■小レポ:「粑粑」再考

「糖油粑粑」を追っていくと,雲南省の「粑粑」だということが分かりました。
「粑」の用字の共通性から考えて,おそらく,貴陽中山西路で出会った豊州名物「热糍粑」(→中山西路/小レポ:重慶市内?謎の「豊都鬼城」)と同根のものです。
 百度も「保持稻米原有的筋芡」と書いてます。「原有」(元々の)かどうかは見方の問題としても,中国南部,それもまず間違いなく現・少数民族の独特の米の加工法を根に持ってます。
 中国語のスラングに通じた方は嫌な響きに感じられてると思います。「粑粑」は「排泄物」の意味もある用字です。
 おそらく,南方少数民族の米をこねてしまうこの食法を,中原の中国人は「ウ○チみたいな食べ方」と蔑んだことに由来してるのでしょう。
 けれど,少し違う形ではあれ,この食法の痕跡が重慶エリアに続き長沙エリアにもあるというのは──かなり広く存在してた食文化だったことを窺わせます。他の地方でも注目しておきたい。
 特徴は,①「粑」の用字と②米粉に雑穀粉を混ぜてこねる,という点。
 そう考えると思い浮かぶのは,日本の蕎麦──ソ「バ」ですが,そこまで膨らませるにはまだ資料が足りません。
※ 百度百科/粑粑 昆明著名的名特小吃
「粑粑是方言,指的是饼类食物,是江西和昆明最著名的名特小吃之一,也是大理地区及萍乡地区常见的传统食品之一」
「待熟米舂打成面状后,就可以取出放到案板上搓揉,然后做成砖状,这就是饵块了。」
「”饵块”则专门称谓用米饭舂制而成的食物,《说文解字》的解释:”饵,粉饼也”。 “饵之言坚若玉珥也”。在制作时先将稻米蒸熟,再舂捣加工,以保持稻米原有的筋芡,做出的食品即”饵”。」
※ 同/饵块
er3kuai4
「饵块为云南贵州特有,是腾冲最著名的名特小吃之一,也是云南和贵州地区地区常见的传统食品之一。」

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