GM.(経路)
目録
忠孝敦化7番から北行
龍山寺からようやく観光客に似合いの地下鉄に乗車。0811。
0815,西門。やっと背中を車壁に取れた。よし!この際,忠孝敦化から北行してみよう。ここからなら,中崙市場の大きさにもよるけど南から入っていくルートが取れるはずです。
しかし……忠孝敦化か,懐かしい辺りだな。一時期,忠孝復興辺りを拠点にしてたことがある。確かにニッポン人的には快適な要素が揃ってるだろけど,何でそんなんに惹かれてたんだろ?
0823,復興站では客の1/4程度が降車。やっと空いてきたところですけど,0825,下車。
出口は北ならどれでもいいんだけど……7番出口に光武市場と書いてある。ここからにしよう。
0831,地上に出て北行開始。普通の道だけど微かにアップダウンが重なってる。右の道もそうです。
へえ?ファミマってトイレ借りれるんだ。
0837,高架下を強引に渡る。市民大道四段。凄い交通量!
えっ?日本料理店が並んでる? この辺りも日本人街化してきてるの?
勇気の要る横道
▲0840八徳路三段12巷へ。微妙ながら雰囲気がこの前後と異なる。
左手に八徳路三段12巷という落ち着いた通りが現れたので,左折北行。
本当に落ち着いた好い居住区という風情です。
いや?いやいや,何で落ち着いてる?もう市場が近いはずなんだけど?
▲0842八徳路三段12巷のさらに横道。進むには勇気が要る……。
敦化公園を過ぐ。0843。もう八徳路が見えてるぞ?なぜ雑踏がない?
裏手にはかなり年季の入った光景が垣間見られます。でも表通りは極めて閑静。
▲0846八徳路三段12巷のさらに横道。とゆーか果たして道なのかどうか……。
八徳路三段十二巷五弄
八徳路一本前でようやく右が華やぎだした。COFFEELOGYという思わず入りかけたいい香りの店から,右折東行。
当時はメモしてない。住所表示が出てなかったんだろうか。地図で確認すると,八徳路三段12巷5弄という道です。独自名がないということは,新しい道と思われますけど,これが良かった。
0852大佳
咸豆ジャン
焼餅370
やや小綺麗な,けれど造りは素っ気ない雰囲気の早飯屋を見つけました。入る。
常連さんはあんまり注文してない風だったのに──この豆ジャンが旨すぎ!マヨネーズみたいな味の膨らみは何なんだ?
腹が満ちた。さらに東行。
Okマート前のT字路に宮。
天上聖母とあるから妈祖宮です。額に「玉[上/日]」とあるのは意味不明。
管理人が祭壇横でビリヤード番組の視聴に余念がない。
この上下の2枚を見ても思い出すけれど……空気が何とも芳ばしい。
特に何もないのに,薫陶のようなものが立ち上る。大陸中国では壊してきた,日本では無害に修飾してきた,荒ぶる「古み」が台湾ではそのままに立っている。
夢と希望の中崙市場
0914,中崙市場──に着いてしまったぞ?
大陸中国や香港みたいな人間の数はついに出現しませんでした。ここはこの公設市場と,その周囲1~2ブロックにはみ出した小店群から成ってる,閑静な市場であったのでした。多少拍子抜けしつつ,中へ。
さ……寂しくね?
前回,全くの無人で,それは市場が休みだからか,はっはっは……と引きあげたんですけど,今回は無人とは言わないけれど,何だか悲しい。
いや?「美食街 請上2F」とあるぞ!こっちだよこっち,何を言ってるんだ,わははは……と二階へ!
とこの写真は美食街ではない。
二階は客足がらがら,日本語メニューが多いところからして期待できそうになかったので一階に戻りました。で,市場入口,というか南側奥手の祭壇にたどり着いたのである。
飯など目も呉れず神に詣る
「な,何を言うか!(何も言ってねーよ)
中崙市場と言えばもちろんここである。日本語メニュー店で飯なんか食う奴は素人である。
「北巡府 坤鳳宮」とある。何柱も祀ってあるようだけど赤字では天上聖母と文字。やはり媽祖です。
「慈侖宮 天上聖母」という額も。市場でこんなに媽祖を祀るもんなんでしょか?
▲佃煮にするほど山積みになってる中崙市場の神サマたち
目印にしてた,というか最後の望みにしていた名店・中崙魷魚[火庚](魚フライのスープ)は公設市場東の駐車場にあるらしい。でもこの時間にはまだ開店していない。
まあ朝ごはんはさっき食べたし,市場には飯を食いに来たわけではない。
──じゃあ何しに来たんだ?と訊かれると大変に答え難いものがある。というか,ここをこう,空振りしちゃったら,どうすればいいのかな?とひとしきり地図を精査する。
現在地は吉仁公園近く。も少し東まで進もうか。
いや,ここは西へ向かおう。一昨日の感動を再び──王記府じゃ!
──ってやっぱり飯じゃねーか!!
■地図遊び:中崙は尾根道の途中にあったか?
とボロクソに書いた中崙市場ですけど,プログによると賑やかなのは午前8時半頃だとも書いてあります。でもそんなに遅い時間でもなかったわけだし……何か巡り合わせが悪いんでしょか?
地元色はやはり強いらしい。飛び交う言葉の台湾語率も高いのは感じられました。
ここの創設は1960年という。伝統的な市場とは言えるけれど,歴史的というほどじゃない。
にも関わらず,この宮の集中度は何だろう?坤鳳宮の神サマ密度は,よく考えると,日本の地蔵を集めた場所に似てて,市場が出来る前にそこら中にあった祠を集合住宅化したものじゃないでしょうか。あと,嗅ぎ付けられなかったけれど,南京復興駅と忠考復興駅の間,強引に潜った市民大道の高架下には,中崙福成宮という宮もあるという。
※(1)中崙市場 | 台北の朝市散策 | 熱門特集 | 旅々台北
(2)大型スーパー大潤発近くの財神「中崙福成宮」 – 台湾さんぽ
1 地理的アプローチ:八徳路の斜道方向
昔から台北の奇妙な「斜道」に惹かれてきたけれど,八徳路の微妙な東西線とのブレもその一つでした。
以下は,傍証を見つけることのできなかった,地図上の遊びとしてご覧になっても結構です。
この八徳路のブレた方向の延長を描くと,こうなるように見えます。
▲八徳路とその延長線
西の延長は艋舺に当たる。東は台北盆地の脇の山塊に至る。
これは以前推量した,艋舺がその突端にある「岬」状の微高地なのではないでしょうか。
▲再掲:台北周辺の地形概略図を拡大し補助線を入れたもの
※ m094m第九波mm王記府/台北城建設前:岬の突端の艋舺
2「中崙」地名からのアプローチ
「中崙」という文字は,「崙」の中心部,と読めます。「崙」は古い言い方で「山」を指します。中国神話世界で世界の中央にあるとされる昆崙山の名にも使われ,そもそもこの山を表す固有漢字だった可能性もある漢字です。
八徳路が「艋舺岬」の方向と合致しているとすれば,その理由は,この道がかつて,大げさに言えば岬の尾根道のようなものから発展したからではないでしょうか。
そうすると,その中央部に位置する場所が,やはり大げさな言い方で「中崙」=中央高地と呼称される理由にもなり得ます。
ではここに媽祖宮が集中するのはなぜか。岬突端に艋舺が形成される前の時代,岬の中間位置に港があり,漢族の航海民が直接出入りしていた時期があったのではないか。
岬状の地形で,海船に利用しやすい場所は,その突端よりむしろ中間部です。長崎の半島をイメージすると分かりやすい。
ただ,そんな歴史があるならば,なぜ交易に関する由来が多少なりとも伝わらないのかが疑問になるのですけど──
ふと思いついたのは,漢族文化圏でもあまり一般的でない「崙」字の用法です。台湾では云林县(雲林県)二仑乡(二崙郷)や仑背乡(崙背郷)などの他の使用例があり,どうも诏安客家人の居住域が多い。「崙」字の多用が客家人の慣行だと考えるなら,中崙エリアも元々客家人の港町だったけれど,非客家の漢族に排除され,伝承や沿革も含め歴史から消された……という可能性です。
もう一つ考えられるのは,岬突端に漢族が居住するようになった時代に,先住民海民が退却した場所である可能性です。水深はあまりないでしょうから,河川航行用の丸太船に近いものが荷揚・荷卸をする,河川交易拠点として発展した場所とも想定しうると考えますけど──やはりそれ以上の材料がありません。