m111m第十一波m闽南語 解夏を漂うニッポン語m朝天宮


本歌:韓国語タイ語ドイツ語冷蔵庫〔名古屋A〕

帰国日です。十日余とはとても思えない……。当然にして最後まで迷路です。
[前日日計]
支出1400/収入1770▼14[115]
負債 370/
[前日累計]
利益  -/負債 137
§
→九月二十三日(一)
0852大佳
咸豆ジャン
焼餅370
1005王記府
肉粽
籮蔔魚丸湯370
1116丸林卤肉飯
紅焼排骨湯
蕩ける貝の茹でもの
ゴーヤチャンプルー
豆干550(1320)
1800機内食400
[前日日計]
支出1400/収入1720▼14[116]
負債 137/
利益 183/
[前日累計]
利益 183/負債 –
§
→九月二十四日(二)


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路:バス)
※帰路は万華で下車

初めての西門バス乗車

西門→234・604・705路:華江高中
南京敦化路→donghua mainline?景福宮
→277大同大学
Wiki/台北市文昌宮
「観光本などでは孔子廟、龍山寺とならぶ、台北の『三大受験祈願のメッカ』などと紹介されている。」

……とか,色々とシミュレーションして朝を過ごした末──出発!
 表題からお分かりの通り,11日間に渡る旅行の帰国日なんですけど……そうそう一路平安な日には,当然というか,なりはしませんでした。
 0658,西門バス停。そう言えばここからバスに乗ったことってなかったなあ。そもそも台北でバスってあんまりなあ。
 ん?バス停ないけど?と思ったら,ここは車道中ほどのバス専用レーンを走る仕組みらしい。そこまでは普通に横断歩道で渡れます。
 ただ……こっちにはガンガンバスは着くんだけど……手に負えない。どこ行きなのか,全然わからない。時間には余裕がある。普通のバス停の路線を探そう。
 西門→265路:華江高中──これかなあ。

717,乗車。
 桂林路に右折。
 左折。龍山寺バス停を過ぎる。……ダメだ,やはり全く分からんぞ!位置情報オン。
 バスはぐんぐん飛ばしてく。そのまま南へ。西園路。
 0724。「華江高中(西園)」というバス停で降りた。括弧付きなので迷ったんだけど,まあ大体ここでいいはず。
 徒歩にて南行。あー怖かった。

朝ごはん ちゃんと食べた?

▲0729華江高中のバス停で待つ学生の群れ

飯吃了没有?」(朝ごはん食べた?)という文字。これが店名らしい。子どもがわんさか押し寄せてる。
 人気店はパン系ばかり。Qバーガーという店も流行ってました。

▲通りの早飯屋

や?いやいやいや,これはそういう店が数軒並んでて,かなり好い早飯タウンだぞ?──と思わず入りかけたのも事実ですけど,こういう子どもの客の動向はどうも読みにくく,勘が働かないまま結局スルー。
 けどまあ……この子たちは朝をこういう外食で食うんだろうか。家では作らんの?

なぜ台北朝天宮を目指したのか?

▲0732西園路二段196巷。いい雰囲気の路地です。

変な気を取られてたら……行き過ぎかけてた!
 少し戻って細い道へ右折。えっと,西園路二段196巷,ここだよな?きっと……。

▲周りの路地は複雑で細い。でもこれが旧参道,という雰囲気だけは残る。

故にこの時この台北朝天宮を目指したのか,正直,どうもよく分からない。
 沖縄X(航空写真)を試みた記憶はある。それは次のような感じで,あまり核になる部分も周囲と際立って異なるドット群もないんだけど──
▲台北朝天宮(指差し地点)付近の航空写真

般的に他と異なる流れのようなものを感じるエリアだったのです。
 今,この朝天宮を調べてもヒットする情報はない。なのでサンプリング地点として捉えてもらって,以下お付き合いください。

加蚋仔の天上聖母?

▲朝天宮の外観

段196巷を右折してすぐ隻園街に入ると──ありました,台北朝天宮。
 印象的な通りです。なぜだろう。何か完結してる感じがある。
 宮本殿は南面。右隣に焼却塔。

▲台北朝天宮の祭壇

籠には「台北朝天宮 天上聖母」。
 対聨は
左「母徳莫名冠古■」
右「聖功無極恭天■」
 建物の彫像はなかなかに細かい。

▲朝天宮屋根部分の彫刻

南並みに宮の密度の高いエリアなんでしょうか。西蔵路の南には雙福宮という宮も。ただしシャッター降りてました。
 と──この時は半分,空振りした気になってましたので……そそくさと華江高中バス停から帰路へ。

234,265,651,705……

▲0745朝の華江高中エリアの陰影

っと?234路,265,651,705……。
 あっ!265が来た──けど混んでて乗れません。次のもダメか?
 なるほどね,この方向はまさに居住区から都心への通勤路なわけです。しかも地下鉄の空白エリア。こりゃハマッたな。

▲0746いかにも地味だけど騎楼もきちんと稼働中

!234が来た!──と身構えてみても,バス停に止まればこれも無茶苦茶な満員バスであります。
 無理矢理乗り込むも……ダメだこりゃ!
 龍山寺でバスを降りる。やはり観光客には地下鉄ですね。

▲0801バス停にて

■レポ:高槻ではない加蚋仔を知らなかった件

 最初台湾に入った時期には歩き方とかガイドブックを右手に入ったもので──いかに自分の頭が「万華=龍山寺+西門」の陳腐なステレオタイプに毒されてたか,今さらながら思い知っております。
 この朝,全般的に何かの勘違いで行った南行路は,方向として,そのフレームを破壊する一撃となったのである。──加蚋仔の外輪を無自覚にさ迷っただけですけどね。
▲「加蚋仔 你不知道的萬華」──かなこ 君の知らない万華,という観光標語。てことはワシ,新観光名所に誘導されてるだけ?という点も含めて極めて挑発的に受け取れるCF。

今さらながら万華5エリア概観

かつて「艋舺」と呼ばれた萬華区は300年以上前から発展してきました。萬華の北部にある西門町、萬華中部の艋舺・下崁、萬華南部の加蚋仔・南機場と大きく5つの伝統的な地域に分かれますが、それぞれに歴史を持ち、独特の空気が流れます。(略)これらのエリアは、現在の行政区分では「西門、龍山、大理、西園、東園、青年」の6つになっています。
※(1)Taipei Travel/TAIPEI 2015冬季号 Vol.02—地図と歴史で故郷をひも解くかつての艋舺~ 今の萬華をご案内

 位置関係を押さえると,こうなります。
[北部](西門駅ライン)    ①西門
:現行政区分 西門
[中央](龍山寺駅ライン)②艋舺 ③下崁
:現行政区分 龍山・大理
[南部]      ④加蚋仔 ⑤南機場
:現行政区分 西園・東園・青年

 ③下崁の「崁」は,やや高台の土地,というほどの字義なので,艋舺からかつての半島状高地(→m094m第九波mm王記府/台北城建設前:岬の突端の艋舺)沿いの場所でしょう。ただ,文化的な異色度は未知数です。
 ⑤南機場の「機場」は飛行場。日本統治代末期,戦時中の軍用飛行場があった跡地という。台湾独立後は大陸からの新移民の村(眷村→m101m第十波mm晋徳宮/4 眷村:外省掛の発祥母体)になり,その名残たる南機場夜市が今もローカルな人気を博すという。ここは昔,軽く通った記憶があるけど,確かに古色ある好い町並みでした。
 さてこの日にかすめて歩いた界隈は④加蚋仔。
 発音はJia1la4zi ジャーラーズ ですけど,これは北京語のピンイン。下記の説が正しければ,元の読みは「ガラツ」でしょうか?
▲加蚋仔の集落史概念図
※ 台大創新設計学院/食養城市 人文農創

18C以前の加蚋仔

 台大作成の上記概念図が,この地域の歴史の概略として分かりよい。
 ここにはまず先住民の集落がありました。住んでいたのは巴赛族,集落名は「雷里社」と記される。

荷兰统治时期、清领初期皆记为巴赛族“雷里社”活动区域。
※(2)維基百科/双园区

「加蚋仔」の「がら」音は,何とケタガラン族の民族名から来ているというのが定説。意味は「沼泽」(沼地)という。

加蚋仔:由Ketagaran(凯达格兰)之略称gara而来,意思为“沼泽”。[前掲1]

 これは何を意味しているのでしょう。一つ考えられるのは,ケタガラン族という名前は漢族のつけたもので,そもそもその由来が加蚋仔の元の地形からついたもの,つまり「あんな沼地に住んでいる奴ら」といった蔑称だった,という可能性。
 だとすれば,漢族が初めて先住民に接触した土地がここ加蚋仔だった,即ち漢族が初めて間借りした先住民居住地だったことになります。

在汉人入垦以前,加蚋仔地区原为平埔族群凯达格兰族雷里社(荷语:Rivrijcd)的活动范围。汉人开垦后,雷里社南迁至新店溪对岸,与秀朗社合并为雷朗社[2]。

 先住民は,例によって母屋を取られる形で新店溪対岸に移った,というかおそらく追いやられた。上記記述ではその移動先が「雷朗社」だったことになりますけど,この辺りははっきりしません。
▲「台湾堡图中的大加蚋堡:艋舺龙山寺附近」
※ 維基百科/大加蚋堡 台北古地名

1740(乾隆5)年 加蜡庄設置

 記録される時点で最も古いのはこの1740年です。

1740年:乾隆5年属淡水海防厅淡水保大加蜡庄。嘉庆年间改隶淡水厅大加蜡堡。同治年间属摆接堡加蜡庄、大加蜡堡艋舺下崁庄、番社雷里社。
1879年:属台北府淡水县摆接堡加蚋仔庄、大加蜡堡下崁庄。[2]

「大加蜡庄」がまず設けられてます。その隣に「艋舺下崁庄」を区別した際,これらに対する先住民居住区として「雷里社」が命名されている。これが真実に近いのでしょう。

汉人开发最早可追溯到约1700年杨姓闽人入垦。本区多沙质土,土壤松浮,多生产甘蔗、花卉、蔬菜、薯瓜等供应艋舺、大龙峒、古亭等都市聚落,其中杨埤开设之糖廍,对发展有重大贡献。[前掲1]

 開拓の中心となったのは杨姓の一族という。出身は上記では不明ですけど,下記では南閩(福建南部:泉州~漳州)とされます。
 まず芋などの育ちやすい農業から開始されてるようです。
▲同 加蚋仔の旧集落図

加蚋仔の6集落「六庄头」

清康熙年间,有杨姓闽南人率先至此拓垦,其后迁入者日众,逐渐形成六个小聚落,即八张犁、后厝仔、下庄仔、港仔尾、堀仔头及客仔厝,有人称“六庄头”,但地方多称“五角头”,客仔厝因规模较小,又与堀仔头一样以杨姓居多,合为一个角头。
※(3)維基百科/加蚋子

①八张犁,②后厝仔,③下庄仔,④港仔尾,⑤堀仔头,⑥客仔厝の6集落が形成されました。これを「六庄头」と呼ぶけれど「五角头」という言い方もあり,これは最も小さい⑥客仔厝を数えない場合という。
 上記の集落図を見ると,斑のように延び広がって,中心やラインが認められません。やや高みのある僅かな尾根が何本か走っていたのでしょうか。
「客仔厝」の「客」は客家の可能性がある。ある時点で南閩人によって加蚋子エリアから追放されたのかもしれません。
 楊聖の多いのは⑤堀仔头だったという。ここが加蚋子の中心だったのでしょう。
 信仰の中心は楊聖廟と廣照宮。このことからも中核エリアは追認されます。

加蚋仔開發甚早,當地有兩大信仰中心,楊聖廟及廣照宮,廟會放炮時常可見於巷弄※(4)南萬華加蚋仔. 文/圖・杜亞訊 | by 台北城市散步 Taipei Walking Tour | Medium

▲同 東園街図

中核エリア:堀仔头=現・東園街

 東園街という地名は日帝統治代のものらしい。この時代の信仰のコアは「聚福宮」となっている。前記の二廟との関係は不詳。

而開闢於日本時代的百年老街「東園街」則是過去加蚋仔(南萬華)的主要道路。(略)老一輩的人都知道這句俗諺「加蚋仔人的金錶鏈比牛鞭還粗」(略)從「加蚋仔」的信仰中心土地公廟「聚福宮」出發
※(5)走入你不知道的南萬華「加蚋仔」!在銀樓、宮廟、理髮廳發現「臺北街角遇見設計」幽默藝術創作|MOT TIMES 明日誌

 この日に訪れた華江高中のエリアは,この東園街の北端,あるいはその延長のポイントだったことになります。
 艋舺とは別にこのエリアが開拓された,というのが,どうもしっくり来ない。港町,という配置でもない。農村の中心地のような場所だったのでしょうか。
 次の機会に歩いてみないと,どうにも実感が湧かないエリアです。