m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m2鹿巷興安

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.∶南下
 GM.∶北上
(ともに経路)

鹿港早期的大墳場

鹿港観光マップ
(中心部の赤丸「市場」は引用者追記)

論,鹿港にも天后宮を目的に来てます。それは市場から老街(古い町並み)を過ぎた北にある。
 でも,飯食った後は南に向かってます。
 鹿港の街区はなぜか(巻末参照)南北に細長い。南を先に見て北側へ行けば,あわよくば北からバスに乗れて時間節約になる,という風なことを考えたような記がします。
 でも市場から南は急に空気が冷めてきます。

▲1318百姓公

散とした町並みの角に「百姓公」という小祠。町の空気と祠の簡素さがよく溶けていて,思わず一枚撮ったのが上記。
……なんですけど,勉強不足でした。台湾で百姓公というのは,ほぼ古い大規模埋葬場の附属祠なんですね。
 鹿港のこの辺りもまさにそう。百姓公祠の後ろには鹿港國小(公立小学校)の運動場があり,これが全て鹿港の初期の巨大墓地(鹿港早期的大墳場)。──だから,台湾各所で百姓公を見かけるんですね。(「萬善祠」と表記されることもあるけどほぼ同義)

(前掲)観光マップ 赤丸「旧墓地」の位置参照

宗教施設のベルト地帯

民初中期の重労働,疫病,天災,械鬥(内部抗争)などによる累々たる死者のため,台湾各地にある。
 この死者数は,驚くべきことに全く推計値が見つかりません。
 つまりここは無縁墓地の祠の一つなのです。
 鹿港の場合,1777年に商人たちが「敬義園」という慈善団体を設立して埋葬と墓地管理を専業させたといいます。大陸からの上陸地だった鹿港では,「夢の島」にたどり着いたはいいけれど右往左往してるだけで死んでいった渡航者が特に多かったのかもしれません。[後掲隨意窩,教育雲線上字典]

▲1321路地の奥に鹿港興安宮

姓公の祠地点は三叉路になってる。ここで迷った上で左(東側)を選んで進む。
 1320,東側の静まりかえった路地奥に発見できました。鹿港興安宮,鹿港に3つある天后宮(巻末参照)のうち一番南のものです。

▲左手手前の金爐

が蒼い昼下り。
 ちなみにこの場所から西へは荘徳仏堂,鹿港杉行街武沢宮,鹿港龍山里鳳山寺と宗教施設がベルト状に連なってます。
 さっきまでの市場の喧騒が嘘のよう。無人の廟を気怠い心地で一巡り。

興安宮=興安會館?

▲焼香壇から入口

門縦の対聯は──
右「興國興郷聖徳覃敷萬家沾雨露」
左「安民安境母儀卓著四海靖波瀾」
 右聯(第一句)「聖徳覃敷萬家沾雨露」──聖徳があまねく敷かれ皆に雨露の恵みあらんことを──というシンプルな生存の希望が痛い文章です。
 廟名・興安宮は別に「興化媽祖宮」とも。つまり「興安」は抽象名詞の意味は薄く,固有の地名・興化府≒甫田地域を指しています。
 建物は単開間二進一院。前埕から入口一つで,三川殿,拜亭,正殿と三段の間がある。小さいのにパティオ空間もしっかりと有り,シンプルかつ典型的な構造です[後掲国家文化資産網・文化部 iCulture/鹿港興安宮]。複数開間の複雑化は競争意識が働かなければ自然にはないものかもしれません。

▲本殿祭壇には透明ガラス。評判が悪いのか,丸い穴が開いてる。

祖様の御顔は,何というか,物凄く整っている。17C期限とする古像はどこか別にあるのでしょうか。
 千里眼,順風耳は着脱可能な実戦仕様。練り歩くらしい。
 奥の間には,かつてないほど元気な順風耳がいる。彼には何かがあったのか?
 額の数は多い。一番奥は「莫安山海」。──後の調べでは,これが1852(咸豐2)年改修時の匾額。その上部にある「興安會館」という額が機能的には重要で,興安宮が興化人の同鄉会館として機能したことを推測させるものという。勅額としては別に,1887(光緒13)年の「慈航普渡」匾もあります。
 左右の列は基本的にはないんだけど,左にのみ別の祭壇があります。「境主公」と書かれてる。

中山路と菜園路の間

▲1331奥の順風耳さん。公園で無闇に走り回る子どもに,時々こういうのがいる。

は北へ向かおう。1334。
 金盛街と住所表示?あ,この五叉路(→GM.)から北が美市街なんだ。さっきの市場を経てさらに北へ。

▲北への路地

手法(航空写真)で見たところでも,この北,中山路と菜園路の間のゾーンが浮かびあがってました。
 1339,後車巷。
 観光地でもあるらしい。カメラを手にした歩行者がちらほら。

▲路地建物

古・鹿港海岸通り

は確かに不規則にくねる。
 現在も人の住む地域です。建物は新しいけれど,基盤構造はよくよく見れば古いものも多い。

▲鹿巷のロゴマーク

代前期の鹿港全盛期,この道こそが鹿港メインストリートだったという。
 芸子のいる茶楼や酒館が並ぶ盛り場であったといいます。
 南の城隍廟前に公設市場(集中市場)が出来てから,商業の中心がそちらへ移った。さらに,東側に中山路が拡張再設されると搬入路もこれが取って代わり,老街は用いられることがなくなって現在に至っているわけです。[後掲隨意窩/鹿港老街-後車巷]

▲路地

権路。
 ケンタッキーの横を抜けると,さらに北へと後車巷は続いてます。
 段々分かってきました。この街区の細長さは,海岸通りに形成されるそれです。沿岸ラインに平行した街区だから細長いのです。

鹿港渓の河岸ライン推定図
紫線∶最盛期(1785〜1845年)
水色線∶それ以前(16〜17C前半)

鹿港内戦期の最前線防壁

の記述を信じるなら,鹿港最盛期の河岸ラインは現・埔頭街-瑤林街-大有街となります。

後車巷介於商店林立的「五福大街」(中山路) 與船頭行聚集的鹿港溪沿岸 (埔頭街、瑤林街、大有街)之間,在過去,因為五福大街為不見天的商店街,而埔頭街為船頭行店面街道,位於後方的後車巷為船頭行倉庫之所,因此成為車道通行,搬運落物的的道路[後掲痞客邦,下線は引用者]

 この時代,古・中山路≒五福大街は「不見天的」(空の見えない)商店街でした。おそらく香港の油麻地とかの道なり市場のような状況でしょう。だからここと河岸の荷揚げ場との間の搬入路として後車巷は重宝した。

▲1349宅陰公廟の並び

348,「宅陰公」廟。
 初めて見ると思う。神像なし,「福」の額のみが神体の如くに供えてある。
──後で調べても,この神は全く分かりません。

宅陰公廟[後掲隨意窩/阿扁的匾]

理的に見ると,この位置は隘門(巻末参照)の近くです。
 おそらく天后宮のエリア,泉州裔エリアの南端に当たる。
 境神。日本の道祖神のような祈りをこめた神様ではなかったでしょうか。
 別の言い方をすれば,この辺りが鹿港内戦期の戦闘の最前線だったことになります。

▲1352後車巷のいい感じの家並み

■レポ:鹿港興安宮が見てきた風景

 それぞれが正統を主張してるので大変分かりにくい,と言い訳は出来なくもない。訪問時には全く認知してません。
 鹿港の歴史的媽祖宮は三つある。
①勅建天后宮
 (1791(乾隆55)年創建)
②鹿港天后宮
 (1736(乾隆初)年同
  1591(萬曆19)年原型※)
③鹿港興安宮
 (1684(康熙23)年同※)
 これは清代の地誌・彰化縣志にほぼ明記されます。

巻五19 天后聖母廟:一在鹿港海墘,乾隆五十五年,大將軍福康安倡建,廟內有各官祿位①。一在邑治北門內協鎮署後,乾隆三年北路副將靳光瀚建;二十六年,副將張世英重修。一在邑治東門內城隍廟邊,乾隆十三年,邑令陸廣霖倡建。一在鹿港北頭,乾隆初,士民公建,歲往湄洲進香,廟內有御賜「神昭海表」匾額②。一在邑治南門外尾窯,乾隆中士民公建,歲往笨港進香,男女塞道,屢著靈應。一在王宮,嘉慶十七年邑令楊桂森倡建。一在沙連林圯埔,乾隆初,里人公建,廟後祀邑令胡公邦翰祿位。一在鹿港新興街,閩安弁兵公建③。一在犁頭店街,一在西螺街,一在東螺街,一在大肚頂街,一在大肚下街,一在二林街,一在小埔心街,一在南投街,一在北投新街,一在大墩街,一在大里杙街,一在二八水街,一在葫蘆墩街,一在悅興街,一在旱溪莊。[後掲彰化縣志 ※番号は中國哲學書電子化計劃付番,下線・丸付番号∶引用者]

 ③興安宮※のみ創建年が書かれない。また,前頁先述のとおり②鹿港天后宮は1591(萬曆19)年に原型があったとされます。
 従って,彰化縣志の記述は勅建天后宮に近い集団が自己の古さを際立たせるよう操作した形跡があります。
 そうだとすれば,彼らが争ったのは,嘉義県(特に北港)の例のように台湾最古(開台媽祖)の座ではなく,もっとローカルな首位だったように思えます。
 では,3宮の各支持集団とはどんなものと推定できるのでしょうか。

興安宮は甫田人が築いた

 興安の「興」は「興化府」≒甫田を指すとするのが,俗の見方としてあります。

興安宮俗稱「興化媽祖宮」,是鹿港最早的媽祖廟之一。清康熙23年(1684)由福建省興化府人移民臺灣時,攜帶媽祖香火來臺,於鹿港草仔市一帶興建廟宇。廟名「興安宮」,取其「興化平安」、「興化安寧」之意。
 興安宮為鹿港的人群廟之一,「人群廟」係指大陸原鄉某一人群移民到臺灣時,所共同興建的廟宇,此人群廟同時兼具「同鄉會館」的功能。[後掲文化部 iCulture]

──興安宮は鹿港の人群廟の一つである。「人群廟」とは大陸の原鄉から最初に台湾に着いた移民群が共同出資で建てた廟で,この人群廟は同時に「同鄉会館」としての機能を兼ねていた。──
「人群廟」が他にどれなのかはっきりしませんけど,少なくとも原型時代の鹿港天后宮はそうだったのでしょう。
 すると,
①勅建天后∶泉州人
②鹿港天后∶泉州人
③鹿港興安∶甫田人
 前章(鹿港藝文館の「王宮」)で見たように南靖宮とそれに隣接する鹿港藝文館は漳州人の同郷会館だった傾向があります。
 甫田は泉州の北すぐなので,準・泉州系と見るならば,天后3宮は全て泉州系に属します。
 漳州系の廟がないのです。

∴最初に鹿港に来たのは甫田人?

 なお,上記の順序を単純に受け止めると,以下のように,媽祖を奉じた甫田人の一団が,無人の鹿港に上陸したことになります。

清代には、「一府二鹿三艋舺」とよばれた。すなわち、第一が台南府、第二が鹿港、第三が艋舺(マンカ、台北の一地域)という意味である。
 鹿港に最初に定着したのは福建省の興化(莆田)の人びとである。彼らの建てた興安宮(1684年)は鹿港で最も早く創建された媽祖廟である。次いで泉州、漳州、また広東省などから移住する人がつづいた。[後掲野村]

 ただ,興安宮の創始が甫田に由来する,という点の実証はやや頼りない。笨港の顏思齋のように史料があるわけではなく,単に「興安」の「興」が興化府と通じる,つまり漢字一文字の共通性を根拠にしていると言えなくもない。
 例えば,本来は漳州人由来の廟であるところを,この漢字一文字論でもって無理矢理に漳州から切り離した,という陰謀論も考えられなくはないけれど,これまた根拠がない。
 要するに,それほど興化府説には固執すべきではない。無理のないところで,前章末で触れたように,カラスミを追った漁民が当然に奉じていた媽祖を祀った,と本稿では想定して先に進みます。

現・台湾人の発音から漳州裔か泉州裔かを判定する企画[Youtube/漳州腔?海口腔?台語測試你是哪裡人

鹿港泉州弁と宜蘭漳州弁

 現代中国語ではほぼ消えた古代中国語の特徴の一つに,入声(にっしょう,にゅうせい。陰陽)があります。
 ありますけど理解できない。──現代中国語の声調(≒イントネーション)と並列した破裂音の法則があって,それが結果的に声調に影響したような形をとるものらしい。
 ほぼ,というのは,現代の北京語にも僅かな残存があるからです。例えば,中国語を学んだ人が一度は悩んだであろう,第三声が連続する場合に最初の第三声が第二声に変化する(例:你好(ni3 + hao3 → ni2 hao3))という,アレです[wikiland/閩南語,同 連続変調]。
「鹿港人講話無相仝」(仝(găng)=同)という難しい成語があります。解説として「海口腔陰上調變調成中升調」[後掲蘋果健康咬一口]──「海口」弁は「陰上調」が「中升調」に変調する(変な発音である。)──と言ってるらしいけれど,とても何のことだか分からない。

台湾語には5つの声調があるが、入声(閉鎖音で終わる音節)では2つのみに減る(上表の4と8)。単語において、最後の1音節以外のすべての声調が変化する。入声以外では、声調1が7に、7が3に、3が2に、2が1に変化する。声調5は方言によって7または3に変化する。/p/・/t/・/k/ に終わる入声は互いに異なる入声に変化する(音声的にいうと、高から低に、低から高に変化する)が、声門閉鎖に終わる(上表では h と記されている)音節では音節末子音を失って声調2または3に変化する。[wikiland/連続変調]

 連続変調は,隣接する語に引きずられる「統語的置換」が一般的だけれど,中国語他のアジア語では「範列的置換」,隣接する語が存在するだけで自ら変調してしまう不思議な性格の変調をする。この性格は,まさに台湾を含む閩南語に顕著な特徴だという。
 分からない。
 ただ,中国語の話者にはなお明確な違いらしくて……

大致來說,在台灣中部各縣市為例,泉州裔台灣人大多分佈在海線各鄉鎮,使用「海口腔」台灣閩南語,以鹿港腔為代表;漳州裔台灣人大多分佈在山線各鄉鎮, … ,住台灣的閩南人都知道:鹿港人和宜蘭人的閩南語有著奇怪的腔調,其實他們講的才是純正的泉州腔和漳州腔。[後掲蘋果健康咬一口]


──泉州裔の台湾人は大部分が海沿いの各村に分布している。「海口」弁を使う台湾閩南語は,鹿港弁を以てその代表とする。(これに対し)漳州裔の台湾人は大部分が山線の各村に分布する。……──
「海口」弁とは要するに泉州出身集団に根強い言語で,その傾向が最も強い台湾方言が鹿港弁だとされます。
──……台湾に住む閩南人には周知の事実だが:鹿港人と宜蘭人の閩南語には奇怪な抑揚がある。何となれば,彼らの話すのはまさに純正の泉州弁と漳州弁なのである。──
 鹿港の日常語は,言語学的に最も泉州弁に近いのです。それと同じことが,宜蘭と漳州弁について言える。
 素人なりに理解する限り──要するに,口承や家伝上ではなく言語学的に,大陸の泉州の話法が最も純度を保っているのが鹿港だということになります。
 もっともこれは,口承の自己認識とも一致するらしい。

彰化市区,则主要是地缘关系结合的漳籍杂姓聚落。故台湾有“鹿港多泉籍,彰化多漳籍”的说法。在台中盆地,以现在的台中市为中心,早在乾隆初年,漳州人就建立起张、廖、何、赖等大姓的血缘聚落。[後掲今日头条]

「鹿港多泉籍,彰化多漳籍」──鹿港には泉州出港者が多い。彰化には漳州出身者が多い。──
 台湾全国ではさらに宜蘭に多い。
 初期の台湾移民は大陸から,鹿港を経由したはずです。前章末でみたようにこれが自然発生的ルートだったとすれば,密航者であっても近接地域から上陸したはずです。そこから漳州人の居住地だけが離れているのは,つまり遠隔地への移住を強要された可能性を疑わせます。
 まして当時の台湾東海岸(宜蘭エリア)と言えば,まだ勇気の居る未開拓地でした。

「鹿港僅存的隘門;過去紛爭時的隔絕門戶」[後掲痞客邦]
 

彰化地域最大だった鹿港械門

 古・笨港から新港へ追われた漳州人(上記リンク参照)のように,いやどうやら他より遥かに激しく,鹿港から漳州人は追われたらしい。

在清朝時期,大陸沿海各地移民至鹿港,各據一方;其中泉州、漳州為最,常發生泉漳與各移民勢力為爭地盤、搶生意而發生械鬥的情事。當時在鹿港各巷弄間設有隘門,發生爭吵爭鬥時,輸的一方逃回隘門,自己所在的據點關上門,對方便不會(不敢)進一步逼近。[後掲痞客邦]

──当時,鹿港の各路地(巷弄)の間には「隘門」が設置された。(出身地別の)闘争が発生した時,一方が隘門の中へ逃げ,自らの籠る門を閉めて,敵の近寄る術を失わせた。──
 上記の隘門(あいもん?)は,この闘争期に「巷弄」毎にあった防衛施設のうち僅かに残ったものだという。──これは当時見逃してます。
 ただ闘争と言っても──

(再掲)鹿港渓の河岸ライン推定図
紫線∶最盛期(1785〜1845年)
水色線∶それ以前(16〜17C前半)

 鹿港の市街は河岸に沿って細長かったはずです。要するに一次元の戦場です。これを隘門で幾重にも仕切ったら,ボックス状の勢力圏が幾つも出来,容易に陥れることは難しい代わりに,一度占拠すれば永く防衛されたでしょう。
 漳州裔の守備したであろうエリアを炙り出そうとしてみましたが,全く手掛かりがない。おそらく,笨港のように南北に膠着して争ったのではなく,一時に泉州裔に駆逐されたと思われます。
 調べる限り,それは戴潮春の乱(1862年)の出来事と思われます。

1862年(略)4月に八卦会のメンバーがもめ事をおこし、彰化を巡視していた台湾道孔昭慈に殺害される事件がおきた。戴潮春は報復を決意し、彰化に攻め込んで孔昭慈を殺害し、大元帥を称した。(略)
鹿港鎮では漳州出身者と泉州出身者との対立が顕在化し、八卦会内部の泉州出身者が内応するようになった。
 1863年になると清軍の反撃が開始(略)[wiki/戴潮春]

 朱一貴,林爽文と並ぶ台湾三大内乱の一つのうち、最後期のものです。他の乱と同じく,乱は泉州裔の支配権確保に利用された形で漳州人は鹿港を追われた。
 彰化は,新港と同じく,追われた漳州裔の難民キャンプが大きくなったもののようなのです。
 さて,こうした血腥い鹿港史を背景に考えた時,興安宮の貌はどのようなものだったのでしょう。

興安宮地籍図から見える光景

 興安宮のデータは,国が正規に整理した次のサイトにほぼ整理され尽くされています。
・國家文化資產網[後掲同/鹿港興安宮
・文化部[後掲 同/鹿港興安宮]
 文化資産網には文化財指定用の地籍図も掲載されていました。

地籍図[後掲國家文化資產網/鹿港興安宮/地籍資料興安宮1100721地籍圖.pdf,2021(民国110)年]

 間違いか?と思うほど細長い。
 現代地図(→GM.∶地点)と比べながらよくよく見ると,細長い灰色部の北東側にある突起部が宮の建物敷地で,南西部はそこから興化街へ出る道であることが分かります。
 つまり文化財指定されてる細長い土地は,建物敷地とそこへの私道です。宮経営者が自らの社への進入路の所有権を,自ら有す。
 これは台南の大天后宮の配置場所に似ています。元あった宮地が,後代の街区化の波に乗り込まれてブロックの奥に飲み込まれた。
台南大天后宮の位置及び周辺路地配置

 けれども,大天后宮と異なる,あるいはもっと酷いのは,鹿港興安宮の場合,このブロック内路地奥が完全な袋小路であることです。
 台南に比べても,また鹿港の中でもそれほど市街化されたエリアではないのに,居住区に食われて消えようとしている,という印象がある。つまり進入路の所有権を得て守らないと,進入路全てが宅地化される懸念があった。
 地域から冷遇された,いわば過去の厄介な遺産,と見られている感じがあるのです。

①興安宮街區古地圖による補助線

 そういう「被捕食者」のような冷遇を計算に入れて,この地籍図を見直すと,地籍図の濃淡がそうして居住区に食われた何かの旧廟内施設を示す可能性に気づきます。
 清の台湾占領直後に建設されただけあって,この宮には宗教面以外の文化財も数多い。うち二点を史料として読んでみます。

蘊藏百年古物,文化至寶:清初木雕之軟身聖像,①「開臺興安宮全貌」彩繪古圖為廟內現存最為珍貴之古文物。另外,正殿神房內懸咸豐二年「奠安山海」匾,門楣上的光緒十三年「慈航普渡」匾,以及記載當年廟產之②「奉憲勒碑」皆彌足珍貴。[後掲文化部,指定理由2部,朱書及び丸付数字は引用者]

 まず「開臺興安宮全貌」図です。境内の隅に「清光緒興安宮街區古地圖」と題して写しが掲示してあります。案内によると清光緒十二(1886)年,元号だけを信じても1875〜1908年のものです。つまりべらぼうに古くはない,清初創建説を信じるなら創建二百年を経た段階ですけど,それでも現状と相当に異なる。
 敷地が広大なのです。

清光緒興安宮街區古地圖(写)を展示した案内板

<<清光緒興安宮街區古地圖>>
 興安宮内現有一幅珍奇的清光緒十二年(1886年)廟埕街區古地圖,古地圖顕示廟埕有頭埕,二埕,三埕,多量廣場意義,二埕前有一對旗行界定主廟埕範圍,三埕之外有一河溝聯廟産魚池。可見廟埕及巷路現況仍大致保持清末街區地景形貌,頗具古風。[同宮案内板]

清光緒興安宮街區古地圖(写)

<<清光緒と安宮通り区の古地図>>
 安宮内には貴重な清光緒十二年(1886)廟前の広場の通り区の古い地図がある。古地図は廟埕に頭埕,二埕,三埕と何種類かの広場の意義{池}があることを指し,二埕の前には一対の旗竿により主廟の範囲を定まり{定め},三埕以外には{の外側には}一つの河溝が廟産の魚池とつながる{に繋がっている}。これにより,廟埕及び巷路{路地}は現状,だいたい清末通り区の地形を維持していることが分かる。[同宮案内板,{}は引用者による和訳訂正]

 池の位置を地籍図で追うと,周囲とやや異なる大きな筆があることに気づきます。
 地籍図下部には不自然な斜線を成す筆もある。これを重視すると,このラインにかつての河岸があり,境内の池は鹿港渓のラグーンの名残りとも考えることができます。
 また,池群の東,おそらく湖沼地帯を過ぎた乾陸ラインに,南北それぞれに道の跡がある。両者は直線から互いに僅かにズレており,自然発生的な古道だったと想像されます。

前掲地籍図引用者書込
凡例
桃丸∶現・興安宮位置
青丸∶宮前広場の池比定地
黄線∶宮前広場からの脇道
茶線∶宮敷地隣接の道路比定線

 問題は,宮地南と東の(上図中の茶)ラインです。
 これに縁取られた区画を想像すると,方形に閉じられた居住区であった疑いが出てきます。
 つまりここは,圍(居住区兼城塞)だったのではないでしょうか。
 中央のパティオから十字に道が伸び,西は海に面している。興化府地名説を信じるなら,甫田の人が籠もり,北の泉州裔の居住区と戦闘を繰り返した場所。
 こうした方形ブロックが,かつての鹿港河岸に沿って幾つも分立していたのが,17〜18Cの鹿港の景色だったのではないでしょうか。
「奉憲勒碑」碑[後掲隨意窩2010.7/鹿港興安宮]

②「奉憲勒碑」碑に書かれていること

「奉憲勒碑」は前殿の壁にある碑文で,1887(光緒13)年のもの。即ち前掲械門から25年・一世代を経た頃造られたものです。
 原文そのものは入手できませんでした。

前殿的牆面有一塊清光緒13年(1887)「奉憲勒碑」碑,此碑文由當時賞戴花翎郎補清軍府代理中路撫民理番鹿港海防總捕分府龍景淳所設立,內文敘述興安宮的廟產,自同治年間戴潮春之亂後,有陸續被竊佔之虞,碑文告示租用興安宮祭祀公業之屋舍者,應依租納稅,廟方董事秉公處理,並辦理廟務暨春秋二祭。[後掲隨意窩/興安宮(天后宮)介紹]

 多くの記述には,興安宮の所有財産を記したものと書かれているけれど,なぜそれをわざわざ碑文にしたのでしょう?
──文面は興安宮の「廟產」(所有財産)について述べている。同治年間(1862-74年)の戴潮春の乱の後,次々と勝手に占拠する者があったので(「有陸續被竊佔之虞」),興安宮の祭祀・運営を外部業者(公業之屋舍者)に貸与して行うことを碑文により告示し,応分の納税をして,廟の管理者が宗務,廟務(施設管理?)から春秋二祭までの一切を所掌することになった。──
 まず,戴潮春の乱,おそらくはそれに引き続く泉州人の「独裁」への移行期に,宮は複数の占拠者に実効所有されていたということ。要は,無法者のねぐらになっていたのでしょう。
 その時に財物の多くは持ち去られたと考えられます。運営が正常復帰するにあたり,まず所有財産の公示をして権利を主張するとともに,公に課税客体として把握させることで財産を保全しようとしたのでしょう。この書き方だと,それ以前は納税していなかった,免除されていたか,財産を隠していたように読めます。
 また,「廟方董事」が宮運営の一切を取り仕切ったということは,専門の宮司のような人は任じられなかったことになります。
 それでも伝統ある媽祖宮なので,撤去されることはなく,現在まで続いている,ということのようです。
 つまり,19C後半にかなり酷い目に遭っています。北の天后宮に比べ,おそらく非泉州系ということで観光的にも浮かび上がることのないまま現在に至る,不思議な鹿港最古の媽祖宮なのです。
 鹿港興安宮は350年間の混沌に磨耗してなお,原型をかろうじて維持しています。
 

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m2鹿巷興安」への1件のフィードバック

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