m023m第二波m月円し翅展げゆくピアノの音m能朴天

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
A GM.:①~能补天巷~②
B GM.:③~外九彩巷~④
(経路)※②~③間は経路取れず

明代地図に見る能补天巷と祠二柱

▲明代地図:能补天巷~城隍庙~外九彩巷
※凡例 ①~能补天巷~②~城隍庙~③~外九彩巷~④(上記GM.丸付番号と対照)
※ m021m第二波mm前屿/基礎資料/② 明末清初の鄭成功根拠としての福州府←原典:※ BTG『大陸西遊記』~福建省福州市

の時に歩いた福州中央北の場所は,現代の地図では何ということのない様子で書かれてます。
 地下鉄・屏山站(駅)の南辺り。路地もはっきりしません。
 でも前掲した明代地図(上記に拡大)には,事物も道も明瞭でした。城域北辺の高台,晋城北城壁内側,漢代城にも近い。この後で通る城隍庙も確認できます。
 現在地下鉄1号線が通る鼓屏路は明清以前にはなく,現代以上にゴミゴミした雰囲気の場所です。
 道や駅名になってる「屏山」を引くと,北にある山でした。低いけれど「屏風」のような高度に感じられてたらしい。
 福州の町は,この南麓に造られる形で展開していったらしい。だから漢代城は北にあるわけです。

屏山(闽东语平话字:Bìng-săng),福州三山之一,山高62米,位于福州旧城正北,其形如屏,故称为屏山。后又因闽越王建都于山麓,又被称为越王山

※ 維基百科/屏山
 闽越の王権が造った城域で,闽東語が元の地名らしい。
 だからこの時の道行きは,古代の城域の南門前町,晋城以降の鼓楼の一時方向から十一時方向へと反時計回りした形になったようです。

▲1606能朴天巷のお宮

漏れ日がぐんぐんと幽気を醸してきてました。
 湖東路の北に木製の門構えを見て,1601,道は能朴天巷といういわくありげな名前に。工事してるけど一部だけ。ギリギリというタイミングでしょうか。
 なお,道の由来は百度に長々と記載がある。科挙で答えを間違った思い出話から知事がつけたらしく,何かしょーもない。
※ 百度百科/能补天巷
 1606,Z字に折れる。「壁松将軍」という大樹の根元の祠。赤い社には「蓋善堂」とある。善に蓋をする?何か由緒はありそうだけどノーヒット。どうせしょーもないような気もするし。

能补天巷奥 ぶつ切り登り道

▲1608能补天巷の暗い丘

610,中山小学。西に墳墓のような暗い丘。
 その東を抜けた北の奥は,けれど工事中で抜けれなくなってた。南へ戻って人の流れを読む。西へなら抜けれるのか?
 巷20から西へ。一見行き止まりっぽいけど行けた。城直街。

▲1620城直街の小路。何だろうこの不可解な屈曲は。

かれて北へ小道を登る。小学の西裏です。
 雰囲気はいい。けれど──
 どういうことなのか,途中,唐突に壁に遮られてました!その向こうに明らかに道が続いてるのに……何だこれ?
 やむを得ん。南から西へ回る。

▲1621想像を絶するぶつ切り登り道

城隆廟 L字屈曲 行き止まり

隆廟宮という,これは碑なのか案内板なのか。「鼓楼区不可移動文物登記点」との付記もある。
 古福州の信仰の中枢のはずなんだけど……。
 1626,そこから西へ車道に帰ろうとしたら雲歩山巷という北への道。

▲1625「城隆廟」案内板はあるけれど,来るな,と言ってるような工事中風景

ってみるとL字に折れてすぐ途切れた。途切れた柵の向こうは学校らしい。そのL字の屈曲点にまさに城隆廟。
 東は工事中,柵で仕切られてる。これ自体が1997年に修建されてる。この学校が出来る前は路地の途中にあたる場所だったと思える。文化財指定はごく最近で,それまでは迫害とか受けてた雰囲気を感じます。
 今も頻繁に人が訪れてる空気は,とても感じられません。

▲1631城隆廟のL字屈曲から東の行き止まり方向

634,鼓屏路を西へ渡る。
 現世に戻ったようじゃ。
 この湖東路との交差点のすぐ北,バス停衛生庁の地点が最高点になっている。軽い切通になってるようですけど,元の地形もどうやらなだらかです。ここに砦か戦闘的王宮を築く発想は誰もが持つでしょう。
 北行。地下鉄屏山站を見る。
 でも……西側に外九彩巷という道が見える。ちょっとだけ入ってみるか。

外九彩巷の半円回り込み

▲外九彩巷入口の段差

九彩巷の入口は,北へ半円に回り込むようになってます。
 南側に僅かな高みがあるようです。段差が残る。人工の盛り土には見えないけれど,建物にも遺構らしいものは見当たらない。

▲1646外九彩巷は南西へ伸びる

こから南西へ続く道は直線になる。
 どことなく雰囲気は留めてて,明らかに古の商店街。建物はほとんどが建て変わってますけど,いい道ではある。
 城隆廟の丘を西に回り込んだ崖下に沿って広がっていた,と見える道です。

▲1650外九彩巷の風景。建物は新しい,というかマンションが見えてる。

円の高みまで戻る。ここに快餐を見つけてました。もう開店したかな?
1724誉道食堂
白身魚の絶妙水煮
白菜と玉ねぎの絶妙炒め
鶏頚肉と変な茸の絶妙湯500×.9=450
 店の,というより立地に惹かれて入ったんだけど,店の中も段差だらけ。敷地が円柱っぽい上に平面がほぼないところに造られた店でした。
 客はわし一人,というか夕方一人目で後はどんどん続いたけれど──ここは旨かった!

和食の方がコピーなのか?

▲1658誉道で快餐

菜と玉ねぎ,少し辛味の薄い大振り唐辛子が入ってるくらいで,それほど技巧を尽くした味ではない。でも絶妙。
 白身魚も水煮と書いてあるように薄い醤油のようなもので煮てあるだけ。なのに,またご飯に汁をかけてしまったほど絶妙。
 湯がまた凄かった。これどこかで食べた味なんだけど……あえて言えば八幡浜チャンポンの味。チリリと舌を焼くような熱い香油に排骨と,なめ茸みたいな形の硬い茸の出汁がムラムラと絡み付く。止まらない,絶妙です!

▲誉道のぶっかけ汁飯どアップ

飯にかけた魚汁は,宇和島鯛めしの感覚です。極めて軽妙,それでいて後味がほうき星のように後を引く。
 何が効いてるわけでもないのにバランスそのもの,そんなものがグッとくる。こう書くとまさに和食のようですけど,福建って和食センスの中華──あ,そうか,ひょっとしたら和食が福建を雛形にしてるのか?

1738,地下鉄屏山駅から1号で2駅,南門兜で2号乗換,1駅目水部まで動く。
 そろそろ闇が迫ってますけど,明日は福州離脱です。欲が出てしまって,もう少し歩いてます。

ゆる琉球史マンガbot@上里隆史「この地図のほうが、琉球の活動をより広がりをもって眺めることができると考えたから。地球は丸い。上も下もあるわけない。 」

■データ集:琉球-福州交易ルート

 本文に琉球は登場しませんけど,たまたまヒットしたこちらの精緻に綴られた研究集に目を奪われました。トピック的に羅列していきます。
 那覇久米村に三十六姓の福建人集団が来て第二尚王朝の経済を支えた,というのはガイドブック的知識ですけど,そこから海の先,という点の知見です。
 ただし,断片的です。到底全体像なぞ,誰も掴んでません。

① 福州琉球館設置は15世紀前半から

 意外な早期から,琉球の「大使館」が福州にありました。

泉州からの市舶司の移転(1470年頃)に伴い、朝貢国である琉球王国の指定入港地も福州となった。但し実際の琉球人の福州渡航は市舶司の移転より早く、柔遠駅(琉球館)も1430-40年代には設けられていたと推測されている。

中国における琉球史跡 ←原典:高良倉吉「補説と参考問題」『琉球王国史の課題』ひるぎ社、1989
 第一尚氏初代・尚巴志が南山を滅ぼし本島統一を成したのが1429年。琉球館設置が1430年代ならその直後です。中城に護佐丸が入り築城を始めた頃に当たる。
 第二尚氏初代・尚円王即位が1469年,この直後に泉州から福州へ市舶司が移転したことになる。
 中国側の市舶司制度の運用は,琉球の国内動静を注視して,その安定を待って従来から実質的な窓口だった福州琉球館を正規化した可能性があります。
 ところで琉球館のあった「柔遠駅」とはどこなのか?地図にもこの地名は残ってました。何と水部から1km強南です→GM.。GM.上は博物館となっているから中は見れるらしい。

▲GM.掲載の琉球館本殿らしき場所。額には「海不揚波」(海は波静か)とある。

 柔遠駅から陸揚げされた荷が,これも地名に残る「水部街道」から水部を経て福州城内に入ったのでしょう。
 GM.には「海狼王」という方が記述を残してました。前掲「史跡」にない情報だけ抜きます。

福州琉球館本名“柔远驿",位干台江区十二桥的琯后街,建子明成化七年(1474年)。

──琯后街という通りは同じく現存してます。けれど「十二桥」とは……ここが橋の12本並ぶような賑わいだったんでしょうか?

琉球国等进貢船在闽安镇经“巡检司"检验封仑后入福州内港河口,停在"进貢厂”里,然后择期取道上北京。

──琉球国などからの進貢船は闽安镇を経,「巡检司」が検査し「封仓」(密封)した後でなければ福州内の港や河口に入れないので,「進貢庁」(进貢厂)の中に留め置かれた。その後やっと北京への道につくことができるのだ。

为了便子琉球国的使者、通事、商人、船員住宿和生活,政府在“进貢厂”之南特设“柔远驿”。”柔远驿"旧称“怀还驿",因住的多是琉球国人,所以俗称“琉球館"。

──琉球国の使者,通事(通訳),商人や船員の宿泊と生活のために,政府は「進貢庁」の南に「柔遠駅」(柔远驿)を特設した。「柔遠駅」は旧くは「環还駅」(怀还驿)と称し,また多くの琉球国人が住んだので「琉球館」と俗称される。
 普通の記述に読めるけれど,まず,琉球館が正式名でないことに注目すべきです。結果的に琉球人の宿泊者だらけだったから,そう俗称されるようになった。つまり琉球人専用の待機場所ではない。
 その意味する点は二つです。一つは,琉球は他の交易先と平等に扱われたこと。
 二つ目,結果として琉球人ばかりいたのは,検査が琉球船だけ厳しくて日数がかかったか,人数が多かったかしか考えられない。けれど前者は,一つ目の役者スタンスからほぼ否定されます。
 他を圧するほど相当数の琉球人が,ここに押し寄せてたと考えられます。

▲「唐船どーい さんてーまん一散走えーならんしや ユーイヤナー」。この曲が鳴るや沖縄人は発作的に踊り出すと言われる「唐船ドーイ」(≒中国船が入港したぞ!)

② 中国渡航琉球人はのべ20万人

明清時代を通じて中国に渡航した琉球人は延べ20万人と推計されている。なお東南アジア諸国への渡航者[明代]は延べ3万2千人と推計されている。[前掲中国琉球史跡←高良1989]

 多い。
 単純に計算してみる。明創設1368年から清滅亡1912年まで544年間。20万人が渡航するなら年間366人です。
 けれど明清交代期や琉球処分期もここに含まれるわけで,中断期を除けば年間5百人程度の渡航があったことになる。けれど──

1474年には琉球使節が中国で強盗殺人を行うという事件が起きた。この事件をきっかけに琉球の朝貢は、これまでの毎年から2年に一度の二年一貢への変更や一回の進貢使節の人員を150名までに制限するなどの規制が加えられた。

※ wiki/琉球の朝貢と冊封の歴史
といった圧迫もあるわけで,2年で150人というスケールと一桁違う。正規の人数の数倍近い実質の渡航があったことになる。
 中国側が圧縮を企図したことからも,それほど多数の,朝貢船というイメージを越える規模の往来があったように読めます。
 けれど,①で見たような厳密な入国管理体制を,どう抜けてそんなことをやっていたんだろう?推計者の高良倉吉さんは琉球史の第一人者です。方法を確認したいけれどまだ原典に到達してません。

▲小山松壽「南清貿易」表紙

③ 19世紀末再興・南清貿易のブローカー丸一商店

 これまで見えなかった点がこれ,つまり琉球処分による尚氏の王権(正規)剥奪後の琉中貿易です。朝貢形態は王でないからもうとれないわけで,やはり一時は廃されているようです。
 これは清・琉球両当事者のみならず,新・支配者たる日帝にとっても同様でしょう。薩摩藩が軍事的に支配しつつ貿易上の便宜として黙認・利用してきた,清国属国としての玉虫色の立場を,近代領域国家たる日帝は許すわけにいかなかったでしょうから。

琉球処分によって途絶された琉清貿易は、1899年頃に南清貿易(※日清戦争後、沖縄経済振興の梃子として推進された沖縄と中国南部の直接貿易)として再開され、丸一商店(※尚家の資金を投じて首里士族が経営した貿易会社)福州支店が置かれ[前掲中国琉球史跡←琉中関係研究会編『中国福建省における琉球関係史跡調査報告書』(同研究会、2009 琉球大学平成20年度特別教育研究経費《人の移動と21世紀のグローバル社会》調査報告書]

 けれど南清貿易とは,ならば琉球と誰との交易だったのか?
 この件の史料は,ほぼ決定版かつ一次史料として小山松壽(早稲田小篇)「南清貿易」(東京専門学校出版部蔵版,明治34年)が著名らしい。語句としての「南清貿易」というのもこれによるらしい。国立国会図書館デジタルコレクションでも見れるけれど,素人には読みにくい。
 それで,おきなわ文庫に収録されている西里さんの論文を見てみました。

明治政府は奈良原との内約を二年間も引延した後,1894年(明治27)10月1日に至って「那覇港ニ於イテ清国ニ関スル帝国臣民所有ノ船舶ノ出入及ビ貨物ノ積卸ヲ許ス」という法律の施行にふみきった。この法律施行の大義名分は,a)第一に廃琉置県により南清との直接貿易が禁止されたのに乗じて,旧支配層の脱清(清国への政治亡命)に名を借りた密貿易が絶えないので,南清貿易を公認することによって密貿易の弊害を妨ぐこと,b)第二に地理的・歴史的に関係の深い南清との貿易・交流を復活させることによって,沖縄の物産の振興を図ること,とされた。けれども,以上の表向きの理由に加えて,南消貿易の再開には次のような政治的・経済的な狙いが秘められていた。すなわち,c)①首里・那覇の土着士族層と寄留商人の対立を,南清貿易における協力を通じて解消し,この両者を奈良原県政の支持基盤とすること,≒b)②歴史的に南清との関係の密接な沖縄人を南清貿易へ動員することによって,日本帝国の経済的勢力を南清に扶植すること,等々である。

※ 西里喜行「近代沖縄の寄留商人」おきなわ文庫,2014 →ブックス:アルファベットは引用者追記
 b)は同じ観点に見えます。薩摩ほど怪奇的な仕掛けじゃないけれど,明治政府は実利を選んだ。──朝貢国というのは中華の抽象観念上の属国なわけで,その中華思想的見方に立てば,従来の中華辺境を東夷の外敵たる日帝が侵略したわけです。なのにその侵略地が依然として朝貢してたら,薩摩時代と同じ玉虫色の領土になってしまう。その危険を冒してでも,南部中国への経済侵略を優先した,という点です。
 この点は,その後の対外拡張路線を考えれば大変分かりやすい。よく考えたら首を傾げるのは残る2点です。
 a)の前提となっている事実
,「旧支配層の脱清(清国への政治亡命)に名を借りた密貿易が絶えない」は考えてみると凄まじい。例えば,現在の朝鮮半島で,韓国船が北への「転向者」のふりをして北朝鮮に荷を運ぶような荒業です。それが建前ではあれ政策立案理由になる,というのは,その事実を立証してもいる。
「密貿易」というより,政治状況によってはいつでも「密貿易」に転じることを辞さない,辺り構わぬスタンスの交易があったわけです。
 c)はもっと生々しい。
 まず「首里・那覇の土着士族層と寄留商人の対立」の存在。朝貢時代,官-官貿易の影に隠れて民の貿易が行われていたところが,朝貢の枠組みの崩壊により官vs民が競争相手として対立に転じた。これを,今度は全てを民-民貿易として再編したのが「南清貿易」で,いわば護送船団方式。
 その事実以上に重要なのは,それによって対立が「解消し,この両者を奈良原県政の支持基盤とする」ことが出来たらしいこと。朝貢の表向きの主体たる官からすると,安い看板に付け替えるような意味になるのに,それがすんなりと進んでる。すなわち本文にあるように,尚王朝は割と平然として民間会社の新看板「丸一商店」を掲げたわけです。
 まあある意味……日帝あるいは大東亜共栄圏の看板を,割と平然と政治的には勝者の属国と化しながら日本株式会社の看板を掲げた,というのと似てますけど……それにしてもより徹底してます。
 琉球王朝の組織は交易のそれに似せて造られたという指摘もあります。尚王朝そのものが交易を前提にしていたという側面からも,頷ける事態です。

④ 1916年日本人福州居留者は英国の3倍

 1912年に清が滅びた直後の段階です。

1916年の段階で、日本人商店は153、居住の日本人は806人で、二位の英人265人を引き離していた。[前掲中国琉球史跡←原典:野上英一『福州攷』台湾総督府熱帯産業調査会、1937]

 正直,どう評価していいのか分からない。でも中国南部にまだ日本の植民地または占領地のなかった時代に,香港を割譲させ複数港を開港させていた英国をはるかに上回る経済浸透を成していた,という点は分かる。
 その中に沖縄人の占めていたシェアは不明です。ただそこまでの経緯からして,相当大きかった可能性はある。
 中国南部の日本「租界」といえば上海が思い浮かぶけれど,例えばあれは実質的租界。正確には日本人集住地区に過ぎません。日本の華僑地区が実質的独立を図ったようなものです。

共同租界の北区と東区(旧アメリカ租界)においては、ほとんどの地域を日本人に占領されていた[※※]。とりわけ虹口(ホンキュウ)地区は、別名日本租界と呼ばれるほど、日本の諸施設や日本人向けの商店が集中した。

※ wiki/上海租界
//(※※)劉建輝著『増補版 魔都上海 日本人知識人の「近代」体験』(2011年)ちくま学芸文庫

 これらを見ていると「日僑」という存在の実在が感じられます。そしてその核にいたのが,沖縄人だったのかもしれないのです。

▲那覇・福州園の万寿橋

⑤(おまけ)万寿橋界隈と伝・福州港

 この点はどうも未確認,という手応えがあるんですけど……琉球館周りの「福州港」とプログに書かれる場所のことです。
 沖縄県-福建省,那覇市-福州市は友好提携をしていて,沖縄側からの研究は相当数ある。そこで沖縄関係者が福州との関係を辿る,という企画のプログを幾つか書いてます。
 で,翌日の早飯屋「万寿橋」を調べようとしたらそういうサイトばかりがヒットするから追記してるんだけど──
 確かに万寿橋という橋は存在し,そこは沖縄側史料に進貢使節が下船した場所,と記されてるらしい。
※ 4travel/福州で清明節 3 万寿橋
 これらのサイトは福州のかつての港町がこの辺り,という書き方をしてる。ただ,それにしては中国人がここを旧港湾と記載したものはほとんど見つからない。その他の事実関係で言えば──
ア[琉球側目的面]琉球使節は「税関審査」のためにここに半・留置されたのであって,それは福州市内を経て北京へ向かうためだった。それなら,この柔遠橋付近で荷の揚げ卸しがあったとは思えない。
イ[中国側警備面]中国側はここで検査をしていたのだから,同じ地での荷の揚げ卸しは最も強い監視対象になったはずで,商業環境としては最悪だったのではないか。
ウ[小規模密輸]そうは言っても,江戸期の長崎,その他現在の国境地帯で度々見られるように,税関直前で抜け荷するやり口はあり得たろう。ただそれにしても,それは一つ前の崖の影とか対岸とか,少しは離れているもので,正規窓口の税関のすぐ隣のブロックが「裏港」になることがあり得るだろうか?
エ(X手法観察)航空写真,道配置により観察する限り,永い歴史を積んだ町には見えない。

▲年代不詳・万寿橋付近の写真

 けれど,冒頭に掲げたように,那覇の中の中国庭園・福州園には万寿橋なる石橋が設置されており,琉球側,少なくとも久米三十六姓からは,中国交易を象徴する場所だったことになる。
 とすると二つほど仮説を思いつきます。
Ⅰ)柔遠駅付近には港町などなかったけれど,中国系沖縄人にとっては最初に見る故国の象徴だったから書き残されることが多かった。
Ⅱ)港町があった。柔遠駅の警備は緩く,抜け荷は黙認されており,税関前後にそれを一次売買する商人が殺到していた。
 ここには下のような路地に隠れた(河口)天后宮があるという。清政府の取締りスタンス,役人の交代とパーソナリティによって,上記前者と後者を行き来していたのかもしれないし──決め手には欠けます。

▲(転載)河口天后宮入口

■データ集追加:琉球-福州交易ルート(柔遠駅関係史料)

 この訪問から2年ほど後に,下記の西里・深澤両沖縄研究者の論文から,おそらく現時点で最も詳しい姿に近いであろう柔遠駅の研究成果を得ることができました。

柔遠駅の構造と位置

 柔遠駅の建物配置は,次のような形が想像されています。右下に(おそらく官庁としての)柔遠駅があり,左上に天妃宮が書かれています。
西里喜行「中琉交渉史における土通事と牙行(球商)」琉球大学教育学部紀要 第一部・第二部(50): 53-92,1997-03
同「中琉交渉史における福州琉球館の諸相」琉球大学教育学部紀要(68): 309-321,2006-03
深澤秋人「福州琉球館の構造と改修」『琉球王国評定所文書』第一六巻、巻頭論文,浦添市立図書館,2000-03

▲西里2006図1 原典:高岐輯「福建市舶提挙司志」[出版者不明], 1939

 このやや古い推定資料は,書面の原典を確認できていませんけど,前景深澤2000で整理された各史料の記述を整理した次の表のデータから高岐さんが合成した配置のようです。
▲清代における福州琉球館諸施設一覧表
※深澤さんが典拠として表外に記す史料:「歴代宝案」「清実録」「河口柔遼駅記」「柔遼駅土地杷記」「柔遼叡崇報洞記」「球陽」「呈菓文集」「久米系家諮」「卯秋走接貢船帰帆改日記」「道光二十四年進貢船仕出日記」「勅使御迎大夫真栄里親方(鄭乗衡)日記」「福州琉球通商史蹟調査記」

 深澤さんは,琉球館の性格を短い次の文章で表現しています。でもその前に,この文章の中に琉球館の位置情報が含まれていました。ですから,琉球館の場所は次の位置になります。

琉球館は、明代に朝貢国の使節を滞在させるために造営された中国側の公的施設であり、正式名称は柔遠駅という。しかし、琉球側の「専用施設」としての様相を呈していたごとは周知のとおりである。現在、琉球館の跡考地は福州市中心地の南部、六一中路と国貨路が交わる地点のほど近くに位置する。[前掲深澤]


▲上記グーグルマップ(六一中路と国貨東路交点・象園高架橋付近)中「館前街」「館后街」とその延長線に引用者が赤線を加筆したもの

「館前街」「館后街」という南北の道とその名称がかろうじて残っています。館后街はブロックを挟んだ南北にあり,これを繋ぐ道がかつてあったことを示していますから,この2線の間が「館」,つまり柔遠駅官舎だったことが推測されます。
 南北には,当時の河川と現在のそれの位置が異なるらしく比定する材料に乏しいですけど,たまたま上記と同地点を百度地図で見ると,この南側付近が再開発の途中らしく,地の居宅群が露わになっていました。周囲と全く異なる道と家屋の乱雑ぶりが目立ちます。この南側が水路の入り組んだ,柔遠駅前の「目こぼし」的な密輸出入のエリアで,混沌とした街が形成されていた,と見ると整合性があるわけで,そうなると柔遠駅も現国貨路に近い南側にあった可能性が強いと読めます。
▲同地点の百度地図(衛星写真)

柔遠駅の構造と位置

 しかしまあ,なお一層分からなくなるのは,琉球館の位置付けです。深澤さんの言う琉球「専用施設」という実態は,明清帝国の官署を事実上私物化できていた,というような状況を指すようなのですが,具体的にどうも分からない。
 この辺りの,官庁記録ではない,最も実情に近いと思われる聞き取り調査を,厦門大学の傅衣凌という研究者が終戦直後の混乱の中で行っています。到底解析できる内容ではないので,史料紹介に留めることになりますが・・・。
※前掲西里1997 原典:傅衣凌「福州琉球通商史跡調査記」福建社会経済叢書,福建省研究院社会科学研究所,1948

民国三十六年の間に、本研究所の歴史グループは福建の対外貿易史の研究を展開するために、福州の河口が実際に中国と琉球の通商史上に重要な地位を占めていることに着目した。我々が知り得たところでは、明の洪武年間に琉球へ賜った朝陽通事三十六姓は河ロの人であり、その地には柔遠駅や進貢廠があり、弘治年間に督舶の内臣もまた河口の端に新港を開繋し、直接大江へ通じ、夷船の往来に便ならしめたので、その結果この土地の人々は市場を形成した。清代にいたっても、河口はなお琉球商人の集居する地域であった。故老たちの伝えるところによれば、琉球の進貢船が福州にやって来ると、その地域の繁盛ぶりは大変なもので、福州全市の中でも第一位を占めたという。

 河口は「琉球商人の集居する地域」?相当数の沖縄人が住んでいる地域があった,という口述です。しかもそこは「福州全市の中でも第一位」の繁華街,つまりこの地域が福州経済の核だったような時期があるというのです。
 調査自体は,最初は具体事物の調査を期待して行われたらしい。けれど福州陥落後,琉球館一帯は「余すところなく破壊され,僅かに大門及び同治十二年の碑石一つがあるだけ」だったので,急遽アプローチを切替えて行われたのがオーラルのフィールドワークだったという。

友人の徐吾行君の紹介で、当地の名医高潤生先生を訪問し、口碑史料を探し求めた。高潤生先生は代々水部に居住し、すでに七十余歳であるが、少年時代に琉球人が治療に来たことを語り、当時の情形を坊佛として思い出すことができた。それによると、およそ清末に琉球の進貢船或いは商船が福州に来れば、現在の水部門外の河口・新港などの地に停泊した。琉球の進貢便あるいは商人たちは福州に来ると、まず福州海防同知に知らせた後で、柔遠駅内に居住しなければならない。進貢品は進貢廠に堆積され、自由に移動することはできなかった。その携帯してきた商品には乾貝‐土木膠,畷蛇・仮肚魚等があったが、ただ寛永銭は多くの場合進貢船の水手たちが密輸したものであった。高潤生先生はまた琉球の進貢船が来た後、あらゆる商品は自由に売買できず、必ず十家球商に引き渡して、販売を請け負わせなければならない規定であったことを指摘した。

 小規模な密輸の公認性に加え,商品売買の専用機関として「十家球商」という名称が出てくる。語彙的には「対琉球専売買10事業者」というところに思える。

琉球人の需要する物品はまたこの十家球商に委託して代わりに購入させた。それ故、貿易が盛んに行われるようになると、河口には商人が雲集し、一般の小商人も十家球商に頼って生活し、あるいは彼らに代わって天津・江蘇などの各産地へ赴き、木材・糸等の貨物を運んできたが、その数量は少なくなかった、という。訪問を終えた後、私は十家球商が一種の官許の牙行であって、広州の十三行、厘門の洋行、乍浦の牙行と同性質のものであるだろうと考えた。(略)その影響は注目に値すると考えた私は、再び同地の唐永基君を訪問した。唐氷基君の先祖は曾て十家球商に代わって天津へ赴き、木材を採運したことがあり、その言うところに拠ると、当地には〈馬椅・林卓・丁暦〉という悪口があった、という。

 最後の悪口の意味は隠語っぽくてよく分からないけれど,「馬」「林」「丁」が推定される十商(傅衣凌推定:下・李・鄭・林・楊・趙・馬・丁・朱・劉)の中に含まれるから,各2文字目が運ぶ品を表し「あいつらいつも厄介な品を持ちこんできやがる」というニュアンスだったのでしょうか。
 琉球進貢船→球商→一般(受託)商人という交易品の流れが想像できます。この逆のルートで中国各地から購入した,例えば生糸が,琉球から薩摩,内地へと入っていったわけです。
 ここから推定できるのは,琉球館の実権を握っていたのはこの「球商」と呼ばれる特権ギルド組織であること。琉球使節やそのバックの久米三十六姓勢力がどのくらいこれと癒着していたのか不明ながら,明清-琉球の整然とした朝貢貿易というのとは全くかけ離れた物流実態があったことです。

「十家球商」と「一般の小商人」との関係は、今堀氏の指摘するところの「店舗を張った仲買商」=牙行と「その手足となって働くあっせん役の商人」=牙紀・経紀・牙子との関係に比定されるであろう。とすれば、琉球の進貢貿易システムにおいて、「十家球商」は独占的地位を占めながら、多数の「一般の小商人」をも手足のように駆使することによって、進貢貿易そのものをコントロールできる統率力を発揮したと思われる。[前掲西里1997]