m190m第十九波m鉄の暴風の香を裂き海の沸くm1(間奏)うるま新報1巻(ニライF65)

終戦20日前の「うるま新報」創刊号

て久米村の浜のシンボルだった仲島大石の場所は,旧那覇バスターミナルからカフーナ旭橋に変貌を遂げています。

 沖縄県立図書館はこのカフーナの3~5階を占めるメイン施設。吹き抜けのある新時代の素晴らしい図書館になってます。
 旅行初日の12月27日が,今年最後の開館日。県立図書館にて,15時からウルマ新報縮刷版第一巻,1945~47年の3年分に目を通しました。
 気がつくと19時を回ってた。
 石原昌家「戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―」(おきなわ文庫,2018∶主要部は前章参照)が語る1950以後の摘発状況の前史を追う作業です。

うるま新報1945.8.15日号

* 1945年7月25日 戦後初めての新聞が発行 – 沖縄県公文書館
URL:https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/5970

るま新報」は不二出版の創刊。米軍占領後始めて新聞刊行を始めました。日本に先立って日帝軍国支配を抜けたため,内地の無条件降伏の前月,1945年7月26日から,ガリ版ながら刊行されています。
 当時の沖縄県民の姿を知る貴重な資料であるのは,疑いを持たない。
 1945年8月~1951年9月分が2分冊の「うるま新報」縮刷版になってます。なお1951年9月10日(867号)以降は,継続改題紙である「琉球新報」の復刻版とされています。
[1945年5月]港の見える丘より見渡す沖縄の首都那覇市
撮影地:那覇市
アルバム名:米海兵隊写真資料16

*写真が語る沖縄 沖縄県公文書館
URL:http://www2.archives.pref.okinawa.jp/opa/searchpics.aspx

史料の性格∶石川収容所での創刊

るま新報創刊について通常知られるのはこの辺りまでです。ただ,この創刊が行われた終戦前という時点からも推測できることですけど,創刊場所は石川収容所。民間人収容所中で最大規模,米軍の施設に近く島民側のコアとなった収容所です。
 具体的には──1945年8月15日,おそらく日帝本国の降伏と同時に(米)軍政府は石川民間人収容所で128人の民間人による全島住民代表者会議を開催。この会議で中央政府設立の準備機関として沖縄諮詢会が発足します。うるま新報はその前段階の軍政府施策でした。
 初代新報社長・島清が語る新報刊行の発端は──

米軍人に「この混乱状態で住民はニュースを渇望していると思う。新聞を発行してくれる人はあるまいかと、市長と小橋川所長に問うたところ、君意外に適任者はないといわれて、相談に来た。軍の援助で新聞を発行してくれる気はないか」と持ちかけられたことによるそうだ。
*【沖縄戦:1945年7月26日】「ウルマ新報」創刊 情報を統制する統治者としての米軍と瀬長亀次郎、そして沖縄人民党|棒兵隊|note
URL:https://note.com/bouheitai1958/n/nd0f6f491874d

 島清は戦前,社会大衆党那覇支部を結成,社会主義勢力を結集していた政治家です。この「米軍人」は市長と収容所長と同格で調整を行う軍民政サイドの要人と見られます。かつ,新報発足が軍の財政援助があったことも語られています。

軍機関紙からの独立戦争

 この新報の当初の性格付けについては,その後の(沖縄人)民政府と軍政府の調整会議(軍民連絡会議)会議録に記録される議論が参考になりますので,以下掲げておきます。
*沖縄県公文書館 戦後初期会議録 軍民連絡会議
URL:https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/list_sengo.php

 年はいずれも1946年です。

「ウルマ新聞ノ機関ハ軍政府ノ機関トシテ置カル」

五月二十四日(金)午後三時半
  出 席 志喜屋知事、又吉、當山、當銘、大宜見の諸部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
軍政府
  ウルマ新聞は総務部に属す。
 又吉部長
  新聞社は独立させたいと。
 軍政府
  ウルマ新聞は総務部に属すべしとの指示がある。
  ウルマ新聞の機関は軍政府の機関として置かる。
  予算は総務部に編成す。指示は明日持って来る。

報の民間移管を考えていたらしい民政府側の意向を,ワトキンス少佐は(上部からの)指示だとして軍政府機関に位置付けています。予算も軍政府直轄です。
 どうやら,民政府では又吉部長と書かれる人を筆頭てする新報の独立志向があり,それを軍政府が軍機関紙たる従来位置に留め置こうと圧力を強める感じの記述がさらに続きます。

五月二十七日(月)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉・護得久両部長
  軍政府 ワトキンス少佐。
 軍政府
(略)
  うるま新聞の印刷機の所有者は誰か。
 又吉部長
  島社長の話では本部の仲原氏のものと云って居る。
 軍政府
  戦争中にうるま新聞には軍政府からも付属品が行って居るが軍政府の所有となって居る。
  新らしいものを買ったとのことであるが。
  何故必要か。其代金は何処から出て来たか。
 又吉部長
  新らしい機械は宮古から買ってきた。
  羽地の上地氏のものを軍政府に引上げられて、其も持って来たらしい。
(略)
 又吉部長
  うるま新聞に来て居た宮古からの機械は返戻した。
  現に使用して居るのは那覇の松下印刷所のものである。二個ある。軍政府のものは使用出来ない。
 軍政府
  島氏所有の証拠があるか。
 又吉部長
  吾々の考へとしては軍政府のものと思ふ。
  新聞社の職員六十三人居るが将来六名減じたいと思ふ。

味は十分に理解し難い。ただ,
①印刷部門が米軍の供与機以外の機械を,何か不透明なルートで独自に入手し,頒布を開始したこと
②その入手ルートは米軍絡みのものだったこと
③新報の活動が,軍政府の圧力を受けて民政府が抑制するほど,何かの点で両政府と対立しつつあったこと
は汲み取れます。
 その一か月後までの間に,島社長はとうとう「独立宣言」を行っています。

六月二十八日(金)午後二時半
  出 席 志喜屋知事、又吉部長。
  軍政府 ワトキンス少佐、後任のラブリー少佐。
 軍政府
  うるま新聞の島氏が直接軍政府に書面を送って該新聞は彼の財産であると申出て居るが。
  島氏は斯ることをすることは出来ない。総務部を介してやるべきである。
  島氏は其財産を見付ける役目をしたのであって彼の所有物ではない。
  警察か総務で調査をさせる必要がある。彼の所有物であったか否かを。
  国際法によれば軍政府が必要と思へば所有物を取上げることは出来るが、而し其物品を他人に与へることは出来ない。
  島氏が自分の所有として人に譲ることも出来ない。
 又吉部長
  一応軍政府で取上げて後貸して貰いたい。
 軍政府
  新聞社の元の印刷機の所有者を調査せよ。
 又吉部長
  印刷機の元の所有者を調べて見る。
 軍政府
 ◎此際はっきりとさせることがよい。

の結果,ということでしょう。島初代社長は事実上解雇されます。その後任として新報を継いだのが──

七月一日(月)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉副知事。
  軍政府 ワトキンス少佐、後任のラブリー少佐。
諮詢事項
 軍政府
  軍政府の交替であるが陸軍政府は海軍政府の取った政策の精神を踏襲するものである。而し方法に於ては変更あるかも知れない。
(略)
  うるま新聞に陸軍が沖縄再建のために働くことを期待し又住民も陸軍政府の期待に副ふ様にと云ふ諭告を出す。
(略)
 又吉部長(略)
  新聞社の活字の所有につきて説明す。
 軍政府
  島氏の新聞社長につきて知事・副知事は如何に考へて居るか。
 志喜屋知事
  島氏は日本に帰へりたいと云って居る。
 又吉部長
  瀬長亀次郎氏に社長を譲りたいと云って居る。
 軍政府
  社長の後任は知事・副知事の推薦により副長官の許可を受けること。
(略)
   本日午前十時から軍政府に於て軍政府陸海軍移管式挙行。
   民政府知事以下各部長出席。

はり全貌は分かりかねるけれど,軍政府の海軍から陸軍への移管,新報の軍プロパガンダ紙から民営への独立と並行するタイミングで,瀬長亀次郎が二代社長に就任。この時の編集長・池宮城,配布所責任者・兼次佐一や浦崎康華などが沖縄人民党の初期主要メンバーになっていきます。
 長々と触れているのは,情報源が決して政治的に偏らないソースではない,ということは前提にして読んだ方がよい,という点を押さえておきたいからです。

勾留から釈放された瀬長亀次郎

政経状況∶表裏経済の絶望的な乖離と統合の時代

状況は,この一日目で理解できたという実感でした。
①当時の沖縄は,必要な食糧の半分しか生産できず,外国の援助なしには生存できない状況だった。
②しかし鉄の暴風にさらされた沖縄が輸出できる商品は,黒糖や硫黄の他は米軍からの「戦果」しかなかった。
③その結果,統制経済下の価格差から,戦果の無節制な調達と闇貿易へと沖縄経済を急激に変貌させた。
 ここまでは,事態の急激さに差はあるけれど倭寇の時代と似た構造です。
 でもそれに対応した資本主義の権化アメリカは,明清のような統制・取締一辺倒にはならず,巧みな市場操作施策をとります。すなわち
④事態の根本である価格差を均衡経済策と補助金で強引に抑え込みながら,あくまで二次手段として取締りを行った。
 だから闇貿易の旨味は急激に減り,その時代は短期に終わった。
 経済行政として実に辣腕です。今日見た期間,1946年頃にはアメリカ側は密貿易問題の本質をしっかり認識している。そして価格差の低減策を1947年にはとってる。その結果,
⑤数年の間,激しいインフレに見舞われた沖縄は,一時密貿易の激化・強硬化に走ったけれど,実経済の方が価格差に追い付いてしまって1950年代には裏経済を吸収して行った。
──と読める事実群なんですけど……沖縄側の前に,本当に米軍政というのはそれほど巧みで有り得たのでしょうか?

[1945年12月]第53港湾大隊から見た那覇港の波止場の風景
撮影地:那覇
アルバム名∶占領初期沖縄関係写真資料 陸軍10

米海軍軍政時代の学者軍人

と刀」で知られるルース・ベネディクトが著名ですけど,当時アメリカは日本研究に第一線の文化人類学者を動員しています。沖縄の軍政のマニュアル「民事ハンドブック 琉球諸島(Civil Affairs Handbook, Loochoo Islands)OPNAV13 –31」も文化人類学者ジョージ・P・マードック(George P.Murdock)らによるもので,その認識は基本的には沖縄人は日本人と異種としています。
 当初,米軍は沖縄の海軍基地化を考えていたけれど,錨地として適さないと判断したらしい。1946年7月に陸軍に軍政を引き継ぎます。ただ,それまでの11か月間の軍政はマードックに始まり,「学者軍人」**とも言われる政治学者
ジェームズ・T・ワトキンス(James T.Watkins)やウィラード・A・ハンナ(Willard A.Hanna)などによる,日本以上と言っていい理知的,場合によっては理想主義的な色彩を帯びた軍政が,少なくとも施策レベルでは行われたようです。
*仲本和彦「民事報告書に見る米国統治下の米軍の民事機能」『沖縄県公文書館研究紀要 第19号』,2017年
*小川忠「米国の対沖縄パブリック・ポリシー(1940-1968)の研究 ―琉球大学の創設と沖縄知知識人の反応」2012/第1章 沖縄戦から琉球大学設立に至るまで(前史)
**宮城悦二郎『占領者の眼:アメリカ人は<沖縄>をどう見たか』那覇出版社、1982年、72頁

 その片鱗を見せる記録が軍民連絡会議議事録に残ります。

五月三日(金)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉部長。
  軍政府 ワッキンス少佐。
(略)
 志喜屋知事
  松岡委員が云ふ様には、戦闘部隊から民政府が資材を譲り受けて、之を工務部に管理させる指示がある筈だがと。
 軍政府
  之を責任を以て管理する者がなければならない。
 志喜屋知事
  工務部担当す。
 軍政府
  工務部が管理はするがそれの使用につきては知事の命による。
  戦前斯ることにつきて知事は絶対命令権利があったか。又軍政府から指示を出すか。
 又吉委員
  知事は斯ることに対し絶対権利があったが斯る時代であるから軍政府から指令を出した方がよい。
 志喜屋知事
  部内であるから指令は出されなくてもよい。(続)

初の論点は,米戦闘部隊から民政府への資材譲り受けです。ワトキンス(文中「ワッキンス」)は譲与そのものには全く反論していないから,まずこの軍→県ルートの,当時の沖縄側からすると巨大な物流が想像されます。
 ただ,ワトキンスは管理責任の所在のみを問うています。この点から既に部長と知事の見解が分裂しているところへ,ワトキンスの話は地方自治の原則論に入ります。日帝軍国統治下から1年を経ていない沖縄県側からすると,ワトキンスの県権限概念は信じ難いものだったでしょう。

(続)軍政府
  従来其権利があったらよいがなかったら軍政府から指令を出す。
 ◎知事は戦前の権利を有すが若し不足所があったら特別に軍政府から指令を出す。
  通信、税金、司法は知事は戦前に権利はなかったが今度は権限を与へた。
  斯くの如く今までなかった権限は軍政府は与へた。
  以前の県庁は上に省があったが現在は凡ての行政をやらなければならない。
 ◎若し知事の権限が足らざる時は軍政府から指令を出す。

「県庁ハ……凡テノ行政ヲヤラナケレバナラナイ」

国の州と同じ概念で,原則として地方側が全行政分野を所管すべし,と言い切っている。税金・司法まで入っているのだから,明らかに現代日本の地方自治より広い権限です。もちろん,米国の中央政府以上に軍政が規制すべきは強力に抑えるという前提ですけど。
 これが米海軍の学者たちが初期設定した戦後沖縄の軍民相互のマインドセットだと思います。二年目以降の陸軍が,これに対抗する別理念を持っていればともかく,ここまで理念形をセットされたら覆せなかったのではないでしょうか。
 以下はこれを公表した際の軍民連絡会議のものですけど,ワトキンスは以上の不可逆的な初期設定を自分がやっていることを自覚している口ぶりです。

五月二十日(月)午後二時
  出 席 知事、又吉・當銘両部長、大宜見部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
軍政府
 ◎軍政府は海軍から陸軍に移る。之は多分七月一日からだらう。
 ◎本日之が公表をされた。
  陸軍が軍政府の責任で将校も全部陸軍になる。
  私(ワトキンス少佐)が居る中に沖縄建設に力を入れたが其理由が分かるだらう。
  陸軍は沖縄をよく知らないから、沖縄政府を作り上げて沖縄を知らしめる様にする。
  之迄で早く早くと急がしたが其理由が分かるだらう。

 さて,ワシが報道の一次史料で知りたいのは以上の大状況そのものではない。いわば中状況,つまり倭寇的状況の何たるかです。

[1945年7月6日]飛行場*での地元住民の労務は最小限に抑えられた。現場の兵士は、女性が働きたがりいつも作業場までいくトラックはいっぱいだったという。マチナト[牧港]滑走路の低地に石灰岩を敷く女性労働者が見える。
撮影地:牧港
アルバム名:米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 03

*本島南西、那覇の北に完成した牧港飛行場。九州への爆撃を終え舗装駐機場で第7空軍航空機が点検を受ける。駐機場と誘導路の一部は建設途中だが、6000フィートの石灰岩仕上げの滑走路は低木で覆われた丘を切り開いて第874及び第1906工兵航空大隊によって6月1日から7週間で完成した。[撮影地:牧港 撮影日:1945年7月31日 アルバム名:米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 04 解説より]

1945.8〜46.6∶米海軍軍政府時代

うるま新報(軍機関紙時代)記事

ルマ新報1945.8.1の記事に次のものを見つけました。

先週B廿九に依って爆撃された沼津市は九分通り呉軍港が七分通り廃墟と化してゐることを七月二十四日の空中偵察に依って確認された。

 この時期の新報は,発行が少なく,内容も完全に軍政府報道紙です。

1945.8.2ウルマ新報記事
*新聞記事/戦況を伝えるウルマ新報 : 那覇市歴史博物館
URL:http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/wp-content/uploads/2014/03/02007271-700×465.jpg

 ただ,軍用品(特に食料)の無償放出に関し,45年の記事には奨励又は政策として実行されているような記述が繰り返されています。これが,46年にかけて次第に硬化していき,1947.9.27クレイグ副長官命「軍事施設處に関する管理」での資材持ち出しの特別許可制移行(?)など規制されるように変化します。無償譲渡品による常態的ビジネスの興隆によると思われます──というほどしか読み取れません。

補完∶軍民連絡会議

ので再び,県公文書館の軍民連絡会議議事録のうち,1946年7月1日の陸軍交代までの物流的な記事を追ってみます。
 まず3月。

三月二日(火)午後二時半
  出 席 志喜屋知事、又吉部長、島袋官房長、比嘉秀課長。
  軍政府 ラブリー少佐、東通訳。
  軍政府(略)
  那覇並嘉手納石油タンク地帯の立入禁止に関する件。
  沖縄近海に故障した船は米軍から米国の個人企業家に移管され個人所有であるから、沖縄住民が其中から部分品や器具等を持出すことは禁じられて居る。住民へ通知されたい。
 志喜屋知事
  日本船は如何なりますか。
 軍政府
  日本船と判明したものは軍財産管理課に報告されたい。

れは実は,やはり艦船が多数沈んだ広島県江田島・呉の周辺の瀬戸内海ではかなり一般的だった「鉱脈」です。沖縄近海の多量の鉄塊は,海人にとって新鉱山が発見されたようなものだったでしょう。
 知事の口ぶりも「初めて聞いた」という感じではありません。
 次は軍用車。この件は上司のムレー大佐が執着していたらしくこの後も何度も指摘があります。

五月六日(月)午前十時
  出 席 志喜屋知事、又吉、護得久、松岡の諸委員。
  軍政府 ローレンス少佐、ライト工務隊長。
(略)
軍政府
(略)
  昨日日曜日にムレー大佐が巡視をしたら沖縄人の乗って居るヂープが遊び廻って居る様に見えた。
  公用でなく物見遊山の様に思はれた。
  ウルマ新聞にも車は公用にのみ使用することになって居ることを通告し、又吉部長からは市町村長に警告を発し又仲村部長からも発する様に。
  一、ガソリンは飛行機に極度に制限されたこと(船で運んで居る)。
  二、タイヤーの補充に困ること、特に沖縄の道路に於ては。
  公用外には固く禁ずることを注意す。
  沖縄人が持って居るヂープは沢山あるが、之は正式に軍政府の許可を得て貰ってないものがある。
  之は軍政府の認可を受けなければならない。
  将来は登録して誰の所有としてやる。而して警察が検閲をやる。
 ◎其様式は近日中に持って来る。
  先日の運転手の交通防犯は新聞に出したか。
 志喜屋知事
  出しました。
 軍政府
  ヂープに幾人乗せてよいか知って居るか。
 仲村委員
  五人であると思って居るが如何ですか。
 軍政府
  ムレー大佐の話によると五人以上も乗せて居るとのことである。

縄人が持って居るヂープは沢山ある」とフォローしてくれているけれど,戦前からの車両を持つ者はいないでしょうし,戦後に米軍から正規に購入できる沖縄人たとしたらその方が謎めいてます。
「物見遊山」で騒いでいる,けしからん,という感覚ですけどその状況を通り過ぎたら,米軍から授与又は強奪したジープが闇の物流を担ったであろうという推測は容易に可能です。
 次は奄美・八重山との行政統合の件なのですけど──

五月八日(水)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉総務部長。
  軍政府 ワッキンス少佐。
軍政府
(略)
 ◎宮古・八重山との合併につき知事としては決定の意志があるや否や。
 志喜屋知事
  経済状態が同一になった時合併したらと思って居る。宮古・八重山の意向をたしかめてからと思って居る。交通上の関係もあるし。合併することには決定している。
 又吉委員
  ワッキンス少佐達が居る間に合併したい意向は持って居る。
 軍政府
  私達が帰国前に出来たら行政方面でも合併したい。
  大島に於けると同様に経済的は別個にしても行政のみでも一緒にしたい。
 志喜屋知事
  宮古・八重山の支庁長を呼んで聴いて見て行政のみでも一様にしませう。

本的に配給統制下にあったはずのこの時期の「経済格差」とは何でしょう?
 裏経済が日に日に大きくなっていったことを前提にしているとしか思えません。しかもその地域間格差が相当大きかったことを示唆しています。産業がほぼ存在しないこの時期,その格差は米軍からの供与物資の質量に起因したはずです。
 次の会議ではワトキンスの口調がかなり刺々しい。

五月二十四日(金)午後三時半
  出 席 志喜屋知事、又吉、當山、當銘、大宜見の諸部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
軍政府
(略)
沖縄人が何時でも何処でも駆け廻る。
  禁止区域に入って盗をなす。
  夜間大通りを通って居る。
  其件に関して米軍が近寄るべく誘発をして居るとムレー大佐は少将に答へた。
  外国では駐屯軍の所は囲をして居るが沖縄ではそれをやって居ないから入り易いが、ウルマ新聞に警告を発し又吉総務部長から市町村長に注意を促す。
  少将は幕僚を集めて沖縄人のみでは監視が出来ないから、軍の方でも斯る侵入者は補縛せよとのことである。
 軍政府
  夜間よく歩くが習慣があるのか。
 又吉部長
  夏は暑いから涼みに出るため。
 仲村部長
  部落から部落に夜間出て行くのは悪い。
  取締りに武器がなくて困る。
  早くピストルの支給をお願ひしたい。
 軍政府
  取り寄せつゝある。

吉部長の答弁もスットボケてて沖縄っぽいですけど,仲村部長は危機感を持ってるらしい。裏経済の拡大が読み取れる会話です。
 また,この経緯で米軍のピストルが沖縄官警側に流れていったことが分かります。この混乱状態では,それはやはり売買の対象にもなり,闇社会の有するところにもなったのでしょう。
 さて,7月の陸軍への交代と時を同じくして日本と台湾からの引揚者の問題が浮上してきています。多くの論者がこの引揚の期に密貿易が恒常化したと評します。

五月二十九日(水)午前九時
  出 席 知事以下十六人。
  軍政府 ローレンス少佐、ペリー少尉。
(略)
 志喜屋知事
  近く日本に疎開して居る者十四万人が帰郷するとのことで嬉しくもあり且つ食糧、住宅等で心配もして居るが、何時帰へるか御存じでないでせうか。
 軍政府
  今軍政府では食糧と材木の輸入計画をして居る。
  何時帰へるか決定したら知らす。
 志喜屋知事
  之で心配もとれて全部喜ぶばかりです。有難う存じます。
 軍政府(ペリー)
  今四隻の船が渡久地に居る。一は石川、一は糸満、一は久米島――にある。
  其外三隻来ることになって居る。
  銀行、裁判所、店等を久米島に設置する計画はないか。それを報告して貰いたい。
  又輸送の計画も報告して貰いたい。経済も沖縄と一緒になる様に計画をして報告して呉れ。
  仲里村・具志川(久米島)両村長が闇取引は如何するかと話して居たが。
  船は何隻要るか。
 糸数商務部長
  七離島のために三隻要す。東海岸は二隻要す。漁業部と相談して下さい。
  渡久地に在るものは漁船に代へない方がよい。
 軍政府(ペリー)
  離島への計画を一週間以内に提出して貰いたい。

 久米島のニ村長からの話として軍政府側の口から「闇取引」という語が出ています。この文脈で出るというのは,経済の統合や船舶供与とそれが絡んでいて,それが村長レベルで問題になっているということですけど──因果関係はこれだけでは判然としません。
 次ではとうとう「戦果」の話題が登場してきます。

六月三日(月)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉・松岡両部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
諮詢事項
 軍政府
  一、腐敗食糧を財政部に払下げの後、其中食糧になるや否やにつきては財政部長に於て認定す。
  二、若し商務に腐敗食糧が生じたる場合は財政部長は軍政府に該食糧を報告し直接商務部より払下げ受くること。
 軍政府
  陸軍倉庫に行って盗みをする者が居るから注意を要す。
 志喜屋知事
  仲村部長の方で対策を講じて居る。

「腐敗食糧」とは,賞味期限切れの缶詰などのことでしょうか。
 その流れで「盗難」の話が出てるので,放出用の「腐敗食料」を事前に確保しようとする集団が存在したと思われます。
 この物資を巡っての,おそらく現実には争奪戦がこの1946年6月前後で表面化してきた模様です。

六月六日(木)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉・仲村両部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
 軍政府
(略)
  糸満の軍倉庫の盗難事件の取調べは如何なったか。
 仲村部長
  其覚へはない。
(略)
 軍政府
  泡瀬の塩製造所、前原の瓦工場が車を取上げたが。
  安富祖の工場から油を取上げた。
  塩屋に於てトラブルが起って居る。
  せんばんを取上げた。
 ◎保管者が勝手にやってはいけないから知事の方で調整をやって貰いたい。
  一部長と一部長との意見の相違を直接軍政府に持ち込まない様にした方がよいとの注意。

 稲垣吾郎の「宝島」に描かれる「戦果」(戦果アギヤー)だけでは,どうもない。公民各団体が公式非公式の色々な形で,全て破壊された沖縄に多量放出された物資を争う社会状況がまずあって,個人の盗賊はその末端を担い,あるいはおこぼれを狙ったのではないでしょうか。

六月十日(月)午後二時
  出 席 知事、又吉・松岡両部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
諮詢事項
 軍政府
(略)
◎仲宗根○○氏の馬(M・Pから貰ひ受けたものと云って居る)を平良○○氏、石川○○氏、石川○○氏三名で取上げたと。
 ◎取上げた理由を調査すること。
  石川市の消毒油につきて調査せしや否や。
  糸満の薬品につきて如何なったか。
 ◎糸満で魚の闇が横行して居るから注意を要す。
  警察も一緒になってやって居るとのことである。

 糸満での「魚の闇」の話題が初めて出ています。少なくともこの辺りで,軍政府側も,刑事事件の形で発生している事象の,もっと根深く広範な闇経済に気付いてきています。
 おそらく独自の調査も開始したのでしょう。次の会議録では,盗難ガソリンの売買について問題提起しています。

六月十五日(土)
  出 席 志喜屋知事。
  軍政府 ワトキンス少佐。
諮詢事項
 志喜屋知事
  来る二十七日午後三時から送別会を行ふ。
 軍政府
(略)
 ◎金武湾の倉庫に警官を置くこと。
 志喜屋知事
  糸満の薬品犯人は検挙中である(初等学校の児童らしい)。
 軍政府
(略)
  住民が軍政府に属するガソリンを取るから注意を要す。
  使用せざる所に使用し又は闇売買して居るのではないか。
 ○真和志の薬品倉庫は何所にあるか。

 金武,糸満,真和志(現・沖縄市)と所構わずです。
 海陸交代が近づいたこともあるのか,次の会議での対話はかなり生々しい本音トークです。

六月二十一日(金)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉部長。
  軍政府 ワトキンス少佐。
諮詢事項
 軍政府
  中城々址を公園化し英文で荒さない様に立札をすること。
  糸満・知念方面では住民が働かない。
  食べ尽したら救済されるからとの意志が見える。
(略)
軍政府
  ローレンス少佐の話によると町村の六月分の予算は村収入で支払ふか、銀行から払ふかと。
 又吉部長
  銀行から借りて支払ふことになって居る。
 軍政府
(略)
  ダイナマイトで漁獲するものが居る。
 志喜屋知事
  警察で取締って居る。
(略)
 志喜屋知事
  日本から船が来て燐鉱を持って行くと。

 大戦中に日本軍の砲兵陣地に使われた後,米軍が通信基地という名目で占拠していた中城城はこの時点で「公園化」されています。
 加害側の言と考えると「食べ尽したら救済される」と思って,というのは酷いですけど,アメリカ式の自立救済志向からの純粋な発想でしょう。
 ダイナマイトでの漁獲の件が,この時期に既に話題になってる。これは払下げ品ではありえないから,まず盗品です。
 最後の知事の言もスゴい。敗戦から1年経たない時点で,おそらく大東島の燐鉱を嗅ぎつけた日本の業者の船が動いていたことになります。大東島は,日本での肥料確保の必要上,マッカーサー司令部の特別許可で1946(昭和21)年2月に燐鉱積み出しが再開され,アメリカの機械で爆発的な供給が始まっています。
 こうして米海軍の軍政時代が終わりを告げます。

七月一日(月)午後二時
  出 席 志喜屋知事、又吉副知事。
  軍政府 ワトキンス少佐、後任のラブリー少佐。
諮詢事項
 軍政府
  軍政府の交替であるが陸軍政府は海軍政府の取った政策の精神を踏襲するものである。而し方法に於ては変更あるかも知れない。
(略)
  うるま新聞に陸軍が沖縄再建のために働くことを期待し又住民も陸軍政府の期待に副ふ様にと云ふ諭告を出す。
(略)
   本日午前十時から軍政府に於て軍政府陸海軍移管式挙行。
   民政府知事以下各部長出席。

や儀式的な,海陸両実務者の引継とお別れ会の前座会議ですけど,海軍政の継承基調やや含みのある表現を插入している感じも面白い。
 あと,この会議録では「又吉部長」が副知事になっています。三つ前の会議録にあった「一部長と一部長との意見の相違を直接軍政府に持ち込まない」注意も含めて考えると,県庁関係者間の物資配分を巡る暗闘も臭います。
 さて,時点は逆転しますけど,この後七月から始まった人員帰還の数字を挙げ,軍政府が警告を促した会議録を最後に掲げます。実数の統計が見つからないけれど,この通りだったとすれば沖縄は,8か月で人口が25%増という民族大移動を経験したことになります。

六月十二日(水)午前九時
  出 席 志喜屋知事、糸数部長。
  軍政府 ローレンス少佐。
諮詢事項
 軍政府
  民政府で統一した正確な人口を調査すること。
  来年二月迄493,398人になる。
  六月現在の人口399,858人。
  日本から帰還すべき人員。
七月10,000人 南方1,500人 総計411,358人
八月 台湾から10,000人  総計421,358人
九月12,000人 総計433,358人
十月12,000人 総計445,358人
十一月12,000人 総計457,358人
十二月12,000人 総計469,358人
一月12,000人 総計487,358人
二月12,000人 総計493,358人
  労務部五月十五日の調査人口335,358人。
  農務部五月調査368,217人(本島のみ)。
  宮古・八重山の人口96,000人程。
  日本からは毎週3,000人の輸送予定。
*引用者において漢数字は算用数字に変換

万客御礼リバティハウス

1946.7〜1947.12∶陸軍軍政府時代初期──世界唯一の完全統制経済

琉球貿易廳設立後

946年秋頃から日刊になったらしい。紙面も充実してきてるので,以下,特記しない限りこれを辿ります。

1946.10.4
琉球貿易廳 軍政府直轄下に設置
琉球列島内の貿易を促進し且つ貿易経営の適正なる施策を確立するため茲に琉球貿易廳を設置するべし

軍軍政府が正規貿易担当官庁を立ち上げています。「貿易経営の適正なる施策」とは,逆に不適正な貿易が巨大化していく事態への本腰の対抗策でしょうけれど──ほとんど共産主義的な発想で,海軍軍政府の学者ならこんな施策を容認したでしょうか。
 琉球貿易庁が会社化したのが,現在のリウボウの由緒になります。上記写真は1949年のもので,リウボウ経営の米兵向け小売店・リバティハウス。アメリカ本土からの空輸物資を販売したけれど,2〜3日で完売して次の便まで開店休業,という状況だったそうです。ましてそれ以前,1946年段階にはどれほどの売り手市場だったか,現代人には想像できないほどです。
*DEEokinawa/沖縄で唯一の百貨店、リウボウの歴史を振り返る
URL:https://www.dee-okinawa.com/special/resortdept/ryubo.html

 ただ,その状況はなかなか紙面には出てきません。11月の記事の書き出しに,ポロリとこんな記述があります。


[1946年10月31日] 【原文】 U.S. surplus war goods sold to China at Okinawa./Goods ready for shipment./Surplus materials.
【和訳】 中国に売却される米軍の戦時余剰品。沖縄にて。/積み出しを待つ余剰品。/余剰物資。
撮影地:不明
アルバム名:米海軍写真資料26

1946.11.1
石川の業者 闇防止懇談
物資不足につけ込む各國の闇行為は白昼公然と行われ市民は悪性インフレの下におびえつゝ生活してゐながら誰一人闇の賣買に関し不自然さを感じない程である

国の闇行為」というのがどこのことを指すのか,あるいはこう書かないと危険だったための装飾なのかはよく分からない。
 当時の生活者からしたら「裏経済が当たり前」(なぜなら表経済が無いんだから)というのは当然でしょうけど,ここでの本質は,それが紙面で公言されるオフィシャルな光景になったということです。
 なぜそれが報じられたか,つまりメタメッセージとして読むなら次の記事も,興味深いというか驚異的です。

1947.1.17
窃盗犯射たる
小ろく村高良班一二八[引用者伏字](68)は十一月二十三日小ろく第一初等学校●●●施設内に入り建設資材を盗み出すところをエムピーに発見され呼び止められるのも聞かず逃亡せんとして射たれ即死した。
同じく首里市て(ママ)[引用者伏字](26)外二名は何れも日本本土よりの帰還者であるが十二月四日那覇辻原●●施設内に入り建設資材や食糧品を窃盗中米人に発見され逃亡せんとして射たれ即死した。

何に盗っ人と言っても,その場で射殺していいのか?という時代でも組織でもない。先に触れた米軍から沖縄警察に供与されたピストルが極めて有効に活用されてるだけです。まず間違いなく,それまでもこういう盗むか殺されるかという闘争は続いてきたでしょう。
 それが元々の軍政府機関紙に2件並んで載るというのは,「商売で物資を盗む奴は殺す」と行政が公言したということです。
 ただ,発言者は米軍ということになってないし,米軍物資が流れたという言い方は,避けているような筆致です。でも翌月1947.2.7の紙面に「復員軍人に朗報 米航空隊が監視員募集」という記事が載っているところからしても,狙われたのはもちろん米軍物資(∵他に物資の供給源は無いし)と推測することしかできません。
 ところで,この場合のドロボーとは誰かという点を示唆する記事が同日にあります。

1947.2.7
“役得”を膺懲 販賣店職員に体刑
即ち金武村慶販店主任[引用者伏字](60)同書記主任[引用者伏字](50)同従業員[引用者伏字](35)は共謀の上去る九月中旬より十月下旬までに数回に亘って同販賣店の配給物資からうどん粉二斗三升 メリケン粉五斗六升 豆八斗四升 米六斗四升その他十七種類に及ぶ食糧品を窃取●消したことが発覚し(略)

島」に描かれたり「戦果」という語感から想像される,無軌道な若者が力まかせに強奪しているのではない──とここまでのニュアンスからも感じます。この記事では50,60代の責任ある世代が,おそらく平然と役得の横流しをしています。こういう淡々とした「犯罪」の方が主流だったように感じられるのです。
 それは流した物資の内容からも知れます。うどん粉・メリケン粉・豆・米です。それらを頼りに飢死をかろうじて逃れてきた集団,多分,縁者か地域社会かがあったはずです。
 こうして事態が表面化してくると,東京のマッカーサーとその周辺の耳にも入ってきたのでしょう。

1947.2.21
食糧難解決には マ指令部農業課長談
(略)△凡て合法的なルートを通じてのみ取引せねばならぬ

軍組織内では下部組織に当たる沖縄へ,東京から特段の指示か指摘が来たのでしょう。陸軍軍人にとっては大層な事なので新聞紙面に載せたんでしょうけれど……もちろん沖縄人は知ったことではない。
 当面,沖縄軍は自動車部品の盗難に焦点化したらしい。

[1946年10月31日]【原文】 U.S. surplus war goods sold to China at Okinawa./Chinese soldiers overhauling truck./Damaged vehicles
Surplus materials
【和訳】 中国に売却される米軍の戦時余剰品。沖縄にて。/トラックの整備を行う中国兵。/損害を受けた車両。余剰物資。
撮影地:不明
アルバム名:米海軍写真資料28 (引用者が縦横を調整した)

「米軍車両 駐車場から撤退」事件

1947.3.14
部分品を外すな タイヤ交換も古物と
△従来各地モータープールに格納されていた車輌が全く使用にたえなくなるまで部分品を取外されてしまっているが,かゝる行為は直ちに止めなければならぬ。

 スターウォーズのレイ・スカイウォーカーもどきの機械部品回収は,売却用盗品としては珍しくはない。でもこれを売るルートの先の大きな需要があったことは想像できます。
 一方,東京の手前,沖縄陸軍は具体的な施策を打たざるを得なくなったのでしょう。次の不自然な一面記事は明白な官製バルーンです。

1947.4.4(一面トップ)
全車両を引上げ モータープールから配車 警察 病院は除外さる
(裏面)
軍物資の”闇”を根絶 軍勞務者の管理協議會
席上沖縄に於ける闇取引と●方人労働者”争議”の激化が明白にされた,軍政府経済係将校ウィルプン中佐は
 理論的には沖縄は現在世界中で唯一の完全統制経済が行われているところとなっているが激化しつゝある闇取引はこの理論を崩壊させつゝある従ってわれわれはこれの撲滅を期さねばならぬ
と述べ軍政府当局側の立場を表明した

在世界中で唯一の完全統制経済」を明確なビジョンもなく維持し続ける。米陸軍にとっては最も辛い時期だったでしょうけれど,沖縄側には獲物がぶら下げられているような情勢です。
 こうして沖縄陸軍は,物資密輸と全面対決姿勢を鮮明にしていきます。少し時系列が先走りますけど7月の記事です。

1947.7.3
車両組立禁止 無認可車両全部取上げ
軍によって処理されていない引上車両,放置車両,破損車両もすべて米軍財産であって,かかる車両の再生使用は禁じられ,米軍将校はかゝる車両を発見次第憲兵本部へ報告するよう命令を受けた

嚇以外の何物でもない記事です。盗品で組み立てられた車両の摘発と言っても,町を走る自動車からそれをどうやって見つけるのでしょう。

▲うるま新報縮刷版第一巻。県立図書館5階15番棚。

犯罪第一位:窃盗 第二位:闇取引

947.4.11の記事に「”闇の女”に痛打 軍が特別布告で禁止」というのがあります。治安や風紀にも相当の乱れが生じてきてる。
 時系列は逆転しますけど,新報には次のような犯罪件数発表があります。水面下の部分を考えるとどこまで評価していい数字か判断しにくいけれど──

1947.5.23
太る窃盗と闇 三月の検挙564名
●政府警察部の報告によれば三月中に成人四九八名 未成年六六名の犯罪者が逮捕された,犯罪の筆頭は窃盗の一三九件で次位は一○四件の闇取引である。

取引が犯罪の区分として第二位というのは,凄い統計です。第一位の窃盗が前に見るように闇物資の調達と考えるならば,この時期の「犯罪」は広義の闇市場絡みのもので占められていたことになります。
 これもはっきりとはしないけれど,その背景には食料事情の悪化があったと思われます。

1947.4.25(一面トップ)
酒の特配御断り! 配給の公正を期し 工業部協力に処置
軍政府工業部係長より県政府工業部係長宛発せられた●書によると今後如何なる事情があったにせよ食糧品で酒を造ったり或はたとえスポイル品であっても何らかの方法で食糧品に転用し得るものは酒造原料にあてることを厳重に禁じられることゝなった

ポイル品,つまり先述の腐敗食料も含めて,というのは,賞味期限切れの米などを使った酒類がシェアを占めるようになったということでしょうか。正規の歴史にはこれも表出していません。

1947.5.30
村技手豚を賣飛ばす
今帰仁村産競技手[引用者伏字](51)は帰村農業組合より依託飼育中であった繁殖用豚の産んだ子豚七匹を一頭三千圓から六千圓の闇値で販賣した科で軍部署に検挙

文では実名入りで,この子豚横流しを摘発しています。これも50代の責任ある方です。
 この辺りから,なのか,最初から飴(交易促進)と鞭(裏経済摘発)の両面策を構想していたものか。軍政府の(表)貿易促進の取組みも本格化しています。3本続けて題字を掲げます。

1947.6.20
復活した貿易は? 沖縄の輸入超過 五月廿五日現在の貿易廳調査

1947.7.30
貿易補助金 一千八百万圓認可

1947.9.26
輸入品を値上げ 黒糖は十倍斤六圓余

まり,表経済を補助金で拡大させつつ,耐えうるぎりぎりのインフレを誘発する。実働している裏経済を表経済に乗っ取らせる,とでも言いましょうか。
 耐えうる,というのは黒糖に限れば十倍,県民生活者の感覚では激痛であるのは確実です。
 その辺りの経済混乱の早期収拾のプレッシャーは,翌1968年以降の恒久基地化の方針を前提にしたものだったかもしれません。

[1947年]【原文】 OKINAWAN GIRLS FIND EMPLOYMENT IN AIR FORCE SNACK BARS, OKINAWA, RYUKYU RETTO – Okinawan natives, like the girl in the picture, are employed by service forces throughout the island in various duties. The girl is providing table service to a group of airmen at a 1st Air Division snack bar.
【和訳】 沖縄のあちこちで、写真の女性のように地元の人が米軍務部隊で仕事を見つけいろんな職種について働いているのを見かける。この女性は第1空軍軽食屋で空軍兵を相手に給仕をしている。沖縄。
撮影地:沖縄
アルバム名:米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 08

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