m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m4-2【特記】沖縄集落空間構造 (ニライF69)

■特記1■沖縄伝統集落の空間構造の概念図〔南城市教委〕

念半島の歴史を見るにあたり,南城市教育委員会文化課作成資料が大変参考になり,また触発される所も多かった。
 大組織ではないと思うけれど,これだけの重い文化財と史料を咀嚼して町づくりビジョンにまで概念化している力技にも惚れ惚れします。
 その一つの結露として,集落構造の概念化を試みたものがありました〔後掲南城市教委2011 第二章(3)3) 文化遺産分布の空間イメージ(例示)〕。旅行者の実体験から読む限り,南城市域のみならず,少なくとも沖縄中南部全般に一般化できるように思えたので,紹介してみたいと思います。
 ただし,一層の概念化のため,記述は次の3カテゴリーに並び替えました。

【A】居住圏∶南城市図中の集落域相当
【B】生業圏∶同畑地及び海相当
【C】自然圏∶同崖地・森林地及び石灰岩堤,グスク

南城市における集落を核とした空間構造の特徴を整理し、どのように文化遺産が分布しているのかをイメージしておきたい。次頁では、南城市に特徴的に見出せる、①台地・斜面状の集落構造と、②海岸低地の集落構造をイメージ化した図面を添付し、それぞれの特徴と分布状況を略述している。
また、南城市の歴史文化の鍵となるグスクについても同様に空間構造を概念化する(③)。 〔後掲南城市教委2011〕

①台地・斜面上の集落構造

台地・斜面上の集落構造と文化遺産分布〔南城市教育委員会「南城市 歴史文化基本構想・保存活用計画 報告書」第2章3)文化遺産分布の空間イメージ(例示)① 〕
台地・斜面上の集落構造と文化遺産分布〔南城市教育委員会「南城市 歴史文化基本構想・保存活用計画 報告書」第2章3)文化遺産分布の空間イメージ(例示)① 〕
(全体構造)
・石灰岩台地上に集落が立地し、集落を抱護する森林(腰当の森)、畑地が隣接する。
・台地上に立地するため見晴らしがよい。
【A】居住圏
・集落域には集落道、古民家(旧家)、石垣や石畳、並木・巨木、拝所、樋川・井戸、石獅子、土帝君、広場・馬場などが分布する。
・区画が不規則である集落が多く、小道(スージ)が発達している。古琉球からの古い形を残していると考えられる。
・国道などの幹線が集落域を貫通するまたは隣接することが多い。
【B】生業圏
・畑地には印部石などが分布する。
【C】自然圏
・森林地には御嶽や井泉などが分布する。またグスクが立地する場合がある。
・森林地では墓地が増えている。

ずかしいことに,ここまで印部石について理解してませんでした。学習史料を直下に展開させておきます。
 ①は,過去に大きなグスク(住民を內部に住まわせるような)が存在せず,しても有事にのみ山間に移動して籠城する類のグスクを伴うけれど,平地部の多くは居住・生活空間であるような場合です。
 小勢力が争うのが状態だった沖縄中南部の集落の基本形は,こんな感じに設定すると最も整合性があるように思います。
 この居住域の主要部が(一旦)自然に,多くの場合は森に飲まれてしまう推移がよく発生した。その後の状態が③だと考えます。丸付き数字順を逆転し,これを先に見ます。
 さらに,近世以降の特異形として,①の台地上集落が海浜に設置される例③が生じました。これは完全に佐敷ですけど,海上勢力が集結しある程度の厚みを持った状況で,死守する砦ではなくあくまで縦深陣地の核のような位置です。
 内地人,特にワシら瀬戸内海の旅行者が誤認し易いのは,③を基本形に見てしまうこと。沖縄中南部人にとって,③はあくまで特異な政経環境下での①の変化です。



型的な集落として,前回訪れた糸満市真栄里があります。ただし,これは恩納以北の北部・山原については通じない印象です。



お,これに対して山原の伝統集落には御嶽のゾーンが存在しない。御嶽はあるけれど背後に自然圏を持たない。宗教的に言えばイベがないのです。
 自然と人間が二元的でない,対立していないというのでしょうか。これは感覚的には中城のテラでの印象に通じます。

古宇利島の七森七嶽と(神)アサギの分布〔後掲松井〕※原典 今帰仁村歴史資料準備室1992

③グスクの空間構造

グスクの空間構造と文化遺産分布〔南城市教育委員会「南城市 歴史文化基本構想・保存活用計画 報告書」第2章3)文化遺産分布の空間イメージ(例示)③ 〕
(全体構造)
・石灰岩台地上の森林地などにグスクが立地し、石垣などで砦が築かれている。2 千平方㍍以上の大型グスクは複数の郭を持ち、中心となる郭には石門、正殿跡や庭、倉庫などの遺構が残されている。
・大型グスク周辺には、按司(城主)がグスクに移る以前の古いグスク(小型グスク)や物見や出城として増築された新しいグスクも分布する。台地上に立地するため、見晴らしがよい。
・按司(城主)やその家族の墓(御墓)や関連する史跡が拝所として分布する。
【A】居住圏
・隣接する集落には集落祭祀の中核となるノロ殿内や根屋、御嶽・拝所が立地する。ノロ殿内では集落祭祀だけでなく、複数集落や間切単位の祭祀も行われる。
グスク時代以後は、グスク内部や近隣に間切番所が設置され、グスクの立地した集落が地方行政の中心村となる場合が多い。そのためグスク周辺には宿道などの歴史的な幹線道路が通過する。
【B】生業圏 -
【C】自然圏
・グスクは本来、御嶽や集落だった場所が城塞化したとの説もあり、それに関連するように御嶽や集落跡がグスク内に分布する例もある。
・グスク内部及び周辺には御嶽・拝所、樋川・井戸が分布しており、グスク時代以降は拝所として拝まれるようになる。
・グスク内部や丘陵の洞穴に沖縄戦で利用された砲台や壕跡が残され、戦争遺跡としての傷跡が確認できる場合がある。

業圏相当の記述がないのは,省略されていると見ていいでしょう。この図の場合だと,居住圏の南側に畑地か,場合によっては漁業圏としての海があるはずです。
 下線(引用者)部のとおり,このタイプのグスク部は,古くは集落だったものが何らかの要因で棄てられて自然(多くは森)に飲まれたケースです。だから,記述にあるように道や宗教施設の配置は,このグスク部が居住圏だった時代を想像すれば合理的になっている場合が多い。
 南部の大里や南山もこれに相当しますけど,最も典型的なのが今帰仁城です。山原の中ですけど南部の植民集落だったここは,現・今泊集落が古くは山手斜面にあったところを,おそらく政策的に低地に追いやられ,今帰仁グスクのエリアと今は森になった斜面を介して繋がっています。

②海岸低地の集落構造

海岸低地の集落構造と文化遺産分布〔南城市教育委員会「南城市 歴史文化基本構想・保存活用計画 報告書」第2章3)文化遺産分布の空間イメージ(例示)② 〕
(全体構造)
・沿岸の低地に集落が立地し、集落の後方に腰当の森が、前方に畑地が隣接し、さらに前方に海岸が広がる。
【A】居住圏
・集落域には集落道、古民家(旧家)、石垣や石畳、並木・巨木、拝所、樋川・井戸、石獅子、土帝君、広場・馬場などが分布する。
・区画が規則的なところが比較的多い。
・離島集落もこの分類に含まれる。
【B】生業圏
・畑地には印部石などが分布する。①に比べると畑地の規模が大きい。
・海にはイノー(礁湖)が広がり、海岸では特徴的な植物群落などを形成する。
【C】自然圏
・森林地には御嶽や井泉などが分布する。グスクが立地する場合がある。
・森林地では墓地が増えている。

住圏の区画が規則的なのは,グスクが機能した時代にそこに住んだのが海民で,畑地や,もしかすると居住圏自体を持たず,海上に居住したからでしょう。
 グスクの配置は沖縄伝統の①の形を踏襲しつつ,海を居住圏とする沖縄型の海民「集落」の形態が,以上の発展形を想定することで理解できます。
 ただこの場合,拝所が少ないので通常の沖縄中南部の集落より判別がつきにくい。趣旨的にその多くが,航海安全の拝所だろうと推定されます。

敷の場合,その一つにして,後代最高権威を持ったのが,斎場御嶽だったろうと考えます。
 下の年表を見ても分かりますけど,斎場御嶽への王子行啓が定例化するのは薩摩侵攻後と捉えられます。斎場御嶽を経て久高島へ琉球国王が巡幸した(と伝えられる)のは,琉球水軍が奄美・喜界島や八重山を圧していた,つまり斎場御嶽に実質の航海安全の霊力が求められた時代でしょう。守護すべき水軍が存在しなくなった薩摩支配下で,逆に斎場御嶽信仰はかつての華々しい島外征伐時代の記憶をなぞるだけのものに儀礼化され,それ故に定例になり,記録にも残るようになった。
 その時代にはもう,佐敷のような③型の沖縄海浜集落は形成されなくなります。琉球に寄る海民が存在しなくなったからです。

斎場御嶽の歴史年表(~薩摩侵攻)〔後掲南城市第2章4表 2-1〕
斎場御嶽の歴史年表(薩摩侵攻~)〔後掲南城市第2章4表 2-1〕

■特記2■戦前の斎場御嶽の状況

論として,斎場御嶽は薩摩侵攻後に儀礼化し,琉球処分後には機能を停止していました。元々民衆のための宗教施設でなかっただけに,そうなると荒廃に歯止めがかかることはありませんでした。
 沖縄の場合,民衆の拝所なら,善意を持つ特定の人が生きがいのようにその拝所を浄めている事例を多く見ます。斎場御嶽の次のような状況を見る時,それもなかったように思えるのです。

(再掲)斎場御嶽の文化財指定に係る(上)1955年琉球政府指定地と(下)1972(昭和47)年日本政府指定地〔後掲南城市教委2018〕

1955年天然記念物指定〔琉球政府〕

本軍が斎場御嶽にウローカー砲台を置いた時,「そこにだけは置かないで!」という沖縄県人からの反対は,だから特に記録されていません。
 斎場御嶽は,現・文化財保護法下では1972(昭和47)年5月15日に史跡指定されています(特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準史跡の部第三(その他祭祀信仰に関する遺跡))。琉球本土復帰当日です。つまり琉球政府の文化財保護法の指定から間断なく接続されたものです。
 これに対し,御嶽の文化財指定そのものの「非神道性」(前章斎場御嶽神社化計画参照)から文化財と見做されなかった戦前文化財行政の影響か,琉球政府による指定は文化財保護法(1954年6月制定)から半年後の第二グループでのものです。

文化財保護委員会告示 第 2 号
文化財保護委員会は、文化財保護法(1954 年立法第 7 号)第 39 条の規定に基づき、史跡、名勝、天然記念物を次のとおり指定する。
齋場御嶽
一、種別 史跡、名勝
二、指定年月日 一九五五年一月七日
三、所在地 知念村久手堅、サヤハ原、長堂原
四、管理者 知念村
五、指定理由
当おたけは開びゃく神降臨の地として島内第一の霊場である。中山世鑑に(略)以上によって斉場おたけが琉球開びゃくの霊地である事が解る。琉球国由来記によると、おたけの御神体は左の通りである。
一、御前ヨリミチ(寄満)
一、御前サノコウリ(三庫理)
一、御前キョウノハナ (頂鼻)
一、御前大コウリ(大庫理)
一、御前シキヨダユル雨ガ美水(ヌービー)
一、御前雨ダユルアシカ美水

琉球政府による天然記念物指定地図〔後掲南城市教委2018 図2-14〕※原典:斎場御嶽整備事業報告書

昔は国王親しく毎年二月、八月此所で天神地祗を祀られたが、後祭壇を設けて久高島へ遥拝された。又琉球最高の女神官、聞得大君の就任に当たっては御新下りと言って、この霊地で行われた。その時は首里王府より百官を従えて参詣するし、各間切の祝女、捌吏も奉迎に参集し斉場一帯は賑わったという。儀式は真夜中厳粛に行われ、久高のろ、及各間切のろが「あがりゆう」のおもろを奏したということである。此儀式には男子は一切入場禁止で最近まで境内に入る時は左柾にして入った。以上により此おたけが天地の始めに出来た由緒ある霊地で、国王及聞得大君の尊信の地であり、又住民が「東巡」と言って信仰の最高峰である理由によって指定した。
六、保存要件
明治三十年頃迄は樹木が鬱蒼として、昼でも尚暗く神々しかったが土地整理後樹木濫筏されて現在では禿山になっている。それで一日も早く復旧し植樹する必要がある。
七、指定地域に関する事項
(1)サヤハ原二五四番、 一一,八一〇坪
(2)長堂原二五五ノ一原一、 三,四五二坪
(3)合計 一五,二六二坪
以上は村当局了解の上、一九五六年一月卅日標柱を建てた。
〔後掲南城市2018〕※下線は引用者

たけの御神体」六柱の順序が面白い。三庫理が二番手で,寄満が筆頭に来ています。上記指定図も自然には寄満を中央に置いているように見えます。
 また,1955年上記指定段階で,斎場御嶽は「禿山」だったことが明記されており,それを復旧するための植樹が指定の理由の一つだったようです。この書き方は,誰かが植樹の必要性を陳情した形跡が感じられますけど,南城市の次の記述からは,住民による炭材料としての樹木伐採が行われたことが窺えます。

 戦後、荒廃した沖縄全体においては、日常生活用の薪炭を得るための伐採が続けられ、斎場御嶽においても、薪木の採集が続いたようである。昭和 30(1955)年の琉球政府による史跡・名称指定の文書には、「明治三十年頃迄は樹木が鬱蒼として、昼でも尚暗く神々しかったが土地整理後樹木濫筏されて現在では禿山になっている。それで一日も早く復旧し植樹する必要がある。」とある。その後、知念村によりモクマオウ・ソウシジュ・フクギ等の植樹や、地域住民や失業対策事業等での清掃作業が実施された。
 昭和 47(1972)年、沖縄の本士復帰とともに斎場御嶽は国史跡に指定された。戦後数十年を経て放置されたままであった参道は、所々が損壊し、戦争による岩塊や野鳥が落とした種による樹木が参道を遮るなど、通行にも支障をきたしている状況であった。〔後掲南城市第2章4戦後~現在〕

ね「失業対策事業等」で清掃が行われたことが窺えます。その清掃前には「戦後数十年を経て放置されたままであった参道は(略)通行にも支障をきたしている状況」だった訳ですから,斎場御嶽は復帰前には植樹のみで拝所としての機能は停止していたと見ていい。復帰後に相当年数を経て,それも行政主導の新雇用先として,いわば「再興」された拝所だと捉えるのが順当と考えられます。

第二次世界大戦後の斎場御嶽の様子(昭和21〔1946〕年2月22日、米軍撮影) (出典:国土地理院ウェブサイト 地図空中写真閲覧サービス)〔後掲南城市教委2018〕

シキヨダユルアマガヌビーとアマダユルアシカヌビー

柱の神体中にある「御前シキヨダユル雨ガ美水(ヌービー)及び御前雨ダユルアシカ美水」とは,いわゆる三角岩より現ルート上手前にある祭祀場所に垂れた鍾乳石の名前です。

鍾乳石はそれぞれ御前として位置づけられており、後方が「シキヨダユルアマガヌビー」、前方が「アマダユルアシカヌビー」と呼称され、いずれも聖なる植物を潤す霊水の意。真下には、積みまわした石壇の上に白い壷が据え置かれており、鍾乳石から滴り落ちる水を受ける。壺中の水の多少により、聞得大君や中城御殿(国王の世子)の吉兆を占うとされている。
発掘調査では、壷と受け石の周辺からは 4 種類の陶磁片が検出された。出土した陶磁器は、全て壷形であり、口縁部から底部まで図上復元の可能な、中国製白磁壷が得られた。台石については、琉球石灰岩製と硬質砂岩製の 2 種類が確認されている。〔後掲南城市2018,第2章5(1)表2-2表側「シキヨダユルアマガヌビー アマダユルアシカヌビー」〕

まり前章での埋蔵文化財たる中国製白磁はここで発見されたものです。これは,その流量での吉凶占いの伝承もあり,普通に想像すると,二つの鍾乳石が垂らす霊力を有する聖水を受け取るための器でしょう。そこに,当時琉球王朝が保有した最も高価な器が用いられたと考えられます。
 これに対し,三庫理の向こうのいわゆる「久高島遙拝所」からの出土は,ない。
 ということは,斎場御嶽が久高島を遙拝する聖地である,という観光用に分かりやすい説明は,虚偽ではなくてもやや性格の薄いものだと考えた方がいいように思います。
 前章で結論したように琉球水軍の船旅の安全を祈願した場所だとした場合,斎場御嶽は入出港する水軍から仰ぎ見る場所ではあったけれども,斎場御嶽から見るのは久高島水域を出入りする水軍であって,久高島そのものではなかったように思えるのです。

シキヨダユルアマガヌビー アマダユルアシカヌビー

浦添・英祖王朝も久高島を崇拝した〔南城市〕

章では佐敷・尚巴志以降の歴史が斎場御嶽を国家祭祀の場とした,つまり「まず佐敷があって斎場御嶽あり」の立場をとりました。
 けれども,首里の王朝以前に,浦添城から久高島を拝んでいたとする記述もあります。それが事実ならば,佐敷出身の尚氏に関わりなく久高島や斎場御嶽が崇拝されてきた可能性が否定できなくなります。出典や,具体に誰がどう拝んだかは記述されていませんが,併記します。

英祖王統の居城と伝えられる浦添城跡の東端、「上の山」のさらに 100m 先には、「分かれ岩」とも「為朝岩」とも呼ばれる巨岩がある。その岩と、上の山を結ぶ延長線上にあるのが久高島である。冬至の日には、その島から朝日の昇る様を見ることが出来る。また、その本島側には与那原の浜が見える。ここも、古来より綾子浜・雪の浜(すばらしい、白砂の浜ほどの意で、尊ばれている表現)とたたえられ、ニライ・カナイの聖域空間との関連が深い聖地であった。このように、久高島と与那原の浜は、浦添に王府があった頃より王権祭祀の場として崇められ、大切にされていた聖地であった。しかし、第一尚氏が佐敷間切より興ると、その場は「ソコニヤ嶽」(佐敷・知念の間切境界に位置する)と斎場御嶽に移っていったと考えられる。〔後掲南城市2018〕

氏以前の信仰という点について,つまり南城市は,久高島は佐敷尚氏より前から拝まれたが,斎場御嶽は佐敷尚氏以降である,つまり両者の信仰には時間差があるという立場をとっています。

大正 4~5 年撮影の斎場御嶽(南よりチョウノハナの石灰岩を望む)〔後掲南城市2018第2章4琉球処分~第二次世界大戦 写真 2-8 〕

大正15年斎場御嶽調査メモ〔鎌倉芳太郎〕

倉芳太郎「沖縄文化の遺宝」(昭和57年)には,大正15年6月27日に同氏が訪問した際のノートが掲載されています。南城市2018はこの全文を箇所別に色分けして掲載しているので,これに従い【場所】別の記載を挟んで引用します。

〇 神嶽近ヅクニ従ヒテ森厳ノ気溢レ、四周各所ニ尖剣ノ如キ岩石突兀トシテ峙チ、鍾乳石水滴ト共ニ垂ルルニ対シテ、コノ尖岩大地ヨリ上天ニ延ビ昇リタル如シ、且ツ往昔ハ古木鬱蒼トシテ茂リ、神ノ居マス霊地トシテ昼猶暗カリキトゾ

昔」は「昼猶暗カリキトゾ」,つまり訪問時には既に斎場御嶽の森は消えかけていたということが推測できます。鎌倉自身の筆も「明治十二年の廃藩置県後は、琉球王国としての国家的信仰は失われ、嶽内の松樹を伐採した頃には、往事の盛観をしのぶよすがもなく自然の荒廃にまかせざるを得ない状態になっていたと思われる」(昭和57年刊行段階)と書きます。これは前述の文化財指定の経緯からの推測とも概ね一致します。

〇【御門口】石壇ニツキテ登レバ、左右ニ石灯籠四五基並ビタリ、【大庫理】松樹ノ間ヲ進メバ「一番グーイ」ニ達ス、ココニ一神殿アリ、中ニ径三尺許リノ霊石ヲ祀リ香炉ヲ置キタリ、コノ「一番グーイ」ノ東方ニ一山丘アリ、コノ東崖ニ「三番グーイ」ハ甚ダ重ンジタル秘境ナレバ、「一番グーイ」ノ拝所ハ、「三番グーイ」ニ行カザルトキ、又「三番グーイ」ニ行クコト能ハザル者ノタメノ遙拝所ナルベシ、古、聞得大君加那志ノ御新下リノ時ニハ、コノ「一番グーイ」ニテ御名付ヲナシタル由ナリ、祝々等モココニ「ユーグムイ」ヲナシタリト云フ

門口に石灯籠が並んだという話は,初見です。
 鎌倉が書く「グーイ」とは,他の文献等に例がない表現です。付番する感じは近代っぽい。鎌倉の案内人はどこから聞いてきたのでしょう。
「ユーグムイ」は通常はお通夜(ユートゥージとも)ですけど,この場合は聖地で行われる「夜籠もり」のことでしょう。それが三庫理でも寄満でもなく大庫理で行われたのは,そこから先が「目的別奥院」だったということでしょうか?

〇【寄満】○「一番グーイ」ヨリ奥ニ進ミ道ヲ左ニ取レバ二三十間ニシテ「二番グーイ」ニ達ス、稍東南ニ向ヒテ岩石ニエグレ、上部ヨリ鍾乳石垂下シ水滴ト共ニ鬼気人ニ逼ル、下部ハ二間ニ四間許リ石ヲ以テ畳ミ神座トセリ、香炉アリ、西北ニ向ヒテ拝礼ヲナス、「オ的」ハ首里王城ニ当レル由伝ヘタリ、香炉ノ左側ニ霊石一個アリ、「ウマグァーイシ」と俗称シ小馬ノ頭骨大ナリ、コノ霊石ガ重クナレバ「ユガフー」軽クナレバ「ガシ」ノ世ト云フ、一種ノ占石ナリ

満から「西北ニ向ヒテ拝礼」するのを,案内人は首里城拝みと解しているけれど,首里を遙拝する,という宗教儀礼はあまり聞かないと思う。また,聞得大君が祈ったのなら彼女は首里から来たわけで,来し方を拝むでしょうか?
 これは同方向のナーワンダーを拝んだように思えます。前章の線で捉えても,寄満の機能はこれに特化していたと考えます。

〇【シキヨダユルアマガヌビー・アマダユルアシカヌビー】「三番グーイ」ハ最モ崇拝セル霊所ニシテ、「一番グーイ」ノ東方ノ山丘ヲ左ニ廻レバ、北方ニハ大岩石凹面ヲナシテエグレ、間ノ鍾乳石垂下シ、二大石ヨリハ水滴絶エズ落下シ、下ニ並ベタル二個ノ小壺「コガネツボ」(今ハ白磁壺ナレドモ往昔ハ黄金製ナリキト云フ)ニ注下ス、壺ハ台石ノ上ニ置カレ、下ハ二坪許リ石ヲ畳ミ神座トナセリ、コノ「コガネツボ」モ落下シ溜ル水量ニヨリテソノ年ノ凶悪ヲ占フ、水ガ溢レルトキハ「ユガフー」水ガ無クナレバ「ガシ」トス、雨続クトモ必ズシモコノ霊水多キトハ限ラズ

白いのは,寄満とチイタイイシ〔二つの鍾乳石の下の呼称。後掲空き地図鑑〕がいずれも占卜の場だ(と伝えられている)という点です。
「ユガフー」は「豊作」の意味ですから,「ガシ」(餓死?)は不作なのでしょう。用例としては,ようやく次のようなものを見つけました。
 日本神話に頻出するような,朝鮮系の卜占の影響も考慮すべきかもしれません。



般として分かるのは,鎌倉がおそらく現地案内人から大正15年に聞いた話と,我々が観光ガイドから現在聞く話は,あまり変わりがなさそうだということです。
のうち,久高島遙拝については「一目シテ明ラカナリ」と鎌倉は書きます。つまりこの部分は,案内人が伝えたものではなく,鎌倉の所見と思われます。客観的には三つの拝所中,一つが見晴らしのきく東を向いていた,というだけにも思えるのです。
 斎場御嶽について,観光客に確信的に語られている情報ですら,かくも頼りない。この御嶽こそ,今は確かな事を誰も知らない場所だと捉えた方が正しいように思うのです。

斎場御嶽周辺に位置する,斎場御嶽に関連する主要な歴史文化資産位置図〔南城市〕

後に,南城市が整理している周辺の文化財のマップを挙げておきます。

斎場御嶽周辺に位置する、斎場御嶽に関連する主要な歴史文化資産位置図(①北西)〔後掲南城市第2章5(2)図2-20〕

場御嶽北半です。安座真城を含め安座真集落に関わる文化財が数点あります。
 この中に,ナーワンダー直下の位置に「ウフジチューの墓」というのがあります。

国道から安座真公民館方向へと続く路地の入口左手にあり、村立てを行った人(門門中の祖と伝わる)の墓といわれています。〔後掲沖縄観光ポータルサイト〕

になる位置です。もしかするとナーワンダー,さらに斎場御嶽も,この人を祀った場所を基にしているのかもしれません。

斎場御嶽周辺に位置する、斎場御嶽に関連する主要な歴史文化資産位置図(②東)〔後掲南城市第2章5(2)図2-20〕

船着場があり,そこから斜面を登って斎場御嶽に至る道が二本交わって続きます。
 この何れかが,往時に斎場御嶽の正面だった可能性もあるのですけど──前章から見てきているとおり,現在誰にも分からなくなっています。しかも米軍の砲撃を受けたので,地形はかなり改変されてます。
斎場御嶽周辺に位置する、斎場御嶽に関連する主要な歴史文化資産位置図(③南西)〔後掲南城市第2章5(2)図2-20〕

上端のY字が斎場御嶽です。
 この配置を見る限り,久手堅の集落内拝所群と捉えた方がいい。この集落の拝所と斎場御嶽はあまり関わりがないように見えます。
 だから周辺集落との繋がりという意味では,安座真がやはり最も濃厚です。往時にあったと伝えられる安座真から斎場御嶽への道,というのだけでも判明すれば少しはこの御嶽も語り始めてくれる気がするのですけど……。
 二章費やしてしまいました。本当に何も分かりません。斎場御嶽はやはり素晴らしい。

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