m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m3鹿巷勅建及彰化南瑶

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.∶鹿港
GM.∶彰化
 (ともに経路)

飽くまで喰らう鬼の庭

だらけになってきた。1351。
『地霊公』
『飫鬼埕』
『城隍廟』」
──当時のメモです。通行人,というか観光客が俄に増した雑踏の中で,ようやっと連続する見どころ名だけを咀嚼できないまま綴っています。
▲街頭「飫鬼埕」説明書き
の案内板も当時,何のことか分からず撮したものです。
──【飫鬼埕】城隍廟前の広場一帯は,当時の船大工や漁民が港に帰ってきて,しこたま腹を空かせて(飢腸轆轆)必ずやって来る市場でした。物凄く飢えているので,外聞もなく喰らう(不顧吃相)姿から,この名前がつきました。(注∶「飫鬼」は台湾方言で「貪り喰う」(貪吃)の意)──

客邦の記述で補足してみます。

 在過去,①船頭行的苦力,輿一般労工在下工之後,②找處小吃攤,花點小零錢,暫且填一日辛苦後的小飢腸,是ー天間的小卻幸。當時,③除了第一市場内的飲食攤外,便是城隍廟前小廣場内各類小吃攤集中處。輿城隍廟呼應,一群急於填飽肚子的悪鬼衝至此處覚食,因此稱之為「飫鬼埕」,名稱極為貼切。[後掲痞客邦,下線・丸付数字は引用者]

①船頭行的苦力∶港湾労働者が筆頭
②找處小吃攤∶小吃(≒ファーストフード)の屋台に集まっていた。
③……城隍廟前小廣場内各類小吃攤集中處∶当時,第一市場の飲食屋台と並び,城隍廟前の広場は各種ファーストフード屋台の集中するエリアだった。
 一群急於填飽肚子的悪鬼衝至此處覚食──腹を空かせた悪鬼の一群がドドドッと押し寄せ食い散らすような──というのは失礼を通り越してリアル過ぎますけど,総合すると,公設の第一市場に比べ客層が明らかにブルーワーカー専用の,美食の「飲食」ではなく安いが取り柄の「小吃」屋台群が,城隍廟前庭を埋める,という風景が17〜18C頃のこの場所にあったのです。

▲決めポーズの媽祖従神・順風耳

357。新祖宮の門をくぐる。
篇額「清乾隆帝勅建天后宮」
 対聯は石に刻みこんであります。
右「聖徳配天敷海[竹/]诬」
左「母儀稱后溯湄洲」
 こりゃまた人一倍ファッションモードな千里眼ですな。

▲1406御本尊媽祖

祖がここでは肌剥き出し」とメモってるけど,衣服が朽ちて同化してたんでしょうか?
 右手廟には「三官大帝」。

▲祭壇雛壇

手の別棟には,媽祖像だらけの棚と「大歳星君」の銘。
 左手廟は「龍王尊神」。
 左手別棟には「文昌帝君」と「話生娘娘」。
 左右に従神の被り物が額に入ってます。やはり練り歩くらしい。

飛び乗りバスから正直な感想

▲1413古い騎楼が今も現役です。

へ折返して中山路を歩く。ここにも所々に好い騎楼が残ってて満喫してると──ああっ,もう次のバスは無理かなあ。
 ……と?諦めてた6934路が遅れてたらしい。走っていくと飛び乗れました。大陸だと絶対に置き去りパターンです。台湾の温かみに感謝。1431。

▲飛び乗りバスの窓から鹿港最後の一枚

鹿路八段。1433。何を基準に段を切ってるんだろう?
 しかし鹿港の見栄えは──名前のブランドだけで,実質は騎楼が長くて宮が多い,という位です。どういう基準の観光地なんでしょう。──というのが,あまりに未消化のままだった当時の正直な印象でした。
🚌──と思いながら去った元旦の鹿港でしたけど──やはり今から考えると消化不足でして,次章に別頁を設けてまとめていきます。
 ところで……?帰りのこのバスはえらく速いぞ?往路のバスは運ちゃんがおしゃべりしてたから,じゃなくて客が多かったんでしょうか?

瑤珞の宮 独り立つ初鴉

▲1501バス停から南瑶宮へ

化の中心部からはかなり離れてるんで,GM.の位置情報を睨みつけながら降りた記憶があります。
 1459,バス停・南瑶宮にて無事に下車。
※創建氏族が瓦「磘」莊という村の陳氏で,城市の「南」にあったから,「磘」の雅字である「瑤」を使って「南瑤宮」。よって「瑤」字が正式だけれど……便宜上,本稿では当用漢字の「瑶」を使います。[維基百科/彰化南瑤宮]

▲金爐前。何とゴミの分別が厳重になされてました。

は東面。
 入口左手に三段の大がかりな金爐が聳えてます。
 えらく厳格なゴミ分別係の,見るからに怖そうなオバハンがいる。燃やす気はないし足早に通り過ぎまして──

▲1504金爐前には専属の管理人がわざわざ付いている。

霊鐘海國 海宇澄清 福隠海山

門対聯は右から10本ある。正門左右だけ転記すると──
右聯「神六費婆心寰海羣生蒙厚徳」
左聯「我曾抱佛脚瓣香叫口[<正]答洪恩」
 仏教系の色が強いのでしょうか?

▲南瑶宮配置図

廊の
右側篇額「聲名垂後範」
同左  「香火報前功」
 正殿額は「霊鐘海國」。奥へ順に「海宇澄清」「福隠海山」「興天同功」──どうも見慣れない成語が多い。他で見る対聯より,具体物を示す漢字が多くて写実的な印象です。

君は中華する気がゼロ

▲1525御本尊の棚

右に別の棟があります。
 右別棟には「五穀先帝」。
 そして左別棟には「福徳正神」なんてすけど,このひとが──

▲1527君は中華する気がないだろう?

激レア媽祖Tシャツ

っちゃあ悪いけど(いや悪くはないけど)……サンタクロースめいとる。
 構造が他で見ない形です。奥に二段,計三段あるけれど……これがほとんど切り離されてる。
 二段目は観音佛祖。右隣「註生娘娘」左隣やはり「福徳正神」──これは他でもよく見る神です。

▲1528切り離し部の水場

ティオ,というかほとんど道のような空間を隔て,三段目「保安廣澤尊王」……と読むのだろう。右は額のみで「大歳真君」。左は「文昌帝君」。
 なぜ最奥が媽祖と切り離されるかと考えるならば……やはり本来はこの「廣澤尊王」の宮だったんだろう。
 これらの神様の偏りは何だろう?
 と戸惑いつつも,売り場に並ぶ「彰化媽」Tシャツに目を囚われていたのでした。

▲グッズ類。媽祖Tシャツ,これは激レアだったかも……。

■レポ:大日本帝国と彰化南瑶宫

 1895年4月17日の下関条約締結後,同年5月29日から10月21日までの5か月,台湾に進駐した日本軍と台湾の兵が戦闘しました。同5月25日,日清戦争時に台湾巡撫職にあった唐景崧を総統とする台湾民主国※が建国されており,少なくとも当初はこの「アジア最初の民主主義国」が台湾側を率いていました。〔後掲wiki/乙未戦争〕
※建国12日後の6月6日に唐景崧は廈門に脱出している。また台湾民主国を国際的に認知した国はない。
 事実としてこれは動かし難い。
 終戦の時期を満州事変の後,1933年4月に「最後の未帰順蕃」高雄州旗山郡のブヌン旗タマホ社の200名余の帰順式,とする言説もあるけれど,他所の安定度からしてそれは流石に極論です。ただ,日清戦争→台湾割譲とすんなり事が進んだ訳ではない※,という事実は忘れがちなのでここで押えておくとともに,何と南瑶宫との関わりの節もあるので書いてみます。
※この点は,山川の世界史では「1894年の日清戦争の結果として下関条約で日本に割譲され、1895年から日本軍が台湾に侵攻して武力によって平定し」といった表現が用いられるようになっている。〔後掲山川/台湾〕

「青少年台灣史讀本」『日軍分三路占領台灣及各地淪陥圖』〔後掲BTG/彰化市〕

そして近衛軍は八卦山へ

「台湾軍」は組織力を発揮できてない。主体になったのは民兵との見方もある。
 よってほぼ日本軍の独り勝ち……と語られることが多いけれど,詳細を見るとそうでもない。
 多くの記録が,乙未戦争の天王山として「八卦山※の戦い」を記します。(→GM.∶エリア)

同図彰化〜嘉義付近拡大
 確かに,行程を見ると彰化からすんなり南進出来ずに,1か月半ほどを経て澎湖島からの別の軍がやっと台南地域に入ったように見えます。
 台湾中部までの進軍は概ね北白川宮能久親王率いる近衛師団により行われ,澎湖島経由のものは増派軍です。この点は後に触れます。

乙未戦争の彰化八卦山の役は,中部地区における台湾人と日本人の戦闘の中で,最も主要なものです。この戦いでは,北部,新竹,苗栗の役以降の抗日民兵,支援兵が集結されましたが,台湾義勇軍は殆ど壊滅し,抗日戦闘は終結に向いました。〔後掲彰化県政府観光情報日本語HP〕

古地図(年代不祥)上の八卦山及び媽祖宮荘(彰化南瑶宫∶推定)位置図〔原図は後掲BTG/彰化市〕

第二の三国干渉を信じた人々

 1895年4〜5月の日清関係を清側から見ると,台湾の割譲も阻止できるのではないか,と清や台湾関係者が考えたのも合理的に思えます。

4月17日 下関条約
4月23日 三国干渉
 →遼東半島の還付
5月1日 清朝,在仏の王之春に台湾割譲阻止を狙った交渉をフランスと開始するよう指示
5月3日 清・李鴻章,台湾割譲見直しの再協議を提案→伊藤博文拒否
5月10日 樺山資紀,台湾総督兼軍務司令官に就任
5月25日 台湾民主国建国宣言
〔後掲wiki/乙未戦争〕

 三国干渉に当時の日帝が抗し得なかったことは,当面,台湾も?という期待を清側に与えることになりました。
 逆に,日本の外交的立場からすると,それまでの歴史では半朝貢国としてへつらってきた大陸中国に対し敢然と挑んだ初の対海外戦争後,ようやく締結した国家間条約を,列強の圧力で台湾割譲までも反故にされれば,外交能力のない児戯と内外から見られることは必然でした。武力で台湾を制圧することは,ようやく帝国主義的な歩みを始めた日本にとって最初の試練だったとも言えるのです。
 その意味では,日清戦争と同程度に厳しい軍事行動でした。

日本の犯した大きな過ちは、島に住む客家その他の中国系農民の気性と力を過小評価したことだ〔後掲wiki,原典∶上海・英国系新聞ノース・チャイナ・ヘラルド〕

台湾民主国の切手とスタンプ〔伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』 p.75〕

終わらなかった日清戦争

 例によって互いに偏向した記述が多い。まず客観的兵力データを見ます。

日本は約76000人の兵力(軍人約五万、軍夫二万六千人)を投入、死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、さらに軍夫7000人の死者(大谷による推計)[18]を出し、台湾民主国軍をはじめとする抵抗勢力は義勇兵・住民あわせて14000人の死者を出したとされる[20]。〔後掲wiki/乙未戦争,原典∶18 大谷正 『兵士と軍夫の日清戦争 戦場からの手紙をよむ』有志舎、2006年
20 原田敬一 『日清戦争』吉川弘文館〈戦争の日本史 19〉、2008年。〕

 日清戦争への投入兵力は日)24万∶清)63万。──乙未戦争による台湾平定には,日清本戦の1/3の兵力投入を要したことになります。
 また日∶清の兵力比を同様に2∶5と仮定すると,日本側の死者数1.2万に2.5を乗ずると約3万。台湾の方が圧倒的に損害が軽微です。
※ この人員数は不確定要素が非常に大きく,原田敬一(歴史学者)によると陸軍17万4千人に武装輜重輸卒としての軍夫を含むと,日本軍の動員は39万5000人であったとする〔原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』(岩波書店[岩波新書]、2007年),p.77-80〕。これだと日清本戦以上の兵力投入があったことになる。

大衆マンガ(風俗書報)に書かれた八卦山の戦い〔後掲BTG,原典不詳〕

 当初の日本軍=近衛師団の師団長は北白川宮能久親王。維新時には幕府方に与し奥羽越列藩同盟の盟主ともなった行動的な宮様です〔後掲wiki/北白川親王〕。
※東武皇帝又は東武天皇として皇位についたとする説もある。
 乙未戦争の日本軍の象徴とも考えられるこの人は,八卦山戦闘の初期に負傷している。その後の経過を見ると,実際は死亡していたとも推定できます。
澳底で露営する近衛師団長の能久親王一行〔後掲wiki〕

8月25日、総司令官の北白川能久親王が大肚渓の河川敷一帯を視察中、八掛山上の定軍要塞守備のゲリラ部隊に狙撃されて重傷を負ってしまう。 直後の 8月26日、親王重傷の隠ぺいを図ってか、日本軍首脳部は 8月28日での総攻撃を即決する。〔後掲BTG〕

 八卦山の戦いは確かに日本軍が勝利したらしい。ただ明らかに辛勝で,近衛師団は彰化以南への進撃が出来なくなったらしい。

彰化県での戦いの後、台湾島での猛暑が日本軍の間で疫病を蔓延させ、その進軍を止めてしまうこととなる。こうして一時休息が図られる。 しかし、別説ではこの彰化県の戦役で北白川宮能久親王が重傷を負ったことから、進軍を見合さざるを得なくなったとも指摘される(台湾現地の主張)。最終的に、北白川能久親王は10月28日、台南で台湾現地病で病死した、というニュースが発表されることになる〔後掲BTG〕

 これらの事実から,主に台湾側が主張する八卦山天王山説は決して誇張ではなく,第一次日本軍はこの時点で事実上壊滅したとも見ることができます。
 さて,そろそろ彰化南瑶宮に話を戻します。
見えてるものが全てじゃないから

異相なる彰化南瑶宮

 創立は1738(乾隆3)年。これは「彰化南瑤宮志」記載のもので,「彰化縣志」その他の記載には乾隆代半ば(18C半ば)とするものもあります。
※彰化縣志「一在邑治南門外尾窯,乾隆中士民公建,歲往笨港進香,男女塞道,屢著靈驗」
 主神は天上聖母(別称∶彰化媽)④の他,五穀仙帝,土地公,觀世音菩薩③,註生娘娘⑤,三官大帝,玉皇大帝,廣澤尊王,文昌帝君,鄭成功と数多い。陪神には中壇元帥,千里眼⑤,順風耳⑤。〔後掲文化資源地理資訊系統,維基百科。ただし丸付番号は下記図のナンバーに対応〕
 配置は次のようになっています。

彰化南瑤宮平面図〔後掲台湾宗教文化地図〕
 

1916年日式改修問題

 上の平面図で「?」マークが浮かんだ方は,台湾廟慣れしておられます。初学者のワシでも変だと感じます。
 媽祖廟の多くが,本殿表に伝統神・媽祖,裏に仏教変化神・觀音という配置を採るのに,南瑤宮のこれはあまりに離れ過ぎてる。しかも間にパティオがある。明らかに故意に分離しようとしています。
 正殿たる媽祖の方が入口に近過ぎ,あたかも觀音殿の方が本殿になってる。
 また,回廊式や左右への増築がなく,他の媽祖宮のような中国式の伝統を踏んでいません。
 図を離れると,本文でカカゲたサンタさんのような神像。気づかなかったところでは,建築そのものも純中国風ではとてもないらしい。
 これらの異相は,1916年の改修時に概ね行われたらしく,当時も問題視された雰囲気があります。

到了日治時期,「終感湫隘為不便」,由於香火旺盛,廟宇空間又嫌狹窄,遂成立「南瑤宮改築會」,耗資六萬日圓,於1916年完成改建,成為一座混合中西日式風格的廟宇,不過「信徒排斥這種非台灣傳統寺廟式樣,致香火日衰」[14],廟方無奈,只好藉口「填基不實、砌造不牢、地坪陷塌,兼之白蟻為害,勢難耐久」[15],「乃於其前方另建今之正殿,而將本殿改奉觀音」[16][17]。
〔後掲維基。原典 [14] 羅啟宏等編纂,《彰化南瑤宮志》,第22頁,1997年,彰化:彰化市公所。[15] 羅啟宏等編纂,《彰化南瑤宮志》,第48頁,1997年,彰化:彰化市公所。[16] 臺灣文化部《臺灣寺廟建築第一人──陳應彬小傳》[17] 羅啟宏等編纂,《彰化南瑤宮志》,第22頁,1997年,彰化:彰化市公所。〕

「南瑤宮改築會」が主宰したことになってるけれど,時代(大正5年)から考えておそらく日本側のご都合団体です。
 旧来の素朴な媽祖宮を,故意に逸脱しようとする力が働いたと考えられます。
 なお,國家文化資產網では次のような記述になります。

彰化南瑤宮観音殿左右両側の泥塑造りの欧風鏡枠。表面に日本風「菊」模様。作成目的は不明とされるが,台湾でもここにしかないとされる。

 大正元年(西元1912年)南瑤宮組織改築會,並推舉士紳吳汝祥、楊吉臣、吳德功、李崇禮等人,倡議重建正殿(今觀音殿),並聘請陳應彬匠師主持,正殿的型式以西方的建築語彙及日式的風格為主,大正5年(西元1916年)完成正殿(今觀音殿)工程。〔後掲國家文化資產網〕

 建築にはヨーロッパ形式を取り入れる発想だったという。さらに「日式的風格」を主体にした,というのが具体にどの部分なのか判断しにくいけれど,かなり変なバイアスがかかっています。
 さらに,この改修は,老朽化のためとは思えない頻度で継続されています。

 大正9年(西元1920年)南瑤宮董事咸認為正殿(今觀音殿)基礎不實,砌造不牢而倡議改建,將原正殿改為觀音殿,另聘請吳海同主持正殿的設計,由老二媽會大總理林金柱、副總理林泉州負責重修工程,至大正13年(西元1924年)完成正殿的工程。〔後掲國家文化資產網〕

 改修の四年後にすぐ再改修の動きがあり,今度は「老二媽會」という組織が動いています。これらの組織は何だったのでしょう?

威恵宮(聖王廟,大西門福徳祠裏手)。漳州市出身移民ら出資。1733年創建の同郷会館を併設。壁書きを見る限りここも媽祖宮らしい。

媽祖会を後ろに連ねる南瑤宮

 時代がはっきり語られないけれど「虎仔爺会」(別名∶聖将軍会)という民衆組織が存在していたという。

隨著南瑤宮香火日盛,地方傳聞媽祖香擔所到之地即獲庇佑,因此每年笨港進香活動中常有地方民眾成群結隊搶香,為維護進香秩序,南瑤宮遂商請縣衙衙役加入供奉虎將軍的虎仔爺會(又稱聖將軍會),在進香過程中沿途保護。〔後掲維基百科〕

 虎仔爺は新港で見た「虎爺」信仰に関係していそうです。

▲(再掲)新港奉天宮の狛犬

「地方傳聞媽祖香擔所到之地即獲庇佑」──彰化のこの媽祖宮が別地方から何らかの攻撃を受け,これからの防衛力を要したような印象の文章です。
「因此每年笨港進香活動中常有地方民眾成群結隊搶香,為維護進香秩序」──南瑤宮媽祖は,毎年,笨港へ巡行(進香)をしていたらしい。その際の秩序を維持する必要から,民衆がこの組織を組織したとある。
「在進香過程中沿途保護」──虎仔爺会は,巡行時の沿線の警護役を務めていた。
 これは,虎仔爺会が民間の自警団の体をとりつつ,相当規模の軍事力を有していたことを推測させます。

日治時期日人懷疑虎仔爺會成員身懷武藝,恐生叛亂,而有取締之意。為消日人疑慮,南瑤宮送給虎仔爺會一尊媽祖神像,對外宣稱該會為南瑤宮天上聖母鑾班會,所奉媽祖稱為「新大媽」,虎仔爺會則更名為新大媽會。〔後掲維基百科〕

 虎仔爺会はその有する武芸ゆえに,日本側に恐怖を感じさせ,取締対象と認識されるようになったとあります。結果,同会は「新大媽会」に改組させられています。
 やはり年代がないけれど,時期的には日本統治初期と考えられ,つまり民間軍事力がこの地には相当規模で残っていたと考えられます。
 それは,自然なルーツとして,八卦山で日本軍を苦しめた民兵団の残党,あるいはそのものだと考えるのが妥当ではないでしょうか。

※本文とは特に関係ありません。(虎繋がり以外には)

4万人の媽祖信徒集団

 現段階でも,南瑤宮の「宮子」集団は何と10もあるというのです。全て19C中に結成されています。

目前南瑤宮共有10個媽祖會組織[20],分別為:老大媽會、新大媽會、老二媽會、興二媽會、聖三媽會、新三媽會、老四媽會、聖四媽會、老五媽會及老六媽會[21]。〔後掲維基百科 原典 [20] 彰化媽祖的信仰圈〕[21] 羅啟宏等編纂,《彰化南瑤宮志》,第七章·媽祖會與活動,第一節·媽祖會的緣起,1997年,彰化:彰化市公所。

 これは,おそらく日帝側がご都合的に形成した新大媽会に大多数の信徒が吸収を拒絶したことを推測させます。同字を分かりよく列記すると──
①新大媽会
②老…………
③老二……
④興二……
⑤聖三……
⑥新三……
⑦老四……
⑧聖四……
⑨老五……
⑩老六……
 維基に表があるけれど,現構成員は4万超。この規模の宮にこんなに信徒がいるものなのでしょうか。

十組織の規模及び活動。個々に多様性が大きい。〔後掲林1990a〕
 さらに,維基百科/大橋頭慈鳳宮によると──

其中老四媽會的組織有十二個大角頭,每角頭再設若干小角,並選出一人擔任總會代表,稱為「柳仔頭」,由代表推出總理總管會務,聘副大總理、監察人、顧問等多員以推展會務。〔後掲維基百科/大橋頭慈鳳宮〕

──(前段のみ)その中で老四媽会の組織は12個の大角頭を構成する。各角頭はさらに幾つかの小角(頭)を構成する。一人を選んで総代表とし,これを「柳仔頭」と称する。──
 少なくとも「老四……」は角頭(≒自治会≒地域闇組織)から成る組織らしい。また,これは彰化南方15kmの大村鄉大橋村(大橋頭慈鳳宮)についての記述なので,最低限でもその位,自然に考えると彰化県全域に広域で根を張る組織のようです。
 こうした状況が,本稿で見たように八卦山戦闘に本当に由来するのか,械門や清代内乱から続くものなのか,あるいはその全てなのか,それはもうダーク過ぎて推定しようがありません。
 ただこの歴史を見ていると,台湾を日本が征服し統治した,という正史を疑いたくさえなってくるのです。

「彰化南瑤宮歷史紀錄」写真(年代不詳)〔後掲台灣好新聞〕

【付録2】林美容論文∶彰化媽祖的信仰圈

 ここで「ダークだから」と立ち止まらずに突っ込んだ研究をしている学者が,台湾にはおられました。
 この林さんの著作には,十組織の具体の構成村落が網羅的に書かれています。
 本当に学術的なので,以下はその読解になります。
 本稿の論点に関しての補足情報のみを掲げていきますと──

大甲溪の南,濁水溪の北,但し海岸以外

彰化媽祖的信仰圈以這十個媽祖會為主體,域內還有一些公廟性質的分香子廟 ,①以及一些迎神活動,均與彰化媽祖之信仰有關②其範圍約在大甲溪以南,濁水溪以北的中部地區,但排除泉州人居住的沿海地區〔後掲林1990a,下線及び丸付数字は引用者〕

──域内には10媽祖会が幾つもの分社(分香子廟)を造り①そこでの一切の「迎神」活動はほぼ彰化媽祖宮の信仰と関係がある。──
 あの小さな宮が,非常に広大な影響圏を有しているのです。
──②その範囲は概ね
②-1 大甲溪以南かつ
②-2 濁水溪以北の中部地区であるが
②-3 泉州人の居住する沿海地区を除く。──
 鹿港の位置を③の目安にするなら(本当は林論文の媽祖会加盟地域を図に落とせばいいのですけど……),概ね次のような地域でしょうか。

推定∶彰化天后宮10媽祖会影響地域

南瑤宮媽祖会はおおよそ漳州村

我們若仔細考察目前南瑤宮會媽會會員分布的村庄,可以發現③大部分都是漳州人與潮州籍但已福佬化的客家人佔居的村庄,④只有少數的村庄,如烏日鄉的溪尾寮、漳化市的維新庄、秀水鄉的金陵、下崙及花壇鄉的灣雅口、崙仔頂、中口、南口、北口等為泉州人的村庄。〔後掲林1990a〕

──私たちが南瑤宮の媽祖会員の分布を細かく考察していったところ,③ほとんどが漳州人又は潮州籍(已に閩南化(福佬化)した客家人)が専ら住む村だということがわかった。──
 これは書かれたもののない情報ですけど,上記の泉州人居住区を除く分布とも整合性があります。南瑤宮媽祖会の信徒は多くが漳州裔(一部が潮州客家)だというのです。
 泉州人は点で商い,漳州人は面を耕す。南瑤宮媽祖信仰は面の宗教であるらしい。
 というより,香港や台北で媽祖を拝むと,どうしてもその神を点と認識してしまいがちです。神の存在が多次元でないはずがない。なかんずく媽祖は海の神ではないか。
 東シナを往来した海民にとっての媽祖信仰のかたちは,むしろ彰化のそれのほうが近いのではないでしょうか。
──そのうち僅かに少数の村(例示∶略)が泉州人の村である。──
 南瑤宮信徒,あるいは彰化媽祖会員が完全に漳州人かというと,そうではなくて泉州人の村も少数派ながら加入例があるという。この点は重要で,泉漳械門が全ての元凶であれば媽祖会は泉州人の参加を許さないはずです。
 械門以前に,広域地域に根付いた媽祖信仰が在り,械門すらも二次的な変化だった,ということになる。
「陸の媽祖圏」というのは,嘉義県でも既にその片鱗を見てきました。

 嘉義,彰化という古い漢族植民地域に,いわば「開拓地型媽祖信仰」が残るのは,やはりそれがよりプリミティブな媽祖の拝みだったのではと感じるのです。
 なお,別論文に,南瑤宮ではないのですけれど,台湾西部域の媽祖宮の宮子集団別の祖籍別集計もありましたので、具体の数値を【付録3】として掲げます。

文化にのみ残る漳泉の壁

 以下は,上記南瑤宮媽祖会の泉州人会員の記述に続くものです。

泉庄雖非絕對地被排除在外,但只是極少數處於漳泉交界且關係並不惡劣者被容許參加。如果隔壁漳泉兩村庄歷史上曾有械鬥發生的情況,即使現在久未械鬥,關係已和緩,甚至大部分的人都沒有什麼漳泉分類意識,可能雙方在祭祀活動上仍然壁壘分明。〔後掲林1990a〕

──泉州人村といえども絶対に在外(ここでは漳州人や潮州客家)を排除してきた訳ではない。漳泉が交流したり関係を持つ世界は極めて少なかったけれども,悪劣でない人たちは(相互の)参加を許容されてきた。漳泉両村の間に(精神的)隔壁があり,それが歴史上械鬥を発生させてきた事情があるとしても,とりあえず現在は久しく械鬥は起こっていないし,関係も既に緩和して,大部分の人たちは漳泉の分類意識を何ら持ってはいない。しかし,双方の祭祀活動上は依然として明白な障壁があるのもまた事実である。──
 学術的スタンスを貫いたブレない記述です。

彰化媽祖信仰圈は濃厚である

 順不同になるけれど,台湾社会の特質に言及した一節がありました。これを最後に是非引用したい。

彰化媽祖信仰圈表面上是宗教組織,內裡卻有深刻的社會基礎,它向我們揭示著台灣漢人社會地緣結合之特殊屬性,也揭示著台灣民間社會自主性發展之澎湃的活動力與組織力。〔後掲林1990a〕

──彰化の媽祖信仰圈は,表面上は宗教組織のそれである。しかし,内実はそれこそ深刻な社会的基礎(構造)なのである。この事実が我々に掲示するのは,一つは台湾漢人社会の地縁的結合の特殊性である。ただそれは他方で,台湾民間社会が,自主的発展の澎湃たる(ごうごうと流れ下るような)活動力と組織力を時に発揮する源泉でもある。──
 笨港(北港・新港)から彰化のベルト地帯というのは,当初から漢人海民が住み着き,そのために近代の終わりまで日帝を含む統治側が制御し得なかった「濃い」土地です。上記の文章が台湾人の本質を抜いているか否か判断できるほどの勘を養ってはいませんけど,上記のような清濁併せ持つダークさ(と少なくとも日本人には感じられるもの)が本質なのだとすれば,この土地こそが最も台湾らしい台湾なのだと感じられるのです。

「各個區域性宗教組織之族群特色」マップ化

 林さんの論文やデータを見たい方は上記をクリックして展開してご覧ください。
 上マップは,林さんが南瑶宫に続いてまとめた台湾東岸の5宮の信仰圏(宮子構成村落)とその祖籍地です(凡例 最メジャー祖籍が──青∶泉州 緑∶漳州(単純化のため潮州客家を含めた))。
 面白い。
 南瑶宫信仰圏と同様,泉漳の色がクッキリと出ています。媽祖信仰は台湾人の視点から見るとこれほど「派閥」化してる。
 また,にもかかわらず一部に泉州人村落が混入しています。これは林さんの言うように単に械門のような対立感情の軟化というだけでなく,何か第三,第四の要素がこの圏域の形成に働いていたようにも見えるのです。
 分からない。中部台湾の闇はディープ過ぎる。

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m3鹿巷勅建及彰化南瑶」への1件のフィードバック

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