/※5426’※/Range(揚州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:夜桜の川辺

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(地点)
※経路は全くとれないので,「白い夜桜」の位置のみをプロットします。

小南京の河辺に桜

▲1833小東門橋から北

秦淮河の川辺へ着く。時計は既に6時半を回ってます。
 なぜか百度地図にはこの川が全く載ってません。航空写真では大きな建物の画像で隠すように覆ってある。
 甘泉路の橋・小東門橋から北を見下ろすと,一本だけ,白い花を咲かせる樹が夜に浮かびました。
 この樹を祝福し,時計回りにゆっくりと一周。
 幸福な時間でした。

▲1836西岸,小東門橋から最初の登り階段

秦淮河」の名称は清・康熙代の創始。
 南京の「秦淮」川の風情に似る,という「小京都」的な意味と考えられてる。
※ 百度百科/小秦淮河
「“小秦淮”之名始于康熙年间。(略)当然,扬州小秦淮的水并非来自南京的秦淮河,但小秦淮的名字一定是源于南京秦淮河。正如扬州小秦淮两岸的建筑酷似南京秦淮一线两岸的建筑那样」

▲1837同登り階段上の道に街灯一つ。

主に倭寇の攻撃力から防御せん為に造られた

代より前には,ではどうだったのか?
 百度は出典を挙げておらずやや信憑性に欠けるけれど──明代には,元々,「旧城的东护城河」(旧城の東外縁の河)で「防御倭寇的袭击」(倭寇の攻撃からの防御)を主目的とした。
※ 同百度「1.在明代,小秦淮是旧城的东护城河,主要是为了防御倭寇的袭击。
2.明代中期平息倭患以后,在扬州增建新城。小秦淮河夹在新旧两城之间,称“新城市河”。」

▲1839西岸の旧城壁内に点る灯

うなるとこの西岸に連なる城壁が,まさにその跡だということになる。整合性はある。
 元末の倭寇最興隆期を考えるとあり得ぬことではない(巻末参照)。元々,何らかの水路はあったのだろうけど,日本人海賊の防御施設として整備されたのがこの河の始まり,ということになる。

決して往時の小秦淮河ではない

▲1840まだ灯らぬランタンの続く。東岸。

・清期の大部分,こうしてうまく新旧城の間の運河に転じた小秦淮河は,水運路として揚州の賑わいの中心にありました。
 小舟による運河運用の時代が過ぎても,しばらくは人の流れは絶えなかったらしい。百度には次の記事がある。

从小东门桥向南,小秦淮河已渐趋冷落,岸边高大的泡桐树在暮春夕阳的余辉中寂寞地开着紫色的花束。不远处便是如意桥,桥右便是“大舞台”旧址。1911年大舞台傍小秦淮河而建,是个设有1300多座位的剧场,也是当年扬州人的文化娱乐中心,1964年废除。

 何と小東門橋の南には13百人を収用する「大舞台」という劇場があった。それは1911年から,少なくとも20世紀半ばまでは存在したらしい。
 ここが今の静けさを取り戻したのは,ホントにごく最近のようです。

▲1841橋から橋への水辺に白桜

代の記載がないけれど,小秦淮河の賑わいが消えた後,ここは汚染されスラム化していた時代があったらしい。

小秦淮河两岸众多的古建筑,有的年久失修,早已坍塌,有的在近年的城建中被拆毁,现存的古宅已所剩无几。另外,还出现了许多乱搭乱建的违章建筑。
扬州市政府正筹划着对小秦淮河进行较彻底的整治。

 揚州行政側がある程度修復し,違法建築を撤去し,橋をかけ直してる。だから決して往時の小秦淮河が今の姿というわけじゃない。
 それでもこの風情が保ててるというのは,逆にこの河辺がいかに深い味わいを持っているかを物語ってます。

ターゲットは1平方キロ

▲1843河辺,一柱の白桜

れでようやく,三次初日の歩きを打ち止めにして宿に引き上げました。
 緑豆酥店の絶品ロールをアテに揚州茶を頂きながら,じっくりと地図を覗く。

▲夜スイーツ

州2日目のターゲットエリアははっきりした。
 史家法路-国慶路-渡江路の南北ラインから皮市街ラインまでの500m,南北には南通路から外城河までの2km。
 面積にしてたった1平方km。このエリアを,くまなく蛇行して歩こう。

▲ターゲットエリア(赤点内側)

■小レポ:明初の中国の対倭寇防備

 ユーラシアを席巻した元帝国を倒し,1368年に明王朝を創始した朱元璋にとって,14世紀の東シナ海を征した前期倭寇は最大の外寇だったらしい。
 清の行った遷海令のような攻撃的撤退や,明がその後主な対策とした融和政策の前の時代で,初代朱元璋は純・軍事的にこれに抗しようとしたらしい。

朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた。

※ wiki/倭寇 ※※原典:三田村泰助「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』人物往来社、1967年、p164
 この事実から,さらに次の二点を検討してみます。

①倭寇鎮圧を口実とした東征の可能性

 1419年の朝鮮王朝・太宗による対馬侵攻・応永の外寇も,朱元璋と同タイプの発想でしょう。軍船227隻,兵数17百によるこの侵攻と同様,朱元璋の軍勢も九州侵攻を念頭に置いていた可能性はある。
 足利義満の勘合貿易と「日本国王」称号は,九州の倭寇を制圧した「恩賞」として始められたという見方もある。室町幕府は最初の二度は明に,日本皇帝ではない(「人臣に外交なし」)として朝貢相手として失格を申し渡されているし,朱元璋は初めは「倭寇討伐の要請」を,九州を実効支配していた南朝・懐良親王(征西将軍,後醍醐帝皇子)に派遣し,冊封を受けて「日本国王」と称しているからです。──一説ではこの征西府勢力こそ前期倭寇そのもの,あるいはその傀儡と見なされ(稲村賢敷など),その場合は明は,倭寇を朝貢体制下の臣下に織り込もうとしたことになる。
 また,義満は倭寇を制圧したというよりも,勘合体制下に取り込んだという可能性もある。三度目の遣明使副使に立った博多商人・肥富という人物が,密貿易の親玉格と目され,靖難の役で窮地に立った明・建文帝,朝鮮側の追討で窮地に立った倭寇,そして義満の三者を結び付けたという見方もできるからです。
 まだ南朝を完全制圧していない室町幕府にとって,漢朝以降実に千年ぶりの中国全域を支配する漢民族王朝・明が,南朝残党の征西府を朝貢国として権威づけることに相当な危機感を持ったことは予想できます。
 外からは内乱状態に見えたであろう南北線動乱期──倭寇の興隆もそれを一因にしているでしょうけど──日本は,定説以上に,西からの侵略の危機に晒されていたのかもしれません。
 ……とはいえ,今回探ってみて思うのは,この日明勘合貿易の始まりというのは,物凄く多彩な事象が絡まりあってる。分からない。でも見当がつくのは,一国や二国史だけでは解明できないこと,それとマージナル勢力としての倭寇が深く関与してることです。(最新研究史についてはさらに巻末を参照)
※ wiki記述の原典:稲村賢敷『琉球諸島における倭寇史跡の研究』吉川弘文館 、1957年

②明初の揚州城の場所

 小秦淮河が城東の壕だったと言っても,ここは五代~南宋の羅城のど真ん中です。再度,前回の図面を掲げます。
▲隋~南宋代の揚州城推移
※ 大陸西遊記/江蘇省揚州市
※前編:/※5423’※/Range(揚州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:広陵区酩酊■小レポ:梅花書院と現・広陵路の位置から揚州城の配置を推す○ 古・甘泉路の場所

 明初の揚州城の範囲を当たっていくと,百度にこうありました。──例によって百度は出典を明らかにしていないけれどこれを信ずるなら……

明扬州城
分旧城、新城。旧城建于元末至正十七年,相当于宋大城的西南角。旧城开辟有5座城门:海宁门(大东门)、通泗门(西门)、安江门(南门)、镇淮门(北门),以及小东门。


 明の揚州城は新旧に分かれ,旧城とは元末に造られたもの。それは宋揚州城の南西角に当たり,5つの門を持っていた。
 小東門は甘泉路に橋の名として残る。大東門も小秦淮河の橋があります。镇淮门は护城河沿いに遺跡があり,通泗门も紋河路西に通りの名として残る。これを繋ぐとこんなエリアになります。

~(m–)m 明初揚州城 m(–m)~
GM.(経路)

 百度には続けてこうあります。──明代に商業情勢が回復すると,運河(小秦淮河)の東側に商業区が栄え,このエリアが1556年に新城として(旧宋城を)修築された。

由于扬州旧城范围狭小,明代扬州商业恢复繁荣后,其东侧至运河间形成大片繁盛的商业区,至嘉靖三十五年(公元1556年)修筑新城。此后,扬州形成新旧二城并列的格局。新城为盐商居住区,而旧城为乡绅居住区。新城街巷弯曲不规则,而旧城街巷平直方整

※ 百度百科/揚州城

──だから新城の巷は湾曲して不規則,対する旧城の巷は真っ直ぐに整えられている。
 この日にはそこまで頭は回ってませんでしたけど,ワシが初日の歩きで翌日のターゲットに炙り出したエリアは,つまりこの明の安定期に形成された小秦淮河東側の商業地区にピッタリ重なります。
 旧城の門前町として形成されたこのエリアは,小秦淮河の運河機能を求めたゆえに東壕・玉帯河までは達しなかった。つまりそれが小秦淮河からワンブロックの地区になるのだと思われます。

 ただ,分からないのは以下三点です。
①北門や大東門は护城河沿いにあるけれど,なぜ「弯曲不规则」の商業区はそこまで北へ伸びた形跡がないのか?
②そもそもこの明初の揚州城は,南北に長過ぎる。これは,中国の概念で言う城市ではなく,(対倭寇の?)水路後方の防衛ラインのような砦だったのではないか?
 そして一番分からないのは──
③南京にあやかった「小秦淮河」名の前の時代があったはずです。でもどこにもその名はない。旧宋城の中心を流れたこの河が,なぜどこにも触れられていないのか。何より,そんな立地だと,相手が倭寇,つまり水軍勢力なら防御というより侵攻路になってしまうのに,あえてこれをなぜ城塞化したのか?
 ──ただ大分見えてきました。検討はここまでとして,一度筆を置きます。

■紹介:前期倭寇とは誰だったのか?──という永遠の難問

 本章では,南朝・懐良親王を主とする征西府に(前期)倭寇が属した,とする説に立ってきましたけれど,これは教科書的な,要は守旧的な通説です。
 戦後,つまり大東亜のイデオロギーから解放された後に,長く議論は百出しっ放し,「解決」を迎えてません。
 この年の夏に突っ込んだ「海域アジア」の前段として,尚早ながらネタ仕込みがてら掘りこんでおきます。なお,[Axxxx]は研究者Aのxxxx年研究の意で,さらに巻末にその書名を掲げます。主に自分用ですけど。
※ 橋本 雄・米谷 均「第9章 倭寇論のゆくえ」1前期倭寇(3)倭寇の頭目は誰か 桃木至朗編『海域アジア史研究入門』,2008,岩波書店

倭寇を指揮していたのは誰であったかも,当然議論されてきた。①1915年初版の[藤田明1976]以来,前記倭寇=征西府支配下説が通説の位置を占め,戦後になると,②[稲村賢盛1957]が前期倭寇=菊池氏支配下説を唱えた。ところが近年,③[斎藤満1990]が,足利直冬を支持した少弐頼尚の勢力だという説を唱え,また④[李領1999]は,庚寅年倭寇と同じ年に起こった1350年の観応擾乱との関係を想定し,庚寅以来の倭寇を,兵粮米獲得のための少弐氏主導下による略奪活動と見なした(食料獲得目的説は[大田弘穀2002]も参照)。このように,同じく前期倭寇=日本人説を採る場合でも,細かく見れば諸説紛糾している状況にある。

 今世紀に入っても議論は一致してない。
 なぜ「黒幕」の正体がみえないのか?──という点自体が1990年代に到って問われ始めてます。
「黒幕なんかいなかった」という説です。この研究史の著者・橋本さんもこの立場を採ります。

 しかしながら,貞治6(1367)年倭寇禁遏を要求する高麗国書が届いた際の朝議(『後愚昧記』)を見る限り,「もし倭寇が少弐氏の勢力ならば,少弐氏は幕府の配下であったから,幕府は少弐氏に命じて何らかの措置を講じさせ」られたはずである。にもかかわらず,何もできなかった点から考えると,「倭寇活動に従事した勢力は少弐氏の指令に必ずしも服しない,臨機応変に時の支配的な勢力に加担する,自然派生的な性格の強い,もっと広範な地域の海上武装集団とみ」るべきであろう[森茂暁2005]([関周一2000][橋本雄2002a]も類似の理解)

 倭寇は自律的勢力で,都合のいい陸上勢力を御輿に担いでいただけである。御輿は,征西府だったかもしれないし,菊池氏や少弐氏だったかもしれないし,その中の複数だったかもしれない。例えば征西府は,御輿に担がれたから室町に抗するほど強力たりえたのかもしれない。
 でもそれは,政治史,陸上史のパースペクティヴでそうであるだけで,倭寇の本体はそこにはない。民衆史,海域史の中に倭寇は存在した。
 その存在形態についても,論考は進む。ここで出てくるのが,歴史好きの方は触れたことのあるであろうマージナル論です。

[高橋公明1987a,2000][村井章介1993]は,倭寇の境界人としてのあり方を重視し,現在の国民Nation概念に寄りかかって倭寇の民族性や前近代の国境を論ずることを強く批判する。

「国」Nationの概念は,国家の支配域が空間的にも社会的にも温帯地表面の人類を覆い尽くした近現代特有のもので,それ以前,あるいは温帯以外では,その状況は所与のものではない。
 人間の歴史は,むしろ国の支配外,ただ生活者がいるだけの状況を所与のものとしている。
 ただ,人類は陸上生物だから,海域に属する人間集団は多数者には成り得ない。ここが逆に海域の面白いところで──多数の隙間の少数だからこそ,その多数の関係,価値観,あるいはポテンシャルの差によっては,ある時代に物凄い富を生み出したり(交易),別の時代には多数にとって脅威になったり(軍事:例えば倭寇など「海賊」)になったりする。
 マージナルマン=中間者からさらに,歴史上の人間の自然体を構想する際,海民という集団は重要なモデルたりうるわけですけれど……脱線が過ぎました。

○ 関係論文集

[稲村賢盛1957]「琉球諸島における倭寇史跡の研究」吉川弘文館
[大田弘穀2002]「倭寇──商業・軍事史的研究」春風社
[斎藤満1990]「征西府とその外交についての一考察」『史泉』71
[関周一2000]「〈書評と紹介〉李領著『倭寇と日麗関係史』」『日本歴史』630
[高橋公明1987a]「中世東アジア海域における海民と交流──済州島を中心として」『名古屋大学文学部研究論集』史学33
[高橋公明2000]「海域世界のなかの倭寇」勝俣鎮夫(編集協力)『ものがたり日本列島に生きた人たち4 文書と記録(下)』岩波書店
[橋本雄2002a]「丹波国氷上郡佐治荘高源寺所蔵文書(続)」『東京大学日本史学研究室紀要』4
[藤田明1976]「征西将軍宮」文献出版(初出:東京宝文館,1915)
[村井章介1993]「中世倭人伝」岩波新書
[森茂暁2005]「南朝全史──大覚寺統から後南朝へ」講談社選書メチエ
[李領1999]「倭寇と日麗関係史」東京大学出版会

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