1330満足満足。空は……北半が晴れてる。南から北へ筋雲が襲いかかってる感じ。風は僅か。これは夕日は待たずに今を狙うべきか。出発しよう。
トンボロ西には浜。岩もあるけど夏には賑わうのでしょう。
6段のブロック塀がずっと集落内に続く。
丸石垣の道もありました。
1352三叉路を過ぎて……え??
ホントに道がなくなってる。これは強行突破は無理ですね。
引き返す。
三叉路でよく見ると迂回路を示してあるけど……これは自転車ではとてもとても。諦めますか。では本題の麓へ!
長目の浜(方向)の画像を一枚。鯉幟が泳いでる。
薗上老人倶楽部前に「畜生碑」
そのまま里集落を抜けてくと,たまたま「我夢」を通ったので一夜干しをまた買ってしまう。おばちゃんに「昨日もこれ買って……」と覚えられてしまってたので「いえ一昨日です」と訂正しておいた。
1414ケイダストアー前に自転車を停める。武家屋敷へ。
真言宗大聖院。柔和なお大師様像。入口右手の表から見えない場所に荒熊大明神。祠は新しい。左右にお狐様,宇賀神の系統か?えらく凶暴な,もののけ姫の山犬みたいな面構えの狐様。
1426里(中町馬場)遺跡。馬場の遺跡じゃなく,縄文前期からの集落遺跡だという。埋葬跡も発見。
1430武家屋敷通りどん詰まり。どこだろう,愛宕神社?
1431旭宝山西昌寺跡(西願寺)
日置市のお坊さんから送られた狂歌が碑にしてある。
新松子(しんちぢり) 流人役人墓一処
墓奥に「山田静治有秀の墓(一向宗取り締まりの役人)」という案内板。
本村で一向宗を信仰していたのは主として農漁民であり,講をつくり「隠れ山」などで仏をまつり,しられないように念仏を唱え信仰を続けていた。これを「隠れ念仏」と言う。
出水郡郷士山田静治有秀は甑島の取り締まりに派遣され,厳しく取り締まりに当たっていたが,慶応二年(1866年)に病没した。
彼の実直で余りにも非情な仕事振りは,人々の憎しみをかい,病になり,苦しみながら死んだと伝えられている。
その墓がなぜここに?──と考えると……ここは墓地の一番隅っこ。しかも時代は幕末の混乱期。死後も地元民によって晒し者になっている,と考えていいのでしょう。
さてまだ階段はあるけど……仮にこれが愛宕神社の参道としても荒れ過ぎてます。戻る。
安永年代の墓石あり。
ケイダストアー。あく巻の皮10枚298円?そんなん売れるの?
1514一応,亀城に寄る。
亀城は,鶴城とあわせて亀鶴(きかく)城という。高所から見るとその形が,鶴と亀に似ているのでこの名がある。鶴城跡はこの地より南東二百メートルの丘にあり「古城」(ふいじょう)ともいう。
亀鶴城は,もと甑隼人の城であったといわれる。[案内板]
城跡らしきものも祠も何もない。慰霊碑はあるけと関係ない。
展望台からトンボロを見下ろす。
やはりそうだ。西半だけが古い。港に近い側を開発したから──にしては極端過ぎる。なぜでしょう。
しかもかなりくっきり区切られてる。支所西側の道の延長らしい。そこに道は伸びてるけれど,住所上の色分けでもない(里+4桁表示,一桁目の数字の区分でもない)。
仕方ない。もう一度縦断してみるか!
1540支所からまっすぐではない。郵便局の東側の道らしい。
1544薗中集会所
1547薩摩川内市消防団里分団北部。左手に薗下自治公民館。この前が不規則なパティオ状になってる。これ,元の海岸線か?
1551北端まで来た。集落はばたりと途絶える。ここに岩造りの壇。新しいしコンクリで,GM.上この北には墓地が見えるからおそらく墓所。ここからの道は普通林道白瀬鼻線と書いてある。
1557一つ西のラインを帰る。このラインが左右よりわずかに高い。つまりトンボロの分水嶺みたいなラインになる。
なるほど。この道から西の道は湾曲が強い。なのにさっきまでの東の道はまっすぐ。
つまりこの尾根道の左右までは都市計画がないまま集落が造られたけれど,東半分は都市計画が先にあった。江戸期に造られた地域なのではないでしょうか。
1616里港でタバコ。
ケイダストアーでは一味唐辛子を購入してます。教え通り一夜干しに一味を振りかけると──凄絶な旨さに変貌いたします!
酒よりお茶が合う。たまたま川内駅で手に入れた白茶があったので……これは素晴らしい「夕食」となりました。
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■レポ:▼▲
島じゃ御縁節 串木野じゃ六調子
名所鹿児島じゃ しょんが節
島の御縁じよと 地方の節は
いとこどうしか 似てござる
この二つの歌詞を味わってみると,島民が御縁節を持っていることを自慢に思い,島の御縁節と鹿児島の歌とは,従兄弟同志のように似ていると唄って,おたがいに縁につながることを強調しているのは興味がある。
藺牟田瀬戸わきや 白波絶えな
わしが胸には 苦は絶えな
一里二里なら てんまでかよう
五里とはなれりや 通われな
下甑にや三十日 平良にや二十日
折角小島にや 潮がかり
(略)小島は平良の港が開かれる以前は,甑島唯一の台風の避難所であり,また上り下りの舟の寄港地で,港女もいて繁昌したといわれる。
[後掲郷土史編集委員会「郷土史 上甑村平良」平良小中学校PTA会長,昭45。以下「郷土史」という。p19御縁節]
三,葬儀
もとは葬儀は墓地で営まれた。墓地にはインドウバ(引導場)という石の台があって,坊さんの読経や会葬者の焼香があった。小島では棺を置く前に,棺を三回まわした。これは死者の霊が家に帰らないように,家の方角を失なわせるためであろう。[後掲上甑村郷土誌編集委員会「上甑村郷土誌」上甑村,昭50。以下「上甑誌」という。p189]
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◯ 御縁あるなら 尋ねておじゃれ
わたしやしのだの 森にいる
◯ わしが体は 山から山で
花の都にゃ 縁がない
王朝時代の末期,源平の戦に於て壇浦で破れた平家の残党は(ママ),相当の人数を以て此の島に落ち延びたらしい。現今は無論他姓を名乗っているが,「信太の森」といったような詞は,ぼつ然としてこういう辺地の孤島に発生する筈がないように思うからである。多少の心得のある者でなくては出てこない句である「信太の森」は歌の名所で,和泉の国信太村にあり,信太郎神社の西方約十町ばかりの地に大樟樹があり,土地の人々は「信太の森」と呼ぶという。明神様の旧地だといい,樹下に狐が棲んでいるという{。}「源氏物語」若葉の項に
「しのだのもりを道しるべにて詣で給ふ云々」
とあり「枕草子」にも
「森は……こがらしの森 しのだの森云々」とあり(略)それを其のまま遠くこの島へ平家の残党と共に移入したのであろう。「花の都にゃ縁がない」などという詞もうなづけるのである。[後掲上甑誌]p263
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