m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m3鹿巷総合(勅建天后周辺域)

ラリと通り過ぎた旅行の数時間なのに,どうにも引っ掛かりが残る。
 笨港に続けて,鹿港も,いやそれを上回る迷路が背後に隠れていました。そういうことは,ジワジワとしか分かってこないものです。
 お気付きのとおり,本命である古・鹿港天后は迂闊なことに見逃してます。媽祖宮が三つもあるなんて,当時想像もしてなかった。この別建て章は,まずは,なぜ同じ媽祖信仰の宮が三つも並立したのか,その点を一次目的地として思考を重ねていきます。

各論一 新祖宮


鹿港新祖宮は1787(乾隆52)年創建。
 これは由緒で明確に語られる事実で疑いの余地がありません。翌1788年に媽祖神像が入祀。この媽祖は,将軍・福康安の率いる清軍が1787年に起きた林爽文の乱の鎮圧に向う際に「軍属」の武神として携えたものです。〔後掲國家文化資產網/新祖宮〕
 よく「唯一一座由皇帝敕建之媽祖廟」──皇帝の勅命で建てられた唯一の媽祖廟と紹介されるけれど,もっと端的に言うなら清軍による台湾鎮圧行動専用に祭壇が設けられたのです。

文武官員至此下馬〔後掲À la recherche du temps perdu〕

から「勅建」という呼称は,厳密に言えば,創建当時とニュアンスが違う。
 上の「……此下馬」碑がその物的証拠とされます。でも一見して明らかなように,古みがない。元の碑は日帝時期に壊されたので後にレプリカを造った,という。

「文武官員至此下馬」的碑,是仿造的,原来的下马碑好像毁于日据时期,好可惜哦。〔後掲À la recherche du temps perdu〕

 けれど,台湾人の感情的には飲み込み易くても,少し考えると分かる。日帝がこの碑だけを破壊するメリットは全くない。──清皇室権力を匂わせるから天皇家に不遜,と評すのは,清帝は既に滅びているから説得力を欠く。
 満州語が付してあるのも,忠実に写したとも考えられるけれど,わざとらしいと言えばそうです。
 一度は,左程意味がないと感じて自ら撤去したものを,他の天后宮に備わる実証的碑文に相当するものとして再設置したのではないでしょうか。──だとすれば,「勅建」の二字はこの天后宮の宮子にとって唯一最大の拠り所なのでしょう。あえて否定するのは本稿の主旨でありません。

隠元隆琦(1592-1673,明末清初)喜多元規筆,1671年,萬福寺蔵 *一部
 なお国の文化財解説(國家文化資產網)は

「鹿港新祖宮」於1787年建廟,歷史久遠,為①全臺唯一官設媽祖廟,具稀少性,②雖現有廟體為後期改建之結果,但仍屬重要之歷史見證〔後掲國家文化資產網/新祖宮,下線・丸付数字は引用者〕

①「官設」(政府が建てた)とサラリと「勅建」を言い直している。
②建物などは再建で,文化財的価値は薄いけれど,「重要之歷史見證」∶歴史の体験者としての重要(なので文化財指定する。)
※「見證」は日本語の「見証」と同義。側で事のなりゆきを見る人,または(仏教用語)自己の心の本来の姿を理解し会得すること
──と暗にこの廟の本質を言ってのけています。
 勅命による媽祖の格付けは「護國庇民妙靈昭應宏仁普濟福佑群生誠感咸孚顯神贊順天后」。この時にすぐ北西隣の既存媽祖宮をわざわざ「舊祖宮」(旧・媽祖宮)と改名している。さらに別称として「敕建天后宮」「新天后宮」がある。[後掲維基/新祖宮]
 なお,媽祖像のタイプはかなり現代的です。

新祖宮中祭祀的媽祖神像為「軟身媽」,意即雖然頭手頸是木雕,但是身體是藤編,所以可以轉動手腳換穿衣服。〔後掲維基/新祖宮〕

「軟身媽」というタイプで,藤編みの胴体に木製の頭・手・首が付いていて,これは手足を動かして衣替えするためだという。──確か長崎のどれかの媽祖で同じような儀式があります。
 さて,地籍図を見ます。

地籍図〔洛津裡埔頭街96号〕

新祖宮地籍図〔後掲國家文化資產網〕

処が宮?」と言いたくなる灰色のL字です。どうやらL字の右上(北東)側の方形(310号)が公有地らしい。國家文化資產網の地図には「新祖宮附設図書館」と書かれるから,勅建時からかとうかは分からないけれど,どこかの時点で公(おそらく国)有化されて実質その土地も含めて文化財指定された形なのでしょう。
 310号の筆を含めて見ると,周囲から完全に浮いています。
 この筆だけがやたらに大きい。つまり分割されずに現在に至っている。創建当時から一筆の方形なのです。
 灰色部分は,周囲の筆の形と総合すると,かつて広い道だったように見えます。特に北北東から南南西に伸びる縦の道は,広い。
 対して横の道は,宮前で少しすれ違ったように伸びています。すれ違い位置にパティオがあったと考えると合理的になる。れらが道だったとすれば,宮の敷地は北北東に向かって少し扇のように広がった台形を成しているようてす。そのラインは南北の,現在は宮外のエリアにまで伸びています。
 この台形が何を意味するのか判然としないけれど,南の,台形が細まった位置が船着き場のある河岸で,そこから陸地への二本の道の間が宮になった,とも考えられます。
 なお,もう一つ目につくのは,他で南北に(正確には北北東から南南西へ)長い筆が,宮の西側では東西(正確には西南西から東南東)に長いことです。この点はご記憶だけ頂いて後に再考しましょう。
 これらを補助線として書き込むと,次のようになります。
上記地籍図(新祖宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶南北の道ライン
   赤線∶東西の道ライン
   青矢印∶宮敷地に続く台形の脚ライン

各論二 鹿港城隍廟

鹿港の城隍廟は別名「鰲亭宮」。※「鰲」∶大亀
 1839(道光19)年に泉州永寧からの一族が移民して来た際に建てたのが基という。永寧の別名・鰲城から一字を取ったのが「鰲亭宮」とされます。〔國家文化資產網〕
 そうだとすれば,大陸中国を含めこの名の廟が通常持つ「城市」(都市)守護神としての城隍廟という色彩はない。後からそういう「格上げ」がされただけで,本来的には,露骨に言うと泉州裔の縄張りのマーキングです。
 建築は二進一院(門から奥へ三段階)。三川殿→拜殿→正殿と続き,平面図は「工」字のようになっている。このタイプを「交相帶式」といい,清初の普遍的な建築様式とされます。〔後掲臺灣宗教文化資產/鹿港城隍廟〕
 さて城隍廟の説明でもう一つ気になる頻出語句に,

「鹿港不見天街」上唯一的閤港大廟〔後掲維基百科/鹿港城隍廟〕

──「鹿港の『空が見えない』商店街」の中で唯一の,港口の大きな廟である。──
という類のものがあります。空が見えない?アーケード街のこと?

「鹿港不見天街」〔臺史博線上博物館〕

不見天∶「空が見えない」街の暮し方

見天」というのは,天が見えないほど高層の多い街だ,という比喩表現ではありませんでした。ホントに天を覆って見えなくした建築らしいのです。

不見天街是台灣其中一個道路特色。因為道路被雨棚蓋住,看不到天空而得名。(略)算是亭仔腳(騎樓)的一種延伸。(略)
由於鹿港五福街為販賣自碼頭區進口的貨物,(略)這就是全台獨一無二的「不見天」街〔後掲維基百科/不見天街〕

「鹿港街本通り」とルビがあり,日帝時代(撤去前)の写真らしい。〔隨意窩 Xuite日誌/鹿港不見天街〕

──「見天街」は台湾にある道路の特色の一つ。道路をアーケード(雨棚)で覆って,天空が見えなくなっていることからその名がある。(略)亭仔腳(騎楼)の進化形の一種と想像されている。(略)──
──鹿港五福街は港エリアから運ばれる貨物の販売場所である。……台湾でも唯一無二の「不見天街」である。──
 当時の漢族の目からはとんでもない生活環境の「改善」と映ったらしい。例えば清代に洪棄生※はその形容をこう綴ります。
※洪棄生(1867(同治6)年鹿港生,1929年没。台湾の詩人。台湾の日本割譲後,抗日戦に参加した後,鹿港に帰郷。

清代名儒洪棄生曾如此形容:「樓閣萬象,街衢對峙,有亭翼然,亙二、三里,直如弦,平如砥,暑行不汗身,雨行不濡履。」〔後掲維基百科/不見天街〕

(再掲)古写真「日據初期的鹿港大街」──日帝統治初期の鹿港大街。「鹿港不見天」を撮影した貴重な画像でもある。

──閣はよろづ(萬)のかたち(象)をとり,街と巷(道)とが対を成す。有る家は翼を広げ,瓦の軒が二里,三里と続き,そのまっすぐなこと(弓の)弦のごとく,平らなること砥(石)のごとし。暑さに行く(歩く)も身に汗かかず,雨に行くも履きものを濡らさず。──
 これだけなら,漢族の詩人を現代日本のアーケード街,例えば日本一長い京都二条通りとか連れて来たら詠みそうな詩文です。前代の時代人から見るとアーケードは驚異の世界なのでしょう。
 けれど,「街衢對峙」(衢∶道,巷,四辻,路地)の辺りがアーケードっぽくない。次の辺りになると,どうやら現在は日本各地にある「アーケード商店街」とはまるで違う。平面,さらに立体に広がっているのです。

昔日三不見
看不見天:(略)
看不見地:(略)
看不見女人:綁小腳難於行,都待在閨房 ; 另有一說為昔日女子不宜拋頭露面,女子只能從屋頂上看風景,也因此鹿港建築大部分都砌有女兒牆,為避免安全之虞。〔後掲維基百科/不見天街〕

「不天見」で見えないのは天だけではなく,大地と女性もそうであるという。
 大地は分かるけれど,女とは──一繋がりの建物の中には相当数の「風俗」も含まれていて,そういう意味での治安も悪く,女子は普通に地階を歩けない,ということらしい。維基は,女性は天井から外を見るだけだったと書くけれど──

鹿港「不見天街」(今中山路)中段街頂一景──屋根裏の光景〔後掲文化部國家文化記憶庫〕

 次の文化部記述では,女性の一階からの外出は禁じられていたとあります。

上舖平磚的「街路亭」是較堅固的一種作法,可供行人行走其上,中間並可見到開有方形的天窗以利底下街道的採光。據說往昔社會保守婦女不許輕易出門,常利用「不見天街」的「街路亭」頂上做為聚會場所〔後掲文化部國家文化記憶庫〕

下部に日本語の記述がある鹿港不見天

──屋上階屋根の「街路亭」は不見天の不文律の一つで,通行人らの上に,方形の天窓を設けて底下(一階)の街道に採光するようになっていた。──
 つまり,この採光窓の脇が結果的に天井上の通路として使われたらしいのです。
──女性は常に「不見天街」の「街路亭」を利用して,屋根裏を集会場所にしていた。──
鹿港不見天の上に立つ背広姿
なる「暗黒街」でなく,天井裏の光の当たる世界が一種のアジールになっていたようなニュアンスで,文化部は語ります。
 となると?本稿他章で考えてきたように地上の道やブロックを炙り出す作業は,この旧・不見天エリアでは意味を失う可能性があるのです。
 なお,この家屋の複数結合建造物・不見天が今の鹿港にないのは,「暴君」が破壊したからです。
 台中州知事・竹下豐次さんです。時は1933(昭和8)年。

日人引進西方觀點的都市計劃,以改善居家衛生環境為理由,在昭和八年(一九三三年)由台中州知事竹下豐次指令鹿港實施市區改正,強制拆除不見天街及兩旁商家第一進建築,昭和九年十月將原本約四公尺街區拓寬為十五公尺道路〔後掲隨意窩〕

 その手法は……
──見天街と両側の商家の第一進(戸口側一部屋分)の建築を強制破壊し,昭和9年10月に元は(幅)約4mだった道を拡げて15m道路にした。──
 という記述を信じるならば,新しい道を造ったのではなく,従来の不見天内部を走っていたアーケード街を,これに面した,日本家屋で言えば玄関のたたき(土間)部分を強制徴用し,その上の天井を除去して道にした訳です。
 この跡は,地籍図に見事に残っています。

地籍図〔順興段地號367号〕

鹿港城隍廟地籍図〔後掲國家文化資產網〕

隍廟(灰色)のブロックの南北(上下)の道に沿って,両脇に小さく分筆された筆が並んでいます。筆の分割ラインはキレイに揃っている。竹下さんの強権により物差しで分割されたからです。対して,この分筆分以外の部分の道が,不見天時代の道筋ということになりますけど,竹下さんの物差しよりは湾曲している。洪さんの言うほど真っ直ぐじゃない。
 こういう推測が成り立つということは,逆に,現存の道が不天見時代と,幅は違ってもラインは同じだということを確認できたことになります。
 また,そう考えるなら,北東の筆内にあるほぼ揃った筆の分かれ目のラインは,日帝が道として採用しなかったために,不天見時代の道のまま残った状態である可能性があります。
 なお,城隍廟北西側には,個別の土地利用には細過ぎる筆がある。廟南西の道向こうがこの地籍図では省略されていますけれど,現代の地図及び次に見る(南靖宮)地籍図から考えるに,南靖宮側へ抜ける道です。これも日帝強制徴用のなかった,つまり不見天時代より前の道だと推測できます。
上記地籍図(城隍廟)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶(推定)旧道ライン
   赤線∶(符合用)道ライン
   青矢印∶宮敷地南東縁ライン

の方向はキレイに,北東から南西方向へ揃っています。
 ただ細かく見ると,道を挟んだ両側の筆の切れ目が微かにズレているものがある。これも旧来からの道だったからでしょう。
 もう一つ,現・城隍廟の北東には,やや大きな,大体このエリアの他筆の二倍の筆があります。城隍廟の元の敷地だった,と考えるのが最も自然です。それが正しいなら,城隍廟敷地が先ず在って,その後で不見天構造に飲み込まれたことになります。
 城隍廟の方が不見天より古いわけです。

各論三 鹿港南靖宮

に見た鹿港藝文館(下記リンク参照)を併設する宮が,新祖宮東側,城隍廟南側に建つ南靖宮です。

 南靖宮は「人群廟」の一つとされています。──2章前(下記リンク参照)で触れたその定義を再整理すると──

①when∶大陸を原鄉とする一群の移民が台湾へ到達した時期に建てた。
②how∶同一群が共同して建てた。
③why∶同一群の移民後の連携のため。(同一群の「同鄉会館」施設を兼ねるため。)〔後掲文化部iCulture/鹿港興安宮〕

鹿港お堂の分類法

 鹿港に60余箇所あると言われる廟を,5分類した隨意窩記述がありました。その一つが「人群廟」と記されます。

【A】閤港廟
 ∶地域・角頭※※・族群を横断した民衆の祀る廟。
 ※「該廟並曾由八郊商戶倡議修建」──八郊の商業資本の提案で改修されるケースが多い。
※※角頭∶自治会長≒小地域暴力団組長。鹿港の場合,30余の角頭を数えるとされる。 参照→■用語集:台湾黒社会

 ∋龍山寺,⑤天后宮②城隍廟,文昌祠,武廟,地藏王廟,威靈廟(大將爺廟),福德祠 等
【B】角頭廟
∶各角頭の主祀する神明会の母体となる廟
 ※多くの場合,王爺廟
 ∋文德宮,集英宮,武澤宮,護安宮 等
【C】人群廟
∶同一祖籍(≒出身地)の一群が信仰する廟
 ∋④三山國王廟by潮州人
{前々章}興安宮by興化人
③南靖宮by南靖人
  ※南靖人∶漳州南靖県
【D】宗族廟
 ∶同姓・同宗族の信仰廟
 ∋錢江真如殿by錢江施姓
 ∋潯海樹德堂by潯海施姓
 ∋郭厝保安宮by郭姓 等
【E】其他(官立)
 ∋敕建天后宮(新祖宮)
  水師會館(金門館)
〔後掲隨意窩/鹿港廟宇分類〕

 なぜ潮州・興化・漳州の移民集団だけが着到時に宮を建てたのか,それは移民集団の属性・共通性・規模・宗教熱・社会階層や時期,移民先の状況,経済的ガバナンス度合いなどによって異なってきます。だから前々章で述べたのとは別の理由で,この三祖籍群が先に鹿港に着いたとは短絡するのは危うい。間二進一院(入口一つ,奥へ二空間,院一つ)。主神は関聖帝君,奥に伏魔大帝。正殿両側に関平太子と周倉将軍,他に文魁星君,謝府元帥,馬爺公と赤兔馬。
 1783(乾隆48)年創建。いわゆる「廈商」(厦門商人)の基地となるも19Cの漳州人の彰化移転以後廃れる。現宮は大部分が1971(民国60)年改修された建物。〔後掲國家文化資產網/鹿港南靖宮〕

18C初∶廈商の港の光景

 廈商基地だった創建時の情景を臺灣宗教文化資產はこう記します。

於是這些「廈商」有意為關聖帝君集資興建廟宇,故於清乾隆48年(西元1783年)以廈郊名義在當時廟前為船筏碇泊之所,舊稱「港墘」的埔頭街現址興建南靖宮。〔後掲臺灣宗教文化資產/鹿港南靖宮〕

──(第二段〜)1783(乾隆48)年,廈郊の名義で当時の廟前に船や筏を碇泊した場所を,古くは「港墘」と呼んだ。これが埔頭街の興建南靖宮(の位置)である。──
 似たような漳州系と思われる※祠に鹿港北頭奉天宮(蘇府大二三王爺開基祖廟)というのがあります。鹿港天后宮から約3百m北西(→GM.∶地点。※∵後掲高雄三保宮のルーツ)。1684(康熙23)年に「鄭名の和尚」が海で魚を捕ろうと手繰った網に一塊の異樣な木片がかかり……という由緒がある。〔後掲文化資源地理資訊系統/奉天宮〕
 この両者の間の河岸沿いに漳州人の姿が溢れていたとすれば,現在の鹿港中心部のほとんどは漳州人又は厦商の港だったことになります。

漳州人退去後も南靖宮は残った

 19Cの漳州人移転を同國家文化資產網は次のように記します。

而在清乾隆道光年間,漳州人因與泉州人相爭失勢而退往八卦山一帶的山區,昔日南靖商賈逐漸消失在鹿港活躍的商圈中。〔後掲國家文化資產網/鹿港南靖宮〕

──清乾隆・道光年間(1736〜1850年),漳州人は泉州人の騒乱(械門)により勢いを失い,八卦山(彰化)一帯の山間部に撤退したので,昔日の南靖商人たちも次第に,鹿港商圏から姿を消した。──
 しかしです。それならば,なぜその敵の御本尊・南靖宮は破壊されずに現存するのでしょうか?
 同じ情景を臺灣宗教文化資產はこう書きます。

鹿港有三座以原鄉移民為信仰性質的「人群廟」,南靖宮為其中一座,雖以前專屬福建漳州府南靖縣移民的信仰,但於清乾隆至道光年間,臺灣漳、泉、閩客族群間為爭奪地盤而械鬥頻傳,因不敵人數眾多的泉州人,使居住於此的①漳州人與客家人被迫遷移他處,而南靖宮也由②泉州地方仕紳接管③喪失人群廟性質,成為埔頭街附近居民祭拜的「角頭廟」。〔後掲臺灣宗教文化資產/鹿港南靖宮,下線丸付数字は引用者〕

 新たな見解(下線部)のみ特記すると,
①同地域居住者には客家人も多かった。
②泉州地方の「仕紳」(≒名士,有力者)が宮を引き継いだ。
③漳州人の人群廟から,埔頭街附近の居民の角頭廟へ性質を転じた。
 宮の修復工事史を見ると,1840年(厦商)→1969年(個人+他宮)の二回が主です。

鹿港南靖宮經過多次修整,清嘉慶5年(西元1800年)創建時,由於廟宇的面積太小,導致不敷使用而擴建,並搖身變成壯闊的宮廟。清道光20年(西元1840年)因建築老舊,由廈郊商人捐款重修,之後歷經百年也無修繕,以致廟貌傾頹。民國58年(西元1969年)商人曾吉慶(生卒年不詳)與高雄三保宮分別出資修整前殿和後殿,經過2年完工〔後掲臺灣宗教文化資產/鹿港南靖宮〕

二次大戰後,南靖宮在民國五十八年(1969年)商人曾吉慶出資5萬協助整修後殿,前殿則由高雄三保宮出資約十多萬元整修,相關業務則由歐陽捷擔任代理總務處理。〔後掲Word Synonyms API〕

 商人「曾吉慶」という人は全く謎の人物。仕方ないので高雄三保宮を追うと,鹿港三保宮を(おそらく泉州人とも械門を逃れ)高雄に退避させた宮で──

三保宮在鼓山眾多移民廟宇中是屬於比較少見的鹿港移民,而其舊廟※從建廟至今也有66年的歷史。戰後因高雄重工業發達,移居高雄的鹿港鄉親事業有成,也以三保宮為號召捐獻很多器物給故鄉的廟宇。〔後掲一步就出走 ※鹿港三保宮〕

──三保宮は鼓山に数多ある移民廟の中でも珍しい鹿港からの移民のもの。その古廟は建設から66年の歷史を持つ。戦後,戰高雄の重工業が発達した後,高雄へ移転した鹿港人が三保宮など故郷の廟への多量の寄附を行った。──
 記述から「漳泉械門」の色彩が相当丹念に除かれているので逆に分かりにくい。ただ,推定として成り立つのは①なぜか泉州角頭が引き継ぎ「角頭廟」に転じ,かつ②鹿港外の再移民先からの資金流入があったために,相当絶妙なところで壊されずに済んできたものらしいのです。

地籍図〔文開段祠369号〕

靖宮の地籍図もまた興味深い。
 東(南)側には現・鹿港芸文館の広い筆。西(北)側は,筆の流れが南北とも東西とも断定し辛い不規則な筆で,その間に細道がやたらに走ってます。

鹿港南靖宮地籍図〔後掲國家文化資產網〕

鹿港芸文館は2010年改修後の名称で,その前は鹿港老人会館。さらにそれ以前は「鹿港公会堂」と呼ばれる建物で1928(昭和3)年竣工〔後掲まちかど逍遥〕。さらにさらに前は不詳で,厦商会館が機能を失ってから廃屋の時代が1世紀ほどあった可能性があります。
 ただ,筆はそのまま一筆です。筆の形の揃い方からして,南靖宮と一体的に運用されてきたのでしょう。
 南北の細長い筆を先述「不見天」と見るならば,南靖宮+鹿港芸文館の方形は,それに半ば飲み込まれつつも分筆も破壊もされずに原型を驚くべき精度で留めていると観測できます。
上記地籍図(南靖宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶推定旧道ライン
   赤線∶(符合用)道ライン
   青矢印∶宮敷地と類似隣接地の四方の縁ライン

各論四 鹿港三山國王廟

山国王廟は,本稿で当たっている廟群の中では南東にやや外れた場所です。
「人群廟」の残る一つで,1737(乾隆2)年に潮州客家移民団が創建したと伝わる。現在の位置は少し北に移動したもので,元の廟は中山路と民権街の交差点付近に,東北から西南に向き建っていたとされます。〔後掲國家文化資產網/鹿港三山國王廟〕
 つまり,南靖宮同様に港の,おそらく荷揚げ場に向いていた。

鹿港三山国王廟香爐。文字の書いてある面の画像はどうしても見つからない。

 さて,この廟に特異なのは,械門により元の創始集団が追い落とされた痕跡が残っていることです。

清嘉慶4年(1799)曾將三山國王廟改名為「三仙國王廟」,正殿前方有一隻石製香爐,其上有落款「嘉慶四年梅月置,三仙國王弟子王合成叩謝」等字樣,説明了潮州客家人在鹿港勢力的消長。〔後掲後掲國家文化資產網/鹿港三山國王廟〕

──1799(嘉慶4)年,三山國王廟は「三仙國王廟」と改名させられた。正殿前方に一基の石製香爐が有り,その上に刻印(落款)がある。──
──「嘉慶四年梅月に置かる,三仙國王の弟子,王らは叩謝することと合い成る」などの文字があり,潮州客家人の鹿港での勢力の推移を説明している。──
……実ははっきりとした説明力には欠けるように感じますけど,確かに,潮州伝統の「三山」名でなく勝者・泉州裔が付した殊更に屈辱的な新名・「三仙國王」と呼んで,「叩謝」(頭を叩きつけるように感謝・謝意を示す)したというのだから,含意は「降服」でしょう。

地籍図〔順興段616号〕

山国王の地籍図には,補助線を引くまでもありません。
 廟そのものが不見天,つまり北東→南西方向の長い筆の列に飲み込まれています。
 元々潮州客家が廟を置いた中山路と民権街の交差点というのは,図中央ブロックの最下部の角です。その痕跡もありません。

鹿港三山國王廟地籍図〔後掲國家文化資產網〕

だし,南東面が細かい筆になっているのが目に付きます。
 南西面の細かい筆は,先述のように日帝時代に第一進を道にしたものでしょう。でも南東面はそうではない。不見天の一部だったのならば,北東→南西の細長い筆だったはずで,分割する理由がありません。
現・三山国王廟ブロック南東面(民権路沿い)の細長い区画

図で確認できるように,この南東面サイコロ状筆の列は道ではなく,家屋の連なりです。
 日帝統治期の特殊事情による可能性もありますけど,元々の廟の位置から北東の列に当たることを考えると,不見天以前の筆割りの痕跡のようにも見えるのです。 

各論五 鹿港天后宮

てさて,ようやく本命にして見逃してる天后宮です。
 國定古蹟。國家文化資產網は「具高度歷史,藝術或科學價值」──高度な歴史・芸術・科学の価値を具える,とまで書く。また,「表現各時代營造技術流派特色者」──各時代の建造技術と流派の特性を表現している──ということは,ここまで見た械門による宮子の移転による断絶も見られないらしい。〔後掲國家文化資產網/鹿港天后宮〕
 1683(康熙22)年に施琅が台湾上陸した際に湄洲から開基媽祖神像を持ってきたのが公式の創始とされるけれど,古地名「船仔頭」というのが現・三條巷付近に書かれており,ここにそれ以前から媽祖が祀られていたと推定されています。
 媽祖像は台湾最古とする見解もある。

鹿港天后宮の本尊媽祖

格的な建造開始は1709(康熙48)年。士紳(名士)施世榜という人が10年をかけて竣工しました。けれど,1725(雍正3)年に現在の場所に移転している。つまり施さんの原・建造宮は数年しか用いられなかった。──この時に何があったのか,史料は語りません。
 勅建天后宮が築かれると「舊祖宮」──旧媽祖宮というニュアンスに改称されます。この時にも何かの思惑が働いていることは間違いないけれど,この点もよく分かりません。
併設博物館の媽祖従神・順風耳と千里眼の面。近世の大人しい媽祖従神と異なる魔性を宿す。

 なお,文化財指定は先述の國定古蹟部分と縣(市)定古蹟部分とに分かれています。この分割もどういう背景があるのか不明です。
 ただ,結果的に途絶することなく運営されてきた媽祖宮です。
 三進(奥へ三空間)両廊(二本回廊)型式。三川殿だけで五開間(五部屋)の豪勢さで,正殿は閩南重簷歇山式という伝統建築。

地籍図〔中山路430号〕

鹿港天后宮地籍図〔後掲國家文化資產網〕

鹿港天后宮の地籍は他よりさらに堂々たるものです。
 西に倒れた台形地。これは西の港湾部からの放射線状の道の間を宮地にしたためでしょう。つまり創建当初の筆の方向が東西なのです。
 この台形の南側が中山路ですけど,北側は玉順里という路地になっています。GM.上は東西には通じていないけれど,相当古い路地道です。西側は事実上,宮の参道になっている。
玉順里(東側,GM.アース)

形の北東部には,東西方向に細長い筆が重なります。他は南北方向ですから,東西のは不見天の拡大以前の,西にあったはずの港,おそらく元の宮があった三条巷付近を起点とする筆だと想像できます。
 台形北西部には,南北の筆だけれど途中が奇妙に歪んだ筆のエリアがあります。昔の路地の跡に見えます。
 それに対し,特に台形の南側の中山路沿いには南北方向の筆が並ぶ。これは不見天の痕跡でしょう。つまりこの辺りまで不見天街は広がって,天后宮に接続するところまで伸びたけれど,それが結果として不見天以前の東西方向の筆を残す形になった。
上記地籍図(天后宮)に補助線を引いたもの
凡例 茶線∶推定旧道ライン
   黄線∶(符合用)現道ライン
   青矢印∶宮敷地の横倒し台形の脚イメージ

総論零 不見天の広がりと三媽祖廟の位置

上5廟の位置関係は,これらを順にGM.経路に落としたものを上に掲げたのでご確認ください。
 では,鹿港の地図上に以上5地籍図を配置してみましょう。

5地籍図の地図上への単純貼付け

西→南東の方向に中山路がほぼ真っ直ぐに1km足らず走り,これを背骨として両側に肋骨のように,北東↔南西方向に筆が伸びています。
 ただ,背骨の中山路の直線に対し,肋骨の筆の方向は緩く放射線を成しています。河岸に直行するラインだから,と想定できますから,まず肋骨が形成された後に背骨が出来たと考えられます。
 肋骨の中でも,城隍廟と南靖宮がほぼ連なり,この間に道があることから考えて,両廟を結ぶラインが構造上の中心軸です。この軸が埔頭街にぶつかる地点,つまり南靖宮南西正面が河岸港湾施設の中心だったはずです。
 そうすると,以上の骨格の二次元的範囲は北東↔南西方向の筆の分布から想定できます。これに肉をつければ不見天街の範囲を推測したのが次の図になります。
北東(北北東)⇔南西(南南西)向き筆のエリアを網掛

筆した赤丸と青丸は,筆の方向を表しています。
 紫のラインは,「埔頭街」の名称と,南靖宮前に「港墘」があったとの伝えから河岸線を推測したものです。
 この巨大な構造物が鹿港の町そのものでもあり,かつ泉州裔の拠点でもあったわけです。例えば三山国王廟のように,非泉州系の拠点はその位置を不見天の構造物に物理的に組み入れることで「征服」していった。鹿港天后宮についてもそれを試みた形跡がありますけど,これは不十分に終わっている。同じく南靖宮については中心軸に当たるために,泉州裔主体の集会施設として上書きする形を採ったのでしょう。
 けれど,それにしては形状が歪です。特に西側は拡張がうまく進まなかったように見えます。
上図北西部拡大(新祖宮付近)

西半市街地の不見天化が進まなかった理由として推定できるのは,別の法則による市街が既に形成されてしまっていたから,と考えるのが自然だと思います。
 一つは,前代の(三条巷)港湾を中心に形成されてしまっていた(旧)天后宮付近。このエリアは,外縁部の一部した不見天化できていない。たまたまなのか,港湾方向が東西で,不見天を構成する筆の南北方向に直行するためにうまく接続できなかったのでしょう。
 もう一つは,(新)勅建天后宮。清統治側は,建設当時の不見天西側外縁に大きな筆を設けて国有化した。これが障壁となって,無法地帯・不見天は新祖宮より西には拡張できなくなった。──これも,鹿港の無法化に楔を打ち込もうとした統治側の故意があったのか,あるいは単なる偶然なのかは定かでありません。
 媽祖宮は,鹿港の都市形成上,秩序維持目的の歯止めとして働いているようです。
 興安宮は市街地から外れて無視されたけれど,新祖宮は壁となり,天后宮には取り込みをかけたけれど不十分に終わった……ということになります。

補足∶鹿港街鎮發展圖

記の補足として痞客邦からの図を二点掲げます。記事は,樵客という先生の学校教材のようです。

「鹿港海岸變遷圖」鹿港の海岸線の変遷図〔後掲痞客邦/百年鹿港滄桑〕

鹿港の海岸線は,この図によると18C末には鹿港を洗っていたことになります。
 最古の港と推測される三条巷から(旧)天后宮の西で,鹿港渓が作る大きな湾曲がそのまま港になっていた。その港の,(新∶勅建)天后宮から城隍廟の南西が入口部,興安宮付近が最奥部になります。
 その上で注目したいのが次の図です。
「鹿港街鎮發展圖」鹿港の街区の発展図〔後掲痞客邦/百年鹿港滄桑〕
凡例 緑点∶早期(17C?)
   黄点∶中期(18C?)
   赤点∶全盛期(19C?)
   水色線∶早期の河岸ライン

→黃→赤と街区が発展してきたという図です。
 赤点がほぼ面のようになっているエリアは,上記総論での推定とほぼ重なります。またその赤の面が勅建天后宮辺りで柔らかに断絶している様子も再確認できます──というだけで済ませられない附随要素を,この図はさらに示してくれます。

総論壱 鹿港市街地の時系列的起点

点は配置から考えて,その後,赤点(≒不見天)に喰われてしまったと考えられます。エリアとしては,やや河岸に近いというだけでほぼ重なります。
 問題は,緑点(早期)が黄・赤点に比べあまりにも偏在していることです。面を成すだけの人口がなかった,というだけとは思えない。
 集中点は,
①興安宮から北側地区
②(旧)天后宮から西側地区
 それとやや小規模ながら,
③民族路と同108巷の交差点付近
の3つに大別できます。
 興安宮や天后宮,奉天宮などの由緒から考えると,①は興化人(甫田人),②は漳州人の集住地区だった可能性がある。とするならば,現存の宮が見つからない③も何れかの出身地別集落があったかもしれない。
 もう一つ,本稿では最終的に細長い筆の方向に注視しましたけど……②の点の形状です。

上図拡大(天后宮付近)

「凹」字?
 緑・黃・赤の色それぞれに逆凹のドットが多数あります。この形状は本稿での地籍図には見当たらない。ドットをどう描いたのか把握してないので,それ以上追求しにくいのですけど,時代を通じて,不見天とは別の力が働いているらしい。

総論弐 不見天を造った力は何か?

こでそもそもの,最大の問題点を考えてみます。
 不見天構造物は,何のために造られたのか?
 建造主体は泉州裔の集団で,目的は他出身地の集団に対する勢力維持でしょう。でもそれが巨大構造物を構築するという手法を採ったのはなぜでしょう。
 香港の旧・九龍城を考えると,既存のアパートが自然に無法地帯化したと考えるのが分かりやすい。
 けれど,現・中山路の位置に背骨──構造物の内部で人と物を流通させるおおむね直線の通路を築くのは,自然発生ではありえません。泉州裔の上層部が早い時点で計画的に設置していないと,それは敷設し得ない。後から「穴」をくり抜いたとは思えません。

(再掲)下部に日本語の記述がある鹿港不見天

の点は,いくら考えても分からない。現物が失われている現在,考える素材も少ないのですけど──

不見天の維持管理とその限界

山路の設置はともかく,この構造は相当継続的なの努力がなければ維持できないことはすぐに分かります。

由於鹿港五福街為販賣自碼頭區進口的貨物,商品種類繁多,各有特色,為讓來此消費的買客避免受到炎陽、雷雨及冬季九降風的侵襲,街道兩旁的商家共同搭起亭蓋遮棚,中間開有天窗採光,而下雨時雨水沿著亭頂順流排入落水管〔後掲Wikiwand/不見天街〕

──(後方3段)街道の両側の商家は共同で建物を築き道に蓋をし,中間に採光用の天窓を設け,雨天時の雨水をスムーズに排水管に流し込むようにした。──

道を跨いだ家屋を連結させる橋
〔後掲隨意窩/鹿港老照片〕
うした努力を住民が継続していたのだとすれば,当然,そもそもの不見天の構築も,近隣住民同士が自発的に互いの家屋を結合させていったことも考えられるのです。
 華僑のコロマンデル建築を考えると,漢族は家屋個別の区画を分離したがるような印象があるのですけど,鹿港では,あるいは台湾では何か事情が違っていたのでしょうか?
 また,「旧き善き不見天を日帝が理不尽にも破壊した」という台湾人の感性上分かりやすい説明も,完全に正確ではないらしい。

但是裡面卻不見天日,藏污納垢百餘年,老鼠與蟑螂、跳蚤、蚊蠅、臭蟲孳生。日本時代終於爆發鼠疫。〔後掲自由評論網〕

──しかし,内部が天を見ないままでいるうち,百余年の汚れや垢が溜まり,イエネズミやゴキブリ,蚤,蚊や蠅その他の虫が涌くようになった。日本時代ひは終いに「鼠疫」が爆発した。──
「鼠疫」は一般的にペストを指します。次の事実からも,間違いないはずです。

内務省伝染病研究所技手より台湾総督府防疫医官となり,ペストの防疫事務に従事した倉岡彦助が執筆した『台湾ニ於ケルペストノ流行学的研究』(一九二〇年)によれば,台湾へのペスト病毒侵襲経路は五次に分類される。第一次は,明治二九(一八九六)年に厦門地方より安平街に侵人し,同年五月より流行を始め,「南部二於ケル禍根」となったもの,第二次は同年九月厦門地方より淡水港を経由して台北市街に入り,「北部二於ケル流行ノ源泉」となったもの,第三次は翌(一八九七)年厦門地方より鹿港に侵人して「中部流行ノ素因」を作ったもの,第四次は大正三(一九一四)年対岸地方より侵人し,同年七月から八月にかけて,台北大稲埕において流行を来したもの,第五次は大正五(一九一六)年七月初旬に対岸福州地方より淡水街を襲ったもの,である。〔後掲鈴木2022〕

 ここで鹿港を中心としてペストが拡大したとされる1897(明治30)年から,竹下さんが不見天に空の見える道を通した1933(昭和8)年まで35年以上あるのですから,倉岡レポートに基づく家屋撤去と竹下さんのは直接関係がない。だから前掲自由評論網が言うように,ペスト流行に対応して日帝がエキセントリックに対応した,という訳ではなく,おそらく統治側の日本は地元の説得にたっぷり時間をかけています。その間,衛生環境はさらに悪くなったでしょう。
 いずれにせよ不見天は,建設二百年余で破綻したと考えるのが妥当でしょう。少なくとも現代レベルの無理矢理なビル環境衛生の技術がなければ,半永久的な人間の住処として環境を維持するには無理がある構造でした。
 なればこそ,先の疑問は膨れ上がります。なぜそんな無理な居住環境を造らねばならなかったのか?

不見天の精神分析

州裔たちも怖かった」のでは?というのが,簡単に言うと推定するところです。
 最終的な勝者・泉州裔は,鹿港に他地域から先住していた漢族を,他にない苛烈さで追い立てています。笨港のように町の半分にとか,川向こうにとかではない。直近でも10km東の彰化へ,遠くは島の反対側・宜蘭まで「駆逐」している。
 実際にも,械門の一部として,あるいは清代内乱時の一景として,鹿港を奪還に来た非泉州勢力がいたのではないでしょうか。
 それがなければ,通常は他家屋と融合部を設けるとは思えない華僑系の中国人たちの心性が,これほど互いに融合した居住区を形成する方向に向き,それを必死で維持しようとするとは思えないのです。
 繰り返される械門とその結果,勝者にはより巨大に棲み着く強迫観念──というマイナス感情の連鎖が不見天を造る,ほとんど精神分析的な力になっていたとすれば,三次に渡って──草創期,発展期,最盛期に重ねて造られた媽祖宮は,プラスの,明知にして単純なビジョンを海民の裔に呈し続けてきたのではないでしょうか。
 鹿港史の明暗は,かくも鮮烈なイメージを放つのです。

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m3鹿巷総合(勅建天后周辺域)」への3件のフィードバック

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