m19Q@m第三十六波m回天の砦映ゆ海域アジアm〘補填〙福山城外堀跡

山は、ほどほどに歩いてる気でいましたけど、前三章で触れた細かい史跡は全く知りませんでした。なので以下は、町を通る度に立ち寄ってみた際の記録集です。

2023.8.26①:三之丸町

~(m–)m 本編①②の行程 m(–m)~
※福山キャッスルホテル西で、実際は二本目の裏道に入っています。

福山駅(在来線)ホームから見る福山城。鉄っちゃんの間では「城から最も近い駅」と呼ばれる。ただし、ワシは鉄ちゃんではないので興味はない。

914、福山駅新幹線ホームからニューキャッスルH西側を鳥瞰撮影。
 福山の新幹線停車時刻は、なぜか無い時間帯には全然少なくなるので、まず帰路時間をチェックして駅を出る。
福山駅新幹線ホームから福山ニューキャッスルホテル西側を見る。
福山駅新幹線ホームから福山ニューキャッスルホテル西側を見る。

山駅南側改札から迷わず左折西行。0921。
 ダイワロイネットH前に画像付案内板。ほほう、これは面白いぞ!

福山駅が二つあった頃

昭和43年福山駅周辺古写真(上が南)

的地外堀南西角に鉄道駅舎跡がある?
 場所からして鞆鉄道です。つまり広島駅(と広電)、倉敷駅(と水島鉄道)、大坂駅(と阪急梅田)、名古屋駅(と名鉄)みたいに、昔は福山駅は大小二舎あったわけです。
 より面白いのは、福山旧城内に敷地をもらえなかった鞆鉄の線路は、濠を越えられなかったと思われることです。
福山城外堀南西角に「ふくやま」駅?

日の第一目標は、この鞆鉄「福山駅」になります。ただ、鞆鉄の駅として使用された経緯上、やはり痕跡はほとんど望めないのかもしれません。
──何だか寂しそうな情感の締めになったけれど、ワシは断じて鉄ちゃんではないので念の為。
鞆鉄道線は鞆鉄道が福山駅 – 鞆駅間で1913(大正2)年~1954(昭和29)年運行の鉄道路線。 元々軽便鉄道として開通したため、軌間762mmのナローゲージを用いていた。

三之丸町1本目へ

929、ニューキャッスルH(旧福山製紙)三之丸自転車等駐車場前を左折南行。
 次のマップは福山駅前商店会の掲示。その次のは同会のネット地図です。つまりこの時左折した南北ラインが、旧福山城内堀の外縁延長になることがお分かり頂けると思います。

福山ニューキャッスルホテル-エフピコRim間の街路地図
福山駅前西歴史巡りコースマップ(部分)※福山エフピコ及びキャッスル駐車場を引用者追記〔後掲福山駅前商店会〕

堀外縁ラインから西へ、三本の西行路地があります。次の写真は、その一本目(ad.三之丸町10)を一応撮影したもの。正面に福山エフピコが見えてますけど、この敷地が外堀の外縁になります。
福山ニューキャッスルH西側:1本目の路地

本西行路の真ん中の道へ、予定通り右折します。ad.三之丸町11。
 下の画像はその入口から西方向。やはり正面にエフピコが写っています。

三之丸町2本目路地

2本目路地入り口から

際に歩くと確かに、3D地図で見た以上に驚くほど、上下のうねりがある。
 下の写真では、その上下の揺れが目に見えて写っています。
2本目中央部

のうねり部の南北ベルトは、現在は駐車場の境のラインになってるようです。筆の大きさに差別はないようです。
うねりの一番大きな辺りの左右光景

もおそらく間違いない。
 このベルトが、福山城外堀の東縁から、外堀の埋立地へ入る地点だろうと思います。
うねりの下降部辺り

枚前の写真より15mほど進んだだけの画像が上記ですけど、ここからエフピコまでは上下のうねりは消えてます。外堀の埋立地だから、だと考えます。
2本目を東へ振り返って。注意しなければまったく普通の路地です。

0941、エフピコ前地点から東を撮ったのが上記、西を撮ったのが下記です。
 エフピコRIMにぶつかる。
2本目西出口付近

三之丸町3本目路地

フピコ沿いに三本目に入り直す。東行。
 正確には、南の広銀から回り込むような路地になっています。なぜそうなったのか分からないけれど、三本目は完全に外堀中央、つまり外堀埋立地の中央に置かれた道なので、先に歯科その他が建ったか、あるいはそれ以前の鞆鉄福山駅の敷地の影響かなのだと想像します。おそらく後者ではないでしょうか?

広銀を背にして歯科東側へ入るL字道。

わば歯科医院を反時計回りする形です。
 駅前商店会の地図とは少し食い違うけれど、もう一つの可能性として、この三本目の道が外堀の北側石垣のライン上だったとも思われます。
L字。奥が歯科建物。

本目の左右は、路地から僅かにせり上がるような傾斜を持つ筆に挟まれているように感じます。
 けれど他に特徴は感じられません。
L字の先の3本目

直、ダメ元と思って歩いたのですけど、筆の形と上下の道のゆらぎはかなり濠のあった時代を伝えていると思います。
 微傾斜マニアの方には溜まらないかと思いますけど、先へ進みましょう。
3本目路地を西へ振り返って。

2023.8.26②:船町

宮通り西側鳥居近くから福山駅と福山城

天下橋と高知の某橋と

山駅前の車道を越えて東へ。
 宮通り手前の案内板にあったマップは、次のようなものでした。

宮通り西側の街路地図

0時ジャスト。宮通りの赤鳥居からさらに東行。提灯が並ぶ。
 この「宮」とは、その先の福の山神社のことです。
 ここの灰皿は有難いことにまだ残存。一服しつつGM.。
福の山神社から東側の光景

さにこの神社前の斜道が入り川の跡。筆の形が確実に単調です。1012。
 福山では必ず入ってたJOYふなまちのアーケード前で、本日はそちらに入らず左折北行。え?ここの住所が船町1になるのか!!
 何と天下橋薬局というのがある。
「天下橋薬局」

りました!天下橋跡。
──見た目は、どこかの南国の町の某はりまや橋に似てます。某橋は名の通り豪商「播磨屋」が掛けた橋でしたけど、天下橋には特定人物名までは残りません。

内部リンク→m17fm第十七波残波mm下田/7-2 大阪「土佐堀」 高知「はりまや」──土佐材ほか近世土佐発交易品

是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也[高知風土記]

船町と中銀と

天下橋跡。向かい側の路傍にあるのが下記案内プレート

側に旧福山銀行跡という案内プレート。

この附近一帯は、今でも、船町、御船町、入船町といった地名が物語るように、大きな「入江」を形成し、昭和の初年頃までは、海からのぼる多数の帆船と荷揚げで賑い、商店、銀行の多くがここに軒をつらねて、今日の、大福山市商工業発展の中心的役割を果したところである。
 福山銀行は、その後、中国銀行に引継がれ、この店は、今も、「船町の中銀」と愛称されて、多くの市民に親しまれている。〔株式会社中国銀行昭和61年11月建之案内板〕

 これを信ずるなら、昭和、つまり戦前までは福山入り川の水運は生きていたことになるのです。

天下橋跡を北東側から

然、興奮してまいりましたけど……このマニアぶりに皆様は付いてきて頂いているのでしょうか?
 いずれにせよ、福山入り川を下る形で東行。1024。
きたはま通りを東行

文泉堂と石油店と

たはま通り」と愛称が出てる。なるほど、入り川の北岸だから「きたはま」か。
 一角に福山城下明細地図が掲示されてました。現在地(はぶ文泉堂:GM.地点)が記されています。これによると──

「はぶ文泉堂」福山城下明細地図掲示
──のすぐ東が、目的地・舟入のはずです!
 木綿橋は「はぶ文泉堂」のすぐ前でした。ここも「は◯◯や橋」化しております。1029、FirstDental北、はぶ文泉堂南。バス停木綿橋西。
木綿橋跡

的地笠岡町十字路。1032。南東角にセブン、北東すぐにウォンツ。
 迷う。けれどそのまま東行。
土居石油前三叉路

居石油株式会社の前を左折。
 1035、ad.御船町一丁目12。ここのはずです。土居石油まで来ないと、北東-南西の通りの方向が舟入想定地の特異な方向に合致してません。つまり舟入の時代の町割を残すのは土居石油以東と考えられるのです。
御船町一丁目:土居石油西通りと「舟入」想定地マップ

ウォンツのダンサー

土居石油から北への道

幹線が横切る単調な直線。
 ただ、先のエフピコ東ほどじゃないけれど、上下のうねりは少し残ります。
八百屋前の十字路

丁目8の北東角に八百屋。ウォンツ南を右折。鮮魚もとはら。
 ウォンツの大きな筆はごく僅か、写真では撮れない程度に中央が盛り上がってます。加えて、筆の北側ではやや大きい段差がある。50cmほどです。
 入江と船着の段差だと思います。
ウォンツ北側の段差(西側から)
ウォンツ北側の段差(東側から)

食い違い交叉とZ字と

046。ここから東への交差点は東西の道が食い違ってます。
 ad.御船町一丁目3。

ウォンツ北東角の食い違い十字路

行。ここがad.御船町一丁目1!!──町の起点の可能性がある場所です。
 路地に左折。1049。
住宅地図の寺町付近。本当に寺ばかりです。

さな祠。「北向き地蔵尊」とある。
 神妙なお顔。
祠の地蔵様
地蔵のZ字道の屈曲部(西→東)

の路地のZ字も有意な気がするけれど……仮説を思いつけません。
 道のうねりも微妙に不規則です。
地蔵のZ字道の西側出口

バインミーも日本最古の映画館も

ぜかバインミーの店が多い。
──福山市内在住外国人は一万人に達しようとしていますけど、うちベトナム人は35%:35百人。これは10年間で約9倍増のペースという〔後掲福山市,2020年10月末現在〕。
 ただ……どこも売り子がいないから買えず仕舞。

大黒座古写真。上が明治代、下が戦後とある。築122年、日本最古と言われ「シネマの天使」(2015)という映画にもなった映画館。→参照:cinefil

端に、笠岡町の大黒座の歴史展示。
 なぜここに、日本最古の映画館※が営業したのでしょう?

※「日本最古の映画館」は新潟県上越市本町六丁目「高田世界館」も名乗る。1911(明治44)年開業、国の登録有形文化財、経済産業省認定 近代化産業遺産に指定。ただし当初は芝居小屋スタートしてます〔メイジノオト/日本最古級の映画館「高田世界館」が放つ普遍的な美に魅了される〕。日本初の映画常設館としては、1903年浅草六区に開館した電気館と言われます〔アイエム[インターネットミュージアム]/日本の映画館〕。要するに、定義によって色々見方はあれ、福山の「日本一古い映画館」はあまり通説ではないようです。
広島銀行福山支店跡の恵比寿像

2024.3.14:御船町(旧・笠岡町)

山駅で自転車を借り、ad.御船町一丁目4、原古美術前へ。
 0956「城下の道しるべ」。

笠岡町に道標

東面「左九州道」

九州道」の面。下部は「尾のみち」だけが読めます。

 この石柱は九州と上方を結ぶ街道の道しるべとして1860年(萬延元年)に建設されたものです。当時、このあたりの道はかぎの手に曲がっていたため、旅人はこの道しるべをたよりに往来しました。
 戦後、戦災復興に伴う区画整理事業により付近の道筋は様変わりし、道しるべも取り除かれ、市役所西側に移設されましたが、かつての笠岡街道をしのぶものとして1982年(昭和57年)、再び笠岡町(現御船町)に戻されたものです。本来、現在の位置よりやや北側に位置していました。〔2013年福山市教委案内板〕

南面「右……道」

……道」の間の文字は読めません。
西面「……九月……」

面は、「九月」の文字は読めるから、おそらく建立日付でしょう。
北面「×治人」

るもう一面は建立者名だと思う。
「×治人」とあるけど、やはり読めません。
 東南東へ。
 おべんとう稲毛屋(いなもや)。一つ目、くるみ保育園の向こうを左折。1013。

保育園先屈曲

1014くるみ保育園先屈曲

北東から東行、東北東へと屈曲。不思議な屈曲です。
 両側に側溝、左側は石積あるも新しい。家屋は通常。1018。
1017くるみ保育園先屈曲の東側

い違い十字。この北東角からがad.寺町8でした。
 御船北公園が見えてきたようです。
1019食い違い十字から御船北公園

三角形の御船北公園

所は御船町二丁目1。
 やはり二丁目の起点になってる可能性がある場所です。

1023三角地の公園

角地。──そもそもこの形が疑問だったんですけど、行ってもそれは分かりませんでした。
 西が尖り、その際に石仏。横に昭和36年と建立記述。
公園最西端の石仏

脇に、隠れるような石仏がある。これが元の仏様でしょうか。
 古い。1025。
石仏右脇下の古仏

北に寺。GM.では最善寺とあります。
 1035、一応は本日の出張先・福山合庁に到着。
 ちなみについでのトリビア。福山駅前レンタサイクルは、この行きで使えただけではありません。駅から1.5kmの合庁から、故あって帰路は業務終了15分後の新幹線に飛び乗れました。
(再掲)よしあきくんと打倒コロナよしあきくん