福山は、ほどほどに歩いてる気でいましたけど、前三章で触れた細かい史跡は全く知りませんでした。なので以下は、町を通る度に立ち寄ってみた際の記録集です。
目録
2023.8.26①:三之丸町
※福山キャッスルホテル西で、実際は二本目の裏道に入っています。
〇914、福山駅新幹線ホームからニューキャッスルH西側を鳥瞰撮影。
福山の新幹線停車時刻は、なぜか無い時間帯には全然少なくなるので、まず帰路時間をチェックして駅を出る。
福山駅南側改札から迷わず左折西行。0921。
ダイワロイネットH前に画像付案内板。ほほう、これは面白いぞ!
福山駅が二つあった頃
目的地外堀南西角に鉄道駅舎跡がある?
場所からして鞆鉄道です。つまり広島駅(と広電)、倉敷駅(と水島鉄道)、大坂駅(と阪急梅田)、名古屋駅(と名鉄)みたいに、昔は福山駅は大小二舎あったわけです。
より面白いのは、福山旧城内に敷地をもらえなかった鞆鉄の線路は、濠を越えられなかったと思われることです。
今日の第一目標は、この鞆鉄「福山駅」になります。ただ、鞆鉄の駅として使用された経緯上、やはり痕跡はほとんど望めないのかもしれません。
──何だか寂しそうな情感の締めになったけれど、ワシは断じて鉄ちゃんではないので念の為。
三之丸町1本目へ
〇929、ニューキャッスルH(旧福山製紙)三之丸自転車等駐車場前を左折南行。
次のマップは福山駅前商店会の掲示。その次のは同会のネット地図です。つまりこの時左折した南北ラインが、旧福山城内堀の外縁延長になることがお分かり頂けると思います。
内堀外縁ラインから西へ、三本の西行路地があります。次の写真は、その一本目(ad.三之丸町10)を一応撮影したもの。正面に福山エフピコが見えてますけど、この敷地が外堀の外縁になります。
三本西行路の真ん中の道へ、予定通り右折します。ad.三之丸町11。
下の画像はその入口から西方向。やはり正面にエフピコが写っています。
三之丸町2本目路地
実際に歩くと確かに、3D地図で見た以上に驚くほど、上下のうねりがある。
下の写真では、その上下の揺れが目に見えて写っています。
このうねり部の南北ベルトは、現在は駐車場の境のラインになってるようです。筆の大きさに差別はないようです。
でもおそらく間違いない。
このベルトが、福山城外堀の東縁から、外堀の埋立地へ入る地点だろうと思います。
二枚前の写真より15mほど進んだだけの画像が上記ですけど、ここからエフピコまでは上下のうねりは消えてます。外堀の埋立地だから、だと考えます。
0〇941、エフピコ前地点から東を撮ったのが上記、西を撮ったのが下記です。
エフピコRIMにぶつかる。
三之丸町3本目路地
エフピコ沿いに三本目に入り直す。東行。
正確には、南の広銀から回り込むような路地になっています。なぜそうなったのか分からないけれど、三本目は完全に外堀中央、つまり外堀埋立地の中央に置かれた道なので、先に歯科その他が建ったか、あるいはそれ以前の鞆鉄福山駅の敷地の影響かなのだと想像します。おそらく後者ではないでしょうか?
謂わば歯科医院を反時計回りする形です。
駅前商店会の地図とは少し食い違うけれど、もう一つの可能性として、この三本目の道が外堀の北側石垣のライン上だったとも思われます。
三本目の左右は、路地から僅かにせり上がるような傾斜を持つ筆に挟まれているように感じます。
けれど他に特徴は感じられません。
正直、ダメ元と思って歩いたのですけど、筆の形と上下の道のゆらぎはかなり濠のあった時代を伝えていると思います。
微傾斜マニアの方には溜まらないかと思いますけど、先へ進みましょう。
2023.8.26②:船町

天下橋と高知の某橋と
福山駅前の車道を越えて東へ。
宮通り手前の案内板にあったマップは、次のようなものでした。
10時ジャスト。宮通りの赤鳥居からさらに東行。提灯が並ぶ。
この「宮」とは、その先の福の山神社のことです。
ここの灰皿は有難いことにまだ残存。一服しつつGM.。
まさにこの神社前の斜道が入り川の跡。筆の形が確実に単調です。1012。
福山では必ず入ってたJOYふなまちのアーケード前で、本日はそちらに入らず左折北行。え?ここの住所が船町1になるのか!!
何と天下橋薬局というのがある。
ありました!天下橋跡。
──見た目は、どこかの南国の町の某はりまや橋に似てます。某橋は名の通り豪商「播磨屋」が掛けた橋でしたけど、天下橋には特定人物名までは残りません。
是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也[高知風土記]
船町と中銀と
北側に旧福山銀行跡という案内プレート。
この附近一帯は、今でも、船町、御船町、入船町といった地名が物語るように、大きな「入江」を形成し、昭和の初年頃までは、海からのぼる多数の帆船と荷揚げで賑い、商店、銀行の多くがここに軒をつらねて、今日の、大福山市商工業発展の中心的役割を果したところである。
福山銀行は、その後、中国銀行に引継がれ、この店は、今も、「船町の中銀」と愛称されて、多くの市民に親しまれている。〔株式会社中国銀行昭和61年11月建之案内板〕
これを信ずるなら、昭和、つまり戦前までは福山入り川の水運は生きていたことになるのです。
俄然、興奮してまいりましたけど……このマニアぶりに皆様は付いてきて頂いているのでしょうか?
いずれにせよ、福山入り川を下る形で東行。1024。
文泉堂と石油店と
「きたはま通り」と愛称が出てる。なるほど、入り川の北岸だから「きたはま」か。
一角に福山城下明細地図が掲示されてました。現在地(はぶ文泉堂:GM.地点)が記されています。これによると──
木綿橋は「はぶ文泉堂」のすぐ前でした。ここも「は◯◯や橋」化しております。1029、FirstDental北、はぶ文泉堂南。バス停木綿橋西。
目的地笠岡町十字路。1032。南東角にセブン、北東すぐにウォンツ。
迷う。けれどそのまま東行。
土居石油株式会社の前を左折。
1035、ad.御船町一丁目12。ここのはずです。土居石油まで来ないと、北東-南西の通りの方向が舟入想定地の特異な方向に合致してません。つまり舟入の時代の町割を残すのは土居石油以東と考えられるのです。
ウォンツのダンサー
新幹線が横切る単調な直線。
ただ、先のエフピコ東ほどじゃないけれど、上下のうねりは少し残ります。
一丁目8の北東角に八百屋。ウォンツ南を右折。鮮魚もとはら。
ウォンツの大きな筆はごく僅か、写真では撮れない程度に中央が盛り上がってます。加えて、筆の北側ではやや大きい段差がある。50cmほどです。
入江と船着の段差だと思います。
食い違い交叉とZ字と
1046。ここから東への交差点は東西の道が食い違ってます。
ad.御船町一丁目3。
北行。ここがad.御船町一丁目1!!──町の起点の可能性がある場所です。
路地に左折。1049。
小さな祠。「北向き地蔵尊」とある。
神妙なお顔。
この路地のZ字も有意な気がするけれど……仮説を思いつけません。
道のうねりも微妙に不規則です。
バインミーも日本最古の映画館も
なぜかバインミーの店が多い。
──福山市内在住外国人は一万人に達しようとしていますけど、うちベトナム人は35%:35百人。これは10年間で約9倍増のペースという〔後掲福山市,2020年10月末現在〕。
ただ……どこも売り子がいないから買えず仕舞。
道端に、笠岡町の大黒座の歴史展示。
なぜここに、日本最古の映画館※が営業したのでしょう?

2024.3.14:御船町(旧・笠岡町)
福山駅で自転車を借り、ad.御船町一丁目4、原古美術前へ。
0956「城下の道しるべ」。
笠岡町に道標
「左九州道」の面。下部は「尾のみち」だけが読めます。
この石柱は九州と上方を結ぶ街道の道しるべとして1860年(萬延元年)に建設されたものです。当時、このあたりの道はかぎの手に曲がっていたため、旅人はこの道しるべをたよりに往来しました。
戦後、戦災復興に伴う区画整理事業により付近の道筋は様変わりし、道しるべも取り除かれ、市役所西側に移設されましたが、かつての笠岡街道をしのぶものとして1982年(昭和57年)、再び笠岡町(現御船町)に戻されたものです。本来、現在の位置よりやや北側に位置していました。〔2013年福山市教委案内板〕
「右……道」の間の文字は読めません。
裏面は、「九月」の文字は読めるから、おそらく建立日付でしょう。
残るもう一面は建立者名だと思う。
「×治人」とあるけど、やはり読めません。
東南東へ。
おべんとう稲毛屋(いなもや)。一つ目、くるみ保育園の向こうを左折。1013。
保育園先屈曲
北北東から東行、東北東へと屈曲。不思議な屈曲です。
両側に側溝、左側は石積あるも新しい。家屋は通常。1018。
食い違い十字。この北東角からがad.寺町8でした。
御船北公園が見えてきたようです。
三角形の御船北公園
住所は御船町二丁目1。
やはり二丁目の起点になってる可能性がある場所です。
三角地。──そもそもこの形が疑問だったんですけど、行ってもそれは分かりませんでした。
西が尖り、その際に石仏。横に昭和36年と建立記述。
左脇に、隠れるような石仏がある。これが元の仏様でしょうか。
古い。1025。
真北に寺。GM.では最善寺とあります。
1035、一応は本日の出張先・福山合庁に到着。
ちなみについでのトリビア。福山駅前レンタサイクルは、この行きで使えただけではありません。駅から1.5kmの合庁から、故あって帰路は業務終了15分後の新幹線に飛び乗れました。