m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m4彰化から豊原

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)∶彰化
 GM.(経路)∶豊原

彰化市街上変化最大的一條街道!

0分ほどかけて,彰化の町を駅まで歩いてみました。
 1545,南瑶路を北行。延々とちょうちんが続く。
──としか記録してないけれど,何とも言えない雰囲気だけは覚えてます。

南瑤路算是彰化市街上地理環境變化最大的一條街道!
 早期經過的橫向大馬路,除了曉陽路外,其他都是左右的巷弄〔後掲隨意窩〕

──南瑤路は彰化市街で地理環境の変化が最も大きかった街道の一つであろう!(北の)橫向の大馬路を過ぎると,曉陽路を除けば,その他は皆,左右(東西)へ巷弄(路地)だった。──
 つまり,彰化城域を南北に縦断するメインロードがこの道でした。

〔後掲隨意窩〕北側の門「無底廟鎮南宮老大媽」

底廟鎮南宮」「老大媽」と上の写真にあるのは,それぞれ宮を指してます。「老大媽」が前頁の南瑶宮。
 南門付近には「打鐵舖」という鍛冶屋通りがあったらしい。
 あと,旭光路と仁愛路の間に大きな池があったという。古い船着き場だったかどうかは定かでない。
 1548,仁愛路を左折。

欲求不満な裏通りを辿る

▲教会の保育園

陽路というもう一つ北の通りに入る。うーん,ぴんとこない。
 おとぎのくにのような私立幼稚園。
 1600。裏道へ潜る。[日堯]陽路。ちょっと安心する通りですけど──

▲1601彰化裏通り1。雑然とした感じがなかなか好いんだけど……

くゴミゴミっとした暗い路地。ただ道筋は真っ直ぐに見えます。
 生活臭は漂う。でも鼻をつくほど濃くはない。

▲1602彰化裏通り2。草木にまみれかけた界隈もあるけれど……

ートは次の地図で確認しても確かに老城域のはずなのに,どうもピンと来ないのです。何をどう外していたのか,未だに分かりません。

「ホチ」な気分の彰化歩き

彰化城壁想定図〔後掲BTG〕

陸中国だって,この位に雰囲気が出てきたら道筋やアップダウン,宮や祠が招いてくれるんですけど……彰化の場合,最後までそういう不意の出会いがありませんでした。

▲1604彰化裏通り3。くっつきかけてる家屋もあるけれど,不見天というほどじゃない。

めてとにかく駅を目指すことにします。
 西に行き過ぎてしまってるらしい。1608,右折北行。概ね北東方向を目指す。

▲「ホチ」?

の写真は一体何を言おうとした日本語なんだろう?
 というか,まさにそんな気分の彰化歩きでした。
 あと?「爌肉飯」という看板が目立つけど……何だ?

▲1616駅が近づいてきた界隈

祥街を東行,1617。左折するとad.(住所表示)永興街。
 西門という表示が増えてきました。
 1623,駅前。

日に三度 烏渓を渡る

▲彰化駅ホーム

化駅3番プラットホームに上がる。1628。もうワンアクションやろう。
 豊原行きの一番早い切符を購入しました。台中の3駅先です。
 1641発,后里行き山線3198次。

彰化〜台中〜豊原付近鉄道路線図

化北側,烏渓を三度渡りました。1645。
 夕陽が見事です。というかやっと雲が薄れてきたかなあ。
 1651,新烏日。座れた…。台湾での「ri」音はうっかりすると「じ」に聞こえるほど音が掠れる。
 1705,台中駅でドアが閉まる。
 1707,精武。
 見損なってたのか,それとも近づいたのか,東側の山がかなり近い。山側にはまだかなりモヤがかかってる。
 1710,太原。あれ?次はまだ松竹?
 1713。3つというのは主な駅で,実際は7駅先でした。🚈🚈🚈🚈

のっぺりした町やね

違いない。やはり山並みは近づい……てます。もう樹木が見えるほどです。
 1716,頭家暦。古いアパートが続く。のっぺりとした居住区。
 1718,潭子。そして次は──1723「栗林」??
 讃岐かよ。
 へえ……中国語,さらに台語だと,この二文字,「リッリン」みたいな可愛い響きになるんですね。
 台北のMRTみたいなキレイな駅が続きます。新開発の地域でしょうか。
 1726,豊原。所要45分。あんなにビビッてたTRA鈍行てしたけど,もうすっかりマニアです。

▲1729豊原駅前。日本の新築駅みたいなデザイン。
……
 これまたのっぺりした町やね。
 ただ人の流れはこっちにしか向いてない。西,三民路へ。

▲1735豊原駅前の町並み。その「の」は無くて良いと思うよ。

生北路へ左折。1737。
 湾曲部に福徳祠。その先を左折南行。
よし中正路。右折西行

廟東夜市をスルーしたのか?

▲1738。確かに新しい町並みですけど,樹木や家並にどことなく風情

翔囍餅蛋糕。一応目当てにしてたんだけど,皆さんパンの店として使ってる。それはそれで興味はあるけど……うーん,スルー。
 宮が見えました。
 ここの東隣に夜市がある。危険は感じないけれど,これは混雑しすぎてて……入ったら暫く時間を食いそうなので先に──。
 1749,篇額「原宮済慈豊」とある門をくぐる。豊原慈済宮です。

▲宮の横手の夜市「廟東夜市」

■レポ:慈済宮と豊原の朧なる点景群

清代に創建された慈済宮は、天上聖母を祀り、豊原地区住民にとって重要な信仰の中心です。北向きの三殿両戶龍式建築で、廟前にはガジュマルの老樹が鎮座し、企業が寄贈した巨大な銅獅子が荘厳さを添えています。〔後掲大玩台中〕

慈濟宮入口と銅獅子

 かなり荘厳な媽祖宮です。なのに,ネット上はもちろん,ローカルにもそんなに信者が殺到してるという感じがない。
 上記の銅獅子の寄附企業が具体に確認できなかったけれど,現代の豊原が成立する過程で活躍した企業がスポンサーについている,と考えるとシックリくる雰囲気です。

慈濟宮歷史悠久,香火鼎盛,主祀天上聖母,是豐原先民的信仰活動中心
廟旁廟東小吃聞名全台。〔後掲臺中市豐原區公所/地理環璄〕

 何と,地元自治体の台中市豊原区役所も,上記の旨を書いてるだけです。
──慈濟宮の歴史は悠久で,香火の鼎は盛んである(寺院として興隆している)。主神は天上聖母で,豊原の「先民的信仰活動」の中心である。
 廟の旁らの「廟東小吃」は全台湾にその名を知られる。──
「先民」の,と言ってしまっているところが,何とも他人事のような書き方です。
 廟に関してはその位しかデータがありません。

東廟市場のなかった頃

「早期的慈済宮」〔後掲facebook,年代不詳〕

 上記の古写真を掲げるFacebookは,「かつて廟東市場はなかった」という主張をしています。ここのコメントに次の記述がありました。

廟東ー名是因原廟宇東邊為一家日據時期即有的煉油廠,改建成大樓起名廟東大樓設立攤位而来.廟周圍原有攤販即安排沿廟楼牆設立攤位,所以有深有淺巷口寸土寸金又為後来攤販佔據道路,六米巷成三米巷人潮擁擠假象〔後掲Facebook〕

──(慈済宮)廟の「廟東」という名は現廟(原廟)の東側に一軒,日本統治時代にあった精油工場(煉油廠)に付けられたものと言われる。「廟東大樓」と名付けられたビル(大樓)を改築する際,屋台区画(攤位)が設けられました。──
 30km北の苗栗(公館開礦村)では1813年に石油が発見されています。日帝代初めにはこれを当てにした精油が,新開発区の豊原にあったものかもしれません。〔後掲苗栗文化観光旅遊網/出礦坑礦場〕
 やがて精油が回転を鈍らせ,建物を縮小した跡地に出来たのが屋台区画だったらしい。

廟東夜市のまだ暗くない時間の光景

──廟の外周壁沿いには屋台が販売を始め,廟の壁に沿って屋台区画が並んでいった。どの路地も地価が高かったので後発の屋台は道路を占拠するようになり,幅6mの路地は3mになって雑踏がひしめき合うようになった。──
 なぜこの場所が市場になったのか,必然性はよく分からない。ただ,ワシが訪れた時間が最高潮だっただけで,結構,生活市場的な落ち着きのある場所であるらしい。残念残念。

Vivi and Holotun

ビビアン・スー 〔英語名〕Vivian Hsu
〔台湾名〕徐若瑄 Xu2 Ruo4xuan1
〔タイヤル族名〕Bidai Syulan

 ビビアン・スーは,1975年に(当時の)台中県豊原市出生。ちなみに出生名は徐淑娟(Xu2 Shu1juan1)。父親は広東省梅県区を祖籍とする客家人,母親はタイヤル族。〔後掲wiki/ビビアン・スー〕
 はっきり書かれたものはないけれど,各呼称の中で「ビビアン・スー」に一番近いのはタイヤル族名の「Bidai Syulan」です。おそらく彼女は,台湾原住民出身である誇りを持って活動しています。

豊原区の旧名は「葫蘆墩」(ころとん)であり、その地名の由来は史料によれば、清代初の康熙年間、草木が繁茂する荒野を先住民が「松柏の林」という意味で「泰耶爾墩」と称し、「葫蘆墩」は「泰耶爾墩」の音訳であると言われている。〔後掲wiki なお,wikiの内容は後掲豊原区公所の記述とほぼ同じで,その訳を主体としたものと推定される。以下同じ。〕

 この町が「豊原」になったのは後に書くとおり1920年。それまでは「葫蘆墩」で,この名前の駅もあったという。読みは日本語では「コロトン」と書かれることが多い「Holotun」で,パゼッヘ語(巴宰語)だと目されています。
 ちなみにパゼッヘ族は総人口5千。南投県埔里と苗栗県三義郷鯉魚潭を主な居住地とする。豊原以東のパゼッヘ本族と,同以西のカハブ族に小分類され,近年のカハブ族は独自民族としてパゼッヘ本族からの分離傾向が強い。

ビビアンの祖先 豊原を拓く

舊名葫蘆墩的豐原,是台中縣市合併前的縣治所在,也是台中山線地區的重鎮。兩百多年前,來此拓墾的漢人開鑿葫蘆墩圳為良田灌溉,讓這裡變成富庶豐饒之地,而有「富春鄉」、「小蘇州」之美譽。〔後掲風傳媒〕

──豊原は古名「葫蘆墩」,台中市に合併する前の県庁所在地で,台中山線(※前掲鉄道路線図参照)地区の重鎮である。二百年以上前,ここに来て開墾を始めた漢人はコロトン・ダム(葫蘆墩圳)を掘削して良田の灌溉をなし,この地を庶民までが豊饒たる土地(富庶豐饒之地)に変えた。これにより「富春鄉」及び「小蘇州」の美名を冠されています。──
 原住民の楽園だったこの地方に,漢族が入ってきたのは18C初め。面白いのは,発起人が漢族と原住民(採用の役人)の連名だったことです。

1733年、張達京と岸裡社平埔族土官潘墩仔が清朝のこの地の開墾許可を獲得し、福建漳州、泉州よりの入植を推進し、この地に集落を形成するに至った。1886年になると葫蘆墩に撿衙門が設置され、豊原地区に初めて官が設置された。〔後掲wiki〕

 19C末に初めて役所が置かれた,ということはそれまでは開墾地そのものだったということです。
 維基の中国語でもう少し周辺を埋めると──

1732年清雍正年間,①潮州府客家人岸裡社通事張達京與岸裡社平埔族土官潘墩仔獲得允許開墾此地,其後自中國大陸引進男丁,②闢建貓霧捒圳(後稱葫蘆墩圳),灌溉範圍廣大。〔後掲維基/豐原區,下線・丸付番号は引用者〕

 ①漢族発起人・張達京は潮州客家人。ビビアン・スーに近い祖籍です。かつ,この人は対原住民集落・岸裡社の翻訳係(通事)だったと書かれます。原住民との合意形成があった感じであり,少なくとも最初は単なる漢族の経済侵略ではなかった風です。
 また,入植後すぐにまず②灌漑に取り掛かったという記述です。それまでは沼地か大甲渓の氾濫原のような場所だったのかもしれません。

台湾なのに豊葦原の瑞穂のくに

「豊原」地名は,その語感通り,やはり日本人がつけたものです。時期は1920(大正9)年。

1920年に「コロトン米を以て知らるゝ米產地なるを以て、其吉祥に因んで[2]」内地風の豊原(とよはら)と改称され現在の名称が誕生し(略)〔後掲wiki ※原典∶[2] 水越幸一「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」『臺灣時報』第十六號、大正九年、一四二頁。〕

 豊原の語源は,日本人が聞き慣れたあのフレーズでした。

這時間可推溯至日治時期,於大正9年時將原本的台灣縣改為台中縣,將今日台中市的豐原區、潭子區、大雅區、神岡區、以及社口合併為「豐原郡」,豐原這一詞從此出現。
(略)因豐原氣候溫和、物產豐饒、農田水利開墾的成功,非常適合農作物的生長,而當時日本政府實施簡化地名的政策,將古代中國送給日本的印璽「豊葦原の瑞穂の国」簡化成「豊原」。〔後掲痞客邦〕

──温和な気候,物産の豊かさ,農地の水利と開墾の成功により農作物の成長性に殊に適合していることから,当時,地名(表示)の簡素化を進めていた日本政府が,古代中国が日本に送っだ印璽「豊葦原の瑞穂の国」を縮めた地名がついた。──
 皇国の声高まる時代に,あえてこの伝統名から地名をつけた,日本側の当時の意気込みが伺えます。

葫蘆墩圳∶フルトン・ダムの掘削

 前記の灌漑工事というのは,1723(雍正元)年に先に触れた潮州客家人・張達京が掘り抜いた「下埤」というパーツから,とめどなく増殖していったらしい。

葫蘆墩圳
清領時期水利工程。位於今臺中縣豊原市,由下埤,上埤及下渓洲圳3個獨立圳道合併而成,下埤於1723年(雍正元年)由張達京獨資創設,上埤為1733-1734年由張達京等人出資開鑿,下渓洲圳為1823-1867年(道光3年至同治6年)由陳天来、陳奎、陳漢、陳策、陳荐(合稱陳五協)共同出資興設,1902年(明治35年)三圳合併為葫蘆墩圳,引大甲渓渓水灌漑農田。主幹線現約40公里,支線200多公里,濯漑農田74.77平方公里,灌漑地區包括臺中縣豊原市,潭子郷,神岡郷,大雅郷,臺中市北半部。〔後掲台湾大百科今昔 ※注は引用者が削除〕

 何と最終的に20C初には台中にまで達しています。下埤(1723),上埤(1733-1734)及び下渓洲圳(1823-1867)の位置関係は次の図の通り。


「葫蘆墩圳開闢歷程分析圖」〔後掲李〕
凡例 赤∶下埤(ほぼ現・豊原部) 青∶上埤 緑∶下渓洲圳
資料來源:陳炎正(2000) 頁90,100。
註:1.水圳位置為1964年圳路圖。
  2.張承祖為張達京之兄張達朝之墾號,在墾約上常與張達京合稱。
3.社課地收入主要為社務運作之用

 下渓洲圳という部分は,陳五協と総称される,おそらく氏族が新開拓した土地専用の拡張みたいだから,おおむね下・上埤の二段階です。どちらも張達京さんが中心になって私財を注いだものらしい。近世にこの規模を私人がなぜ発起して,どうやって堀削したものか……検討もつきません。

史料上の慈済宮と葫蘆墩

 彰化縣志が「葫蘆墩街」に在る天后として記載するのは,おそらく慈済宮と思われます。彰化縣志は1788(乾隆52)〜1826(道光6)年と書き継がれたものなので,時点の特定がしにくいけれど……。

巻五19 天后聖母廟:一在鹿港海墘,乾隆五十五年,大將軍福康安倡建,廟內有各官祿位。(略)一在大里杙街,一在二八水街,一在葫蘆墩街,一在悅興街,一在旱溪莊。〔後掲彰化縣志 番号は中國哲學書電子化計劃付番〕

 大里杙街は台中市大理区(大里杙街仔尾福徳祠→GM.),旱溪莊は同南区(旱渓→GM.)なので,彰化縣志は列記はしてるけれど,「その他大勢」の媽祖宮と扱っているように見えます。
 次は駐屯兵力ですけど──

巻七22 按雍正十一年,原設駐札縣治及分防各汛、塘兵數,各有增減不同。今就現在額設計之:以六百零五名駐扎彰化城內,(略),以五十名分防崁頂汛,以三十名分防四張犁汛,以四十名分防葫蘆墩汛,以三十名分防觸口汛,合共額兵一千二百二十四名。〔後掲彰化縣志〕

 彰化605名に対し葫蘆墩には40名。行政的な重要度もそういう感じだったようです。

飛んじゃおう!遺跡

「葫蘆墩墩腳遺址,在大街尾福德祠後方」〔後掲wiki〕

「葫蘆墩墩腳遺址」と記される地点(墩腳綠園(葫蘆墩遺址) →GM.)にあるのが上の写真です。
 文化財として保護・整備されてるようです。ただ,どういう発掘成果があったのか調べても分からない。原住民の生活拠点の跡だと推測しますけど……同様の「緑地」が3箇所あるようです。
「ふるとん」葫蘆墩の地名のもう一つの説として,地形がひょうたん(葫蘆)に似てるから,という意訳説があります。

葫蘆墩為豐原古稱,因市區中有三座土墩因而得名。土墩分成墩頭、墩身、墩腳三段,墩頭在南陽里,由於道路的闢建,因此已被鏟平;墩身在聚星觀後方,墩上種植了綠樹,形成了一座小公園;墩腳在大街尾福德祠後方,目前僅剩直徑10公尺,高2公尺的小土丘作為遺跡。〔後掲玩全台灣〕

──丘(土墩)は墩頭,墩身及び墩腳から成る。──
 この丘の連なりをひょうたんと見た,という説ですけど……この3地点を探すと,それぞれ現存地名がありました。これをGM.経路で結んでみたのがこちら。

~(m–)m 豊原3土墩巡りの行程 m(–m)~
GM.(経路)∶墩頭在南陽里(已被鏟平)→墩身在聚星觀後方→墩腳在大街尾福德祠後方

豊原3土墩巡りの行程
「廟東夜市」の西が慈濟宮です。
 これからすると,南東から北西への3遺跡の丘の連なりの北側直下に,当初の漢族開拓者が媽祖を祀り,慈濟宮になったということになりそうです。当然,最初の漢族拠点もこの周辺にあり,北側平地の灌漑を進めながら,おそらく大甲渓の氾濫原の沼地を農地に変えていったのでしょう。
 ところで大甲渓と言えば,別章で木材流送の可能性を追った川です。

 漢族開拓者はこの川・大甲渓を遡って,随所に町を拓いていった。何が彼らをこの川が惹きつけたのか,木材なのか他の何かなのか,そこは分かりません。でも北岸には大甲鎮,南岸には葫蘆墩(現・豊原),さらに中上流に土牛,新社など幾つもの町を築いていきました。
 これらの町が「連合」「連携」した形跡はなく,どうやら反目しあっていたらしい。大甲鎮の媽祖進香(巡幸)は新港への道中,数多の町を通るけれど,豊原を含め台中の町にはほぼ立ち寄らないようです。

2022大甲媽遶境進香日程(Facebook大甲鎮瀾宮)

 この水域が全体としてどういう地域だったのか,物語る史料はほぼゼロです。その一つであるはずの葫蘆墩(現・豊原)についても全く焦点を結べない。以上のような各論の羅列になってしまうのですけど──何物かが存在した匂いを嗅いでしまうのは,ワシの思い込みでしょうか?

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m4彰化から豊原」への4件のフィードバック

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