m093m第九波m龍灯の海に一滴吾が小舟m華僑博物館

:地下鉄・バス・BRTで乗り継いでるのでイメージですけど……よくも3時間で動いたものです,この行程を。

“厝”「我らの場所」

殿前四路らしき車道に出たものの,1108。
 どっちがどっちか全然分からんのです。
 とりあえず左折東行。1118,殿前三路にT字でぶつかった?大分心細くなってした。安全に出よう。右折南行。
 1122,左折路へ。殿前社4188。お馴染みの中国の寂しい町になってきました。

▲1121殿前社4188付近……って,だからそれはどこ?

情大骨湯!
……を食べてみようかと思って訊くと売り切れ??昨日に引き続き……大骨湯ってそんなに人気商品なの?
 1129,ようやくたどり着けた地下鉄・殿前駅に降り,一気に鎮海路を目指す。残り150分。飯食ってる暇はなくなってきたかのう?(あるわけねーだろ!!)

▲1136厦門地鉄車内

ろに立ってた,上下ともピンクでまとめた女がイヤホンでスマホを見つつ,スマホを持つ手足以外をしきりにくねくねさせ初めとる。踊ってる……のか?その状態で何と微信も打ってるらしい。
 どんな宗教なのか?
 烏石浦。座れた。どっと眠気が襲う……けど寝てる場合じゃない。
 呂厝。眠気覚ましに漢字を調べてます。
※BB./厝 cuo4
「安置、停柩、磨刀石等含义;闽南语、福州话、莆田话、电白黎话等闽语分支语言中潮汕话也有,“厝”一词亦被用来表示具体的居住地。」
 閩南語独特のニュアンスの漢字です。「我らの場所」とでも言うんでしょうか?墓場までを含む広義の言葉です。「呂厝」はつまり「呂一族の村」というほどの意味だったのでしょう。

▲1201地鉄出口にて

157,鎮海路で地下鉄下車。3A出口から出る。
 中華城バス停から1路に飛び乗る。3駅,華僑博物館へ。
 バスのモニターで……これは対日戦争史やっとるのか?鎮海路口バス停の南に石垣が見えた?そう言えばこの思明路の南側にも時折石垣が見えてる。──と微かに気付いてるのは,今確認する限り,鴻山公園とその対岸の緑地だったのではないかと思われます。(巻末参照)
 1208,今日は間違わずに下車。残り110分。華僑博物館に入館。

中国系アメリカ人の博物館

▲1228華僑博物館「1852年1至8月,从中国和其他太平洋港口抵达美国旧金山的中国移民人数」

物館の入口手前に孫文の「天下為公」碑。異民族支配下で国を追われた格好の当時の華僑には,それほどまでに孫文は希望だったのでしょう。
 1213,正面入口「華僑華人 ETHNIC CHINESE ABROAD」碑。
 上の展示のキャプションに曰く──「1852年8月13日美国《阿尔塔加利福尼亚日报》刊登的1852年1至8月,从中国和其他太平洋港口抵达美国旧金山的中国移民人数,共计18040人」
 8か月で2万人弱??
▲(前掲wikiより)中国系アメリカ人著名人:左上からジェリー・ヤン、マヤ・リン、ブルース・リー、呉彦祖、ミシェル・クワン、ルーシー・リュー、ゲイリー・フェイ・ロック、イレーン・チャオ、スティーブン・チュー

ルースリーはともかく,「ビヨンド・アワ・ケン」の呉彦祖監督も中国系アメリカ人なのか!

1848年のカリフォルニアゴールドラッシュの時に1000人前後の中国人が渡米した。1852年に25,000人、1880年には10万人以上となった。多くが西海岸に住み、主に鉱山や鉄道敷設工事の労働者、あるいは下働きの奉公人として働いた。※ wiki/中国系アメリカ人

 19世紀後半に発生したアメリカへの漢族人口流入は,華僑の歴史上も大きな潮流だったらしい。(巻末参照)
 また,苛烈なものでもあったようです。次の写真の「華工脱身恁札」はパスポートとは別のものらしい。脱走防止カード,みたいなニュアンスなのか?

▲1230「華工脱身恁札」

リュック担いで徒歩40分

料。
──思った以上に凄かった。特に一階の実物は見応えあった。
 1310,リミットまで一時間を切った。1路で帰路に。
 あれれ?e通卡はバスでも使えるじゃないか!……とこんな段階で気付いてます。
 1318,ラッキー,座れた。現在,中山路の東口を過ぎた辺り。さて,今度は降り間違うと致命傷になるぞ…。
 1333,金榜公園到了!ははは,ちゃんと降りれたぞ!!
 これもこの時にやっと気付いたけど……妙香扁食ってあちこちにある。要はチェーン店じゃないか!

定通りの時間になりました。1342,宿でピックアップしたバックパックを担ぎ上げ,西へ。
「幸福厨房」というとこを見つける。昼飯の最後の望み,「ビール鴨」というのを注文してみたけど……え?今はないの?
 先へ。荷が結構重い。両肩担ぎにきちんと切り替えて進む。
 1354,后埭渓路。ここで左折南行のはず。
 1358,第九中学。校門の向こうに岩山がある学校です。南側ってこんな地質なのか。
 バス停九中站。左手は公園。
 1401,地図でルート確認しつつ一服。──どこへ行こうとしてるかというと,空港行きのBRT(バス専用交通)で空港に行けるという情報を拾ったので,その最寄り駅を目指してるんですけど──南前方のトンネルを,やはり抜けた先らしい。このトンネルは鉄道を潜ってる。行程はあと1/3。ただ登りになってる気配が……。
 1408,前方に小山。如是酒店。ヴェジのレストランあり。
 1413,文屏路。着いたはずだけど……どこが駅だろう?
 1419。迷った挙げ句,何も書いてない階段を登りかけたら「进站 ロンド方向」と書いてある。南側へ行くと駅員のいる站があった。
 文屏路BRT站ホームに……着いたぞ!
 待つ。駅前から重いリュックで所要40分弱,やれやれ疲れました。

ラッシュにハマるなBRT

▲1421 BRT文屏路ホームにて

422,乗車。
 当然だけど……がらがらです。客は7人。しかも空港へ行きそうな風貌なのは……ワシだけ?
 つまり,リムジンとしては完全に失敗しとる交通機関で,今わしは空港へ向かってるらしい。いや~危険危険。ははは。
 すぐトンネルに入る。
 1426,トンネルを出る。結構長かったから駅裏の小山をくぐったんだろけど,お陰で早くも方向を見失ってます。

▲地下鉄開通後の厦門BRTは既にノスタルジック
厦門市街はバスが何本も走っていて便利ですが、渋滞が多いですし、路線の分かりやすさを考えると、BRTも捨てがたいです。
しかし、大通りの上に作られた高架を走るBRTはやはり乗り場まで行くのが面倒です。エスカレーターがある場所もありますが、大部分は階段で、しかも階段の上に屋根がなかったりするので、天気の悪い日に大きな荷物を持っていると、ホームへ行くまでが不便に感じられました。
総合評価   ★★★☆☆
利便性    ★★★★☆
お値打ち度  ★★★★☆
快適度    ★★★☆☆
接客・サービス★★★☆☆
安全・信頼度 ★★★★☆
※ BRT(廈門快速公交系統)のクチコミ –高架を走るバス | 地球の歩き方[旅スケ]

き方」に投稿する人ってやっぱ優しいなあ……と思ってしまうね,こういうの読むと。
 厦門BRTには今回は初乗車です。早くもこの交通機関は無用の長物になりつつある。でも,だからこそ鉄ちゃんにとっては,もとい決して鉄ちゃんではないんだけど,何だか乗りたいじゃないですか?
 左右ともアパートが延々続く。仙岳路站。なるほど,さっきバスで見たこの地名が,BRTではここか。
 前方にまた山が迫る。客は……2人になったぞ,寂しいぞ。右手に高層マンション林立。
 1434あんどう站。安い兜と書く。
 次がT3。え?一般道に降りるや否やラッシュにはまっとるがな。BRTじゃないぞ,そりゃ。
 1446,下車。結構かかったぞ。何のメリットもないぞ。さすがはBRT!!
 うーんと?着いたのは野原のような場所。「国際/港澳台出発と表示のある方へ行けばいいのかな?
 向かって右隅から二階へ上がる。
 先に荷物チェックがありました。インドネシア方式です。行き先が潜在的国内だから,と言いたいのかな?
 3階へ。「外国人」列には色んな言葉を話す漢民族が並んでる。まあ香港・マカオ国籍者は中国公民でこの列にはいないわけだから,この列には30人程度しか人数はいない。でも……ここで写真とか撮ると,やっぱすぐ捕まるんだろなあ。
 あ!やっぱり税関でライター盗られちゃった!

~~~~~(m–)m台北Transit編~~~~~(m–)m


睡してました。
 5時間後の2029,台北・新店松山線車内よりお届けしております。
 南京復興站での乗り換えで文湖線とこのラインのどちらだったか迷ってしまった。台北は久しぶりで──台鉄松山駅起点なのが新店松山線,松山机場からは文湖線です。
 実は持って来るのを忘れてた台湾ドルと地下鉄カード。これも軽く入手できました。やはり抵抗感というか,カフカ感が大陸とはまるで違います。
 と気が抜けてるとこでスカッと迷ってしまった。──本日の宿は西門。北門で机場行きはここで乗り換えと表示が出てる。そうか,台北駅で乗り換えが要るんでした。
 auの世界定額は,ラッキーなことにこの時,台湾では期間限定で無料でした。
 よし,とにかく西門に着いたぞ!

文革に遭わなかった媽祖様

▲2044西門の天后宮

度となく滞在した西門で,初めて天后宮を撮影する。2045。
 今晩はもう遅い。さらにその足でここへ直行してしまった。これも初めてでした。
2049王記府城肉粽
肉粽250
 そして──2100,ネット予約してた台北天禾旅店に投宿。渡されたカードには「台北日記旅店」とあって……ああ,あの西門中央街の店の姉妹店なのか。

▲2057天后内部

はり気になって,天后宮を参観しました。
 台湾の媽祖様は,きちんと安定して祀られてます。文革がなければ,海峡を隔てただけで,同じ信仰の手触りがこうも違うものか。

▲上部。提灯の釣ってある天井の修飾も細やかです。

149阿宗麵線
小250
 久しぶりに行列に並んでみました。でも間違いないなかった。
 これはやはり,漳州の味です!
 出汁の薬臭い深み以外に,ホルモンの使い方も,漳州のゲテモノ肉使いと同じ感覚です。地形も国体も違えておれど,味覚は陸続きなんでした。

西門セブン前のレシート収集人


曜日夜の西門です。
 でもこの繁華街には,ライターとか売ってる貧相な店がないじゃないか!──と仕方なく,煙草吸いの海外必須品・非常用マッチを取り出すと──おおっ??ホテル・タイペイとあるぞ??いつの間にそんなとこのライターを?まさか,と落ち着いてよくよく見たら。
 松山の温泉宿「ホテル泰平」(たいへい)のマッチに,ローマ字書きが書いてあったのでした。

▲西門表看板に「悪霊退散」?

てさてライター,ライター。どこへ行けばあるかな?露店にないかな?
 あ!萬国卤味の前のセブン!
 EASY CARDで買えました。微信買いみたいにドキドキしなくて,やっぱり香港の八達通や台湾の方が便利です。
 ところで──ここの出口でレシート集めてる人。この人って何年も前からずっといるんだけど,ホント,その紙切れをどうするんだろう?

▲GM.衛星写真:鎮海路(上部)~華僑博物館(右)

■小レポ:鎮海路から見えた石垣は何だったのか?

 話は厦門に戻ります。鎮海路から東や南にはやや小高い郊外が広がるだけ,という感覚だったので,「石垣」が見えたと書いている自分の記述と違和感がありました。
 GM.(上記)を見るだけで,基本,解決しました。鴻山公園,防空壕トンネル(→m084m第八波mm石浔巷/■レポ:トンネルはどういう時空に造られたのか?)のあるあの丘陵です。どうもその緑地が,公園外の南側にも伸びている格好らしい。
 でもなぜそこに石垣があるのか?と調べ進むと──また鄭成功だったのでした。
 厦門志に曰く──鴻(hong2)山の頂に寨(≒砦)あり。相伝えるところでは鄭氏の築くものなり。石に「嘉興寨」三字を刻めり。今は廃れし。

鴻山頂寨相傳為鄭氏所築。石刻「嘉興寨」三字。今廢。
廈門志 卷二254 – 中國哲學書電子化計劃

1 鴻山の地形:日光石より高い見張り台

 まず注目すべきは,ここの地形です。

園內最高點海拔125米,比對岸鼓浪嶼日光岩還高
廈門鴻山公園遊記,秀麗清新的好地方 – 每日頭條

──(鴻山公園)園內の最高点は海抜125m。対岸のコロンゾ島の日光岩よりさらに高い。
 鄭成功が展望台を設けたとされる日光岩より高所にある。眺望の方向はともかく,見張り台としては鴻山は劣るものではなかった。

鄭成功收復台灣前訓練水兵,主帥台指揮大旗就設於鴻山,盡收眼底的日光岩僅是二級傳令台。
※ 今日頭條/玩轉廈門甭忘了鴻山,鴻山織雨與鴻山寺,神仙之地!

 出典不明ですけど,戦術的に考えるなら当然そうなります。両地点が並び立つ見張り台で,かつその間の連絡を取っていた,という運用。つまり,どちらかと言えば日光石が「二級傳令台」(二級伝令台)の置かれる中継地点として,従の位置づけです。

明末清初,這裡是鄭成功屯兵的山寨,叫嘉興寨,遺址尚存。後人還在半山巨石上分別刻了「延平郡王園」五個摩崖大字。[前掲每日頭條]

 これも出典が定かでないけれど,鄭成功はここに兵を駐留させ,それが遺構になって残ってる。巨石に「延平郡王園」の五字が刻まれるという。
 ではこの場所は,単なる高台か?と言えば,それだけだと公園として保護されるはずがない。そう言われれば一度見かけた記憶もあるのですけど──ここには寺がありました。それも古刹です。
▲やや高所から見下ろした鴻山寺付近の状況

2 鸿山寺の歴史:伝・南北朝創建?

 行き損ねてますけど,厦門で一番古いお寺は南普陀寺。
 唐末の創建。本尊は弥勒仏で,四天王を従える。

1、南普陀寺
始建時間:廈門南普陀寺始建於唐代末期,當時稱為泗洲寺。
(略)其中,天王殿位於寺院中軸線的最前端前殿正中供奉笑容可掬的彌勒佛,兩側立有怒目環視的四大天王,殿後有韋陀菩薩覆掌按杵而立,威武異常。
(略)
5、鴻山寺
始建時間:寺建於明萬歷年間(另有一說建自南北朝)
地理位置:鴻山寺位於廈門市思明區思明南路305號(靠近廈門地鐵1號線鎮海路站)
※ 尋夢旅遊/廈門思明南路寺廟眾多,有南普陀、鴻山寺等,盤點路上的5座寺廟 尋夢旅遊

 対する鴻山寺は,確実には明万歴代の創建という。厦門の寺は大体この時期に出来てて,厦門港が交易に頻用され始めた時期と一致する。けれど鴻山寺については,一説には南北朝期に出来たともされます。
「鸿山织雨」という古い成語があって,はっきり記したものがないけれど,どうもこれが古さを疑わせるらしい。下の記述でも「第二座寺院」──二番目に古い寺,という言い方がされていて,これは複数散見される表現です。
 ただ,その意味はよく分からない。

原在鸿山与虎头山夹峙之间的山坡上,殿堂毕具,雄伟庄严,是厦门本岛以寺见称的第二座寺院。寺后有古道通向南普陀寺以东海滨地区。两山夹峙之间,四面通风,每当雨季,横风吹雨,雨丝交穿如织,故有“鸿山织雨”的奇观,为厦门八大景之一。鸿山公园_百度百科

 どうやら,南普陀寺の山塊と鸿山寺のそれの間が窪地になっているために,風が複雑に動き,雨が降ると「雨丝交穿如织」──雨の糸が織物のように交差する,と表現される独特の情景を醸すらしい。
 おそらく写真には撮れないでしょう。雨天に行かれる方がおられたら,ご覧になって頂ければ。
 それはそうなんだけど,鸿山寺の歴史が謎に包まれるのは,清代まで滅びかけていたかららしい。

寺毁于清初“迁界”,乾隆间(1736—1795)复建。清季于两山之间辟建“镇南关”,降坡开辟通衢大道,“鸿山织雨”奇观不复再见。
清光绪十五年(1889),漳州南山寺喜参和尚应邀来寺住持,重修鸿山寺。后来喜参和尚又转往重兴南普陀寺。民国初年,蒋以德居士独捐巨资重修殿堂楼苑。民国十三年(1924),转逢和尚献南普陀寺为十方丛林时,鸿山寺随之收为南普陀寺的下院。[前掲百度百科]

 途中,何度か手が加えられて維持された後,本格的な再興は清の時代,1889(光緒15)年になってから。漳州南山寺の喜参和尚という人が住職になった時だという。この時,この方は南普陀寺の再興も一緒にやったとあるから,厦門港の興隆に合わせ,地元の仏教徒から両古刹の復興を請われたのでしょうか。
 民国初年に蒋以德さん,おそらく経済力のある仏教徒が巨額の資金を出して今の原型を造ったらしい。この時に鸿山寺は南普陀寺の「下院」になったとあるから,それ以後の経営は両寺で系列化されているようです。
 けれど──厦門港が栄える千年も前に,ここになぜ寺が築かれていたのでしょうか?鄭成功の練兵場になっていた後代から想像すると,厦門港は唐~南北朝の頃,つまり第一次の大航海時代にも何かの位置を占めていた時代があった,ということなのでしょうか?
▲清末民初の鴻山寺写真
※ 每日頭條/中國寺廟密度最大城市:廈門寺廟百年老照片首次曝光!

■レポ:太平洋を越えたアジア人が造りゆく国

 よく知られているとおり,アメリカでの黒人奴隷制度廃止は,南北戦争に勝利したリンカーン大統領が1863年に出した奴隷解放宣言によります。
 理念の高いこの国の初期設計たる独立宣言(1776年)には,当時既に問題視されていた(ex.仏国民公会:1794年奴隷制度廃止宣言,英:1807年奴隷貿易禁止法制定)奴隷制廃止が明文化されていました。

アメリカ合衆国では、独立宣言の草稿には奴隷制度廃止が入っていたが実現せず、黒人奴隷制問題は大きな課題となった。1787年の北西部条令によって北部諸州では奴隷制が廃止され、1808年には合衆国全体で奴隷貿易は禁止されたが、南部の奴隷制度そのものは廃止されず残っていた。
※ 山川 世界史の窓/奴隷制度廃止

 アメリカは,理念の国である以上に資本主義の国です。新興国があの巨大な大陸で勃興するのには,膨大な労働力を必要としたわけで,それは構造的に経済に織り込まれざるをえなかったのでしょう。事実,19世紀前半に奴隷制が最も拡大した国の一つがアメリカでした。

全体をまとめるために13州は小異を捨てて大同につかねばならず、このため奴隷制という「オーガニック・シン(組織的な罪)」(信仰復興運動の中で生まれた造語)にいらだちを募らせていたニューイングランド人も、しばらくの間これを見逃さざるを得なくなる。こうして、以前から奴隷制に激しく反対していたアダムズさえ、この問題に触れた一節を独立宣言から論議抜きで削除することに同意している。
アメリカ連邦政府の成立

 初期段階,アメリカという国にとって奴隷制というのは,とても重い枷だったようです。思想史の先鋭を行く国としては理想主義者の誰もが否定したかったけれど,新興国と広大な国土がそれを許さなかった。

気のめいる話だが、ヴァージニアの奴隷の数は、1755年から82年の終戦までの間に倍増していた。もっとも、これは主として自然増と寿命の伸びによるもので、南部の奴隷が健康で少しは快適に暮らせるようになったという一面がある。この地域の奴隷は、アフリカの同胞の2倍、南アメリカの1倍半長生きだった。
それにもかかわらず、戦争を終えた南部は経済的に貧しくなった。(略)少なからぬ数の南部人が、富を取り戻す唯一の方法は奴隷制をそっくり復興し、その拡大を急ぐことだと感じていた。(略)奴隷所有者たちは、当時は次第に自由になっていた西部攻略に乗り出し、奴隷をともなってケンタッキー、テネシー、サウスカロライナ、ジョージアに進出する。このため、奴隷制をとる南部は、木綿産業が大革命を迎える前に膨張していく。奴隷の需要がふえ、さらにアフリカから直接輸入された。その数は1783年から1807年にかけて、合計10万人に上った。

 1863年という時代は,中国からの移民が爆発的に増加した時期と重なります。移民先のメインは最も新興地域だった西海岸。誰が意図したというのでなく,アメリカの産業構造がアフリカ発に代わる労働力供給源を必要とした,と捉えるのが正確だと思います。

1 19世紀:アメリカに渡った中国人

 通史で見ると,2つのターニングポイントを持つ格好で展開してます。
[トップ①]
1870年代 中国→アメリカ移民減に転ず
1882年 中国人排斥法制定(連邦法)
[ボトム]
1979年 米中国交正常化(これを機に再び急増)

 混乱と貧困から逃れるために多数の中国人がアメリカに渡ったが、1870年代のアメリカの不況を背景に、低賃金で働く中国人労働者に対する迫害が多発した。それに伴い中国からの移民数も1870年代には減少に転じた。中国からの移民の多いカリフォルニア州など西部諸州の連邦議会への働きかけによって、1882年には、中国人排斥法が連邦法として制定された。それによって、中国人労働者がアメリカには入国できなくなった。限時法として制定された同法は、1904年に恒久法となり、1943年に廃止されるまで効力を持ち、中国人労働者の入国を阻んできた。アメリカ側から見れば、白人労働者や労働組合に対する保護政策である。
 第二次世界大戦中に同法が廃止された後も増加しなかった移民数は、1979年の米中国交正常化を機に急増した。中国では開放路線に転換していく時期である。
※ 杉渕 忠基「中国系アメリカ人概説–アヘン戦争から中国人排斥法廃止まで」亜細亜大学学術文化紀要 (14),2008  

 移民のプッシュ要因は,既に見た通りの清末の混乱です。そして,アメリカ側のプル要因は,ゴールドラッシュに象徴される西部の爆発的な開発でした。この両者がピタリと重なった。

 アヘン戦争によって華南は疲弊していた。また広州は、数世紀にわたり保持してきた海外貿易独占権を失った。茶葉の貿易は広州と上海が半分ずつ分割することになった。そのため広州では、職を失った1万人の運搬人夫と船頭の多くが、クーリーとして労働契約を結ぶほかなかった。中国人労働者が英領ギアナに現れるのは1844年である。1847年から1862年の間にアメリカ船がハバナに運んだ中国人労働者は毎年6000人にのぼった。[前掲杉淵論文]

 相当に苛酷な労働環境だっとらしい。キューバでの2百人に1人という自殺率は異常です。
 冒頭の奴隷制廃止の流れでよく考えると当たり前で,産業構造そのものは変わってないところに,新しい労働力を入れればそうなる。それを,一旦増えた後に削減しようとしたんだから,移民側からすると無茶苦茶な変動にさらされたでしょう。

大農園での労働は「新奴隷制度」と言われるほど過酷な労働であった。1860年代のキューバにおける自殺率は、10万人に対し、中国人500人、奴隷35人、白人5.7人であった。過酷な労働が国際的に報告されると、各国はクーリー貿易禁止に動いた。イギリスは1856年、米中間を航行する旅客船で中国人契約労働者を捜索できる法律を制定した。アメリカは1862年、クーリー貿易にアメリカの船舶使用を非合法化した。[前掲杉淵論文]

 アメリカ側の雇用は,金鉱の他に大陸横断鉄道の建設があった,と記述されてます。ただ,「怒りの葡萄」に書かれるような白人の流れもあったわけで,職の奪い合いが発生し,これが反感に繋がっていったのでしょう。

 19世紀半ば、クーリーとして中南米へ向かう中国人の流れに加えて北米に向かう流れもあった。中国人をアメリカ合衆国に向かわせた、アメリカ側の要因は2つある。1848年のカリフォルニアでの金鉱発見と1860年代に活発化する大陸検断鉄道建設である。アメリカは、拡張した領土の東西を結ぶことによって、経済活動の活性化をめざしたのである。その鉄道建設に中国からの移民が大きな役割を果たした。が、雇用者に有利な中国人の低賃金労働は、白人労働者にとっては、自らの生活を脅かすものであった。[前掲杉淵論文]

百年前の西海岸での中国人

 客観的に言って,杉淵さんは極めてフラットに情報を整理されてます。アメリカ側の事情も汲んでる。
 にも関わらず,「差別」などという語では言い尽くせない生活が19世紀末の西海岸にはあったようです。

 1850年代にはサンフランシスコの中国人女性の85%が売春婦だったという。1870年にはカリフォルニアには3536人の中国人女性がいたが、その61パーセントの職業は売春婦であったとされている。中国から無理やり連れてこられた女性が多かった。[前掲杉淵論文]※出典 17)Ibid..98.Takaki.40.
Ibid=9)RonaldTakaki.Strangers from a Different Shore:A History of Asian Americans.(Boston:Little Brown and Company,1998)

 経済的格差のボーダー上で,例えば現代でも国境の町でまま見られる現象です。移民の国・アメリカの西海岸は,当時,まるごとそういう状況にあったらしい。
 さらに次の記述は,中国人が当時勃興しつつあった左派勢力への暴力装置として,おそらく資本側に組織化されていた傾向もあるようです。日本の右翼と同様,また韓国でデモ潰し専用集団が造られたように,その後の中国マフィアなどはこうした経緯で生まれてきたものかもしれません。
 ただこの場合は,それによる敵意の醸成が,人種間でなされた。つまり,差別感情の増圧装置として働いた,という点が怖い。

1885年、ワイオミング州ロックスプリングズで、中国人28名が死亡し、15名が負傷するという暴力事件が発生した。賃上げを要求する白人坑夫のストライキへの参加を中国人坑夫が拒んでいた。それが、暴動の直接的な原因であった。この暴力事件に先立つ1875年、ユニオン・パシフィック・鉄道のスト破りとして中国人が導入されたことがあった。そのため、人種的敵意が、まだ、わだかまっていた時期でもあった。[前掲杉淵論文]※ 36)報告書の内容は、Voices,48-54.(Originally,U.S.House Report(2885-1886),49thCongress,1st Session.no.2004.28-32)

 これらの結果,中国人を具体的に町から退去させる策が,地方発の行政施策として行われたらしい。
 陰での差別や嫌がらせのレベルと,社会や法のレベルで制式採用された追い出しは次元が違う。さらに,下の記述の「ロックスプリングズ」モデルは行政施策レベルですけど,それが「タコマモデル」──行政と暴徒の連携にまで進んでる。こうなると,既存社会による総力戦の体です。
 移民国家・アメリカはこの段階で,また一つ,別の次元に入っていった,という感があります。

 中国人を追い出したロックスプリングズを範にして、ワシントン準州においても、炭鉱のある町では、中国人追い出し計画が進んだ。シアトルでは中国人居住地域が焼き打ちされた。タコマ市では、市が、1885年11月3日までに、中国人に市からの退去を命じた。その日には、市長、保安官、裁判官数人が数百人の暴徒を率いて、中国人地区に入って行った。中国人たちはオレゴン州ポートランドまで貨車で運ばれた。2日後、タコマ市の中国人地区が焼き打ちされた。この「タコマモデル」が他でも多く採用されたという。(略)フアン(引用者注:ニューヨークの領事フアン・シー・チュエン 黄錫詮)は、連邦議会に報告書を提出している。[前掲杉淵論文]※ 37)Kwong and Miscevic,108-109
K&M=10)Peter Kwong and Dusanka Miscevic,Chinese America:The Untold Story of America’s Oldest New Community(NewYork.The New Press.2005).22.

 アメリカの都市居住の特性を表す言葉に,人種のモザイクという語があるけれど,以下の記述によると,少なくとも中国人の場合,それは以上の状況からの「自衛」の意味を持っていたという。興味深い考察です。

 このような事態の中で、中国人は、西部フロンティアの狭く、孤立した地域から、より広い都市部に移動し始めた。中国人が集中して住むことで安全性がより確保されると考えたからであった。この時期、西海岸のサンフランシスコやロサンゼルスなどの都市にチャイナタウンが形成されたという見方もある。[前掲杉淵論文]※ 39)Ibid. Ibid=前掲Kwong and Miscevic

 チャイナタウンはこうして生まれた。──長崎の唐人町なども連想されます。アメリカでは,防壁を築くことは許されなかったでしょうけれど,彼らは許されればそうしていたでしょう。香港の圍の発想の延長です。
 それともう1つ,中国人の移民は連邦法が事実上禁じてからも,次のような手法では継続されたらしい。

 1882年の中国人排斥法成立後、にせ親になる、あるいはなってもらう手口が現れた。商人とその妻は合法的に入国できるので、その夫婦がアメリカで産んだ子として、密入国させる方法である。男の子を密入国させる場合が多かった。
 1906年に新たな事態が生じた。サンフランシスコで大地震のあと起こった火災により移民関連の書類が焼失してしまったのである。そのため、地震発生時にアメリカにいた中国人は、アメリカ生まれであると主張できた。合衆国憲法修正条項第14条ではアメリカで生まれた者は市民権を持つアメリカ人であるとされている。[前掲杉淵論文]

 1882年の排斥法制定から1906年の地震まで24年も経ってます。それほどの期間,この裏ルートは廃れることなく維持された,ということでもあります。遺伝子照合もない時代に実子かどうかの確認など,確かに無理だったでしょうし……。

 市民権を持つ中国系アメリカ人男性の子供として、米国外で生まれた子供に移民資格申請を認めた1855年の法律条項が利用された。アメリカの市民権を持っていると主張する中国人は、中国で生まれた自らの子供としてアメリカに入国させる権利をもつようになったということである。子供の名が移民局で登録され、登録された子供は移民資格を得た。不正の証明書が、市民権のある中国系アメリカ人とアメリカへの移民を願う中国人との間で売買された。これによって、移民資格のある子供になりすましてアメリカ入国することが広く行われた。このような手段で入国しようとする男性は「ペーパー・サン」と呼ばれている。費用は1歳につき100ドルが相場であった。[前掲杉淵論文]※ 43)Ibid。138;『華僑・華人事典』「ペーパー・サン」の項。
Ibid=18)可児弘明、斯波義信、遊仲勲編『華僑・華人事典j(弘文堂)

 だから,中国移民数は正規の統計から姿を消し,裏ルートで継続されたと見ていい。裏だから管理されておらず,規模は分からないけれど,上記のような排斥状況から日中戦争時のあの親和度にまで至ってることを考慮すれば,相当数が流入し続けたのではないでしょうか。

2 19世紀末:アメリカに渡った日本人

 中国人の渡米ブームの後を継いだ,と言えば聞こえがいいけれど,アメリカ産業から言えば労働力の供給源とされたのが,日本だったことは記憶しておいた方がいいと思います。

 1910年のセンサスから日系人は中国系を抜いてアジア系のトップに躍り出た。これは1882年の中国移民排斥法により,アジアからの移民が日本人にとって代わったことに因る。1980年に再び中国系に1位を譲るまで,日系人は長らくトップの座を守った。※ 村上 由見子「アジア系アメリカ人文化史の考察 : 移民史にたどる文学と演劇の流れ」アメリカ太平洋研究,2002

 一世紀です。
 もちろん,この間に太平洋戦争を挟んでる。原爆も落とし,尾とされてる。節操がないと言えばお互いに節操がないけれど,双方の国民性,そして産業構造と経済的位置が,我々の認知する以上にマッチングしてた両国だったのでしょう。
▲表1[後掲村上論文]1910年と1920年アジア系人口比較(含ハワイ)

 1920年には,中国人の3倍規模に達してる。
 この時期の日本は不況と飢饉に喘いでる,とは言え,この数字には驚きます。
 次の表はカリフォルニアだけのものですけど,年別の推移です。1923年の関東大震災の辺りで,むしろ天を打ってます。つまり,天変地異が原因ではない。

▲表2[後掲村上論文]二世の出生数の推移(カリフォルニア州)

 1910年から1920年の10年間で,他のエスニック人口は横ばいのなかで,日系とフィリピン系は激増している。フィリピンは米西戦争終結により1898年にアメリカに割譲されたのち,ハワイへの労働移民に始まり,10年代にはアメリカ本土へも渡ってくるようになった。1930年のセンサスではフィリピン系は10万人を越えることになる。一方,日系人増加の主な理由は,この時期の日本からの写真花嫁の呼び寄せと,二世誕生ブームに因るものである。
 単身出稼ぎ意識からアメリカ定住へと移った日系移民は,アメリカに腰を据えて家族を形成していくことになる。そして二世の出征はちょうど1910年代から1920年代,日本で言うなら大正期(1912-1925)に集中している。[前掲村上論文]

「日本からの写真花嫁の呼び寄せ」という話も初めて聞きました。何を間違ってそんなブームが巻き起こったものでしょうか?
 にしても……アメリカ側から言えば,太平洋のこちら側からではなく向こう側から労働力を獲得する,という手法は,中国人に対してとさほど変わらない。それならば,なぜ漢民族をそこまで無理をして排除し,日本人とフィリピン人に「切り替え」たのか,そこはどうも分かりません。
▲表3[前掲村上論文]アジア系人口の内訳(2000年センサス結果)

 さらにもう一つ謎がある。それほど根強く続いた,日本人と海外雄飛先としてのアメリカが,1980年代に廃れてマイナスに転じる。これは何でしょうか?
 日本の経済成長の推移ともリンクしていない。それならばバブル崩壊後にはブームが復活するはずです。
 バイタリティーの低下がうんぬんと,説教めいた説明もできるかもしれないけれど,もっと何らかの構造的な要因があるように思えます。
 だから,次に述べるようなアメリカのアジア化時代がもし来たとしても,初のアジア系大統領になるのは漫画と違って日本人ではないでしょう。

▲かわぐちかいじ「イーグル」主人公 ケネス・ヤマオカ 最終巻で日系初の米大統領となる。

3 21世紀:アメリカのアジア化

2055年にはアジア系が移民人口で最大となる見込みである。つまり、米国はヒスパニック化の裏側で急速にアジア化が進んでいるのである。(略)
 2000年から2015年にかけてアジア系米国人は、1190万人から2040万人へと72%もの増加率で急増加した。これは同時期におけるヒスパニックの60%という増加率を上回っている。中でも、ブータン、ネパール、ミャンマー系が2倍以上に増えた。一方、日系人とラオス系はアジア系の中で最も低い増加率であった。
※ JB press/アジア系米国人が急増、それなのに日系は没落?
アジア人がアジア系大統領を選出する日
2017.9 主な数値出典:米国国勢調査局、ピューリサーチセンター

▲図1 米国内のアジア系人口は2000年以来72%増加
米国内で勢いを増すアジア系―彼らと協力することの意義 | 日米グループ-新着情報 | 笹川平和財団 – THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION

 実際に起こってるのは,上のグラフのような推移に,過ぎないと言えば過ぎないので,過大評価するのは危険です。
 ただ一方で──15年で一千万ずつ増えれば,2055年には2千万が5千万に,つまり現アメリカ人口3億の1/6を占める。
 1.7倍を4乗する計算をすると8倍以上で1.6億,つまり人口の半分になる。
──とそこまではアメリカの統計サイドも予想はしてないけれど,公式予測でも次のような数字を算出してます。

▲上図:2008現在 下図:2050予想(アメリカ国勢調査局)

 つまり,アジア系と同程度の勢いでヒスパニック系移民も増えるから,アジア系:黒人:ヒスパニック≒1:1:3となり,これの総数が過半数を占めて白人を上回る。
 トランプ時代というのが,白人至上主義をかろうじて謳歌できた最後の時代,とノスタルジックに思い出される状況がやってくることになるのでしょうか。

 全体の勢力バランスとしては、中国系(24%、490万人)、インド系(20%、400万人)、フィリピン系(19%、390万人)が三大勢力である。それに、100万人以上のベトナム系、韓国系、日系が続くという形になっている。[前掲JB press]

アジア化に伴うアメリカ政治勢力の交代

アジア系の州議会議員もまた、ここ数年大幅な増加傾向にある。2012年に108名だった全米のアジア系州議会議員の数は、2019年には150人までに増加した。[前掲笹川平和財団]※ 出典:6 全国州議会議員アジア太平洋系アメリカ人幹部会(National Asian Pacific American Caucus of State Legislators, NAPACSL)理事のアイリーン・カワナベ氏への聞き取り(2020年2月19日)。
▲図3 2012年~2019年のアジア系アメリカ人州議会議員数の推移[前掲笹川平和財団]

全体としてアジア系の州議会議員数が増加する一方で、ここ数年で共和党系議員の数は急激に減っており、これは前述のアジア系全体における民主党支持の傾向を表していると言える(図3参照)。[前掲笹川平和財団]

 非白人系に民主党支持の傾向が強い,というのは言い古された言説ですけど,意外にもアジア系は共和党支持の傾向が従来は強かった。19世紀のデモ潰しの時代の話ではなく,20世紀末までそうだったらしい。
 その転換点はオバマだとする見方が強いようです。

歴史的に見れば、1980年~90年代はその多くが共和党支持であり、彼らの支持が民主党に移ったのはオバマ期以降である。アジア系は1992年の大統領選挙において、半数以上がジョージ・W・ブッシュに投票し、1996年においても同様に、共和党候補のボブ・ドールに投票した。この流れを変えたのはオバマ大統領である。2012年の大統領選挙では、民主党はエスニックマイノリティからLGBT、シングルマザーなど、雑多なグループを一つにまとめることに成功した。長らく共和党支持であったアジア系は、当時多くが民主党支持に乗り換え、アジア系全体の76%がオバマを支持し、さらに、2016年も引き続きヒラリー・クリントンを支持した。[前掲笹川平和財団]※出典:3 Avik Roy and John Yoo, “The Republican Party Needs Asian Voters”, National Review, March 7, 2019, , accessed on March 9, 2020.

 ただ,全体的に言えばそうなるけれど,アメリカは広い。地域的なバイアスも相当大きいらしく,移民増加率のトップを地図に落とすと以下のようになるという。
▲上図:1960 下図:2013 移民人口のうちの最多出身地(Pex Research Center 2015,”Modern Immigration Wave Brings 59 Million to US,Driving Population Grows and Change trouth 2065″)

 アジア系の人口増加は東海岸に偏っている。
 増加率トップを抜いただけなので全体傾向を見るにはもっと詳細なデータが必要で,ヒスパニック系がメキシコ国境に近い州に多いだけでアジア系はそれより均一な分布をとるという可能性もあるけれど──前記のアメリカの非・白人化は全土で斉一に進行しているわけではない,ということは言える。
 移民国家として初期設定された国・アメリカが,その真価を発揮するのは,むしろ今世紀なのかもしれません。
 また,前記のアジア化の論者が匂わせるように,そうなったからと言ってアメリカが次第に親アジア系の言動を持つようになる,というようなことは期待しない方がいい。むしろ逆のような気がします。アメリカの言説は,本質的には親・白人のものではなく,世界性を持つものです。
 まして,中国を初めアジアからアメリカに流入している人々は,高度のエリートを多く含むわけですから──現在のアジア系の持つ,旧思想からの脱却のムーブメントが合流して,さらに「アメリカ的」なアメリカが出現するのを想定した方が近いように夢想します。
 それはどんな国として出現してくるのでしょうか。

■メモ:啤酒鴨──ビール・ダック

 画像は載せません。なぜなら,幾つか掲載されてる画像は,やや艶が出てるだけで普通の肉の炒め物にしか見えないからです。
 あまり見映えしない。でもこれだけヒットがあるのは,それなりの味だからなのか,はてまたネーミングの奇抜な語感ゆえなのか。
 中国のプログには「湘菜」料理と書いてあるものもあるけど,日本のでは専ら四川料理と銘打ってあります。料理名としては「香辣啤酒鸭」と味覚を冠してあるものもあり,どうもこれは四川料理の類に属しはじめてからのようです。
 新しい料理ではない。

17世紀、清朝の康熙帝が江南へ行幸の際、思わぬ悪天候に見舞われてしまい、たまたま立ち寄った旅館で食事をする際、酔っぱらった康熙帝が地元の名物料理であるカモ煮込みの中にお酒をこぼしてしまった
※ ビールはオトナの隠し技!~香辣啤酒鸭・カモ肉の香味ビール煮込み~ | おいしい四川

──落とすなよ,康熙帝!
 ただ,ここには「啤酒」ビールとは書いてない。それに康熙帝がビールを飲んでたとは思えません,いや何となく。
 レシピとしても,本当にビールを入れるのもあれば,単に料理酒を入れるのもある。唐辛子をどんと入れるレシピもあって,その群が四川料理として発展した部類なのでしょう。
 食い逃した悔しい中華リストがまた増えました。どうしよう?
啤酒鴨的做法最正宗的做法 輕鬆做啤酒鴨 – 每日頭條