目録
街角にぽわんと城壁
え?ここなの?
1230,歩道の角の石垣を折れると,突然に熊川邑城は姿を見せました。
堀跡までばっちり残ってる。後方のマンションが非現実に見えてきます。ただ,この石積はどうも新しい雰囲気です。
観光的には倭城じゃない熊川巴城
「倭城」として造られ,使われた,との文字がどこにもない!
世宗創建の朝鮮城というテイストで統一した案内表記に,まずビックリしました。それが日本語併記で書かれてるのです。つまりここは,公式には倭城以前にあった城の遺跡で,日本による侵略は無視されてる。
考えたら当然です。例えば元寇でモンゴルが築いた砦が,北部九州に一つでも残っているでしょうか?
円形の虎口がはっきりと残されてます。造りは新しいけれど,純粋に韓国の施設ならまずこんな物騒な構造は創出されないでしょう。
郭も広い。江戸期の一国一城で象徴的に残された日本の「名城」と違う,血の臭う実戦型城郭です。
南を見やると,空の色にくっきりと映える城壁と堀。
対比,というよりここに倭城がある,というのを無視しようとしてるような都市開発です。
おそらくこの「倭城」整備も,ごく最近までは隠避されてきた文化財だったのではないか,という匂いがします。
なかったことにしたい歴史
何となく,動く気が失せました。
BTGによると,この南の熊川倭城(山城)近辺には「倭城村」という集落がある。当時はそれだけ軍兵一色になったのでしょう。
何が残ってたとしても,ここまで現地民に嫌悪(というか好かれる歴史のはずがない)されてる文物に,遮二無二肉薄するのはフィールドワークとしてどうなんだろう?
最後に斎浦方向を撮影。これは……何もない。ここまで痕跡が無くなるものなのか。つまり──文物の物語を生き継ぐ者がいなければ。
▲城壁から民家を最大拡大で撮影。古い民家は一棟のみ,他は韓国の郊外地の新集落に見える。
Gregorio de Céspedes グレゴリオ・デ・セスペデス(1551~1611年)というポルトガル人が,熊川倭城に侵攻した日本軍に従軍し,キリスト教宣教師としては記録に残る初めての朝鮮入を果たしています。
守将の小西行長はじめ有馬、大村、五島、平戸、天草、栖本ら各将や兵士らは、本丸下の山麓部分の海辺(河口付近)にて居住し、その家屋の周囲にはそれぞれ石垣が設けられていた。 兵士らは巨大な家屋に共同生活していた。宣教師である自分と、小西行長の弟であった興七郎とヴィンセンテは、本丸内に居を構え、ここで洗礼式や告白を行った。[前掲BTG]
※ wiki/グレゴリオ・デ・セスペデス
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%B9
▲城壁上から熊川集落。齋浦方向の高台を見る……けれど,最適ルートは実はこちらではなかった(前章巻末参照)。
かくも壮麗な倭城も,現在残るのは山頂部分の高さ2~8mの石垣が総延長700~800mのみという[前掲BTG]。BTGは倭城村の住民が建築資材として再利用し尽くしたのではないかと推測しています。
地元が「なかったこと」にしようとしてる地誌は,掘り起こされるべきものか?
満員のバスから見下ろす鎭海港
웅천 熊川 ウンチョン──とバス停で初めてハングルを確認します。
1308 315路で帰路につく。隣のオバハンがビックな人物で,こちらは半ケツですけど……まあ一息つく。
地理感覚は理解できた。ここなら海から攻めない限り半独立を保てたでしょう。逆に,強力な海上軍事力が突然攻めれば,全くの奇襲にもなったでしょう。
拠点にしてしまえば,普通には熊川からだけしか近寄れない。それに熊川自体が三方から,今もこうなんだから当時はほぼ孤立無援だったはずです。
峠。今度は心に余裕があるので鎮海海を一望。
確か東郷艦隊もここを根城にしたはず。これは確かに良港です。軍港としては強い。港口に島影で蓋がしてあるところまで呉や長崎そっくりです。
ただ造船など工業施設は見当たらない。でも,今車内に満載されてるこれだけの人口が実際にいる。おそらく施設は偽装か地下かで簡単に目立つものではないのでしょう。
うとうと……と眠りに入りかけたところで──驚愕の怒声!
「アジュシ!ケンチャウサはここか?」
ワシか?よりによってワシに訊くか,お爺ちゃん!
あれだけ乗りあぐねてた韓国バスに今回は当たり前に乗ってる。バスしか選択枝がないから後先考えずだけど……何とかなるもんだなあ。
英雄像ロータリー。これもイスンシンか?
1342,鎭海下車。食堂に直行。
1346元海楼
チャンポン 짬뽕 510
真っ赤なのに辛くない?逆輸入中華チャンポン
げげっ……!
チャンポンと読めたので気楽に注文したんだけども……真っ赤になったトマトシチューみたいな碗が出てきました。覚悟して口に運んだけど,幸い味覚は色ほどには辛くはない。
具は日本の長崎ちゃんぽんにそっくりで,イカやタコの切れ端が入ってる。野菜はそれほど山盛りではない。
麺は普通だけどややボサボサ。旨いかどうかというと正直微妙だけど……南海岸でしか食べれない料理ではある……んだろうか?
以前追っかけてたコリアン中華(→外伝02-5중국집:《第五次初日》チャンポンの日)とは完全に違う。全くの中華でコチュジャンめいた調味は感じない。でもこの色は,コリアン中華のチャンポンの中華逆輸入版……に思えます。
にしても……ここに何で中華があるんだろう。中国語看板が多いのも確かです。メニューにも「간짜장」(カムジャジャン?じゃがいもの……何?)なる謎のものもありました。
勘定の際,試しに中国人だと嘘を吐いてみると──彼ら,何といきなり中国語を話し出した。してみると……本当に中国人の多い町っぽいのですけど……鎭海に中国人が集住するという情報はネットでは見つかりませんでした。
■記録掘起:薺浦1994
この数ヶ月後の対馬行き(→009-1豆酘\対馬\長崎県)の際,関係書籍※の中に齋浦に関する記述を見つけました。
※ 佐伯弘次「日本史リブレット7 対馬と海峡の中世史」山川出版社,2008
上記は齋浦など「三浦」と呼ばれた日本人港の人口記録です。「恒居倭」とは日本人定住者。総数22百人余中,75%が齋浦居住です。
十五・十六世紀の朝鮮で日本に対して開港された薺浦(せいほ・チェボ 乃而浦(ないじほ・ネイボ))・釜山浦(ふざんほ・プサンボ 富山浦)・塩浦(えんぽ・エンボ)の三浦(さんぽ)には,日本の使船や商船が入港したが,しだいに日本人が居住するようになった。三浦に居住する日本人は恒居倭と呼ばれた。(略)朝鮮はたびたび恒居倭の人口調査を行っている。これによると,もっとも多いときで,約五〇〇戸・三〇〇〇人の恒居倭がいた。詳しい統計が残る一四七五(文明七)年三月の数を表にしたのが次ページ表(引用者注:上表)である。この表によると,三浦恒居倭の総戸数は四三〇戸で,総人口は二二〇九人であった。三浦のなかでは,薺浦がもっとも人口が多い。男女ほぼ同数であり,年少の者から老人までいることは,家族単位での居住であることを意味する。貿易のための一時居住ではなく,むしろ移住と考えたほうがよい。さらに,寺院が一五カ寺もあることは,日本の生活文化までも移入されたことを示している。[前掲佐伯]
もう一つ目立つのが「弱男」「弱女」と記される,人口比1/4になる人数です。老男・女は別にカウントされるから,年少者としか考えにくいけれど,それにしても多い。定義がはっきりしないから何とも言いにくいけど,移住・定住の側面が他の二浦よりはるかに強かったことは窺えます。
■史料:熊川薺浦之図
下の図は朝鮮が15-16Cに日本方面の海域を調査した海東諸国紀の図中,「熊川薺浦之図」と題される頁のものです。
▲申淑舟撰「海東諸国紀」中「熊川薺浦之図」
※ 同「東莱富山浦之図」\《第十次{44}釜山・南海岸》/富山倭館(東)
朝鮮出兵前です。方形の熊川城ははっきり記されるけれど,齋浦は明記されません。対岸の地形もひどくぼんやりとしてる。
ただ複数の寺が書かれてます。
趣旨的に齋浦がターゲットではないにせよ,伝聞でこの程度しか認知されていない土地だったと思われます。
■資料:薺浦の埋立前の光景
佐伯さんが自ら撮影したらしい写真画像です。
相当数の漁船が浮かんでいます。家船と目されるようなタイプではなく,それどころか操舵手の居住空間もない,吹きっさらしの船が目立つ。沿海漁業用の漁船だと思われるものばかりです。
水深の浅さから,交易は釜山に,軍事は鎭海に株を奪われ,漁村としてはかえって安逸を取り戻した姿だったのではないでしょうか。
昔を偲ばせるものは,1994年段階で佐伯さんが記す限り,次の写真の棚田様の段だけだったらしい。
しかもその場所を,佐伯さんは「峠から齋浦にいたる坂の中腹」と書きます。かなり探し回って,これだけしかなかった,という印象です。
移住の規模から,小規模な畑を設けていたでしょうからその跡なのでしょう。してみると,家屋や港湾の跡は完全に現集落に吸収されてしまっているということでしょうか。
塩浦は現在の蔚山市内であるが,工業地化によって大きく景観が変わり,古い景観はまったく残っていない。釜山浦は現在の釜山市内であるが,これまた都市開発のため,景観が大きく変わっている。(略)子城台の丘陵以外にはまったく面影が残っていない。
これに対して,熊川(ゆうせん・ウンチョン)の齋浦には『海東諸国紀』の地図(引用者注:前掲)のような古い景観が残っていた。峠から齋浦にいたる坂の中腹には,倭館の跡と考えられる段々畑があり,古そうな石垣が残っている。瓦や陶磁器も出土している。しかし,近年,齋浦周辺で大型の港湾開発が始まり,かつて恒居倭たちが活動していた対岸の島とも埋立てによって陸続きになった。港内の発掘調査によって,壬辰倭乱時につくられたという防御のための逆茂木が出土した。[前掲佐伯]
最後の部分,港内から出土したのが朝鮮出兵時の朝鮮側の防御施設だった,というのも注目されます。
1510年の三浦の乱と1544年の蛇梁倭変は,齋浦が中心となった日本人の反政府暴動と見られます。1547年の丁未約条で朝鮮-対馬間の国交が回復した後,交易港は釜山一港のみとなります。16C後半の齋浦は(その後の経緯からおそらく退去されてはいないので)非公式な日本人居住地になっています。
当時,三浦最大の日本人居住地だったここに,秀吉軍の上陸があることを何らかのソースから事前に予期していたのでしょうか。あるいは二度目の来寇に備えたものだったのでしょうか。
その際にここにいた日本人,主に対馬の人々はどういう形で災難に遭い,実際の上陸作戦時にどんな戦いが行われたのかは,史料には残されていません。