m19S_00第三十八波m我を射よ海を渡りし青嵐m喜界島m着いた日


献句
を射よ海を渡りし青嵐
[本句]我を射よ命賜る初明り(久松敬志)[2022.1月の奄美特選俳句五選]
甑島から
喜界島への
鹿児島県内移動
の一日の記録
──というのは
意外とレアかと。
[前日日計]
支出1300/収入1170
    ▼13.0[243]
    /負債 130
[前日累計]
利益 -/負債 352
五月三日(二祝)
0700いこもち250
1155西洋亭ひろはま
ミックスポアゾンムニエルセット(スープ,デザートなし)550
2009ビタロー250
(湾448)中山さん うさぎのよもぎもち250
[前日日計]
支出1300/収入1300
    ▼13.0[243]
    /負債 0
[前日累計]
利益 -/負債 352
五月四日(三祝)

 

甑を離れ喜界島へ

甑島から鹿児島空港へのアクセスマップ。串木野新港〜鹿児島の高速バスが運行を開始したのは最近らしい。系列が違うのか,船舶系のパンフ等には全然書かれない。
0930(フェリーニューこしき)→串木野1045
串木野新港発1100(高速バスこしきじま号)→鹿児島中央駅1155
▽≒1.5h
(天文館1310・1325・1340→)鹿児島中央駅※1325・1340・1355→鹿児島空港1405・1420・1435
※鹿児島中央ターミナルビル(中央駅電停対面)地下一階
鹿児島16時00分発 (日本航空 JAL3785)→ 喜界島17時10分着

──というメモを作成してます。
 港で少しゆっくりしてから、船に乗り込みました。皆目分からなかったなあ……という心地よい敗北感。

朝9時の里港バス停周辺の光景

930定刻。
 フェリーニューこしき、里出港。
 こうして見ると、ホテル「エリアワン」は里ではまさに言葉通り、遠方から唯一目立つ建物です。
里港離岸

う一つ。太古の漂着者の目からは、この長大で高度も相当にある陸は、島だと認知出来たろうか──という問題。1301年の「第三次元寇軍」※は日本本土の沖で威嚇したつもりだったのかもしれません。

※「薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現」「うち1隻から襲撃を受け」たという「正安の蒙古襲来」〔wiki/元寇/瑠求侵攻と正安の蒙古襲来 ※原典:海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社現代新書 1995年 19頁〕。ただし現在のところ一部論者の異説。伝・1301(正安3・大徳5)年11月。

シラス台地を越え鹿児島市

遠ざかる里トンボロ

145串木野新港。
 バス停の場所がやや心配だったけど、下船場所から港施設に向かって右側へ50mほどでした。
 1149港発、鹿児島駅行きに乗車。運ちゃんが「時間調整の関係で1103頃出発」と言ってる。
 晴天。ここへ来て、かよ!
🚌
速を鹿児島へ移動。離島の補助があるのか鹿児島中央まで八百円という爆安運賃。
 そう言えばこのルートを高速で通るのも初めてです。伊集院辺りは大地の面が細かいボコボコで埋められてる。シラス台地の典型的な景観です。
 1247鹿児島中央着。速い!──と思ったけど、地図で見れば直線40km強ですからね。

勘が「当分の間漬け丼だけ」で近日オープン、となっていた。あと凪ととんかつ屋は行列。観光客はそっちらしい。なので意外にもネームバリューのない「ひろはま」へ。
 ここへ来たら……しかも魚料理繋がりとなると断絶コレ!!
ひろはまの鹿児島洋食

155西洋亭ひろはま
ミックスポアゾンムニエルセット(スープ,デザートなし)550
 メニューには「当店魚料理一番人気」表示。やはりこれは地味に人気……なのか?(それとも単に自画自賛か?)
 皆さんの声を聞き逃してるのか、ここで他の客がこのポアゾンを喰うのを見たことがありません。でもとにかく個人的には、ここの白身は最高に鹿児島らしいと思ってます。ホタテとエビフライも美味いけれど……やはり白身!
 魔術的な味覚の一つは、この黒く鈍く酸っぱいあのバルサミコソース……だと思うんだけど、ひょっとしたら鹿児島黒酢を独自にソースにしてるのかもしれない。微妙にバルサミコとは違う気もするのです。
ひろはまの白身魚とバルサミコソース

地下まで行ったけど……結局ドラッグイレブンでテーピングテープ確保。──久し振りの歩きで足の裏がズタズタなのです。喜界島では購入が危うい。
 ソラリアの中のリムジンバス乗り場は一階、駅の裏手。地下から行けました。定価1300円、安売チケットで1250円にてゲット。
 鹿児島県空港までリムジンバス、所要40分。
🚌

海を越える

めにチェックインして入っとくことにした。
 1357。手荷物を通過、ANA側(第一乗機場)側のドトールでエスプレッソしながら喜界島の論文を読んどく。
 1538。やや遅れていたらしい前便の屋久島行きの客が流れ出て、11番搭乗口に「喜界島16∶00」表示が……ようやく出ました。
 1557。乗機。──体温チェックは手荷物検査場前のテレビ側の体温検知器(二箇所)のみ。ボーディング時にはノーチェック。

トランスオーシャンのプロペラon鹿児島空港

の時読み耽ってた論文は──
弓削政己「奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談』の背景∶奄美諸島史把握の基礎的作業」法政大学沖縄文化研究所(法政大学学術機関レポジトリ),2012
 奄美旧家の系図を島津が支配の一元化上、焼いてしまった、という「伝承」の真偽についてのもの。「藩の記録所で書写したらすぐ返却します」とはっきり薩摩藩は言ってるようです(後掲原文参照)。
 弓削は個別の家系図類文書の取扱い公文書からも、少なくとも文書は元の所持者に返却された例しか確認できなかったことを報告しています。
※弓削は、この強制的・網羅的な文書差出策の理由は、薩摩藩による身分制度再編成(≒百姓身分か否かを判定)だと推定する。また、提出を拒んだ者への鞭打などの実施例もあり、奄美での薩摩藩の圧政自体を否定するものではない。(むしろその苛烈さが実証されている。)ただし、この系図差出は基本的には藩内全土で行われた政策。新征服地でない九州側ではゼロから集める必要がなかった、という点で見た目の苛烈さに違いがあったものらしい。[後掲弓削]
 焼却の有無自体をここで議論したいのではありません。つまり、奄美の二次史料には、琉球・薩摩の圧政下にあったという前提によるバイアスが相当にかかったものが良くも悪くもある、ということが類推できるのです。

0年間の「征討」──という状況は同等勢力が睨み合っていた、あるいは琉球側が明朝に尻を叩かれながら喜界を攻めあぐね機会を伺っていた、というのが正しいだろうけれど──勘樽金の子孫が知行を得ていること(後掲)からも、ことは琉球vs喜界という単純な対立図式ではなかったことが推定できます(巻末参照)。
 都成ら第一世代の奄美史学者の感覚は、(琉球敵視の「感情」を差し引いても)奄美史の一次史料が余りにも少ない、というものだったのではないでしょうか。それを薩摩の責任にする訳ですけど、おそらくこの史料の少なさは、主に、中国的伝統としての国の正史を残す慣行が(他の海域アジアの諸勢力と同様に)なかったことによるのでしょう。
「みやきせん」文化圏にあったのは、中国・日本・朝鮮にあった陸上国家には別個の存在だったからです。

内部リンク▶FASE79-3@今帰仁から\ぢぢーうゎーぐゎー/■デッサン:「みやきせん」海域交易圏
「みやきせん」海域人活動エリア(想定)

1629トランスオーシャンの翼と眼下の島

側2列、横に4席の機内です。プロペラ横の右手窓側席だから飛んでる感満点で……高所恐怖症の方、つまりワシみたいな人にはなかなかエキサイティング。
 非常口の席だったので、脱出時の補助作業を依頼されました。まかちょーけ!……と言いたいけど、そうなった時はアクロフォビアン高所恐怖症者は役に立たないような気もする。
 1618。これは何島でしょう?東に大きな(おそらく旧火口の)池が輝いてる。──あ、薩摩半島の先じゃないか!開聞岳が突き出てました。
トランスオーシャンの窓外

626、三つ島が東西に並ぶ。──とメモしてるのは、多分……黒島-硫黄島-竹島の三島でしょう。
「5分早く着く」と機長アナウンス。
 1629。もう一つ島。
 おおっ、今度こそ間違いない屋久島。トップが突き出て襞が細かいギザギザ円。
 1636、右手に二島、遠方にさらに大小二島。手前二島の南側の方には北に独立峰。──十島村……でしょうか?
 1639、遠方に一島。さほど高い山はなく、泳いでる怪獣のように北の先に小山。あれ?沖永良部かな?──とメモしてるけど絶対に違う。悪石島か諏訪之瀬島でしょう。この島のラインとは、60kmほど南にズレた島弧が奄美-沖縄本島になります。
650、雲が出てきたか。……いや?単独の巨雲だったらしい。この雲の山脈を越えると……西に大きな島。
 奄美大島?眼下の喜界島から……あんなに遠いんだっけ?
 ふいに機が右に傾く。雲間。海面が近付くけれど陸地は見えない。
 雲また雲。着陸まであと10分ないはずだぞ?

喜界島へ降りる

着陸10分前on喜界島上空


 左手にはもう陸地がくっきり。17時ちょうど、旋回して──あ。見えた。と思うや30秒ほどでふわりと着陸。
「日本エアコミューターのご利用ありがとうございました」

~~~~~(m–)m喜界島編~~~~~(m–)m

田舎の鉄道駅のような平屋空港・喜界島空港

ナウンスが、この空港出口での検温を予告。わざわさ?──とやや緊張させられましたけど、無事合格。
 降機者が行き過ぎると、検温マシンはすぐ大事そうに、仕舞われてしまった。喜界町としては、緊急的な防疫対策として契約を結んだ専門業者なのでしょうか。
田舎のバスターミナルみたいに雑多にグチャグチャしてる喜界島空港室内

界空港発着便は、日本航空(JAL)が運行する鹿児島空港及び奄美空港との間の二路線。各午前・午後の2便/日。
 なお、喜界-奄美線の運航距離は約26㎞と日本国内線では最短。航路だと、喜界-名瀬(奄美)のフェリーで所要2時間半。
手荷物は完全手動型──まあ数が数だからね。

い空港です。アテにしてるレンタサイクルのカウンターも見つけました。営業時間外だったので、明日、改めて来て借りることに。
喜界島の交通安全を守り続ける「あんぜんマン」──胸の「○あ」マークがシビれる。

町へ出よう

720、平屋空港を背に歩きだす。喜界島首邑までは1kmない。というか予約した喜界第一ホテルは、滑走路東端近くです。
 この首邑を「湾」という。「喜界湾」という地名ではなく、湾が字名らしい。

空港前すぐの道

う一本北の道へ入り、少しだけ期待してた十兵衛へ。
 定休日看板。ああ、火曜だからか。
十兵衛前の空き地(駐車場?)

へ。
 まあ……甑島よりは少し商業資本がある感じか。
 1738、ゆっくり歩きで20分弱か。喜界島第一ホテル到着。古風なロッジという外観で、好みのタイプです。
喜界島第一ホテルの勇姿

屋も、沖永良部を思い出す質素にして大時代的な雰囲気。テレビのHTMLは切替不可だったけれど、喫煙部屋に切替えても頂けたし、基本的設備には全く問題がない。
 好い滞在になりそうです。
 さて洗濯だけ済ましまして……1844、ひと歩きだけしてみよう。街へ出る。

■資料1:予習関係

薩摩藩による系図文書の差出指示

一 系図文書旧記持合候モノ、自分ノ永ニテ系図文書且亦他ノ家ノ系図文書、或古写ノ類、或旧記ノ類、知行古目録坪付等迄、不依何品書付 御家ノ御系図、御家ノ儀二付、御由緒記候写シ、持合 ニハ不残可差出候。系図文書乍持合、此節不差出召置、已後、右ノ系図文書ヲ家之證拠二申立儀有之候共、用間敷候間、正文・写二無構、惣テ差出シ候様二相心得可然事。
一 系図文書、此節差出候ハヽ、於御記録所写相済候テヨリ、可相返候。御物二被召上儀ニテハ無之、必可被差下候間、内々致其心得、持合候モノ差出候様二而可然候。
一 系図文書、無之者ノ内ニモ、先祖差立家筋ノ由緒・家伝、於有之ハ、委細書付可差立候事。
一 寺社方ノ儀モ右同断。
 右之趣、所中不洩様二申渡之、無滞差出候様、島中江申渡、書付 取揃、御方付状ニ而可差越旨、御差図二而候。以上。
 戌十月二十日 堀甚左衛門(印)
 大島代官
 右之通被仰渡候間、奉得其意、右品々持合候者ハ、可差出候。尤 間切中江右躰ノ者、無之候ハヽ、其旨可有申渡候。以上。
 宝永三年
 戌十一月十八日 川上孫右衛門(印)
[後掲弓削。原典∶「申渡」「大島要文集』東京大学史料編纂所蔵,一七〇六(宝永三)年(「奄美史談」が論拠とした「大島政典録」という史料の元資料と考えられるもの)]

勝家の勘樽金の妻の恵久樽の大あむ役任命の達し

「勘樽金」という人名は、喜界島史に度々登場する「ヒーロー」の名前らしい。その性格は、単に琉球王家への抵抗の象徴というだけではなさそうです。下記文書は「鬼界嶋大あむ」という、おそらく宗教職としてのノロへ勘樽金の妻が任じられた際のものらしい。

3 慶長十八年九月二十四日知行目録(鬼界嶋之よひと宛)
 折田氏により、勝家の勘樽金(金多羅の子)宛であることが明かにされている。
4 慶長十八年九月二十四日知行目録(鬼界めさし宛)
 折田氏により、勝家の思徳(勘樽金の子)宛であることが明かにされている。
5 寛永八年(一六二四)九月二十三日鬼界嶋大あむ任命書
 石上「奄美群島編年史料集稿寛永年間編」(『東京大学史料編纂所紀要』
一四号、二○○七年三月)参照。勝家の勘樽金の妻の恵久樽の大あむ役任命の達し。[後掲東京大学]※折田氏∶奄美高校教諭折田馨氏

■資料2:「1466年喜界島陥落」の実証性

 1450年頃から喜界島は琉球王国の攻撃を受け始め、1466年、琉球王国の尚徳王が制圧したとされる。
 尚徳王(1441-1469年)は第一尚氏の最後の国王。先代・尚金福王(巴志六男)が1453年に在位4年で死去した後、後継を巡る同息子・尚志魯vs弟・尚布里の争乱が起こり(志魯・布里の乱)、首里城焼失、明の「琉球国王之印」も消失。本島他地域でも1458年に護佐丸・阿麻和利の乱。──この状態の王が、没年(=第二尚氏初代・尚円王即位の前年)の僅か3年前に大遠征を行い喜界島を陥落させたことになります。
 時系列だけで、ハッキリと不自然です。
 ただ──ここが最大の問題点だと思います──これがもし創作だとしたら、作者は当然に第二尚氏サイド。つまり第一尚氏を子々孫々に至るまで殺戮した集団です。琉球王国の最大版図を実現したのは自王朝ではなく先代の王権である、というストーリーを、そこまで無理に維持することで何のメリットがあったのでしょう。

球陽∶喜界島征服記事

 あちこちを見ても、琉球王国による喜界島の征服は、伝承以外には「球陽」の次の記事しかないようです。

 1466年3月琉球王国第四王朝第七代尚徳王は、(略)自ら兵2千余人、 兵船50余艘の遠征軍を率い征服しますが、その時の様子を琉球王国の正史「球陽」では「連年兵を発し、屡ばヽ征するも功なし。王怒て曰く、 ただに功なきのみにあらず、反って侮辱せらる。吾宜しく親ら軍兵を領し、以て賊乱を平ぐべしと」記しています。〔後掲農業農村整備情報総合センター〕

 球陽原文がこれ以外に見つからないんですけど──これだけを見ると「平ぐべし」、やっつけてやる、と宣言しただけで、征服したかどうかはよく分かりません。※後掲関によると、中山世鑑」巻3,「中山世譜」( 沖縄県所蔵康熙40年序本)巻之3,「球陽」巻之2,『琉球国由来記」巻3 典制門. 「琉球神道記」巻第5などに同様の記事あり。
 ただ、勝連屋敷という史跡の存在で、15C頃に琉球本島の勢力が及んでいたと想像されること※、奄美大島も同時期に少し早く琉球の影響を受け始めていること※※などから、喜界島も琉球王国の支配域に入ったろう、と推定されているだけです※※※。

 喜界町の白水集落に残る勝連屋敷は、15世紀中葉の琉球領内での有力な按司である勝連按司の阿麻和利の配下が、喜界島に進出していた事を今に伝えています。〔後掲農業農村整備情報総合センター〕

※別章でわざわざ訪問→内部リンク∶m19S_14第三十八波mm喜界島m阿伝で待つ/勝連屋敷
※※奄美大島が、薩摩侵攻(1609年)前に琉球王国又は沖縄本島勢力の支配下にあったかどうかは、実は明確ではないらしい。AI二つは全く異なる回答を返しました。史料的には球陽などの前提として推測されること、考古学的に出土品に沖縄本島の影響が見られること、その他は、薩摩時代の史料の記述から、総合的にそう解釈されているだけのようです。後掲のように、次世紀の16Cにも奄美大島の反乱はあったようです。また、薩摩による史料の収集管理(没収)の結果とも言われます。
※※※勝連屋敷は「勝連按司の阿麻和利」配下にあったとの推測を導く史跡です。勝連及び阿麻和利は、第一尚氏末期には琉球王朝と戦闘状態にあったとされるわけですから、沖縄本島の支配域に入っていたけれど、首里の琉球王朝とは別系だった、という解釈も成り立つ……というよりそちらの方が自然です。実際「喜界町誌」は、三山時代から琉球征服までの間、喜界島は琉球の勝連按司の勢力下又は連合下にあったとしますけど──歴史解釈がさらに複雑になり(≒第一尚氏末期の内部対立と関連付ける必要があり)、ただでさえ史料が少ない中でストーリーを組み立て切る論者がいないようです。

 なお、他の関係記述として琉球神道記の記録があります。これは序文によると※1605(万暦33・慶長10)年完成。著者・袋中良定は浄土宗の僧侶、明への渡航を望み琉球へ渡ったけれど船がなく3年後に帰国。典拠の記述はなく、いずれにせよ「喜界島征服」から150年近く後の伝聞記録です。
※奥書によると1608(慶長13)年。

僧袋中が著した「琉球神道記」にも「(喜界島は)小さい島ながら、堅く持して降参しなかった」という記述からは、ある一定の勢力の存在を伺わせています。〔後掲農業農村整備情報総合センター〕

朝鮮実録∶岐浦島・池蘇島(=喜界島)

 以下は、朝鮮史料内に喜界島征服らしき事象が描かれているものです。そもそも両岐浦島・池蘇島が喜界島かどうか、音も当然には一致しないし怪しさを宿しますけど──蓋然性は高いと仮定して、以下二史料を読みます。

「端宗実録」巻6、元年 (1453) 5月丁卯 (ll日) 条 ([72])
宴琉球国中山王使者道安于礼曹、礼曹録道安之言以啓、
一、去庚午年、貴国人四名、漂泊干臥蛇島、島在琉球・薩摩之間、半属琉球、半属薩摩、故ニ名則薩摩人得之、二名則琉球国王弟、領兵征岐浦島而見之、買献国王、王匿干闕内、厚加撫恤、(略)〔後掲関〕

※読み下し(同関)
琉球国中山王の使者道安を礼曹に宴す。礼曹,道安の言を録して以って啓す。
一、去る庚午年 (1450年),貴国人四名,臥蛇島に漂泊す。島は流球・薩摩の間に在り。半ば琉球に属し. 半ば薩摩に属す。故に二名は則ち薩摩の人.これを得。二名は則ち琉球国王の弟(尚泰久).兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見.買いて国王に献ず。王 闕内に置き.厚く撫恤を加う。(略)※解説(同関)「琉球国中山王尚金福の使者道安は.礼曹に対して.次のように説明している。
庚午年(1450).朝鮮人4名が臥蛇島に漂泊した。同島は.琉球・薩摩(島津氏)の間 (境界)にあり.半分は琉球.半分は蔭摩に属すという状態であった。そのため深若した朝鮮人4人のうち.2 人は薩摩の人が他の2人 (万年・丁禄)は.流球国王が得るというように.漂流民が折半されている。村井章介は.境界の両属性をクリアに示すものと評価している [村井 1988. 120頁] 。
 この 2名を得たのは.琉球国王尚金福の弟である尚泰久とある。泰久は.兵を率いて.岐浦島 (喜界烏)を征服した。その際.2名を見て.彼らを購入して尚金福に献じた。金福は.彼らを闕内に置いて.原<撫恤を加えた。」
※原注(引用元)村井章介 1988 『アジアのなかの中世日本』校倉書房
※※下線は引用者


 後の朝鮮出兵時の多人数の国内連行を思わせる、極めて酷い話ではありますけど──「岐浦島」がストーリー中に登場します。それは琉球国軍※が「兵を領して……征し」た場所で、薩摩人に一旦横取りされた2人(万年・丁禄)を「買って国王に献」じたと言うのですから、「岐浦島」は完全に琉球国の支配下に入っている状態です。
※朝鮮記録では、国王親征ではなく弟・尚泰久による遠征となっている。
「臥蛇島」というのはトカラ列島とされることが多い。かつ、この地域は薩摩(日本?)と琉球に両属していたとあります。奄美や喜界が同じだったかどうかは断定できないけれど、薩摩・琉球で分配された「戦利品」たる漂流民のうち薩摩分の二人が、トカラより琉球寄りの喜界島で見つかったという記事は面白い。単純に読むと、琉球の喜界島征服前、喜界島は既に薩摩の支配下にあった、ということになります。ということは、琉球の喜界島征服とは、薩摩から見ると自領への「侵略的」行為だった……のでしょうか?
 この結論は、一見あり得ないことに思えますから、穏当な解釈は「その部分は朝鮮側のレポートミス」というところだと思いますけど──当面の我々の課題は、琉球による喜界島侵略が、庚午年 (1450年)以後、さほど遠くない時期に行われた、という記事です。

 もう一つ、これは朝鮮正史たる李朝実録の記事で、史料性は高いんですけど内容が薄い。

 朝鮮の正史「李朝実録」世祖8年(1462)の条に、1456年久米島に漂着し琉球滞在中に見聞した事柄として「当時琉球国の東に交戦している二島あり、 吾時麻(ごじま)島(大島)は帰順してすでに15余年になり、池蘇(いけそ)島(喜界島)は毎年討伐しても服従しない」。〔後掲農業農村整備情報総合センター〕

 ただ、1456年には、奄美大島は琉球王国に従ってたけれど、喜界島はまだ従わなかった。つまり「喜界島征服」は1456年以降と分かります。
 球陽の記述とされる
「1447年 尚思達王
    ∶奄美大島制圧
 1466年 尚徳王
    ∶喜界島制圧 」
という時系列は、球陽作者が近隣正史を読み込んでいたと想像されるから、まず朝鮮実録とも意図的に整合させてます。ただその琉球側記録にすら、
「1537年 尚清王
   ∶奄美大島与湾大親を
    反抗の気配ありとし
    討つ。(後に讒言と
    判明、子孫を採立て)
 1571年 尚元王
   ∶反抗を始めた
    奄美大島北部首領ら
    を鎮圧。」
という記録がある。また、

『朝鮮王朝実録』の「成宗実録」成宗二十四年(1493年)条には、琉球と「日本甲船」が奄美で紛争となり、琉球が勝利したと記されている。〔wiki/奄美群島の歴史〕

という情報もある※。
※wiki以外にこの記事は見つからない。
 琉球の歴史書のタッチ、なかんずく北山滅亡の描写などを思い起こすと──中国的な意味での「政体」が奄美や喜界にあったとは思えませんから、誰か王様を討てば征服したことになる、というような状態ではなかったと想像されます。琉球王国は烏合の衆の両島を何度も蹴散らし、武威を示し、両島もそれへのリアクションとして反抗し──と「ずるずると支配を強めていった」というのが実情だったのではないでしょうか。
 その場合、より対明交易用の色彩を強めた第二尚氏の呼びかけに応じ、「儲かりそうだから」新政権に参加していった可能性が強い。──やはり想像ですけど。