《第十次{43}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/釜大下り坂

釜山ナンバースリー繁華街

右(青ピン):釜山大学正門 ~ 左(駅マーク):釜山大駅(kakao航空写真)

山大学(地下鉄1号線、釜山大学前駅)の付近は西面、南浦洞に並べて、釜山の3大商店街(繁華街)として有名[後掲wiki/釜山大学校]

ということに,知らないうちになってるみたい。個人的な旅行歴としては,南浦洞より西面,西面より釜山大と流れてきました。
 上のkakaomapをご覧ください。この画像の左手西側が釜山大学,青ピンが釜大正門で,ここから右手東側の鉄道マークまでが繁華街。特に店が立て込み個人的に迷いこみたくなる界隈は右下東南ブロックで,道の乱雑さで家屋のドットが小さい。町の節々に残る路地から考えて,東南ブロックが特に古い訳ではなく,釜山大正門付近が再開発の中心として資金が投じられやすかったからで,元々はこのエリア全体が東南角のような様相の地区だったのではないかと思っています。ただ,あまり古い写真や考証はありません(巻末参照)。

▲「1이一상」。一人定食専門店,という感じか。

OMPOSE COFFEEでアメリカーノの休憩を終え,学生街をうろつく。7.5千w位で定食を出す店が,増えてきてる感じごします。上掲「1이一상」という店にはプルカルビ定食とか惹かれるメニューもありました。
 これがあったのは旧き善きデジクッパブ屋の隣。縦に細長いこれらの店群も,まだまだ健在です。

地下の豚魂と三階の脱出屋

▲魂豚(再掲:《第十次{25}釜山・南海岸》オレンマネ・ビビンバブの日/晋州(夜) +@)

クランブル交差点東南角の地下,三桁時代から何度も目を奪われてきたショーケースに韓国風トルコライス(の模型)が並ぶ店の名は──「魂豚」と判明いたしました。ハングルではどんなニュアンスの言葉なんでしょう?

▲校門通りの交差点

変わらず,というかさらに増えてるこの界隈の変な店。
 例えば店名mission escape??何をする店じゃ?というよりこの不気味さで三階まで上がる客はいるのか?

▲「mission escape」(再掲:同前)出店階が三階に決まった段階で,店名を変更しなかったのが敗因でした。

お前らなんかAKだぞ

て東南ブロックです。ここを必ず通る,というか迷いに入るのが癖になってきました。
のエリアの何が面白いって,無茶苦茶に入り込んでいる細道です。都市計画の痕跡がゼロ。雑居地が無秩序に形成された隙間が道になった感じです。初めて入ると,上の写真みたいな危険な印象もお感じになるかもしれません。

▲路地裏。しゃがみ喫煙者

けど,それがそれなりに通路として機能してる。
 そこにまた乱雑に変なお店が乱立してる。人通りもまばらなんだけど,常連がいるんでしょうか?店の数は割と多い。これはその街角の寸景ですけど……何やら不穏当なアルファベットが見えてきてます。

▲「All Kill」の看板が…

ll kill」。皆殺し,あるいは「皆殺しにしろ」と穏やかならぬ店名ですけど,これが路地の奥の奥の凄い場末にあるのが,ノスタルジアです。
 正面に「AK」と略語にされているのも,これまた常連の方の覚え易さに配慮されてて,逆に暖かみを感じなくもないですね。

▲略してAK

釜山大の坂は百変化

r.고로게」という揚げパン店,これホントにあちこちに出来てます。「コロケ」と読めるから,日本語のコロッケが何かの誤認でパンについてしまったんでしょうか?でもそこにさらに──「PREMIUM RICE CROQUETTE」と英語が付されてる。米粉なの?

▲表の駅前通り。ビックリ顔広告

の写真は,何度か撮ってるアングルですけど,地下鉄駅から西,大学側の緩い斜面を振り返った坂道の眺めです。人が流れこむ様子が面白くてつい目を取られる。
 この坂の様相は,時間によっても大きく異なる。夕方の混雑は確かに西面や南浦洞を思わせるのに,朝はともかく昼も時折,なぜか異様に閑散とする。学校の休日や試験シーズンなどと関係してるのかもしれない。
 それを差し引いても,年々進化を続けて行ってるのも確かです。ただ,こんなブレの大きい場所なので非常に分かりにくい。

▲駅前通りの坂道

国のホームに必ずある二点セットの緊急呼び出しボタン。えらく大仰なスタイルです。112が警察,119が消防だそうなので,韓国旅行時には覚えておきましょう。ワシは忘れてましてけど。
 それはともかく,さあ!いざ釜山鎮!
 1322,地下鉄にて釜山大から南行。

▲ホームの警報装置

■先行研究:釜山の昔の海岸線

 釜山の地歴は,現地形からはどうにも推量できないものが多い。今回,釜山での調べに際して基礎条件になった「昔の海岸線」関係のファクトをまず一挙に並べておきます。
「昔の」というのは近現代の埋め立て前,ということです。洛東江の堆積が重なった金海のような,自然地理による変化ではないので,時代はそれほど複雑ではなく,朝鮮王朝代・江戸期以前はそうだった,という理解でよいようです。

①釜山広域

出典:BTG大陸西遊記/釜山広域市プサン
URL:http://www.iobtg.com/K.Busan.htm
▲東莱~釜山鎮~水営 トライアングル

 今は温泉とナクチポックムの町・東莱を本拠として,その海側に釜山鎮と水営。
 後者二者は海岸沿いです。水営は麗水にも置かれた水軍本拠たる軍の役所です。この三角形が旧釜山の原構造になってるようです。
 ただ分からないのは──この地図に描かれる東莱は,北の山域の南出丸のようです。北の金井山は円状の防壁で守られた山城として描かれている。この高台がそんな機能を持っていた時代があったのでしょうか?──秀吉朝鮮出兵時の緒戦で東莱城での戦闘があり,この時描かれたらしい「東萊城殉節図」(下記wiki参照)には山の南の城しかなく,北の山中で朝鮮軍が抵抗したらしい話は残されていません。
※ wiki/東萊城の戦い
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%90%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

②南埔道~釜山駅付近

出典:埋立で広がった釜山
URL:http://busan.chu.jp/korea/old/map/umetate.html
▲埋立地推定線

江戸時代に對馬藩がいた日本人居留地(草梁倭館)は この場所で少し狭い2/3程度での敷地で石垣で囲まれた交易の場所 でした。[前掲埋立で……]

ともあり,この地図の左下,チャガルチを西から見下ろす高台が,対馬藩が先取りした交易地だったことになる。後の風俗街の辺りでしょう。
 赤線部が旧海岸線ですから,今より水道は二~三倍もの太さだったわけです。今の国際市場一帯がまるまる日本人居住地で,南埔道のメインロードの高みが海岸線の堤防だったことになります。ここに堤があったということは,この日本人居住地そのものが明治以降に日本人が陸地化した低地で,それ以前は沼地のような悪所だったことを想像させます。
 するとさらにそれ以前の,人間が住めた陸地は,国際市場北端のもう一段高い東西路,地下鉄中央駅~土城駅を結ぶ道路のラインと見るのが確からしい,ということになるのではないでしょうか。

③南埔道~中央駅前

出典:昔の海岸線の散歩
URL:http://busan.chu.jp/korea/fukei/toko/sea.html
▲「昔の海岸線」著者の推定海岸線

 地図は右手が北になっています。赤いラインが当時(②によると大正時代の埋立前)の海岸線です。
 記述中で同著者の歩いたところによると,石井カルビ~太陽荘モテル~釜山ホテル~東新ホテルのラインだという。
 この地点は古写真も残っていて,下写真に同著者の引いている赤線が,上図の赤線に対応しています。
 南埔以西側や影島側にも同様の漁村が広がっていたものと推測できます。

明治初期の南埔道~中央駅付近の入江

■特記:釜山大学長箭キャンパスの歴史記述

 地下鉄釜山大の位置について,唯一見つかった歴史記述について触れておきます。何とこれがえらく古い。

新羅の高僧元暁が金井山で修道中、文運の司るところ(現在の薬学大学と人文大学の間) で「文昌台」と名づけた。1950年代、当時西区(忠武洞)にあった校舎が狭い敷地で拡張する必要があった。初代総長ユン・イング博士は偶然この由緒を聞き、すぐ移転を決めたという。
ユン・イングは元暁にちなんで釜山大学の校庭を暁原(효원;ヒョウォン)にしたという。この名称は学校を表すときによく使われている。
※ wiki/釜山大学校
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1#:~:text=%E7%9B%9B%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82-,%E6%B2%BF%E9%9D%A9,%E3%82%92%E8%BC%A9%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82&text=1953%E5%B9%B4%209%E6%9C%88%E3%80%81%E6%97%A7,%E3%81%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%A8%E5%90%88%E4%BD%B5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
※※原典らしきもの ^ 釜山大学FACT_BOOK2011
元URL:http://www.pusan.ac.kr/KOR_PNUS/html/01_intro/intro_05_01.asp
→現行URL不詳

 元暁※は生年617~686年,新羅代の最初期の華厳宗僧。
※ 日本語の通常の読み:がんぎょう,時に「げんぎょう」
ハングル表記:원효(ウォニョ,ここから英語ではWon hyo)
本名:薛思(설사 ソルサ,日本語読みで「せっし」,英語表記 Seol Sa)
諡号:和諍国師
俗姓:薛,名前は誓幢又は新幢

 弟子の審祥が日本に華厳宗を伝えたとされる。ために東大寺など南都の寺院でも伝説が伝わり,高山寺にある「華厳縁起」にも盟友たる義湘とセットで登場します。

「華厳縁起」中の日本へ渡海する朝鮮僧・審祥

 元暁著「判比量論」(はんぴりょうろん)が光明皇后の蔵書に見つかっています。

これに新羅語による書き入れがなされていたことが明らかとなり、日本の漢文訓読や片仮名の起源が新羅に求められる可能性が高まってきました。元暁の子薛聡(せっそう)は新羅語による漢文訓読の方法を考案したとされていますが、その子仲業(ちゅうぎょう)は779年に新羅使の一員として来日します。この時、日本の文人淡海(おうみ)の三船(みふね)は元暁の孫に会えたことを喜び、仲業を歓待します。[後掲国立歴博]

 一方,義湘の方は662年(別説:835年)に梵魚寺を創建したと伝わります[後掲日本大百科参照]。
 だから,金井山に元暁の時跡があっても不思議ではないけれど,「文昌台」に関するデータはヒットが全くありません。
 逆に,大学移転時に調べてこれだけしか出なかった,というのは,この釜山大エリアが人里離れた土地であった時代が長いことを意味するのかもしれません。
 現代なら東莱から地下鉄で3駅の場所です。①の東莱-釜山鎮-水営の三角形の中だけが陸上国家側の釜山で,その外は海人の土地だった時代が近代までのこのエリアだったのではないでしょうか。

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