m067m第六波m鬼城忌の尖塔 メッカの心嗅ぐm香港路

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

ここのは少し甘いでしょ?

▲1638これは左折直前,台湾路。商店街ではない普段使いの騎楼が好い。

アーが通るだけあって,香港路は,観光資源的にはかなり整った町並みが残ってます。何だかんだ言いつつ4枚も撮ってる。 
 思いっきり観光用だけどここで名物スイーツ・四果湯に舌鼓を打ちつつ一休み。
1647玲姐古早味四果湯
四果湯150
 泉州で既に食べてるけど……やっぱり旨っ!
 おばちゃん曰く「这边的一点甜的」──ここのは少し甘いでしょ?ということでした。

▲1643四果湯

後世勝手に使ってる爽快さ

港路は南半分が手応えがありました。
 どうも建築時の用途や想定をよそに,後世の我々が勝手に使ってる,という感じに見えますけど,その混濁した意図が景観に独特の面白さを与えているようです。

▲1650香港路① この商店群の上部構造も建物としては騎楼です。

物はやはり古いもので明代に遡るらしい。「尚书探花」と「三世宰贰」という因縁の深いものが有名という。
 下記「搜狐网」は伽蓝庙という,曰く世界最小の空中廟に注目してます。ただどれも,脈絡のない点情報が多い。
漳州古城台湾路香港路,真正宝藏地,明代牌坊和世界最小庙都在这_手机搜狐网

▲1652香港路② ここの騎楼部は駐輪スペースと化してます。台湾ではよく見る光景。

南市→香港 永靖→北京 府前街→台湾

度百科はこの道が旧称「南市街」だったと記す。さっき龍眼营に入っていったときに見かけた「南市」というのは古称の名残りだったんだろうか?
 こんな記述もある。

香港路形成于唐代,是唐宋至明清时期漳州古城的中轴线。

※ 百度百科/香港路

▲1653香港路③ さりげない街角のバイクとスマホを弄るオヤジ。手前の荷物は誰のだろう?

軸線?それも唐宋代以降そうだったと?
 北京路(永靖路)の時代以前に栄えたということだろうか?
 なお,東西の台湾路は旧称「府前街」で,漳州府衙があったからという。これは明清代の起源。つまり南北道の方が古くから栄えてる。
※ 維基百科/台湾路(漳州)

▲1654香港路④ ここの騎楼部分は陳列場所。誰が買うんだ?という帽子がもぐれついてる。

ブロック唯一の東西路?龍眼营一巷

や?
「←侍王府」と書かれた案内表示が現れたぞ?
 住所表示は香港路68。ここから龍眼营への抜け道,ということになるけど?
 見た目は他の路地と同様,行き止まりにしか見えないけれど……入ってみよう。左折東行。

▲1658龍眼营一巷西半①

らうらと,揺れるような道幅と曲がりですけど,その道は続いてました。
 住所表示は龍眼营一巷とある。──趙他論文の地図では北京路から延びてた道名です。
 ただ,暗きょは続いてるし,バイクも入ってきてる。行き止まりかもしれないけれど私道ではなさそうです。

▲1659龍眼营一巷西半②

漳州外滩(ワイタン)珠の如し


市場に出れた!
 これは……何という異世界感だろう。
 どっと疲れを感じる。今日はここまでにしてまた来よう。離脱した車道は博愛道。
 1702,東行。
 招安猪脚飯というチェーンらしき店。そんなん有名なの?

▲1701博愛道から西をみやる。こちら方面はすぐに新市街らしい。

板によると,この文化街を開発してるのは漳州城投集団ZHANGZHOU CITY INESTMENT GROUP。表記からしてJVらしい。
 1708,さっき掘り返してた川を渡る。この辺りまでは,まだ工事が来てない。でも橋桁の意匠は凝ってる。
「東盛 外滩明珠」という何だか分からない大理石壁の石柱。まあワイタンには違いないけれど……それとも,これから上海みたいにするつもりなのか?

▲1709南北の川にかかる橋の桁のレリーフ

■疑問点整理:龍眼营ブロックの何が不可解なのか?

 前章と本章で見たこのブロックの不思議さが伝わったかどうか,不安なのでまとめてみます。というか,自分自身,この初回歩きでの違和感を自覚しきれなかったので……。
 まず,既存の方法「X」,つまり例によって航空写真で見てみますと,次のような画像になります。3つの指差しの左が香港路から,右が北京路からの龍眼营一巷への入口,中央がこれと龍眼营本道の交点です。
▲百度地図/航空写真で見る龍眼营一巷

A 龍眼营を境に東西の相が異なる

 まずうっすら分かるのはこの点です。龍眼营以東は,それでも他の町なら十分に老城のドット状を呈してますけど,かなり整然としてる。
 それに対し,以西は──他ではちょっとない,緑地を含むうねるような相になってます。ドットもさらに小さい。

B 龍眼营の南端が鉤状に折れている

 東の北京路も西の香港路も方向だけは整然と伸びる,その間で,こののたうつように鉤形に湾曲する龍眼营の南端は異様です。
 まず説明要素に浮かぶのは通元廟。この敷地を避けて迂回したようにも見えます。
 でもどうも違う。二枚目の地図は前章のBTGのものの拡大です。

▲BTG地図で見る龍眼营一巷

 湾曲が迂回路で,龍眼营が元々,通元廟と文廟を結ぶ道だったとすれば,通元廟の東西にそれは出来るのが自然に思えます。つまり通元廟の周りに円状あるいは方形の道が残るように思えます。
 でも東側に同様の道は見いだせない。
 そもそも龍眼营は,この湾曲以外にも北側で不自然にくねってる。どうも,最初から都市計画的に出来てはいなかったように思えるのです。

C 龍眼营一巷は太く真っ直ぐである。

 それどころか,BTG地図では龍眼营本道より一巷の方が太い東西幹線のように書かれてます。この地図では城壁も書かれ,一巷は壁内側直下に沿った道だったようです。だから湾曲もなく都市計画的。
 すると次に,龍眼营はこの一巷と文廟側の抜け道として,家並みの隙間が繋がって出来た,という見方も浮かびます。
 でもそれにしては整然としてる。何より,Aの道東西の相が異なるのと矛盾してきます。
 どうもこの東西の相のギャップがポイントに思えます。それは,次の3枚目・趙他地図ではより明白です。

▲趙他論文街路別地図で見る龍眼营一巷

D 龍眼营には抜け道がない

 このブロックには縦横とも貫通する道がほとんどない。東西で見つけたのは一巷だけだったし,南北では龍眼营のみ。それはワシが見つけれなかっただけではなく,上の地図でも確かにそうらしい。
 その代わり,確かに袋小路は何本もある。ワシ自身,北縁から入って戻ってきた道のように,くねってくねった挙げ句に途絶してる。
 そういう道は,けれど龍眼营以東には皆無です。対して西側では内部方向にこれだけ伸びて,しかも交わってない。

▲趙他論文構造別地図で見る龍眼营一巷。黒が大厝,灰色が騎楼

E 龍眼营から香港路の小ブロックに大厝が集中

 家屋別で見ると,龍眼营と香港路の挟む西半ブロックに大厝が幾つもある。東半分には騎楼はあるのに大厝は皆無。
 大厝は,やはり福建独自の建物で,一族の集まるパティオのような中庭を備えた建物らしい。
※ 百度百科/大厝 古建築
▲大厝の中庭(百度百科より)

 この西半ブロックは,何か特異なのです。龍眼营はブロックの抜け道とは考えにくく,この西半ブロックの東の縁と捉えた方が自然です。
 そうすると,泉州と同じくここに圍のような排他的な建築があった,とも想像できるのですけど,そうすると一巷の存在が分からなくなります。
 唐宋以前の城壁の内側直下です。それより古い防衛施設があったなら,南の城壁をわざわざすぐ南に造り直す必然性がない。古い城壁を再利用するはずです。
 東西の抜け道にしても幹線にしてもこんな場所に,真っ直ぐな東西道を造る道理がない。
 でも,実際には側溝に沿った道でした。明らかに計画的に造られた道です。

類似形として唯一連想できたもの

 理屈としてはとにかく分からない。だから経験的にですけど──道の雰囲気といい,湾曲といい,南が半分行き止まりなところといい,ただ一つ,ここのイメージがダブりました。
 熊本市/上乃裏通り→GM.(地点)
 並木坂通りの東裏手のこの道は,昔,米屋や倉庫が並んでいる隙間道だったと言います。
 ただ,上乃裏通りと並木坂通りの間には何本もの接続路があります。それが遮断されつくしている漳州龍眼营ブロックとは,その点では真逆です。
 分からない。糸口さえ思い付けません。

▲清代の博愛路写真:前掲BTGより「清末に漳州府城の南東隅を撮影したもの。中央に八卦楼が見える。その脇までが城壁の範囲内だった。城壁の外側には清末に敷設された博愛道が見える。」

■メモ:豚足 てびち 猪脚

 この日,漳州で見かけた豚足は,考えてみると大陸中国の嶺北では初めて見かけたそれでした。
 広東では食べたことがある(→外伝09第六次香港(仏山編)第四天/隆江猪脚飯)。香港でも発財猪脚などの名でよく飲茶メニューにある。
 タイのカオカームーはチェンマイが有名だけど,あれも漢族由来と聞く。
 台湾は本場と言っていい広がりがある(→(@_76_@)第三日@台湾/再六訪 青山番遥/中壢夜市/八角や一等品のテビチかな)。と言ったら激怒しそうなのが,漢族圏以外の沖縄と韓国。前者のテビチは食文化としては最高レベルだし(FASE61-5@deflag.utina3103#/切れ目なしに繋がる鰹出汁と肉汁),後者のデジチョッパルは日本人が言うのは気が引けるけど気兼ねない庶民の旨さです。
 他ではドイツのバイエルンなど南部にSchweinshaxe シュバイネハクセという料理があると聞くけど未体験。
 つまり,広域の食文化としては「猪脚」は島状のエリアを形成してます。それは海域アジアに重なるように見えます。
※ 維基百科/猪脚

屏东县万峦乡 万峦猪脚

 台湾では発祥が割とはっきりしてるらしい。南部屏東県の万峦猪脚です。

万峦猪脚创立人是王依悌先生,别号一已师,福建省福州人,(略)1948年落脚屏东县,开设食堂为生,并开始卤制猪脚贩卖。
※ 維基百科/万峦猪脚

 ということは,台湾での「流行」は戦後の話。その源流は福州です。

ルーツと覚しき福建に猪脚文化がない謎

 沖縄の場合は,中国から王朝時代に伝わったというのが定説。沖縄の朝貢貿易上の中国とは福建のことです。
 してみると,広東で珍味扱いされる猪脚も,他から来た気配がある。
 これで福建で古くから豚足を食べてれば整合性がつくのですけど──調べても福建で豚足食が一般的な地域は見つかりません。
 ここが分からない。
 豚肉の赤身が食べれない貧民食のようなものがルーツで,福建本土ではかえりみられない料理だったのでしょうか?