m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm6嘉義天后

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

嘉義城域第三形態

6時半,嘉義火車站(駅)ロータリー前コーナーに移った85℃にて,アメリカーノを頂きながら一服。
 嘉義の城域は前回,次の観光地図で確認してます。南に細まる不規則な楕円。当初の円形が北にのみ拡大された結果生まれた形状です。

黄色線∶初期の植林防柵時代の城域
橙色線∶植林・土塁混合時代(18C初)
赤色線∶石積み城壁時代(1878年)[古城門導覧地圖]
上図黄色線(植林防柵時代)の城域絵図。ピンク色の方形に「天妃宮」が書かれる。[康熙年間諸羅縣縣治圖]

の店頭席に,酔っぱらいがいて怒鳴ってる。間もなく,救急車が来て回収していった。女性3人が心配そうに見てる。──この辺り,台湾です。大陸ならスルーするだろし,香港ならスマホで画像をアップするでしょう。
 それに,日本の救急車って酔っ払いを回収してくれるのかな?
 さて。出かけなければ。
🚲

自転車を駆る呉投手

務台(フロント)に預けてた荷物を部屋に入れ,手早く洗濯。
 自転車を借り,跨がる。1659。──驚いたことに1659とメモってます。
 まず噴水円環を目指そう。
 えらい対向車が多い。……と思ったら,そうか‼ 右側通行ですよね。ちょっと交通違反でした。
🚲
水,1705。夕闇に立つKANOの呉投手像。
 バイクが無茶苦茶怖い。スピードは抑え目にして安全運転しよう。
 左手の道・中山路に出て東行。
 呉鳳北路で左折,民権路へ乗り換えて再度東行。
 夜がそろそろと降りてきました。

現代の嘉義市中心部。指差し位置が嘉義神社の丘。

かに登り。自転車行は,このアップダウンを脚で感じられるのが良い。
 城の東にある丘への緩斜面に入っているのです。
 1719,新生路を渡る。北に天主堂。
 あった!七面鳥屋!

はあまあたんの出汁づかい

▲街頭

723桃城三禾火鶏肉飯
火鶏肉飯
哈仔湯300
「はあまあたん」と読むそうな。「合」と同じと思って「he」で北京語発音してた。
 外見は……ここだけの話,かなりボロっちい。でも店内にはなかなか目出度い連句を貼り出してます。
「五穀豊登
 事事乳意
 年年有魚
 大橘大利
 好事花生
 好運菜頭」──

▲火鶏肉飯!

はあまあたん」の出汁使いが,哈仔湯。──「蛤の出汁を生かしてるのは当然だけど,その上に被せてある出汁がなく一重。この抑制が日本にはない。
それでその蛤自体も種類が違うのか身がほくほくして無茶苦茶に肉肉しい。」
……と当時はメモしてる。確かに味も中身も蛤だったんで疑わなかったんだけど……でも漢字は「哈」。この字義は
①魚が口を動かすさま。また,魚が多いさま。
②口をつけてすする。
というところで……一体何の汁だったんでしょう?
 中国語では隠語的にスケベな意味もあるらしい。
 で,それはともかく──

▲どアップ
鶏肉飯の飯粒コーティングはもう前提です。だけどここのは,火鶏の主張が程よい抑揚を効かせてる。七面鳥脂が抑制してあるというか,米の甘味と丁度いいバランスを保つ。米を従わせるのではなくて,それと和音を成している感じ。コーチングの巧みな組織トップのような名指揮者を演じてる。
🚲

ワシの口に突っ込むな!

出走。
 民権路には快餐がありました。他なら立ち寄りたいけれど……やはり七面鳥をさらに食い重ねたい。
 1749,小北百貨の角で右折,維新路を北行してひた走る。夜風が心地よい。
 林森路で左折すると──嘉義天后宮!あるよ!
 しかも……かなり大きい!?

▲嘉義天后宮の入口辺り

后宮は夜訪れるのがベストなのかもしれません。
 階段下に金爐と「将軍府」篇額。
 ここの狛犬は口に何か,おそらく黄色い紙幣を詰め込まれまくってる。長崎かよ。

▲お洒落してるのに……口には詰め込まれ過ぎてる狛犬

被って歩くタイプの千里眼

額「玉旨天后宮」。
 縦文字は広告で覆われてる。中央左右のみ記録。
右聯「天徳如風被拂野原頻偃草」
左聯「后儀配地堂皇廟宇仰凌雲」
 勅額を持つことを誇る内容でしょうか?
 本殿の狛犬も口一杯。
ここは正面の門の仕切りすぐに平安米がおかれてる。
本殿内。あまり見たことのない絵馬がある。

▲絵馬。何とも日本タイプです。

風耳も千里眼も被って歩ける実働タイプになってます。
 左手の祭壇は三柱,右から「保胎夫人」「註生夫人」「順産夫人」。

▲従神アップ。被って歩くタイプ。

央祭壇左脇に新港にもあった首だけ神様。
 祭壇には,その他小さな神様が一杯です。

▲正殿神体

新しいのに野生じみた幻獣

殿中央の線香壇も古い。
 そのさらに下,通常は参拝客からは祭壇の影になる位置に,秘仏めいた祭壇がありました。媽祖に見えるが確認できず。

▲正殿の前面低位置の祭壇穴

どまあ,この焼香壇に這いずり登ってきてるような動物は何物でしょう?
 新港の虎でも日本の犬でもなさそうです。
 嘉義の天后は,新しい割によくよく見ると新港奉天以上に獣じみた野性のモチーフが見え隠れする。

▲狛犬のような幻獣が這い登る焼香壇

()天后宮によると,ここに座す神様は次のとおり。

主祀神明: 天上聖母
陪祀神明:土地公 註生娘娘 二郎神君 九天玄女 五路財神 關聖帝君 月下老人 虎爺公 觀世音菩薩 玄天上帝 王母娘娘 玉皇大帝[後掲(財)天后宮]

 神名を見ただけでは道教色の強さを感じます。
 ちなみに朝天宮や奉天宮と違い,現位置への創建年も明確。1967(民国56)年です。

金母娘娘 観音佛祖 玄天上帝

手祭壇は「福徳正神」一柱。
 右手別棟に三柱。正面祭壇は「文昌帝君」になってるけど,案内文字には「大歳星君」「月老星君」の名も。
 この手前に御輿。内部が空だからここの媽祖像を移して練り歩くのでしょうか。

▲神輿タイプの祭壇

れ?一つ奥にさらに間がある?
中央「金母娘娘」
右手「観音佛祖」
左手「玄天上帝」
 なぜ奥には,仏教化した媽祖たる観音ではなく,しかもそれが中央に置かれないのはなぜ?
 退出。ここは何と階段上,正面入口すぐに灰皿がある。文化財的に大丈夫なのか?
 でも一服。

▲奥の観音
🚲
835。閉店時間が怖い。維新路に出て南下。ぐいぐいと公明路までペダルをこぎ急ぐ。
 公明路で左折東行すると……発見!
1840可口火鶏肉飯 *2022年現在名∶大同火鶏肉飯
鶏肉飯
猪肚湯300
 決して流行店ではない。地元の生活のひとこまのような店です。
「猪肚」と注文したワシの発音をオバハンが正しく言い直す。言うだけ言うとガハハ笑いを残し去る。──とても細やかな味を出してるような印象じゃないんだけど……。

口によき火鶏 みんなの火鶏

▲火鶏肉飯もう一軒

やかなのです,実に。
 飯の方には火鶏の華やかさがない。これにまず驚きました。まるで鶏肉なんだけど,火鶏の店名を掲げてるから鶏肉のはずはないし,味わうと微かにあの華やかな脂が感じられる。それが飯の甘さの果てに,ポッと咲くような華やかさなんである。
 つまりそんな風に,火鶏の味覚を削ぎ落とし,それでもって火鶏の味わいを純化させてる。

▲どアップ

の方も,同じ思想が見える。ホルモンの香りだけを極めて上質に削り出してる感じ。やはり余計な出汁は一切,ない。
 針生姜が山のように入ってるのと関係あるのか。でも生姜辛くもない。おそらくホルモンの味覚と打ち消しあってる,いや……融合して何か別の旨みに変わってる。
 そんなことが可能なのか?と疑うような調理です。
 分かりやすい味覚が一つもない。水のような調理です。
 去り際に「你是不是日本朋友?」(お前,日本人だろ?)とやっと気付いて言うオバハン。再びガハハ笑いを浴びせて来る。これがまた味覚と違和感がありまして……。
 

■レポ:嘉義宮媽祖の旅程

1684年,鄭氏政権崩壊の翌年,清朝は福建省の下部組織として台湾府を設置,三県を帰属させます。台南のある台湾県,鳳山県(現・高雄市左営旧城内),そして諸羅県です。この時の諸羅県の役所は現・台南市佳里鎮(→GM.),台南と現・嘉義の中間になります。諸羅県の管轄区域はそれより北部全て[後掲BTG],広いというよりその辺りが台湾の漢族地域の最前線だったのでしょう。
 嘉義の元の地名として語られる「諸羅県」は,だからスポットを指すものではない。古くから当地に生息していた平埔族の集落地を「Tirosen」社※と言ったこと。その漢訳過程で中華系移民が「諸羅山」社と翻訳したことに端緒を持つとされます。東方に山々が連なる≒「諸」山が「羅」列する,という語義と推測されてます。[後掲BTG]
※オランダ人は諸羅に対照する地名「Tierasan」(ティラサン)の呼称を用いた。同じくこの地方の山を「Arissangh」(アリサーング)と類似の音で発音しており,これに漢人が「阿里山」の字を当てたと言われる。オランダ語表記の由来は正確には分からない。[後掲集広舎]
「嘉義」地名は,林爽文の乱(1786年)時,この台湾北域拠点たる諸羅城を守り抜いた際,翌1787年に乾隆帝の詔「嘉其死守城池之忠義」──城を死守したその忠【義】を【嘉】す(喜ぶ)──を縮めたものとされます。嘉義天后の前史は,この義を嘉される以前の歴史に端を発しており,その時代の事象を以下幾つか拾っていきたいと思います。

阿里山※の神木と「射日傳說」神話をモチーフにした嘉義公園内の「射日塔」
[後掲維基/射日塔]

山仔頂の原住民祭壇説

 この件は,一次史料の根拠を確認できません。何かの伝承なのかもしれない。
 この日に自転車を急がせた桃城三禾火鶏肉飯の東の先にあった丘,現・嘉義公園(→GM.)についてです。

嘉義公園位於嘉義市「山仔頂」地區,射日塔塔址為當年台灣原住民平埔族的祭壇。[後掲維基/射日塔]

──嘉義公園の位置する「山仔頂」地区の射日塔は,台湾原住民の平埔族の祭壇として建てられた。──
 こういうモニュメントが建つと,台湾の場合,それが既成事実になってしまうのが怖いですけど……でもこの件は,ある程度の整合性もあるのが面白い。
 射日塔や嘉義公園の丘は,緩やかな台地としてはさらに西北西に伸びているからです。

嘉義公園から西北西への台地ライン ※上∶GM. 下∶BGT掲載イメージ 朱線∶台地ラインの位置

 申し上げたいのは,このラインの上に現・嘉義天后は建っている,ということです。
 この丘は,古くから宗教的に重視されたベルトを構成していた可能性がある。
 前掲の城域の三段階拡張図を思い出すと,当初の柵囲いの段階ではこのベルトは北の城外か城壁ラインです。高地を防御線にするという発想ならその方が自然です。それが,拡張時にこの高地を城域に内包する形になっています。
(再掲)
黄色線∶初期の植林防柵時代の城域
橙色線∶植林・土塁混合時代(18C初)
赤色線∶石積み城壁時代(1878年)[古城門導覧地圖]

嘉義天后は新しい

 現・嘉義天后宮は新しい建築です。築後60年経ってない。建替前の学校の校舎並みです。

爾後二媽出巡至三崁邀請三媽龍神至山上天后宮彫像奉祀約百年,於1956年(民國四十五年),有嘉義人士,虔誠往山上天后宮迎請三媽龍神正駕至嘉義第四機械廠旁宿舍設壇濟世,因香火鼎盛,四方善信感謝神恩,踴躍捐獻香錢土地,於1967年(民國五十六年)新建中型宮貌,玉旨:「降賜嘉義天后宮宮號」[1]:59—60、[2]。[後掲維基/嘉義天后宮]
[1] 顏尚文 (編). 《嘉義市志·卷十·宗教禮俗志》. 嘉義市: 嘉義市政府. 2002年
[2] 嘉義天后宮-文化資源地理資訊系統. 中央研究院人社中心地理資訊科學研究專題中心. 2012

 この日の朝天宮や奉天宮と違って創建年:1967年にはほぼ疑いがりません。
※創立年代參考文獻:
民國57年(1968) (財團法人嘉義市天后宮天上聖母玉三媽龍神簡介,2001)
民國57年(1968) (顏尚文等編,《嘉義市志 卷十 宗教禮俗志》,嘉義市政府,2005)[後掲(財)天后宮]

──ある嘉義の人士が,賢くも山上天后宮から三媽龍神を迎い請け嘉義第四機械廠そばの宿舍に壇を設けた──のが始まりです。つまり,元は私人の誘致による。また,設置場所そのものに由緒がある訳ではない。
 ところが,ここに祀られる媽祖は古い(ということになっています)。

1659年渡台集団の従軍媽祖

本宮主神天上聖母三媽聖像龍神原供祀於福建湄州天后宮,緣於順治十六年公元一六五九年國聖渡台,恭請三尊聖母鎮船隨軍,大媽在鹿耳門登錄,二媽三媽隨船一再東渡,船到石仔瀨國聖湖時,因天意誤殺軍師,軍艦犯風覆沉二媽神像漂流遂為山仔頂,……[後掲(財)天后宮]

──本宮主神である天上聖母「三媽聖像龍神」は元々は福建湄州天后宮に祀られていた。1659(順治16)年の「國聖渡台」で,「三尊聖母」を船に積み軍に従わしめ,大媽は鹿耳門に上陸。二媽と三媽は船に従い東に渡り,船で石仔瀨の國聖湖に到った時,天意に依り誤って軍師を殺し,軍艦は「犯風覆沉」して二媽神像は山仔頂まで漂流してしまった。──
「國聖渡台」はどうしても分からない。さらに「随軍」とある。鄭成功のゼーランディア城攻撃が1661年なので,鄭氏台湾勃興期の移民団のことでしょうか?
「三媽聖像龍神」や「三尊聖母」と呼ばれるのはいわゆる「三媽」のことで,元々は湄洲にあったそれが台湾の鹿耳門に,そして石仔瀨國聖湖に移った。
 湄洲からの分祀というニュアンスではありません。神の本体が移動してる。
 それにしても,海辺の鹿耳門はともかく,内陸の石仔瀨とは──?そうして漂着した場所が,現・嘉義の山仔頂とは──?
「因天意誤殺軍師」というメチャメチャなストーリーにも逆に真実味を感じる記述なのですけど……。 

大媽∶不動如山 二媽∶従順如柳 三媽∶侵掠如火

「三媽」を表す成句が台湾に残ります。
──大媽鎮殿 二媽吃便 三媽出戰
──大媽は神殿に鎮まる 二媽はくそったれ 三媽は戦に出る──
「吃便」は文字通りだと……×××だけれど,スラングで英語の「shit!」のニュアンスらしい。また、「戦に出る」とは台湾の各地にある媽祖の巡行のイメージのようです。
 三者の役回りはこういう感じです。

一般來說,最早的「開基媽」是「鎮殿媽」,置於大殿讓人祭拜,這是大媽;鎮殿主神座前經常有陪祀的神像,這是二媽;進香、遶境或辦事時,鎮殿媽和二媽如果外出了,廟中豈不無主神?所以另外再做一尊「出巡媽」,這就是三媽了。[ETtodayAMP]

──一般に言われるのは,最初期の「開基媽」(寺社設立時の媽祖)が「鎮殿媽」で,本殿で人に祭拜される。称して「大媽」。
──鎮殿する主神の前に座す,通常は陪祀される神像が二媽。
──でも進香(参拝する,線香を供えて拝む)や越境などの行事の際,鎮殿媽や二媽がもし外出してしまうと,廟の中に主神がいなくなってしまうでしょう?だからその他に一体「出巡媽」がいます。称して「三媽」。──
 つまり,主神媽祖との距離感と移動性で区分される。
 ただこの1659年「國聖渡台」時には大媽も揃って動いているわけで,伝承通りなら異例な行動だったことになります。

嘉南平原の関係天后宮位置図
(嘉義,北港,新港,石子瀬,三崁,山上)

山上天后宮を経て嘉義へ着いた

(続)即今之山上鄉人氏撿起帶回恭奉於今之山上天后宮,三媽神像隨波漂至頭社,人氏拾獲無緣復而拋棄,龍神應景雲遊至三崁,即今之大內鄉三崁村續授香火,期待玉旨宏揚本源史蹟。[後掲(財)天后宮]

──そうして現在の山上鄉の人が拾い取り,持ち帰って山上天后宮に恭しく奉納った。そのように三媽神像は波に隨い漂って頭社(=山上天后宮)へやってきた。(拾った)人は無緣だったけれど廃棄せず,龍神は「應景雲遊」(また漂うようにして?)三崁に到った。即ち今の大內鄉三崁村が(山上に)続いて香火を授けられた(=開基した)。──
 最終語「期待玉旨宏揚本源史蹟」は分からない。「当社の由緒を広く周知したい」ということか。
 ただとにかく,上のマップで一目で確認して頂けるように,嘉義から南南東50kmの山上や三崁に「漂って」移動できるはずがない。現在と海岸線の位置が違う,というようなことで説明できるものではありません。
 山上から三崁へは「應景雲遊」と,水上を漂ったのではなく,訳が分からないけれど雲のように流れて移動したことになってます。──山上近辺の話だけがやや現実味を帯びているのは,この物語が山上エリアの住民によって語り継がれたものだという事を示唆します。
 で,17Cに嘉義(山仔頂)を通り過ぎて山上・三崁へ居着いてしまっていた媽祖が,20C後半になって再び嘉義に帰ってきた。それが嘉義天后だというのです。
 傍目には滑稽無糖ながら,嘉南平原山間部には,朝天・奉天宮系とはまた別系統の媽祖信仰があったことを予想させます。それはどうやら,原住民の信仰ともある程度混淆している可能性があるのです。
 さて,ここで本章冒頭に掲げた地図を見直してみましょう。

(再掲) 黄色線∶初期 橙色線∶18C初 赤色線∶1878年[古城門導覧地圖]
(再掲) 上図黄色線(植林防柵時代)の城域絵図。ピンク色の方形に「天妃宮」が書かれる。[康熙年間諸羅縣縣治圖]

「初代」天后宮の場所と崩壊

 上図のピンク色方形位置にある天妃宮(媽祖宮)は,現在の嘉義天后宮の位置より,はっきりと南に寄り過ぎています。
 ピンク色位置の天妃宮は,一次史料上,1717(康熙56)年創建と書かれています。

卷十二38 天妃廟:一在城南縣署之左。康熙五十六年,知縣周鍾瑄鳩眾建。一在外九莊笨港街。三十九年,居民合建。一在咸水港街。五十五年,居民合建。一在淡水乾豆門。五十一年,通事賴科鳩眾建:五十四年重建,易茅以瓦,知縣周鍾瑄顏其廟曰「靈山」。[後掲諸羅縣志]

 年代順に書くと
1700(康熙39)年 笨港
1712(康熙51)年 淡水
1716(康熙55)年 咸水
1717(康熙56)年 嘉義
と書かれます(前々までの北港朝天宮の創建史とも年代は少し異なる)。
 結論から言うと,この天后宮は18C初と類似の次の場所に現存します。
∶嘉義市東區民族里吳鳳北路168號城隍廟後殿大樓(→GM.地点)
 何が起こったかというと,日帝統治時代に地震で壊れた後,道路の新設に邪魔だからと撤去してしまったらしい。

日治明治三十九年(1906年)三月時發生丙午大地震,震垮了嘉義市區許多建物及大天后宮。地震過後政府為了重整嘉義市區和開闢新道路(今忠孝路、光彩街)而拆除大天后宮,當時信眾將媽祖娘娘和其它宮內神尊移駕到嘉義城隍廟後殿供奉。[嘉義大天后宮]

──日帝統治期の1906(明治39)年3月,「丙午大地震」が発生し,震垮了大天后宮を含む嘉義市区の多くの建物を倒壊させた。地震後,政府は嘉義市の修繕と區新道路(現・忠孝路〜光彩街)を開設するため大天后宮を撤去したので,当時の信徒たちは媽祖娘娘とその他の宮內の神尊を嘉義城隍廟の後殿に移して祀ることにした。──
「丙午大地震」は「梅山地震」とも呼ばれる。マグニチュード7.1,死者数1,258人,倒壊家屋数6,769戸。不幸にして台湾はM7クラスの地震が珍しくなく,この約30年後の1935年にも被害からはその倍に当たる新竹・台中地震(M7.1,死者3,276人,倒壊17,907戸)が発生している。[後掲wiki/台湾の地震一覧]梅山地震に限定しているのは,この期日が信用できる証拠でもある。
 ただ,媽祖信徒は単独の廟を持ちたい意図を保ち続け,その中の一人が篤財を持って現・天后宮の形を造った。そこに近隣(といっても50km離れるけど)山上天后宮からのファンタスティックな遷移話を創出した。北港朝天宮と新港奉天宮に比肩する由緒を,どんなに創作的と見えようと備えようとしたのでしょう。
 それにしてもその創作時に,すぐ東の北港や新港に由緒を求めなかった,という事実には,非常に頑なな意思を感じます。台南のように北港から分祀を受けるのを絶対に避けようとしたのです。
 そこには,都市間の対抗意識,なかんずく台湾唯一の勅名都市としての誇りもあったでしょう。ただそれに加え,北港・新港とは別系統の媽祖信仰への固執がなければ,ここまでの意固地さは発揮されなかったと思うのです。

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