目録
一番→二番湾曲路
1437、一番集落のU字へ戻る。三叉路北東の家屋には中二階の名残あり。──よく指摘される割には、もうそれほど多く残ってるわけではないようです。
1441、二番への湾曲へ。
湾曲は、「せどわ」には珍しく等高線に従順に沿って伸びてます。ただ地図をよく見るだけでも分かりますけど、実際は上二枚の写真のようにジグザグです。
おそらく単に平地部の縁に家が二重に並んだ結果、自然に出来た湾曲路なのでしょう。
配置上建て増しや改築が難しいのか、この辺りにも中二階の頻度は高い。
1443。途中の海側が公園になってます。
上記地図でもはっきり確認できますけど、一番と二番の分かりやすい分界点がここらしい。
──ただし……この隙間を歩いて抜けると、ちょっと叱られそうだなあ。さっきの細路地で、住民の目は結構鋭い感を受けたし、そのまま素直に湾曲を進むことに。
方向は南から西へ。
山手に廃屋撤去地がありました。
その敷地は当然ながら見事な扇形。しかもそこに、中途で段がついてます。
上記住宅地図を見返すと、特に湾曲西側の山手は、筆の形がやや不整形です。現在湾曲の左右にある二重の家屋ラインは、過去にはこの段に沿って三重だった可能性があるように思われます。
とすると他より小さい。経済的にやや苦しい世帯が山際に高密度で住んだエリアが、後にニ列目と三列目を合筆して現在形を成しているのではないでしょうか?
二番北側湾曲路最奥
二番北側湾曲路の最奥に至る。1449。
予想と違いY字に別れてました。ただ左はすぐ行き止まり。右には「避難路」と書かれるんだけど、そこから先は集落がなく、上には墓地が見えてます。火災などの際に山に逃げる「避難路」なんでしょか?
1452、折り返す。
二番西道横断路
Y字右手の古い家屋は、地階の構造を残すようにも見えます。──今写真を再確認しても、ギリギリそうとも見えるけれど、単なる敷地の段差にも見え、断じ難い。
1456、二番西道への横断路へ右折──とメモしてるけれど、おそらく私道か家屋の隙間だったのでしょう。
ここに、台形の円柱が2つ道を挟む。字が見えるけど読めません。推定皆目能わず。
──阿多編で碇石を勉強してみましたけれど(→m17e@m第十七波余波mm阿多再創造【特論1】/海中碇石の考古学事始め ▼展開)……環型の碇〔後掲當眞〕とも違うようです。
やはり分かりません。
二番中央にはしっかりとした水路がありました。方向からして北と南の二番メインルートに並走してます。つまり基本構造の一部と思われますから、集落が出来る前に2本の路地とその間の水路が計画的に配置された可能性が高い。──この計画性は、「せどわ」全体を通じてこの構造が最も顕著でした。
でも、それにしては2本の路地を橋渡しする道に欠けるのです。
この横断路も道としては途切れてる。1459、家の間を抜けて南側路地へようやく出れました。
二番奥もまた聖地じゃない
右折西行、二番西奥へ。
やや高台に行く手の敷地が見えてきました。一番になかった斜面です。──三番にもこんな傾斜はありませんでした。
S字にくねった道の先に共同井戸。
文字は見あたりません。
材質はコンクリートっぽいから、補修して最近まで使ってきた感じです。1503。
南側路地にも石積みのガッチリした水路。やや荒いけれど切込接らしい積み方です。
かなり古い。
中央の水路の補助にしては重厚過ぎます。集落設計時の中央のは家が立て込んでくると、不足したのでしょうか?
墓地が道の山手に見えます。どうもこの二番が最も古い集落に思えますけど……そうすると、山手の聖域の手前、つまりこの辺りに普通の集落なら寺か社があるはずなのです。
全く、そういう気配がない。
ここから、他で見なかった階段になりました。1505。
この二番奥は一番奥と同じ感じの横道になって回り込んで途切れてました。
なぜわざわざ回り込ませてあるのでしょう?
1510、折り返す。
どう読み解くか せどわの道
1512。防火水槽の前がZ字にくねってるけれど、材質は新しい。どうも大きな敷地が2つあってこれを避けたものと見えます。
右へ折れて、少し迷ったけど南行。どうせこれは、今日だけでは終われそうにありません。
この路地はえらく脇道が多い。GM.を見ると、ここはもうやはり三番に入りかけてる。
集落毎に雰囲気、だけでなく設計構想のようなものがこれだけ違うのです。
さてさてこれは……どう読み解けるものやら。
1517直進。
ひょこし ほらんきゃ へっちん
1521、車道に出ました。道が迷路だからというより……沖縄の御嶽に入った時の感覚です。集落が抱える真黒な謎に、何か疲れがどっと出ました。
バス停付近に自販機を見つけ、思わず炭酸イッキ飲み。
その場にあった「牛深ハイヤちゃんマップ」→PDF には、一番の奥手に「御番所井戸」と記されていました!あの井戸(→前掲)。
さらに「ひょこし町」「ほらんきゃ町」「へっちん町」なる三筋の謎の名前が記載されてます。一番〜三番集落に相当するのかと最初は思ったけれど、どうも通りの名らしい。路地が簡略化されすぎてて比定しにくいけれど、二番から三番にかけての海への道を指すのでしょうか。→次章巻末:「牛深「せどわ」の通り名称」に詳述
何と!その先にヤマサキショップ!なぜここで営業してる?
この浦の港は行政上は牛深漁港。綺麗に整備され、海岸線は駐車場化してます。
心配だった帰路のバスの時間を確認。それまで南側を歩いてみます。
初めて牛深で見た神様
なぜかバス停より南はごく普通の港際の集落です。道も極めてシンプル。
地区としては「加世浦」と呼ぶらしい。家は皆新しい。経済力に差があるのてしょうか。
この手前山手に、初めて祠を見ました。15mほど登った位置。
恵比寿像と水神と書かれた方柱。
恵比寿は手に魚を持ち、そのモチーフからも材質からも新しい。酒の供えあり。
今日見た限り、一番の秀月寺というのは見当たらない。過去には久玉町の正光寺というのもあったらしいけど──いずれにせよ、なぜこんなに宗教施設が少ないのでしょうか?
──後に、牛窓八幡と久玉八幡という宮が例祭をやっていることが分かりました。でも前者は西の須口(古い海女の集落)、後者は北の新・久玉の方で、牛深中心集落を避けてでもいるかのようです。
それと、今日見た限りは中国系の臭いは毛頭しません。家屋からはもう読みときにくいけれど、道の筋立てからも、例えば上海と少し違う。構造的には海からの道が出来、これに沿って家が立ち、溢れたらそれに垂直あるいは外延弧を継ぎ足して道にした形です。水路も通っていて、中国のように無軌道に建った家の隙間が道になった風には、二番南側の道以外は見えませんでした。
あえて言えば漳州の龍眼营で、あそことは確かに似てます。
よってハイヤ!みてハイヤ!
1603、本渡BC行きバス乗車。出直すネタも掴めてないけどとにかく3時間で燃え尽きてしまった。
いわゆる「せどわ」以外はどうだろう?帰路、西の須口や東の久玉をもう一度沖縄X(航空写真チェック)してみたけれど……どうにもよすががありません。
明日、出直すとしても、どう攻めれば今日以上に歩けるんでしょう?
バスは本渡の中心まで行くようでしたので、宿付近を乗り過ごす形でそちらに降りてみました。
1742。南川プロムナードという長崎中島川に似た石橋の通り。古いとは思えないけれど、まあ良くできてます。観光的には美しい。
「拉麺ハイヤ!」というラーメン屋。「ファイヤーラーメン」に掛けてるんだろか……? ちなみに売り文句は「よってハイヤ!みてハイヤ!」。

■レポ②:鶴田地図の中の「せどわ」
この牛深行きからの帰路、熊本県立図書館で「天草潮深のふるさと」という書籍を見かけました。著者の鶴田文史さんは現在の天草では郷土史家の第一人者的立場の方らしく、最近天草の体系的な総合調査を行った関西大学の論文群にも名を連ねられています。
※ 鶴田文史(八州城),牛窓歴史文化遺産の会「天草潮深のふるさと」(有)天草民報社出版部,2007
本レポは、この書籍に掲載されていた「旧牛窓村の屋号名所在図」という図について考えたものです。
作成手法は、鶴田さんが、牛窓八幡宮の勘化帳(寄付金名簿)を中心とする10件その他記名の江戸後期当時の屋号名※163を抽出し、これを古老の記憶などから地図に落としたものです。同著書に一次データの詳細は記録されています。
こんなことまでやった研究は、あまり見たことがありません。前掲の山下さん※も「古記録が極端に少ない当地では」と繰り返しており、牛深には直接的な一次史料がほとんど残っていないのは本当らしい。だから鶴田さんも、他では考えられない、点と点を拾い集めるような作業をされたものと思えます。
※(前掲)山下義満「牛深港の『みなとの文化』」
「直接的」と書いたのは、5W1Hが明確な史料のみが一次史料ではないということです。鶴田さんが集めた単なる人名も、位置と時点、つまり時空情報を加えて集合させれば何事かを語りうる。数字の羅列も会計的順序が分かれば事象を再現できます。広島長崎の原爆投下直下や沖縄の激戦地みたいに土地自体が吹き飛んでいなければ、本当の意味で「一次史料」が消えることはないと思うのです。
薩摩編で何度も指摘してる愚痴ですけど、この極端な史料欠如こそ理由あってのものと推測できます。ただ、そこに躓くことなく、鶴田地図の中身に入っていきましょう。
鶴田地図から読める一次雑感
正直、鶴田さんが何を目的として、あるいはどんなビジョンでこの図を作成されたのか分かりません。ただ、いくつかの不均衡さを指摘できる地図です。まず、以下それを3点列挙してみます。
1 所在不明が過多
「所在不明のもの」が83、全体の半数近くある。――――ここまで徹底的に同様の手法で他地を調べた事例がないから比較対象はないけれど、これは感覚的に相当に多いと感じます。没落して屋号が無くなり、現在では忘れられたものはあるだろうけれど、それが半数にのぼるというのは──銀主と呼ばれる少数の成金が恨まれた天草の一般的状況からは、どうもかけ離れている感があります。
2 所在不明のほとんどが1回のみの寄付
所在不明のもののうち、複数回寄付した屋号は2つしかない(嶋屋,甲佐屋)。──所在不明層以外では四半分ほどが複数回寄付しているのと、極めて対照的です。村的状況を考えると、ある寄付金案件が持ち上がった時、経済的に裕福な世帯が半強制的に寄付することになったでしょう。1回きりの寄付が多いということは、所在不明層は裕福な時期が相当に短かったか、あるいは牛深に滞在した時間そのものが短かったか、そのどちらかです。
3 地図上、「せどわ」が空白である。
判明した屋号の家の所在が、加世浦・真浦エリアのみ空白になっている。――――あえて言えば、もっと東の古久玉を含む久玉は書かれていない。寄付対象には久玉側の無量寺もあるのに、です。その意味では西の須口も、八幡宮がすぐの位置なのに地図外です。鶴田さんはこの地図に「旧牛深村の」と冠しているので、その範疇からは久玉・須口を原則省いたとも考えられますけれど、もし相当数の屋号を見つけていたら地図の範囲を広げたと考えられます。おそらく久玉・須口に、確認できる屋号は少ないのでしょう。
一次仮説:現在は屋号不明の資産家は「せどわ」居住者だった
上記1と3を総合すると、現在所在が分からない屋号の多くは「せどわ」に位置したのではないか、と仮説を立れば以上の事象と整合します。
1について、他に想定しうる可能性は、宮崎・船津(東・以下略す)・岡の地図上の空白地に立地した屋号が没落して現在はその屋号を失っている場合です。けれど、空白地の面積は「所在不明」の絶対量を吸収するほど大きくはありません。
また、3についての他の可能性は、須口や久玉に所在不明屋号が立地した場合です。この可能性は確かに否定できないけれど、鶴田抽出屋号は一定規模以上の資産家です。江戸期の牛深の産業状況から考えて、それは偏在していた可能性が高い。
久玉については前章で見たように、プレ牛深たる古い形態の集落。また須口は──
(7)須口(すぐち) 海士・海女の素潜り漁を主とし、また小規模漁業基地で漁村集落を色濃く残す。[前掲山下]
──素朴な海民集落の姿を守り続けている感があります。宮崎・船津・岡の間に挟まれた加世浦・真浦と、この2集落は異なる相を持ち、従って資産保有が偏在するならば、それは加世浦・真浦に偏在した、とするのが最もありうるパターンのように思えます。よって当面、前記を一次仮説として進めていきます。
その場合、2から、「せどわ」の資産家は1回きりの寄付が多い、つまり資産家として短命に終わる、資産を持ったまま短期で牛深を離れる、という行動パターンを取ったことになります。
牛深のアースダイバー地図
どうも手触りとして、牛深の各集落は色彩が異なる。
この点は、実は何よりも国土交通行政的には明確です。牛深港は港湾区域と漁港区域(第三種漁港)が重複しており、これは港湾法上は全国でも数少ない形態の港湾です。でもその由来まではよく分からないので、ここではもう少し、つまり実感的又は文化的にかみ砕きます。
山下さんは、船津郷(せどわを含む広義)について次のように書いています。
(1)旧舟津郷(ふなつごう)
地区名として舟津・加世浦(かせうら)・真浦(まうら)よって形成され(ママ)、加世浦・真浦が漁民集落に対し、舟津は商家がその中心である。前者が漁村に良く見られる家屋が密集しているのに対し、舟津はやや大型の家屋の造りであり、屋号を持つ商家が軒を連ねていた。海岸線に沿い石垣と石段が存在する。[前掲山下]
山下さんの言い方の「漁村」と「商家」を、「海民」と「海商」とに言い換えてみましょう。この両者がモザイク状になっている構造は、牛深全体についても言えるのではないかと思います。端的に言えば、前者は移動性が高く、後者は低い。先ほどの推定からすると喜捨を行う蓋然性が高いのは後者でしょうから、鶴田地図にプロットされた屋号配置と概ね整合します。逆に鶴田地図の空白部分が、前者の居住地になります。
要するに、中沢新一的なアースダイバーのイメージをとって模式化すると、次のようになっているのではないでしょうか?
集落中央の巨大な異界
こうイメージするとより際立つのは「せどわ」が、牛深の中心に存する異界である、という事実です。
新旧文化層が重なりあうとき、通常、旧が外側となる同心円を描きます(柳田國男:文化周圏論)。牛深で言えば、須口と久玉が旧い地区であるのは分かる。でも「せどわ」のように経済圏中心部に旧文化が、相当な面積と人口で残存する文化配置は、異常です。
宗教色の異様な薄さも、どうやらこの旧文化の特性らしい。本文にも書いたように牛深で例祭をやっている牛窓八幡と久玉八幡という宮が、牛深集落の東西両端に位置するのは、この「逆周圏構造」によるものと考えられます。
この牛深で課題となるのは、舟津郷に見られていたことであるが、家に神棚が存在せず、また荒神など他の信仰はほとんど確認が困難である。仏教に対して信仰は厚いが、これに対して神宗にはこの熱意がみられない。ある漁民が大漁を念じて、ムラエビスに願いを行ったところ、「オイ(私)に頼む暇 があったら、さっさと海に出ろ」とムラエビスに叱られたという逸話もある。[前掲山下]
牛深における宗教は、江戸期末から昭和にかけての人口爆発期に「一応」造られたもの、あるいは航海民の「風習」に過ぎなくて、それは旧い信仰が廃れたからではなく、むしろ
だから両宮は周縁にある。「せどわ」の寺も、墓の管理者としてのみ機能してるらしい。
では「せどわ」が新海商層の中間地域に残存し続けてきたのはなぜでしょう。
それは、海商の交易活動の中に何らかの重要な形で組み込まれてきたから、としか思えません。安易に想像されやすい、搾取や差別の対象だったとも思えません(エリア的に通常は被差別地域は外になる例が多い。)。表の商業資本・海商と相互依存していた、Win-winの関係だったのでなければ、鶴田地図にプロットされる、つまり一定数の富裕層を生むことはあり得ません。
【19Cm唐の船御嶽】(沖縄,①ジャイアントインパクト(大衝突)+②暴走(的)成長+③寡占成長,(③の反作用)微惑星の惑星形成阻害,NICE MODEL,トロヤ群)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル

凡例(図上、木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群、後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星
物理学のモデルでは、微細な群がその運動や形態によっては系全体を変動させることが明らかにされつつありますけど──そうしたイメージの歴史観は、江戸後期においては誠にすんなりと適用できると捉えています。
例えば、北の海の向こうの長崎では、正規の交易と同規模以上の抜け荷を中国人下層水夫が担い、結果的に長崎公会所の表経済を崩壊させていきました。本稿は既にその点を確認しました。
(会所の)本方商売衰微及ひ■起本■、①第一前書申上■琉球産物と唱、於当地売捌■唐薬種類、②[キキ]工社(唐人水夫)共抜荷密売之品共、③其外町年寄所望品、④(唐人屋敷)部屋附火元番共貰物と相唱■不正ニ粉敷品等
※ 中村質「長崎会所天保改革期の諸問題─鎖国体制崩壊過程の一側面─」『史観』115,p63-93,九州大学学術レポジトリ,1978
原典:通航一覧続辑 第一,321-322頁所収長崎奉行言上書
※ m142m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m唐館(出)/幕末長崎奉行言上書の記す5ルート
「唐人水夫」と所望品を得る「町年寄」「部屋附」「火元番」らの針の穴のような小商い、牛深で言えば宮崎・加世浦と船津・岡の商人エリアの間の「せどわ」海民群、それは太陽系の物理学的関係に例えれば木星と太陽の間のアステロイドベルトのように見えます。
曲がりなりにも「鎖国」下です。表経済だけが回っている現代のイメージで捉えてはいけません。船津の海商側も「漁民が勝手に持ち込んだ」抜け荷は表向き知らないし、「漁民」側はそのリスクと引き換えではあれ時には途方もない巨利を得ることができた。
──といった風な相互依存の関係の一端を担っていたとすれば、新旧文化の縞模様が常識的にはあり得ない経済力を励起させていた可能性がイメージされるのです。そう思えるのですけど──話の飛躍を少し低くとり直し、鶴田地図の実証するところをまとめまして、次々章シリーズ末に向けさらに地味な地理的な検討を重ねていきます。
鶴田地図の語るもの(まとめ)
・「せどわ」は貧民区ではなかった。少なくとも集落を代表して寄付を行う者がいた。
・「せどわ」の世帯は集落の拠出金を連続して負担した世帯は少なかった。彼らの流動性から考えて、それは没落したからではなく、隣接他地より裕福世帯の「回転」が速かったからと考えられる。