m068m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm打錫巷

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)


外城の東城壁跡の道

茶の店があるぞ?
 お医者の出店みたいなとこなのでスルーしたけれど,それがあるのは広東的です。というか,ひょっとしてあの文化は漳州発なんだろか?
──だったら面白いけれど,後に調べた限りあの涼茶文化は諸事実から考えて,やはり「嶺南」(≒広東近辺)由来とするのが妥当のようです。詳細な研究も多数あります。
※ 市川哲(共同研究者 奈倉京子(静岡県立大学国際関係学部講師),
小河久志(大阪大学グローバルコラボレーション助教))「食文化から見る中国系移民の現地化に関する比較民族誌的研究:『上火・下火』概念を手掛かりに」

 つまり広東への移民が漳州に持ち帰った輸入食文化が,漳州での涼茶であるらしい。それはそれで逆に面白い。

715。前方,夕暮れの橋のたもとに四重塔が見えてきましま。「威鎮閣」と書いてあるのはこれの名前だろうか?──後に調べると16C後半の創建の古いものでした(漳州府志によると1578(明神宗成歷6)年)。ただし,鄭成功に攻め落とされた時(巻末参照)から文革で壊されるまで,何度も破壊の憂き目はみてます。
 1717,この塔の直下で左折,新華南路を北行。

▲1724真っ赤な標語の歩道橋

っ直ぐですけど好い通りです。どこか華やぎ,どこか田舎っぽい。
 東側へ渡りさらに北へ,ゆるゆると歩く。
 後で城域図と見比べると,この通り,明清外城の東の城壁でした。崩した跡を道路にしたパターンです(巻末参照)。にしてもこの潤いは好い。なぜでしょう?

▲0726夕方の新華南路

の辺で路地に入りたいな,と思ってた辺りで,枝を拡げる大樹のあるパティオが現れました。
 樹の根もとに祠がある。その向こう,裏側に道があるようです。
 1735,その裏道に入っていく。住所表示は「打錫巷」。

▲1739打錫巷,初見

漳州人の記憶する最も賑やかな街

衛殿」を掲げる宮がすぐに見えてきました。关圣帝君(巻末参照)を祀る宮と解説にある。焼却塔も隣にある。
「なるほどこれが南北の元々の道なのか。」と当時は納得し,滞在中,てっきりその気でこの後もハマッてたんですけど──後の調べではどうも違います(巻末参照)。

▲夕食は面!

漳州的都知道打錫巷這條已經是百年的老街了,這是漳州人記憶中最繁華的一條商業街,裡面有很多美食,可以說是我們從小吃到大的美食天堂了。這條街有的小吃最早是從1980年就開始營業到現在了,算起來差不多四十年了

※ 漳州打錫巷百年老街里一家開了近四十年的老字號! – 每日頭條
 每日頭條は,この打錫巷を「老街」かつ「漳州人の記憶する最も賑やかな繁華街」,「小吃の美食天堂」と書く。それは早い店で1980年代からのこととしてます。
 自身はと言えば何と二食連続でイッてます。まずは前菜──
1741名もなき店(微信表示:成隆小吟店)
魯面餐10元,370
 そうか,これも微信のメリットです。店名が確認できる。
 セット(餐)と言っても魯面のトッピングのことらしい。面にシェンツアイの他,豆干がたっぷり載ってます。汁はとろみあり。
 酸辣湯の辛くないタイプ,という感じなんだけど──出汁に深みがぐんとある。台湾の米線の味を思い出す味覚です。なぜか福州でもここまではこの味はなかった。この味は漳州由来だったんだろうか。
 さてさらに,本菜。24h営業店の──

ジワジワ辛くなる溶岩肉

▲家常小炒快餐

758家常小炒快餐
ごつごつ骨肉の岩石煮
瓜のふわふわ水煮
謎のジワ辛肉とピーマンの炒め500
 明瞭に違う。食後感がこれまでにない感覚を留める。
 岩石煮はまことに理解不能な部位の骨つき肉。牛肉だろうけど肩かどこかだろうか。骨汁並に肉部分は少ない。でも噛み締める旨さがある。
瓜のふわふわは広東で経験済みだけど,ここのは輪をかけてふわふわ。しかもしこしこなんである。青臭さもきちんと残ってて,ほとんど他の素材は加わってないのにこれだけで良い感じ。調味には中華スパイス色は薄く,湯で食べる食事です。
 けど圧巻はもう一品の──

▲ジワジワ辛くなる肉・どアップ

ワ辛肉。これ,最初はスルメかと勘違いしたけど豚肉のどこか希少部位をガチガチに辛く煮つめてあるんだろうか。一口で辛くてたまらん訳じゃない。食べてるうちに波状攻撃で辛くなる。辛さの波状自体はありがちだけど,その波が厚いというか,札束をどん,どんと積むように,着実に辛さが重なる感じ。これにピーマンの渋みがピッタリ合う。
 自分が何を違和感に感じてるか分からないんだけど……希少部位の肉をうまく使ってる点は分かる。

新華路の東裏道・打錫巷

▲1828新華東路のネオン前から残照の東門を望む。

この打錫巷という道は,新華路の東裏を南北に伸びてる。如家の裏の鑫荣美食街,南では下沙街がこのライン。所々途切れてるのは道を壊して他の施設を作ってるからみたいです。好い飯屋も並んでる。
 こういう断続道が斜めにももう一本ある。南から解放路,柑仔市,新華東路と伸びる道です(GM.:経路)。うち柑仔市にはXポイントも見つけてる。
 これらがおそらく川からの古道でしょう。

▲ライトアップされてる東門

きに通った時にも増して,陽の落ちた後の東門前は喧騒に包まれてました。
 漳州市の人口は370万人,うち中心部・芗城区は60万。さすがに上海とかほどではないんですけど,田舎じみたもさもさっとした賑わいで,居心地が好い。……とか安らぎつつ歩を進めてると──

老婆餅&ダイハード2

▲ラッシュ!

お~!渋滞やがな!!
 どう過ごしたものか迷うような田舎の環境ではありません。カフェらしきものはないけれどテイクアウト店はあるし,日用品の小店も相当並んでます。
 どうも共産主義っぽさを感じない,わさわさとしたざわめきを感じる界隈です。──翌日訪れた東のバスターミナル付近はやはり共産的なので,中国は中国なんですけど,それでも全体比としては共産的スカスカ度の低い町でした。

▲今夜の向陽坊は老婆餅

宿後,東門で購入したこちらで茶を頂く。
1838向陽坊
新老婆餅250
 ここのはなぜこう,いつもいつも驚きをもたらすんだろう。
 老婆餅らしい純中華のバサバサ皮の中に,中華あんがプニッと出る。素材そのものは中華なのに,滑らかさだけがカスタードクリームみたいになってる。舌が勘違いしてしまいそうだけど,どう味わっても中華あんには違いない。なのに中華のままでヌルリとクリームしてる。
 文昌閣のこのsunmileは少し規模が大きい。客さばきも丁寧です。その例えにはならんけど,カウンターから出て伸びをしてたお姉さんに商品を持っていくと「他はいいですか?」。いやこれだけで,と言うと「カウンターから出たり入ったりが面倒で」とぶつぶつ言いながら勘定してくれた。腹立たしいやら可笑しいやら。
 如家のVODは充実してた。ダイハード2,久しぶりにぶっ通しで見たぞ。

■小レポ:鄭成功 漳州を焼く

 新華路南端にそびえ立ってた威鎮閣は,またの名を八卦樓。これは横断面の形が八角形だからという。それはいい。
 興味を引かれたのは,この塔が歴史上,何度か破壊されてること。その最後は例の如くに文革でしたけど,最初は何と鄭成功です。

然而昔日的威鎮閣已毀於文革,現所見是1998年才重建的,工法相對粗糙。
作為漳州名勝古蹟之一,八卦樓早期建於1572年(略)清順治九年(1652),鄭成功率反清大軍與清軍大戰漳州城,八卦樓被大火焚毀。
乾隆二年(1737),漳州知府劉良璧依舊制重建。

※ 來去漳州(一二) 漳州 威鎮閣 (八卦樓) @ 時 空 旅 人 :: 隨意窩 Xuite日誌
 1652(清順治九)年に鄭成功とその率いる反清の大軍が清軍と漳州城で「大戦」をし,その時に八卦樓(威鎮閣)は大火に遭い焼け落ちた,とある。
 1652年の鄭成功と言えば,南へ敗走中の明から国姓号と成功名を賜った7年後,台南オランダ砦の攻略の10年前。うなぎ登りに勢力を強めつつある時期です。

1645年、21歳のとき、隆武帝から、明王朝の姓(国姓)である朱姓を賜わり(成功という名も与えられたのもこの時)、国姓爺と言われるようになった。

※ 世界史の窓/鄭成功
 鄭成功は最初,もちろん漢族にとって未踏の台湾ではなく,中国大陸のどこかを拠点化しようとしてた。台湾上陸までの十数年は,鄭成功にとっても「南明」を成立できるか否かを賭けた時期だったはずです。つまり清と正面から衝突した時期です。

 鄭成功は同じく1661年、2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を攻撃、翌年その勢力を追放した。オランダの台湾支配は終わり、1683年まで、22年間にわたる鄭氏三代にわたる鄭氏台湾の時代となった。[前掲世界史の窓]

 鄭成功は1652年に漳州で戦った。それは攻戦だったのか守戦だったのか?当時の鄭氏勢力の具体相を掘るポイントとして,この1652年×漳州(八卦楼)をサンプル的に選んでみます。

[論文]岡本1998

 主旨的には修国器という清官僚の業績を追ったものですけど,岡本さえさんの論文中に関係記述が見つかりました。

一六五一年の年頭(順治七年十二月),佟国器は福建左布政使(二品下)に昇進し,福建の治安をめざす責任を負う。この年の九月陳錦は舟山列島の急襲に成功したが,張名振(侯服,─一六五六),張煌言(玄著,蒼水,一六二〇─六四)らは魯王と共に脱出し鄭成功の下に参じた。漳浦,海澄は鄭成功に攻めおとされた上,陳錦自身が翌年同安で刺客に殺され清朝は大きな衝撃を受けた。(略)
※ 岡本さえ「修国器と清初の江南」東洋文化研究所紀要1998,p13

 以前触れた朱紋(m065m第六波mm北京路台湾路/■要点メモ:木岡さやか「明代海禁体制の再編と潭州月港の開港」)がこの百年前(1547年)双嶼港を滅ぼした後に自殺に追い込まれたのと同じく,いやもっとダイレクトに,陳錦は暗殺されてます。
 さて問題の年です。

陳錦のあと浙閩総督となった劉清泰も成功に福建省の要地漳州を包囲され多数の餓死者が出るのを救えなかった。七十余万人の犠牲があったと伝えられる。翌一六五三年(以下略)[前掲岡本1998]

 すなわち1652年にあったことは,
・鄭成功が攻め,清側(トップは浙閩総督:劉清泰)が守った。
・餓死者70万人以上発生
 先ほど触れた現代の漳州中心部・芗城区の人口が60万です。当時の市街人口は明確でないけれど,今より多くはないとしたら,ほぼ全滅に近い。つまりそれだけの期間,鄭氏軍は漳州を囲んだ。
 攻め手は守備側の少なくとも3倍の兵員規模を要する。それを長期やるほどの規模とロジを鄭氏は当時有していた。

[史料]漳州府志

 岡本1998にはこの箇所の原典を明らかにしてなかったけれど,前後の関係から「漳州府志」に当たりがつきました。
 有難いことに,この書籍はネット上でデジタル化されています。だけでなく,「中國哲學書電子化計劃」というサイトはかなりのデジタル史料を,検索機能付きで公開してます。
漳州府志 – 中國哲學書電子化計劃
 ヒットしたのは「漳州府志卷之三十一 災祥」の項でした。文節を区切る古典中国語の読解力がないため半端になりますけど,以下長文ですけど,関連部分を大文字にした形で転載してみます。

①9 簡載部

9
(略)(引用者注:清順治九年=1652年)九年正月潮水突漲五尺鄭成功入海澄是歲障城被圍城內人相食斗米直銀五千兩圍解收願骨得七十二萬疫六作死者川數(略)

 やはり読解力がないけれど,「銀五千両」「解放願」とあるのは五千両払って許してもらったということでしょうか。
 この記述では死者は72万。餓死ではなく疫病で,となっています。もっと惨状です。
 少し後の19部ではその前後まで追えます。

②1649~51年

19
(略)(引用者注:推定清順治六年=1652年-3年)一月障浦土寇盧若騰邱建謹台平和賊萬禮等寇縣城恭將陸大勳出戰被殺總兵楊佐恭將魏標守將馮仙第再戰擒建會殺之十一月總督李率泰入平和戮會慶及謀叛者十二人蠡年七月潭浦佛潭橋寇據新亭總二楊佐攻之不克十一月鄭成功陷雲霄守將張國柱死之士卒死者驪數進攻潭浦守備王起俸密約為內仙謀洩走降賊賊退遁盤陀總兵王邦俊追破之遂復雲審起倖西人既降賊始教之驪射成功甚任之七年一月總入王邦俊平諂安二都山賊五月師還障浦襲楊學阜大破之學阜降八月鄭成功殺鄭聯於廈門并其軍八年二月提督馬得功破廈門四月鄭成功還據之六月鄭成功入浮富港掠義山總兵王邦俊兵敗于方田賊薄海澄縣一日始去十一月陷雲霄曹美恭將包泰興死之遂陷詔安平和祥縣十二月襲潭浦賊舊將陳堯策滑為內應囚駐防副將楊世德知縣范進焚掠四郊偽恭軍潘庚鍾城中沿門索餉酷刑堵勒浦人比之前明倭尤肅匿麗烈云是月海澄守將赫文興質其子于成功結為內應口

 ここまでが1952年の前3年の出来事です。
 最初の大文字部は鄭成功の六年11月潭浦への侵攻時。守備側との密約により陥落したことになってます。素直に取ればそれだけ地元は鄭成功の,少なくとも心理的な同調度が高かった。穿って見れば,海防の中核だった潭浦がいとも簡単に落ちてしまったのかもしれません。
 後の大文字部は七年8月以降。厦門に入りしばらくそこに居続けたところで,どうも敗れて海澄縣(県)に移ってます。
 どうもこの辺りの記述を見ていると,鄭氏軍は確かに強力で戦えばかなりの率で勝利しているけれど,清側は相当の大兵を広域展開しており,面を支配したり,ある土地を長期の拠点として持ち得なかったらしい。
 鄭成功は次の拠点を探しており,それが順治九年の時点では漳州だったのでしょう。

③1652年1~5月

九年正月鄭成功大舉入障至海澄赫文興開城納之知縣甘體拒不屈沉干海遣將分狗各縣以上中下為餉額酷指宮尸是月賊將甘輝分兵攻長泰知縣僻永吉嬰蛾引守死之先是崇禎佛郎機百師知縣槨丈仞製跳炮藥碑憶禦柄卜邾介亦忠舞以擊賦賊死傷刎常畋復紐兵連火恤攻賊蛾幾趨狎鬲將王進與建寧王總兵商副侍來托拂其縛耿神散我兵入蛾合圍加故發炮攝城一卜餘士連脈霞視當夙鋒且蛾且築爪占中炮死一月夫耶爽酌絡態州抱織只卻石忻飛切黨只風人什縛石能起鶴反吹擊賊賊死無激城中宮兵乘之會總腎陳錦擾兵至同安賊遂牲營杳遁凡四十尤口圍始解三月總督陳錦兵敗干怵東賊遂圍潭州四郊居民入城各依所親城門堅閉網關酬酬黼酬黼加麟廟之五月所鎮馬逢知來擾略撞城號金衢馬名進寶賊議築鎮門截溪流灌城堤不得合旋罷城中被圍日久斗米直五十金食人炊骨死者七如餘萬人

 鄭成功は1652年の1月に海澄県から漳州に攻め寄せ(冒頭大文字部),5月に落として70余万人の死者を出した(文末大文字部)。短く見ても4か月以上の長期封鎖をやったわけです。
 なお,ここに威鎮閣の名はない。おそらく別の記録と合わせた記述あるいは伝承なのでしょう。どの道,この程度の殲滅的な攻撃に遭ったなら大抵の建築は破壊されたろうし,その真偽を確認する余地もないでしょう。

④1652年後半~

九月固山金礪援兵至泉鄭成功解園屯古縣名在城十里十月朔日固山金礪大破鄭成功于古系擇賈忌菲背酬大作賊發天箭羨拘霆右反風自焚滿溝刪泉兵乘姻衝究賊尺潰陣斬黃山陳停瘳敬郭廷洪丞寵皆巨魁也成功遁入海澄毀學城時諸村落散復歸昔室家俱破繼以溫疫城內外幾無炊雕是月副總兵王進復障浦賊黨在平和詔安者皆遁去十年五月固山金礪攻海澄填濠深入賊發地炮士卒多死退還障州鄭成功增築海澄城安大小炮三十餘號積糧草儲軍器以為持久之計十一年正月有撫寇之議鄭成功遣其黨故各料滑鄉源餉凡數月潭匹興泉眥罹其害己十一月鄭成功入潭州先是千國軒魏醜醴通威巧十月仞夜賊將甘輝洪粗等直至南門里軒開城納之絕鎮張世觀加府屏星葉俱降賊成功耀至各屬縣多迎降附籍城中及各縣富尹凡餉然成功用法素嚴市肆不擾兵卒無取灌掠折故城內稍安十一年春世子王卒大兵入關成功度勢不支沫月墜障州及障浦南靖長泰平和詔安各縣城聽郡鍼民屋無論大小俱析毀浮木石於慢門所存者惟神廟寺觀而已是年春賊將黃萬陷詔安溪南墜殺掠如洗十一月總兵楊捷入潭諸縣皆以次恢復障浦賊堂通去獅頭城捷勒之民被其禍者甚慘

 漳州を落とした4か月後の9月,鄭成功は固山金礪からの増援兵に敗れたと記される(上側大文字部)。ただ,漳州を清側が奪還したのは11年春(同下側)。この間,約2年間,鄭成功支配下にあったことになる。
 この前後,死者とその数を記した箇所は70万人以外にない。漳州が特に惨禍を被ったことが推察されます。
 鄭成功が根拠地を求めていたのならば,清側もあえて焦土作戦をやった可能性もあると思う。清初の明勢力掃討戦というのは,四川その他の事例を見ても徹底的です。
 大局の感情でいえば中国側も,二つ前の本格的な長期異民族支配期・元朝の記憶が生々しい。その権化となって猛威を振るった,女清族にとって未知の海上勢力。この9年後,1661~83年の遷海令時代への接続をリアルに感じさせる史料です。

▲東門東側エリア ※双方とも前頁前掲BTG地図該当部分

■小レポ:打錫巷の南北ラインは何だったのか?

 新華路が東城壁の撤去跡だったとすれば,その東裏手を並行して伸びる打錫巷は,東城壁外の道になるはずです。
 上の2つのBTG地図のうち,右側の地図では,該当の位置に細い,揺らぐように波打つ道が認められます。
 また,左側の絵図では,城壁外壕が書かれています。この壕と城壁との間の道だったとは考えにくいですから,壕の東側沿いに伸びていた道だったことになります。
 結果,新華路と打錫路ラインの間のブロックは,往時の壕を形取ったもの,ということになります。

大樹と祠の謎

 けれど,そうすると一つ生じる矛盾は本文で通り過ぎた樹木の根元の祠の存在です。この祠と樹木が,壕の中にあったわけがない。
 樹齢は数百年を下らないと見えるし,他所にあった祠を近年わざわざ持ってきた,と考えるのも難しい。何か突出部のような場所があってそこに樹木と祠があったのでしょうか?

打錫巷とは何だったのか?

 そもそもこの「打錫」という地名も定説はないらしい。錫の器を造る職人が多かったとも錫鉑紙(日本語の銀紙だと思われる)のそれがいたとか書かれもするけれど,どうも思いつきめいている。
※ 來去漳州(一七) 柑仔市舊街風情 @ 時 空 旅 人 :: 隨意窩 Xuite日誌
 ここの位置は,九竜江から威鎮閣直下を通って東門前に至った,その壕向こうの町になります。大船はここまで入れないから,小舟が入って小商いをする市場だったのでしょうか。
 どうやらこの時の訪問直後から打錫路には再開発が入り,2020年現在,既にあの揺らぐ湾曲路は消えたらしい。
“十三五”以来,漳州市加快背街小巷提质改造步伐惠及广大群众——陈老板的小推车 “退休”了 – 八闽乡讯 -東南網-香港站

■小レポ:二人の関羽 山西と漳州

 文中で打錫路端に見つけた「关圣帝君」廟,これは間違いなく関羽信仰の廟らしい。
 次の「看点快报」記事では,漳州に190あるという。
关帝信仰盛行,福建漳州关帝庙达190座!-看点快报
 いや。中国全土にどれだけの関羽廟があるのか,どうも数量がはっきりしないけれど,孔子や釈迦より廟数は多いという関羽廟とは言え多すぎないか?北京に百という記事もありました。漳州規模の町に二百近いというのはインフレーション気味とは言えそうです。
 色々調べたけど,なぜか言及してる記事がない。

関羽の神としての名称

 そもそもこの人にはいくつ名前があるのか?その中で今回の「关圣帝君」とは何なのか?

关帝原名关羽,又称关圣帝君、帝君爷、关老爷、关公、山西夫子等,字云长,山西运城解州人,原为三国时期蜀国大将,死后被奉为神,被视为忠勇仁义的化身,并得到历代帝王的推崇,先后21次为他御旨加封,有“汉封侯,宋封王,明封大帝”之说。儒道释都把关羽奉为神明,儒家尊为山西夫子、文衡圣帝;佛教尊为护法伽蓝、盖天古佛;道教尊为协天大帝、伏魔大帝;民间尊为“武财神”、“关圣帝君”。[前掲看点快报]

 構造的に整理するとこんな感じらしい。
原名:关羽(関羽)
別称:
(「関」字のあるもの)关帝,关圣帝君,关老爷,关公
(「帝」字)帝君爷
(山西名)山西夫子
(勅命によるもの)汉封侯,宋封王,明封大帝 ※勅命は21度出ている。
宗派別:
(儒教)山西夫子[再掲],文衡圣帝
(仏教)盖天古佛
(道教)协天大帝,伏魔大帝
(その他民間信仰)武财神,关圣帝君
 つまり「关圣帝君」は民間信仰版の関羽信仰像です。でも結局この信仰は何なのか?以下の疑問が言い得て妙です。

一部のインテリを除いて、中国人には『なぜ宗教者でもない一武将の関羽がこうまで崇拝されるのか』といった矛盾は全く浮かばない。中国人に、代表的な神を一人挙げてくれというと迷うことなく関帝と答えると聞く

※ wiki/関帝/酒見賢一『中国雑話 中国的思想』(文春新書)

関羽は武神から財神に

 この点は西日本新聞の次の記事が最も分かりやすかった。現在,最も有力な通説となりつつある,塩密売ルートでの拡大説の要点説明です。

(略)複数の研究者が指摘する製塩業との関わりには信ぴょう性を感じる。
 中国の歴代王朝は塩を専売制とし、国家財政の柱とした。官製の高額な塩を売りつけられる庶民は生きるため安価な密造塩を求め、製塩業者や行商人と結託した。そして密売ルートを義侠心(ぎきょうしん)の倫理によって守った。
軍神・財神2人の関羽 大串 誠寿|【西日本新聞ニュース】

 塩売買ルートが秘密にされる故に信仰化する。これは「隠れキリシタン」と同じ態様です。それが象徴として関羽を抱く。

 製塩業が盛んな地域の一つに山西省解県がある。関羽はここの出身者なのだ。義将として描かれる同郷の英雄が、守り神にかつぎ出されたのは当然だろう。行商組織のよりどころとするため、関羽を祭る関帝廟(びょう)は各地に築かれた。転じて、商売の神として庶民の信仰を集める場にもなったらしい。(略)

国家が祭った軍神と、庶民が祭った財神という二人の関羽が存在する

、と捉えれば理解しやすい。[前掲西日本新聞]

 けれど,この説明でそれでも分からないのは,この信仰が本質にしていたはずの排他性と,にもかかわらずそれが拡大したこととの矛盾です。
 おそらく山西幇とそのブローカーの神だった財神・関羽が,なぜ福建に,世界に広がったのか。
 そう考えると,山西幇と福建,特に客家ルートを経て内陸交易と繋がりの深かった漳州幇との相互依存度が,秘密宗教が流出するほど深かった,と仮定するのが自然に思えるのです。
▲[再掲]明清代の中国内水域-外水域連携図式
徐州:Phaze:廃黄河は西へ■小レポ:試論・淮水中心中国史観/③倭寇的状況が元代以降に発生したこととの関係

秘密・属地的な民間信仰の普遍化

 上記初出での繰り返しですけれど,如何に危険な密航でもそれだけでは利益を生まない。その結ぶ二点から先に売買のネットワークが存在しなければ,密貿易のインセンティブは生まれない。
 中国の場合,それが内水域での塩売買ルートで,それはしばしば密貿易ルートでもあった。
 内水域ルートを山西商人か
取り仕切り,外水域を漳州海商が仕切る時代があり,相互の連携の中で関聖帝君信仰が伝播した。
 伝播することによって,秘密宗教は秘密であることを止めて普遍化する。
 このイメージは,媽祖信仰の拡大にも重なります。
①地域限定的な信仰を,非定住の傾向を持つ商業集団が有する。
②その集団とネットワークを共有する別集団が信仰を吸収する。
③その信仰がネットワークに共有され,かつ内容を普遍化させる。