/※5495’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:そして上海へ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※中和路からはバス


バス停名は汚水処理場

褐山街道办バス停から乗車,3路で一気に新市口へ。所要30分強。
 足裏を乾かしながら休もう。今回は久しぶりに小指側に血豆ができつつある。
 1405,汚水処理厂バス停……それが出来る前の地名とか,もう少し考えろ!そもそもさっき降りた站も市電力発電厂だったわけだけど。
 1416,公交集団まで戻った……ってこのネーミングも考えたら酷いよな。「バス会社団地」みたいなもんです。

めて眺めるに──やはりここの東西に抜ける壕は何かの跡ではないか?水路北側に古い街区が帯状にある。軒並み橋桁にされて壊されつつあるエリアです。
 そうだとすれば,今左車窓に見える赭山は本丸があっていい場所になる。南側の守りには青弋河があり,西は長江,軍事的にもありうる配置ではないか。
 鳩江飯店。
 1426,東からの銀湖路,西の吉和路と交わる。
 1428,新市口下車。

天主教堂も言わされとる感

▲1454甲殻類ストリート

ータリー。西には中国海事局。あれ?東もそうなのか?
 海側は完全無欠の花園。このエリアへ来たのはやはり河畔を一度は歩いとこうと思ったんだけど……花園しかなかった。
 なので長江路に戻る。外滩3号とかアパートに書いてあるけどまだマトモ。
 西に渡る。甲殻類通り。カニ臭い。長江蟹直销とか書いてあるけどカニは嫌いなので。
 浜江公共服務中心青山街社区というところに看板「宣 征収拆除地块 閑人免进 注意安全」
 すみません,閑人です。
──というのが隣にあったからまさか!と思ったけど,ここは流石に壊されてません。
 1502,芜湖天主教堂に着く。

▲天主教堂も共産党標語。……言わされとる感たっぷり。

口の階段でまず目に入ったのがこの看板でしたので,つい揶揄するような写真を撮ってますけど……この教会も文革で破壊されてます。前日夜に調べたとおり,蕪湖にはキリスト教系「愛国」団体が3つもある。→Phaze:蕪湖大潤発/宗教の都:蕪都
 かの受難時代には相当に政治力を駆使して,信仰を死守した人々がいたと偲ばれます。

▲1505教堂を見上げて

扇風機海中に立つ聖・達磨

に入る。礼拝の時間ではないらしく,人の姿はまばらですけど,実用されてる空気です。
 次の写真は中央正面。左手白板に今週の讃美歌番号が書いてありました。

▲1507本日の讃美歌ナンバー

995年付けで刻字されている「張鳳藻主教逝世一周年記念」碑が,正面に向かって右手に並んでました。聖人格での配置です。
 この人のことは,ネット上のヒットが少なさが奇妙でした。
「安徽省天主教傳教史資料彙編」という書物を紹介する,なぜか台湾ドメインの頁に,「蕪湖教區傳教史」というパートの原著者として,こんな記述で名が記されてます。

▲1509先代司教が聖人に並んでる。

も目を引いたのは,この原典がなぜかスペイン語で書かれていることです。

《蕪湖教區傳教史》作者為張鳳藻主教。張鳳藻係以西班牙文《蕪湖教區史》為底稿,絕大部分翻譯此底稿而成。就翻譯品質而言,「信」有之,「雅」未必,天主教史研究中心編輯時,未加任何更動。

※ 輔仁大學 校史室 >>室務概況 >>沿革 書名:安徽省天主教傳教史資料彙編
「『信』有之,『雅』未必」(ただ信のみ,雅は不要)とした上に「未加任何更動」(加筆修正は何もない)としつこく書いてある。
 中国語で書けないことを書き,にも関わらず信者の絶大な信を得た人物,ということでしょうか。

▲1512端っこの聖人は扇風機だらけ

鳳藻主教より下手に居られた聖バルトロメオは,この人だけ扇風機の海中に立ち,達磨さんみたいな困った顔をしておられます。
 一応長江も見えた。ビルと公園がないと想像すれば,確かに絶景のビューポイントだったでしょう。

▲1515教堂正面から長江を見る

蕪湖駅行の車内のコカ・コーラ

いがけず長居しました。1521,やや早足で新芜路を東行。
 1531,上島珈琲のある青山街をまたぐ。レストラン街だけど高いとこばかりだなあ。
 1538,中和路の融汇中江広場バス停で東広場終点の31路に乗車,駅へ向かう。もう80分前です。
 え?──ええ~!何だ,この中和路が繁華街なんじゃないか!
 調査不足,というよりこの町の読み間違いでした。この辺りはおそらく旧県城西門外,つまり租界域との中間です。
 昨日だったらバスを飛び降りたかもしれません。飯屋もかなりあるぞ。

▲「老婆日記」という店名もどうかと思うけど,そこへ萌え萌えピンクという彩色も度胆を抜く。

スはまず北行,北京路にT字でぶつかり右折東行。南に鳩兹広場と湖が見えてる。
 北に山ほど干してある洗濯物の建物は安徽師範大学。
 地下街入口。人民保険公司。中国人民銀行。北に洋館?あ,ここはもうバス停広電中心の向かいか。
 文化路に入ってる?今朝出発した聯盛広場西だ。予想通りこれを右折,となるともう今朝の快餐の向かいです。
 トンネルへ。よし,ここからは今朝のルートしかないはずです。

湖らしいなあ,しかしまあ…この明暗のくっきりさは。
 何でしょう。町の表現にモザイクとか「るつぼ」というのはあるけれど,その二者なら前者に近い。けれど蕪湖は,さらに,別次元が隣り合ってて互いに知覚できる事象が違う,そんな感じの異様さがありました。
 これは初めてでした。
 例えば,この北への弋江路の東側なんか,ほとんど原野の山です。
 そこにアメリカ的に登り下りした高架と,時折見える純中国の町が交差してる。
 隣の女の子二人が,ゴクゴクとコカ・コーラをあおってる。
 消化に時間のかかりそうな滞在でした。
 駅に着いたの発車58分前。預けてたリュックを回収して構内に入る。
 本日の票読み。
「検票:3
芜湖站 G7288 上海站
wuhu→Shanghai
2019年05月05日16:56開 10車18B号
¥174.5元 二等車」
 芜湖始発で上海終着。分かりやすくてホッとする。

上海では野暮も可愛さ小淮娘

札は10ゲートありました。つまり站台別に改札口がある普通の高鉄駅。徐州パターンの凖・日本風じゃない。
 1740発の南京行きD9518というのがある。「D」って何だ?
 1641,改札開始。行列がどっと動く。
 定刻芜湖発。1709,トンナントン站着。──「当涂東」でした。ここも工事現場だらけで町っぽくない。上海広域都市圏の外縁にこういう町が増えてるんだろうか。
 1720,安慶東站。ここもそうです。ただ,見えない距離には町がある雰囲気をうっすら感じる。

江站,1812。振りだしに戻った。
 そういえば,本日の宿は久しぶりに南京東路エリアです。行きと帰りの宿が一緒というのも……ということで南京東路に新しく出来たらしきJ1に予約したんですけど……かつては入り浸ってたこのエリア,西蔵路が常宿になり老城がメインの歩きになってから完全に足が遠のいてました。──どうなってるんでしょう,今は?
 明日の上海発韓国行の離陸は1825。1625,空港入りとして1530過ぎには人民公園を出る計算。龍陽路で喰うなら15時か。
 朝8時から歩いても7時間ある。というかそのために上海泊としたわけですから……可能ならできれば8時間取りたいな。
 2001,上海西站。
 上海駅の地上に出ると,目の前にいきなり「小淮娘」を発見。ええっ!メジャーやんけ!
 淮安でポップだと思ったこの「娘」キャラ,上海にあっては微かに野暮ったくてそれがまた好印象なのでした。

~~~~~(m–)m上海編
(B面)
~~~~~(m–)m

鉄(地下鉄)1号で3駅,人民広場へ。2024。
 今回の5都市,地下鉄があったのは合肥のみ。それも一度乗っただけでした。何か新鮮です。
 そーだ,ネクタイ!負けがこんでる買い物競争,これだけは何とかしたいな。
 ──少し朦朧としてた。そりゃそーだ,昨日はこの時間に気絶寝してたわけだから。
 人民広場の一つ手前「新闸路」xinzhalu。というこの駅名の漢字も,そう言えば意味不明だな。→巻末参照
 人民公園到着。ここの地鉄はホームにトイレがありそう。先に行っとくか。

仙豆糕6種類全部入:うち劇旨5つ

▲お久しぶりな夜の南京東路に妖しく輝く人民百貨と公安車両のネオン

J1にチェックインすると,どっと疲れが出た。
 もう一度駅から電車に乗るのは気が重いなあ。
 なので久しく歩いてない南京東路を歩くことに。ただ,何か規制があるんだろうか,表通りのチェーン店を除き,地元っぽい店は意外に早じまいしてる。これなら常宿の中華路の方が遅くまで開いてるぞ?

▲2053上海夜ラーメン

方ないから裏通りで唯一開いてたこちらでラーメンとする。
2049耿記面館
特色辣椒面400
 その並びに,これはチェーン店だろうけどスイーツを購入。
2040仙豆糕
6種類全部入300
 これは宿で唸った。──旨い!どうなってるんだ,爆発的に旨いぞ!
 6種類全てが劇的!餡をサイコロ状に薄い外皮の生地で覆ってる感じで,餡のナチュラルさと生地のアクセントが素晴らしい。
 ただし6のうち1つは別次元の劇的さであったのです。──ぐああっ!一つだけドリアン味!!

▲爆弾以外は意外と旨かったサイコロ饅頭

■小レポ:蕪湖天主教堂と蕪湖租界

 蕪湖天主教堂は,例によって文革で破壊されてるけれど,ここはそれ以前にも一度破壊を経た災厄の建物です。
 1887年に初回の創建。

蕪湖天主教堂位於蕪湖市鏡湖區長江中路90號鶴兒山南麓,始建於清光緒十三年(1887年),1895年6月落成,是安徽省保存最為完好的天主教堂之一

※ 毎日头条/百年建築「蕪湖天主教堂」鮮為人知的歷史
 1887年は清光緒十三年。つまり民国成立前です。安徽省はもちろん全国的にも歴史は古い。
 場所は鶴兒山南麓。これが以後のポイントになります。

① 蕪湖教案:蕪湖宗教紛争

但此舉引起蕪湖民眾的強烈憤慨,原因是鶴兒山乃蕪湖風景秀麗、歷史悠久的名勝之地。[前掲毎日头条]

──この建物は蕪湖の民衆の「強烈憤慨」を買った。なぜならそこは「風景秀麗,歷史悠久」の地だったから。
 あんな綺麗な場所を,異教に占拠されてなるものか,というだけでは,この憤慨はよく分からない。

據民國《蕪湖縣誌》記載:鶴兒山,在縣西北四里,臨大江,有亭名八角。明崇禎年間,改名為「識舟亭」,取南朝詩人謝朓「天際識歸舟」(《之宣城郡出新林浦向板橋》)詩句意。[前掲毎日头条]

──県(城)西北2kmに長江を臨む「八角」という「亭」があった。明崇禎代に「識舟亭」と改名。南朝の詩人・謝朓の「天際識歸舟」(之宣城郡出新林浦向板橋)という詩句からとったもの。
 詩は「天の際へ帰る舟と識る」とでも読むか。とにかく詩に吟われるほどビューポイントだったことになる。
 だから,どうやら軋轢は僅かずつ高まったらしい。

據民國《蕪湖縣誌》記載:光緒十二年(1886年)有人盜賣與該教堂。1887年金神甫和輔理修士顧培源(法籍)共同負責,在鶴兒山南麓正式動工建造住院和大堂,初具規模。[前掲毎日头条]

──光緒十二年,つまり完成の前年に既に泥棒が入って教会内の財物を盗んで売ったという。金があるように見えたのか,あるいは義賊的行動だったのか。
 1891年の騒乱もその種の些細な発端らしい。

5月12日、一人の女性がカトリック聖ヨセフ教会に預けていた子供を返してほしいと訴えたが、拒絶されたため、騒ぎとなって5千人の群衆が集まった。もともとカトリック教会が児童を誘拐・売買しているという噂があったため、群衆は騒ぎを見て噂が真実であると信じた。

※ wiki(日本語)/蕪湖教案
 教会が児童の人身売買,という噂がどこから立ちうるのか不明だけど,学校の真似事をしていたんだろうか。子どもの返還を拒んだ,というのも分からない。虐待児童を保護していたということだろうか。
 でもその一人の子どもの話が大きくなる。おそらく,それを機に爆発した,ということでしょう。

就在蕪湖天主教堂建造的第四年(1891年),一起震驚中外的「蕪湖教案」發生。[前掲毎日头条]

──教会が建って4年目に発生したのが「蕪湖教案」……蕪湖・宗教紛争というニュアンスか。

據《益聞錄》中《蕪湖鬧堂實情》記載:激憤的人群 「由堂之東遍(邊)將圍牆推倒數丈,一擁而進。雖有饒守戎所帶兵勇數十名在此彈壓,究因寡不敵眾,無從堵御」, 「一時人如蟻聚,內外夾攻,不逾時四面火起,烈焰亘天,呼聲動地。」「而毗連洋關新造洋樓五幢以備西人居住者,又被縱火焚燒。」[前掲毎日头条]

──「益聞錄」の「蕪湖鬧堂實情」の記すところでは,怒り狂った民衆は「堂の東側から壁を倒して乗り越えて進んだ。銃を帯びた屈強な兵数十名が守っていたが,不敵な群衆をブロックできなかった」。「蟻のように攻めいった群衆は四面に火を放つと,炎は天をつき地を動かすような声が満ちた。」「隣接する洋館5棟には西洋人が住んでいたが,その火で焼け落ちた。」
 守兵数十名がいた?襲来は奇襲ではないから動きを察することはできたとして,展開したのは西洋人の兵力でしょう。
 そして隣接する洋館があったこと。この一帯は西洋人の居住区だったわけです。

翌日、安徽巡撫沈秉成は長江水師に命じて、軍艦から砲撃させて群衆を解散させた。事件後、イギリス領事とフランス領事は連名で清朝に抗議した。両江総督劉坤一は王光全・傅有順を斬首に処し、蕪湖の道員と知県を更迭し、さらに賠償金として銀12万6千両を支払った。[前掲wiki]

 西洋人に危害が及んだとしても自国内での出来事です。軍艦から群衆を砲撃すれば相当の死者も出たでしょう。その上で責任者を処刑して賠償金を支払った,というのは腰の低さを通り越して卑屈です。
 総合すると,この教会周辺は当時,普通の中国ではなかったことが窺えます。

▲英商码头(イギリス商人の波止場,蕪湖・年代不詳):※ 捜狐/【回望镜湖】近代航运业与芜湖城市的兴起

② 蕪湖租界:移転された木筏係留地

 この日に見かけた「蕪湖外灘」というのは,比喩ではなくて本当の租界だったらしい。

芜湖各国公共租界是1877年至1943年存在于今中国安徽省芜湖市镜湖区的一个外国租界,位于芜湖老城西门外,南起陶家沟,北抵弋矶山,东至普通山,西达长江边[1]。

※ 維基百科/芜湖公共租界
[1] 《民国芜湖县志·卷五·地里志·市镇》:租界在陶家沟北,弋矶山南,计地七百十九亩四分四厘八毫一丝四忽。

──1877年から66年間,48haの地域が租界になっていた。
 教会焼き討ちはその10年目の出来事です。河沿いの景勝地にみるみる立ち並んだ洋館,そのシンボルとして教会が攻撃されたのは想像に難くない。
 これと年代が食い違うようですけど,おそらく正式な治外法権エリアの設置を意味するのでしょう。1901年にイギリスが租界設置を清政府に要求していくんですけど,その経緯が少し面白い。

1882年英国怡和洋行前来拟租界内一块滩地,该地长久以来被芜湖木商堆放木排,木商拒绝交出土地。1901年,怡和洋行通过英国驻华公使馆对清政府施加压力,敦促时任芜湖关道吴景祺迅速解决英洋行租地问题。[前掲維基百科]

──1882年にイギリスの怡和洋行(英语:Jardine Matheson。銀行)が建つ前の租界の土地はただの河原だった。だから昔からここは,蕪湖の木材商が木材を筏に組んで放置しており,移転を拒んでいた。1901年,怡和洋行は英国駐華公使館を通じて清政府に压力をかけ,蕪湖関道(官職名)呉景祺にこの「英洋行租地問題」の迅速な解决を促した。
 租界の前身は,木筏の散らばる河原だったわけです。のどかな河原町の脇の小山が景勝地になっていた。そういうところに外国の洋館を建てた上で,木材が目障りだから移転させろと政治的圧力をかける。民衆側から見ると無体な要求です。
「堆放木排」が最初分からかったので検索すると,古い記述が幾つかヒットします。日本のように木材資源の豊かでない長江流域には,上流から流した木筏がこのように雑然と浮かぶ光景があちこちにあったのでしょう。
 けれど列強の動きは呵責がなく──

吴会商英国驻芜湖领事柯韪良(Sir William Pollock Ker)提出要明立章程,方可动员木商搬迁。此时美、法、俄、日等国也要求尽快设立租界。[前掲維基百科]

──1901年,英公使館が清政府に租界設置の圧力をかけ,これにアメリカ・フランス・オーストラリア・日本が同調した。
 これに対する清政府の対応を,捜狐は酷評してます。

软弱无能的清政府,迫于英国的势力,敇令芜湖关道勘定,将县西门外陶家沟至弋矶山沿江滩地划为英租界。

※ 捜狐網/【回望镜湖】列强风云之芜湖租界 
──軟弱で無能な清政府は,イギリスの力に押しきられ,蕪湖関道に勅令を発して,県(城)西門外の陶家沟から弋矶山沿いの長江河原地域を英租界に割り当ててしまった。
 木材商のことはもう出てこないけれど,こちらには別に移転先も確保されず,単に追放されたのでしょう。その結果出来上がった租界のマップが,一枚だけ見つかりました。
▲芜湖租界地図(原典不詳)

怡和洋行租占北段争租问题解决后,从光绪三十二年二月(1906年3月)起,外商才相继划分地段,照章缴价,顺次承租建房第一段属怡和,第二段属太古,第三段属瑞记,第四段属鸿安在租界内共修了八条马路,三条南北走向,五条东西走向。

──「怡和洋行租占北段争租問題」が解決した後,1906年に南北3本,東西5本の計8本の大通りが造られた。
 蕪湖教案から15年後です。各地の租界になる前の土地にも現地の生活者がいたわけで,珍しくその姿が見え隠れする蕪湖租界の経緯は非常に興味深い。
 また,にもかかわらず租界地を完成させてしまった当時の日本を含む帝国主義諸国の横暴ぶりも理解できます。
 この日に歩いた通り,現在,この場所にはその痕跡らしきものが一掃されてしまってます。それそのものに現地側の怨念を感じます。

③ 関門洲 銭を蒔く者 拾う者

 と結んだつもりになってたとこで,妙な記述を見つけてしまい,またしばらくのめりこみました。
「蕪湖に関門洲あり,蕪湖で稼いだ銭を蕪湖で失う」(芜湖有个关门洲,芜湖赚钱芜湖丢)という成句です。

“芜湖有个关门洲,芜湖赚钱芜湖丢”——这是老芜湖人非常熟悉的一句民间俗语。“一种说法是,芜湖是个吃喝玩乐的好地方,挣的钱都能在芜湖花光。还有一种说法是,在关门洲附近,江水回旋急流,过往船只为了保证安全,都要往关门洲上丢点东西。”

芜湖那些消失的洋地名,你知道多少?
──それは蕪湖の古老がよく知る民間俗語である。「一つの解釈は,蕪湖は飲み食い遊びに事欠かない場所だから,稼いだ銭を蕪湖で使いきってしまう,というもの。もう一つは,関門洲の付近では長江の水流が旋回する急流になっており,船の安全を保証してもらうには,関門洲で財物を落とす必要がある,というもの。
 水中に金目のものを投げ込む航行安全祈願?
 とりあえず……「関門洲」から調べました。

位于安徽省芜湖市青弋江入长江处,是两江会合处形成的一个江口沙洲,面积较小,在长江芜湖段进入枯水期,沙洲会露出。

※ 百度百科/关门洲
──安徽省芜湖市の青弋江が長江に入る場所に,両川の合流で形成される河口の砂州。面積はごく小さい。長江の蕪湖域が渇水期になると,この砂州は水面に露出する。

▲残照の関門洲

早在光绪二年(1876年),中英签订了《烟台条约》,芜湖被开辟为商埠。因此,芜湖成了安徽省最大的通商口岸。[前掲百度]

──1876(光绪二)年,中英間で締結された煙台条約により,蕪湖は早くも商港として開かれた。これにより蕪湖は安徽省最大の通商港湾となった。
 え?全く違う話かと思えば,これも租界時代に由来するの?

过去的船只,大都简陋,遇到风大浪高,很容易翻船。于是,有人在青弋江和长江交汇处,修建了宝塔,芜湖人叫中江塔,用于镇妖,保船员平安。[前掲百度]

──往来する船は皆,簡素なものだったので,風が強く波が高いと容易に転覆した。そこで,ある人が青弋江と長江の合流点にあった宝塔を修建した。蕪湖人はこれを中江塔と呼び,妖気を鎮め,船員の平安を保とうとした。
 土地勘のある人ならもう場所の見当はついてるでしょう。ワシはそれがないので,ここに出てくる中江塔を調べると──あらら?天主堂の5百mほど南じゃないか!→中江塔:GM.
 ということはその西,青弋江河口にある丸い島が関門洲だったのでした。

▲現在の中江塔付近[前掲捜狐]

 で,なぜ船から銭を落とさないと海難に遭うかというのは,新浪網サイトに長々とした伝説がありました。──短く言うと,穀物商の兄弟が蕪湖で稼いだ後,海中から銭を置いていけと声を聞いたけれど僅かしか投じずにいたら遭難した,という話らしい。
※ 新浪網/芜湖民间传说——芜湖有个关门洲,芜湖挣钱芜湖丢!

从那以后,人们发现青弋江和长江的汇口处,总时隐时现地横躺着象一片柳叶的沙洲,来往船只稍不注意就会搁浅。[前掲新浪網]

──それからというもの,人々は青弋江と長江の合流点を通るとき,いつも横たわった柳の樹のような砂州を見るようになり,注意を怠ると座礁してしまうようになった。

人们便传说,这片小沙洲象是芜湖的一座水城门,对那些奸商来说,它不用守兵也永远是关着的,因此芜湖人便给它起了个相得益彰的好名字,叫关门州。[前掲新浪網]

──人々は口々に,この小さな砂州はまるで蕪湖の水城の門のようだ。あのような「奸商」がまたやって来たら,その門は守兵を用いずとも永久に閉まってしまうだろう。蕪湖人はその効能を信じて名付けた。関門洲と。
 伝説の兄弟は,読む限り資本主義国のワシらから見てそう「奸商」には見えない。むしろ,19世紀末に突然この河原を占めた外来者を指していたのではないでしょうか。
 つまり「芜湖有个关门洲,芜湖赚钱芜湖丢」という成句は,こういう呪詛と聞こえます。──蕪湖の守門を閉めることが出来るぞ。蕪湖でいくら利益を得ても,お前たちはそれを持ち帰れはしないぞ。
 こんな強烈な呪詛を口にしながら,以下のような行動に走っちゃうのも,また中国人らしい。
──毎年,長江の水位が下がり関門洲が水面に露出すると,少なからぬ人々が砂州の上でお宝(航海安全のために撒かれた銭)を探し回るのである。

每到一年之中,当长江水位下降,关门洲露出江面时,都会吸引不少人前往洲上寻宝。[前掲「你知道多少?」]

■小レポ:上海交通網に埋もれる古道・新闸路

「闸」字に当たる日本の漢字はどうやらない。
 ピンインはzha2。とりあえず,と字義を調べると──

1名詞 〔‘道・座’+〕(川の水をせき止める)せき,水門.
2((通称)) 名詞 〔‘个’+〕ブレーキ.≒制动器.
3((通称)) 名詞 (発電機・電動機など強電用の)大型スイッチ.≒电闸,闸门.⇒开关 kāiguān ,电门 diànmén .
4動詞 (水を)せき止める.

※ weblio/(牐)
 水門??こんな上海ど真ん中に?

① 新闸路の3855m

 それで「新闸路」というこの,それなりに歩いたつもりでいた上海で未だ聞き慣れない道の場所を辿ってみた。
 ここでした:GM.(行程)。
 西蔵路の呉淞江(蘇州河)にぶつかる南辺りからくねくねとうねって西方,江蘇路の東までの3855m(後掲維基)。上のGM.行程を取ろうとするとすぐに北京路に出てしまうほど,現在の北京路に並行して伸びる東西の細い道でした。
 不整形なそのラインが道の古さを物語る。
 今はひっそり道路網に埋もれるこの道がどう出来たかというと──

1862年,太平军进攻上海,上海公共租界工部局向西越界修筑了数条运兵道路,其中直接沟通租界的有两条:新闸路和静安寺路。最初是一条土路。1868年,新闸路划归公共租界工部局管理后,从西藏路到卡德路段铺砌了碎石路面。此后由于拥有苏州河水运的便利

※ 維基百科/新闸路

② 19C末,路面電車の走った道

──1862年,太平(天国)軍が上海に攻め寄せた際,上海公共租界工部局は西へ兵力を展開する道路を修築し,「沟」(水路)と租界を直接つなぐ二本の道・新闸路と静安寺路を造った。最初は土の道だったが,1868年に新闸路は公共租界工部局の管理下で西藏路~卡德路までが石の路面になった。これによって蘇州河を通じての水運がより便利になった。
 つまり,租界からの守兵の展開のために敷設された道だったわけです。似たルートで静安寺路も通したのは,複線化,反対方向への同時進軍,あるいは一方が破壊された際の予備路も考えたのでしょうか。
 1908年には,これがさらに「電車軌道」にされる。ここに路面電車が走っていたのか?

1908年,该路继续向西延伸,直到胶州路,同时在西藏路至卡德路段铺设了上海最早的电车轨道之一。

※ 百度百科/新闸路
 新たな「闸」という道の名前が何に由来するか,既存記述はない。ただ,「せき止める」イメージだとすれば,対太平天国軍の防衛線という当初の設置趣旨から道が命名され,今に残った,とも考えられる。
 それと,片方に「静安寺」路と既存の建物名がついていることと比較すると,敷設前の新闸路エリアは特に見るべきもののない未開発地だったのではないか。
 前掲百度には沿線の歴史的建築が列記されてますけど,小粒の宝石揃いです。上海の租界と老城に続く第三次発展は,この道に沿ってまず展開した,という見方もできそうです。
 路面電車の痕跡も期待できるし,今後歩くべき道としてキープしておきたい。

■コレクション:変な日本語ファン必見!

「仙豆糕」紹介記事を探してて,別の意味でなかなか凄いのを見つけてしまったので,ご紹介させて頂きたい。いや,ネタというより,こういう日本語って日本人には書けないからホントに貴重だと思うんです。

「栗記麦香坊(中国語表記:栗记麦香坊)」という店がネット上の人気度が、グルメ通にとって知らない人がいません。鼓楼の東大街の西偏りのところに位置し、鼓楼に近い路端にある店です。そんなに目立たない小さいな店でさえ、毎日、行列が二列に並びます。

※ 中国北京観光/>グルメ >はやりの味/北京風デザートの「仙豆糕」を食べよう~
 第一文で既に,「が」の三連発で主語を見失うのがポイント高い。
 続く第二文で完全にハマッちゃいました。読んだだけでも戸惑うけれど,実際に調べた位置はこちら。

▲百度地図で見る北京市鼓楼東大街246号地点(栗記麦香坊南锣店)

「鼓楼の東大街の西偏り」と言われてここにたどり着けたら拍手である。おそらく,①東大街:鼓楼の近く×②目標地点:東大街の西半 という2情報を表現したかったのだと察する。
 第三文も凄い。一読するとどこの店の話か分からなくなるけれど,この栗記の行列状態を書いたものらしい。
 さて,三文でここまで感動的なのは希有だけれど,ここまでが第一段に過ぎないのである。

この店の人気商品はなんといっても「仙豆糕(豆ケーキ)」です。これは四つの味があり、ナチュラル、紫芋、摂生赤豆と紫芋チーズです。出来上がった直後の豆ケーキは皮が脆いです。[前掲北京観光]

 うん。「です」が連発したり「ナチュラル」は自然ではなくて「オリジナル」のことかとか細かい点以外は,面白くない,いや安心して読める正解さで,ここで読者に隙を作らせる。

「紫薯仙豆糕(紫芋ケーキ)」は、紫芋の中身が柔らかくて独特の紫芋の香が溢れています。「紫薯乳酪仙豆糕(紫芋チーズケーキ)」は、他の三種類より大きいです。出来上がった時チーズが本当に流れますが、冷たくなると甘みが下がります。[前掲北京観光]

 第一文の同語反復で調子を戻してきます。紫芋に紫芋の香が溢れてる,と言われても……。
 第二文で安心させといて,第三文「チーズが本当に流れます」と「冷たくなると甘みが下がります」で読者を「???」の世界に誘う。計算されつくした巧みさである。

「紅豆仙豆糕(赤豆ケーキ)」は、目で見て普通ですが、食べると非常に驚喜です。赤豆の甘みは砂糖を入れて配合した訳ではなく、作製しているところレーゾンを入れました。レーゾンの甘みと赤豆を混合させ、口に入ると赤豆の香と甘みが感じられます。[前掲北京観光]

 最終段は何と言っても「レーゾン」である。ドイツ語のレゾンデートル(存在理由)を思わせて哲学的ですけど,まあ「レーズン」なんでしょう。
「作製しているところレーゾンを入れました」がトドメの爆発力を持つ。なぜここで「いるところ」なのか,と悩み始めると夜も眠れなくなるけれど,「製作中に」と言いたいのだと気付けば,砂糖の代わりにレーズンを混ぜこんだ,と言いたいのだと解脱することが出来る。
 うーむ!深い!深いぞ,変な日本語!このチャンピオンクラスの迷文には,なかなか匹敵するものは見つけにくい。台湾の「都会の旅」以来です。

「/※5495’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:そして上海へ」への2件のフィードバック

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