/※5503’※/Range(上海).Activate Category:上海謀略編 Phaze:ポイントにはマンション

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
C[5]巡道街:嘉草网咖
F[6]薬局弄:薬王廟遺址


~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3■ 沛国里:GM.
4■ 鳴波浴室:GM.
5□ 嘉草网咖:GM.
6□ 薬王廟遺址:GM.
7□ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8□ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.

揚げグルテン通り??

0934学院路。いつもの四牌楼路のエリアを本日は足早に抜ける。
 前章のデータを頭に入れると,ここの正体は,清末の県庁と文廟から南に伸びる門前町,だったことになります。ただその痕跡は,どうも現行政から目の敵にされてでもいるかのように,確実に摘み取られてます。逆にそれでもこの風情が残ってるのが,原景の濃厚さを物語ります。
 車道を南へ渡るため,一度東行。東街にぶつかり南行。姚家弄を越えると東西の太い車道・复兴東路。
 この老城分断道も,かつては肇嘉浜という河。地名からすると入江という感覚だったかもしれません。前章の古地図を以下再掲しますが,どの地図でもこの蛇行の形状に相当する川が確認できます。



て?
 東に中華託児所,西に中国郵政。南向こうに南外滩菜市場とアーチ。
 これはやはり,東側の中華路の十字路の信号しか渡れない。0945,東に大回りして复兴東路南側へ。
 ふう。

▲0951面筋弄

ス停大東門の南,半端な公園のある面筋弄を西行。東北東への不思議な傾斜の道。
 旨そうな名前だと思ったら,壁の表示によるとホントに「一家制作油面筋的小店得名」──一家で油面筋を作ってる店があったからついた名前なんだって。

第5ポイント:ブッ飛んで嘉草网咖

▲0956巡道街

字を左折南行,0953巡道街へ。
 広くなったり狭くなったりする道幅。家屋の敷地のラインもガタガタ,ということは家の方が先に出来た地区です。

▲0959巡道街その2。結構交通量は多い。

真どおりの何でもない通りです。
 ただ何か妙です。北の延長は,复兴東路をまたいでほぼ東街なんだけど,延長線としては明らかに食い違ってる。
 でもとりあえず第五ポイント──

▲1002巡道街その3

草网咖らしき場所には巨大なマンション。再開発でブッ潰れとる。
 古いプログには「微嘉网咖分店一. 嘉顺网咖3.5分人均¥0 」というような記載がある。要するにネットカフェらしい。ビルが立つと軽くブッ飛んでる。

早く出ていけというのに変わりない

▲1003引銭弄

れまた謎の地名です。1002,引銭弄に西行。
 東半分,アパートに出るまでは好い道です。地名の由縁はまるで分からない。

▲1012天灯弄。芸術作品のような洗濯物の配列です。

字路。1005。南北の道は天灯弄だろう。左折南行。
 書隠楼。看板には「阴光征収 抓住机遇 共同参与」とある。征収(強制収用)が「阴光」──月光又は恐怖?全く分からんけど,早く出ていけというメッセージには変わりない。
※ 百度百科/阴光
 南へ何とか,と路地を探すけど,東へL字に曲がってしか進めない。
 1013,巡道街に戻ってようやく南行。→道名については巻末参照

▲1018薬局弄

016,薬局弄へ再西行。
 問屋街の倉庫が並んでるように見えた。単純に薬屋通りだろうけれど,他にない異様さです。
 ただし──

第6ポイント:夢の薬王廟遺跡

▲1019好いS字です。薬王廟遺跡はこの辺りのはず。

湾のサイトには 「薬王廟」というのは昔,医薬に携わった聖人を神様としておまつりした廟とある。神農廟が同じものらしい。
 上海では,王医馬ではなかったろうか?→Phaze:南翔野菜小龍/第1ポイント:福建軍馬医・王医馬の合兴会
──これは勇み足でした。薬王廟はそうではなかった。→巻末参照
 1021,うねる道が期待を持たせる,その西の第六ポイント薬王廟遺跡はここだ!

▲1025薬王廟遺跡のはずのT字。立ち話に花が咲く。

……の場所は,見事に新しいアパートに。
 という訳で,大振りを続けております。1027,南の乔家路に出て西行。
 露店の商店街。魚屋の,スマホに夢中の店番の目の前で魚が逃げ出し路上を泳ぐ。
 鯛焼き君かよ。

~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3■ 沛国里:GM.
4■ 鳴波浴室:GM.
5■ 嘉草网咖:GM.
6■ 薬王廟遺址:GM.
7□ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8□ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.

■レポ:薬王廟と巡道街に見る清末の光景

 以上,よう分からんけど終わり!と最初はしてたんだけど,次章で乔家路を調べてたら以下の興味深い情報が浮上してきました。

① 薬の無料配布所:药王庙

 王医馬ではなく,中国太古の伝説的な医師・神農でした。

药局弄95弄1-2号,是药王庙(也称神农殿)遗址。(略)因神农氏即炎帝既是中华民族的始祖,也是尝百草疗疾病第一人,所以这里就专门祭供他。

※ 上観新聞/乔家路,上海老城厢一条有故事的路
──薬局弄95弄1-2号にあるの薬王廟(神農殿とも)遺跡。(略)神農氏,即ち炎帝はまさに中華民族の始祖にして,百草を味わい(※後述)疾病を治癒する第一人者である。そこでこの地で専門にお祀りしている。
 神農には炎帝のほか,薬王大帝,五穀仙帝,赤帝,农皇,五榖神农大帝,石年(名とする説有)の呼称があり,字号も魁隗氏,连山氏,列山氏,朱襄(異説有:後述)と疲れるほどある。神農は道教系の尊称らしい。三皇五帝の一人。
 医療と農耕,陶器,商業,麻衣,楽器,絵画,弓箭の術を広めたとして,神格化されている。
 中国人の自称に「炎黄子孫」というのがあるけれど,黄帝と同格に崇拝する祖先として炎帝,つまり神農を挙げているわけです。
※ wiki(日本語)/神農
※ 百度百科/炎帝

▲大阪・少彦名神社の「神農さん」

①-1 悪食の透明人間

「神農本草経」という中国最古とされる本草書がある。これに加え,凄まじい量と膨らみの伝承がこの人にはあるらしい。
 まず中国医学の祖としてですけど──
①1-1 薬草と毒草を見極めるためようず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い,それぞれを嘗めて薬効・毒性を検証
①1-2 神農の頭部・四肢以外の肉体部分を除き玲瓏(美しく照り輝く)にして透明だったため,内臓が外から見え,毒となる臓器が黒くなるので,これにより効果を見極め得た。
①1-3 毒草の服用し過ぎで毒素が溜まり,罌子(ケシ)を服用したとき中毒死
①1-4「断腸草」を嘗めたら腸がちぎれて死んだ(四川省に伝わる民間伝承)。
①1-5 1日に70回も中毒した。
……ここまでが日本語wikiだけど,中国語の百度はもっと凄い,というか酷い。
①1-6 生まれて3日で言葉を話し,5日で歩いた。7日で歯が生えた。
①1-7 体長は3mあった。
①1-8 頭が牛だった。
①1-9 365種の薬を開発,400種以上の病気を治癒した。
 ……うーん。そこまで来るとなあ。
 1日70中毒の原典は幾つかあるらしいけれど,その一つが淮南子・脩務訓。

古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒[前掲wiki注4掲載「淮南子・脩務訓」]

 ここでは,疾病と中毒を防ぐために農業と飲み水の選別を行ったとされてます。人間の生存を非衛生が脅かした度合いは,日本の風土から想像するよりはるかに大きかったのが中国のそれだったのかもしれません。
▲書画に描かれた神農

①-2 黄炎-東夷-苗蛮 三国時代

 神農という人は,けれど医学者というより権力者だったことになってる。これにも異説があり,神農と炎帝は元々別人とする見方もあるけれど,ここでは炎帝としての側面にも一応踏み込んでみます。
 炎帝がらみの戦争が2つ知られる。一つは有名な「涿鹿の戦い」(たくろく)で,約5千年前,黄帝と炎帝の連合VS東夷の蚩尤という部族。河北省の涿県辺りというから,始皇帝や光武帝にも因むエリアです。

原始社会中晚期,逐渐形成了炎黄、东夷、苗蛮三大集团。[前掲百度]

 つまり,彭祖※ Phaze:快哉亭の城壁/③彭祖は一つの文化であると同じく,黄帝の後継者や配下ではなくて,同格の連合者だったわけです。三皇五帝とはこういう「原中原連合」の加盟国なのではないでしょうか。
 それと,対外的には東夷と苗族が挙げられています。史料上は「蚩尤」と戦った,というだけでそれが東夷というのは現代の解釈らしい。苗族の支族とする研究もあるようです。
 ただ,いずれにせよ推察できるのは,黄炎代より前の原・漢族は,東夷・苗族と同等かそれ以下の戦力しか有しなかったこと。つまり三者からの漢族の突出が恒常化するのが,黄炎代だったということでしょう。
 その突出を,百度は次のように綴ります。

炎黄集团在涿鹿之战中战胜蚩尤之后,苗蛮集团向南方收缩退却,炎黄集团则东进和东夷集团融合,形成最初的华夏部落联盟,到春秋时期又基本和南方的苗蛮集团基本同化,成为秦汉间所谓“中国人”的三个主要来源。[前掲百度]

──炎黄集団が涿鹿の戦いで蚩尤に勝利した後,苗蛮集団は南へ収縮・退却し,炎黄集団は,東進して東夷集団と融合して,最初の「華夏部族連盟」を形成した。春秋時代までに南方の苗蛮集団も同化した。これが秦・漢時代のいわゆる「中国人」の3つの主要な来源である。
……さらりと,凄いことを言ってる。これまでの貴州,前回の山東,今回の淮水域と,ちらちらと見えてた「夷」と「越」の影は,大体こういうことでしょう。

(関中)黄炎→❎←東夷(山東)
    ❌   ?
    ↑   ↑
    (南部)越族

 ポイントは,ここで言う「黄炎」族が支配民族になったのではなく同化融合したこと,それにより初めて「中国人」が形成されたことです。
 色々疑問は噴出します。その後の歴史から考えて,同化融合ってあり得るの?とか──でもここにハマると脱線が過ぎるので,炎帝の第ニ戦に話を戻します。
▲草を食べてるらしき神農像

①-3 準優勝・炎帝

《国语·晋语》载:“昔少典娶于有蟜氏,生黄帝、炎帝。黄帝以姬水(陕西武功漆水河)成,炎帝以姜水(陕西宝鸡清姜河)成。(略)后来,两个部落争夺领地,展开阪泉之战,黄帝打败了炎帝,两个部落渐渐融合成华夏族(汉族)[前掲百度]

※他に「朱襄氏」という部落があり,同じく「炎帝」を号していた,という説もある。
「阪泉の戦い」と書くと,大阪VS泉州の仁義なき戦いみたいだけど,炎帝と黄帝の激突です。
 夷と越に対する優位を確実にした後,同盟者同士が,おそらく民族レベルでは最後の,頂上決戦を行った。
 これも「関ヶ原」というイメージではない。黄帝族の本拠「姬水」(武功漆水河)域と炎帝の「姜水」(陕西宝鸡清姜河)域の戦いですから,現在の西安市の西の方で起こったものです。
 結果,黄帝族が勝利。炎帝族はその配下に入ったのでしょう。けれど,相当に後代まで準・支配階級あるいは名士的な位置を占めたのではないでしょうか。
 商殷周の王族はなべて黄帝の子孫またはそれを謳う。炎帝転じて神農の子孫たちが,始祖をここまでカミった像にしてしまうのは,「文化的に中国を作ったのは炎帝族だ」という転化された自己認識でしょうか。
▲また草を食べてる神農(掛け軸)

①-4 19世紀のCDC

 おっと,全然終わってなかった。上海老城の薬王廟のことでした。
 ここが出来たのは清代の後半,嘉慶年間と割と新しい。ただ,1815年の修築時にある規則が作られる。

药王庙在清代嘉庆初年落成,房屋宽敞:前有戏台,中建大殿,后辟议事堂。嘉庆二十年(1815年),在进行重修时,形成条规:每年春秋,官府都要在此张罗施诊给药,援助缺医少药的贫民,从而有了“赐药局”之说,药局弄大概也由此得名。[上観新聞]

──每年春と秋,政府が診療所と薬材を準備して,医療が行き届かず薬の買えない貧民を援助する「賜薬局」を設置した。
 これは明らかに福祉施策です。なぜこの時代に,(おそらく)無料で,なのか?
 上海が開港し租界が出来ると,コレラやペストが入ってきて流行したらしい。これもはっきりした記録がないほどですから,19世紀初のものは望みようもありません。
 ただ,これはおそらく防疫でしょう。
 上海の人口が急増するにつれ,おそらくこの時代に社会的な危機になるような何かの流行病があったのではないでしょうか。1815年はアヘン戦争前ですけど,1757年には西洋(主にイギリス)に限定的な開港をしています。20世紀に爆発的に流行した中国にない感染症が,防疫上は最悪と言っていい上海老城に侵入を開始していても不思議はない。
※ 維基百科/江海关
 とすると清後半になって,ここに神農を祀る祠が建ったのも頷けます。病気回復,おそらくは疫病退散を祈る者が急増したからです。
 とにかくその措置に,市民は歓喜したらしく,薬王弄の通り名がこの時に出来た,と上観新聞は記しています。
 そういう拠点,感染症だとすれば今日のCDCを,神農にあやかり薬王廟に置く,というのは,19世紀初のこの祠がかなり明確な目的を持っていたことが伺えるのですけど……もう1つ情報が足りません。
▲さらに草を食べてる神農

⑤ 薬王廟はどこに行った?

 問題の薬王廟の所在ですけど……今はないことが分かりました。

20世纪50年代,药王庙成为小学校舍;1975年,该小学撤并,药王庙被拆除后改建新工房。如今,只有当地高龄老人才知道从前的药王庙了。[前掲上観新聞]

 1950年代,つまり49年の新中国成立直後に祠は小学校になってしまってます。ただ,1975年にこの学校が合併時に初めて祠が撤去された,と書かれてます。
 文革は1966~1976年。撤去はその最末年頃です。つまり小学校敷地内で25年間,祠は存続していた。
 神農の頭が牛だったからでもないでしょうけど,ここも「牛鬼蛇神」扱いされたのでしょう。ということは,小学校敷地に組み込むことで廟を保全しようとした誰かの知恵が働いたのではないでしょうか?
 沖縄の数々の御嶽が「公園」の肩書きで保全されたのとダブルイメージになります。
 運悪く文革の終焉ギリギリの学校統合で撤去されたけれど,共産化とその後の嵐の中でなお薬王祠が残っていた,というのはそういうことだったのではないか,と疑うのですけど……考え過ぎかもしれません。
 上観新聞はこう結んでいます。──今はもつ,ただ当地の高齢者しかそこにかつて薬王廟があったことを知る者はない。
▲何だか凄い神農像

② 租界管理センター:上海道台

 薬王弄への東入口,巡道街という不思議な道名。これはパターンの1つ,官職名の略称でした。

乔家路连接的巡道街,因从前坐落于此的分巡苏松太兵备道道署即上海道台衙门而得名。[前掲上観新聞]

──乔家路に連接する巡道街は,昔ここに設置されていた「分巡苏松太兵备道」即ち(俗称)「上海道台衙门」から名づけられている。

②-1 清朝版NSA:兵备道

 まず「兵备道」という役所がよく分からなかった。
 国内治安や国境警備を目的とする軍派遣は,唐代から采访处置使や观察处置使という名で存在したらしい。明朝は,これを常設する形で兵备道とした。

明朝时在边疆及各省要冲地区设置的整饬兵备的按察司分道。(略)清朝沿置,乾隆时定为正四品,多由守、巡二道兼任。兵备道集军事、监察大权于一体

※ 百度百科/兵备道
──明朝の時,辺境や各省沿岸要地へ兵備を整頓するための「按察司分道」を設けた。(略)清朝はこれを引き継ぎ,乾隆代には正四品の位とし,守備と巡回を兼ねさせた。兵备道は軍事と監察の権限が一体化している。
 つまり現アメリカの国家安全保障局のような存在です。対外軍備と治安を統合して所管する。
 沿岸に設置したのは,前後期の倭寇への備えもあったようです。
 乾隆年間にはこれが全国で80を越えたとある。中国史上にない広大な国土と膨大な人口を有するに至った清帝国を,少数の八旗のエリート層が統治するために不可欠な行政的な工夫だったのでしょう。
▲上海道台衙门遗址:巡道路

②-2 苏松兵备道

 その一つ,苏松兵备道は最初は名前の通り蘇州(苏州)に置かれたらしいけれど,上海の巨大化と対外状況の複雑化に伴い,老城,つまり外灘沿いに移されます。情勢の急激な変化が,「苏」でも「松」(松江)でもない上海老城にこの役所を移設させたのです。

清顺治二年(1645年)七月乙卯,置分巡苏松兵备道(略)
自雍正之后,苏松太道道台衙门设在上海县城大东门内,今上海市黄浦区(原南市区)的巡道街上。该衙门兴建于雍正九年(1731年)

※ 維基百科/苏松太道
──1645(清顺治2)年7月,分巡苏松兵备道が設置された。(略)雍正代以後,苏松太道道台衙门(前記後継組織)は上海県城の大東門内に設置された。今の上海市黄浦区(旧・南市区)巡道街である。建物は1731(雍正9)年築。
 迂闊なことに,この時のワシはこの建物の前を通ったはずなのに全く記憶してません。地団駄を踏んでるのはなぜかと言うと,ここが単なる役所ではなく,近代上海の運命を変えた場所だったからです。

②-3 上海外灘の生まれた場所

 巡道路の上海道台は,完全にNSA化します。イミグレーション機能を兼務するのです。

上海道乃介于松江府、江苏省之间的机构。1843年11月,上海开埠,由上海道台兼管“夷务”(后下设洋务局、会丈局处理外事),[前掲上観新聞]

──上海道は松江府と江苏省の中間的機構だった。1843年11月,上海が開港すると,上海道台は「夷务」(入国管理及び税関業務など外務を所管する洋務局,会丈局を下部組織とする)を兼務した。

如上海道台宫慕久曾在道光二十五年十一月初一(1845年11月29日),以告示公布与巴富尔(首任英国驻沪领事)“依约商妥”的《上海租地章程》23条,划定洋泾浜(今延安东路)以北、李家庄(今北京东路)以南、东起黄浦江的一片土地,准租与英国商人,作为建筑房屋和居住之用。[前掲上観新聞]

──上海道台・宫慕久は1845年11月29日(道光25年11月初一),英国駐在領事・バルフォアに「依约商妥」な「上海租地章程」を告示する。その第23条では,洋泾浜(今の延安东路)以北,李家庄(今北京东路)以南,東は黄浦江までの土地を英国商人に貸与し,建物を建て居住させることを確約した。
「依约商妥」の意味が分かりませんけど,この道台がポロリと発してしまったらしい告示が,租界の設立の突破口になってしまった!という悔しさが込められた成句のようです。
 軍事力で自他を圧する部署が,事実上の外交をやってしまい,それが長期的には侵略を容認する措置になってしまった,という典型例です。清政府の誰も,当時,そんな一線を超えてしまったとは気付かなかったのでしょう。
 恐ろしいものです。

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