/※5504’※/Range(上海).Activate Category:上海謀略編 Phaze:桃の清真寺

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
A[7]凝和路:麦香园馒头
D[8]学宮街:花梦烟杂店


~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3■ 沛国里:GM.
4■ 鳴波浴室:GM.
5■ 嘉草网咖:GM.
6■ 薬王廟遺址:GM.
7□ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8□ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.

浜の道 今は下町 明日モール

▲1029乔家路その1。東の湾曲辺り。

焼き君の路上市の先に,何ともたおやかな賑わいが続きます。
 ところで,上記写真から6枚,T字路付近の画像はどうぞ目に焼き付けてやってください。→巻末参照

▲1035乔家路その2。萬有全蓬莱菜市場前。

有全蓬莱菜市場。──「本なら何でもそろう」宮脇書店みたいなものか?

▲1036乔家路その3。T字手前辺り。赤い横断幕はやはり収用を謳うものか。

第7ポイント:山東名物麦香园馒头

037,凝和路。明清代に「园浜」(円浜)と呼ばれた岸へのT字地点です。
 ここが第七ポイント「麦香园馒头」。

▲1038凝和路その1。大人気店(おそらく麦香园馒头)の軒先

香园馒头は上海老城名物,というわけじゃなくチェーン店。どうも青島が拠点らしい。
 なお,この翌年のコロナ封鎖中の武漢に,このチェーン(らしきもの)がマントウを十万個贈ってます。→巻末参照

▲1040凝和路その2。長屋の商店群。

和路はガイドやサイトにもあまり名を出さない。でもこれまでの老城歩きで,気付けばここに来ている,程好い雑踏と猥雑さの通りでした。
 古地図を見れば少し納得する。西の湖沼群への結節点で,南門への出入口。東は乔家路に連なり,北は中心部へ。老城の南のジャンクションのような場所です。

▲1041凝和路その3。再見永遠。

煙る闇 賭けトランプのダンディズム

行。1040。
 金家旗杆弄を西行。細く蛇行する魅力的な空間が連続します。
 この名前は清朝代の痕跡か?──と思えるけれど,そるはこれも何もヒットはない。「杆」はてこ,手すりの意。
 ただ1枚だけ──

▲1043金家旗杆弄

「Flickr」というサイトに次の名でこんな写真があった。Shanghai:玩牌 上海老城厢金家旗杆弄。
 トランプ賭博をしてるらしき咥えタバコの爺様があまりにダンディです。確かにこういう奴が居そうな佇まいだし。

廟路幼儿園」?贅沢な命名です,いかにも英才教育っぽい。
 あれれ?この前から道の名が先棉祠南弄に変わったぞ?→巻末レポ
 1047,河南南路。蓬莱路から西へ……またいだところで大変なことを思い出した。──蓬莱路?そうか,よもぎもち!昨年感激し,今朝南京東路で見かけたあの緑色の餅!
 急ぎ西行し1100,読酥世家。なぜだ?今年はよもぎもちなし!がっくし。
 引き返す。風が凄い。

第8ポイント:花と夢の雑貨店

▲1105学前街。「1925」と誇り高く表示するゴッツい石門

104,学前街を左折北行。
 T字を右折。文廟路を15m,学宮街をさらに北行。
 この辺りは何度も歩いてるつもりだけど……意識してなかづたからか?改めて貫禄のある家構えが多い。

▲1113梦花街。花梦烟杂店のT字路。

宮街が梦花街にぶつかるT字の対面が第八ポイント花梦烟杂店(タバコと雑貨の店)。
 この漢民族らしからぬファンタジーな道の名は,上海老城を歩き始めた頃から記憶に残ってます。
 民国代の夢花楼という建物に由来すると維基百科にはあります。その楼をしらべるとヒットがないから何のことか分からんけど。
 だけど急遽気になってきた。東へ進む。

1940年まではメッカ巡礼者集合地

▲1123西仑橋街。夢花街より少しカジュアルな好い風情です。

桃園清真寺を目指してみる。梦花街から1116,左折。庄屋街へ。
 1118,右折東行。西仑橋街に入る。
 1123……あれ?ないぞ?引き返す。

▲1126小桃園清真寺

れ?ここなの?
 確かに上海市伊斯兰教教会と表示がある。でも普通の建物だな。尖塔など特徴的なものはない。
──後に英語wikiを見ると,内部のホールの下記写真がありました。5百人収用。1940年まで,つまり日中戦と解放の前までは,ここにムスリムが集結してメッカ巡礼に旅立っていたとのこと。
 ……解放後はどうなったんだろう?なぜか,文革でどうなった,という記述は一切見つからない。

▲Xiaotaoyuan Mosque prayer hall(礼拝堂)

In 1920-1940, the mosque received and served Muslim people from regions around China who planned to go for Hajj to Saudi Arabia.

※ wiki(英語)/Xiaotaoyuan Mosque

~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3■ 沛国里:GM.
4■ 鳴波浴室:GM.
5■ 嘉草网咖:GM.
6■ 薬王廟遺址:GM.
7■ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8■ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.

▲乔家路の風景群[後掲捜狐]

■レポ:老街乔家路。今はもうない

 今の中国を歩きまくってるのは,その光景が10年先には多分ないからです。
 当時はそれほどとは認識してなかったけれど,この時の第5~8ポイントを含む乔家路一帯,以下の資料で言う第四象限は2019年内にほぼ立ち退きが終了。以後,速やかに再開発が着手される。
 だから本稿掲載の画像は,本当にその直前を撮ったものになりました。

① 明清「乔家浜」

 上海の姓名の通りについて勘違いをしていたのは,「A家巷」が「ここはA家の支配領分だぞ」という排他的な意思表示だと思い込んでたことです。
 王医馬やこの「乔家路」のように,そこに住んだ偉人を讃える趣旨のものも相当ありそうです。

清朝时,今乔家路原是一条河浜,该浜东引薛家浜水进小南门(朝阳门)水关,西达也是园浜(今凝和路)。据载,明末名将乔一琦(上海乡人)世代居此,浜因乔家住宅得名。辛亥革命后,填乔家浜筑路,路以浜名命名。

※ 南市区地名志\上観新聞/乔家路,上海老城厢一条有故事的路
──(南市区地名志に)曰く,明末の名将「乔一琦」(上海出身)が代々ここに住んでいたため,浜は乔家の住居という意味でこう名付けられた。
 清朝の頃,今の乔家路は元々は一条の河浜だった。浜は東へ「薛家浜」そして小南门(朝阳门)の水門へ続き,西は园浜(今の凝和路)へ達していた。
 辛亥革命後,乔家浜は埋められ道路が造られた。この時,浜の名がその道路に命名された。
※ 明清の記述は時系列に改めた。
 現代の技術はないから暗渠こそされてないけれど,复兴東路と同じです。船舶が最も有効な輸送手段でなくなった後,陸運の障害として水路は埋められた。
 ならば?复兴東路の前身・肇嘉浜と同じく,古地図に──と前掲の明代円環地図を確認すると……あるじゃないか!

▲始建于明朝中期的上海县城城墙(一部):※ 百科TA说/小刀会起义:一场发生在上海的反清复明事变

 なぜこんな左倒れT字がここに出来てるのかは分からない。でもこの西の湖沼の多さから推測して,明代前半までの時代に点在する沼地を人工の水路で結んだのではないだろうか。
 老城が出来てからの活況は想像しやすい。黄浦江から容易に寄港できるこの浜は,老城壁が完成してからは城域内に直接航行できる貴重な水路として,肇嘉浜に並び財物を積む船で溢れたろう。
 肇嘉浜より小さく遠いここは,おそらくは,裏寄港地,小型船舶あるいは上流からの内国船舶が多かったのではないか。
 なお……とついで書きするのは失礼だけど,「乔一琦」という人は宦官の家系ながら武芸のみならず書家として高名だったらしい。
 ちなみに「乔」は姓のほか「変装する」「聳え立つ」の意の漢字で,「禿」とは関係ない。……実はハゲのオヤジが多いとかに因む名前では?とイメージしてた時期があったので一応。

乔一琦诞于官宦世家,他天资聪颖,年轻时就喜好驰马击剑,能驯服狂野烈马,而且刻苦练习书法,专攻怀素、二王笔法,人称“乔公子”。明代万历三十一年(1603年),33岁的乔一琦得中武举,被委以把总,不久任辽东广宁卫(在锦州东北)守备,旋移驻山海关东之滴水崖,曾写大字“镇星之精”于石壁。(略)乔一琦遗像原供于药局弄乔氏宗祠,“文革”初期遭焚。[前掲上観新聞]

▲上海老城第四象限の征収区域図

② 上海人永遠の「根」

「上海人的根」という表現が老城を調べてると決まり文句のように頻出します。なぜか他の都市の表現には出ない。
「根」の字義は,日本語と共通しつつ,中国語の方はやや深い意味もある感触です。

3名詞 (〜儿)(物事の)基礎,土台.
用例 根不正秧子歪。=(根っこがまっすぐでなければ茎もゆがむ→)基礎がしっかりしていなければ発展は望めない.
4名詞 (〜儿)(物事の)根源,本源.⇒祸根 huògēn .
用例 这项工作迟迟不进,根在他那儿。=この仕事が遅々として進まないのは,彼のせいである.
刨根儿问底儿((成語))=とことん問い詰める.
5名詞 (人間の)素姓,来歴,由緒.
用例 他是我知根知底的老朋友 ・you 。=彼は素姓の知れている私の古い友人だ.

※ Weblio日中中日辞典/
 上海老城第四象限,つまり南東の四半分に当たる前掲図の範囲は,一気に再開発されます。ある程度の愛着はあるとは言え,そこに住んでない者が語るのは,何と言うか,違うと思う。
 是非,次のプログを開いてみてください。ここではその末尾だけ引用します。

再见了,老城厢
再见了,乔家路
这里是上海人永远的根
这里藏着上海人永远的回忆
让我们向着美好的明天,出发!

※ 捜狐/再见了,上海老城厢!再见了,乔家路!这里是上海人永远的根! 2019.02
──さよなら,老城のたたずまい
 さよなら,乔家路
 ここは上海人の永遠の「根」
 ここには上海人の永遠の記憶を蔵されている
 我らをより良き明日へ出発させんことを!
……現代中国人にとっての中国は、新市街のことで,老街を懐かしむことはあっても,自分の分身のように感じる日本の田舎のような感覚はない,と断じる人もいる。でも少なくとも,上海の老城についてはそうでもない感性は存在する手応えがあります。
 第四象限の住家は5800世帯。再開発予算380~400億元(57~60百億円),世帯平均700~900万元(1.1~1.4億円),転居費用を合わせ総額1000億元(1兆5千億円)。──中国でも最大規模の再開発ではないでしょうか。

上海黄浦区重点聚焦老城厢待改造区域中房屋条件最差的第四象限地区(河南南路以东、复兴东路以南、环中华路地区),与上海地产集团合作推进乔家路地块的片征收改造。
乔家路动拆迁共有居民5800户,安置补偿总预算380—400亿,户均700-900万,其中很大一部分是首套购房!购房金额规模预计1000亿!

※ 天涯社区/上海乔家路迎来老城区拆迁,又要诞生几千个千万富翁! 2019.03-

③ ある強制執行通知

 食用油の会社に対する2020年5月の強制的な撤去通知を見つけました。
 コロナ第一波が落ち着いた直後のこの時期,容赦のない措置です。
 現在の第四象限の記事や画像は伝わってこないけれど,この措置は,おそらく他の立ち退きがほぼ完了したことを意味するものと推測されます。
 しかしまあ──金額がギラギラする行政文書です。6.06平米の床面積に107871.64元(160万円)!
 この膨大な投資の元を取れる再開発となると──ここがどう生まれ変わるのか,そこにむしろ戦慄します。

上海黄浦粮油食品发展有限公司:
乔家路103号房屋的产权属黄浦区商务委员会(以下简称“区商务委”),系2002年原上海黄浦粮油食品发展有限公司转制时上交区商务委粮油转制房屋中的一套。乔家路103号房屋建筑面积6.06平方米,该房屋于1999年7月以带职工转让方式转让给目前的实际使用人郭文宏。
目前,乔家路103号房屋地处小东门街道,属于黄浦区乔家路地块(东块)旧城区改建项目的征收范围(黄府征[2019]5号),经上海申杨房地产土地估价有限公司评估,该房屋评估单价为89003元/平方米,根据《上海市国有土地上房屋征收与补偿实施细则》第三十六条规定:征收执行政府规定租金标准的公有出租非居住房屋,对被征收人的补偿金额计算公式为:评估价×20%。乔家路103号房屋征收产权部分的补偿金额为:89003×6.06×20%=107871.64元(壹拾万零柒仟捌佰柒拾壹元陆角肆分)。
经区商务委2020年5月13日党组会议讨论,同意签署乔家路103号房屋征收补偿协议,请你公司配合区商务委做好涉及征收的相关工作,确保国资收益。
特此通知。
黄浦区商务委员会
2020年5月20日

※ 上海黄浦/黄浦区商务委员会关于同意签署乔家路103号房屋征收补偿协议的通知 发布时间:2020-06-03

■小レポ:武漢にマントウ十万個

「麦香园馒头」がここと同じかどうかどうもよく分からないままで恐縮ですけど,「禹城麦香园」というところが山东大馒头を湖北省に無償提供したという。
 その数,十万個!
 時は2020年2月,贈り先は武漢です。
 中国らしい贈物で,かつこういう社会協力の形が中国にもあり得るものになってる,という点で,転記したくなりました。

齐心协力抗击新冠肺炎疫情的关键时期,今天(2月13日)上午,德州禹城麦香园捐赠的山东大馒头发往湖北防控一线。
(略)禹城麦香园食品有限公司总经理邵燕说:“前方传来消息说,山东医疗队特别想念家乡山东的大馒头,就想把麦香园的馒头运一部分过去。这个大馒头运到黄冈,带去的不仅仅是家乡的味道,更多带去的是山东父老乡亲的牵挂和惦念。”

※ 山东 > 新闻资讯/10万个大馒头捐赠湖北!德州,让山东医疗队尝到家乡的味道 2020年02月14日

 始めは,コロナ下での売り込みか?と勘繰りましたけど,少なくとも社長さんの説明では「山東医療団がふるさとのマントウの味を懐かしがってると聞いたから」という純粋なものらしい。
 武漢には中国各地から6千名の医療チームが派遣されました。その出身別のデータは見つからなかったけれど,引き揚げ記事からすると山東省からは千人以上は参加していた模様です。

○ 山東医療隊・辛文莹の日記

 その関係記事から,ある女性隊員の日記を見つけました。
「齐鲁网·闪电新闻」というネットメディアが3月25日付けで掲載しているもの。山東第六批援鄂医疗队というチームの一員で,彼らが武漢に入って45日目の文章でした。

在武汉的工作是充满战友情的,从手忙脚乱到有条不紊,一边学习一边成长,一边辛苦一边感动,所谓充实应该就是这个样子。

※ 新浪山东 资讯/山东医疗队队员辛文莹:在武汉,我们都是战友 2020.03.25
──武漢での仕事は,戦友の友情で満たされている。手は忙しく足はふらついているけれど秩序立っており乱れはない。時に学び,時に成長し,時に辛く,時に感動し,いわゆる充実とはこういう様子を言うに違いない。
……衒いがない。極めて淡々とした文章で,もちろんイデオロギーも臭わない。凄絶な一月半を過ごされた後のこの記述は,むしろ凄味がある。
 中国語の読める方,是非お読みください。読めない方も,語感は伝わると思います,一見してみてください。
 そして彼女,最後をこう結んでます。

最后我憋了好久,好想化个美美的妆啊!好想有一头不长不短的头发!

──最後に。私は長いこと我慢しているけれど,すごく思っているのは……キレイにお化粧したい!髪を丁度よく切り揃えたい!

■小レポ:江南をひっくり返す黄道婆

 この道を軽い気持ちでググると,次のサイトが見つかった。引用不可なので道名由来の概要だけ書き出すと──旧称・黄婆庵弄。清代に天津から物資を満載した船が着いて,特に織物が有り難かったから,機織りの神様「黄道婆」を祀る祠を建てた,というもの。
 いや,だからそれと「先綿」の関係は?
※ 新浪博客/老城厢先棉祠北弄40号

① リー族から学び紡績機を発明

「黄婆」という文字ではヒットがない。これが「黄道婆」の略称らしい。けれど,どっちにしても妖怪じみた呼び名です。
 どういう神様かな?と調べると,実は人間の女性でした。

黄道婆(こうどうば、1245年頃 – 1330年頃)は、中国元代の女性紡織家。綿の紡織技術を学び、故郷に伝授した。「棉聖」とも称される。

※ wiki/黄道婆
「綿聖」転じて,古えの「綿」聖という尊敬を込めた名称で「先綿」祠なんでしょう。
 けれど,そんな昔の織物師がなぜ祠に祀られ道に名を遺すのか?
 単に先綿祠に,ということではありません。上海市内には幾つかの拝所がある。
・得月楼(豫園庭園内)[清:上海布業公所]
 (対聯)
 上联 :姆教千秋惠我生涯权子母
 (竹垣)訳 黄道婆の教えは、絶えることなく子々孫々まで伝えよう
 下联 :婆心一片得兹秘授说 丁娘
 (竹垣)訳 慈悲にあふれた心で、丁娘のように優れた技術を授けてくれた
・黄道婆墳墓(現上海県徐匯区(旧上海県龍華郷)華涇鎮
・黄道婆紀念堂(上海植物園内)
※ 竹垣惠子「黄道婆とその時代の染織」大阪芸術大学紀要,2002(以下「その時代」と略)
 wikiには黄道婆の略伝もありました。このストーリーは,中国では小学校の教科書にも載っててかなり有名らしい。

松江府烏泥涇(上海市徐匯区華涇鎮)出身。貧しい家の生まれで童養媳となるが、虐待に遭って逃亡する。海南島へ向かう船に身を隠し、そのまま崖州にたどり着いた。現在の三亜市崖州区水南村に住み、黎族から織物や綿花の栽培を学んだ。元貞年間に故郷に戻って織物の技術を広めた。機械の改良にも務め、「黄道婆紡車」とも呼ばれる「脚踏三維紡車」などを発明した。この機械は同時に3本の糸を紡ぐ事ができる糸車で、一度に複数の糸を紡げる紡績機としてジェニー紡績機より400年以上早いものである。[前掲wiki]

 この末尾だけ紹介されると物凄い発明に聞こえる。ただ,イギリスで紡績が産業革命を担ったのはその動力として,蒸気機関という,人力に比べると画期的な新動力が用いられたからです。イギリスではそれがたまたま同時期だった。
 現在,上海でデモに用いられてる様子は下写真のようなもの。ほぼ民芸の一種です。おそらく,絹の機織機そのままでは使えない木綿用の織機,というものだったのでしょう。
▲市内のデモストレーション

② 元明清の中国綿業パワー

 ただし,元代に中国綿業が興隆し,明代以降に主要産業の位置を占めるようになったのは事実です。

中国に伝えられたのは宋代末期の12世紀であったが、元代を通じて栽培が広がり、明代になると政府の勧奨もあってほぼ中国全土に普及し、綿布はそれまでの麻布にかわって大衆的日常衣料となった。

※ 世界史の窓/木綿/綿織物
 ここで問いたいのは,黄道婆が実際に何をしたかではありません。今,なぜ黄道婆がそのように物語られ,祀られているか,です。

15,6世紀になると綿布は全国的な市場を形成するようになり、特に江南の長江下流(江浙地方)の蘇州、松江府の綿業が発達した。[前掲窓]

 ここで,黄道婆の出自とは別に再び上海(松江)が登場します。「その時代」によると,商品名としては烏泥涇被,精線綾,三梭布,勇線毯などがあったという。
 しかし,黄道婆の出生から3百年は後です。経緯から考えて,綿業が上海から広まったというより,上海に他から伝わって盛んになった,という事実関係と推測できます。
 なぜか?この点が本題ですけど,そのためにはまず大状況の方をたどらなければならない、

長江下流で生産される綿織物の原料の綿花は華北から大運河を使って運ばれるようになったが、この地の綿業の発達は華北からの綿花だけでは不足し、周辺の農家が米作りをやめて綿花栽培に転業したため、この地域の米作量は下落して食料輸入地帯となり、穀物生産の中心は長江中流(湖広地方)に移ることとなる。[前掲窓]

 それまで中国一の米の産地の座を譲って綿作を始めるほど,この時期の江南の経済は綿業を中心に転換しています。
 交易品というより,江南綿は通貨的な基本経済単位になっていた。日明交易上は綿と言えば朝鮮のものがメインですけど,「南京綿」としては日本のみならず欧米にも名を知られました。英語には中国産の高級綿織物を指す「nankeen」という単語が残る。
 何より──教科書に載る有名な事実なのにしばらく気付きませんでした。産業革命ただ中のイギリスが中国に自国の綿織物を売ろうとして,これに失敗してアヘンを売り始めるのは,中国の綿織物が安く高質だったために,売れなかったからです。
 つまりそれほどまでに,歴史の表に時折しか顔を出さない中堅定番商品たる中国綿のバーゲニングパワーは,清末まで巨大だったのだと思います。清末まで,というのは植民地インド綿と開国日本がその座を奪うまで,ということでしょうけど。

③ 黄道婆の上海転生

「王医馬」と似た作りもののニュアンスが,黄道婆という呼称にはそもそもあります。これは本名ではない。「黄」はひょっとしたら名前の一部かあだ名だったかもしれないけれど,「道」は道教,「婆」は尊称といったところで,おそらく名もない庶民出身の人の通り名です。
 さらに,黄道婆の出自には異説がある。上海出身,つまり漢民族ではなく,海南島出身の黎族で,彼女が異国の江南に綿織技術を伝えたというものです。

筆者が採集した、いくつかある民間伝説のひとつには、彼女は海南島・黎族の出身であり、彼女が愛した人は血縁者でそれを嫌った黎族の首長は彼女を幽閉した。その後、釈放されたときにはすでに年老いて、出家(道教)するため、船に乗り、海を渡って上海に辿りついたとある。[姜铭 1994:63]他には、海南島で伝承されている説話で、幼い頃、貧困のため童養媳となり上海に売られ、嫁ぎ先の虐待に耐えられず、故郷の海南島へ帰り、織物の技術を習得し、優れた織物の作り手として、中国全土に名前が知れ渡り、広東・福建・江南一帯に紡績技術を教え広めたと言う説[高昌 蔡於良 1998:
No.2 1~24]もある。[前掲その時代]

 つまり,上海は,伝播の段階では関係ない。とすれば明代の松江で綿織が興隆した後,その技術の始祖を祀る中で,最後に付け足されたストーリーでしょう。
 その屈曲の心理的背景を,「その時代」はこう推測する。蓋然性が高いと思う。

誇り高い漢民族にとって、蒙古族の支配下にあることが屈辱的であった上に、自分たちより下位であると考えている少数民族から、織布技術を導入したとするには、さらなる抵抗感があったのではないかと筆者は考える。そのため、黄道婆は漢民族にとっては同胞であらなければならなかったとも筆者は推察する。[前掲その時代]

 これは明代でも同じでしょう。やっと漢民族王朝を取り戻せた明代に,江南の経済構造を根底から変えつつあった綿業の祖が非漢民族である,という事実は「なかったこと」にしたい。でも相当に技術の始祖崇拝は根付いてしまっている。
 日本によくある落胤伝承と同じです。彼女を「実は漢民族だった」ことにしなければならなくなった。
 考えたら元々変な話なのです。虐待されて上海を離れて全く知らない海南島へ逃亡しなければならなかった女性が,なぜ必死で習得した新技術を,凄絶なトラウマの記憶の中にある上海へ持ち帰る気になりうるのか?
▲1999年の黎族が描かれた中国郵政切手

④ 海南島の黎族

「黎」は「黒い」の意味,さらにそこから転じて「庶民」を指す漢字です。庶民は冠をしないから黒い髪があらわに見えている,あるいは農作業をしていて日にやけている,という意味らしい。

黎族(リー族)は(略)約90%以上が海南島に住む。(略)現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。(略)民族としての自称は賽、孝、岐、美孚、本地など。

※ wiki/リー族
 日本の政令市,例えば広島市並みの総人口を想像するとよい。
 ラテン化文字化が提案されているということは,無文字なのでしょう。
 なお,民族自称に「美孚」があったので香港の地名との共通性?と勘繰りましたけど,あれはmobileの漢訳なので共通はしてません。

11世紀宋の時代より史書にその名が見えるといい、紡織に秀でていたとされる。その技術は「黎錦」と呼ばれ、現在も伝えられているという。[前掲wiki]

 黄道婆黎族説の立場からは「秀でていたとされる」じゃねーよ!という感じですけど,通念的にはこういうところです。
 歴史上の黎族の経緯については,百度に詳しい。古越族一般と同様,何度となく中央政権,ということは漢民族とぶつかり弾圧されてます。
※ 百度百科/黎族
 けれども,元は広東から始まった共産党の解放区と連動して1920年代から国民党や日帝との戦闘を続けてきたことから──

数多ある少数民族の中でも政府から比較的厚遇を与えられているとされるが、それは国共内戦中に中国共産党に味方したためという。[前掲wiki]

 新四軍の官陡門奇襲戦隊長・粟裕がトン族だったように,共産党の解放区に参加した少数民族は多いらしい。解放戦争期への復古姿勢を取れば取るほど,共産党政権は少数民族に頭が上がらなくなると思われます。
※ Phaze:花園路堀端/遊撃戦の名人・粟裕
 それだけ,歴代の中央王朝に弾圧されてきた,という裏返しでもあるのでしょう。
 この民族が,西方から伝わった綿織技術をまずは自民族内に取り入れ,中国大陸全土にバトンタッチしていった。海南島という宋以前の中国大陸からは最辺境の,閉じられた社会だからこそ出来た文化的熟成だったのでしょう。
 貴州以来の確信をより深めています。漢民族が大勢を占める中国史の弱点は,自己中毒的な停滞です。そこに,辺境の少数民族が与え続けてきたインパクトは,予想以上に大きい。
 本質的革新は常に辺境から興る。
 本章は辛文莹に続き,「頑張る女性紹介」みたくなりましたけど……海南島からどういう理由かはともかく,自分たちを数で圧倒する,けれども文化的停滞に呻いている漢民族のただ中へと海を渡り,自文化の最先端技術を惜しみ無く伝えた少数民族の女性──むしろその方がブラボーだと思いませんか?
 最後に「その時代」のラストを飾っていた江南地方の童謡を転載させて頂きます。
 なお,同論文には入手困難な史料として,黄道婆の最古の記録とされる陶宗儀「輟耕録」と王逢「梧渓集」中「黄道婆祠」がありました。古い漢字が多いため,本格的な研究者の方々のために末尾に画像を残します。

黄婆婆、黄婆婆、
教我纱、
教我布、
两只筒子两匹布。
(竹垣)訳:
黄おばあさん、黄おばあさん、
糸の紡ぎ方を教えてよ
布の織り方を教えてよ
2本の筒に2匹の布
[ 张 家 驹 1994: 9]



「/※5504’※/Range(上海).Activate Category:上海謀略編 Phaze:桃の清真寺」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です