m056m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm四堡宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

上海人が食ったらキレる远芳小笼包

▲远芳小笼包の肉羮

わなくても分かると思うけど,完全に通りすがりでした。
1639远芳小笼包
小笼包+牛肉羮400
 無茶苦茶に小汚ない。土間にテーブル広げたような店です。
 さらに運営も不味い。注文をろくに管理できてなくて3回も訊かれたけど,これと味とが関係ない,どころか反比例することがあるのが怖い,のが中国です。
 後に調べたとこでは結構な有名店。なんせ百度百科に記事がある。
※ 百度百科/远芳小笼包

▲远芳小笼包の「泉州風」?小龍包

ーブルに置かれた酢は水春香醋※。福建のものです。
※ この商品は調べてみたけどヒットがなかった。
 牛肉羮を一口含んで驚いた。これはまさに台湾です!いや台湾じゃない,もちろんこの泉州の方が先。深みのある漢方湯です。そういう意味では,類似性には驚いたものの味はあれか,という感じ。
 未知の味覚だったのは小笼包でした。ぶわぶわなんである。べちゃべちゃというべきか……莆田でハマッた炝肉(チャン肉)の食感にも通じる
 上海地方の感覚からすると無茶苦茶に下品な包。奴らが食ったらキレるぞ。
 でも?周りの福建人らしき皆さんは結構普通に旨そうに食べてる。上海食文化圏はすぐ北,味覚を知らないわけじゃあるまい。おそらく,これはこういうものとして食べられてるらしい。

豆生巷のつづれ折り

▲1706豆生巷に入る。

705豆生巷から左折西行 泉州市楽器廠」とメモしてますけれど,この道はGM.上にはなぜか存在しません。
 その存在しない道を抜けると……

▲1707豆生巷の木陰

▲1709豆生巷のつづれ折りの路地

と!伍堡街に出たぞ!右折北上するけど……南からどう繋がってるの?
 ここが,ターゲットとするX地点でした。
 後に老城地図上に重ねると,改めて衝撃を受けました。

の地点は,宋元城突出部の基部,五代城の城壁直下です(↗️右上向き指指し地点)。この後のルートは,五代-唐城壁が近接しているエリアを(↘️右下向き指指し地点まで)北上していったことになる。
 だから何なのかはピンと来ないけれど,壁が何度も,ややブレながら造り続けられた地点,というのは何かしら意味を持ってそうなベルト地帯です。

▲1711逢魔が時の伍堡街

四堡街三叉路地点まで

712。
 伍堡街のこの辺り,けれど建材屋が並んでるだけっぽい。
──と,同時のメモではややシラけてるけれど,写真で見ると圧巻の雰囲気があります。
 おまわりさんが,自転車前面に赤青のてらてらライトを点滅させながら走るのが可愛過ぎる。

▲1713どやどやッとしてきた伍堡街

▲1716伍堡街。地図で見つけてた三叉路が見えてきた。

716,三叉路地点。
 左を選ぶつもりだったけど……これ,人の流れは右だな。
 右をとって進むと,すぐにターゲット地点にとってた永瀬宮が現れました。

永瀬宮,二つの大砲,泉郡通津里観音宮,水門巷

▲1719バイクの車列の向こうに永瀬宮

説に曰く──「俗称四堡宮」「2006年重建,靠近旧城墙的工地出土两門古代鉄炮,是明清時期鎮守泉州南薫門(水門)的用的防衛武器。」
 つまり砲台だったらしい。明清代には「南水門」を防衛するためにそれは用いられた,とある。
 祭壇の文字は「慈济威霊」。神体ははっきりしないけど円柱状に見えた。
 ここから住所表示は四堡になってる。第四防衛ラインというところか。──つまりこの城壁近接地点は,軍事的に何らかの要地あるいはネックになってた場所なんでしょうか。仮想「泉州圍」への連結路沿いであるだけに気になるラインです。※m053m第五波mm泉郡富美宮/小レポ:八舎后尾になぜ壁があるのか──「泉州圍」仮説

▲1734「水門巷」付近の市場

場を抜けて出口。泉郡通津里という祠。観音宮。この辺りは水門巷と住所表示。
──ここも検索すると様々にヒットはあるけれど,体系的な情報はありません(巻末メモに一応転記)。
 細道を出た。大通り,これがまた中山南路らしい。

交差点には騎楼と金太郎

▲1734中山南路の路上店でお買い物帰りのバイク男

の辺りも古い栄えを感じさせる騎楼の建物が多い。それなのに商店は休業してるのが目立ち,路上の物売りが多く,この夕刻,そこで通りすがりに何かしら購入して行く姿を見かける。
 地理的にはどうにも読めない。

▲1735中山南路の騎楼

華路に出た。その交差点でこの後の方向を少し迷う。この北西辺りにさらに一つX地点を見つけてる。どう進んだものか。
 1746,新華路を渡る。直進しよう。
 濠沟墘※という難しい漢字の通りへ右折…するつもりが道がない。この裏に川があって行けないようです。しばし川辺に沿って道を探す。

▲1738中山路と新華路の交差点に「金太郎」

※ 2018年前半に征収されて街区を再整備した地域らしい。1年遅かったわけです。
※※ 房屋征收工作已完成! 打通“断头路”, 奎霞巷直达濠沟墘_手机搜狐网

■小レポ:連なる漢数字プラス「堡」地名

 標題「四堡街」のような「(漢数字X)堡街」は,X=一~五でそれぞれ存在している。ただし「二堡街」はない。
 それらはどう連なってるのか,最初は戯れに地図上に並べてみた。

奇数ラインに偶数街が直行する

▲一堡街~三堡街~五堡街のルートマップ

 一~五のうち,一・三・五の3本が上記図の形で並んでます。
 まず純粋に位置関係だけを追います。このラインはまさに五代城の南西城壁と重なる。おそらく壁の内側でしょう。
 これら奇数番号の成す長いラインに対し,「四堡街」は非常に短く,かつ奇数ラインに直行してます(上図右参照)。
 その直行地点が,文中で触れたY字。ということは,三・五ラインと四の交点に福郡永瀬宮があるわけです。
 これを踏まえて,存在しなかったはずのない「二堡街」を探していきました。

推定・二堡街の位置

 三・五の連結点に四が直行するならば,幻の「二堡街」が直行するのは一・三の連結点。漢数字の連続性からもそれが自然です。
 なので一・三連結点を拡大してみました。ここだと思われます→泉郡日月太保宮
▲一堡街~泉郡日月太保宮~三堡街付近地図

 福郡永瀬宮と同様に,「泉郡日月太保宮」という宮がある。
 ここから直行する北東方向には,ぼんやりと建物の隙間のようなものがある。北東の蓮灯巷という道は途中で途切れており,この辺りに建物,おそらく北東の商行2つを建てたために途切れ,道としては機能しなくなったのではないか。
 日本でY字の道標代わりに地蔵を設ける,ということはよくある。けれど宮を設ける,しかも都市計画として設けるというのは,何を意味してるんだろう?
 それで興味をそそられ,この宮を調べてみると──これが謎の宮なのです。

▲Facebook上の日月太保神像

姿も歴史も謎また謎の日月太保

 この宮は──行ってないから確かなことは何も言えないけど──ネット上の画像を見る限りかなり小さい。福郡永瀬宮と同規模以下です。以下の記事でも相当傷んでる。

日月太保宫始建年代不详,据初步考证,应始建于元·元贞年间(1295~1297年)。初创伊始,殿宇简陋,规制简约,后来屡圮屡修,随之完善。

※泉州历史网/日月太保宫(一堡宫)
 でも創建は元·元贞年间(1295~1297年)。南の天后より少し新しい程度。
 祀られてる神は日月太保,上の写真の二人一組の神様です。見たこともない。

内陸水運で賑わった5つの港

 この宮の伝説に語られる,宮一帯の状況をまず見ていく。慈济铺浦东境という港町があったらしいのである。

传播 一堡古时属城厢南隅慈济铺浦东境(参见泉州历史网《泉州铺境·浦东境》※)。慈济铺五境(浦西境、浦东境、通津境、永潮境、紫江境)皆是宋、元时代最繁华的内河码头。[泉州历史网]

 まずはこの「铺」と「境」が何のことか分からなかったけれど,「铺」は海駅のようなもの,日本的には港に近い語感らしい。それに対し「境」は?というのが理解しにくいけれど,とにかくその細分で,日本的には「通り」か「桟橋」くらいの感覚だろうか。
 文中に引用元となっている「泉州铺境」には各铺境の体系が掲載されており,慈济铺五境というのはかなり大きいものだったらしい。
※ 泉州历史网/泉州铺境
「慈济铺『五』境」と先の五堡。対応関係がありそうな気もするけど,そこは確認できてません。

旧时船到泉州港,就直接驶入内河破腹沟各码头卸货。元代慈济铺五大码头全部是大宗货物的装卸码头,特别是丝绸织品的专业装卸码头。斯时丝绸货物从这一带上岸,经过通津桥穿过宏博巷就可便捷地抵达上坊巷(今象峰巷)这个中外闻名的丝绸专业市场。[泉州历史网]

 慈济铺が最も栄えたのは元代。五つの港は全て大型貨物の積み降ろし場所だったという。特に絹織物は専門的に扱っており,ここから陸揚げされたものが通津橋を経,当時の絹織物専門市場・上坊巷(今の象峰巷)まで運ばれた。
 GM.の経路にするとこんなイメージになります。
▲慈济铺浦東から象峰巷までのルート:GM.(経路)

 中でも一堡浦東が優れていたのは,その水深と上坊巷への隣接の二点からだという。

一堡浦东一带古称帆船穴,一堡码头地势开阔,便于装卸作业,而且比其他码头更加靠近上坊巷,因之吞吐量居五大码头之首。[泉州历史网]

「帆船穴」という別称があり,五つの港の筆頭だったという。
 元代と言えば,南では海外交易で最盛期を迎えた車橋頭にマルコ・ポーロがやってきた時代。つまり,対外交易の車橋頭に対し,内陸交易では一堡浦东が栄えた,という役割分担があったのだろうか。
 だとすれば,老城突出部はまた別の意味を持ってくる。対外拠点と対内拠点の連結路でもあったわけで,まさに泉州の動脈だったことになります。
 という風なことが,この宮の次の由緒書きに,ビッシリと書かれているらしいので……今から行く方は是非ご覧あれ。

▲由緒書「日月太保神紀」
泉郡日月太保宫_文物保护_泉州赵族网南外宗赵族网

秘密結社・日月太保

 さて日月太保ですけど,こんな気になる記述もありました。この宮は結社のセンターでもあったというのです。

 日月太保宮创立后,日月太保的神讳迅速在码头的秘密会社之中流传。而在码头的秘密会社中,就有经营山木的德化帮和竹排的永春帮,这些船帮的帮众就把日月太保这一秘密信仰带回了家,并传到泉州下属的晋江、南安、永春、德化等地。[泉州历史网]

「船帮的帮众」の秘密信仰として,福建各地に広まったという。
「船帮」の加盟集団というのだから,職業ギルド程度のものから一種任侠的なものまで想像できます。微商集団と同じく,それは状況次第で海賊に転化するものでもあったでしょう。
 各地にある拠点は次のように綴られる。ネットワークを成していたらしい。

 至今犹存的主祀日月太保的宫庙,尚有东海法石坂头宫、东海后厝金瓯宫、江南浮桥前后埔宫、新街船肚联墀宫、广平仓广平宫、惠存巷辅德宫等,附祀的则无可计数。[泉州历史网]

 商業地区の中心に宮があるというのは,他でも同じことだったのではないか。その地の「船帮」のコアとして機能した宗教施設。台湾の械闘で敵対集団を駆逐した側が,その地に宮を建てていった,あの行動とも重複する行動パターンです。
 日月太保が明代に興隆した伝説には次のようなものがある。海神の匂いを感じる逸話です。同時期に国家のお墨付きを得た媽祖の伝播に並行して,こんな宗教も広まっていたわけです。長文ですけど中国語の読める方はご一読ください。

 明·正统十年(1445年)五月,泉州郡城遭遇300年来特大洪水,“城郭庐舍毁坏无数”,六月初洪水再度犯城,“田庐尽成泽国,民舍漂流成队”,唯日月太保宮独立码头巍然无恙,信众倾城遥拜日月太保威灵。更有甚者,洪水退后,一棵硕大无比的樟树漂浮到宫前码头不走了,树干上还有多处日、月斑纹图案。缙绅耆老公议,此樟树干只能用于雕塑日月太保神像,主干归一堡,两分叉经神前问卜裁定归惠存巷辅德宫和广平仓广平宫。自此,日月太保才以真面目现世,各地争相分炉奉祀。明·弘治十三年(1500年)朝廷追封赵昺为英烈侯后,日月太保更是播衍四方。[泉州历史网]

■メモ:水門巷と泉州八水門

水门巷,中国泉州市的一条古街巷。泉州城原有七个城门,东门、南门、西门、北门、涂门、水门、新门有七个水关,现已被破坏,元至正十二年(1352年),郡守契玉立南拓罗城以就翼城。原南护城河成为城内濠沟,于是在沟上陆续建起一些石桥,以便往来。水门水关,在竹街西,北为鹊鸟桥。南宋绍定三年(1230年),泉州知州游九功沿破腹沟建翼城,以翼卫罗城,水门水关即建于斯时。水门巷因此得名,此处也是原泉州市舶司所在地。[1]

※ 百度百科/水门巷
参考资料
[1] 泉州“古巷风情”之十七:水门巷(组图).泉州网.2007-9-7 [引用日期2012-09-03]

■メモ:涂門街に集結する各種宗教信仰

涂门街是泉州旅游必打卡的地方,骑楼建筑。一公里范围内有文庙,清真寺,关岳庙三大文保单位。紧邻着集基督教、伊斯兰教、道教、佛教,还有本地的关二哥于一街,诸神在一条街上和平共处,共同佑护泉州百姓,全世界范围绝无仅有。

泉州的一条1000米的街道,有着32处文化遗存址,集结各种宗教信仰【一点资讯】

不仅在涂门街,在泉州的其它景点也能看到世界各种宗教文化结合。
泉州是个思想开发、包容的城市,接受世界多种文化信仰。在泉州,你能找到世界各种的文化踪影。泉州这种开发、接爱新群事物的思想,应该是从祖辈就传承下来的。(同)