m19S_01第三十八波m我を射よ海を埋める青葉潮m喜界島m初めて歩く


1844街を一歩きしてみる。
コインランドリーあり。車道。

「コロナ対策万全のお店」旗がはためく喜界島第一ホテル前

喜界第一ホテル前・バス停──小字名はないのか?

寂しい。すぐ向こうは港です。

港が寂しい??草がぼうぼうです。
港にて残照を見る。1851

南右手に石垣。元の海岸線でしょうか?
車道南ワンブロックに石垣ライン

派出所。まっすぐにほっともっと。その手前に赤い鳥居。
ここの船には殆どに目がない。
金比羅神社の御本尊祠

1856金比羅神社。──いきなりここが?御殿(うどん)の鼻。

1466(文正元)年琉球の尚徳王は,兵二千余人,軍船五十余隻に分乗し喜界島討伐に来た。島軍は,長嘉が総指揮をとり御殿の鼻を本陣にして迎え討った。[案内板]

新しい祠。榊はあるけど供え物はない。周囲にも祠は見当たらぬ。

金比羅神社鳥居内より港を再度見渡す。

1905くすりの橋本。入浴剤のバラがない?
Aコープの通りへ。どうやらここが商業のメインストリート。
ホテル入口に回転寿司?除くと確かに回ってる。
1931ホテルへの入口の信号機

2009ビタロー250
(湾448)中山さん うさぎのよもぎもち250
Acoopで売れ残ってた「ピタロー」

このお魚は,瀬戸内の……昔の言い方か方言か分からないけれど「ギザミ」に似てる。そう思って──昔はよく食べたけど,今はしばらく食べてなかったので──パクパクと行っちゃいました。しかも昨日の一味唐辛子の残りがあったのでかけてみると,蛋白でシマった身にぴったりで──。
 でも調べると種類は全然違いました。

ビタロー 
(学名 ハナフエダイ 地方名 ビタロー)
黄色や青色、オレンジ色と、色彩鮮やかのことから、地元では、ビタローと呼ばれて、馴染まれた魚です。
水深300m以深に生息し、身がしっかりしまっていて、刺身にはもちろんの事、バター焼き、煮付け等、さまざまな料理に適しています。調理後も色鮮やかな模様が消えません。ぜひ、ご堪能下さい。[奄美漁業協同組合/海産物の紹介]
※URL:http://www.minc.ne.jp/~kasari_gsh/kaisanbutu.html

 これに対し,瀬戸内のギザミはキュウセン(求仙)と呼ばれる種類。種族はスズキ目ベラ科 ulticolorfin rainbowfish[㈱岡山県水]。
 でも喰らう方からすると,やっぱり記憶の中のギザミそっくりだったのです。
 さて,Acoopにも目的の単品入浴剤は無かったので,これもついでに見つけて購入したんですけど──

過去イチの「喜界島名産」よもぎもち

 香気と苦味の混ざった味覚が最高峰でした。個人的にはかつて食べたよもぎの中で最高の味覚。
 でも「喜界島特産」?南さつまではなくて?
 喜界島で「ふとぅむっちー」と呼ぶよもぎもち。南さつまでよもぎ団子を「ふっのだんご」と呼ぶから,語源は共通っぽい。
 例えば坊津の「おふくろの味5種」(ふっのだんご・木目かん・よもぎ餅・あくまき・ふくれ)というネットショッピングのページがあったけれど,喜界島湾のAcoopの地場スイーツの棚にはこれらが全て並んでました。
 つまりこの食文化が主張するのは──喜界島の食形態は,おそらく薩摩や琉球まで伝播する,極めて感染力の強いものらしい。
 これはまた……甑島とは全く違う感覚です。明日はまず「犬も歩けば」作戦(って言うのか?)で闇雲に動いてみたい。
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■レポ:喜界島の三人のノロ▼▲

辺土名「イビの前」

イビの前に祀るノロ▼▲

〈喜界島ノロとイビの前〉
 沖縄県最北端の国頭の辺土名に,「イビの前」と呼ばれる聖地がある。そのイビには大きな岩があり,その岩の前に霊石イビが置かれている。それが海上で遭難した神女喜界島ノロを葬ったイビの前である。
 ある年,喜界島のノロが亡くなったので,後継のノロに遺児の美しい娘が決まった。その娘ノロは慣例によって,首里王府の辞令を受けるために船をやとい,遠い琉球へ渡り,国王にお目どおりとなった。ところが国王はその若ノロにひと目惚れし,いろいろ手をつくしてついにわがものとした。
 若ノロは首里城内でのできごとに強い衝撃をうけ,帰りの船の中でも意気消沈してなやんだ。〔後掲喜界町誌(以下「町誌」という。) 原典∶盛山末吉「郷土研究会発表史料」〕

 若ノロはついにゆく末を絶望し,「神様どうぞ波風を立たせて私の命を奪ってたぼれ」と船上で祈った。するとまたたく間に天地が暗くなり,海も荒れ狂い大暴風となって,若ノロは船もろとも波に呑まれてしまった。
 それから数日後,辺土名の海岸に藻草がうちあげられ,そのそばに白装束のノロの屍が漂っていた。その時,そこを通りかかった里之子(さとぬし)という位の役人が,白衣の屍に気づいた。
 男は遭難者の衣装と気品からただならぬ女性とみて,近くの森の麓に手厚く葬った。そこが「イビの前」である。
(略)国王は四番里之子の処置を誉め,イビの前の土地を与えた。〔後掲後掲喜界町誌,以下「町誌」という。〕

テルコ口を伝えたノロ▼▲

伊平屋島田名のヌイシジチ。1970年代までは乗馬で行われていたと伝わる。〔後掲外間〕

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〈田名集落(沖縄県島尻郡伊平屋村)の乗連(ぬいしじち)行事〉
(略)田名集落では,「ヌイシジチ」という特殊な行事が毎年旧暦の七月十七日に行われているが,この行事の由来について『伊平屋村史』(伊平屋村史発行委員会編)は,次のように述べている。

……喜界島の祝女(のろ)が,那覇帰りの途中この島のアカシ海岸に上陸し,田名祝女とも親しくなって,その祝女が島(町誌筆者注∶喜界島)へ帰る時の見送りだと言われている。〔前掲伊平屋村史〕

黒漆螺鈿鞍(伊平屋村歴史民俗資料館)。「表面は全体に黒漆を塗り、前輪、後輪、居木のそれぞれに螺鈿細工が施されている。貝は大小様々な形をしており、不規則に割った貝を無造作に張っているように見える。鞍にちりばめられた螺鈿は大胆でたくましく、かつ繊細で美しいものとなっている。」「同村田名区の祭祀ウンジャミで使用していた鞍とみられる」

当日の午後,女神たちはテルコ口を歌いながら,殿内を手はじめに集落内各戸を廻るが,このテルコ口も喜界祝女の置き土産だと言われている。〔前掲伊平屋村史〕

伊平屋島田名のヌイシジチ概要▼▲

同区には田名ノロ、安里ノロ、天ノロを含む20名の女神役がいる。祭祀を行い、現在でも継承されている。次に同区の祭祀ウンジャミの内容は以下のとおりである。旧暦の七月十七日に行う祭りをウンジャミという。「海神祭」の文字を当てるのを見るが、海との関係が強い行事だからである。伝承では、むかしチチャ(喜界島)のノロの船が、首里からの帰途伊平屋の東方海上で難破した。その喜界ノロを救助し、介抱したのち厚くもてなし、送り帰したことに由来するという。(しかし、神送りの行事は各地にあり、喜界ノロの話は後に付会したのであろう)午前、田名屋の火の神を拝み、その庭で神を歓待し、さらに村はずれから馬を連ねて神送りをする。最後は東岸の岩の上からの神送りである10)。
 この神送りの際に神女たちが馬を連ねて島の東岸で神送りをすることを「ヌイシジジチ」と呼んでいる。語義は<乗り続き>または<乗り連ね>であろう。前夜数人の神女が各戸を訪問してススキを配り、その返礼に月桃の葉に包んだ餅をもらう。17日の朝、根屋である田名屋の庭で東方へ向かって神歌(ウムイ)をうたい、神酒を受けたのち、舟型のなかに立って模擬的な船こぎ儀式をおこない、手をかざして神送りのしぐさをする。その近くで各血族が準備した馬に乗り、東岸の港口まで乗り連ね、そこにある拝所の前の岩に上り、東方を拝んで神送りを終了する11)。〔後掲外間 原典∶10) 伊平屋村教育委員会『伊平屋のまつり』1988年 ※外間論文には注11が欠落している。〕

琉球の馬鞍製作技術▼▲

 本島の馬鞍は中古の世すでに日本の法を学んで造る。近世にいたりては製造をなすもの無き也。独り牧志親雲上なるものあり。小太鞍をもって本国へ給与せられ、この様に照らして造る。これより鞍工は、もっともその法を善くするものすこぶる多し、しかるに歴年久遠にしてしたがって詳稽することなし〔後掲外間 原典∶琉球国旧記/事始記/鞍工〕

伊平屋島田名のテルコ口

島親の御前居て 国前の御前居て
吉賀利事(ゆかりごと)しゃりら 果報な事しゃりら
我が兄弟(おとじゃ)いもやうり 我が姉妹(をなや)いもやおり
果報な事しゃりら 童名や何名【家主の名を唱う】
奥の名や何名【家内名】 八蔵百持ちやうり
かしらあんゆより 初の子はてだやり
奥の子は土やり てるぬみが初むなるくみがのだて
喜界からど初め 喜界からどのだて
喜界の島ゆより 金の島ちちょうち
田名の子が掛け島 田名の子が得々島
しむし酒ふさてい ひるまみじふさてい
徳の世の主が 徳のわがざらが
まひちよればふさ 楽ばふさてい,てい〔後掲町誌 田名のテルコ口 伊平屋村史転載〕

 昭和十年文学博士折口信夫(略)が来島されたときこの行事の説明に「大和民族が南進または北進のとき,この島に寄港して,その人々が日本へ渡航の際の見送りだ」と,話されたが,テルコ口の文句を考えると,当地での伝説がいかにも本説ではないかと思われる。〔後掲町誌 伊平屋村史転載〕

オシカサの首里帰行▼▲

  闇へ押笠 鳴響(とよ)む押笠
  やうら 押ちへ 使い
又 喜界(ききゃ)の浮島 喜界の盛い島
又 浮島にから 辺留笠利【1】(べるかさり)かち
又 辺留笠利から 中瀬戸内【2】かち
又 中瀬戸内から 金(かね)の島【3】かち
又 金の島から せりよさ【4】にかち
又 せりよさにから かいふた【5】にかち
(略)
又 崎枝にから 親泊【6】にかち
又 親泊にから 首里社(しゅりしゃ)にかち
〔後掲町誌
原典∶おもろさうし(巻十旅歌(ありきえと)のさうし)
【番号】は引用者追記。以下はその町誌解説。
【1】当時の北二島支配の拠点{引用者注 鹿児島県奄美市笠利町大字辺留}【2】奄美大島南部 【3】徳之島 【4】沖永良部島 【5】与論島 【6】現・那覇港

 単なる寄港地の列記ではありません。喜界のみ記述が異なる。
 笠利の政治拠点ではなく喜界島を起点にしているのはなぜてしょうか?また,そもそもこの首里中央のノロは,喜界島へ何をしに来たのでしょうか?
 また,なぜ往路を唄わず帰路のみなのでしょうか?

先述の伝説に登場した三人の喜界ノロは,いずれも「御朱印加那志」と呼ばれる公儀ノロであったと思われるが(略)首里へ上り,聞得大君に拝謁する他,貢物が神の加護によって無事首里に届くよう祈って,直接貢納船に乗船することもあったと言われる。〔後掲町誌〕

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