/※5423’※/Range(揚州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:広陵区酩酊

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

南河下,育才教育ストリート

々中心部向けのバス路線が汶河南路行きだったから帰ったけど,とても初日の歩きをこれでよしとする気にはなれません。
──どうも今日は旅行運は微笑まない日らしいけど,それならそれで明日以降のアタリを付ける試みをしておきたい。
 1459,蘇北医院のバス停に降りてから東へ歩く。南通西路,前回初日(→二次初日)に泣いた通り・南通西路です。

▲南通西路を西行

れどこの南通路自体は町郊外のような面白みのなさです。揚州老城とは言え風情を残すエリアはごく狭い。
 思えば,初回にはよくあの短時間で,老城のコアにたどり着けたものです。

▲1509進学塾らしき民家が並ぶ南河下

506,河を渡ってなお東行。
──とさらりと書いてる。この河が揚州に固執させる本元となった小秦淮河なんですけど,この南通路付近ではただの水路にしか見えません。
 ここで南通路はやや南にくねってる。代わりにGM.には「南河下」とある小路がかなり長く東西に続く。この名から推量するなら,南通路のラインにはかつては堤防があったのかもしれない。
 大運河盐商文化展示館の西側は大工事中。前の通りは育才教育の塾だらけ。
 1515,渡江路に到る。左折北行。

名もなき緑豆餅店

▲1513渡江路へ登る階段。GM.地図上では南河下が途切れたようになってる地点。

519純緑豆餅 緑豆餅,ロールケーキ200
 貧弱そうな,半ば軒先の店で,当然店の名も分からない。けど前回も寄った密かな人気店です。
 緑豆も確かに旨いけれど,回りの硬いロールケーキの絶妙さ!オレンジのジャムみたいなクリーム,それに外皮の歯ごたえと内側の柔らかな生地のコントラストがたまらない。

▲1524渡江路の往来

渡江路の鴨血に匂う卤味

回,東に分け入った路地辺りまで来た。
 やはり老街は南通路の北,河下南の道の少し奥くらいから北へ拡がってる模様。この配置がなぜなのか,どうも分からないけれど。
 でも今日はとりあえずここへ!

▲1528渡江路から覗きこんだ路地

539鴨血良子鴨血粉丝
鴨血面300
 よく見るとこの店は二店隣り合ってる。今回は,前回の方じゃない,交差点に近い方の店で食べてみた。

▲鴨血!

文のシステムは本店?とほとんど同じ。面を頼んでからトッピングを指差す。
 出て来た碗はやはり……グロい。でもこの程度のグロさに怯んでては,本物の中華は食べれません。
 食せば──豆干がやはり素晴らしい!固さの中に渋い汁,卤味のようなものが染み付いてる。

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る

▲1559広陵路

1605広陵路を東行。初回から惚れ込んでる甘泉路の東側延長です。
 ざっくばらんな感じの茶楼が「新茶」の旗を掲げてたので,ついつい購入。安吉白茶新茶1斤390元。
 高いのかも?──とおっかなびっくりでしたけど,超良質でした!
※ SAZEN/安吉白茶 2019 浙江省安吉県産の高級緑茶

▲1604同商店群

泉路側より蛇行が少なく,問屋街的で香り高いというのが広陵路の印象です。
 さりげなく味わい深い通りです。
「広陵」というのは揚州の古名らしい。李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の広陵です。「煙花三月下揚州」──煙花三月揚州に下る。

▲1609同商店群(2)

ローカルネタだけど──ならば広島の広陵高校は何なのか?初めて調べてみたらHPにこうありまして,とにかく揚州のこの古名に由来するらしい。
「校名の『広陵』は漢代に長江北岸に位置した呉王の王都(みやこ)『広陵』に由来を持っています。(略)開学の祖鶴虎太郎先生が、本校が広島において文化の香り高い第一等の学校になることを願い、明治34(1901)年に校名を『広陵』と名づけました。」

▲1611同商店群(3)

世ににほへ梅花一枝のみそさざい

写真を見ても,やや高級感が漂います。宿の前の紋河路みたいに現代的というのではなく,昔から続く気位の高さみたいなのがある。
 そこでもうひとつ考えたいのは,広域名「広陵」は明らかに後から付けられた地名。つまり元は共産中国が,それを無くしてしまいたい名だったと思われるということ。

▲1611広陵路の半ばを過ぎた東辺り。

やドヤドヤしてきた。心無し交通量も増したか?
 1619,梅花書院(巻末参照)。
 1622,皮市街を越える。南へは徐凝門大街。さてそろそろ潜るかな。

▲1619梅花書院の前辺り

■小レポ:梅花書院と現・広陵路の位置から揚州城の配置を推す

 この書院の「梅花」という名は清代になってからのものらしい。明代の名称は──何と「甘泉書院」。
「甘泉」はてっきり中国でよくある他の地名の宛字かと思ってて,甘泉省から来てるのかと思いきや,こっちの方が古い名称みたいです。ただ意味や由来はよく分かりません。
「明嘉靖中建,初名甘泉书院,又名崇雅书院,清雍正十二年改为梅花书院。」
「嘉靖六年(1527年)国子监祭酒湛若水扬州考绩讲学,扬州贡生葛涧为其师在广储门外建“甘泉行窝”作讲道之所。后巡盐御史朱廷立改建为“甘泉山书馆”嘉靖三十七年废圮。」
※ 百度百科/梅花书院

○ 古・甘泉路の場所

 古・甘泉路──と現・甘泉路と現・広陵路の道を仮に呼ぶならば,それは五代~南宋の東西大街に当たる道だったようです。
▲随~南宋代の揚州城推移
※ 大陸西遊記/江蘇省揚州市
 つまり,市街北西にある観光地の古城は随代の初期・揚州城,通称「衙城」。これと離れて南東に五代に造られた通称「羅城」は,古・甘泉路を東西の中心軸とし,北辺を文昌路,南辺を南通路,西辺を紋河路とする領域でした。
 この両城をつなぐ形から始まり,やがて包含する方形の城が出来ていく。
 これで現・老城南西角の位置がやっと理解できました。そこは,旧羅城中心部だったエリアだったわけです。すなわち城としての歴史が最も長いエリア。
→後編:/※5426’※/Range(揚州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:夜桜の川辺 ■小レポ:明初の揚州城の位置

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