《第十次{24}釜山・南海岸》オレンマネ・ビビンバブの日/晋州(夕)

~~~~~(m–)mRe.晋州編~~~~~(m–)m

비빔밥 和訳:ユッケビビンバブ

▲1611晋州BT切符売場付近
州バスターミナル,ジャスト16時。
 古びたいいBTです。こういうターミナルで時を過ごしたい……けど夕刻の時は少ない。手早く明日の時刻をチェックします。
 釜山行きは何と日に60本以上。昌原はその途中で降りるらしい。鎮海直通はやはりないようです。

▲晋州BTをもう一枚。まったりしたいBTだなあ。

628,BT東側に宿を決める。セリムモーテル,30千w。この周辺はモーテルだらけで迷うほどでした。
 1637,Jangdae-roを急ぎ北行。前回の記憶は全くないけれど,あの店の界隈に入るとデジャヴが巻き起こってきました。
 迷わず入店。迷わずこれを注文。

▲ユッケビビンバブ

年ぶり!
1648天凰食堂 チャンハンシッタン 천황식당
ユッケビビンバブ 비빔밥400 10千w
 店の前のメニューには「ユッケ…」육헉とあるけど店内のには「ビビンバブ」としか書いてない。
 この時間に満席!それも観光客からおばあちゃんまで,つまりまんべんなく超人気!!
 さて,まずはお膳マップです。

①②③
④⑤⑥

①四角いオイキムチ
②干物飴炊き
③平たいオイキムチ
④大根スープ
⑤ビビンバブ
⑥ヘジャンクク

曇りガラスに飲食店 RESTAURANT

▲チャンハンシッタンのヘジャンクク

の天凰の一膳は──ユッケビビンバブが,というより,お膳全体の充実感,完成度を味わうべきだと思う。──ビビンバブそのものは,味が分からないだけだったのならご勘弁ですけど,ここだけの話……まずまずです。
 でも干物も大根スープもイケる。
 一品としては,前回感動したようにヘジャンククは素晴らしい。臓物好きなら同じく心震わせるでしょう。さして辛くもないんですけど血液ゼリーの他に細かい臓物があれこれ入ってて,ひと匙毎に味が異なる。それほどにこれの素材は物凄い新鮮度なんでしょうか?
 イタリア人がハムに感じるような香り高さを,韓国人はかの臓物汁に感じてるんじゃなかろうか?

▲チャンハンシッタンのオイキムチ

回さらに震撼したのはオイキムチ。
 カクトゥギもそういう系統だったんだけど,平たい方がより鮮明でした。
 凄まじいばかりの深漬けです。
 もはや酸味と言えないほどに深い,ほとんど痺れに近い──語弊を恐れずに言えば腐敗する一歩手前のような──味覚が舌を震わせます。

▲チャンハンシッタン外観

て,天凰食堂では「喰った!帰ろう!」では勿体無さすぎます。──店には迷惑でしょうけど。
 食堂の家屋は,六角形や八角形というのではなく,角地の面のみが切り取られたように斜めになってる。この中央のドアが開き戸になってて双方に田の字の曇りガラス。上側は丸まってる。上部には横にスライドする小窓,これも曇りガラスが入ってて
「飲食店
RESTAURANT」
とくすんだ金文字が書かれてます。漢字と英語で,ハングル文字はなぜか無い。

▲奥の家屋

帰るにはまだ惜しい薄暮

をお借りすると,家の奥を指指されたので,ついつい長めに「迷って」みました。
 奥には,庇の反りがない家屋が繋がってるような,妙な建物群になってます。妙な,というか,これは日本家屋を引き継いだ構造でしょうか?

▲パティオの奥の縁側

側が囲む中庭がありました。
 これなどは一見日本にもありそうに見えて,微妙に韓国にしかない縁側です。何が違うのかどうも表現しにくいんですけど──縁側が外向けに出来てない,というベクトルの違いが,一番顕著な差でしょうか?

▲パティオから店側に戻りつつ

凰食堂の界隈は,分かりやすく古いとか格調高いわけじゃないんだけれど,サラッとした雰囲気が無性に居心地がよい。
 位置的には,晋州市場が尽きたその北側外縁になります。

▲チャンハンシッタン東すぐの銭湯の煙突

凰食堂の東隣にはデホタン 대호탕という銭湯があり,高い煙突が立つ。
 これが少し遠くからでも目印になりました。ここを目指せば楽でした……ので主に再三訪時の自分のために書いておこう。
 さて1740。食後の一服も終えたところで──まだ宿に直帰するには惜しい薄暗さです。
 西へ。

▲この夕方の全行程

■小レポ:晋州城史の数スポットを繋げてみる

「久しぶりに晋州であの二食を食べたい」というだけの目的だったので,特にこの町を調べてたわけじゃない。
 わけじゃないから,前章で晋州旧市街へ入るに当たり「左手に山。右手に水豊かな川。川の北側の屈曲の向こうに丘。」などとサクリと書いてしまっているのはお許し頂きたい。
 この「丘」こそが,朝鮮出兵時の激戦地・晋州城だったのです。

[先史]思ったより晋州は古かった

 言っとくけど(今知ったワシに言われるまでもなく)考古学的に最大級の古さです。
 南江が流れ込む晋陽湖の北岸にある大坪面大坪里からは,BC35C~AD5Cの大規模な遺跡が発掘されてます。現在は晋州青銅器文化博物館(진주청동기문화박물관:位置→KONEST map)が建つ場所です。
 wikiになぜか日本語サイトがないけれど,英語サイトは

This site is on the same scale of archaeological importance as Yoshinogari and Sannai-Maruyama in Japan, and Banpo and Jiangzhai of the Early Chinese Neolithic.[Wiki(英語版)/Daepyeong]

──日本の吉野ヶ里・三内丸山,中国の半坡・姜寨(いずれも西安)に匹敵する考古学遺跡だとされてます。

大坪里・上村里遺跡の住居跡遺跡発掘図

 検索すると,多数の論文に参考データとして用いられてるのがヒットします。素人なのでよく分からんけど──
①長期スパン:BC35C~5C,つまり4千年間の住居地ということは歴史層は西安並です。朝鮮の時代区分では新石器時代から三国時代までに相当。
②巨大かつ多様:家屋の跡だけで400か所以上。7/8が正方形ですけど,長方形や円形のものも混じる。これに耕作地,玉造り工房・窯,袋状貯蔵場所などが併設される。
 ただこの遺跡,1995~9年の南江ダムの補強工事での水没地区から出土したものだったため,発掘調査後は水没してます。

[古代]菁州→康州→晋州

 新羅による朝鮮統一後には菁州と称した。これが757年に康州。晋州名を冠されたのは高麗時代です。[wiki/晋州]
 新羅より前,つまり三国ではない任那・加羅の時代に何があったのかは,伝わりません。
 けれど,先史時代からの遺跡出土,地理的要地性から,何か重要な土地だったろう可能性は濃厚です。
 町の名も,三者に全く相関がない。菁청→康강→晋진,漢字の意味,ハングル音とも最大公約数的な要素が読めない。ちなみに城の名としては,三国:居列城(コヨルソン)→高麗:矗石城(チョクソクソン)→朝鮮:晋州城(チンジュソン)と変遷しており,やはりとりとめがない[韓国観光公社]。
 少し先回りするけれど,朝鮮出兵時に晋州城を落とした日本軍団は,籠城者を殺したのみならず,城郭を利用することなく徹底的に破壊します。
 似たようなジェノサイドの歴史が,古代にもあったのではないか?と思わせるほど,晋州の古代は「無音」です。
 朝鮮古代の三国は,いずれも中国系の文化を有していました。任那・加羅などの非・三国系の古代朝鮮が,この無音の音源です。さらにかの無音域が対馬海峡の海人居住圏と重なる。これらの同心円が何を意味するのか,無音ゆえに分かりませんけれど,何かを意味しているのは確からしく思えます。

[中世]内水交易地・晋州の勃興

 李氏朝鮮代の河崙(ハ・リュン,1347~1416年)による地理書「東国輿地勝覧」中「城門記」にある晋州城の記述は次のようなものです。
・城跡だけが残りいつ築かれたのかはっきりとは分からない。
・倭寇の侵入が頻発していた1379(高麗・禑王(ウワン)5)年に晋州牧使・金中光(キム・ジュングァン)が築城したとも言われる。
・当時の城郭は,周囲800歩(≒1km弱),城壁高3キル(≒約7.2~9m)[韓国観光公社]
 朝鮮出兵戦時には城郭周囲約1,760m(4,359尺),城壁高5~8m,城郭内に井戸と泉が各3ヵ所,さらに軍倉があったとされます。河崙記録の15Cから2百年の間に城外周の長さは倍増,軍備も整えられたことになります。
 河崙の頼りなさげな筆致,朝鮮出兵防戦時の義軍の多さから考えると,晋州城は地域住民が自発的に構築した色彩が強いと思われます。居列城・矗石城※といった既存の防衛拠点を原型として,前期倭寇を中心とする海民の襲撃に対抗するために,本格的城砦を構築していったのでしょう。
※ 晋州城内には「矗石楼」があり,論介(後述)が倭将を道連れにした舞台にもなっています。ここが高麗代の原型・矗石城域の可能性はあります。
 ということは,海からの外敵を受ける前は城砦としては極めて脆弱だったことになる。朝鮮内部の軍略上の拠点としては,さして重要と見なされていない。おそらく,中世の前期倭寇と同集団によって内水交易が勃興し,それによって経済的に栄えるとともに襲撃されやすくなった,とも考えられます。
 もう1つ可能な推測は,前期倭寇当時には晋州に南江内水交易による富の集中が進んでいた点です。晋州とこの場所は,防備に最適なロケーションではありません。交易地として栄えたから海賊に狙われ,狙われたから守った,という因果が想像できるからです。
 逆に言えば,本来交易者でもある海民が南江中流域のこの辺りまで入り込んできていたというのは,中国江南の揚州にも対倭寇防御施設が設けられた※と同様,海民の視点からは南江内水域までは対馬海峡海域の延長だったということになります。
※ /※5426’※/Range(揚州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:夜桜の川辺/■小レポ:明初の中国の対倭寇防備

晋州シルクの始まり

 世界五大シルクを自称する晋州ですけど,なぜ晋州だったのか,と問うても「良質のシルクの原料と染色に適した水が豊富なため」[慶南観光ガイド]といった当たり障りのない話しか見当たりません。
 かろうじて見つけたのは高麗史の中に記された13Cの弾劾事件で,遅くともこの頃から晋州の絹織物は名を馳せてます。
 留守東京(慶州の代官職)の權[日旦] という役人が,晉(晋)州副使の白玄錫を弾劾したチクリ状です。古都慶州の地方行政のトップですから,日本なら京都所司代。本当の攻撃目標は晋州のトップであるところを,それでは過激すぎるからと一つ格下に転換してる。
※「高麗史」巻一〇七權[日旦] 北村秀人「高麗時代の絹織物生産について」からの転載による。なお,時期については明記されないが,北村は權[日旦]の就任年代から元宗(1259-74)と推定する。

宰相柳[王敬]謂日、子有文學、不宜為吏、令赴攀、果中第、…、自是揚曆中外、皆以廉勤精明稱、留守東京(慶尚北道慶州)…、舊有一庫、賦民綾・羅、貯之、名甲坊、充貢獻、赢餘甚多、皆為留守所私、[日旦]撤甲坊、以一年所収、支三年貢、…、忠烈初、…、

「綾羅錦繍」で美しい衣服を指すけれど,ここでの「綾」「羅」は絹織物の二次加工品を指します。和服の世界で言うと「綾」は「あやぎぬ」,「羅」は「うすぎぬ」。「賦民綾・羅」,つまり慶州ではこの高級絹織物を税金として民衆に賦課していました。
 納められたものはとりあえず蔵に貯める。慶州から首都漢城(ソウル)の王族に安定して納入するためです。その場所は「甲坊」と言われたとあります。
 晋州の名前は,この続きで登場します。

(続)…、忠烈初、…、其(權[日旦])按慶尚也、晉州副使白玄錫、未之任、先用州吏所赍銀幣、到官、重歛御衣對綾・羅絲價、私用之、…、[日旦]並劾之、…、晉州守崔[日/山]所貢綾・羅麤、王命考之問、邑吏以[日旦]爲按廉、減折絲價對、…

──晋州の副使になった白玄錫さんは,赴任する前から,(晋)州の役人に命じて銀幣を使い,赴任後もさらに重ねて御衣對(皇室献上用衣料)の綾・羅の糸を買い込み,これを私用しました。…私(權[日旦])はこれを弾劾します。…、晋州の崔[日/山]は貢納した綾・羅が粗悪品(麤)なのを王命で指摘された際,村役人が權[日旦]に安くさせられたため,糸の購入費が減ってしまったのだ(邑吏以[日旦]爲按廉、減折絲價對)(と言っているが,それはウソです。)
 最後の辺りは何を言っているのか分からないけれど,絹織物の価格を慶州側が操作して安くしたから儲けが減り,購入資金がなくなった,ということでしょうか?北村さんも指摘しているけれど,それなら税金と言いながら地元産ではなく,街中の市場で高級品を購入していた節があります。
 とりあえずここから分かるのは,
①慶州と晋州で絹織物を巡る経済紛争が起こっていること
②原料糸や,貢納分以外の製品が市場で相当量動いていたこと
 そして驚くべきは
③晋州が,資金量では古都慶州を凌駕していると推定されること
です。この話の中に銀幣は晋州側しか使わないし,二重の購入は不正かどうかはともかくそれだけの支払能力を持っていたことを示していて,伝統とネゴでは圧倒的なはずの慶州を脅かしているからです。
 前期倭寇前のこの段階,元朝下の江南との直接の海路ルートが開けてきて,晋州エリアへ直接に絹製品,さらに一次原料として絹糸を持ち込んで晋州で製作する仕組み,最後には絹糸製造技術が流入していた,という想像も成り立ちます。
 ともかく,中世のかなり早い時期から,交易拠点とそこでの輸出専用品を作る絹産業が並行して勃興していったと思われます。

晋州城の位置

[近世]太閤殿下のお怒りで6万人

 朝鮮出兵で晋州城が攻められるのは,首都漢城陥落後です。
 だから,この城を攻めた局面は,秀吉渡海までの間,半島各地を平定しておく局面でのことでした。──韓国人にとって晋州は「難攻不落の晋州城」であり,2013年には「訪問すべき国内都市」第一位になってる。けれど,この城の攻略は戦争全体の趨勢にあまり関わりはなく,「秀吉が怒ったから」というだけのものです。それで6万人が死んだのだから,悲劇的かつ喜劇的です。
 1592年に細川忠興ら7将約2万の兵が城を4日間攻めるけれど,攻め切れずに兵を退く。
 守る側は決死だったらしい。慶尚右兵使・柳崇仁が敗兵とともに晋州城へ入ろうとした際,格下の守将・金時敏(晋州牧使)は城門を開けず,柳崇仁は野戦の末に敗死。何か確執があった可能性もあるけれど,おそらく地域単位で決死の覚悟の籠城に及んだのでしょう。
 ただ,敗報を聞いた秀吉が激怒。直後にその名代として上杉景勝が援軍派兵されてる。これに「自主的に」伊達政宗が同伴したという辺りは,完全に秀吉のご機嫌伺いです。
 翌年の第二次攻撃は,だから万全を期して行われます。攻撃主将に最過激派の加藤清正と知将・黒田長政。作戦としても「亀甲車」という戦車を考案して城壁を突き崩し,堀川を埋めて城内に突入する堅実な手法を採り,籠城兵6万を皆殺しにしています。
 城郭は完全に破壊されたから,軍事拠点にしたかったわけでもない[BTG,wiki/晋州城攻防戦]。まさに「秀吉が怒ったから」以外の何でもない。

後世に描かれたノンゲ像

英雄キーセンとローマで描かれた朝鮮人

 城の中央棟・矗石楼で,日本軍は戦勝を祝して宴会を開いたとされる。出席者は,加藤清正,黒田長政,島津義弘,鍋島直茂,宇喜多秀家,石田三成,毛利秀元,小早川隆景,立花宗茂,伊達政宗などなど確執も因縁も,かつ8年後の関ヶ原での直接対決も控えた巨頭揃い。
 なので,怨執に燃える朝鮮側もこれを狙います。論介(ノンゲ 논개)と知られるキーセン(朝鮮式コンパニオン)が日本の武将に抱きついた格好で投身自殺してる。一説には「体格から加藤清正と間違えた」とも言う。──この論介さんは「義妓」と呼ばれ,実はキーセンではなく身分の高い家柄だとか伝承も付加されつつ英雄として祀られるようになります。

ルーベンス「韓服を着た男」

 この人は晋州ではなく開城(現・北朝鮮領)出身とされるけれど,アントニオ・コレアと伝えられる韓国人です。
 事の発端は,1983年にロンドンのオークションにルーベンスの画「A man in Korean costume」(韓服を着た男)が出品されたことに始まるらしい。ちなみに,同所史上最高値の32万パウンド余(約7千万円弱)で落札されており,当時注目されたのでしょう。
 これとは別に,フランチェスコ・カルレッティというイタリア人が長崎で,後にアントニオと名付けられた韓国人を購入し,1606年に帰国したという記録がある。アントニオは転売されてフィレンツェ,さらにローマに住んだ,と書かれます。
 ルーベンスの生年は1577~1640年。うち1605~8年のローマ滞在記録があるから,アントニオが描かれた可能性はある,という仮説が組まれます。
 さらに,イタリア南部奥地のアルビー村に住むコレア姓を名乗る人々を,1990年代に一部マスコミが報道します。
 かなり危うい。
 論理の強引さ以上に際立つのは,現代韓国人による偏向解釈が強く働いていることです。けれど,朝鮮出兵で殺され,売られた祖先の一人でも,何かの形で元気に成功した,という可能性を手繰りよせたい気分はひしひしと感じます。
 現在,晋州の夏の風物詩として知られる南江流灯祭りは,広島の平和祈願の燈籠流し,とかと異なり,文祿・慶長役時の戦術(水軍の偽兵?)あるいは城外との通信手段として用いられた「流灯」が起源──と晋州市の公式サイトにまで記述されてます。
 戦国末期の日本には軍事的散歩だったとしても,それよりは平和を満喫していた朝鮮側には衝撃的に災難な戦争だったのです。
晋州城の範囲

[現代]晋州市場はどこにあるか?

 上の図は晋州城を復元したものです。
 かなり大きい。南江の屈曲部の最北点から東の山際までを占める格好です。それも川筋に沿った南以外はぶよぶよとした不正形です。
 南江は内城のあった微高地にぶつかって流れを変えていると思われ,城郭の中心はここしかなかったのでしょう。それが,東と北に市街を拡大させた後,倭寇の略奪からの防衛上,市街までを含む外城を築くことになったと思われます。
 前掲の位置図をもう一度ご覧下さい。

晋州城の位置

 現代の市場の位置は,この外城部分にほぼ該当します。
 コネストの紹介でも,市場の起源は李氏朝鮮時代とします。古くは「五日市」として運営されたものが,日帝時代に毎日営業の常設市場に拡充されてます。そこから数えても110年余の歴史を持つ。[コネスト/晋州中央市場]
 おそらく,日本軍団が無人化し,城壁と内城は破壊したでしょうけれど,あまり軍事的意味を持たない外城の市街部分は,街区の構造程度は残存したのでしょう。このエリアを起点に,晋州の賑わいは再興された,と推測してよいと思います。

晋州城を沖縄Xしようとしたけど失敗した件

 歩いた感じ,けれど市場内に城跡らしき廟も壁も見かけた記憶がありません。
 下の図は,前掲晋州城図の東北側城壁(上図)と,現在の地図(kakao:中図がブロック,下図が航空写真)を比較したものです。黒指が内城壁の屈曲,白指が外城壁の屈曲,さらに黄指がこの日に訪れた天凰食堂の地点です。

晋州城壁と現在市街との対比図

 外城(白指)の位置はどうも心もとない。食堂東に90mほどの丘があり,これを城外に置くとは思えないから一応丘の東側を推定しましたけど,これだとやや距離が出ます。
 内城壁の湾曲は,道の形と位置としてはかなりもっともらしい。周囲と全く異なるこの道の湾曲は,それ以外に説明できないように思えます。──ただ,下図(航空写真)で見ると痕跡は窺えません。
 朝鮮出兵軍もこの街路までは壊せなかったはずです。おそらく,市場の繁栄と常設化に伴い現在の条里型の区画が開発される過程で,上図(晋州城図)にあるような既存の流れるような曲線群はほぼ姿を消し,湾曲の独特さからかろうじて残ったのが黒指部の道筋なのではないかと考えます。
 天凰食堂界隈の不思議な静寂は,常設市場以前に外城庶民街の中心であったであろうこの地区の名残りなのでしょう。

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