
目録
❝二日目❞本渡←→牛深
河浦が見えた30秒
〇707。少し遅れてバスが来ました。
昨日昼と同じ本渡の橋上から、今朝も牛深市民病院行きに乗車。──運ちゃんの顔を確認できないけれど、同じ人だったら不審にしか思えんじゃろな。「こいつ何で毎日このバスで長旅を?」
そりゃそうだろけど、まだ開店してないこの時間にまで……イオン天草SCに寄るのは無駄だと思うど。
曇天。特に南方向の雲はは黒い。
〇804。今日は見逃さずに見れました。
右手西方、河浦の湾入はホントに30秒ほどしか見えない。散村で集落があるようには見えないのだけれど、それだけに中世以前の寄港地としては好地に思えます。船を密かに付けても陸からも海からも見えないのです。
ただ水深はそれほど深くない。世界遺産の崎津までは深いけれど、その東の岬付近の地形が複雑で、それを抜けると浅海になります。中世、この湾に船が入ったとしても漁船か屋形船の規模の小舟だったと推測されます。
なぜ牛深だったのか
ただ、バス道の国道から東へ分岐するこの浦の東山向こう、下天草東岸には深海と浅海という2漁港がある。はっきり対になっている地名です。
河浦に荷を降ろし、陸路で深海・浅海へ運んで熊本へ海路を取る、という運送路はあり得たはずです。特にこのルートなら、深海・浅海沖の天草灘に浮かんだであろう国内航路の千石船に紛れ、出所はもちろん運送品の存在そのものが全く分からなくなる。
以上は、空想です。河浦(古くは河内浦〔角川日本地名大辞典/河浦〕)、深海、浅海ともそんな史料や伝承は見つかりません。手堅く見て、ひなびた漁村だったというのが実情でしょう。
この仮想をとったのは、では江戸中期以降にわかに賑わったのが
牛深は①外海に臨した熊本へのルート上で、かつ②すぐ沖まで深海が近づいています。つまり、中型以上、特に千石船クラスの入港地として選ばれたと推定できるのです。
①②の条件を備えた港として、もう一つ富岡港が該当します。けれどもこちらは③長崎(茂木)に近過ぎる。直線20km、入港船が視認されてしまう距離です。──もちろん富岡も大石家が琉球交易に用い栄えた港ですけれど、幕府方(長崎奉行方)に発見されても問題のない船しか入れなかったでしょう。
牛深は③長崎から程よい距離にありました。以上①②③の要件が求められなければ、牛深がかくも注文されることは考えにくい。これを入港船の性格に言い換えますと──あまり長崎に見つかりたくない中型以上の船舶、それが牛深を選んだ船だったと考えられるのです。
さて本日も牛深集落が見えてきました。
新銀取りさんがやってきた
昨夜の調べで、二日目は「せどわ」の南側の「新銀取り坂」を新しい目標に加えました。
京で流通し始めたばっかりの、まだ牛深では持ってるはずもない通貨(新銀)を持っている女性が新銀取りさんと呼ばれました。新銀取り坂とは、そんな新銀取りさんが黒島沖からやってくる船乗りさんを待ったり見送ったりした坂、であります。
※後掲 東京牛深ハイヤの会: 新銀取り坂
地元ガイドの話によれば、多いときで100艘程度の漁船等であふれていたとか(※旅館の女中・女郎さんたちは、マストの数で漁師の数を数えていたとか)。
新銀とは、漁師(水夫)が持ち込んでくるお金のこと。
※後掲 天草市牛深地域探訪2 新銀取坂 | Green Life.Blue Life
なので初日の牛深港ではなく、バス停・加世浦下車。0834。
「せどわ」を背に南へ。
海岸の道が東へ左折する箇所で、そのまま直進。この辺りはもうアパートと新築家屋ばかりです。ただ路地道は僅かに名残りをとどめるものあり。
銀取坂と銀主万屋と宇良田玄彰と
T字手前に「新銀取坂 登口」の矢印。牛深でこんな分かりよい観光表示は初めてです。それなら「せどわ」にも「一番最奥(行き止まりです)」とか表示があっても……いやそれは嫌だなあ。
矢印に従い右折。
次の十字を……この案内板は直進を指してるのか?限りなく不安だけど……だろうなあ、きっと。直進。
十字が微妙に食い違ってます。側溝はもちろんまっすぐなのに。
こよ不規則さも何かの名残りのはずですけど……読めません。
空き地にしゃがみ、無言で草を取るおばあさん。
おい?おいおい……。凄い山道になっとるけど、ホントにここか?
車道に出た。……上から見ると、確かに前面の樹木がなければ港は見えたでしょうけどね。今はただの山道階段やがな。
裏手はハイヤ大橋の登り口に当たる。そのたもとに更に碑。
0857。「自由民権家 宇良田玄彰碑」。
銀主万屋浦田家に生を受け(略・明治)同十年の西南戦争勃発に際して西郷隆盛および政府に対して『建白』の意見書を提出〔案内板〕
「銀主」というのは、近世天草で富豪のことをそう呼んだようです。「ぎんし」と発音。徳者とも。〔後掲/松坂屋石本家屋敷〕
ハイヤ大橋ではなかった件
玄彰碑がどどんと目立つけど──その少し高み、やや質素に「遠見御番所之碑」。まあ眺めは良いでしょう、雑木さえなけりゃ。
その脇、墓碑が24基も取り巻いて立つ。「八田」姓のもの多し。右手に「安正■六」のように見える期日刻印があるけどそんな元号は……今調べ直しても存在しません。隣にも「丹波」姓の誰かだと書いてある。
一番手前の立派な傘付のものだけ新しい石柱で「大嶋屋娘ヨヰ墓碑」と記されてました。
しかしこれがハイヤ大橋か!豪勢じゃのう!
──と思ったけど……ハイヤ大橋はバス停・牛深港の海彩館上で見たような記憶もあるなあ?
橋道路には「瀬戸脇大橋 1986年3月」のレリーフがありました。──後に調べると、ハイヤ大橋は1997年竣工、瀬戸脇大橋と同じく南の下須島に架橋した上で、瀬戸脇大橋とも空中交差を成す「牛深湾空中ハイウェイ」になってます。
設計は、関空旅客ターミナルビルと同時期にイタリアの建築家レンゾ・ピアノさんがやってる。おそらく関空と同時進行したんでしょう。
総工費122億円〔wiki/ハイヤ大橋〕。──天草市合併成立の2006(平成18)年の最終補正後予算総額が120億円※〔後掲天草市〕。つまり同時期の市予算同額相当を突っ込んで造ってます。※同2023(令和4)年:665億、うち公債費70億
一見して分かるけれど……工法上、かなり無理のある橋らしい。
2021年8月、橋から異音がするという住民の通報があり、熊本県が調査したところ橋脚と橋桁を支える支承の破損が見つかったため、8月27日から全面通行止にして応急工事を行い、自転車と歩行者通行を再開したが、複数の支承の破損が判明したうえに、現地調査を行った国土交通省から「地震などでの横揺れ対策が不十分」と指摘され、工法を見直すことになった。[1][2]。
2021年12月24日、応急工事が完了し車両の通行再開。〔wiki/牛深ハイヤ大橋後掲〕※原典[1] 「牛深ハイヤ大橋」通行止めに関するお知らせ – 熊本県天草広域本部サイト 2021年
[2] 牛深ハイヤ大橋、通行止め続く 長期化必至 産業、観光への影響懸念 – 熊本日日新聞社 2021年10月04日
牛深西方は島多数。これでは初見の船は侵入しにくかったでしょう。
さて。他の道は見当たらない。高台は新興住宅地です。新銀取坂を引き返す。
0927。変則十字を左折北行。すぐ一つ西奥に入って北行。
加世浦南をまったり歩く
この奥も行き止まりばかり。
僅かに水路めいたものもあるにはあるけれど、荒れた畑の脇で朽ちかけてて定かでない。
〇934。途中に共同井戸らしきもの。コンクリートで覆いも新しい。高みの家屋からの階段直下。
0937。やはりこの集落にも、きっちり海への排水路がついてます。
側溝が道沿いだけならば、家並みが立って道が出来てから後に、その道沿いに溝を掘ったと想定する方が合理的な場合もあります。その場合は、家屋群が建った時代にはまだ道や溝が基準線に出来なかったから、家屋の筆が、顕著な場合は道や溝そのものが凸凹になります。揃っていれば基準線があったと疑えます。
上の画像の道は……うーん横凸凹がある言えばあるような、そうでもないような……。
但し上の溝を見ると、これを後から家の隙間に掘ったとは考えにくい。溝が先にあって、家屋の新改築はこれを越えれなかったのでしょう。
0940、ようやく加世浦バス停の公園裏まで帰った。ここからは地図にマーカーを引いた昨日の歩き損ね路地をたどります。ではまず、三番の残り物から。
隙間 側溝 段差
土屋ディーゼル(→GM.)西から北行する路地へ。0942。昨日通った三番の道の西側並行路に当たります。
二本目を左折、すぐに右折。──これらの道はどの地図にも表記はありません。「家の隙間」です。
家の間の側溝はさほど深くなく、コンクリートで新しい。道も横の凸凹が激しく、家屋を無規則に立てた後にその隙間を道や溝に仕立てた感じです。
想像するに──この状態は「せどわ」の生成過程の一つなのでしょう。自由に建てられた家の隙間が道になる。
ただそれ自体は、ここまで典型的なのは珍しいにせよ、日本の漁村や浙江・福建の下町にはよくある形です。牛深の場合、これに一定の計画性が混ざっていて、それが読みを難しくしてるのだと思います。
もちろん行き止まりでした。
行き止まりだけど……凄いY字、というかパティオのような場所に至りました。なぜか猫だらけ。しかも面する家々が、皆玄関を開けてる。つまり完全に私空間の空気です。なので流石に写真は撮れませんでした。
もう一つ、この辺りには不思議な段差があります。傾斜ではなく、敷地自体に段があるようです。
一〜三番の年齢順
〇949、ディーゼル西路まで引き返して北行。
世間話してるおばあ2人が、何気に向ける怪しそうな眼差しを、愛想笑いで誤魔化しつつ通り過ぎる。
あれ?ここも行き止まりのはずだけど雰囲気は……。
〇952、右に折れ、昨日遠らなかった辺りを経て──実際は昨日の南北路を跨いでないとおかしいんですけど、なぜか気付けませんでした──ちょうどバス停に出ました。
非常に狭いエリアでしたけど……マニア的には得るものが多かった。
一つ。山手に石段のある敷地の列があるらしいこと。──昨日の二番北湾曲を思い返すなら、原・集落の山手傾斜に敷地を増設したラインでしょうか?現・三番集落ではそれほど山手際ではないので、三番の元地形は相当の傾斜を帯び、かつ一番・二番より新しい、つまり最後に出来た地域に思えます。
三番集落水路入口
二つ、ディーゼル西路の北行き止まりにやや古い家があり、一階の段と中二階じみた造りをとどめる。──昨日確認した辺りです。対して先ほど歩いた三番コア部には、論文で紹介されるような独自の建築はない。そもそも家屋自体が新しい。つまり、三番は二番との接触部辺りが最も古いらしい。
三つ、バス停裏の集落配置は他と少し異なり・家々の隙間が「田」状に空いて通り道になっている形。──これは江戸期の埋立地、という可能性があります。奥の集落からの道や水路を塞がないよう、かつ用地にゆとりがあるので、隙間がやや広く規則的に配置することが可能だったのではないでしょうか?
海側から三番集落の水路入口を確認。1004、天草市消防団牛深方面隊第2分団格納庫の北西。
流路は真っ直ぐで、石積みの造りも新しい。両岸の石造は類似しており、時差はありそうにない。
牛深「せどわ」の入居条件
休憩がてら、少し座って考えてみます。
「せどわ」各集落に共通するのは、水路網が張り巡らされていること。ただ、三番のは家が先に建った後に水路造られてるようです。一番・二番は水路が巡らされた区画を基準に、家屋や道が配置されているように見えます。
これは、近代的な都市計画ではないにせよ水路が先に一応整備された区画に、家屋が建っていったことを示します。
つまり、当初の集落設計が人工的になされた地区のように見えるのです。流入する漁民を吸収する居住区として、特設された区画だったのではないか。──行政(藩又は幕府)がそんなことをするはずはないから、可能性のあるのは船津郷か加世浦の豪商でしょう。
これと「せどわ」の特異な無宗教状態を因果づけるなら──設計者側の居住条件として、菩提寺たる秀月寺を除き、宗教施設の設置を原則として禁ずるような「入居条件」があったのかもしれない、と考えます。江戸初期のキリスト教の浸透、反キリシタン闘争と弾圧を考えると、新設「せどわ」流入者にキリシタンが入る可能性は相当あったでしょう。それに対する設計側の自衛措置だったのではないでしょうか。
■レポ③:牛深「せどわ」の作り方
集落歩きに慣れない人には少し退屈に感じられるかもしれませんけど、そこはしばしの我慢をば。
牛深の、通常の意味での史料は本当に少ないので──ここは止むなく、とても辛い地理的なアプローチを試みているのです。いやホントに辛くて辛くて、思わずニヤけてしまいます。
前日(初日)の雑感
天草入りする前の夜・地図だけを見てのメモをまず掲げておきます。繰り返しですけど、牛深「せどわ」は緩やかに3つの谷に収まっている形で・東北から南へ一番~三番集落と仮称しています。
全体として、三集落はそれぞれ個性があり、隣との接続の仕方も異なる。隣接しながらこれほど個性を有する事自体が不思議です。
二番が後から埋立てたとする推測が誤っていないなら、湾の両側から一番と三番がにらみ合う形で形成され、両者は異なる住民と生活相を持っていたのかもしれません。その場合、三番が何らかの上位にあり、資産的にも裕福だったのではないか。一番の側には商店が妙に少なく見えます。こうした点は・現地で祠などの残存が確認できれば色彩の違いが確認できるはずです。
せどわ・せどや・とうやの再発見
天草は陸塊としては2つの島なのですけど、方言で見ると上天草の肥後系、下天草北半の肥前系、同南半の薩摩系に分かれます。牛深を含む下天草は薩摩系〔後掲山下〕で、
実際、鹿児島県に進学した友人は言葉に不自由しなかったと語っていた。〔後掲山下〕
実際に旅行して体験する限り、鹿児島ほどの言葉の差は感じなかったので、現代に入ってかなり標準語化が進んだのかもしれません。
それを危惧してなのか、天草方言集というものを鶴田さんという方が極めて丹念に作成、web上にアップしておられました。その中に「せどわ」に関する項も、もちろんありました。
せど せどぐち 古語【背戸口】 裏口 裏門
(略)
せとや せどや せどわ 古語【瀬戸屋】 裏家 裏にある家
せどやかぜ〈瀬戸屋風〉 家並の狭い路地から吹く風
※後掲鶴田 天草方言集
この語感から考えると、「せどわ」というのは、驚くべきことに──地区の固有名詞というより普通名詞のようなのです。それも、「せどやかぜ」の語感では単に「路地裏の道」といった道の種類です。
「せどや」「とうや」も「せどわ」と同一語の言い回しに過ぎないらしい。それも──
互いに同じだけ敷地を提供しできているトウヤは、「等々(とうとう)」という形容詞を使って区別されていることも確認できた。
※ 川崎健史ほか(熊本大学工学部学生会員)「天草﨑津地区における漁村景観の保全に関する研究」土木学会西部支部研究発表会,2009
というから、「とう」が本体語で、それに「せ」(施?)が冠頭詞的に付き・あるいは「わ」「や」(屋?)が付されているだけの単語である可能性が高い。
では上記の「活用形」──「せどや」や「とうや」と呼ばれる例がどこにあるのか見てみました。前者は下天草島北端の通詞島(熊本県天草市五和町)、杖立温泉(熊本県阿蘇郡小国町)に、後者は崎津(熊本県天草市河浦町)にそれぞれありました。
いずれも路地裏地区を指す名称です。
どれも大なり小なり観光地です。正式な行政名とかではなく、漢字すらない場合もある。どうやら地元の俗称で、観光用に売り出したくなったけれど「あそこの路地裏、変わってるけど……何て地名だっけ?」ということになって、
また、天草独特でも漁村集落固有の称でもないらしい。杖立温泉は阿蘇に近い内陸部です。
熊本県と大分県の県境、阿蘇郡小国町の北部に位置し、(略)あちこちから白い湯煙が立ち上る景色や迷路のように入り組んだ路地「背戸屋(せどや)」(略)
※ 杖立温泉 ツウな巡り方を現地編集部が徹底ガイド | たびらい
ならば牛深「せどわ」の何が独特か?
以上の類似呼称の存在が意味するところを考えると、はたと立ち止まらざるを得なくなります。
B それはこの集落が居民の帰属感が乏しかった、というよりむしろ、集落そのものの組成の本質的な特殊性を意味する。
C ただし、それゆえにこそ逆に、この普通名詞群で呼ばれた場所を比較すると、純粋に牛深の特異点を抽出できそうである。
そこで当面、Cの戦略をとって、内陸の杖立を除く、崎津「とうわ」と通詞島「せどや」の集落形態を比較してみます。
[事例1]崎津「とうや」:山際の縦路の人工性
崎津は同名天主堂のある浦です。近年世界遺産に登録されたため、その売り込みと登録後のPRでの資料が多くある。次の地図は売り込み時の資料らしい。
﨑津集落は戦国時代に形成された漁村で、キリスト教の伝来期には布教の拠点であった。土地の形は江戸時代から大きな変化がなく、集落の主要な道や海岸線の石積護岸も昔の名残を留めている。
その中でも、﨑津独特の風景が、海に面した家々でよく見られる海上テラスのように造られた「カケ」である。今富(いまとみ)の山で採れた竹やシュロで造られており、現在でも漁で使う道具の補修場や、魚介や海藻の干し場として使用されている。「トウヤ」は、民家と民家の間に造られた約90cmの細い道のことで、海に出る際はもちろん、交流の場にもなっている。どちらも、土地が狭く民家が密集した﨑津ならではの工夫であり、漁師町の歴史と文化を感じる風景である。
※ 「カケ」「トウヤ」ってなに? | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)
解説されているとおり、海岸線に垂直に何本もの路地が走っていて、これを「とうや」と呼んでます。
牛深「せどわ」との違いは、横:海岸線に対し、縦:海岸線直交方向には通れそうな道はないけれど、一応ラインが揃っている点です。牛深でも家の隙間はもちろんあるけど、横にはほぼ揃っておらず、縦の道沿いを家屋が埋めた格好です。
瀬戸内海の路地裏は、横のラインが道になる例が多い。海岸線に沿って家屋が一列並んだ後、その後ろにさらに列を作る形で集落が出来るからです。つまり家屋が並んでから道が造られる。そうでなく縦に並ぶのは、まず道が先に出来ているからだと思われます。
つまり横路に対する縦路の本数の比は、港集落の設計の計画度を示します。
牛深「せどわ」一番集落に典型的だった、U字の道の奥にさらに道を付けた構造は、崎津「とうや」でも僅かに見られます。でも牛深ほどではない。崎津が海に山が迫っているのに対し、牛深が谷状にやや奥深い地形の差もあるでしょうけれど、牛深一番のようなY字は、人工の時期の重層によるものです。──これが自然形成のものなら、瀬戸内のように、同じ谷状の地形なら地勢に沿ってなだらかに家屋の並びが形成されます。
崎津「とうや」に比べ、牛深「せどわ」の計画度はやや低く、重層化している。けれど両者とも、瀬戸内に比べると人工の傾向が強い。
天正の天草合戦、島原の乱、さらに続く天草崩れという度重なるジェノサイドの後、天草には相当数の移民流入がありました。古風に見える崎津「とうや」の人工度は、そうした際に誰かによる人工的な町割りがなされた「収容地区」だった結果ではないでしょうか。
パティオとしても機能した崎津「とうや」
「とうや」が居民の交流する公共スペースとして機能した、と見る次のような記述もありますので、併記します。
カケに行く際にトウヤを通ることがあることから、トウヤは人が漁船に乗るための通路としての役割を果たしていると言える。
これらの交流活動を下支えすることが、トウヤの持つ通路としての役割とは別の重要な役割であると考える。[前掲川崎ほか]
戸口の方向も合わせた詳細な分析です。確かに「とうや」を中心に戸口が配置されていると思われますけど、「かけ」(作業場)との位置関係まで言えるかどうかはやや疑問があります。「かけ」が海沿いに並び、「とうや」も海に向かって延びていた、というのみで、「かけ」と「とうや」が対になっていた、あるいは対照関係にあったとまでは推量しにくいように捉えます。
ただ、カケとトウヤの所有感覚には、確かに独特のものがあることは伺えます。下記は、近代社会の考え方だと通常発生ふるはずのカケの「使用料」が全く徴されていないことの分析です。長文ながら全文転記してます。
海岸のカケに隣接した世帯へ使用料は払われていなかった。海岸沿いの住人に海岸の所有権が付与されているわけではなく、手続きとしてはカケ設置時に海岸沿いに家屋を所有する住人に了解を得るのみであった。海岸沿いの住人に海岸の所有権が付与されていない理由は、天領であった天草でとられた大庄屋制に起因すると考えられる。対象地域の大庄屋は大江村の松浦家であった(文化財保存計画協会,2013)。近世の天草において、統治地域の土地所有や生業活動は大庄屋によって一体的に管理され、住人はそこでの生業活動を展開するために大庄屋の土地を使用するというような形態が一般的であったという 26}。明文化されていないものの、こうした土地の所有と使用をめぐる慣習は近代以降にも継承されてきたとされている。この慣習が現在でも海岸所有権を不明瞭なものにし、カケの使用料が支払われないものにつながったと考えられる。
※ 鎧塚典子ほか「熊本県天草市崎津における漁村景観維持の背景─保全活動と生業維持に着目して─」地理科学,2015 2)カケトウヤの設置と利用
※※同注26)複数人の住民への聞き取り、および天草下島他地域での事例からも、一般的理解として許容されると考えられる(熊本県警察本部警務部教養課編,1959) 。
近世以前の社会では所有感覚は未成熟で、いわゆる「総有」の対象物が多く存在したことは民俗学の長く指摘するところですけれど──農地の乏しい(後掲)崎津では、カケは地域にもたらす大半の利益を生む場所です。あるカケを総有する主体の範囲と、ある「とうや」を使用する人間集団とが対照関係を持っていたとすれば、それはカケを有する「地方自治体」が「とうや」を資産として有しており、その使用者を帰属させていた、と捉えることもできます。
「とうや」は、総有の「公道」であっただけでなく、地域の利益のための「インフラ」だったのではないか?
ではさらに、牛深北50km・天草下島北岸の通詞島の集落を比較に加えましょう。
[事例2]通詞島「せどや」:プレ牛深集落状態
「通詞」は「通訳」の意です。島内に存する六角井戸2基は、天草ではここにしかない。
直接の史料がありませんけど、中国語か西洋語の使える集団がいて密かな交易を行った場、と想像を膨らませることもできる地名です。対岸の二江港が「志岐・崎津・牛深の主要港に次ぐ小型港」との「日本王国紀」(アビラ・ヒロン※)記述からは南蛮交易拠点が疑われています。
※ スペイン人。1619年頃まで長崎滞在。
周囲約4キロ、650人あまりが暮らすこの島にはたくさんの魅力があります。
沖のイルカ、美しい海岸、風車、ジャガイモ畑、資料館、せどや、漁船、中国文化を残す古井戸、天日製塩所、今も残るエーガッチョ伝説…、そして島の人たち。挙げればきりがありません。※ 島の散策ツアー「通詞島探検隊」 / 二江まちづくり振興会

通詞大橋を渡るとすぐに広がる港町。細い道が入り組む集落となっております。このようなスタイルを地元の言葉で「せどや」というらしい。
※ 「アカエイ伝説・流下式製塩所・えびす様」 ゆるやかな島時間が流れる『通詞島』へ | シマグニノシマタビ
天草本島から架かる大橋は1975年竣工。集落の谷はこの左右に概ね分かれ、「せどや」と呼ばれることが多いのは大橋架橋口の東北らしい書かれ方ですけど、「せどや」が普通名詞ならばそれの地域はあまり限定する意味はないでしょう。
双方とも道は架橋の延長と見られる新しいものだけで、形成期における人工的町割りの色は薄い。何よりも、牛深・崎津に比し密度が低い。また立地は崎津ほど山と海に挟まれておらず、緩い谷に囲まれていて、これは牛深の集落環境に近い。
従って比較上は、牛深の密集化以前の状況と対比できそうです。
そう考えると、通詞島「せどや」は平地に間を空けるように点在している段階です。パターンとしては、海岸線に並ぶ傾向を示していて、瀬戸内の形に近い。
つまり集落の基本構造方向は、碁で言うと序盤で決まる。散村の段階で海岸線に並べるか、道沿いに並べるかの違いで、それは生業の開始以前に町割りがあったかどうかにかかっているらしい。
下図は大橋西側のものです。ここも傾向は東側と同じ、でも僅かに差異も認められます。
橋のたもと辺の並びの混乱は、家屋の新しさを確認したいけれど、おそらく架橋に伴う開発か造成の影響でしょう。
これを差し引くと、一番西側は山が迫っているせいか単列です。奥側は傾斜が緩く、かつ道路があるために列が形成されていない、即ち散村の状態です。つまり、橋口北側の集落より海岸線に沿う傾向が強い。元々の漁村が架橋地点の海峡に近い橋口南側の立地を選び、空いていた北側が後から、遠洋漁民、さらにおそらくは交易関係の家屋の入居地になっていったのではないでしょうか。
瀬戸内の漁家が海岸線に面しているのは、漁業に便利だからです。究極的な形態としては、一階下部に船舶を収納し、二階に居住する家屋もある。
通詞島「せどや」、橋口北側を牛深「せどわ」の従来状態と仮定すると、漁業の便より人口の収用、荷の搬入出を優先する傾向が強いために、平地に散らばるように(海岸線に固まらずに)家屋を配置させながら、平地を埋めていった様が想像できます。
船頭呼べば数分で船へ
これらを前提に、牛深「せどわ」の集落形成についてもう少し補強しつつ論を整理していきます。
通詞島「せどや」とも通ずる「せど」は、瀬戸内海など各地の地形や地名よりさらに古い語法として、「狭戸」「狭門」と書き、地形の狭い状態を指すようです。瀬戸内海の場合は、関門海峡など狭い海峡で仕切られていることから来る名称なのでしょう。
※ 瀬戸とは – コトバンク 精選版 日本国語大辞典「瀬戸」の解説ほか
加世浦地区の『せどわ住宅』。『瀬戸(裏口)』が語源とされ、漁の機会を逃さず、船頭の合図があると数分で船に集まれるよう、同じ船に乗る漁師たちは集まって住んでいた
※ 【牛深ハイヤ祭り】踊り好きが最後にたどり着く聖地!ここは民謡の最源流|オマツリジャパン|毎日、祭日
出漁時の人員動員用、とする伝承も、崎津「とうや」の成立要因にあった漁業共同体の活動用という点と重ねると、説得力は強まる。
江戸期後半の薩摩と同じ体質です。牛深は一種の企業体、あるいはもう少し緩いコーポレーションのような組織風土の利益追求型地方公共団体で、地縁を他より欠いた。つまり「せどわ」はその企業体の「社宅」だったのではないか、と想像できるのです。
牛深「せどわ」の通り名称
→PDF
最初に触れたとおり牛深「せどわ」には地区名がない。その代わりに、初日夕刻に見つけたマップにあったような主な通りの名称があったようです。
牛深のせどわには、その筋ひとつ一つに名前がついていたということだった。
現在のたまみらーめんさんの筋 ・「ひょこし町」
火起こしが訛ってそう呼ぶ。七輪に種火を入れて置いておけば火が起こるのでその名がついたと言われているそうですが、実際はそういうことはなくやはり火吹竹を使って火起こしをしていたそうです。
それぐらい風通りがよかったことの例えなのでしょうね。
※ 連載:はじめての「牛深八景」:牛深のが特別じゃない!?・・・牛深第二景
「火起こし町」──全く意味は不明ながら、いわゆる地名というより通称、アダ名に近い語感です。他もそうですけど、自分たちの町、という愛着がどうも感じられません。「住まわされた町」という感覚があります。
・ひょこし町より一本現在の加世浦公園側の筋 「ほらんきゃ町」
ほらんきゃとはホラ貝のことで、家の軒先がそろっておらずバラバラに出来ていることから、ホラ貝の内部断面の形に例えられたとのことでした。[前掲牛深八景]
今歩くとそれほど軒先の凸凹ぶりは感じられないけれど、かつてはそうだったものが時を経て整形されていったのでしょうか。だとすれば、更地に道がまず付けられたわけではなく、ある程度家屋が散らばるように建った段階で道がついたことになります。
・一番加世浦公園側の筋 「へっちん町」
へっちんとはトイレ・かわや・便所のこと。雪隠(せっちん)が訛ったものとのこと。
以前は農作物の肥料用に野菜を売りに来られた農家の方が帰りに船で汲み取りしたものを運んでいたそうで、特にこの通りはその汲み取り口が筋に集まっていたためそういう名前がついたということです。[前掲牛深八景]
ここでの船というのは、周辺農家が牛深の居民用、あるいは交易用に売りに来た船でしょうか。いずれにしても、その船の帰り荷としてアテにされるほど、「せどわ」には相対的に巨大な人口がいたわけです。
人口7千人規模を三百年以上維持
やや広い視点で、人口から見てみます。
平成27年データで、天草市の人口は83千人足らず、うち牛深には71百人余が住む。9%強、同市地区中では最大で、久玉の3千人余を加えると1万を超。本渡町と亀場町の6地区の人口に匹敵します。
※ 熊本県 天草市世男女別人口と世帯数|熊本ポスティング.com
上下のデータは、田中昭策という郷土史家が調べた幕末・文政(1818~1831年)の人口記録です。牛深地区には、現代と同規模の約1万、やはり島内最大。天草全体も余り現代と大差のない人口規模です。
天草では、江戸から現代までこの規模が維持されてきたわけです。過疎化の進む日本の一般的状況下、これ自体が驚きですけど──
注視すべきは、併記された石高とのバランスです。上記2表の右欄外に国高/人口比とその順位を算出していますけど、牛深は4位。けれど同上位は人口規模の小さいものが多く、これを散布図に落とすとこうなります。
人口最大の集落が、これほど農地の乏しい場所に長期間、少なくとも三百年間維持されてきた。生業が漁業で成っていたから、という説明について言うなら、その漁法を隣接地で行うことは可能だったはずで長期的にはもう少し拡散する気がします。例えば崎津や東の深海に拡散しても良かったし、居住面積というなら河浦でも良い。
これほどまで、牛深でなければその人口が維持出来ない、という特殊な生業があるとすれば、それは交易しか仮定し難いのです。
上下水道を渇望した牛深
「へっちん町」の由来から見える通り、牛深「せどわ」からの排出物は相当に限界に近い規模のものだったと推測されます。本文で何度か覗いた下水溝の縦横無尽さも同様の問題です。
この設置時期は特定しにくい。当時、下水を暗きょに通す技術はなかったでしょうから、溝が道路あるいは元々通路だったと思われる場所に沿っているから、集落形成後に下水道が設置された、と断言するのも難しい。ただ、石垣造りでかなりガッチリと組上がっているところから考えて、更地に設置されたのではなくても集落形成初期に備えられたインフラのように思えます。
下の次は上です。上水道は、昭和の始まる9か月前に設置されてます。
口碑によれば、もと、町内には六、七個の井戸があるのみであり(他に若干あるにはあったが塩分が多くて飲用には全くできなかったという)各自当番をきめて井戸の管理に当り、水汲みは女ごし達の重要な仕事のひとつであり、担桶(たる)荷いのできない娘は嫁に貰い手がないなどといわれたものだという。かかる有様なので一朝旱魃ともなれば、その水飢饉は言語に絶するものがあった。船によって遠く長嶋あたりから水を運んできて飲み水の商いをする水屋という商売まである程であった。[前掲田中]
井戸もまた貴重なインフラだったらしい。この規模で数か所のみ、とすれば毎朝のこの路地裏は天秤棒を担いだ女衆がひっきりなしに往来していたはずです。
この二日間に見つけられた井戸の場所からすると、路地道の配置もある程度、井戸とその使用者の導線に沿っていたと考えられなくもない。──ただこれは、民間の井戸を2つしか見つけてないので自信を持てませんけど、上記田中記述からするとそれは山手に集中していたはずで、集落奥に道が伸びるのを少なくとも助長したことが想像できます。
大正末年 牛深の上水道開通
牛深が待望した上水道は、天草で初、当時の最新インフラでした。
町議会の議決を経て具体化する運びとなったのは、大正十三年のことである。尤も、元来、河川がなく湧水も少ない土地柄なので、雨水を溜める外に方法はないわけであり、その構想をもって計画が練られた。即ち浦川、桜木、石神にまたがる谷間を利用して人造湖を造り、これを西方約四百米を隔てた丘上の三個の浄水池で濾過し配管により送水するという仕組みで、かなり大規模な工事である。(略)何しろ待望久しかった上水道の敷設であり、しかも天草での第一号というのである(略)当時まだ珍しかった海軍の飛行機が、佐世保から米の津に向う途中飛来して、町の上空を旋回し興を添えたことも祝賀気分を盛りあげたものである。[前景田中]
上水完成に際し海軍機が飛んだ、という俄に信じがたい話も当時の衝撃を感じさせます。
以下は熊本県知事による祝辞です。「碇繋来泊の船舶に至るまでその余恵を受け」という、おそらく牛深側が書いた演説原稿のくだりは、過去、来航船からの給水の求めに応えられなかった苦い経験が書かせたものかもしれません。
さきに町会は満場一致し一部県補助金を仰ぎ十有五万の巨費を投じ水源を浦川及び石神の二地区に求め上水道敷設の議を決し爾来一年有十ケ月、町民一致協同し、費を吝まず労をも厭わず一意専心工事の進捗に尽くしたるの努力空しからず、今や、工事全く成り、こんこんとして清水通ずるに至りたるは実に本町の幸福たるのみならず碇繋来泊の船舶に至るまでその余恵を受け、本町将来の発展を促進すべきを信じ、慶賀に堪へざるなり。
[前景田中,大正15年3月21日(牛深小学校校庭)通水式での佐竹熊本県知事の祝辞]
日本の上水道史は、1887年(明治20)年に横浜の外国人居留地に初めて竣工され、1895(明治28)年の大阪市初設置が4番目の事例。福岡市が1923(大正12)年設置、熊本市が1924(大正13)年設置。熊本の八景水谷水源地に残る創設当時のポンプ室は、国指定有形文化財になっています。
つまり、牛深の上水道は人造溜池設置という難事業(現代から見ると衛生的に危険な企画)である割に、極めて早期に竣工してます。
この点もまた異様です。
ハイヤ大橋に見るような、天草人の新奇好きやバイタリティーと解することもできるけれど、よりリアルに問うなら──そんなことが可能なほど天草、あるいは牛深という地場は政治力を持つのでしょうか?もしくは──それほど衛生的な危険度が大きかったのでしょうか?
アマビエは誰だったのか?【肥後海中=天草牛深(アマビエ=下馬刀島隔離民)仮説】
交易地、人口の極大化、上下水道の不全・と条件が揃えば、伝染病の発生が疑われる、と思えるのはCOVID以降の発想でしょうか?上記疑念からなお調べてると出て来た、一次出典不詳のPDF情報に次のような記述がありました。
1839 天保 10 4.- 病気 牛深村疱瘡大流行・村十極難。
※ 天草災害史・江戸時代
──1839(天保10)年、牛深村で疱瘡(天然痘)が大流行し全村が難を極めた。
これは、この何かの史料記述のみならず、隔離場所に使われた下馬刀島に残る墓(市指定史跡)から確かな史実です。
患者をこの下馬刀島に隔離したと言われています。今も墳墓が数基あり、悲恋哀話につづられています。
※ 下馬刀島 / 天草市
「魚貫地区振興会」という自治会の資料に、探した中では最も深い以下の内容の記述がありました。
※後掲 魚貫地区振興会 ~夕陽の映える海のまち~> お知らせ > 知らんやったジャー!②(魚貫を知ろう!クイズ)にも同様の内容あり
・病人は下馬刀島のほか、牛深からは桑島や築ノ島に船で送られ、死を待った。
・天然痘患者の心を歌ったもんつき唄(一部)
・サマが死んだとて島にはやらぬ うしろ山ならつづき〇〇
・松が栄えてサマ女が見えぬ 降ろせ小松の二の枝を
・剣崎から身を投げましょうか サマの墓までひと流れ
・サマの墓所のマテ島松が 早よけ早よけと手を招く
(いずれも、天然痘に罹患し島に流され死んだサマ(彼)に対する、サマ女(彼女)の恋慕を吟ったものとされる。)
ハイヤ節が全国に伝播した牛深の黄金時代は、どうやらこの天然痘連続流行時代に重なっています。牛深で、ではなく天草での記録としては、19世紀以降はコレラの流行も加わってきています。
繰り返しますけど、当時の牛深集落で最も人口が「密集」し通路も重なり上下水も容量上限に達していた場所は、普通に想像して「せどわ」です。そうすると、そこで繰り返し疱瘡、後にはコレラが流行した可能性があります。かつ、そのうち時空が明確なのは1839(天保10)年の牛深です。そうなると、連想されてくるのはこのヒトです。
※ 出典:後掲京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
肥後国海中に毎夜光物出ル 所之役人行見るニづの如し者現ス 私ハ海中ニ住アマビヱト申者也 當年より六ケ年之間 諸国豊作也 併病流行 早々私ヲ写シ人々ニ見せ候得と申て海中へ入けり 右ハ写し役人より江戸え申来る写也
弘化三年四月中旬
COVID疫情下で有名になったこのヒトは、上記京大史料にしかの書かれてなくて、この紙片自体が何か分からず大衆誌的なトンデモ情報チラシだとされています。出現場所を「肥後」=熊本と捉えて、大抵の論述は根も葉もないガセネタと捨ててます。
肥後にはこんな伝承は一切残っていない。弘化3年(1846年)に疫病が流行した形跡もない。奇談の発信地は、どうやら熊本ではない。
※後掲 非合法の失敗作…コロナ退散で脚光のアマビエに意外な過去 : 今につながる日本史 : Webコラム : 読売新聞オンライン
意外に既存議論では、肥後国「海中」と書かれている点があまり注目されてません。熊本市内は海からは遠い。
それも、アマビエ図に島陰がないことから、この図の視点は一定規模の広い海を行く航海者のものと推測して無理はありません。
ここで、先述の伝承や墓から判明している幕末に疱瘡病者を流した場所、下馬刀島・築ノ島・桑島の三ヶ所を地図にプロットしてみましょう。
まさに、牛深の東西南を廻るように配置されてます。前記の人口数からもその密集度からも、疫病発生の中心は牛深と仮定するのが妥当です。そして・外航船がどちらからどこへ行くにせよ、これらの島の近辺を通り、その乗組員は島で死に行く人々の姿を目にしたでしょう。
繰り返しですけど、アマビエ出現が報じられた1846年は、牛深での疱瘡流行が書かれた1839年の僅か7年後。「伝承は一切残っていない」どころではありません。
「肥後海中」は、地獄のような疫情下にありました。
そういう前提に立って見ると、アマビエ画は、髪が伸び放題、衣服がボロボロになった、あるいはアバタの出来た姿で、海で行水していたか、ひょっとすると入水して死を迎えようとしていた疱瘡罹患者だったように見えます。もしかすると彼女らは通りすがりの船乗りに「我らを流すことで数年は陸はまた栄えるかもしれない。でもその後は再び病魔が来るぞ」という位の呪詛は口にしたかもしれません。
[推定可能範囲]牛深「せどわ」形成史
以上の僅かな手がかりを補助線に、牛深「せどわ」の形成を復原すると、こうなるのではないかと考えます。
簡単に言えば、江戸期の牛深「せどわ」に起こった出来事は、何度か例を見た海賊の陸上がり※です。
※ 那覇市「みなと村」推定事例:FASE61-6@deflag.utina3103#県庁東の異界/■小レポ:戦後の松尾一丁目 5「海賊」たちはどこへ行ったか?
※ 三原市幸崎町能地・忠海町二窓推定事例:m19Qm第三十五波mm幸崎能地(下)&尾道吉和/統治側からの視点と家船根拠地の大推移
[16C]後期倭寇の跋扈
後期倭寇の「根拠地」として知られる五島列島や平戸方面に対し、熊本・肥後はおろか天草の名を聞くことは少ない。けれど次章で詳述するけれど、倭寇構成員の出身地としては・天草はかなり濃厚な疑いを持つ地と推定されています。
ただし、この時代、進発地としても本拠地としても、牛深は倭寇との関わりは濃くはなかったでしょう。太古からの久玉の海人の歴史から考えて、そのワン・オブ・ゼムだったとは想像できますけど、オンリー・ワンではなかった。けれど相当規模の西九州海域の海人に、精神的故郷といったイメージは持たれていた土地だったのではないでしょうか。
かつ、久玉城が反キリシタン拠点となり、その陥落後に南蛮側から注目された契機に、外航港としても「発見」された点はその後の牛深史の潜在的な潮流を形成したと思われます。
[17C]牛深の港湾労働階級としての海人「せどわ」上陸
牛深が内航港湾として興隆し、これに非公式な外航路が接続され、廻船問屋が久玉の西・岡から船津に並び始めると、その水主や荷作業員など港湾労働者が相当人数必要になります。
島の南端で陸上の大人口地と隣接しない牛深には、その人員確保は極めて難しかったでしょう。
自由交易ないし海賊が江戸幕府に封じられ、陸上がりを志向した海人と、この点でニーズが一致した。彼らは牛深のさらに西の湾に、程なくして溢れるほどに流入したのだと想像されます。
先に触れた2事例・那覇「やまと村」と三原・能地二窓に準拠するなら、前者の型だと南蛮交易との接触点として経済的な縁があったからか、後者の型だと久玉以来の遥かな原郷観念からか、あるいはそれらの複合なのかは確定しにくい。
また、動員する水主・港湾労働者の集落という位置付けは、戦後那覇での「みなと村」民と同じです。また、能地二窓が浦氏や小早川氏の水軍水主の動員源だったことにも相似します。
ただ、肥後の海人は、単なる牛深の「下層」に嵌め込まれて搾取された、と左がかったビジョンを示したいのではありません。彼らのメティスの知(→首頁参照)は、「せどわ」の労働階級であるとともに彼らを小口交易者としても行動せしめていた、と想像します。
彼らは廻船問屋の労働力であると同時に、自営業者でもありました。
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ
[18C]小口交易集落の活況
南の薩摩の調所改革後の経済活動激化と、北の長崎での唐船員主体の小口密貿易への傾斜(→参照:m152m第十五波mm小菅船場/小レポ[2/2]:グラバーと薩摩藩)を受けた、江戸後期の裏経済のシェアの巨大化が背景となったでしょう。
具体的な史料がどうしても出て来ないけれど、中国も欧米も天草沖で不穏な行動を取っていた記録、これに対する幕府の対抗措置が牛深に遠見番を置くことだったこと、抜荷を流通ルートに接続させる場所を考えれば、それは牛深しか浮かび上がって来ません。
(参照:本シリーズ最初頁→m17f0m第十七波濤声mm熊本唐人通withCOVID/熊本県
012-0唐人通\熊本\熊本県/[ホールド]熊本県天草市牛深町/長崎の中心で正義を叫ぶ三原さんとその成果)
長崎の例から考えて、大資本が取り扱うより小口の方が密貿易に有利な点は3つ。規制側が把握しにくいという点と、帳簿等がなくても自然なのでマネーロンダリングが簡単だという点、さらに大資本側がリスクを負わないという点です(それら小口から大資本が品を集荷する時には既に密貿易品ではないわけだから)。
だから、以下はあくまで「有り得た方法」なのですけど――――天草の島影に「漂着」した中国・欧米船の傍に・牛深「せどわ」を出た漁船が「偶然通りかかり」、小口の荷を交換する。漁船から帰港し降ろされた「収穫」は、多くが一階で待つ女房の手に託されるけれど、禁制を含む一部の品は梯子でしか登れない中二階に収納される。そこには時には、欧米人はいなくても中国人の短期滞在者が紛れたかもしれません。ほとぼりが冷めた頃、あるいは問屋側のニーズが出て相場が良くなったタイミングで、少量ずつが廻船問屋に回収される。「出所不明の禁制品」となったそれらは廻船に、やはりやや隠された形で熊本・大阪を始め全国へ流通していく。
彼らは海人だから、必ずしも牛深の廻船問屋とばかり取引きするとは限らなかったでしょう。天草の他の銀主は、石本家を始め複数あったし、場合によってはもっと遠地の選択肢もあった。前章鶴田地図で考えたように「せどわ」の住人は、陸上民より頻繁に入れ替わっていたと思われ、「出稼ぎ」感覚で住んだ者もあったのでしょう。
――――もしこれらを立証できる史料があるなら、あまり残らずかつ公開・研究の進んでいないらしい岡~船津の廻船問屋の帳簿ですけど……これも次の事情からおいそれと出て来るようには思えません。
[19C]「せどわ」の巨大化と住居環境の悪化
牛深「せどわ」の自治又は統治がどのようになされていた、という史料は、全くありません。
けれど、以上見てきた集落の造りから考えて、初期の用地提供やインフラ整備には、都市計画と言うほどではないけれど人口的なものが感じられます。一定期間で「突然居なくなる」住民であればなおさら、「社宅」として外部が維持する必要が生じます。廻船問屋群がコミットし、一定の資金提供を行ったのではないでしょうか。
ただ、問屋群による管理社会だったかと言えば、それは絶対にそうではない。「せどわ」の海人は、問屋の「上流階級」が想定したより遥かに巧みに「経済活動」を行って、裕福になり、その人口と家屋数を増やしていったと思われるからです。
「せどわ」を歩いた印象の最たるものは、集落としての「不自然さ」です。この規模の集落に小川や渓流と言えるものがなく、公衆浴場他の共同施設がない。井戸にも、他ではまま見られる共同の炊事・洗濯場がない。その構造のツギハギぶりは、横道に乏しく、上下水が不十分なまま巨大化する中で、パッチをあてるような居住環境改善が続けられたことを物語ると思います。
複数の免疫特性を有する集団が行き交う交易の場に、疫情の発生するのは当然です。それが前近代の上下水不全の環境下であれば、それが重篤な事態に至っても不思議はありません。交易の活性化した江戸期に流行の度を加速させた疱瘡に加え、もしかすると幕末の開港と前後して流入したコレラが加わり、牛深に蔓延したのでしょう。おそらくこの面から先に、「せどわ」はその膨張の限界を迎えたのだと思われます。
海人の特性を持った人々は、やはり痕跡も残さず「せどわ」を離れた。そうして明治以後は、遊興と純粋な漁民を残す集落に落ち着いていったのだと思います。
[課題]なぜ「せどわ」は神無か?
先に「現地で祠などの残存が確認できれば色彩の違いが確認できるはずです。」と書きました。完全によすがのない集落でも、この方法でヘソと方向性、時には集落の目的に見当がついてきた。「歩けば分かる」というのはそういうことなんですけど──
牛深「せどわ」に限っては、本当にこれが存在しない。
ここまでの検証を経ても、なお分かりません。──こんなに無宗教な集落は歩いたことがない。この規模で人間が住んで、なぜ集落の要地に神がいないのか?
海人だから、というのはあり得ません。むしろ媽祖や住吉、宗像、恵比寿と独特な祠があるのは他地例から明らかです。
海賊だったから、もあり得ない。八幡神さえいないのです。
社宅だから、というのも説明にならない。人為的に形成された文化面で無色の場所にこそ、居民は神像を置くものでしょう。
それが天草人である、といった理解も、キリストを奉じたジェノサイドを経、隠れキリシタンの里・崎津に隣接するこの場所では不可能です。──先述のとおり、その時代故に設置者が「社宅」での宗教を厳禁した可能性はあるけれど、それでもキリスト教以外の神すら無いのは解せません。
「せどわ」に神がないことはあり得ない。
この点は、以上の情報の解析と総合を経ても、なお巨大な矛盾です。だから本稿は、決定的に未完のままでひとまず筆を置くこととなります。