m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m1鹿巷まで

本歌:虫籠にビー玉と宝石と脚〔星野〕

動きつつ調べる事が多過ぎる

嘉義→台中国鉄路線概要図

時47分発2154次基隆行は動き始めました。
 台中は,街中歩きより周辺の拠点として活用していきたい。即ち市内では南屯nan2tun2(異読音:zhun1)と豊原feng1yuan2,市外では彰化zhang1hua1(異読音:4)と鹿港(lu4gang3)。
 動きながら調べる事が多過ぎる。雑多な民俗・歴史情報が山ほど出る。──台湾の観光用WiFi・iTaiwanというのに登録しよう。手続きはどっちみち観光案内所で最終処理するらしい。早めにどこかで立ち寄ってみよう。
🚈🚈
819,斗六Douliu発。名前から察せられる通り(おそらく原住民の発音を漢訳してる)古い街らしい。宮(湖山寺?)に参拝客が一杯になってました。
 0833,二水。東から深い霧に包まれた山陵がえらく迫ってきてます。
 地図を見て納得。二水から北へ,中央山地から分岐した南北の峰が台中方向へ連なってます。
 0839,田中……といきなり日本的な漢字の地名。
 昨夜文化路夜市で買った台湾製のスマホ用バッテリー,えらく調子よく充電してくれてる。前回戯れに買ったUSBコードが強くて気に入ったので今回も手を出してみたんだけど,品質いいし屋台でもハズレがないです。今度から台湾で買おう。──同じ感覚で韓国で買った機器には,ハズレが時々ありました。

彰化に降りましょうか

🚈🚈
靖,0850。かなり東の山から離れた。なるほど,このまま彰化で海側と山側に二分岐して,それが台中辺りの平地になるのか。地理的な面白さから,思わず彰化のコインロッカーにリュックを入れる行程を一瞬考えたけど──台中からは15kmある。やはり荷を先に下ろそう。
 0853,員林。そう大きな町に見えないのにえらく乗車があった。一気に立客が出る。
 つまり,この辺りから台湾中部,広域の台中都市圏がのっぺりと広がってることになりそうです。
 0857,大村。彰化市の選挙人広告が現れる。
 石垣で出来た田の水路。古い時代に拓けた農地でしょう。筆の形も複雑なのが多い。
 0903,花壇。宮も多い。
 ひょっとしたら「彰」って伝わる謂れとは別に,偏と旁を逆にした「漳」を含意してないか?だとしたら「漳化」って漳泉械闘の中で凄い意味を持つぞ?

彰化市は昔、台湾原住民平埔族バブサ族の集落「ポアソア社」があったところで、台湾語音でそれを「半線(poaN3-soaN7,ポアソア)」と宛てた。諸羅県に帰属していた。後に清朝政府が「顕彰皇化」という意味を込めた「彰化」に改変した。
1684年、福建沿海居民がこの地に入植を開始し、1723年には諸羅県の中部百余里の地に県を設置する際に「彰化県」と命名され、これが彰化の地名の初見となる。彰化は大陸に近く、また鹿港が貿易の要衝であったことから、彰化は県の政治文化、商業中心地としての地位を占めた。[wiki/彰化]

🚈🚈
の彰化に着く。0917。立客がぎゅうぎゅうになる。
 ここから鉄道は分岐。次の成功が山線分岐して初めての駅になる。
 西に平べったい高地。この東西に町が分岐してるわけか。
 烏渓(河)。幅百mはある。
 0924,成功。おそらく鄭成功由来だけど山裾の小さな駅。
 この辺りの畑地にも石垣。
 ハイウェイくぐる。台中彰化高速と文字。
 0927,新烏日。高鉄駅を視認。ただこの周辺はまだ野原が多い。
 また河を渡る。東からの水流がこの辺りに集まるのだろうか。
 0930,烏日。完全に町に入った。でもやはり台北めいた密度はなく町並みはのっぺりしてる。
 並走している緑色のカバーに覆われた高架は何だろう?
 0933,大慶。
 0936,五權。
 0938,台中。所要110分,ほぼ2時間でした。

~~~~~(m–)m台中近郊編(鹿港・彰化・豊原)~~~~~(m–)m
凡例〔中〕台中

前回までと別の町に来た

▲新台中駅と旧駅舎(遠方)。何だか分からないような斬新さのオブジェが空にうねる。

これは!かなり再開発されてるぞ!前回訪問時との印象の差に驚きました。
 1004。iTaiwanのIDを取得して西側へ出る。これはもう……ほとんど韓国の町です,と言ってはナニですけど,台南・嘉義とギャップ有り過ぎ。

▲1023ビル間から新駅

の位置が動いてるから前回までと別の町に来た気分。
 1013,巧合大飯店に部屋があった。1300元。日本人も沢山いるみたい。荷物を置く。

6933を待ちながら

▲1039駅前を歩く。台湾名物萌萌キャラ。

んではおれない。1023,建国路を北へ。
 台中轉運站という箱形の建物。バスターミナルらしい。
 雙十路になった。片側四車線。
 今またいだこの水路沿いの道は見覚えがある。
 スタバはあるけど9018はない。
 バス溜まりの場所で訊くと,鹿港行きは6933番だという。1055発がある。
 思い出した!この場所は以前日月潭へ行く時に乗った場所です!周囲があまりに変わり過ぎてます。

▲バス停にて

ス時刻までさらに散策。
 公園路に阿水師猪脚大王というゴッツそうな店を見つける。11~20時営業。
 バス溜まり脇に祖傅肉園という店も。「赤肉羮飯」というのは,萬華以来追い続けてるあの赤い肉でしょうか?
🚌
鹿港行表示を確認後,6933路の大型バスに乗車。1047。
 2駅で鹿港站とGM.には出る。直線距離15km強,ホントならほぼ直行便です。ただ車内トイレはない。──昨日買って飲みたくってる高山烏龍が効いて,小便がえらく近いんですけど。
 発車──やっぱりバンバン止まるがな!
 車内アナウンスが「下一站──到了!」とえらく何度も繰り返してる。
 車内でiTaiwanの設定を済ませる。街中では行けそうです。ただ台中を離れて移動中はすぐ圏外に入る。
 1130,高鉄を出た。ここまでの街中部分が30分以上かかってる。これならTRA乗り換えの方が早いかも。
🚌

彰化県議会はどうしたいねん?

山路に入る。1135。
 もう完全に郊外型店舗ばかりの風景。台中そのものは老城域内が僅かに魅力だけど,それ以外はホントに……つまりのっぺりしてます。
 1139,鉄道で見た烏渓を越えた。ほぼ中間地点。彰化の町に入った。
 1147,左手山麓に巨大仏像認める。車站から500m地点のはずだけどごちゃごちゃの通りが続く。
県警察局の角丸建物。袋小路のような場所で多量下車。これは駅周辺を再開発中らしい。バス乗り場と道路向かいにある駅の前には岡本太郎チックな炎の彫刻。

▲彰化駅

の路線を帰路も使うことになる。時間を確認して鉄道への乗り換えを考え動こう。
 中正路を南下するらしい。いや違うのか?ロータリーを反転して和平路を南下。小さなロータリーを左折東行。どうしたいねん。あ,彰化県議会。県政府側の車線に出るの?
 そうだった。右折南下。ここの天后宮にはバス停・衛生局か南瑶寺から西に入るのがいいらしい。
 1209,いきなりスピードが上がる。中央陸橋で線路を越えて一路西へ。
🚌
ちゃんが前方座席の方々と御汁を飛ばしてけたたましくおしゃべり中。いいから事故らないでね。
 1221。彰鹿路という,そのものズバリの道を西へ走ってます。左右は結構明るい農村。
 やれやれ,この路線はGM.通りに時間かかったなあ。
 1234,火車站前?鉄道来てるの??いや動いてはいない,昔のという意味か?
 1238,市場前下車。100分かかった。
 でも……確かにこの騎楼は凄いぞ!

仙頭みたいなゴーストタウンなのに

▲1240鹿巷の騎楼

▲1245も一つ騎楼!

頭のゴーストタウンみたいなイメージの建物がちらほらとある。

 ただそれでいて人は存分に溢れてる。観光客的な振る舞いの一団も目立ちますけど……。

菜飯だよ……

▲市場周辺のそこここに干してあるカラスミ

▲鹿巷市場

場にトイレ借りに入ると,麺線糊の有名店が行列。でもって,その前側の
1308老全猪血麺線
猪血麺線+高麗菜飯300
 菜飯だよ……。素材は高麗菜(キャベツ∶巻末参照)なんだけど──普通に,いやでも,はっきりと福建風の炊き込みご飯。
 それにしても何だ?この猪血と腸の生々しい旨さは?

▲まずは麺線と菜飯のご飯

■小レポ:高麗菜の名称由来

 キャベツです。
 台湾の品種は雪翠高麗菜と呼ばれ,やや尖ってるけれど,日本のとそれほど異種ではない。明代の本草綱目(李時珍・著,1578年完成)に薬効が記されており、古くからの食材でもある。
 香港の旺角に西洋菜※街というのがあるから,野菜は大航海時代の早いうちから中国南部には入ってきています。
※オランダガラシ,クレソン
 さて,ここで注目したいのは名称の音です。
※参考∶台湾キッチン/台湾高麗菜(キャベツ)の紹介
URL:https://x.gd/fU2Rd(短縮)
※そこはかノート ー台湾つれづれー/台湾の野菜「雪翠高麗菜」と「大頭菜」
URL:https://sokonote.exblog.jp/28882491/

キャベツの各国語発音

 高麗菜をそのまま北京語で読むと,Gao1lii4cai4 カオリーツァイ。
 捲心(ジュエンシン)菜とか洋白(ヤンバイ)菜ともいう。広東の呼称には椰(イェー)菜というのもある。これらはいずれも意訳です。
 これらに対し,高麗菜 Gao1lii4cai4 は音訳と考えられています。朝鮮半島由来であるというような伝承がないからです※。
 時系列を推定して列挙すると──

ラテン語 colis
スペイン語 col
オランダ語 kool
英語 coleslaw(cole)
※フランス(ピカール地方)方言 caboche∶頭でっかち と類語か?
※ドイツ語 Kohl

閩南語(≒台湾語) ko le (tshai)
北京語 Gao1lii4(cai4)

 原語は「ko」音で,母音「a」類似音を含まない。北京語は母音「o」類似音がないとは言え,閩南語系の方が先行して形成されたと考えるのが自然──ということは,閩南で「外国の」というニュアンスで「高麗」の字が当てられたと考えられます。台湾史上の影響を重視するなら,スペイン語かオランダ語の発音を取り入れた可能性が高い。
 こうした,閩南語にまず容れられた外来語というのは,状況的に考えて,もっとたくさんあるのかもしれません。

※異説メモ∶日本人のお好きな高麗人参由来?

 高麗の意訳的な説として,次のようなものも一つ見つけました。

高麗菜俗稱的由來,據說是日本人為廣為宣傳,鼓勵民眾食用,將其營養價值比喻為菜中的高麗參,久而久之即稱為高麗菜。
※ 聯合新聞網 元氣周報/【元氣周報/記者陳惠惠、羅建怡/報導】高麗菜》高麗菜防骨鬆 改善胃潰瘍
URL:https://health.udn.com/health/amp/story/5967/340142

──高麗菜の由来は,俗に伝わるところでは,日本人によるものと広く喧伝されている。民衆の食用として奨励され,その栄養価は野菜の中でも随一,高麗人参にも匹敵する。そこで時間とともに「高麗菜」と呼ばれるようになったのだ。──
 日本人が珍重する高麗菜,それに比肩する高栄養のキャベツ,という意味でしょうか?
……やや無理を感じなくもないけれど,江戸期の日本が国内での高麗人参生産に躍起になるほど珍重したことが,海域アジアで広く知られていた,ということはありうる訳で──納得できるような出来ないような,微妙な珍説です。

■レポ:鹿港史の表は短く裏は永い

 鹿港は古名「鹿仔港」。清初より前は「馬芝遴社」という名があり,これは(音が全然違うけれど)原住民集落名と思われます。平埔族パゼッヘ族の居住地名の音としては「Rokau-an」があり,この音を漢字にしたものとする原住民呼称からの連続説が有力ですけど,他にも漢族が新たに名付けたとの説として──

1 台湾の中部に鹿が多く生息しており、その鹿が海辺に集まっていたことから鹿仔港、後に鹿港と簡称された。
2 地形{町域の形状?}が鹿の形に似ていたことから鹿仔港と称されるようになった
3 昔は米穀の集散地として栄えており、米穀を保存しておく倉庫を鹿と呼んだことから鹿仔港となった。これは現在の美市街をかつて米市街と称していたことも傍証と言える。[後掲wiki/鹿港鎮,{}内は引用者]

の三説があり,謎です。
 次の史料から漢族の本格的集落が出来たのは17C後半の清代からと考えるなら,何れにせよこの辺りの経緯から清の拠点として新設された町です。

台灣水師左營の駐屯地

「鹿港」の古名「鹿仔港」の一次史料初出は高拱乾が17C後半から18Cに著した「台灣府志」です。

11 水陸營制
46 台灣水師左營經制額設
47 一、駐札台灣紅毛城地方系報部永鎮:游擊一員、中軍守備一員、千總二員內撥歸鎮閩將軍標一員、把總四員、步戰守兵一千名內撥歸鎮閩將軍標兵一百名,官自備騎坐馬二十匹、鳥船二隻、趕繒船八隻、雙篷艍船八隻。
48 一、分防猴樹港、笨港二汛系報部本營官兵輪防:千把一員、步戰守兵五十五名,戰船一只。
49 一、分防鹿仔港汛系報部本營官兵輪防:千把一員、步戰守兵五十五名,戰船一只。
50 實在官六員,步戰守兵九百名,馬二十匹,戰船一十八隻。
[後掲 高拱乾「台灣府志」巻四武備志,番号は中國哲學書電子化計劃付番,下線は引用者]

 清の台湾兵制についての無味乾燥な記述として出てきます。
 49・50部分だけをみると,台灣水師左營(≒水軍左翼)の拠点となった紅毛城※の分隊が,猴樹港※※と並ぶ形で置かれてます。
※通常は新北市∶現・台北市西のそれを指す。台南府(現・台南)には別途に台灣鎮標中營(≒水軍中軍)が置かれているので,ここでの「紅毛城」は赤崁(紅毛楼)ではない。
※※現・朴子市。嘉義から25km西,北港から20km南南西。

──分隊を鹿仔港に置きこれを防備する。千把(新北市の「遊撃」の下位者。ともに軍官名)一名をトップに,歩兵55人,戦船1艘。
 実際には,在官6名。歩兵900人,馬20頭,戦船18隻。──
 新北市の本部の兵員規模が,兵1000人,戦船計18隻ですから,当初配置から大幅に増員され,後には本部に比肩する規模になったわけです。

移民時代のニューヨーク

 鹿港の民間に「頂到通霄,南到瑯嶠」という難しい成語があるという。「通霄」は苗栗市[後掲兩岸犇報,古称か。台中から北へ60km],「瑯嶠」は台湾南端の恒春半島。頂は雲まで,南は瑯嶠まで,福建からワラワラと移民が押し寄せ住み着いた情景を表すのでしょうか。

鹿港俗諺云:「頂到通霄,南到瑯嶠。」鹿港作為最接近大陸的台灣港口,清代官府指定為台灣對渡內地泉州府的正港(官方口岸),由於鹿港對渡泉州府晉江縣蚶江港,吸引大量泉州三邑仕紳家族於此通商和定居,漢學文風鼎盛冠於全台。鹿港在清治時期是臺灣對唐山經商最大港口[維基/鹿港鎮]

──鹿港は大陸に最も接近した台湾の港であり,清政府の指定する泉州→台湾ルートの正規港(官方口岸)だった。鹿港への渡台の発進地は泉州府晋江県蚶江港。大人数の泉州三邑の仕紳(名士),家族が台湾の商売と住居を求め吸引された。漢学文風の鼎は全台湾に及んだ。鹿港は清統治下における台湾-中国間の商業の最大の港口だった。──
 福建からの移民の奔流は,まず鹿港に入り,ここから台湾全土に溢れていった,というイメージです。19Cのアメリカ移民にとってのニューヨークのようなものでしょうか。

古写真「日據初期的鹿港大街」──日帝統治初期の鹿港大街

 時系列的にもう少し厳密に言えば──

西元1784年(清乾隆49年),鹿港與福建泉州蚶江正式設口開渡,從此開始鹿港的黃金時代。1785年(乾隆50年)至1845年(清道光25年)之間是鹿港的全盛時期。後因港口的泥沙淤積、縱貫線鐵路未經過,此後鹿港迅速沒落,區域重心逐漸轉移至臺中市。[維基/鹿港鎮]

──1784(乾隆50)年に鹿港-福建泉州蚶江港間が正式な航路になってから,鹿港の黃金時代が始まった。1785(乾隆50)年〜1845(道光25)年の間が鹿港の全盛時期だった。以後は港口に泥や砂が溜まり,縱貫線の線路が通らなかったために,鹿港は急激に沒落し,地域の重心は次第に台中市に移っていった──。
 鹿港が栄えたのは二百年足らず前,60年ほどの間,とするこの記述がほとんどの場合に用いられます。笨港の(旧)南港や漳州の月港と同様,歴史に徒花を咲かせた──ようにもこれだけだと思えるのですけど,南港や月港と違い,鹿港の町はドス黒く黄昏れながらもそれなりに元気です。

 また,鹿港の指揮系統上の位置と兵員は笨港のそれと同じです。わざわざここに大増員してまで兵を置いたのは,当時の東アジアで最も通過人数が多かったであろう港町・鹿港の治安維持を目的としたように思えます。

 そうすると,鹿港が繁栄したとされる19C初を挟む60年に限定されない経済が,この場所には長く存続したことが推定されてきます。

18C前後の大陸-台湾正規航路

鹿港八郊=泉2∶漳1∶広1

 一部の記事では,この港が特に泉州裔の故郷だと強調するけれど,そうとばかりも言えないようです。

鹿港八郊的公會組織名稱,
①泉郊稱「金長順」,主要與泉州地區貿易,輸出米、糖、油、雜子;輸入木材、石材、絲布、日布、藥材,商號有二百餘家。
②廈郊稱「金振順」,主要和廈門、漳州及金門一帶貿易,商號有一百餘家。
③南郊稱「金進益」,與廣東、台灣南部、澎湖、香港及南洋地區貿易,輸入鹹魚等,商號約七、八十家。
④糖郊稱「金永興」,輸出糖(土製烏糖、冰糖),商號有十八家。
⑤油郊稱「金洪福」,輸出花生油、麻油等,商號約四、五十家。
⑥染郊稱「金和順」,作染布、染織品生意,商號約三、四十家。
⑦簳郊稱「金長興」,作日用雜貨、海產、簳仔貨(南北貨)之貿易,商號約一百家。[後掲兩岸犇報,丸付き番号及びこれによる改行は引用者]

 中国語だけど意味は読めると思います。ただ……一つ足りない。⑧布郊「金振万」というのが漏れてるらしい。[後掲wikiland/鹿港八郊]
 兩岸犇報は「在鼎盛時期,鹿港八郊所屬的商號多達六、七百家」──最盛期の鹿港八郊に属する商家は6〜7百と書く。八郊のうち①〜③,泉・厦・南(広東)が出身地域別の郊(同郷組織),残り五者が販売種別(砂糖・油・染物・雑貨・布(衣料?))に分かれますけど,前者①〜③で2/3と過半を占めます。後者五者はニッチな専門業種と捉えてよい。
 泉州人の経済組織・泉郊は二百余,全体の約1/3。確かに最メジャーだけれど,これはその後現在までの平均的な泉州人/台湾総人口比に近く,鹿港が泉州人の都だったと言える数字ではありません。
※1926年の台湾人口 416.8万人中,泉州人168.14人,漳州人131.95人[後掲維基/臺灣漢人。
原典∶Taiwan Sotoku Kanbo Chosaka. 台灣在籍民族鄉貫別調查 [Investigation of the regions of origin of Han people in Taiwan]. Taihoku-shi (Taipei): Taiwan Sotoku Kanbo Chosaka. 1928.
 さて,もう少し地に足のついた議論として,漢族系の交易業者がよく形成する調整会議場が,この鹿港八郊の場合どこにあったのかに注目してみます。

鹿港藝文館の「王宮」

 それは現・南靖宮(勅建天后宮南東→GM.)近くにあった「鹿港藝文館」という場所だったという。何と漳州裔が建築したと伝わります。

像是緊鄰南靖宮(福建漳州人所建)的鹿港藝文館,最早為鹿港八郊之一的廈郊會館。最盛時擁有一百多家商號,主導鹿港和對岸的貿易。「郊」,即是商行所組織的同業商會。會館裡面奉祀泉州人的守護神—蘇府王爺,故有「王宮」的雅稱。鹿港有句諺語「海水劃宮前」,指的就是這裡。[後掲兩岸犇報]

──最初期の鹿港八郊のうち「廈郊」の会館である。最盛期には百以上の商号を擁し(≒商店が所属していた),鹿港と対岸(福建)との貿易を主導していた。「郊」は商工会組織の同業商会である。会館の内側には泉州人の守護神である蘇府王爺を祀っていたので,「王宮」という雅びな名称が残る。鹿港のことわざに「海水劃宮前」とあるのはこの場所のことを指す。──
 不思議な伝承です。
「廈郊」(おそらく漳州人同郷組織系の商工会)がなぜ,泉州系の蘇府王爺を祀っていたのでしょう?──考えられるのは,郊が形成され出身地別の対立が始まる以前,漢族が少数派で内部抗争していられなかった最初期に形成された可能性です。
 また,王爺の宮を「王宮」と短縮することがありうるだろうか,という疑念です。漳州人が建築した拠点が最初期の姿だったとすれば,純粋に,そこにしか漢族の住まない場所で「王」を名乗った者がいたのではないでしょうか。

台湾等がオランダとスペインによって統治されていた時代の台湾島の略地図
English: Dutch Formosa and Spanish Formosa – colonial era Taiwan 1624-1662 Japanese-version

Tackamaha二百年王国

「大肚王国」という台湾原住民の部族連合王国が存在したとする見方があります。
 16C半ば〜18C初頭の2百年足らず,台湾原住民パポラ族・バブザ族・パゼッヘ族・ホアンヤ族・タオカス族・カハブ族が構成した部族国家。領域は現・台中市,彰化県,南投県の一帯とされます。[wiki/大肚王国]
 史料的には,始期についてはオランダ側のゼーランディア城日記などに記され,滅亡期について大甲西社抗清事件として記録される[wikiland/大甲西社抗清事件,原典∶福建分巡臺灣道・劉良璧の著作「沙轆行」など]。「王国」の像は両者を接続して得られているけれど,どちらにも大肚王国の名は明記され別の主体とは考えにくい。ただ,スペイン・オランダ・中国(鄭氏・清)と並置すべき統治機構体を想定していいかどうか、確証が持てる材料はありません。状況的に最もあり得るのは,王国など造る必要のなかった部族散在の中に,外部からの軍事・経済侵略勢力が食い込んできたから,これへ連合して対抗するための安全保障的連携でしょう。別に領域を争いたいわけではない。
 でもとにかく,台湾西海岸北部に「王」がいたことはいたようなのです。

《巴逹維亞城日記》中記載, 1644年4月荷蘭人擒獲中國海盗時,従海盗口中聴間馬芝遡(Betgirem,今鹿港一帯)與淡水之間,存在著22個村落,其中18個被稲為Quataong的領袖所統治。據學者考證,Quataong其人,「Quata」可能是閩音「Hoan-a」(番仔)的轉訛,而「ong」則是閩音的「王」,也就是説Quataong即「番仔王」之意。另外,Quataong尚有ー別稱為Tackamaha,在閩音中,水裡社土目名「甘仔轄」,讀作「Kammahat」,由臺灣原住民平浦族的名制習慣来看,甘仔轄是臺灣中部拍瀑拉族(Papora)常見的姓。[陳世芳「台湾歴史事件4 大肚王国」政大台湾史研究所]

──ゼーランディア城日記(巴逹維亞城日記)の中の記載に,,1644年4月にオランダ人が中国に海賊を働こうとした(擒獲中國海盗)時に,海賊たちの間で言いならされたこんな話がある。馬芝遡(Betgirem,現・鹿港一帯)から淡水の間には,22個の村落が存在するが,そのうち18個はQuataongという領袖の統治に服している。──
 この「Quataong」が漢字では「大肚王」又は「」大肚番王」と訳され,これが「大肚王国」呼称になってるらしい。つまり自称はもちろん他称の国名すら不確かな「王国」なのですけど……ともかくQuataongの解釈としては
──学者の考察によると人名「Quataong」のうち「Quata」は閩音(南福建の発音)で「Hoan-a」(番仔)のなまり,「ong」は閩音の「王」,つまりQuataongは即ち「番仔王」の意味。──
「番仔」は原住民の意味ですけど,蔑視混じりの表現です。「王」も中国的概念ですから,これは自称とは思えない。

中国語 (繁体字、台湾) に関する質問
Q「番仔」 とはどういう意味ですか?
A1 台語中,對原住民的蔑稱,現在基本上只能在歷史文獻看到,因為這是一種歧視用語,而不宜使用。
A2 清朝時佔領台灣稱台灣原住民部族為”番”。
after Chin dynasty occupied Taiwan, the government defined/called Taiwan aboriginal thrib “番”. and the following government KMT defined it discrimination to incurring ethnic conflict. something like “支那”.
A3 Barbarian, uncivilized people[Himativeアプリ]

──その他,Quataongはまた別称としてTackamahaと呼ばれた。閩音に「水裡社」の頭目の人名に「甘仔轄」とあり,これを「Kammahat」と読むことから,台湾原住民の平浦族の名前の慣習と思われる。また,「甘仔轄」は台湾中部の拍瀑拉(Papora)族に散見される姓名である。──
 おそらく「Tackamaha」の方が自称でしょう。それにしても「Kammahat」が普通名詞の可能性があるのなら,固有部は最初の「Tac」程度なので,いずれも「ボス」とか「オヤジ」という程度の「王」の語彙でしょう。
 そらならば,自称ならぬ「Quataong」は誰目線の呼称でしょうか?
 当時はもちろん現在の中国人も書きたがらないだろうから,自然に出てくる想像を書くと──大肚王の勢力圏にも中国人系交易者や移住者が,コミュニティを形成する程度には含まれていたのではないでしょうか。
 追い詰められた鄭氏政権は島内で抗争する余裕はなかったし,顏思齋や鄭芝龍の上陸地(笨港)から考えてもそもそも海商と原住民部族間には「連合」ではなくても緩い連携があったと想像されます。原住民が支配層を占めるけれど漢族も相当数含んだハイブリッド社会が「大肚王国」だったのではないでしょうか。
 こう考えると,前掲で勢力圏最南端にある鹿港に,例えば「冬の宮殿」とか「最前線砦」のようなものがあって,漳州人を含む「大肚王国の民」がこれを「王宮」と呼んだことには不思議がないと思うのです。

台湾史9区分説と「鹿港期」160年

 張其昀(1901-1985年)という歴史学者は台湾史学の重鎮の一人ですけど,この人の唱えた台湾史の九区分説があります。

史學家張其昀將台灣史蹟分為九個時期,分別是澎湖期、安平期、台南期、鹿港期、淡水期、台北期、台中期、基隆期和高雄期。其中第四期為「鹿港期」,「鹿港期」是從清康熙二十二年(1683)台灣設府至道光二十二年(1842)南京條約五口通商為止,歷時一百五十九年,在這段期間鹿港的港口帆檣林立,市街繁榮。[後掲兩岸犇報]

 あまり定説化されてはいない区分とは考慮すべきとしても──元朝が澎湖諸島を領有した1281年を仮に台湾史の嚆矢とするならば,現代までの750年足らずがその総延長です。だからうち2割強を占める約160年「鹿港の時代」があったとすれば,かなりのボリュームになる。
 この年代の始期を,張は1683(康熙22)年,清統治開始当初からと設定します。正式航路就航の1784(乾隆49)年より一世紀早い。換言すれば,張の「鹿港期」と通説の違いは,正式航路就航以前の概ね18Cの一世紀にも鹿港は繁栄していたか否か,という点です。

史料∶福建蚶江口-台湾鹿港航路

 厳密に言えば,1784(乾隆49)年の正式航路就航という事実について,裏付け史料は見つかりませんでした。
 前年,1783(乾隆48)年に「福建将軍永德」という人が,閩南での米の不作時,台湾米を売って暴利を貪ろうとする商人を規制するために──

至北路諸羅、彰化等屬,則由鹿港出洋,從蚶江一帶進口,較為便益。[奏疏※,後掲兩岸犇報]
※臣下が君主に意見などを申し述べる文書(またはその文体)

──北路をとり諸羅や彰化などに入る時,即ち鹿港から出港させ,蚶江の一帯まで行かせるのが,最も便益がある。──
と上奏しており,これを中央政府が認めて「福建泉州府晉江縣屬之蚶江口」と「台灣府彰化縣之鹿港」間に「正式設口對渡」が就航した,とされます。
 ついでに,中國哲學書電子化計劃にない鹿港舊志という史料には次の記述があります。

港口帆檣林立,白帆輕驅海風,人皆輕衣馬肥。豪商林日茂為首,資產算十萬者達百家,商賈櫛比,公共事業皆由八郊處理,文化實冠於全台。[鹿港舊志,後掲兩岸犇報]

「公共事業皆由八郊處理」というのは,鹿港の少なくともハード行政は,八郊が実施していた,ということを言っています。財団あるいはJVのような機能まで持っていたことになります。

16C末に天妃宮が建設されていた?

 北港や新港のような無理な由緒合戦は,鹿港には見られない。先回りして天后宮について触れると,16C末にはその原型があったことになっています。
 ただこの時代考証は,何か石碑や文書や考古学的知見によるものと書かれないので,おそらく伝承と思われます。

1591年(明萬曆19年),鹿港與中國大陸沿海城鎮之間的貿易往來已經相當的頻繁,當地民眾為求商船往返海上平安,故集資建造了鹿港天妃廟(亦稱「北頭聖母廟」)供奉天上聖母,其遺址在現址北側三條巷※(古地名「船仔頭」)。[後掲維基/鹿港天后宮]

※位置→GM.∶地点。勅建天后宮から北西400m,鹿港天后宮から北西300m。
 最初の天妃廟が建ったのは1591(萬曆19)年。
 実証は諦めましょう。でも,なぜそんな大陸勢力はおろかオランダさえ進出していない時期に,媽祖が祀られた,つまり漁民か交易者かの海人が鹿港にいた可能性がありうるのでしょうか?
 以下は後掲兩岸犇報のシメの一文です。
▲(再掲)鹿港市場周辺に干してあるカラスミ

除了上述相關歷史,也建議當局不要忘了鹿港曾經發達的漁業。因在「海水劃宮前」的對岸,有一名叫「烏魚寮」的古地名。每年冬至前後有從中國大陸內地沿海南下的烏魚,於大潮時刻,隨著海水由鹿港溪到烏魚寮。所以在很久以前,廈門、澎湖等地的漁民會到此搭寮、捕撈烏魚。[後掲兩岸犇報]

──上述の関係史(鹿港の正史)以外に,当局(中台両政府関係者?)が忘れてはならないと建議したいのは,(当時の)鹿港は既に漁業の発達を経ていたことである。だから「海水劃宮前」(→前掲)のある場所の対岸には,「烏魚寮」と呼ばれる古地名がある。──
「烏魚寮」の「烏魚」はカラスミです。この場合は「カラスミ村」というニュアンスでしょうか。
──每年,冬至前後に中国大陸の内地沿海からカラスミが南下してきて,大潮の時刻に海水が鹿港溪の烏魚寮に寄せる。だからはるか以前から,廈門や澎湖などの漁民がこの(カラスミ)村にやってきて,カラスミを漁獲していたのだ。──
 これも史料的根拠はない。「烏魚」の地名から,それを目当てに大陸から来ていた漁民を想定したに過ぎないでしょう※。
 ただ,清代以前の往来を否定すると,初の大陸航路としてなぜ鹿港が選ばれたのか,説明が付かなくなります。よく言われる「大陸に最も近い」という説明は,地図を見るとそれほど決定的ではない。清当局は既に最も往来の激しかった地点を,公式旅客港として追認した,と考えるのが最も自然だからです。

令和2年度密漁防止絵画コンクール入賞作品

※烏魚子(カラスミ) まず海人の往来あり

 ただし,食文化面ではカラスミが17C頃,既に交易に用いられた形跡はあります。
 長崎の名物になって久しいカラスミは,4〜5百年前に台湾から伝わったものという。

至於台灣烏魚子的製作及食用方法,可能源自四至五百年前的日本長崎。由於烏魚子成品的形狀與中國唐的墨條相似,故日本人將烏魚子取名為「からすみ」,意即「唐墨」之意。(略)
台湾のカラスミの作り方や食べ方は、四百年以上前の安土桃山時代に明(みん)から長崎に伝来したもの。(略)形が唐の「唐墨」と似ているので「カラスミ」と呼ばれている。[後掲台北市櫻花日台文化交流會]

 九州一円でも特に長崎で高値で取引される伝統は,漁場としての優位性からだけとは思えません。そしてカラスミの伝来は,江戸期より早いのです。
 また,次のオランダの課税行動からは,カラスミの商取引のマーケットが17C前半には形成されたことが推測できます。

オランダ統治時代(1624~1662)の基本史料《ゼ―ランディア城日誌(熱蘭遮城日誌)》に、課税対象として、初めてボラの旬の時期の漁獲量が記録されている。
 楊鴻嘉さんの研究報告によると1673年に、既に中国から、ボラを狙った漁師たちが移民として高雄市旗津区に居留したとされており、台湾のボラ漁は明帝国の時代から始まったことがわかる。[後掲台北市櫻花日台文化交流會]

 民俗面では,カラスミの卵巣を産するボラを,「神魚」あるいは「天公魚」として尊んできたと記録されます。

台灣民間雖享用著烏魚,卻在祭祀時,不用此魚祭神,王豐(一九八〇)指出這是因為台灣人將牠尊稱為「神魚」,也有「天公魚」的雅號。此種風俗是否與台灣漁村所流傳的一個神話有關,耐人尋味。故事是這樣的,有一位掌管所有魚種而受漁民尊為「水仙王」的神明,為了感謝漁村的平民百姓以三牲祭祀,並頂禮膜拜祂自己,乃於每一年同一時期,把大批烏魚趕來台灣,供漁民捕撈。
(略)
台湾の人たちはボラを「神魚」、「天公魚(天神魚)」などの呼称で称えている。これらはひとつの意味深な神話が由来なのかもしれない。
その神話とは・・・
「水仙王」と言われる、あらゆる魚類を支配する神様がいた。その神様がいつも漁民たちからもらっている供養に感謝の気持ちとして、年に一度、同じ時期にボラの群れを台湾に率い、漁師たちに与えたという。[後掲台北市櫻花日台文化交流會]

 この,鹿港の人がカラスミを見る視線を,詩人・林宗源(1935~)が1964年の詩でこう書いています。

安平港口衝出掠夢的船,駛出暗紅色的海面,彼塔有烏柱,烏柱是阮的銀行
(安平港から飛び出した夢の船、黒紅色の海面を走り出す。彼塔(あそこ)には
烏魚(ボラ)柱があり、烏柱は我等の銀行なのだ…)。
 この詩が伝える意味は「漁師たちが酷寒に耐えて海に出で、海底から突き上がるボラの群れの柱の如き大群を追いかける。一網打尽にすれば、あっという間に大金持ちになれる。」
[後掲台北市櫻花日台文化交流會,原典∶林宗源]

「烏柱是阮的銀行」──カラスミはワシら(阮∶台湾方言の「我」)の銀行,という表現は,まさに日本での「俵物」への視線に底通するものがあります。

雲林県でのカラスミ作りを通じた貧困救済プロジェクト→HP

 これらの事象がどういう歴史の痕跡なのかと考えていくと──

①カラスミに代表される台湾海峡の漁獲を目的とした海人が(16C以前から)いた。
②海人は,福建と鹿港間の航路を標準とした。
③台湾多量移民期,(おそらく鄭氏に続き)清朝がこれを正式航路と追認した。

という展開が最も整合性があるものとして考えられます。
 その場合,鹿港はオランダよりも鄭氏よりも先に営みを続けてきた海人が基を築いたものだと言えるわけです。
 まあ現実には,笨港や麻豆など複数の港口がもっとネットワーク的に連なったでしょうけれど,そこまではとても読み切れません。

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m1鹿巷まで」への3件のフィードバック

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