《第十次{23}釜山・南海岸》オレンマネ・ビビンバブの日/順天

将軍に別れのご挨拶

スターミナル・へン?」
 バスに乗り込みがてら運ちゃんに問うと「イエ」(そうだ)と答えてくれました。ずっと分からなかった「■■行き」は「ヘン」(행)でいいらしい。──ただ,
釜山行 :부산행→プサネン
ソウル行:서울행→ソウレン
と「■■」の最後の音と融合しちゃうから,この場合は正確には「バスターミナレン」という発音になってしまって理解できてなかったみたい。
 1213,32番バスにて麗水港を発つ。李将軍像のロータリーで左折。登りになった。望海楼が見える。
 さらに左折。バス停ヨス何とか。KINGSTARというピザ屋。
 農協東支部と漢字の出てるバス停。
 この辺の西側山裾もなだらかな坂道が続いてる。ということはこの道は等高線ラインなのだろう。
 さらに左折。でも方向は北行。ゆっくりとだけどぐんぐん登る。右手山裾に幾つか反りのついた家屋。
 アナウンスに英語が入ってる。
 山手のハイウェイに入る。2つ先がBTとアナウンス。──これがようやく聞き取れるようになりました。
 ターミナルで下車してすぐ,順天(순천:スンチョン)行きの切符を購入。1233行き乗車──と思ったらどうも乗り遅れで,これは1242発のバスらしい。でも10分置きの便だし,あんまり皆さん席を気にしてないみたいで,そのまま適当に座ってることにしました。
 このBTは三方に小山がある。林層はかなり豊か。枯れた様子も植林の気配もない。
 え?1241に出発?時間より早いぞ?これならさっき乗れなくても当然やん!

JR呉線広駅の朝鮮通信使マンガ

順天倭城を通り過ぎ

故かバスは西へ?
 いや?すぐ北西に折れた。さらに緩く登り続けてる。辺りは小さな工場やマンション。
 そうか,順天は半島の付け根,それは北西方向になるのか。
 15階建てくらいのマンションが続く。右手に丘,左手は下り坂。等高線ラインらしい。
 前方に尖ったおにぎり山が見える交差点。直進。次を右折した。既にルートは全く分からない。でも半島の中途の鞍部に入ったのだと思う。
 左手にロッテマート。小さなBT。おそらくダエポ里대뿌리。
左の脇道に入った?いや旧道か。
🚐
りに入りました。山が尽きた。
 そろそろ順天の町──いや?半島鞍部の中間の窪地のような場所らしい。つまりこの辺が倭城のある辺りか?
 1306。ついに位置情報をオン。あれれ,まだまだ全然鞍部です。右手にグラウンド。
 この道の名はヨスン路。漢字はおそらく麗順路。
 突然激走。登りになった。丘の上に教会。
 埋め立て部を差し引くと昔の地勢が見える。山がちな場所で,縦深陣地を作れば強そうな場所です。
 つまり……この鞍部の右手がかつての順天倭城のエリアです。港の形からも,旅順に匹敵する海陸の守りに適してる。要塞化できる起伏に富んでる。
 なぜここに,朝鮮側でなく日本側が●●●●拠点を築いたのでしょう?

[後掲再掲]順天倭城頂上部の遺構

西の視界が開けてきた。1320。
 倭城は魅力的だけど,これは半日必要だろう。多分行き着けるとは思うけど,城そのものにはそれほどにはやはり拘りがない。
 一路晋州へ向かおう。
 順天は寂しく感じる町です。のっぺりしてる。土地が豊かだから将来性はあるのでしょう。
 1326順天駅。鉄道で釜山まで動く手もあったか。BTから歩ける距離ですけど……やや自信がない。接続時間を考えるとバスの方が無難だと、思う。
 水流豊かな川を渡る。
 順天BT(バスターミナル)下車。

~~~~~(m–)m順天1h編~~~~~(m–)m

順天BT付近のカカオ地図(航空写真)とうち南西ブロック

※GM.の同地点→順天総合BT:GM.
430便の切符を取りました。すぐの乗り換えもあったけれど,この町,どうも気になったのです。
 当時はカカオでなくGM.のボヤけた画像を見たと記憶しますけど,BT(上画像の右上のバスマーク)の南西一ブロックのみが,綺麗に揃ってはいるけれど粒が小さくカラフルで,他ブロックと色彩を違えてる──と言ったら納得してもらえるでしょうか?
 とにかくそんなとこで,1時間,このブロック歩きに充ててみたのです。
 えーとまずは?BTから南の歩道 Jangcheon gil1からブロック外縁へ。侵入路を窺いましょうかね。

~(m–)m 順天1時間の行程 m(–m)~

▲1347Jangcheon gil1を南へ

우섹3길 ウセク3ギル

석 Useok 1-gil へ右折。1348。
 古い地区,というわけではなさそうです。ただ,作り込んである感じがある。単に金をかけてる豪邸というのでなく,それぞれの家を大事に,工夫を重ねた形跡がある。

▲1352反り返った古屋根,白ペンキてかてかの柵,ナンセンスな組合せがなぜかマッチしてる。

い!
 表通りとは隔絶した,驚くほどの落ち着きがある。少しだけ高級住宅エリア,ということでしょうか。それにしてはお高い感じはあまり受けない。
 1353左折。ad 하인제 Hainje 3-gil。

▲1354 Hainje 3-gil。白壁が良い。右上の住所表示は「우섹3길」(ウセク3ギル)とある。

섹 usek 3-gil ウセク3ギルへ右折。1354。
 煉瓦は新しい。なのに感性が古い。
 西に緩く登ってるようです。べったり整地されてない。土地造成された時点は古そうです。
 下の写真の見かけでは遠方は山になっているから,軽い裾野の傾斜なのかもしれません。

▲1357 usek 3-gilのややアパート街めいた道

や普通の韓国の下町っぽくなってきたか?
 1359右折。1-gil。
 T字。u1-gilへ左折,これで北行のはずです。

ポッと残った化石

▲1359 不思議な干しものの並ぶ軒先の十字

の辺りが市場ディープだった気がします。
 オバハン方が道を挟んで座談会。
 路地は公園です。子どもが走り回りっとる。

▲1401 十字街の丸まった角地。朝鮮にこんな家屋形式あったっけ?

の辺りになると,ソウルの仁寺洞北市場裏の辺りを思い出します。
 韓国には,何かの拍子だと思うけどポッと残った化石エリアが現れることがあります。
 都市開発が均等でないせいなのか,幸運な間隙が時折残る。

韓国海軍軍事拠点

▲1401 T字路。この赤い車のせいで完全に車両通行不能……のはずなんだけど?

とも海とも関係ないこのブロックに,なぜこんな場所が残ったのか,それは全く分かりません。土地勘もなく,町の中での位置づけも分からない。
 順天の歴史は古い。16Cの国定の地誌・東国輿地勝覧に記事があります(後掲)。中世の痕跡があっても不思議はないけれど,この時歩いた南西エリアはそれほどは古くない。ただそうした年輪は形成されてておかしくはない町ではあるのです。

▲1403こちらの筋は,半ばを車両が塞ぎ,残る半ばをオバハン軍団が……。

道に還る。1404。
 日射が厳しい。これまでの寒い秋旅と一線を画す。
 ジャンオを食いすぎて懐が淋しい。少し空いた時間でコンビニのATMに行くけどうまく引き出しできない。日曜日の今日は開いてないけど,このままだと,明日銀行へ行って現金両替するしかない。
 ――――そう言えば,この南海岸ではえらく昌原市には第5戦団の3個戦隊,潜水艦司令部付き6戦隊,さらに2011年にソマリア沖で海賊に乗っ取られた韓国商船を奪還(アデン湾の黎明作戦)して世界最高水準
評された海軍特殊戦船団がある。若い顔が目立つのは,実戦部隊以外に司令部・軍需司令部に付属した教育司令部や士官学校があるかららしい。「らしい」とか他人事じゃなくてまさにその軍事拠点こそが,平和な日本人が「斎浦」へ向かおうとしていた鎮海だったのですけど……。

▲1410バスターミナルにて若い水兵とすれちがう。

麗水が平地の中にある日

주!」(晋州 チンジュ)と叫ぶ運ちゃんの声に追われてバスに乗り込む。1421。
 チケットの検札がバスによって違うので戸惑う。ここまでのバスは降りる時に渡したけど,このバスは乗る時に回収された。晋州行きの客だけだから,つまりノンストップ便だからか。
 1429出発。韓国のバスって予定より1分ほど早く出るのは当たり前なんだろか。怖いな。
 さて……晋州のどこに着くのかな?聞いても分からないから,降りてから何とかしようと思ってます。

順天(左:青ドット)→晋州(右:赤ドット)ルート図

ず北西へ。
 途中の町にはえらい数の道に並ぶ物売りがいました。良くも悪くも田舎じみたいい町です。
 1444,ロータリーから高速へ。IC West Sunchon。
 なお,kakao地図を少し拡大した状態でしか映らない不思議なものに――――次の埋め立て計画図がありました。これをやると,開発著しい麗水と隣の半島が直結することになり,結果,従来は大回りしないと行き来できなかった半島部の相当な面積が準平野状態になることになります。この半島だらけの海域からすると,歴史上なかった状況変化が迫ってきているわけです。

麗水の半島と東隣の半島を結ぶ埋め立て工事計画?

川岸の古い石垣

ッシュにはまった。1530日曜日の釜山方面だから,とはいえここでというのは何だろう?
 GM.を見るともうかなり近くまで来てる。進行方向は北を向く。
 1540。市内へ入ったか。位置情報オン。
 え?――――通り過ぎてね?
 あ,ロータリーを降りてるのね。東西方向のS字の川筋の東側地点。
 西行してる。アナウンス。タムン(次は)・チンジュヨク(晋州駅)と聞こえた。ということは終点は市外BTっぽい。そこならば前回のエリアに近いからラッキーです。
▲1435晋州に入る

筋の石垣が一部古い。海運がここまで来ていたのでしょうか(後掲)。
 左手に山。右手に水豊かな川。川の北側の屈曲の向こうに丘(次章巻末詳述)。
 15階ほどのアパート群。
 タムン(次は)・チンジュシ(晋州市)バスターミナルとアナウンス。間違いない。
 煉瓦造りのビルの一階にあるParis。
 街路樹の好い道から川を渡る。川沿いにはやはりモーテル多数。右折。
 1600ジャスト,晋州に立つ。

■レポ:海域世界の輪郭としての晋州-順天-麗水ライン(順天倭城)

 晋州入り二回目,と言うのがお恥ずかしい限りですけど,この晋州侵入バスの車窓から見た石垣の古さが意味するところは,この時全然分かってませんでした。
 この点からまず入って行こうと思います。

洛東江から西へ流れる最大支流・南江

 南江は大きい。地理的な配置としては東西に流れてます。全体が南北に延びる韓国にこんな川は稀です。
 日本の川に例えるなら「四国三郎」吉野川が近い。(幹川流路延長194km(国内12位),流域面積3750平方キロ(同17位)) 長さに対し流域面積が少ない,つまり山容を縫って流れる暴れ川です。

南江(なんこう、ナムガン、남강)は、韓国政府統治下の河川で、洛東江の諸支流の中で最も大きい支流。流路長193.7kmで、洛東江の他の支流である琴湖江・乃城川・甘川・渭川・黄江・密陽江などの平均値である118.7kmより長く、流域面積は3466.3km2で、他の支流の平均値1794.4km2の約2倍である。 [wiki/南江(慶尚南道)]

洛東江とその支流・南江の流域図

 南江の中流域にあるのが晋州。海や海岸経由の移動が自然状態では難しい韓国南部の東西間を結ぶ,稀有な東西ルートであるこの南江の水運の拠点として,晋州は歴史的な位置を占めてきたわけです。

韓国,キョンサンナム (慶尚南) 道を流れる川。ナクトン (洛東) 江の支流。チョルラプク (全羅北) 道との境界に連なるソベク (小白) 山脈のトギュ (徳裕) 山付近に源を発して南流する。チンジュ (晋州) 市で北東に向きを変え,ナムジ (南旨) 付近で本流に入る。ソベク山脈は夏に南西からの風が地形性降雨をもたらすため,下流では水害が多かった。 1969年にナム江ダムが建設され,洪水が防止された。また発電,灌漑,工業用水の供給などに利用されている。チンジュ市はナム江の水運の要衝として発達してきた。[ブリタニカ:南江]

古・洛東江下流としての南江

 上流では北から南に流れる洛東江は,中流でほぼ直角に折れて東行,下流で再び南に転じて日本海に注ぎます。
 これも普通にはあり得ないことですけど,南江の存在とその流域を合わせて考えると,むしろ自明のものに見えてきます。

南江=旧洛東江本流イメージ

 洛東江は中流域で馬山北方部の山塊(通称がありそうな気がしますけど今のところ不明)に突き当たり,東か西に迂回せざるを得ない。当初は西に迂回して晋州を経,四洲辺りで海に注いでいた。でも山間部だったので,堆積が進むと東への迂回の方が楽になり,現流域に転じた。
 つまり,南江は「洛東江故道」だと思われます。
 なぜか韓国の地理情報にこれをはっきり書いたものがないのですけど──中国で山東半島部にぶつかる黄河の「黄河改道」を想起すれば,それほど古い時代ではないと考えます。
▲黄河历次改道示意图(黄河の歴代の改道イメージ図)
※図原典 維基百科/黄河改道
※参照:/※5454’※/Range(淮安→徐州).Activate Category:上海謀略編 Phaze:廃黄河は西へ/■小レポ:試論・淮水中心中国史観 ①基礎:黄河大改道

 そうなると,馬山北方の山塊は半島あるいは「島」だった,という時代があると考えられます。これならば,南部沿岸に連なる地形からも自然な地形に見えます。
 古地理学では,少なくとも現・洛東江下流の金海エリア,つまり今釜山の空港がある辺りは湾だったことまでは通説化しているようです。

 この時期(引用者注:3世紀)の韓半島側の交流の中心は金官加耶である。その故地である金海地域は現在、洛東江河口の広い平野となっているが、古環境研究によれば、加耶時期には広い湾を形成していたと考えられている。[朴天秀,2021]

 半島中部が中核になった歴代統一政権からは,南部は辺境だった時代が長く,中国ほど歴史書に記されることもなかったものと思われます。
 この長い前書きで言いたいことは──現・南江ラインより南,西は順天辺りより南は,瀬戸内海中部や対馬の浅茅湾の島嶼のような海域世界だったという共通認識を,まずベースにして頂きたいからです。それがないと,朝鮮出兵最末期のこのエリアが理解しにくい。

「小江南」順天の歴史の層

朝鮮時代の地理書『東国輿地勝覧』では順天について「山や水が奇妙できれいであるため、世間では小さい江南と言われる」と書いてある。[Korea net]

 原典に当たれてないけれど,古代から中世の中国江南──堆積が進まず切れ切れの砂州が連なっていた江南の地理には,相似るものがあったでしょう。

楽安邑城から北へと約17km離れた曹渓山(チョゲサン)の山奥には1千年の歴史を持つ古寺、仙岩寺(ソナムサ)と松広寺(ソングアンサ)がある。[Korea net]

 朝鮮史上の順天地域は,確かに歴史はあるけれど,周辺域あるいは僻地という印象が否めません。次の人口に関する記述(同じく出典不詳)でも,17Cまでのこの地域に,少なくとも戸籍人口は非常に少なかったとされます。

実際の記録を見ると(引用者注:順天地域には)1618年(光海君10年)には麗水まで含め1,239人、1881年(高宗18年)には3万847人が住んでいた。1923年には人口が急増して10万8,779人、1960年には昇州郡と合わせて20万8,085人(略)[Korea net]

 17・18Cの二百年ほどで20倍以上の人口,というのは極端な移住が行われない限りあり得ないから,統計的な誤謬でなければ,海人の陸上がり,もしくは戸籍人口登録の進行があったのでしょうか。
 それ以前,17Cより前の順天エリアは,朝鮮の陸上民が普通に住んでいる状態の場所ではなかったという事までは,十分に想定して良いと思います。

6C大加耶領「任那四県」⊃順天・麗水……説

 17C以前の順天エリアが単に人口がいない僻地,ではなかったというのは,このエリアを古代三韓の「任那」に比定する説があることで僅かに支えられます。

 5世紀中葉の大加耶は高霊を拠点に成長し、黄江水系、南江中上流域、蟾津江水系、南海岸、錦江上流域に及ぶ広域圏を形成して、加耶史上、画期的な発展をみせた。こうしたなか、大加耶が南江上流域に進出した直後から大加耶の文物が日本列島で出現するようになる点が特筆される。(略)
 大加耶は南江上流域に進出した後、南原盆地に南下し、求礼を経て蟾津江河口の交易港である河東を確保するとともに、麗水地域を占有したと考えられる。[朴天秀,2021]

 任那≒大加耶と呼ばれる勢力が,要するに海民の緩い結合体だったと仮定すると,同じ母体から「東征」したての新興大和王権と親和的だったのも自然な成り行きです。
 以下の朴天秀の名称比定はやや強引なものにも見えますけれど,これを前提にするならば,順天から晋州のベルトを最前線とした任那≒大加耶の中核──というのは海民の場合,陸上民と同じ意味では存在しないのでしょうけれど,主要根拠地の一つ──に麗水が比定するのは不自然には思えない。

 6世紀前葉、大加耶と百済は任那四県と己汶・帯沙を巡って熾烈な攻防戦を開始する。ここではまず、任那四県は百済と大加耶の国境に該当する地域でなければならないという前提にたって出発したい。(略)任那四県の領有記事に大伽耶との関連は見出せないが、百済が大加耶の領域である己汶・帯沙地域を攻略することから、これと連繋した任那四県は前者とともに元々大加耶の圏域だった地域と推定される。これは任那という名称を倭人が加耶地域を指す地名として使っている点とも合致する。(略)
 順天地域では大加耶式高塚である雲坪里古墳群が6世紀初めまで造営されることから、これらの地域はこの時期まで大加耶圏域に属していたと見るべきである。
 任那四県の沙陀は、沙平という古地名と雲坪里古墳群から順天地域と推定される。牟婁は、馬老という古地名と百済によって造営された馬老山城から光陽と見られる。哆唎は地名だけでは判断できないが、順天、光陽地域と連結していて蟾津江河口一帯で鼓楽山城が最も早い時期に百済によって造営されたことから、麗水地域と推定される。この地域は出土土器から4世紀代には阿羅加耶、5世紀前半には小加耶、5世紀後半には大加耶と連繋していたと想定される。[朴天秀,2021]

 任那≒大加耶説を前提にするならば,古代から17Cまでの千年ほど,対馬海峡海域世界の最もディープな場所が晋州-順天-麗水のベルトだったと考えてよい。
 この海域世界が,陸上政治勢力に管理されるきっかけは,前期倭寇に対応した李氏朝鮮の誕生でした。そしてその完成は,秀吉の朝鮮出兵を駆逐した後の海防体制でしょう。半島南岸の朝鮮系海民が戸籍人口化したのも同時期なのでしょう。
 こうした時空間認識の上で,その最末期の光景としての朝鮮出兵退却戦を見ていきます。

上:順天倭城 下:同海域中の位置(いずれもkakaoマップ航空地図)

海域勢力の対陸前線としての順天倭城

(前日夜のメモ)
順天倭城入口 순천왜성입구 というバス停がある。市庁から順天BTバス停(パルマ路)を経て21路が40分強で結ぶ。へえ~。でも行かないけどね。

 順天倭城は現・順天市街の南東,麗水の半島部の付け根で,この時にバスから眺めた場所で間違いありませんでした。バス停も確かにある。ただ,かなりきつい道を歩くようなので,マイカーかタクシー貸切で行くのが現実的なようです。
 また,周囲の埋め立ては,地図で見ても相当進んでるし,城壁もどうも作りモノ感が強い。今回の行程中では中止して正解……でした,残念ながら。

順天倭城頂上部の遺構

倭城の構築と背景

 ただ,写真で感じる「作りモノ感」は,戦国期の築城技術の粋を集めた最高度のものだった,という意味でもあるらしい。だから(ワシは違うけど)城壁マニアの方にはちょっと垂涎かもしれません。

釜山博物館の羅東旭(ナドンウク)学芸研究官は、人工的に切り出された石と自然石とが混在する石垣から「当時戦況が緊迫し、築城を急いでいたことが分かる」と話す。とはいえ三方を海に囲まれ、残る一方も堀を築いて海水を引き込んだ城は堅固で(略)[西日本新聞]

 何が垂涎かと言って,築いたのは宇喜多秀家と藤堂高虎です。秀家はともかく(失礼),現・江戸城の構築を主導した藤堂高虎です。
 ここに加藤清正と並ぶ朝鮮役の総大将の一人,小西行長が入ったのです。

慶長の役が始まると、渡海した日本軍には、全羅道を成敗し、忠清道へも出動すること、その完了後は城郭群を帰国予定の大名が担当して築くことが命じられた。全羅道掃討中に開かれた井邑軍議で順天郡内へ小西行長の居城を築くことが決定している。全羅道掃討任務を完了すると、予定通り進出地を引き払い、順天郡の光陽湾奥部の沿岸に1597年11月から、宇喜多秀家、藤堂高虎によって築城が始められ、突貫工事により城は12月に完成し、小西行長に引き渡された。
[wiki/順天城の戦い]

 だから2か月足らずで構城されたとは言え,戦国期の技術の結集だったと思わざるを得ません。
 注目したいのは,これほど力を込めた築城地点をこの場所に選んだ意図です。先の地図の広域図をもう一度ご覧頂きたいのですけど──

(再掲)上:順天倭城 下:同海域中の位置

──北から迫る明・朝鮮陸上軍団を意識した防衛拠点であることは明白です。けれど,この場所は,海峡側からの補給を受ける前提がないとまず維持できません。
 日本側が,征海権に絶対の自信を持てる状況だったのでしょう。
 これは,この退却戦時に結果的に大きな損害を出さなかったことでも分かりますけど,それ以上に,初期の朝鮮渡海段階での海戦や海上奇襲が日朝いずれの史料にも書かれないのが如実にそれを証明しています。
 そういう意味でも,文禄・慶長の役([朝鮮名]壬辰・丁酉倭乱,[中国名]万暦朝鮮之役,万暦朝鮮戦争)は「大倭寇」だったと思います。後期倭寇残党の海上勢力の掌握という点では,関係三か国中,日本・豊臣政権が最も先んじていた。そもそも,その事の自信が朝鮮出兵の動機になった可能性すらあると考えます。

双方の戦力:四倍か二倍か?

順天新城の完成後は、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の5氏13,700人が在番していた。
1598年秋、明・朝鮮連合軍は(略)一大攻勢を企画し(略)西路軍、水軍が順天に攻撃目標を定めた。西路軍は明軍21,900人で劉綎が率い、朝鮮軍は5,928人で権慄が率いた。水軍は陳璘率いる明水軍19,400人、朝鮮水軍7,328人は李舜臣が率いた。[wiki/順天城の戦い]

 13千:55千と見ると4倍ですけど,13千人は在番していたとすれば陸兵です。他に海上部隊がおり,それは対馬海峡を面で押さえていた。
 明・朝鮮陸兵のみだと28千。それでも日本側の2倍以上ですけど,攻城側に必要な3倍には達していない。まして戦国日本の最高技術を注いだ城と立地で,27千の明・朝鮮水軍は点の支援しか出来ない。
 ただ,武将の顔を並べると──小西・松浦・有馬・五島・大村。西九州の水軍国が勢揃いした感じです。陸戦,特に城塞の防衛の得意なメンツとは思えません。

順天城戦と日本軍撤退関係図[楽天]

順天倭城攻防戦と露梁海戦の推移

 順天倭城からの退却路を確保するための露梁海戦と合わせて,経緯を年表にまとめておられる方がおられたので一部を転記してみます。

●順天倭城の戦い
09.18 劉テイの偽交渉で小西捕獲の策略に失敗。明鮮陸軍が順天倭城を攻撃。
09.19 順天倭城を明鮮水陸軍が同時攻撃。
(略)
10.09 明鮮陸軍が後退。
10.10 明鮮水軍が左水営へ後退
[楽天]

 次も含め,概ねwikiの情報を整理してあるようです。
 にしても……20日間,水陸両面の総攻撃を受けた,ということになります。城塞が優秀とは言え,西九州の水軍国群がこれに単純に耐えられたとは思えないのですけど──とにかく明・朝鮮連合軍を撤退させています。
 朱書にしたのは,明・朝鮮水郡が「左水営」へ撤退したとする記述です。この点は先述(麗水(朝)編/朝鮮出兵時には麗水港は無かった?)のように,wikiは「10月9日」に「古今島」(莞島郡古今面)に撤退したと記してますけど──後述します。
 露梁海戦はこの撤退から1ヶ月後,日本側が順天倭城からの撤兵路を確保するための海戦です。

●露梁海戦
(略)
11.10 (引用者注:順天倭城から)船出するも明鮮水軍の挙動不審につき順天倭城へ帰還。
(略)
11.17 島津・立花・宗・寺沢軍が水軍となり順天倭城救援に進発。
11.18 明鮮水軍が順天倭城封鎖を解いて島津水軍迎撃。露梁海戦でトウ子龍・李舜臣が戦死、島津水軍は撤退。
11.19 小西水軍、早朝に順天倭城の脱出に成功。
11.20 小西水軍が南海島へ上陸した島津軍を回収。
[楽天]

 かくして日本からの侵略軍は残存部隊なく引き揚げることになります。

疑問点:籠城にしては動き過ぎる

 けれどこの両戦の経過には,相当根本的な疑問があります。
① 順天倭城は1万3千もの日本武士が「籠城」できる規模か?現存する敷地に如何に巨大な建物を築いたとしても,山城です。収用できるのは3千人(山中城クラス)がいい所に見えます。なお,支城があった形跡はないし,そんな地形もない。
②「小西水軍」は籠城戦中,どこにいたのか?船を城内に収用は出来ないから,陸だけでなく海からも20日間攻められたなら破壊されるはずです。けれど南海島の島津残存部隊を回収しているのだから,小西水軍は撤兵まで健在だった。
③明・朝鮮水軍が近海に潜んでいる状況で,小西水軍はなぜ撤退を敢行したのか?同じ兵船でも,積載する人数と兵種によって戦力は全く異なる。1万超の兵を積んだ船は水上戦力としては半減以下でしょう。
──と考えると,日本側のメンツからしても,城に籠って砦に寄っての防衛戦,ということではなかったように思えます。ある程度広範囲で対陣し続けたか,城外を遊撃していた部隊が過半はいて(おそらく海上から)ゲリラ戦をしたか,というのが実情に近いのではないか。

1万3千籠城の順天倭城仮定図

 感服すべきことに,BTGが韓国のこの城についても分析をしてました。以下3枚の画像が,13千人の日本兵が籠城したという前提で描かれたもの。後の2枚は明代の絵巻の一部として紹介されてますけど,出典は定かでない。

順天倭城復元模型(出典不詳)

東、南、北の三方向を海に囲まれ、唯一、西側のみ陸地につながっていた。
小高い岬部分(標高50m)を最高地点とし、徐々に高さが低くなる傾斜部分に本丸、二の丸、三の丸の郭が設けられていたという。三の丸外の外城部分には、多くの木造土壁の家屋が立ち並び、兵士らが生活していたようである。[BTG 順天市]

 そう高所でもないこの城に13千人がいたとすると,当然こういう形で高所以外に兵があふれていたことになります。
 以下の明代の絵巻は,描かれ方からして,現地兵数から逆算した一種のシミュレーションのように思えますけど,それでも仮想として意味を持ちます。

順天倭城(明代絵巻より_西側)

城内の総面積は316,800m2で、十分な兵員と兵器、食糧を備蓄していた。また、この城には大手門に虎の口タイプの城門が一つだけ築造されていたことからも、出撃重視の城ではなく、あくまでも守備重視の城郭であったことが分かる。[BTG 順天市]

 けれど,守備を重視した場合,こんな形のほぼ平地に設けられた城になるものでしょうか?この配置だと,高所の有利さはあまり生きず,単に西側の侵入路がやや狭いというだけになります。
 BTGサイトには郭が想定された部分の石垣の写真もあるけれど,3~4mに見えます。かなり低い。大陸の市城とは比較にならない。この石垣に寄って「籠城」が出来るものでしょうか?

順天倭城(明代絵巻より_西側)

 絵巻では奥行きが見えないけれど,こんな風に騎馬の明兵が長々とした低い石垣に押し寄せて来るのを,おそらくは長篠の合戦よろしく鉄砲で迎え撃ったことになります。
 上は城の西,陸側ですけれど,東の海側は下のように描かれます。
順天倭城(明代絵巻より_東側)

 西の海側城壁下には,攻め手の水軍と対峙する船舶が描かれてます。対陣中,小西水軍が健在だったという前提に立たざるを得ないからですけど──
 水軍が,こうした形で段差下の浮き砦として用いられるものでしょうか?
 これでは水軍特有の機動力は発揮できないし,止まっているなら陸上砦と同じです。崖上から矢を射掛けるとか,他のもっと有効な方策が幾らもある。西九州の最強水軍がそんなことをするでしょうか?しかも──

陸続きの部分は鉄壁の守備体制が出来上がっていたが、その他の3方向は海に面しており、単に木柵が二重、三重に設けられているだけであったという(その中央部分に楼閣付の木門があった)。これは船舶を防備しやすいという理由とその出航の妨げにならないように、という理由であったといわれる。しかし、ここの海は満ち潮と引き潮時の高低差が大きく、これが利点にも弱点にもなりえる地形にあった。[BTG 順天市]

 最後の記述の潮の満ち引きの高低差を考えると,干潮時にはこの位置の小西水軍は完全に動けなくなります。
 明軍側の記録者が,大陸の平地での戦闘の常識で記した記述を,絵巻の作者がさらに大陸的着想で描いたものがこの絵のように思えるのです。
 戦国末期の,おそらく海賊を交えた日本兵側は,もっと無茶苦茶な,神出鬼没な動きをして明・朝鮮軍を苦しめたのではないでしょうか?陸兵は南の山並みに隠れて奇襲を繰り返し,あるいは北から補給路を遅い,水兵は崖下に寄せた明・朝鮮船を背後から攻め,あるいは崖下から外海へ縦断するというような。

「奇跡の撤退」はなかった

 とすると小西軍,特に水軍は割と自由に活動していた前提になるから,明・朝鮮水陸軍が倭城を「同時攻撃」したというのはかなり誇張だと思えます。
 少なくとも大陸での「籠城」と言えるような状況になった時期は,かなり短期だったのではないでしょうか。
 その一か月後の露梁海戦においても,この日本側に余裕がある状況はあまり変わっていないように見えます。

明・朝鮮側は、待ち伏せであったにもかかわらず、結局は小西行長軍を取り逃がしてしまった上に、(略)逆に李舜臣、鄧子龍、李英男、方徳龍、高得蒋、李彦良ら諸将を戦死させて失った。一方、日本側は小西軍の撤兵は成功させたものの、夜間の待ち伏せから開始された戦闘は終始不利であった。(略)戦術的には苦戦を強いられた日本軍の勇戦がめだち、(略)[wiki/露梁海戦]

 李舜臣の伝説のメイン舞台となったこの時期でも,明・朝鮮側は征海権を握るほどではなかった。
 小西水軍の撤退は,対馬海峡に敵水軍が絶対に現れないと判断してから行われた。一か八かの脱出ではありません。西九州と南九州の当時最強の水軍国群が,そんな危険を冒すとは思えません。

順天倭城の小西軍は封鎖が解けたのを見て、19日早朝に順天倭城を船出し、海戦の生じた朝鮮半島南部と南海島北部の海峡ルートを避け、南海島の南を大きく迂回して翌20日に、無事巨済島に到着した。小西軍が露梁海戦に参加することは無かった。同じく20日、南海島に残った樺山ら約五百の島津兵も順次海路を使って収容し、西部方面の日本軍は撤退を完了する。[wiki/露梁海戦]

──といった奇跡の撤兵が,実際は「余裕の撤退」だったとすると,さらに根本的な四点目の疑問が浮かびます。

朝鮮出兵段階で「全羅左水営城」は実在したか?

 上記の戦況図にも書かれるように,麗水には朝鮮水軍の左水営城が置かれたとされます。これが後の鎮南館である,とするのが通説化してる。

全羅左水営城(全羅南道麗水市)
李舜臣率いる全羅左道水軍の拠点。朝鮮時代後期に建てられた鎮南館が現存する。[倭城ナビ]

 けれども,麗水の地形は閉塞した湾ではありません。征海権を握った状況での拠点にはなるけれど,日本側にそれがある状況下で明・朝鮮水軍が籠れる場所ではない。
 もしここに敵水軍根拠があったなら,日本側は,その同じ半島の付け根に北方に備えた城を築くでしょうか?
 また,先の人口記述──1618年の順天~麗水エリアの人口は1,239人──からしても,麗水に万単位の水軍を居留させたりメンテナンスをする施設があったとは思えません。水軍の集合場所にはなったかもしれないけれど,人的な補給を行えたとは考えにくい。
 麗水は,日本兵撤退後に,再侵攻を警戒するために,朝鮮統治側が初めて開発した軍事拠点だった,としか諸方面のデータからは読めないのです。
 その意味するところは,日本側が強かった,というようなナショナリズムな話でもなくて,前期倭寇から16Cいっぱいまでのこの海峡がどの国の水域ということもない,海民の自由生活圏であり続けた,ということだと思います。日本側は西九州水軍国を通じて,明・朝鮮よりは海上勢力を御してした。
 そういう意味では,秀吉は朝鮮出兵を通じてこそ海民の生活基盤を最も破壊した,と言えるのかもしれません。

[参考資料]順天倭城関係

KOREA.NET Mobile Site 自然と人間、伝統と現代が共存する順天 ::
URL:https://m.korea.net/japanese/NewsFocus/Travel/view?articleId=133220
西日本新聞/【ポイソ!釜山】朝鮮出兵の歴史伝える順天倭城跡 3カ月で築城、堅固な守り
URL:https://www-nishinippon-co-jp.cdn.ampproject.org/v/s/www.nishinippon.co.jp/item/n/554610.amp?amp_js_v=a6&amp_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16335909475517&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&amp_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.nishinippon.co.jp%2Fitem%2Fn%2F554610%2F
朴天秀(慶北大学校教授)「3-6世紀における加耶、新羅と倭」「国際シンポジウム 講演資料集 5世紀の倭と東アジア」堺市博物館,2021年
URL:https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/event/kokusai_symposium.files/shiryo.pdf
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ナム(南)江」
URL:(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%83%A0%28%E5%8D%97%29%E6%B1%9F-108519
楽天ブログ【泗川】 秀吉の朝鮮出兵の終わり頃 【露梁】 | 1592-1598 –
URL:https://plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/diary/200805200000/?scid=wi_blg_amp_diary_next
倭城ナビ/全羅左水営城 –
URL:https://waeseong.jimdofree.com/%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%8F%B2%E8%B7%A1/%E5%BF%A0%E6%B8%85%E9%81%93/%E5%85%A8%E7%BE%85%E5%B7%A6%E6%B0%B4%E5%96%B6%E5%9F%8E/
BTG『大陸西遊記』~大韓民国(全羅南道)順天市~
URL:http://www.iobtg.com/K.Suncheon.htm
wiki/順天城の戦い
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
wiki/南江 (慶尚南道)
URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B1%9F_(%E6%85%B6%E5%B0%9A%E5%8D%97%E9%81%93)
wiki/露梁海戦
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

「《第十次{23}釜山・南海岸》オレンマネ・ビビンバブの日/順天」への1件のフィードバック

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