m113m第十一波m闽南語 解夏を漂うニッポン語m中山地下街

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

今ひとたび肉粽を喰らえ

崙市場から西へ歩く。
 日本人出没度の高いエリアでしょうか。
「ビッグバーグン それは滑らかで豊かな海の幸です!」
 さらにあの色彩と造りは……コメダ珈琲店??モーニングのセットまで同じ…ただ,台湾限定でコメダのパスタというのがある。→m10sm第十波mm変な日本語
──とそんなんを眺めつつ台観へ。0953,敦化北路を渡る。台安医院。もうすぐのはずです。

▲王記府の肉粽と籮蔔魚丸湯

002,王記府のシャッターが上がりつつあるところへ入店。
1005王記府
肉粽
籮蔔魚丸湯370
 ここの粽は,こんな感じで一つか,せいぜい二つをちびちび汁とともに食べた方がいい。ガツガツ行くともったいなさすぎる。
 あと,この粽の楽しさは部位部位によって味覚が全く異なる点。具のどれが口に入るかだけでなく,脂の流れ方でも微妙に味わいが違ってくる。
 湯もかなり良かった。魚丸は香港系の味覚だと思う。福建独自とは言いにくい。
 台湾の湯文化は,内実それほど独自のものではないのかもしれない。ただ,福建系と広東系が混ざってて,総合得点として非常にハイレベルなのです。

685路&218路

▲魔の芝麻大厦バス停

し歩いた芝麻大厦バス停から685路に…乗れた。1042。バス停の到着表示はかなり正確。
 これで民族東路で降りればいい。復興北路を北行。牛角。
 え?バスから降りる時ってカードもう一度あてるのか?知らなかったぞ?
 民権路へ左折西行。北に公園。
 あ!久しぶりに行天宮を見た!でも客は3人のみ。
 この辺りは中央の専用レーンを走ってます。
 看板「よつ葉牛乳」?──後の調べでは,常温ではなく要冷蔵で輸出している稀な牛乳らしい。漢族圏での北海道信仰も来るとこまできた感じです。
※ 2014.4 よつ葉乳業、台湾に要冷蔵牛乳輸出 | 十勝毎日新聞電子版-Tokachi Mainichi News Web

折。新生路。そろそろ下車ですね。
──おいおい止まらなかったぞ?どうなってる?この方向だと……剣譚まで行くバスなのか?
 1059,とにかく下車。あ,ここにも福正宮があります……じゃなくて!どうするよ,ワシ,ここから?
 地図で検索すると,対岸のバス停から218路が南へ出てます。車がびゅんびゅん飛ばしてる車道を,結構決死の思いで走って渡り──割とすぐに来た218路に乗車。
 やはり台北バスは観光客向けじゃない。
 1111,大同大学で降りれた。東行,もう歩ける距離のはずです。

福建と地続きの台湾味覚世界

▲そうまでして丸林卤肉飯

う~!着けたぞ!!
1116丸林卤肉飯
紅焼排骨湯
蕩ける貝の湯でもの
ゴーヤチャンプルー
豆干550
 まずは心を落ち着けスープを一口。
 おお~!これは??汁に沈む排骨を摘まんでみる。
 やはり!この排骨(スペアリブ),炝肉になってるぞ!!これまでもひょっとしたら食べてるかもしれないけれど,一週間前に莆田で震えたまさにあの味です。→※m035m第三波mm十字街/炝肉!炝肉!炝肉!
 やはりこの台湾島は,福建と地続きの味覚世界なのです。

▲炝肉(ちゃんろう)めいた湯

ーヤチャンプルーはまさにゴーヤチャンプルー。沖縄の特上のそれに近い。
 なぜここに?という点に加え,どうも卵とともにジャガイモの冷製スープみたいなざらざらしたトロミを感じる。
 沖縄のあの味が実は福建なんでしょうか?それとも沖縄な味を台湾が真似ているのか?あるいは,海で繋がった両者はどっちがどっちより先でも後でもないのか?
 そして貝です。

中華なのかフレンチなのか

▲トロトロ貝

で上がってないのかと思ったけど……このミル貝のような貝はこれでいいらしい。食べにくいほど貝が口を開けてないから,一つ一つこじ開けて食うんだけど──旨味はもちろん,何より舌触りが素晴らしい。
 しかしこれ中華でしょうか?フランス料理です,と出されても違和感はない。
 こういう予感があって,久しぶりに来た丸林でした。台湾菜の根を辿ると,東シナ沿海のいろんな場所に辿り着き,香港とは別の,目の眩みを覚えてしまう。

林から懐かしい道が見えたので,歩いてみたくなった。
 1153を雙城街南下。
 1157「雙城美食街」?こんなところがあったっけ?あ!もうひとつ西か。アーケード内を歩いて……1200。そうそう,この筋です!南行。
 ……へえ,記憶とはかなり変わってるなあ。「はま寿司」が出来てる。中山路と民権西路の十字路を過ぎる。あれ,ここのサンルートホテルは無くなったのか?
 ここまで来たら,あの市場とお宮に寄っていこう。
 1208,天祥路を南行すると──あれか?宮らしき建物です。右折東行すると──

誠品書店プロデュース 中山地下書街

▲九府仙師廟祭壇付近

府仙師廟。あれれ?ちょっと違うけど,市場の裏にこんな豪勢な宮があったんだ?
左聨「府先師共[火東]丹学法悟真機」
右聨「九弟兄同修道登天成正果」
 この神サマも,謂われはよく分からない。道教系。元は福建の兴化县(興化県)の信仰を移民時に連れてきたもの。別称に何氏九仙というから,何姓の一族が関わってる。さらにある別称・九鲤仙师は何のことか不明(※巻末参照)。でも台湾では非常に珍しい神のようです。1883年創建。→※維基百科/九府仙师庙
 民権西路70巷に出た。南行。見えてきたのは……今度こそあのお宮です。1216着。けど,ここは別章にまとめさせて頂きます。→m114m第十一波mm文昌帝君

▲1242中山地下街

239,雙連站。地下へ。
 おお~!中山地下街,こんなんできたんだ!ならここを歩きで中山まで行こう。
 日本や韓国もどきの地下街を作ろうとしてるらしいけれど,そこは漢民族!!鏡があるからかダンスや舞いの練習してる人がちらほらいたり,もう好きな使い方してます。
 途中から中山地下書街というのに変わる。どうやら誠品書店プロデュースの地下道らしい。
 印象としては,あんまり大成功してる地下街じゃない。どうにも作られた感が強い。でも相当数の若い人達が書店を利用してます。

最後に味わえ台北旧城


258,北門に至る。少し早すぎたかな?
 1324。いつもラストショットと決めてるCoCoが見つからなかった!探してたら,おいおいもういい時間になったぞ?──ちなみに西門CoCoは武昌街二段4のここ→GM.:COCO都可流行生活飲食。──いや駄洒落じゃなくてね。
 さてと。バックパックを背負いましょう。

▲1338荷物をしょって

338,北門駅へ歩く。
 なぜか西門からは歩きで空港線に乗る習慣になりました。この途中の台北城内エリア,かつて入り浸ってたこの界隈に,最近はほぼ来ることがなくなったからです。
 でもやはりこの辺りはいい。最後に味わう台湾としては,やっぱりいい。
▲1348台北城内の何気無い台湾

肉品携帯シ入境スル者 最高百万元ノ重罰トス

の行程だとどうしても台北郵局を通ってしまう。
 見れば見るほど強烈な建造物です。東京郵便局に似てると書く記事もあったけれど,あんな風に洗練されてない。軽妙さを感じさせない。洋館なのに泥臭い。
……といったところで引っ掛かったりしてなかなか帰国できんのですけど,とにかく空港への列車に乗りこめました。
🚇🚇🚇🚇🚇🚇🚇🚇🚇🚇
港線台北駅では飛行機のチェックインも出来た。ソウルと違って出発3時間前とかの基準もそう厳しくなかった。
 1421,車窓には菜園を囲む郊外のアパート。
「新加坡汽車旅館」。用字が簡体字なので中国人の旅行者用だろうか?
 1422,河渡る。
 1423,新北産業園区駅へ停車。「新北」は市の名前ですけどまだ足を踏み入れたことはない。山裾の近く,緑の残る状況ながらインフラは整ってるようです。工場街がひしめき合って続く。
 ここは山の上が台地状になってるものか,その工場らしき影はかなりの高所に見えてる。その北側山裾に小さな祠がポツポツと覆う。氏族墓に見えます。そういう悪条件地にも入植した移民団があったということでしょうか?

I(中華航空)のチェックインカウンターに並んでます。1504。
 台北車站(台北駅)で既にチケットはゲットしてるんだけど……荷物をここで預ける必要がある。駅でチケットを出すメリット,ないじゃん!
 しかもこのカウンターに人はいない。「自助行李託運 SelfBagDrop 自動手荷物預け機」と書いてある。掲示に従って作業する。自分でシールを巻いて,ワンちゃんのご旅行用の檻みたいなのに自分でヨッコラと入れる。──怖いぞ?ホントに日本に届くのか?
 ついでにもう一つ気になった掲示。「携帯肉品入境最高将重罰百万元」肉製品を隠し持って入国すると最高百万元の罰金。怖いぞ,百万元って幾らだ?

いま此処に在る海域アジア


回はCI,JALともう一社の共同便です。だから当たり前だけどもうニッポン語だらけ。
 ところで……台湾の鉄観音は売れ行き低調なんだろうか。空港の売店ではどうしても手に入りませんでした。西門でチラッと売ってたのをやはり買えばよかった。
 さて,機内では携帯してきた「海賊からみた……」※の最終章を読み終わろう。幸い,ダイアレアは程よく収まってる。
 1620,ボーディング開始。
※ 豊岡康史「海賊からみた清朝 〔十八~十九世紀の南シナ海〕」(清朝史叢書,2016)……って行きの機内から読んでるんだけど,なかなか読み終わらない……。途中が面白くって……。
✈️✈️✈️✈️✈️✈️✈️✈️✈️✈️
945,福岡市営地下鉄の中。
「地下鉄」の間の「下」の字を消しかけて,もう3文字でいーんだと気がついた。
 それで思い出した。福建の言葉の語感がぼんやり聴いてると日本語っぽく響くことです。これが台湾になると日本の方言を聴いてるような気になる。
 もうネット接続を気にしなくて済むので調べてみると──どうもその感覚は必然的な要素がある(巻末参照)。簡単に考えても,福建語や台湾語は日本語と同じ東シナ沿岸の言葉なんだから。
 車内窓際,福岡アジア美術館の広告誌が揺れている。その紙面にある文字は「いま,ここにあるアジア」。

= ひとまず完 =

■伝承:九匹の鯉に乗って(九府仙師論)

 九府仙師の名は,九鯉湖仙の方が先らしい。二階堂善弘「アジアの民間信仰と文化交渉」論文に記述がありました。
 この信仰は特殊です。莆田西方30km,仙游県九鯉湖(→GM.)の仙境を「聖地」としてる。なのに神らしきものが,いない。あたかも聖地そのものを崇めてる,ように見えます。
 沖縄の御嶽を連想する,というのは誰も書いていませんけど──個人的にはそう感じました。
 中国伝奇ものの集成「三教捜神大全」には次の記述があります。

九鯉湖仙とは、福建興化府仙游県の何通判の妻の林氏が産んだ九子である。みな目が見えなかったが、長男のみ一目のみあって、物を見ることができた。その父はこれを疎ましく思い殺そうとした。その母はそれを覚り、九子を引き連れて逃亡した。逃げた先は仙游県の東北山中で名を九仙山といった。その湖の側で丹を練って修行し、みな赤い鯉に乗って仙人となった。それで湖の名を「九鯉」というのである。廟はいまでも湖上にある。
原文:九鯉仙、乃是福建興化府仙游県何通判妻林氏生有九子。皆瞽目、止有大公子一目不瞽。其父一日思之、大怒欲害之。其母知覚、速命人引九子、逃至仙游県東北山中修煉、名曰九仙山。又居湖側煉丹、丹成各乗赤鯉而去、故湖名九鯉。廟在湖上。

 閩東から興化では相当数の廟がある──って実際旅行して全然見てないけれど──。でも台北では,この時偶然通った九府仙師廟と普恵堂の二ヶ所だけという。
 とにかく訳が分からない伝承です。長男に視力があったからといって,なぜ殺したくなるのか。母が子を連れて逃げる,と言っても目の不自由な9人をどう連れて逃亡するのか。仙人になるのになぜ赤い鯉に乗るのか。その九人ではなく乗り物である鯉を崇めるというのは?
 一番謎なのは,母の「林氏」です。
 寧波を中心にかつて大きな信仰となったという「招宝七郎」という海神も,「臨海の林氏の娘を娶って過ごしていたが,にわかに杵に乗って海に浮かび龍と化し,その妻と共に姿が見えなくなった」嘉定赤城山志 原文:娶臨海林氏女,俄棄杵化龍,与女皆不見。──やはり訳の分からない物語ですけど……とにかく媽祖と同じ「林氏」が登場します。
 同じく水域の神である九鯉湖仙と招宝七郎に,神の媒介としていずれも「林氏」が登場する。偶然とは思えないけれど──意味も分からない。
 前掲論文の二階堂さんは次のようなことも「憶測」として書いています。

海神としては媽祖の影響力強いが圧倒的となり,四海龍王はじめ多くの神がその配下とされていくなか,招宝七郎も千里眼としてその下に組み込まれた可能性があるのではないだろうか。そして千里眼と招宝七郎が合わさり,遠望の姿が定着したのではないだろうか。[前掲二階堂]

▲台北郵局古跡

■小レポ:台湾郵政省の大稲埕からの移動

 設計者の栗山俊一という人は,ここと台北放送局の他にあまり代表作はない。当時破格の工事費を投じただけあって,シンプルに見えて逸物かつ微妙にマニアックです。
 ただし,「台北郵局は日本統治後に全く新たに造られた」みたいな雰囲気で書かれる記事が多いけれど──それは,はっきりと違います。
▲台北郵局の庇部にあるメダリオン。「郵」字の古代漢字と思われる。

 台湾の郵便局制度は1888(光緒14)年に台湾省の初代巡撫・劉銘傳という人が立ち上げてます。その中心官庁・郵政郵局は,当初,大稻埕(現・大同区,迪化街等の位置→※m083m第八波mm夏商市場/「埋」字用例:現代記述3例)建昌街にあった。それを,日本が新鉄道駅を建設した際にこれと連携して運用できるよう現在地に移してます。
※ 台北の近代建築物:台北郵局 – 台湾ing
※ 日據時代建築小檔案:台北郵局
※ 歷史報告─台北郵局
※ wiki/大稲埕 台湾の台北市大同区付近の地域名

大稲埕(略)は現在の台湾台北市大同区附近の名称であり、艋舺を継承して台湾で最も発展した地方である。(略)北には大龍峒、南は北城門をくぐり城中、そして南門を経て艋舺へつながり、交通の中心地であった。(略)1709年、戴伯岐(略)らが協力して開墾を行い(略)[前掲頁再掲,前掲wiki大稲埕]

 清末の劉銘傳の発想では,水域拠点たる大稲埕が台北最大の交通の要だったわけです。
 日本統治代は,それまで海のくにだった台湾を,陸人の発想により再構築する時代の始まりだったとも言えます。
▲清末洋務派官僚主要人物。劉銘伝が表示されたものは少ない。
洋務運動洋在哪裏呢?李鴻章是你想的那樣嗎? – 每日頭條

■小レポ:清領台湾最後の10年間は徒労だったか?

前の台北郵局の話でまず不思議なのは──劉氏王朝の滅亡は1683年です。それから二百年も経てから,劉銘伝が「台湾省初代巡撫」に任じられたというのはどういうことでしょう?

清朝は、鄭氏政権を滅ぼした後、台湾を放棄するつもりであったが、清軍提督の施琅の提言によって、清朝の支配下におさめることとした。(略)台湾の重要性を認識するようになったのは、清末になってからである。イギリスやフランスが中国へ進出してくるにつれ、台湾の防衛上の重要性が増してきたことから、清朝政府は、ようやく1885年に台湾を省に昇格させた。
※ 三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌-台湾漢人の民間信仰の動態」東京大学レポジトリ

 これは……械闘も起きるわけです。清代台湾には,領土であるけれど治世はない,極端に言うとそういう統治姿勢のもとにあったらしい。
 ただ,この清統治下最後の10年,この時期に台湾の近代化は着手されてます。それが劉銘伝という人のやったことでした。

「台湾近代化の礎を築いた」劉銘伝

初代の台湾巡撫劉銘伝は、基隆から新竹までの鉄道の敷設、西学堂の設置、電報総局の設置など、積極的に台泄の開発と近代化を進めた。しかし、彼は、1890年に朝廷の弾劾に遭い辞職した。更に、清朝による台湾統治が実質的に定着する以前に、1895年の日清戦争後の下関条約で、台湾は日本へ割譲されることとなった。[前掲三尾]

 台北郵局及び郵政制度の前身を含めたこれだけの近代制度を,就任後たった5年間でとりあえず造り切ったことになります。
 相当な手腕,あるいは豪傑かだったように見えます。そこで改めてwikiを見ると──

劉銘伝は台湾に於いて各種防衛設備を整備し、軍備を再編し、同時に台湾にインフラを整備し、後の台湾の発展の基礎を築いた。インフラ整備としては台湾初の鉄道建設、台湾と福建間に電信ケーブルを敷設、その他電報局、煤務局、鉄路局等の管理機構を整備している。
※ wiki/劉銘伝

 凄いじゃないか劉銘伝!というか,右翼な人が「日本が台湾に造ってやった」と言ってる一連の広域基盤整備にあまり漏れもなく着手してます。

その後台湾では、日本の植民地支配の下で資本主義化が推進されるが、その基礎はすでに劉の巡撫時代に形成されたといってよい。
[伊東昭雄]※ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
劉銘伝 りゅうめいでん (1836―1895):コトバンク/同項目

 劉の建設した台湾最初の鉄道は,基隆の劉銘伝隊道※ほか各地に残趾を残しており,近年見直されつつあるようです。
※ 正式名・獅球嶺隧道。台湾初の鉄道トンネルかつ現存する唯一の清代の鉄道トンネル。全長235メートルのトンネル。工期30ヶ月を要し1890(光緒16)完成。
▲でもこんな顔だった劉銘伝

「使い物にならなかった」劉銘伝鉄道

 ただ──よく考えたら,劉が採ったとされるこの一連のインフラ整備のメニュー,少々違和感を覚える。網羅され過ぎている気がする。清末の大陸出身の漢族によるリストアップが,現代の視点での必要項目とこれほどぴったり重なるとは思えません。
 そこでさらに調べていくと……劉に批判的な論者が否定してかかるのは,まさに前記の鉄道らしい。
 例えば産経系の以下の記事は,劉による「台湾初の鉄道敷設」についてこう批判します。

劉の時代、確かに台湾では約100キロの鉄道が造られたが、使い物にならなかったのですぐ廃棄された。
 長谷川が一から今の台湾の鉄道網の基礎を築いたのに対し、劉は行政官僚のトップとして「鉄道を造れ」と指示しただけで、鉄道の専門家ではなかった。
※ 【台湾有情】台湾鉄道の父は誰か – 産経ニュース
※※評論家 管仁健氏の発言として。「長谷川」は,日本統治時代の技師で「台湾鉄道の父」とされてきた長谷川謹介

 もう少し詳細に見ていくと──この鉄道は正式名・全台鉄路商務総局鉄道。別称を清朝台湾鉄路又は劉銘伝鉄路。俗に,あるいは愛国主義的には劉銘伝鉄道と呼ばれます。

台湾の基隆から台北と、台北から新竹に至る2つの鉄道路線(現在の縦貫線北段の前身)で構成されており、清朝統治時代に台湾巡撫として赴任した劉銘伝により推進され、全台鉄路商務総局(繁体字中国語: 全臺鐵路商務總局)によって建設、運営(下関条約後の数年間は日本政府)。台南までの延伸構想があったが、新竹以南は崎頂付近の築堤に着手しただけでそれ以南は着工には至らず未成線となっている。※ wiki/全台鉄路商務総局鉄道 劉銘伝鉄道

 新竹以南路線の工事遅延は財政難が原因らしい[後掲蔡]。以下によると清国費は投じられず,「省設鉄道」だったことからすると,地元の理解を失ったと推定できます。

1887年(光緒13年)、劉は清朝政府に認可を要請、4月29日に政府は福建台湾省の自己資金調達での建設を認めた。同年4月台北市にて大稲埕開発事業に着手、ここに台北駅を設置することにした。軌間は現在と同じ3フィート6インチ(1,067mm)で、まずは基隆港から台北を経て新竹(当時は竹塹)に至る路線に着手した。[前掲劉銘伝鉄道]

 大稲埕の台北駅に心が動くけれど後に回す。
 設置・運営主体の全台鉄路商務総局の設立と起工式典が行われた6月9日を,現在台湾ではに鉄路節(鉄道の日)としている。台北と新竹間も翌年に起工。
──と書かれると順調な滑り出しに読めるけれど,車両やレールは上海の鉄道のリサイクル。イギリスの怡和洋行の鉄道がうまくいかず,これを清政府が撤去して持ってきたものです。[後掲蔡]
 工事計画・監督・測量はイギリス人の技術顧問を招聘して行われてます。けれど,外国人技師とのトラブルが多発し技師長が5回も変更されている。[後掲蔡] 質より時間を優先した節があります。

鉄道路線としては16kgレール、再急勾配50‰、最小曲線半径100メートル(ただし局所的に75メートル)低規格であることと、橋梁が水害により流失したこともあり、日治時期に殆どが付け替えられた。[前掲劉銘伝鉄道]

 使い物にならなかったかどうかはともかく,日本統治代の技術者の目には長期使用に耐えるものとは写らなかったらしい。橋も含めてほぼ全部が撤去されてます。

数か所の橋は幾度も補修と崩壊を繰り返しており、レール規格や設計・施行水準も使用に堪えないほどの低水準だとわかると、日本当局は高規格化路線建設を決定、最終的に全長106kmのうち0.8kmしか再利用されなかった。改良事業中は淡水河の橋が不通となり台北-新竹線は橋のそばにいくつかの臨時駅を仕立てて分断輸送となった。
そして島内縦貫鉄道計画が完成したが、台北と桃仔園(現在の桃園駅)間の経路変更は最大のものだった。[前掲劉銘伝鉄道]

 この論争は,両者ともに例によってイデオロギーのバイアスがかかってる。劉が近代化メニューに全て着手したとも,それらが全て日本創始だとも丸飲みしない方がいい。
 ただ,その結果,劉が行政屋としては挫折したのも確かで,劉銘伝鉄道は技術・人的体制・財政のどの側面から見ても失敗したとしか言い様がない。やはり定説通り,現代台湾鉄道のフレームは日本統治代にリストラクションされて出来た,と評するのが妥当です。

しかし彼の改革は官僚腐敗と財源問題を考慮しないものであり、財政負担は日を追って増加、汚職も蔓延し民衆の反発を受けることとなり、光緒15年(1889年)には彰化で施九緞の叛乱が発生している。[前掲wiki]

▲清末設置の初代台北駅(大稲埕)

点画1:初代台北駅と大稲埕再開発構想

 劉銘伝鉄道の起点・大稲埕台北駅は,「現在の中興医院と塔城街付近19哩26鏈」にあったという[前掲劉銘伝鉄道]。とすると場所はここです:台北市中與醫院→GM.
 初代・台北郵局もこのエリアに置かれた。その他の劉銘伝インフラの位置情報がないけれど,この両者だけを考えると,劉は大稲埕エリアを台北再開発の中核にしようとしていたらしい。発想も通信と輸送という軍事インフラの組み合わせで,この点,日本統治代と大差はない。ただ,旧来の海運拠点から切り離された更地に都心を建設する発想の有無だけが異なるのみです。見方によっては,河川輸送と鉄道輸送の核を重ねる点では,既存の大稲埕集落を破壊してでも都心を造ろうとした点も合わせ,劉の企画の方が思いきったものだったかもしれません。
 ただ劉の大稲埕再開発構想では,次に見るとおり,台北最大の海運拠点・艋舺を交通網に組み入れられない短所はありました。
▲台北=桃仔園間鉄道改良図

点画2:劉銘伝鉄道の新竹路線ルート

 上記地図は,北回りのものが劉銘伝鉄道の新竹方面ルート,南回りが日本が再策定した同ルートです。
 劉のルートは大稲埕から西へまっすぐ橋を渡り,丘陵地を経由して桃仔園へ伸びる。このルートは,この日のワシを含め現代の我々が桃園空港へ行く際に車で通るあの行程です。
 下の写真でも,空港-台北市内間の山陵線を思わせる光景です。
▲亀崙嶺古道を通過する列車(この区間は日本統治後6年で廃止)

 艋舺や,既に開発されていた板橋を捨てて,劉がなぜ直接的なメリットの少ないこの行程を選んだのか,分からない。ただ,現在このエリアに大規模工場が林立することを考えると,このルートが廃されなければ新しい鉄道沿線がもっと早く開発されていた可能性もある。
▲「木造の初代台北橋(1889年)。船舶通航時は写真右側の光線部分の橋桁が開閉されていた。」※wiki/台北大橋

点画3 初代台北大橋

 清末当時の技術水準で,淡水川を渡る橋を本当に架けることができたんだろうか?という点に疑念があったんですけど──これは本当に架橋されてました。
 1889(光緒15)年,やはり劉銘伝指示による建設。三重埔(現・三重区)-台北大稲埕埠頭を連結するもので,全長は1,498m。
 ただし──

日本の民俗学者伊能嘉矩の記述では元の設計は鉄橋だったが経費不足により木造橋へと改められた。橋上には鉄道軌道(台北 – 新竹を結ぶ全台鉄路商務総局鉄道。現在の縦貫線の前身)が敷設され、両側には馬車も通れる歩道があった。北岸は鉄製の旋開橋となっていて船舶通航時は開閉されていた。ただ木造であったため、河川の氾濫に弱かったばかりか、水に直接晒される橋脚の土台部分は劣化が速く、頻回に補修が必要だった。[前掲wiki]
※原典:鄭懿瀛, ed (2005). 三重市志續編 下冊. 三重市公所. p. 338-345、453-461
:(英語)Tales of Sanchong Archived 2012-03-16 at the Wayback Machine. at Sanchong City Government website

 土木工事の専門知識はゼロなので全く分からないけれど,淡水川のような狂暴な川に木造橋はないだろう,という素人感覚での無理っぽさは感じる。
 ちなみに現在の同地点の橋は5代目,1996年に運用開始されたばかりです。

1895年(明治28年)、清朝から日本に割譲されると淡水橋と呼ばれるようになった。また清朝軍の退却時に破壊された橋を修繕して鉄道の運行を再開した。※前掲wiki台北大橋。原典:“淡水橋の修繕”. 臺灣日日新報: p. 第3版. (1896年8月24日)

 妙です。終戦の協定で明け渡すことになった台湾で,清軍がインフラの破壊をして行った,というのも考えにくい暴挙ですけど,その程度はともかく,日本はそれを補修してまでして一度は鉄道運行を再開している。

1897年(明治30年)8月に台風の襲来で淡水橋が不通になったことで、台湾総督府は鉄道の経路を新店渓を渡河し萬華、板橋と樹林を経由、再度大漢渓を渡河する現在のルートに変更することを決定した。※前掲wiki台北大橋。原典:鄭懿瀛, ed (2005). 三重市志續編 下冊. 三重市公所. p. 338-345、453-461
:“風水害詳報 淡水橋流失”. 臺灣日日新報: p. 第2版. (1897年8月10日)

 劉鉄道ルートから南回りの新ルートへの転進方針は,1896年の運用再開後,翌年の台風被害を受けてのことです。ここには旧ルートの不適合や不良といった,前段で触れたような「線」の話は出て来ない。単に台北大橋という「点」の問題が理由になってる。
 旧ルートの撤去はその結果です。

1899年(明治32年)、旧ルートの鉄道は撤去され新ルートの鉄道開通により、三重埔地区の鉄道の歴史は幕を閉じた。その後21世紀に台北捷運が開業する。※前掲wiki台北大橋。原典:前掲鄭懿瀛2005
:“本年度の着手鐵道工事”. 臺灣日日新報: p. 第2版. (1899年3月12日)

 現代になって台北捷運が運行されたことからも,旧ルートは,技術水準さえ追い付けば必要かつ有意義なものだった,と考えるのが素直な発想です。そしてその技術水準は,当時,新統治者・日帝も諦めざるを得ないものでした。また,必要な技術水準が現在の五代目・台北大橋のような高性能の鉄骨橋建設だとは,清・日帝・中華民国ともに知り得なかった,という点も,四代目までの失敗が続いたことから明らかです。
 だから,wikiにある次の記述は(出典に疑問は残るけれど)同時代の台湾人の実感だったと思われます。

当時の淡水橋は大龍峒と大稲埕一帯の重要な交易拠点として機能し、これらの周辺の発展には欠かせないインフラだった。
※前掲wiki 原典:Yanping N. Rd. Sec. 3 Night Market[リンク切れ] at Taipei City Market Administration Office website

▲「東詰で平日朝に撮影された、自動二輪による通勤風景。(略)平日朝通勤時間帯の自動二輪の渋滞は「バイクの滝(機車瀑布/Motorcycle Waterfall)」として注目され、国外から観光客が見物に訪れる」[前掲台北大橋]
▲清朝中央と地方政府によって建設された軍需工場(1861-94)
※ 曹勤「中国産業近代化初期における企業基盤─清末期の重工業成立─」
※※原典:近代中国工商経済丛書編委会「晩清企業記事」中国文史出版社 p16より作成

遠景:清末の強兵政策と軍備インフラ拡充

 1861(咸豊11)年の辛酉政変後,清朝最後の実質的最高権力者となった西太后は,その権力基盤として曾国藩,李鴻章らの洋務派漢人官僚を擁していました。彼らは北京の宮廷ではなく,南部を中心に軍閥を形成し,「中体西用」による「自強」を実践しつつ自己の軍事的実力強化を図っていきます。
 前掲の表は彼らにより建設された軍需工場。この中に,ほぼ最後発のものとして台湾機械局が挙げられます。
 洋務派の両巨頭として教科書的には曽国藩と李鴻章が名を成していますけど,これに次ぐのが左宗棠,劉銘伝,張之洞。最後の張は,武漢を拠点にした軍閥で,同地と北京を結ぶ京漢鉄道建設を進めました。
 鉄道敷設と一概に言うけれど,中国では実は一連の西洋化施策中,最も抵抗の激しいものでした。
 西欧諸国が鉄道を造ろうとしても,清国政府は頑として許可を出さなかったらしい。上海に初めて走った「呉淞鉄道」は,イギリスとアメリカの商社群が共同で走らせた「私鉄」だったにも関わらず,上海市民の猛然たる反対を受けます。
※ wikiwand/呉淞鉄道

日本のは1,067mmですが、750mmの狭軌鉄道を造った所、中国は風水の妖説が盛んであって、一口に云へば迷信、御幣担ぎとも申しますか、この為に鉄道は大反対を受けまして、汽車は魔術である、汽車の運転する所には悪魔が横行する、その地方に禍すると云う事を言い触らし、それで非常な反対を受けて、到頭妨害の為に運転不可能と云う事になった。
 そんな訳でこの鉄道は造ってすぐ毀して仕舞い、その材料は台湾の方へ運ばれました。原口要の中国鉄道創業史

▲呉淞鉄道の開通(1876年9月2日、イラストレイテド・ロンドン・ニュース)

 道路の方向一つも風水思想上の意味を読む民俗からは,そんな轟音を発する機械の走る線路は,極めて危険な,あるいは「反倫理的」行為と受け取られたらしい。

もともと,中国最初の鉄道営業はイギリスの貿易商社怡和洋行 Jardine & Matheson Co.による上海-呉松間の鉄道計画に始まる。(略)清国はこの鉄道を買収・撤去し,台湾に送り(原田1996:184),これがきっかけで台湾の鉄道は建設された(劉2003:14-15,青木2006:27-33,高橋1995:15-16)。
※ 蔡正倫「台湾鉄道はいかに台湾経済に影響を与えてきたのか―台湾鉄道の歴史的・経済的文脈の考察から―」
※※原田勝正「鉄道17マイルの興亡」日本経済評論社,1996
劉文駿「百年台湾鉄道」城邦文化事業股分有限公司,2003
青木栄一「鉄道忌避伝説の謎」吉川弘文館,2006
高橋泰隆「日本植民地鉄道史論」日本経済評論社,1995

 呉淞鉄道は運行一月にして轢死事故を起こし,それをきっかけに廃線となります。この事故は,確かに死者を出しているけれど,目撃談からは被害者が自ら線路に身を置いたというものが多く,裁判でも米英に賠償は求められませんでした。そこまでして市民は運行を阻止しようとしたのでしょうか。

汽車が運転開始後、現地の人の不満を引き起こした。彼らは、汽車は地方の安寧に影響を及ぼし、農作物や家畜の成長を阻害し、風水を破壊すると考えていた。[前掲Wikiwand/呉淞鉄道]

 この話は謎が多い。台湾に送られた資材も,港に野積みにされ使われなかった,と書く資料もある。劉銘伝鉄道は1,067mm軌道だから,呉淞鉄道の750mm軌道資材は使えないようにも思われる。
 ただ,その如何に関わらず,就任するや鉄道敷設に真っ先に着手した劉のインフラ整備は,現代の我々の認識をはるかに越えて,当時としては相当に先鋭的なものだったことは確かです。
 前掲wiki劉銘伝鉄道にも,当時の台湾人が風水的に反発した,という記述はある。ただ,何が違ったのか,歓迎する風潮も一方ではあったらしい。

彰化銀行創業者の呉徳功(中国語版)が残した《新竹坐火輪車往台北》という詩が流行した。
新竹抵稻津,辰發午即至。儼似費長房,符術能縮地。(略)[同wiki劉銘伝鉄道]

 次の表は清朝官営企業の一覧ですけど,鉄道の名を冠したものは李鴻章主宰の2社に続く「台湾鉄道」の計3社しかない。
▲清政府が創設した国営企業
[前掲曹]※原典:近代中国工商経済丛書編委会「晩清企業記事」中国文史出版社 p19より作成

総評:教科書的「洋務派無用論」の部分的否定

 右左に振り回すような情報を並べてしまったけれど──結論として,日帝統治代の台湾開発への円滑な移行に,劉銘伝の諸施策は相当有効に働いていたと思います。漢人居住地の中では当時最も西洋化しやすい土壌が,台湾には既に形成されていました。
 要は,発射台が極めて高かった。

劉銘伝の改革は,国防強化と殖産興業の意図のもとで,台湾支配の強化と急速な開発の推進に主眼を置いていた。洋務運動の一つとしてもっとも注文されたのが鉄道の導入であった。[前掲蔡]

富国強兵の最前線に立っていた劉銘伝

 この劉銘伝という人は,どうやら合肥の軍閥の頭目です。それも最下層からの完全な成り上がりです。

11歳で父を失ったため生活が貧しく、18歳で学問を放棄し山賊に加担した。それに関わって咸豊6年(1856年)に母が自殺すると、故郷に戻り団練を組織[前掲wiki劉銘伝]

 当初はほぼ任侠か盗賊のような出自のこの人とその暴力集団を,時代が持ち上げ治安に利用しているうちに,軍閥にまで膨れ上がったらしい。

青年期には無頼の生活を送り、塩の密売を業としたという。(略)(1970年)イスラム教徒の蜂起(ほうき)を鎮圧するため一時陝西(せんせい)に派遣された。[前掲ニッポニカ]

 太平天国時の鎮圧に際し,清側にくみして転戦するうち,李鴻章の寄騎のような立場になったようです。かくして洋務派官僚として重用されるに至るわけですけど,それは思想からというより,純・軍事的な,良く言えば極めて合理的・経験的なものだったでしょう。
 劉が台湾に任じられた理由として三尾論文が記す「台湾の防衛上の重要性が増してきたことから」というのは,1884(光緒10)年から翌年にかけての清仏戦争時に,劉銘伝が軍を率いて台湾を守備,フランス軍の複数回の上陸行動から台湾を守り抜いたことを指すようです。つまり台湾で大戦果をあげてしまったために,北京から「引き続き防備を固めよ!」という意味で初代巡撫に任じられた。
 だから劉の統治思想は,対フランス防衛戦の実体験から帰納的に導かれた「開発施策」群だったのでしょう。──台湾防衛上,軍隊を素早く移動させる鉄道輸送と命令伝達のための郵便・電報網,さらに軍需物資を自力で生産する工場が必要である。
 前掲三尾論文では劉は「弾劾」されて失脚,とありますけど,一種の開発独裁をやったために既存勢力との調整を完全に欠いていた,と推測できます。役人としてはド素人で,専ら軍備として台湾のインフラ強化を強行した。だからこそ実際的な近代化を進められた,というところでしょうか。

日本統治初期までの大稲埕小史

 以上を大稲埕エリアの歴史を追うことで実証してみます。
17世紀以前 平埔族の漁猟地。番社名:圭母卒社
1709年 戴伯岐,陳逢春,頼永和,陳天章らが開墾。各人の姓から「陳頼章」と命名
・その後,穀物乾燥施設が設けられ,これに由来する「大稲埕」と称されるに至る。
1851年 同安人林藍田が海賊被害を避ける目的で基隆から移民。その建てた3棟の閩南式建築が大稲埕最初の商店となる。
1853年 艋舺で漳泉移民間の械闘「頂下郊拼」が発生,泉州三邑人(晋江・南安・恵安)が泉州同安人と漳州人を駆逐。大稲埕への大規模移住が始まる。
・以後も近隣での械闘の度に「難民」が大稲埕に逃げ込み河港集落が拡大
1860年 英仏に敗れた清朝が淡水港を開港。この開港範囲に艋舺・大稲埕も含まれたため,交易が活発化
・艋舺の土砂堆積進行により,次第に大稲埕が大型船の寄航地となる。
1865年 イギリス人ジョン・ドッド(John Dodd)が台湾での茶業を開始,台湾茶葉の名声高まる。
・大稲埕に5大茶行(徳記・怡和・美時・義和・新華利)の支社開設
1891年(光緒17年)
10月20日 – 台北基隆線開通に伴い「台北火車票房」正式開業
・劉銘伝,大稲埕を「官営工場区」として整備。茶釐局・軍裝機器局等の公共機関を設置
1894年 開業式典開催

※[1]wiki/大稲埕 台湾の台北市大同区付近の地域名
[2]wiki/大稲埕駅 台湾の廃駅

 この町は艋舺など初期の移民町と異なる形成過程を経ています。すなわち核の同安人集落からして,他からの避難所で,かつそうした難民移入が続いたことで,おそらく台湾で初めての異出身地人の「るつぼ」的な町になってる。旧来の出身地の枠を越えた都市型のフレームです。──そもそもが福建海民の渡来集団です。スイッチが入れば旧郷の民俗文化はさらりと脱ぎ捨てたでしょう。
▲20C初頭と推測される大稲埕の街路写真

 これが台北中心街の起点になってます。台北社会の雛型が形成された場所と捉えてもよい。
 大げさに言えば日本における江戸期と似てます。台北の社会体質は日本領になる前に近代に入っていた,と言えるのではないでしょうか。
 そうして劉鉄道駅が作られた後,日本統治代が始まります。
1901年8月 淡水線の起点として現・台北駅(2代目)が移転開業
・初代駅構内には「淡水河岸貨物取扱所」を設置
1901年10月 初代駅舎が日本の汽車会社の工場に転用(1908年撤去)
1902年2月 淡水河岸貨物取扱所を「大稲埕乗降場」と改称(同6月「大稲埕停車場」)として旅客扱いを再開
1903年 淡水線の始発駅となる。
1915年8月 旅客駅としての起点は新設・北門乗降場に変更,貨物駅となる。
1918年 初代駅舎撤去
1937年 新貨物駅・樺山駅開設に伴い初代駅廃止
[前掲wiki]

 新(現)台北駅が出来たにも関わらず,1901年に廃された大稲埕駅が翌02年に旅客運行を再開,03年には淡水線起点に返り咲いてる。これは,当時,新台北駅に不便さを感じたユーザーが相当数存在し,旧来の大稲埕駅での乗降を求めた,ということを暗示します。
 大稲埕が艋舺と同じく土砂堆積により港町としての機能を失い,活気を翳らせる中で,駅としての機能を停止するのは日帝期末と言っていい37年。つまり35年も大稲埕は駅前町の体を維持し,台北中心街の地位を日本側が用意した新駅側に容易に明け渡そうとしなかった。
▲1913~5年の大稲埕駅乗降客数
※ 前掲wiki/大稲埕駅/廃止前の利用状況
※原典:台湾総督府交通局鉄道部 (1914-11-10). “統計圖表 第十八表 驛別乘降旅客人員表”. 台湾総督府交通局鉄道年報. 第15(大正2年度). pp. 30-33
同(1915-11-30).同第十七表. 第16(大正3年度). pp. 30-33
同(1916-11-30).同第十六表 . 第17(大正4年度). pp. 28-31

データ:1913年の大稲埕駅乗降客数シェア

 wikiに上記数値が掲げてあります。この3年だけでも大きな変化を示していますけど,台湾総督府交通局鉄道部の公式数値で乗降客16万余というのは相当大きな規模に見えます。
 これは当時の台北中心部でどの程度のシェアを持っていたのでしょう。
 同1913年資料で原典を紐解くと,次のようなデータでした。
▲前掲 台湾総督府交通局鉄道部 (1914-11-10)「統計圖表 第十八表 驛別乘降旅客人員表」台湾総督府交通局鉄道年報 抄
(赤マーカー部:台北駅と大稲埕駅)

 旅客駅として廃止の2年前,1913年段階でも,台北駅の7~8分の1のシェアを大稲埕駅は有しています。艋舺駅を上回り,サブのジャンクションの位置にある。
──解釈しにくい数字ですけど,国会図書館の台湾総督府交通局鉄道年報(デジタル版)の最古のデータがこの大正2年度分です。号数からして,もう少し前,1890年代末の初号辺りの数字が知りたいけれど──1913年数値だけでも,以下の点を推測するにはギリギリ足るのではないでしょうか。
 すなわち,僅か10年間に劉銘伝の企画した「大稲埕都心」が,日本によるインフラ整備下でも一定の影響力を持ち続けるほど有効に機能してきた,と。
 台北を造ったのは日帝でしょう。けれど造り始めた,あるいは造りやすくしたのは劉銘伝です。
▲やっぱり凄いぞ劉銘伝!こんな顔だけど!

■小レポ:台湾人の会話がなぜ日本語に聞こえるか?

 本文に書いたように,台湾の人がかわす会話を,例えばうつらうつらしながら聞いてると脳が日本語と解釈してしまってる,という事はままあります。でも,それでハッとして耳を澄ますと,やはり理解出来ない言葉で……。
 けれど,今回改めて調べると,2つの意味で言語学的にやはり日本語に近いらしいのです。

中国語の「華南の漢化」過程

 現中国語の歴史をたどると,「中原の漢語音」が「華南の漢化」を経て出来た,とするのが定説になっているようです。
 ここでいう「華南の漢化」は,漢民族のプライドが言わせる,歯に物が挟まったような表現ですけど……漢代より後,概ね中国南部に後退させられてきた漢族は,南部の越族由来の呉語等の中国語クレオール=「サブカルチャー言語」を母体とし,中国語を再構成せざるを得なかった。その過程の先に出来たのが明代以降の中国語である,ということです。
 閩語(福建語)はそのサブカルチャー度合いを未だ強く有する。
 つまり──
(中原) (漢族南朝時代)
漢語音→華南化→現代北京語
     ↑
    華南語→福建語
     ↓
    日本語

声調が北京語の4声に比べて狭義の閩南語の場合7声前後と多く、発声、語彙、文法の面で、古中国語の残存が見られる。閩語の内部では、例えば「鍋」を「鼎」と呼ぶなどの語彙の共通性がみられるが、これも古中国語を残存している。
これは中原の漢語音が華南の漢化によって広まったため、特に周辺地域である福建において、古い時代の音が残されたと考えられる(ジェリー・ノーマン、または方言周圏論の考え方などを参考のこと)。
 日本の漢字発音の漢音は唐時代に伝来されたため、閩南語の発音との類似が見られる。例えば、「世界」(sè-kài)、「国家」(kok-ka)、「了解」(liáu-kái)などの発音は現代日本語と似て聞こえる。[wiki/ビン南語]

 日本への漢字移入は,そうした漢民族南遷王朝時代以降の中国語クレオールの拡大過程中,ごく初期の出来事でした。だから,日本に入った漢字についてきた音は越語又は呉語に近い,という理屈です。
 すると,日本語と福建語は,ともに呉語を父母とし,越語を祖父母とする兄弟言語,という感じになります。

 なぜ福建に「華南の漢化」以前の呉音が伝わっているのかというと,ここがよく分からない。以下では「保守的なため」で済ませてますけど──

保守的なため、福建人は彼らの呉音言語を守ろうとした。そのため福建語は呉音を貴重としているのである。今日に至るまで、福建人の言葉には呉音が残っている。仏教が高麗を経て中国から日本へ伝わる時、日本人も仏教書籍を読み、仏典に通読していたため呉音を覚えた。
※ameba/なぜ日本語と閩南語は発音が似ているのか《訳3》

 言語学の音韻の世界は難しくて全く理解できない。でも現実に似てるのは確からしい。
 それと,ここで言っているのは漢字の音読みの共通性とは違う。

「日本の「音読み」、つまり漢語(中国語)の読み方を取り入れた読み方が中国の言葉に近いのは至極当然のことですので、ここでは敢えて触れません。日本固有の「やまと言葉」と中国南部の言葉がよく似ているという点が重要なのです。[※ameba/驚くべき?中国南部の広東語、閩語と日本語の共通性]

 言葉がそうならば?という類推も働きます。文化一般,例えば食文化や味覚感覚も共通しているのではないか。
「共通」であって,それは「伝播」ではなかったと考えます。なぜなら,少なくとも越語の主体は南中国の陸人ではなく東シナの海人という側面が強いからです。越語を吸収した呉語を,既に越語類似の言葉として形成されていた日本語が複合的に取り入れた。音が似るのも当然なのです。
▲宜蘭クレオール-日本語-アタヤル語間の語彙の置き換え例 ※人間文化「海を渡った日本語」

台湾における日本語クレオール

 ただし,台湾の言葉が日本語音に類似するのは,それとは全く異なる,ごく最近の歴史の産物でもあるようです。
 日本統治代の日本語の現地化です。現地での呼称は寒溪泰雅語ほか様々ですけど,学説上はYilan Creole(宜蘭クレオール:ぎらんくれおーる)と呼ばれる。この呼称自体,2010年の論文で初めて用いられてます。
※ 真田信治・簡月真(2007)「台湾アタヤル族における日本語クレオール」日本語学会2007年春季大会口頭発表.関西大学,5月26-27日
※ Chien, Yuehchen and Shinji Sanada (2010)Yilan Creole in Taiwan. Journal of Pidgin and Creole Languages, 25(2):350–357.

 この宜蘭クレオールの話者は,台湾東部の宜蘭県にある東岳村・金洋村・澳花村・寒渓村の4村の人々。人口は3千未満と推測されている。言語学的には,日本語を上層言語(語彙供給言語),アタヤル語(=タイヤル語)を基層言語とするクレオール……なんだそうです。
※wiki/宜蘭クレオール

日本植民地当局は,1910年代から宜蘭地域においても移住政策を推進した。山奥で暮らしていた人々を,支配しやすくするために,交通の便のいいところに集住させるという政策である。[前掲wiki]

完全な意思疎通ができないアタヤル人とセデック人は,コミュニケーションをとるために,移住後に設置された「教育所」で,あるいは日本人との接触のなかで身に付けた簡略な日本語を,互いのリンガフランカ(共通言語)として使い始めたのではないかと推測される。[前掲wiki]

 ここからは言語学的な主張の対象にはなっていないけれど,そのような状況は日帝治下では普遍的でした。だから,日本語の影響を受けた話者集団が,ごく最近に言語学的に「発見」された宜蘭クレオールだけとは考えにくい。
 まして台湾人は──これは南洋から渡ってきた先住民も,西から渡ってきた漢族も,メディナの知性を備え持つ。移住先の変化と文化を体得する名人集団です。
 兄弟言語の日本語と福建語が,千数百年後の台湾で再び合流し,「日本語の台湾化」を経て新言語を形成する。ことばとは,げに不可思議なかたちを採るものです。