m105m第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m何度でも師大夜市

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(地点:師大夜市)

故漳州府・芝蘭発 旧泉州府・台北行き

北とは思えない緑の中を走ってます。
 17時ジャストに乗車したバスは,芝山の南を一路南東へ。
 まあまあ混んでる。最後部席の真ん中に陣取って,睡魔に身を委ね暮れゆく車窓を眺めやる。
 1702,橋を渡る。西へ?うねうね走るルートなのか?
 1705,あらら?ラッシュに捕まった?これはまだ士林の手前です。
 1707。淡水線の高架を潜ろうとしてる。この高架下って小さい市場があるんだな。
 1712,突然にスピード上がる。バス停,士林区行政中心。

何度目やねん師大夜市

を開けると──ちッ,中華路?!
 危ない危ない。思いっきり眠ってました。1739,バスを下車。西門近くだったと思う。
 やはり師大夜市は行っておこう。1752,地下鉄・松山新店線にて台電大楼まで動く。というか大楼が終点だと言ってるぞ?何で?……この短い行程,気を抜くとよく迷う。分岐もあるし,行き先も妙にちぐはぐ。
▲1814[師大夜市1]地球儀専売店。微妙なお洒落を狙ったのは評価するし,「擁抱世界地球離 越来越近」の語も深いけれど……買う奴いるか?

~てさてさて,夜市である。
 ここは,過去も何度となく訪れてる(下記参照)。
▼外伝06@猫空@(@_44_@) 師大夜市 (@_44_@)
▼外伝06@明潭@(@_55_@) 第四日@ 写真集(師大夜市) (@_55_@)
▼(@_77_@) 第三日@台湾/再六訪 青山番遥/師大夜市(@_77_@)

 にも関わらず,今回は何と11枚も撮影してます。アホやがな。いや,我ながらよく飽きないものです。
 1759,到了(到着)。

▲1818[師大夜市2]「DEVIL CASE 悪魔3C」──いや,どーゆー意味やねん?テイクアウトカフェらしいけど,味がデビルなのか?それともサービスか?

「前に来たここだ!」がない

し賑やかになった辺りで右手東方の路地へ迷いこむ。いつものコースです。
 そのはずなのに,デジャヴ感がない。店が変わってるのか,それとも同じ店が意匠を変えているのか。「あ,前に来たここだ」という感覚をまるで覚えない。

▲1821[師大夜市3]街頭に剥き出しで置いてある洋服屋がさらに増えました。

れが通行人やらマネキンやら。
 暗がりが多い。闇と闇との間に店がある。店の側もそれをうまく活かして計算してる,のだと思う。
 センスとセンスのぶつかる戦場でもある。だから奇妙な緊迫感もある。

▲1831[師大夜市4]奥に,皆さん上を見上げてチョイス中のカフェ。手前は古着屋だろうか?それともそういう風情の洋服屋?

韓国とも香港とも違う

体的に飾り気がない。型にはまったり,キャピキャピした意匠はなくて,いかにもクールです。
 その辺が韓国の雑踏と色彩が違う。ニッポンを感じない。何か独自な賑わいが,漢族圏には形成されつつある。

▲1822[師大夜市5]個人的に師大夜市の空気が撮れたなあ,と満足してる写真。左右の明暗の中に通行人,奥に怪しいブルーのネオン,道の真中には無機質な数字。

字の路地北側に勃興するかに見えた共同コーナーは閉鎖されてた。また何かに改造するつもりなのか,それとも単に人気がなくて閉めてるだけか。

▲1833[師大夜市6]やたらと明るい照明の店もあり。この無闇さもどうも計算されてるっぽい。

行人も,周辺の大学寮からちょっとサンダル履いて出てきました,という風体の気軽なのも目立つ。かと思えばめかしこんでデートしてるカップルもいる。皆さん好きにしてる。
 なのにどこか一つの空間が出来てる。香港とも手触りが違うのです。

若い知識層がラリッてない

▲1834[師大夜市7]「お,おばちゃん,それ着るの?」という品を選びかけてる危険な現場写真,だけど漢族はそんなんへっちゃら。

900永豊盛
原味白,全麦400
1915古早味緑豆沙200
 いつも買ってしまう。でもただのマントウです。そして荒削りな緑豆沙。
 こういうものがきちんと残ってる。師大夜市の凄みはこういうとこにあると思う。──顧客たる若い知識層のセンスが正常なんである。奔放さに開かれつつラリってなくて平常に回帰できてる。
 その証拠,のような気がするのは──これだけ店が入れ替わっても,三大卤味にはやはり行列が出来てる。

成長と腐敗の生々しさ

▲1836[師大夜市8]街路樹も結構ある。

の変転の早さもあって,ここはまるで林のような生き物感があります。成長するものや腐敗していくものが混在して,生々しい。

▲1850[師大夜市9]対面大学側の「印渡風情」。新しい雰囲気の店が多く残念だけど,観光客には入りやすい。

台湾 インド風情

面大学側西側に,トイレを探しに(またかい!)行ってみてると,この辺にも店がポツポツ増えてきてるのを見つけました。
「印渡風情」という店。インドというより東南アジアの食堂みたいな,気だるく寂れた雰囲気のインテリア。

▲1853[師大夜市10]「師大●」何屋なのか判別し難いけれど,どやどやした雰囲気が師大夜市っぽい。大学との間の車道沿い。

学と夜市の間の車道沿いの雰囲気も,メインロードなのに微妙に他にない色彩があります。
 激戦区なのでしょう。店の入れ替わりも激しい。やや大規模な店も多い。顧客の視線の厳しさが妥協を許さないのでしょう。

お爺ちゃんのパイナップルケーキ もう信仰です

▲1930[師大夜市11]大学側スタバ横の,まあ自然発生的な喫煙所。この辺りにはまた別の闇が深くてよい。

西門へ満ち足りて帰還。
 ただ,腹が下り初めてた。ちなみに帰宿後にはダイアレアに発達してました。どうやら緑豆沙由来の線が濃厚ですね。
 途中,國泰世華銀行ATMでの出金にひょんなことから成功する。素直にJCBを選ぶのではなく,CIRCUSを選んで黙ってカードを挿入すればいいらしい。
 そして,我が最高,と信じるパイナップルケーキを購入。
2016老爺手工烘焙坊
鳳梨酥300

▲[師大夜市の収穫]いつものマントウ。普通の旨さがお茶にベストマッチ!

■小レポ:古亭のことを初めて真面目に調べてみた

 新都心とは違う臭いのあった士林の深みに,前章巻末でハマッたので,前々から何度か訪れてハズしてきた師大から古亭辺りのことを,初めて深堀りしてみる気になりました。

「古亭」地名の由来三説

 まず,いかにも古めかしそうな古亭という地名から入ってみました。

「古亭」の名には二つの由来があり、ひとつは、太鼓をたたいてよそ者の侵入を知らせる安全のために設置された鼓亭を由来とするものです。もうひとつは、ここには多くの食物を貯蔵する「古亭畚」(穀倉)があり、自然と古亭と呼ばれるようになったと言われています。「鼓亭」か「古亭畚」か、どちらにしても百年前の台北城外の肥沃な田畑の風景を垣間見ることができます。
※(1)樂埔町Leputing

▲明治44年頃の古亭配電所付近

 通説はないようです。
 第一の「鼓亭」説は,入植当時の漢族の立場を幻視させます。ドラを叩いてその「侵入」を知らせようとした「よそ者」とは,方向からしても台湾先住民のことでしょう。ここに山手を監視する見張台があったわけです。
「古亭畚」説は,これに対して,農地開拓が進めた時代の情景を思わせます。上記では穀倉と訳していますけど,「畚」は「もっこ」とか「ふご」,土などを運ぶ道具を意味する漢字です。農地開発センター,といった意味合いではないでしょうか。
 さらにもう一説,別のものを見つけました。
▲古亭地府阴公庙(台湾台北市中正区板溪里同安街1号)
※ 維基百科/古亭地府阴公庙

古亭という地名は、一説に「孤壇」に由来するという。清朝の頃、台湾各地で地方政府によって行き倒れや無縁仏を祀る祭壇がつくられた。古亭駅の近くの路地には、資産家の家に仕えていて非業の死を遂げた侍女を祀る「古亭地府陰公廟」という廟が今も残っているという。
※(2)歴史を語り始めた街/特集・台北 ディープ散歩(雑誌・東京人) – 見もの・読みもの日記

 開拓の過程からの厳しい環境で非業の死を遂げた者を祀った壇,ということでしょうか。陰公の件は,それにも関わらず開拓者として前線に投入された移民たちの苦行を象徴させたものでしょうか。

台湾での「狐」崇拝の可能性

 また,これを「孤」壇と称した感覚も面白い。
 次のように,近世以来「悪役」化していった狐が,戦国末期の島津氏がほとんど主神と崇めたように,それ以前の時代には強い霊力を体現する動物とされたことは明らかで,台湾でも「善神」時代があったことを伺わせるからです。

知識人の間では中国伝来の,キツネが女に化けて人をだますという〈金毛九尾狐〉などの話が広まり,さらに仏教系の神である荼枳尼天(だきにてん)などの信仰が加わって,その霊力がしだいに妖怪的な内容をもつとイメージされるようになった結果であり,中世以来の変化の現れといえる。それ以前には,文献上でも《日本霊異記》に記された狐直(きつねのあたい)のように,霊あるキツネが人の妻となって強力な子孫を残したという伝承が恥ずるところなく旧家のあかしとして語られた。このような話は,近世に至るまで安倍晴明の出自を語る〈信田(しのだ)妻〉の系統の伝説として各地の旧家に伝えられた。
 遺跡として各地に残る狐塚,あるいは狐壇と呼ばれる場所は,古くからの水田地帯を見渡す高みにあり,昔の村人が稲作の神としてのキツネを祭った跡であろうと推定されている。
【狐】とは・意味 | エキサイト辞書

日本統治時代初期の電力開発と古亭配電所

▲台北高等学校時代の古亭周辺古写真。

 岸辺に立つのは学生らしい。とすると当時の台北高等学校生,つまり現在の夜市を育てている師範大学の生徒たちの先達です。
 ここに川辺があった。現在の新店渓ですけど,当時はもっと流量があり,かつ周囲に何もなかった,というのが伺い知れます。

台北には新旧二つの顔があり、西の淡水河沿いにある竜山、延平、建成、城中、古亭などの地域は、亭仔脚(ていしきゃく)(渡り廊下)の建物が並ぶ古い台北で
※(3)台北 | 日本大百科全書

 元々の古亭の集落がどの辺りから始まったのか,どの資料にも明らかにされていないけれど,由来から見えるようにここが農地から始まっているなら,特に中心と言える場所もなかったのかもしれません。
 その発展の核らしきものとして,近代にはっきり残るのは古亭配電所。つまり現在の師大夜市の最寄り駅名「台電大楼」が由来する電力インフラ施設です。
▲明治44年頃の古亭庄配電所

古亭庄は現・師範大学(当時,台北高等学校)のある羅斯福路付近(のちに古亭町)のこと。亀山発電所から送られた電力を台北市の各地に送電するために「古亭庄発電所」が建設された。
※(4)台北市中正区南部と大安区の日本統治時代の建築物

 配電所が出来たから町が栄えたとか,その労働者の町が起きたということは考えにくいけれど,これがランドマークになって,高等学校も置かれて若い層の姿も増え,市街が形成されたということになりそうです。
▲台北高等学校校門古写真

 日本統治時代には「錦町」と名付けられ,相当数の日本人が住んだらしい。ここに残存する日本家屋は,台湾総督府殖産局山林課の職員官舎だったものが多いという。当時は「錦町六条通り」とも呼ばれていました。

※ Taipei Travel/錦町日式宿舍群

■補考レポ:新店渓に木排は流れたか?

 以上の近世~近代の古亭の歴史を辿る中で,なお不明な点が三つあります。
①配電所がなぜここに置かれたか?
②陰公が仕えていた資産家はなぜこの閑散としたエリアにいたのか?
③台湾総督府山林課官舎がなぜここにあったか?
 これらを考えていくことで,古亭がその淡水河側出口となっていた新店渓という流域を浮き彫りにしていけそうなので,別途さらに検討してみます。

元・淡水河=新店渓

 まず①についてですけど,配電所なので,元の発電所からの電力中継点だったわけです。その「元」は亀川発電所です。

水力発電は、1つのフランシス水車を備えた亀山発電所で生産されます。 70 メガワットの容量。プラントは89メートル(292フィート)の総水頭の下で稼働し、年間発電量は2億2300万キロワット時です。最大流量は102m / s(3,600 cu ft / s)です。Wikipedia site:nipponkaigi.net
※ wiki/Feicuiダム – Felipe Osterling 台湾、新北市石碇のダム Wikipedia site:nipponkaigi.net

 新店渓上流には,翡翠水庫(翡翠ダム)という,湖としては台湾第二の水源がある。台北の飲み水のほとんどを賄っている重要水源です。
 新店渓は意外なほど大きい水域です。淡水河の三大支流の一,延長81km,流域面積921km²。支流,とされますけど次の写真を見るとそれどころではないと知れます。
※ wiki/新店渓
※ wiki/淡水河

▲台北市街。上面が北西方向

 淡水河系は,現在,大漢渓下流をメインルートにしているけれど,これと交差するように新店渓から現・淡水河を横切り,現在「二重疎洪道」と地図に書かれる故道を通るルートがあったことが窺えます。おそらく現代のどこかで,水利上,二重疎洪道を遮断して現・淡水河に一本化しています。
 つまりそれ以前は,大漢渓と新店渓という二本の河があって,台北はその複雑なデルタに形成された,と見ることができます。
 それほどに,かつての新店渓は現在想像しづらい大きな水域だった,とまず理解を改めておく必要があります。
▲第一代亀山水力発電所に残る台湾電力のロゴ

日本統治代最初の電力インフラ・亀川発電所

 古亭配電所は,この翡翠ダムに設けられた亀川発電所で生まれた電力を,台北都市圏に届けるための施設でした。水力発電のネットワーク・インフラとしては台湾最初のものです。

台湾でダムと言えば、八田與一が作つた烏山頭ダムが有名だが、台北深坑にある亀山ダムは台湾で最初の水力発電ダムである。台湾における電気事業は明治35年(1902年)に内地および台湾の企業によって台北の新店渓の落差を利用して台北に灯用水力発電を供給することであったが、明治33年(1900年)代に入り(略)これを官営とし(略)明治36年(1903年)に新店渓上流の亀山に発電工事を起し、明治38年(1905年)に660馬力(その後、1,000馬力まで拡張されている)の発電所を完成させている。
※ 台北州 (台北州文山郡) 亀山発電所構内神社 – 台湾に渡った日本の神々—今なお残る神社の遺構と遺物

 台湾独立後に造られた現・桂山発電所はその三代目施設にあたる。
 台湾電力株式会社は,現在の日本各ブロックの半官営電力会社よりももっと中央集権的な組織だったらしい。ただその源流は,1903(明治36)年に土倉龍次郎という人が設立した台北電気株式会社らしい。
 さて①の関係が長くなりました。③台湾総督府山林課の件に移ります。大規模車両輸送が考えにくいこの時代,この場所で山林経営をするとすれば,前々章(小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景)と同様の推定ができます。
 新店渓にも,放木排(木材流送)とそれを営む水上民がいたのではないか?
▲川にせきを造って水を溜め,一気に水門を開いて木材を流す「堤流」という方法。右上端に人がいるので大きさがわかる。(本別町歴史民俗資料館) 日本がダムを造った発想は,それ以前に行われた同様の手法から発案されたのかもしれません。

新店とはどういうエリアだったのか?

「新店」の名称は清乾隆(1736~95年)に遡る。ただし複雑な話ではなく,新しいお店,というそのままの意味でした。

新店的名称起源于清朝乾隆年间,距今三百多年前。相传当时来自福建省泉州地区的林某等人,在通往乌来山区的道路旁架设小屋,开设店面销售杂货或与山区原住民交换货品,由于商店没有正式名称往来旅人习惯以“新店”称呼之
新店区_百度百科

 興味深いのは「山区原住民交换货品」のお店だったということです。お店に名前がなかったから「新店」──「新しくできた例の店」と呼ばれ,それが地名になるということは,それしかないエリアだった。つまりほぼ先住民しかいない土地だった,という情景が前提になってます。
 もう一つ,「安坑」という古地名も存在します。これは元は「暗坑仔」──暗い穴の土地と呼んだのを,それじゃ不吉過ぎるから雅字に言い換えたものという。

新店区西半部俗称“安坑”;安坑位于新店溪西岸的山谷地区。此地区早期称作“暗坑仔”;起因于此处林木苍郁,后来因为觉得不雅,才被改名为“安坑”。[前掲百度百科]

 森林が「苍郁」(うっそうと繁っている)していて「不雅」,文明とは隔絶した世界だった。一種の樹海のような場所と想像できます。
 要するに,下流の漢族が対岸の福建から運んでいた木材が,たっぷりと存在していた。
 翡翠ダム建設前の水系について資料がありませんけど,水流も伸び,相当の水量もあったと推定されます。
 後代,この下流に総督府の山林所管庁があったということは,新店渓が木材を運ぶ水の道でもあった,ということが当然に予想されるのではないでしょうか。
 そしてそれは,日帝林業部局が目をつけるまで放置されていたとは考えにくい。最大の木材需要地だった移民都市建設地たる台北に,最も近い,空も隠れるほどの潤沢な木材供給地です。
 ②陰公の主家が,古亭の土地で財を成していたとすれば,やはりこの新店渓の水運によってだったのではないでしょうか。ここで運んで財になるものは,木材だったのでは──というのが結論になります。
▲ベニヒ(紅檜:タイワンヒノキとは別の台湾優先種)の巨木群(1999年阿里山での記録) かつての阿里山の森林は全般がこのような光景だったと推測されるけれど,現在は珍しい巨木群という。

放木排の存在の痕跡:北后宮

 とは言え実証の材料はありません。そこで大甲渓と同じ方法を試みてみます。
 新店渓で水上生活者が放木排を一定期間営んでいたとすれば,彼らは啓天宮や大鎮瀾宮と同じく媽祖廟を設けたと考えられます。そして同種の一群だとすれば,王爺か虎爺を密かに祀っている。
 該当の宮が,新店区安業街にありました→GM.
 新店北后宮。本尊は媽祖。虎爺も,やはり密かな雰囲気で祀られています。
▲北后宮の虎爺公の祭壇
新店北后宮 手機雲
 この場所は,次のような位置になります。
▲淡水河から新店北后宮までの位置図(黄色のマーク)

 新店渓が大きくS字を描く場所のすぐ下流です。水深を確認できなかったのですけど,おそらく川船が入って荷を積める最も上流ポイントだったのではないでしょうか。
 この上流,現・翡翠水庫までの水域は次のようになっています。

▲新店北后宮から上流水域

 河岸段丘が発達し,穿入蛇行による切り立った崖が散見される,と言われる水域です。このエリアの船舶による木材輸送は難しかったと思われます。
 加えて,前々章でも触れたように福建材に見せかける偽装がなされたとすれば,下流まで木材を流すのは目立ち過ぎます。
 つまり,
■現・翡翠ダム又はその上流
 ▼木材流送(放木排)
■新店北后宮
 ▼川船輸送
■古亭付近(陰公主家所在地)
 ▼福建船に積替輸送
■料館口等台北の港
といった水上輸送路が存在したのではないか,と推測します。
 日本の山林部局は,かねてより用いられていたこのルートを官営化した,ということだったのではないでしょうか。