m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm5新巷奉天

安国泰母の聖妃の神

▲新港奉天宮の廟の配置図

港奉天宮は,またしても「開台媽祖」なのです。一体,何柱の媽祖が台湾を拓いてきたのでしょう?
 維基掲載の属性データをまず見ます。

主神 天上圣母
例祭 农历三月二十三日(妈祖圣诞)
(略)
建筑详情 本殿构造三开间四进带
建立 大清嘉庆十六年(1811年)
*伝 天启2年(1622年)
[後掲維基/新港奉天宮]
*「圣」は「聖」の簡体字

 四進とは言いながら,最奥の部屋は横に広く4階建てになってます。

爐は門外の道路対面。元は広い境内地があったのかもしれません。それと関係してか,ここは正門から入っていいらしく,仕切りがない。
 対聯は8句。右から──

奉神聖薦馨香近仰遠傳来四方之報徳
天高明地博厚祐民護国合両大而同功
廟貌仰巍峩輪○○○○
奉憲慎保存典重禮隆敬在宮恭在廟
天心廣仁愛民安国泰母乃聖妃乃神
神霊昭赫濯蒸嘗不替水千秋
奉敬本自古及今湄島之聲霊猶昨
天恩誠無遠弗居臺疆受庇護特深
*「○」は判読不能

 第一・ニ句,第四・五句,第七・八句の文字数が揃っているのに,全体のシンメトリーはない。三段階で作られ,間を埋めたのでしょうか。
 第七句に「湄洲」の語があります。奉天宮もやはり湄洲由来の伝承(→巻末)を持つためでしょう。
▲1426ヒトデの這うような不気味な柱から側道が奥へ

ティオあり。額「開台湄洲妈祖」──これが何と莆田市湄洲祖廟董事會から贈られてる。
 門のところにあった多量の黒豆がここに運び込まれてる。正月用じゃないよな?

媽祖一柱十二万元也

▲1437本殿祭壇

額「聖慈母徳」
奥額「開臺媽祖」
最奥の手前額「福芘雁行」奥額「恩流海嶠」
 本殿妈祖の前の小さな妈祖に値札?いや寄進額ということかな?
▲1427「十二萬」の値札?

に二つ目のパティオ。北港と建物構造はほぼ同じです。
 ふと豪快な爆竹音──。
 左手に「註生娘娘」。
 さらに壁を隔て「開聖帝君」。
 出口側に「天金虎将軍」という動物顔の不思議な祠。
 右手「福徳正神」,さらに右手に「文昌帝君」。
 後方は重層。ビル上4階まで宮がある。
▲1427狛犬が祭壇にも……

ギンギラギンに狛犬(実は虎)

かし……この宇宙人目の狛犬は何だ?そこら中にあるぞ?──帰りに売り物になってた。ネット上でも商品としてメジャーです。
 金虎爺公仔というみたい。
▲1431顔隠し狛犬軍団

を隠したこの狛犬たちは,寄進前の売り物ということなんでしょうか?出荷前の検品ラインに並んでるみたいです……。
▲新巷特有の狛犬

く知らなかったけれど,新港奉天宮のこの虎爺は,台湾で最も霊験あらたかな虎爺らしい。
 その中でもチャンピオンなのが──

▲1451ギンギラギンに狛犬。遊園地の顔出して写真撮るヤツにも似てる。

賜金花虎爺」と台湾人が俗称してるのが,上の写真の頭の周りに光輪のようなギラギラで飾られた虎爺らしい。
 神格として正確には「狀元虎」という名称がある。
*狀元:科挙試験での進士の首席合格者,殿試の首席合格者。転じて「チャンピオン」「スーパー」みたいな意味らしい。

四百周年記念 チャリん子媽祖

▲グッズ類も虎爺系がダントツ

と,屋根の庇の部分に,細かく絵物語が彫ってありました。はっきり場面が読み取れなかったけれど,夏に台北芝山の巌恵済宮にあった漳州裔の歴史レリーフを連想しました。
 漳州人の発想法のような気がします。

▲屋根の絵物語彫刻

島平安」という自転車イベントがあるらしい。奉天宮出口に,自転車に乗る妈祖とニ従神,というポップなポスター(下の写真)。
 表に掲示されてた「開臺妈祖駐臺400年『聲護臺湾・騎島平安』単車環合活動起回賀賀」というのがそれらしい。──媽祖様台湾御降臨四百年記念「(神の)声が護る台湾・楽しい島内サイクリング」自転車の輪プロジェクトでお目出度く回ろうよ,みたいな感じ?

▲チャリん子妈祖ちゃん。冒頭すぐでも使った絵柄はこのイベントのサイトから拾いました。あまりにポップかつ非時代考証的で……素晴らしい!

鄭成功ステーキ店前のバス停

りのバス停を探しながら,新港の町を宮の周りだけ少し歩く。
 あんまり面白くはない。北港はもちろん嘉義と比べても,町並みも道筋もすっきりと現代的です。
 奉天宮から北西150m,感覚的にはワンブロック隔てて大興宮,さらに同方向に200m置いて新港姜太公廟があります(巻末参照)。この北西ラインが新港の霊的背骨らしいけれど,実際歩いたところでは感じとれませんでした。

▲奉天宮出口にて

ころで……バス停がないぞ?とうとうGoogleマップを開いて探し当てたのは登雲路の南側(→GM.:位置・成功牛排新港店)でした。奉天宮の入口の道の一つ南側なのか!!──やっと視界に捉えた停留所から,けれどまさにバスが走り去っていき……。
 路線を確認。ここは7325しか来ないみたい。こりゃ……何分待つのかねえ?

まだ火鶏を食べてない嘉義

▲ゲート前に信徒団のたむろ。こういう一団を台湾ではあちこちで見かけます。沖縄の神拝みに似てる。

げられてから30分待ったぞ,うひひひひ。……しんどくてキレかかってきた1545,今度こそ7201路に乗れました。
 車内で少し眠りつつ……でも本日は,まだ火鶏を食べてない。当時は北港も新港も嘉義の一地方と思ってたから,おそらくその二地点では七面鳥が食えると思い込んでたけれど,全く無かった。あの食文化は嘉義のものなんである(この点は本編では台南編でご紹介しました。:下記リンク参照)

 あれを食わずに嘉義は終われない。
 幸い,今夜の宿ではチャリが借りれる。空は何とか持ってるし──これは夕闇の嘉義を駆ける手でしょ?
 1621,嘉義火車站到了。見切れた自信はさらさらないけれど……と,とにもかくにも,媽祖宮二つ回れたぞ!

嘉雲平原地域漢人住民の出身地別構成:1928年 (赤塗)新港 (青塗)北港
[後掲三尾,資料編表14「嘉雲平原地域」およびその周辺地域における漢人居民の祖籍地(出典:台湾総督府官房調査課,1928)]

■レポ:靈乩の18C新港

 上の表は「嘉雲平原」地域内の「祖籍地」別人数内訳です。──定義の難しい区分ですから,先祖の一次移住地以後の沿革を語り継ぐ漢族系台湾人のみで可能なカテゴライズかもしれません。
 新港を祖籍地とする者の9割が漳州裔。北港はさらに極端で,ここを祖籍地とする台湾人のうち,漳州裔は1人のみ。──これほど極端な地域は,他には虎尾郡の二群のみです(例えば,西螺街(1行目)の泉州裔は3百人,二崙庄(3行目)はほぼゼロ)
 新港に移住したというよりも,正確に言えば──かつて北港には,漳州裔は住めなかったのです。
 18C前半までは北港の前身・笨港に住んだ漳州裔の集団が,18C末までに新南港(現・新港)に移ったとする定説は既に触れました(下記リンク)。

        (清末)
麻園寮→新南港→新港
   ↑*【漳州人移住】
笨港南街→南港→舊南港
  (現・新港鄉南港村)*1750(乾隆15)年 笨港で泉漳械闘
1787(乾隆42)年 林爽文事件

 上の図式に移動年代は書いてないけど,行政による集団移住ではない。また,そもそも移住の理由も本当は明瞭ではありません。あの一族,また別の一族とワラワラと移ったと想像されます。
 虎尾群の一部と異なり,難民として逃げてきた,というのが近いでしょう。
 そのような状況をイメージするなら,新港に「開台媽祖」(台湾開発当初の媽祖)が置かれた,という物語が成立したはずはない。大背景との整合性の面から,まず否定されてくるのです。

奉天宮にも「開臺媽祖」

新港奉天宮媽祖於明朝天啟2年(1622年),先民為求平安橫渡險惡「黑水溝」(台灣海峽),至湄洲祖廟恭請聖尊奉祀船隻上,船隻途經笨港,神示永駐此地。顏思齊率先民來台墾拓笨港,十寨居民輪流奉祀聖像。神尊原為「湄洲伍媽」;因隨船渡海來台稱「船仔媽」;護佑先賢開墾笨港,故又稱之為「開臺媽祖」。[後掲(財)奉天宮]

──新港奉天宮の媽祖は明代・天啟2年(=1622年)に,最初の移民たちが険悪なる「黑水溝」(台灣海峽)を無事に渡るため,船上に祀る聖尊(媽祖)を湄洲の祖廟に請い,笨港経由で,神の示すこの永住の地(新港)へ船は着いた。顏思齊が率いる移住者たちが台湾開墾のため笨港に来て,十寨(→前々章参照)の居民は輪番で聖像を祀った。神尊は元は「湄洲伍媽」。船に載せられ台湾へ来たので「船仔媽」とも,また,笨港を開墾する先賢たちを護り助けたので「開臺媽祖」とも呼ぶ。──
「此地」(この地=新港)は一回しか使われない。これと笨港の地名が混ざって書かれるので,一読すると不整合を感じないけれど……よく読むと支離滅裂で実証性を欠く。例えば,ここでの「居民」は新港居民のはずですけど,当時の新港に大陸の湄洲島から媽祖を招聘するような集団が,顏思齋以前に既にいた理屈になります。
 ここまでに見た台南・大天后,北港・朝天宮の属性と,新港・奉天宮のものを比較してみましょう。

   奉天  朝天 大天后
例祭 (农历)
   3/23 3/23 **
建筑 三開  一開? 三開
   四進  五進  四進
   七殿  九殿  四殿
建立 嘉庆16 咸豐11 永曆19
  :1811 :1862 :1665*
(伝) 天启02 康熙33  ー
:1622 :1694
*前々章推量→雲林採訪冊∶朝天宮「拡張」は1862(咸豐11)年による。
**現在不定。1926年の府城迎媽祖記事(1926年4月16日臺南新報)は3/15·16に開催したと書く。

 真偽の程は,伝・創立年を1622年としている辺りからほぼ明確です。台湾外記の書く顏思齋上陸年:1624(天啟4)年(→前々章参照)は,確かに諸説あるけれど,彼らが媽祖を持って新港に据えたことになる。これは,周知の歴史年表の許す最も早い時点を選んだだけに見えます。
 台南・新港の属性と比べ,これより有利な数字を作っていることが分かります。17Cにそれほどの地理的優位があったと思えない新港に,こんな数値が並ぶとはとても信じ難い。

他サイト掲載の「狀元虎」どアップ。「狀元虎」表示が読める。かつ……より獣性剥き出しの獰猛な面構え。

狀元虎爺 君王は鬼怪騷擾の夢を見た

 ただ,奉天宮の神殿に特異な「虎爺」は,他の媽祖宮に対し非常に際立っています。神ならぬカミの,野粗で暗黒のイメージがあり,それ自体はかなり古いと思われます。

義縣新港奉天宮的虎爺,卻是頭戴金花、威風凜凜的被供奉在神桌上(略)
新港奉天宮董事長何達煌表示,奉天宮的虎爺之所以被供奉在神桌上,據說是因為過去有君王夢見鬼怪騷擾,虎爺將軍現身救駕有功,因此被封為「狀元虎」,是全台唯一、也是世界唯一頭戴御賜金花的虎爺。[後掲台湾英字新聞]

──伝えによると,過去の君王が「鬼怪騷擾」(邪悪な妖怪世界?)の夢を見て,虎爺将軍となって現出し「狀元虎」となったもの。全台湾で唯一,世界で唯一の頭に金の花飾りを戴く虎爺である。──

<神>/<祖先>/<鬼>対比イメージ
[後掲三尾,資料編表13 先行研究に見る<神>/<祖先>/<鬼>]
 三尾さんの中国神霊の位階イメージを掲げました。虎爺のイメージは,完全に「鬼」です。福建の信仰はこの鬼を祀るところを特徴としていますけど,虎爺はまさに野生そのもののカミ。
※本文とは特に関係ありません。(虎繋がり以外には)

冥いカミ 蔴園寮老虎

「笨港媽祖,蔴園寮老虎」という成語が地元で語られるという。[後掲奉天宮全球資訊網/虎爺殿]
「麻園寮」は新港の「舊名」(古い名前)とされます。史料への登場は後にもう一度確認します。
 ここでの笨港は蔴園寮と対語ですから,狭義の現・北港を指すはずです。そうすると
笨港 =現・北港∝媽祖
蔴園寮=現・新港∝虎爺
と対比させた表現なわけです。つまり,新港の霊的象徴は媽祖ではなく虎爺だった。
 奉天宮は,漳州人移住前には虎爺を専属で祀る場所だったのを,媽祖信仰を上書きして作った霊場なのではないでしょうか。
 
 新港という町は,元の「麻園寮」に18C後半に泉漳械闘を主要因として漳州裔団が移住して「新南港」になりました。これが清末には「新港」と短縮した呼称になる。1920年の地方改制時に日帝・台湾総督府が,多数存在した「新港」の重複を問題視し,嘉義県の新港は河港から遠いとして「新巷庄」と改称します。けれど戦後は「新港」名が復活。この時点では「台南県新港郷」だったけれど,1950年に「嘉義県新港郷」に改編されました。
 要するに,沢山あった新港の一つです。
 嘉義市への通勤率は約12.5%。8人に1人が半・嘉義市民です。[wiki/新港郷]

新建奉天宮碑記∶その地方史家はなぜ碑文を創ったか?

 台北の国立中央図書館に「新建奉天宮碑記」という碑文がある。
 新港奉天宮の歴史の実証材料としてはほぼ唯一のもので,1812(嘉慶17)年制作とされる。通説的には後世の偽作とされており,史料的価値は認められていません。

新建奉天宮碑記[後掲國家圖書館](1812(嘉慶17)年制作,國立中央圖書館臺灣分館蔵)

 台南大天后の重修臺郡天后宮圖說(→台南編参照),北港朝天宮の重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記(→三章前参照)に匹敵するような物証を保持しようとしたのでしょう。

……偽作なので,歴史学の冒涜とか,そういう綺麗な議論はこの際置く。
 維基その他で,新港碑文を攻撃しているのは泉州裔の,朝天宮の意を受けたサイドの人間でしょう。
 それに対し,新港碑文を作成した者は,相応の歴史知識を頭に入れながらも,徹底的な時代考証は行えない人間だったと考えられます。他の宮にある,現代において史料的価値を認められた碑文を参照したと考えにくく,つまり恐らく周辺史料を収集できない立場又は地位にあった人です。また,「十八庄董事」の具体名を書けない,つまり当時の実経済界からも距離感が感じられる。妄想するなら……新港にいた地方史家のような一民間人,というイメージが浮かびます。
 これは歴史学的犯罪と言うよりも,新港に追いやられた漳州裔難民層の,プライドを賭けた精一杯の知的な反抗だったのではないでしょうか?

旧地名「麻園寮莊」とその史料記載

 新港(漳州裔移入当初は新南港)になる前,即ち漳州人難民流入時点のこの土地の風景を見るために,「台灣府輿圖纂要」という史料に当たってみます。
 この史料は,台灣銀行経済研究室が1963に初版を作成した,台湾の旧慣を調査する目的のもの。台湾の旧地名が多数収録されています(中國哲學書電子化計劃URLは後掲。以下「纂要」という。)。
 8部分の「城」は文脈上,嘉義を指すはずです。

5 打貓東下保莊三十一。(略)、麻園寮莊二十八里、(略)。
8 嘉義西保莊三十二。城西方三里起:角仔寮莊三里、草地尾莊三里、下路頭莊三里、台鬥坑莊三里、枋仔林莊三里、後莊仔莊四里、和尚莊四里、崎仔頭莊五里、下埤仔莊五里、盧厝莊五里、蕭竹仔腳莊七里、水仔尾莊七里、柳仔林莊八里、水娛厝莊九里、蝦仔寮莊十里、龍山腳莊十里、吳竹仔腳莊十一里、水堀頭莊十二里麻園寮莊十一里、外林莊十二里、瓦厝莊十三里、十一指莊十四里、頂樹頭莊十五里、下樹頭莊十五里、後港仔莊十二里、牛寮溪南莊十七里、南靖莊十八里、卓標莊十八里、項過溝莊十八里、圍仔莊十八里、頂半天莊三十里、荖藤宅莊四里
(略)
36 ——右保三十六、莊九百三十六。
37 山水橋梁、陂塘附后
(略)
92 笨港:在縣西三十里。由三迭溪分流入海。
93 樸仔腳港:在縣西三十里。由外溪分流,椆笨港而入牛椆溪「舊志」不載
94 北港:在縣西三十里。即笨港附莊之別名「舊志」不載
[後掲臨時台湾旧慣調査会編「台灣府輿圖纂要」1963。緑字:原点注釈部 下線:引用者]

 一里≒500m説を採ると笨港まで30里とあるのは,実距離が20kmだから頷けなくもない。ただ,麻園寮莊11里は実距離15kmと大きくかけ離れます。方面は合っているので別の同名集落*とは思えません。これは纂要(が原典にした史料)の「関心の薄さ」によるものでしょうか?
 上記冒頭の「打貓東下保莊三十一」内の「麻園寮莊」は方向が違い過ぎます(嘉義北方?)。にしても「麻」漢字の地名は多い。纂要内の36の保名中に1つ(麻豆保),936の莊名中に15もある。麻の産地に付した漢字でしょうか?
 つまりは,それほどに新港の前身たる麻園寮は,何でもない村だったことになります。
 なお,「新港」又は「新巷」(日帝統治下地名)では纂要内にヒットがない。

GM.:奉天宮・大興宮・姜太公廟の位置関係(右上が北)

奉天宮西北に建つ大興宮と姜太公廟

 そこで,今度は奉天宮と並ぶ宗教施設である大興宮と姜太公廟の由来を参照してみます。
 麻園寮時代にあったとは思えないこれらの沿革は,奉天宮の実際の歴史に跛行したものであるはずです。

新港・大興宮の祭壇

大興宮∶5人の知事が祈った「帝徳化生」

 上の祭壇を見る印象では,誠におどろおどろしい神様です。
 大興宮には縣丞署という役所が置かれていました。また,前述の新港碑文に登場した王得禄も祀られています。

縦観台湾所有保生大帝的歴史,此廟能多匈説是有非常重要的地位:1開台第一尊(超過400年)2縣丞署祀,亦為官方廟宇3太子太保王得禄賜廟名、神巣4咸豊年間「帝徳化生」匿5知縣、分縣事於光緒年間賜匿6. 大明宣徳年間香燻開台第一人顔思齊乃津州青礁村人,大興宮保生大帝是由第ー波入台移民所捕,賓是開台第一尊保生大帝[GM.口コミより]

 伝えとしては……またしても「開台第一尊(超過400年)」──台湾開闢第一号神,四百年超えの歴史あり──とされるらしい。顏思齋の名が出てくるけれど,ここではどういう繋がりか窺えない。顏と併記される「津州青礁村人」*の地名も不明。
*「津州」は一般には湖北省宜都市の古名(さらに古くは「江州」)。ただしそのエリアに「青礁村」は見つからない。中国南部だと「青礁村」は現・厦門市海沧区海沧街道に存在する。
 5人の知縣(知事)から「帝徳化生」(の額?)を賜ったとされるけれど,これもそれ以上情報はない。
 本尊・保生大帝は,大陸ではほぼ福建にしかいない道教神。あまり極端に先鋭化した教義もない。現在は福建よりも台湾が本場になっていて──

台湾の寺廟における主祀神歴年資料統計(1/2)[三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌-台湾漢人の民間信仰の動態」東京大学,2004/資料表8,原典:余光弘1982,(推定)馬公的寺廟與市鎮發展。中研院《第一屆歷史與
中國社會變遷研討會論文集》,頁 451-480。]
同(2/2)

 この表からも分かるとおり,神々の溢れ返る台湾でほぼ8位ランクを,しかも他の神のように乱高下せず20Cを通じて安定して推移してます。
 さて,大興宮の創始ですけど,これは史料で確認できます。

新南港街の五祠=登雲・奉天・大興・肇慶・西安

 清代・新南港街の祠宇は,「嘉義管內採訪冊」中に5つ記してあります。

64 祠宇
65 登雲閣在新南港街之東門外,崇祀文昌帝君,港中近莊各士子,每於此會文講學。道光十五年八月,紳民公建。
66 奉天宮在新南港街,崇祀天上聖母,嘉慶戊寅年三月紳民公建。
67 大興宮在新南港街之後街,崇奉保生大帝,嘉慶九年十一月紳民公建
68 肇慶堂在新南港街之大街,崇奉福德爺正神,嘉慶辛未年十月紳民公建。
69 西安堂在新南港街之松仔腳,崇奉福德正神,道光十五年十月紳民公建。[後掲嘉義管內採訪冊]

 大興宮は1804(嘉慶9)年に紳民(≒地元有志)により建設されています。大興宮のみならず,5廟中,奉天宮を含む3廟が同じ嘉慶年間です。
 残り2廟は,ともに1835(道光15)年。何かのあった年でしょうか。
 奉天宮創建と書かれる「嘉慶戊寅年」は1818(嘉慶23)年,肇慶堂の「嘉慶辛未年」は1811(嘉慶16)年ですから,大興宮は5廟のうち最初に造られた。漳州裔は東遷後,媽祖ではなくまず保生大帝を祀ったことになります。

宮重修喜捐緣金名碑。左端に「咸豐……戊午」表記あり。[後掲台湾記憶/大興宮重修喜捐緣金名碑]

大興宮重修喜捐緣金名碑∶1858(咸豐8)年改築記録

 大興宮にも碑文があるのですけど,9割が誰が幾ら出資した,という記事です。だからその部分を飛ばして読むと──

林怡源捐銀肆拾元,大成捐銀參拾弍元,(略)以上各捐銀壹元。 咸豐捌年歲次戊午拾弍月 日,董事林騰霄、林文瀾、楊大成、黃媽養仝立。[後掲大興宮重修喜捐緣金名碑]

 1858(咸豐8)年の重修(改築)を記録した碑文です。採訪冊の書く創建年1804(嘉慶9)年からは54年後。改修されて然るべき建築年数の時期です。
 新建奉天宮碑記と異なり、文章形式も(北港朝天宮)重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記類似で年代も記載され,かつ奉納者の具体名も入る。真実味はかなり強い。
 即ち,遅くとも19C前半には大興宮は確実に存在しています。歴史的には,この宮が新港の中心的宗教施設です。

新笨港(現・新港),県丞署,南港街(南笨港),北港街(古・笨港北半,現・北港)及び「媽宮」(推定・媽祖宮=朝天宮)が記された地図
(後掲「嘉義縣境匪拒守村莊簡明圖説」1833(道光12)年:張丙事件対応の作戦用に作成された地図,台北故宮保存

「笨港縣丞署は北港→板頭厝莊→新港と移動した」説

 上の絵図面では,南東(図の右手)から
   ←新笨港(現・新港)
   ←縣丞署
←南港街
  ←(北港渓)
  ←北港街
 媽祖(宮)
と連なる位置関係が書かれています。
 張丙事件は1832年に発生していますから,上図の由来(同事件作戦用)を疑わないなら,この1830年頃の描写です。
 大興宮に併置され,それが新港の一定の地域のコア機能を立証するとされる縣丞署(次史料では「辦公處所」,他に「治笨官署」とも:通常,県のエリア別支所の意。以下「公所」という。),それが新港ではなく,北港との中間地点に存したことになるのです。

而光緒13年(公元1887年)雲林設立為縣,本來同屬笨港的北港劃歸為雲林縣,於是笨港縣丞署改設置於新港,將大興宮後殿充作辦公處所,直到日本治臺。[後掲臺灣宗教文化地圖]

 これらが正しければ,新港に公所が置かれた(=新港が県庁所在地になった)のは,1832年(張丙事件発生年=前掲絵図作成推定年)より後,1858(咸豐8)年(碑文に記す重修時点)までの四半世紀頃と考えられます。──屋敷→宮(≒大天后宮)ならともかく,宮に県庁機能を組み込むには相応の規模の施設改修が必要でしょう。そしてそれは採訪冊の書く創建年1804(嘉慶9)年ではあり得ない(∵<1832年)のですから。
 ただし,通説では公所は雲林縣丞署(雲林県の県庁)とされます。雲林県は1887(光緒13)年の新設県なので*,
①大興宮に縣丞署を設置
②大興宮の建立・改築年,1804年と1858年のいずれかで縣丞署建物を建造
③縣丞署は「雲林」県庁(雲林県新設は1887年)
という3つの仮説が,全て並立することはありえません。

(笨港)「縣丞署=板頭厝」説

 大興宮にあったとされる「雲林縣丞署」に対し,北港-新港間に描かれるのは別のお役所「笨港縣丞署」だとするのが通説です。その位置の推定根拠を見ていくと──

笨港縣丞署位置在嘉義縣城西門二十五里處(5里+7里+5里+8里=25里),查新南港莊距縣城二十里,舊南港莊三十里,板頭厝莊二十五里,無疑的,笨港縣丞署還在板頭厝,而不是在新南港。[後掲痞客邦/笨港縣丞署存廢之謎]

 つまり
①笨港縣丞署は,嘉義城の西25里にあった。【208】
②別の記述で,25里地点にある村として板頭厝(村)がある。【19】
③だから笨港縣丞署は,板頭厝にあったと推定される。
という理屈です。距離の整合が根拠なのです。

菜園における製糖鉄道関連遺産の分布図[後掲王新衡,図6-36]。板頭村は台湾近代の製糖輸送上も交通拠点となっていた。

 原文を見ていくと,出典はいずれも纂要。①は【208】の積み上げ(=5+7+5+8里),②は【19】の記述です。ただし,25里箇所の村は4つ,溝仔坪莊・頂菜園莊・下菜園莊・阪頭厝莊が書かれています。漢字が違うそうじゃないけれど4つ目が板頭厝莊と推認されるらしい。

12 大槺榔保莊十五。城西方三十里起:北港街莊三十里、(略)
19 打貓西保莊十七。城北方十八里起:大潭莊十八里、新南港莊二十里、(略)、溝仔坪莊二十五里、頂菜園莊二十五里、下菜園莊二十五里、阪頭厝莊二十五里、大柴林腳莊二十七里、(略)、舊南港莊三十里
172 笨港縣丞署:大槺榔保。
208(略)出義性門西北五里埤仔頭、七里大潭莊、五里打貓西保、八里笨港縣丞署。
[後掲臺灣府輿圖纂要/嘉義縣輿圖纂要/嘉義縣輿圖冊]

 まず①は,(魏志倭人伝みたいな議論ですけど)同心距離か積上距離かははっきりしません。ただ嘉義は雲林県じゃないし,仮に雲林県説が誤りでもそんな半端な位置に役所を造る意味はないから,まず積上なのでしょう。
 ②は,4箇所の地名のうち,川(北港渓)に近い適所を恣意的に選んでいると思われます。板頭厝莊と断定する根拠は,やや薄い。
 だから,③を史実として確定させるには,客観的にやや材料不足と判断せざるをえません。
 この点は,おそらく関係者にも自覚されているのでしょう。嘉義県は次のように,発掘に基づく考古学的成果を併記します。

而學界之所以認為縣丞署在板頭村,除了史料記載的遷移記錄之外,是因為民國88年{1999年}一月至三月,科博館的考古隊在當地{板頭厝莊}開挖了186平方公尺,確認了其建築基址、垃圾坑、幼兒墓葬、建材廢棄堆等遺跡。在這其中,出土的文物以陶瓷器的數量最多,也最重要。包括了青花瓷、釉上彩、白瓷…等,其他還有小陶皿、紅尼茶壺、骨器…等等,可說是一處珍貴的遺跡。[後掲嘉義県,ただし{}書きは引用者]

──学会も縣丞署が板頭村にあった事実を認めているが,史料記載による遷移記錄以外にも,民國88年{1999年}1〜3月,科博館の考古隊が当地{板頭厝莊}を186㎡に渡り発掘し,建築基址(建築の基礎部分),垃圾坑(ゴミ捨て穴),幼兒墓葬,建材廢棄堆の遺跡を確認している。このうち,出土した文物としては,陶瓷器の数が最多で,この点は最も重要である。さらに青花瓷,釉上彩,白瓷などを包む。その他に小陶皿(陶器破片?),紅尼茶壺(赤泥製の茶壺?),骨器など,一種珍貴な遺跡だと言える。──
 ただ,この発掘成果の詳細はネット上でヒットがない。遺跡名の記述がないところからも,縣丞署の跡である物証は現時点では得られていないと思われます。
 結論として,板頭厝莊説は有力視されてはいるけれども,実証されてはいない,という状況だと判断していいでしょう。そうなると,纂要そのものが二次史料の域を出ない以上,新港に縣丞署が移ってきた経緯は今のところ推定だと考えるしかない。
 また,仮に板頭厝莊がそのように県庁所在地だった時代があるならば,なぜ為政者側は北港でも南港でも,もちろん新港でもなく,史料上それら3市街以上に栄えていたとは確認できないその中間域を選んだのでしょう?また,そこに北港を追われた漳州裔が移入しなかったのは,なぜでしょう?

姜太公廟∶太公望を奉じた移入漳州裔群

「姜太公」は古い神様です。
 呂尚(姜子牙)は,BC11C頃の周の軍師。「武廟」に祀られるのは古代から兵家の最高の栄誉でしたが,ここに唐代に加わるようになったのが「姜子牙十哲七十二名將」と呼ばれる人々。唐玄宗の頃に「太公尚父廟」が建てられ,「姜太公」と歴代良将を祀るようになる。[後掲廟宇通など]
 70歳(一説には80歳)を越えてから周王権を補佐した軍略家で,文王・武王を補佐したと伝わる[史記]。ただし,異説逸話は限りなくあります。
 別名も多い。中国ではイメージの分化した,それだけ時代を経たというケースです。「姜太公」のほか,「師尚父」「斉太公」,そして日本では釣り師の代名詞になってしまった「太公望」。

太公望(姜子牙)中国画

本廟主神姜太公,金身是明永暦廿三年(西元1670年)張姓信徒,迎自漳州府詔安縣,初居金水漆林,大溝仔西北角,水尾仔,此地臨海,張姓信徒居此一面墾拓一面討海為生,経術代畢族遷敷里之東,架港南街,架港乃内河港,多殷富世家,在同信日荒,香火日盛故於清乾隆廿七年(西元1763年)架民合建,架港太公廟~[GM.口コミより]

──1670(永暦23)年に張姓の信徒が,漳州・詔安県から移入した。
──初めは金水漆林,大溝仔西北角,水尾仔などに置かれた。それらの地は海に臨み,張姓の信徒はその開拓と「討海」(海賊退治?)をした。
──彼らは「南街」に移った。街は賑わい家は富んだが,次第に荒れ(「在同信日荒」),1763(乾隆27)年に太公廟を共同出資で建てたのだ〜。──
 台湾での姜太公信仰は,決して新港や嘉義が中心というわけではありません。北部の桃園県に「姜太公信仰文化協會」という信徒組織の本部があります。ただ,台湾で最も著名かつ歴史ある姜太公宮は?と言えば新港太公宮の名は挙がるようです。
 さて,台湾新港の太公廟は,やはり漳州裔が持ち込んだと伝わります。

香火日盛故於清乾隆廿七年(西元1763年)笨民合建,笨港太公廟,由此生靈達播,詎料嘉慶年間(西元1796~1820年)台灣近海市鎮最大笨港街市被洪水沖毀,其歷史文物,治笨官署,殷商富戶,悉遷距笨港街五里之東蔴園寮(今新港)本廟因笨民四散分居,重建家園只堅固草雕之廟,近年使重建新港太公廟,土地增購七十餘坪。[後掲文化資源地理資訊系統]

「笨港太公廟」という名称を,文化資源地理資訊系統は記します。1763(乾隆27)年創建。いたずらな17C以前の期限説はない。つまり,あまり対抗的なバイアスがかかっていません。

第11句∶洪水沖失笨港古

 後掲「嘉義縣志‧卷十‧文學志」によると,上記記述の出典は「新港太公廟簡介」(出版者未詳)らしい。
 この文學志p131〜2に新港太公廟についての記述があります。後半部に対聯が全て掲載されていました。以下全文を掲げます。

門柱:
神化古西周滅紂興邦千古傅記{01}
靈乩新南港護國佑民萬世流芳{02}
門聯:
姜相隠磻渓姫伯禮賢東征滅紂{03}
太公垂渭水文王聘能西岐扶周{04}
右門:
眞神扶周萬古忠貞齊景仰{05}
君靈護漢九州士庶同讚欽{06}
中門:
太上徳相侔釣渭輿周人尊大老{07}
公前恩並渥估臺復漢神護中華{08}
左門:
護國保民常駕風輪巡海内{09}
體天渡世長使火槍佑人間{10}
進門一柱:
宮殿華麗洪水沖失笨港古{11}
廟貌巍峨福地重建麻園新{12}
二柱:
除暴安民萬年民衆沾潤徳{13}
臺上封神億載神祇沐恩光{14}
正龕:
姜公討殷勲功昭日月{15}
呂相佐姫偉徳配乾坤{16}
右掛聯:
心藏難畧星斗沖霄漢{17}
保周八百餘年亨尊安{18}
左掛聯:
國王尊賢下拝稱相父{19}
忠臣受禮赤誠扶西周{20}
(番号は引用者)

 何と20句あります。二句毎に完全な対になっているので10パート(p)に分けると──

[a]01p∶各13文字
[b]02p: 13
    03p: 11
   04p: 13
[c]05〜07p∶11
[d]08〜10p∶9

[b]と[d]はほぼ姜太公の一般的伝説を謳う。台湾独特の描写は[a]と[c]です。[c]の中では進門一柱の真ん中の(06p)第11・12句が,構成上の核心と解せます。
第01句∶神化古西周滅紂興邦千古傅記
──神は古き西周(帝国)を変化せしめ紂(殷第30代王・最終代)を滅ぼし邦(中華帝国)を興したと千古の記に伝わる。──
第02句∶靈乩新南港護國佑民萬世流芳
──ああ靈乩(天変地異?)の新南港。国を護り万世の流芳(難民?)より民を佑く(助く)。──
第11句∶宮殿華麗洪水沖失笨港古
──(笨港の姜太公廟)宮殿は華麗(であったが) 洪水により古えの笨港は沈み,失われた。──
第12句∶廟貌巍峨福地重建麻園新
──廟の容貌も雄大に,麻園に新たに重建(改築)された。──

第11句「宮殿華麗洪水沖失笨港古」とニヤリおじさん

 太公廟は古・笨港の洪水で新港に移動してきた。
「其歷史文物,治笨官署,殷商富戶,悉遷距笨港街五里之東蔴園寮(今新港)本廟因笨民四散分居」──その(笨港の)文物,役所,商人たちは,笨港街の五里東の東蔴園寮(現・新港)にことごとく遷り,本廟(太公廟)は笨民(笨港の難民たち?)の四散して分かれ住むところに因っ(て建設され)た。──
 18C後半の笨港地域は,1959年の七八水災以上の,河川による住居地域の分断が発生していたわけで,いつどこからどこへ,という整然と整理できるような状況ではなかったでしょう。漳州裔の流亡にモーセはいなかった。その中で泉漳械闘も発生したでしょうけど,それのみによる説明は単純化した図式に過ぎません。
 18C水害により陸地居住地にこだわる漳州人は内陸の新港に移った。泉州人は北部など他の交易地に逃れていったでしょう。
 古・笨港に,本当に姜太公廟があったかどうかは定かでない。あるいは漳州裔の誰かが護って持ち歩いていた神像を,彼が新南港(現・新港)へようやく安住地を得た際にその難民キャンプ内に据えたものかもしれません。
 それから類推するならば──奉天宮の媽祖にしても,同様に流亡の漳州裔の誰かが水害から逃れてきて,現・新港の虎爺祠の軒を借りて安置した,というような経緯が本当のところだったのではないでしょうか。
七八水災(1959年8月7〜9日)の被害記録画像

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