010-a旧・勝山市場の坂\長崎withCOVID\長崎県

太陽ギラギラ中町教会

注∶本編はマニアックです。長崎の坂を偏愛する方以外は、何が面白いのか理解しにくい旨、予めお断り致します。


長崎六町台地周縁20坂〔後掲旅する長崎学/高低差その1 原典∶享和二(1802)年肥前長崎図(長崎歴史文化博物館蔵)〕

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

朝。初日の不吉な空が嘘のように、太陽ギンギラギン。
0955、出発。
 中町薬局のT字から中町通りを東南へ。ad.中町1。

0959中町カトリック教会前

町カトリック教会(→GM.)。湾曲する道なりに進む。
 ここが大村藩蔵屋敷でもあったと看板。──というか、大村藩蔵屋敷の跡地を殉教の地と見て、島内要助神父が1890(明治22)年に建てたのが中町教会〔後掲ナカジン、Laudate〕。原爆で崩壊したけれど、尖塔と外壁の一部が残ったので、それらを生かす形で再建したというから、執念です。
 ここからやや登り調子で上町通りとの接点の十字まで。ここを左折すると福済寺や聖福寺。
1007十字路から最後に振り返る

日は右折南行。1007。──下記画像の右手が中町公園で、前述の「殉教」をした聖トマス西と15人の殉教者※の碑がある……という。

※ドミニコ会司祭、修道士、修道女、彼らを助けた信徒たちで、1633~1637年に長崎西坂の丘で殉教したとされる〔後掲ナガジン/カトリック中町教会〕。いわゆる26聖人とは別の人々で、なぜ別カウントで、マイナーなのか、よく分からない。宗派の問題でしょうか?

 桜町電停脇で線路をまたぐ。
 ad.桜町1から市議会庁舎脇のささやき坂を登る。

1011喫茶「ささやき坂」(→GM.)前からささやき坂

桜町獄から桜橋渡る

崎市上下水道局(浄水課→GM.)。非常に緩やかながら、ここをトップにして東はやや下ってる。1015。
──このブロックは、東の同上下水道局経理課〜料金受付センター(行程∶GM.)の道の北を塞ぐ形です。

1015上下水道局から東の光景

の現・市役所ブロックの奥に桜町牢獄(→GM.)跡碑があります。1614(慶長19)年にサン・フランシスコ教会と修道院が取り壊された跡地に設置した牢獄で、そこに多くのキリシタンを収容したという〔wiki/桜町牢〕。牢獄は明治以降も桜町監獄として活用されたので、敷地の形はそれを引き継いで、つまり分筆の機会を失ったまま現在に至ったのでしょう。

てさて、本日は東北東へ。サンフランシスコ教会(修道院)跡から櫻橋を渡った先で右折……いや,もう一つ先じゃ。桜町小学校対面の石畳の坂道を右折(→GM.)。南東に長崎県議会発祥之地※のある坂、ここが前回心残りになっていた名も無い坂、今回の仮・目的地でした。

※浄土真宗 光永寺(長崎市桶屋町33)内。第1回県議会が、この光永寺を仮の議場として開催された、という意味の「発祥」。その後 明治14年(1881) までの3年間に5回の通常・臨時議会が開催。〔後掲発祥の地コレクション〕
 なお、長崎は明治最初の一年間は「長崎府」でした。同時期の府はほか江戸(東京)・大阪・京都の計四で、「行政・軍事の中心」の含意での呼称と言われる。うち東京が遷都により東京都に「格上げ」された一方、長崎のみが長崎県に「降格」。長崎奉行所は「長崎税関」として存続したのに、政治感覚的にはともかく、行政的なその理由はよく分からない。現・長崎県は「府復称運動」を起こしてもよいのではないか?
1020勝山市場坂トップより下を見る

コロナの間に消えた勝山市場

020。
 えっ!!──左手東側の勝山市場は撤去されたらしい。残念、一足遅かったのかあ!でも、再開発状態だからこそ、くっきり筆──敷地の形は残ってます。
 右手に小さなパン屋さん。

1022完全撤去された勝山市場
2022.7.16現在GM.上にまだ残ってる勝山市場跡の筆
▲2019.8.12-0954勝山市場の商店街入口

火栓下の十字を左折。
 周囲はかなり重点的に再開発されてる。典型的な……一足遅かった!パターンです。
1025再開発の進む勝山市場付近(勝山市場撤去場所は写真右)

026、古町自治会掲示板。その後ろの三角地に寛政12年のお堂?
1027密かに寛政12年お堂

く考えたら「古町」なんてなかなか付けようと思わない地名です。この周辺、今博多町、大井手町、八幡町までの一帯は遊女屋町寄合町だったと言われてます。中でも古町辺りが一番古い町、多分沖縄の「根地」のような土地だったという。なぜそれが伝わるかというと、この遊興地が1640-43(寛永16~19)年頃に移ったのが丸山とされているからです。つまり「元・丸山」という懐かしみを含意させたのが「古町」地名らしいのです。〔後掲ナガジン/長崎の町名なるほど大辞典〕
1028寛政12お堂と勝山市場を再度確認

長崎の時空に積まれた史料

崎の凄いのは、ふと振り向いたこの古町にすら、これだけの歴史がズルズルと尾を引いてくるところです。油断も隙もない町です。

享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東部に立地し,町並みは南北に延びている。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では箇所数31(柏原家文書),寛文3年の町の長さ280間・家持42(寛宝日記),同12年の町の長さ211間,実箇所数48,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数3,182坪余,箇所数50,竈数103,戸数122・人数338(男184・女154)。また,松寿軒は,寛永17年開創の普化宗長福山玖崎寺という虚無僧寺を再興したものであった。乙名職は,明暦から元禄年間は出野六兵衛であったが,延享4年に堀喜三郎が勤めてからは,喜三兵衛(安永5年まで),郁右衛門(安永5年~文化年間),祥左衛門(天保元年~嘉永元年),喜八郎(嘉永元年~明治元年)と,堀家が相続した。(続)

(続)明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には醤油屋などがあった。昭和3年の戸数105,同10年の戸数106・人口502,同50年の世帯数95。〔角川日本地名大辞典/古町〕


 柏原家文書は、江戸時代の寛永年間(1624-1644年)の頃に、長崎で南蛮貿易を行っていた柏原太郎左衛門について記した関係書類8通〔後掲宇城市〕。
 寛宝日記の「寛宝」は人名で、1633-1708(寛永10年から宝永5年)までの日記で、長崎市中の恵美須町の吏員記録と推定されます〔日本歴史地名大系 「寛宝日記」←コトバンク/寛宝日記〕。

※ 同日本歴史地名体系は日行使職を例示。日行使は、近世長崎における各町の指導者である地役人の最下層。地役人の職名は上から順に町年寄、乙名(おとな)、組頭、日行使(にちぎょうじ)。彼らが政治上でも活躍したのは江戸初期からだといわれる。町政上、重要な役割を果たす地役人は当然、財力と人望を合わせ持つ人物であることが多かったとされる〔後掲ナガジン/遺物から……市役所通り〕。

 つまり、政経の要地ゆえに識字者が集中し、そのうちの好事家が個人的興味で残した記録が重層的に残っているのです。だから近世の長崎の時空は、逃げも隠れも出来ません。
 さて──北東へ直進。汗滴る。
 1029、真宗大谷派光泉院(GM.∶光泉寺)。

1030細かく左右にブレる道

は、左右に細かくブレている。ここだけ示されたら浜辺の道です。
 三叉路。右折してみよう。いや?食い違いの十字になってる?──しかも左手北西側は細路地?
1034互い違いの道をさらに進む。

い違いで北東、消防団第六分団横から入る細い道。これを進もう。左折東行。1035。
 微かに登る。

カルカッタ十字路辺りに地層あり

1037カルカッタ十字路

ルカッタ?
「昔懐かし秘伝のカレー」屋さんの十字をさらに進む。1037。
──この路地は、どうも妙です。十字が連なるけれど、すぐ北には私道のままの、筆の間隙みたいな筋があるっぽい。
[+]カルカッタ十字 [青ライン]「間隙」

たかも「筋」を隠すように付いてる細筋です。航空写真では、やや筆のサイズが大きいように見え、ここだけを再開発した結果と想像されます。
「筋」より北はad.馬町。町名は「伝馬を供給していたことに由来」〔角川日本地名大辞典/馬町〕するというけれど、換言になるけどこのエリア南東縁ラインが「筋」です。馬替えの馬場地が廃されつ時に出来た「地層」のようなラインかもしれません。
馬町位置図

空写真(下図)でも、上記のポイント(ライン)を押さえていれば、まあなるほど、と初めて思えないこともない。当初の沖縄Xで画像だけからこの点を発見しようとするのは無理がありそうです。
 それに、この「地層」が見つかったからといって、それが何を意味するのか──この場合はてんで分からないんですけども。諏訪神社に至る南西手前の馬場が、何か意味を持ってたんでしょうか?
同位置航空写真

記は約半世紀前、1974-78年の航空写真。[+]がカルカッタ十字、右上が諏訪神社。
 画像の質の差もあるので不明瞭ですけど──馬町の南東縁がややくっきりしており、何よりカルカッタ十字から北東のL字が、北東が空地なのに折れている●●●●●●●●●●●●●のがよく分かります。
同位置 1974-78年 航空写真

1038カクッと段差道

クッと段差状の坂の向こうが右に湾曲。
 ここもがっつりと再開発した形跡あり。垣が残るマンション。1040。
──このブロックは出来大工町になります。1671(寛文12)年に新大工町から分離した町で、既存の新大工町の下手にあたることから下大工町、または町内の桃の木の多さから桃の木(樹)大工町とも称されたエリアです〔角川日本地名大辞典/出来大工町〕。でもこの筆割の理由は全く推測不能。
1040それでも残る垣根

長崎にいた頃の諭吉の井戸

樹下に福沢諭吉案内板のある水神祠?
 いや?井戸らしい。諭吉が安政の大地震の時に落ちそうになった……と「福翁自伝」にある井戸なんだって。
 ホンマかいな?あまりにも具体的過ぎるので、ちょっとだけネットを掘ると──

1043大樹の下の「水神祠」

854(嘉永7)年から翌年にかけての長崎留学中、福澤が食客として身を寄せていた町使※で砲術家の山本物次郎宅は、確かに出来大工町の町使長屋にあったみたいです。

※原注 町使∶都市や港湾の警備を担当した地役人

 井戸は、諭吉の高名が語り継がれるにつれ、1937(昭和12)年に長崎三田会が「福沢先生使用之井/安政元年」と刻まれた標石を井戸の脇に建てたのが、改築の度にどんどん整備されていったものらしいけれど、現在研究者はこの井戸を同長屋の共同井戸で、諭吉専用はもちろん山本家専用でもなかったと見ています〔wiki/福澤先生使用之井〕。ただ、諭吉の学歴はこうした長崎の路地裏から始まったことに思いを致すには、まあ楽しい。

「坂の上の雲」第一回∶松山の風呂炊きをしながら、秋山真之に福沢諭吉を語る兄・秋山好古

地はついに、右に90度曲がって絶える。ENEOS脇、「九十九島せんぺい」(ママ)看板が見える線路脇へ。公会堂前通り。
 馬町地下歩道へ潜る。2Aから出るとシーボルト通り。大手橋(→GM.)から川を渡る。
1051大手橋から中島川支流

側路地をちらちら覗く。住所では新大工町一丁目から片渕一丁目の辺りなんだけど、これまでも何度か気になった、微妙に古びた感じがある。一度迷い込んで、出られなくなって困った記憶もある、妙にホールドのないエリアでした。
──この方面、つまり電停・新大工町から新中川町の北側エリア、結果から言えば「城の古址」の約五百m四方に、その後何回かこだわることになります。
 この少し先、夫婦川エリアが本日の漠然とした目的地です。
「ぱん屋 まいにち。」に数人の列。

天満市場跡と土神と水神

天満市場裏通り

の裏手の「天満市場」は、短いかと思ってたら……裏手に東西方向に店の列が伸びてます。
──後で調べると、この訪問の2年前に市場自体は店舗が撤退し、その跡地状態の場所のようです〔後掲長崎新聞2020〕。
「まいにち。」ロゴ。ギリギリ食パンに見えなくもない絵が特徴。

回りしたら……おおっ!瞬間的に「まいにち。」の客が絶えていたので立ち寄る。
 新大工町にはなぜか新店舗が時々出る。魚屋の「食堂」をちょっと目標にしてたんたけど、イメージと違ったので早々撤退。昼メシは諦めて対面の新大工町2から、北東へ入るコースをとってみる。1154。
道端に土神

ロック半ばに側溝。ここまでが南北から微かに登っている。変わった配置で読み取れません。
 南からの登りの中途に、墓もないのに土神の石柱。よく見ると側溝脇にも、今度は水神の石柱。これら水路が、さりげなく信仰の対象とされているようなのでした。城の古址方面からの水脈だから……でしょうか?
マンション端に水神(左下手前の方石)

■レポ:勝山市場の65年間

 長崎の現・市役所前交差点(GM.∶皇漢堂)では、徒歩の際には何度か迷いました。ここは車道の立体交差の下側を電気軌道が通過してます。通常「桜橋」と呼ばれるこの構造は1954(昭和29)年3月に竣工。これが下図の[57]数字の箇所で、その右下の斜め(ほぼ東西)に続いてる道が旧・勝山市場です。

勝山市場位置図〔地理院地図〕

 この状況から予想される通り、現在桜橋を潜っている電気軌道は、かつては勝山市場の東西ラインを通っていました。換言すれば勝山市場は、電気軌道の撤去跡地の利活用として設置されました。

桜町支線∶長崎駅-豊後(小川)町-桜町-古町-長崎市役所

 長崎駅から中華街や観光通り方向へ向かう観光客がよく乗り間違うのが、蛍茶屋行きの支線です。というか今でもワシは時々間違って乗ります。駅、桜町、その次の市役所駅で蛍茶屋線に入ります。
 この中間駅・桜町駅は、瓊の浦公園の東端付近です。この辺りに、最初は豊後町、大正後期から小川町と呼ばれた電停があったらしい。
 なお、この豊後町は六町の名には含まれず、かと言って屋敷跡に由来するとも考えられず、消去法的に豊後方面からのキリシタン難民が流入した土地と疑われてます。

町名は,島原城主松倉豊後守の屋敷があったことに由来すると伝えられる。しかし,松倉豊後守の島原入封は元和2年であるので,この伝説は信憑性がない。おそらく豊後の人達,特に豊後の亡命キリシタンによって造られたことに由来するとみられる。慶長元年豊後町と桜町の間に大堀(二の堀)が造られ,長崎防備の要とされた。この大堀が廃止されたのは慶長10年以降のことと考えられるが,「長崎古今集覧」によれば,延宝8年豊後町堀は涸水の理由をもって曽根川検校が築立て屋敷としたとある。〔角川日本地名大辞典/豊後町〕

 後段も面白い。豊後坂はこの日通った「ささやき坂」の一つ西ですけど(→上記坂マップ参照)──

▶〔内部リンク〕→006-3六町北西縁\旧六町編\長崎県/豊後坂:「キュー」と叫びながら下って行った
▲0913,10番坂(豊後坂)

──ここに「大堀(二の堀)が造られ、長崎防備の要」とされた、という。この実態は不詳なんですけど、現・瓊の浦公園の波打つ輪郭と下記安野イメージⅢエリアの波打つ感覚から、大堀(二の堀)≒瓊の浦・桜町公園北縁≒旧・桜町支線線路と、何もかも重ねてしまう説明は出来ないのでしょうか?

▶〔内部リンク〕→018-1森崎A面(長崎)\長崎\長崎県/■レポ:明かされなかった長崎森崎遺跡/安野・長崎四分イメージ
(上)安野論文「図1 元亀・天正年間長崎想像図」 (下)同地域の日本地理院地図

坂の上には桜町停留所

 さてようやく本題。この豊後町停留所から現・桜町小学校南縁を通り、勝山市場ラインから古町へ、かつての桜町支線は抜けていました。ただ、その最高部には「桜町停留所」が置かれたというのです。

当停留場は1919年(大正8年)に豊後町停留場(ぶんごまちていりゅうじょう)として開業した[1][2]。1921年(大正10年)には小川町停留場(おがわまちていりゅうじょう)に改称[1][2]。停留場名は「おがわまち」と呼称するが実際の町名は「こがわまち」で、誤りが定着したものであった[3]。
当時の停留場は瓊の浦公園近く(北緯32度45分1.4秒 東経129度52分34.4秒)にあり[4][5]、桜町支線は当停留場から先、蛍茶屋支線との接続点にあたる古町停留場(廃止)に向かって峠を越えていた[6]。路線は当停留場の先で40パーミルの上り勾配に差し掛かり、桜町公園の外周に沿うように90度右折してピークを迎え、そこで国道34号と交差[6]。その後は40パーミルの下り勾配に転じて古町へと通じていた[6]。この峠の頂点にあたる場所には(旧)桜町停留場(北緯32度45分2.5秒 東経129度52分43.3秒)があり、当停留場に先んじて桜町を名乗った[5][6]。〔wiki/桜町停留場 長崎県長崎市にある長崎電気軌道の路面電車停留場

原注1 ^ a b c d e 田栗 & 宮川 2000, p. 76.
2 ^ a b c d e 今尾 2009, p. 57.
3 ^ 岡田将平 (2016年1月27日). “路面電車の電停 西浜町なぜ二つ?”. 朝日新聞(地方版・長崎) (朝日新聞西部本社): p. 30
4 ^ a b c d e 田栗 2005, p. 74.
5 ^ a b c d 100年史, p. 128.
6 ^ a b c d e 田栗 2005, p. 75
(参考文献)今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 12 九州沖縄、新潮社、2009年。ISBN 978-4-10-790030-2。
田栗優一『長崎「電車」が走る街今昔』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2005年。ISBN 4-533-05987-2。
田栗優一、宮川浩一『長崎のチンチン電車』葦書房、2000年。ISBN 4-7512-0764-4。
長崎電気軌道株式会社『長崎電気軌道100年史』2016年。

 非常にマニアックな書き方なので、(旧)桜町停留場の経緯度も信用するとすれば、その場所は現・桜町小学校南角付近になります。ここから桜町公園北縁のL字を通って現代の桜町駅付近へ抜けていたのだと想像されます。

(旧)桜町停留場予想位置図〔地理院地図〕

桜町の坂を越えてゆくトラム

「桜町 – 公会堂前(現・市役所)間を走行する370形電車(2018年3月)」〔後掲長崎電気軌道桜町支線〕

路線図(南・市街部のみ)〔後掲長崎電気軌道桜町支線〕

※赤迫支線∶本線最北駅は住吉で、ここから長崎電気軌道最北駅・赤迫までを区分上「赤迫支線」と呼ぶ(下図の引用者削除部)。

峠越えの区間は戦後の1954年(昭和29年)、国道34号との交差部が立体交差化したことにより廃止[4]。桜町支線は当停留場から公会堂前停留場(現在の市役所停留場)に向かって切通しの中を通り、国道の下を抜けるようになった[4]。このとき当停留場は移設、(旧)桜町停留場は廃止されている[5]。代わって当停留場が桜町と称するようになったのは1966年(昭和41年)のことである[1]。〔wiki/桜町停留場 ibid.〕

 色々と興味深い記述です。
 そもそも、「交差部が立体交差化した」らなぜ既存線路が廃されなければならなかったか、よく考えるとピンと来ません。旧線路は新・桜橋の脇を通ってるわけですから、両者に競合関係はないのです。桜町公園のL字近いカーブはなくなるけれど、新たに公会堂のL字が追加される。
 もう一つは、1954年に桜町停留所がなくなって、瓊の浦公園近くに新・桜町が出来る1966年まで、12年も長崎駅-公会堂(現・市役所)駅間には駅がなかった、つまり直通していたことになりそうです。この間の距離はそれほど短くはないにも関わらず、です。

「昭和29年に軌道が変更され、桜町の立体交差を通る以前は、このスロープを電車が登ってきていました。勝山市場は、その軌道跡のスロープに造られていました。」〔後掲江島〕

勝山市場の散りゆく桜町

 桜橋の竣工年1954(昭和29)年の長崎は、平和宣言が発表された以外、特に事件はありません。ようやく再建にステップを進めた時期、と解するしかない時点です。
 建築眼のあるらしい後掲ALL-A blogさんの記録によると、勝山市場の建物は旧廃線跡をモルタル壁で高く覆ったものを継ぎ接ぎして運用してきたものらしく、やや荒くはあるけれど一次的に何者かが天蓋を付けた形跡があり、それを後の入居者が改築して利用してきたものと思われます。
 勝山市場のありし日の画像を、南東端から並べてみます。

南東端〔後掲ALL-A blog〕

 画像にある萬両亭が、勝山町で最後まで営業された中華料理店。2019(令和元)年9月閉店。
2019/09萬両亭前での記念撮影〔後掲長崎新聞2019〕

(上)南西側側面 (下)同基部。鉄道敷設時代のものと推定される。〔後掲江島〕

「木造2階建て長屋の中央を通路が貫通し、1階が店舗で2階は住居。ここまでは大黒市場と同じですが、大黒市場は通路上にも2階が存在したのに対して、勝山市場の通路は2層吹き抜けになっています。」 〔後掲ALL-A blog〕

※大黒市場→他人ご推薦リンク 江島 達也/対州屋 昔の仕事日記より またひとつ姿を消した故郷 ~ 大黒・恵美須市場撤去 2013年03月20日 URL:https://note.com/horse_whisperer/n/ne0621f50e252

「いくつかの木造市場を見てきましたが、こんな垂れ壁は初めて見ました。」 〔後掲ALL-A blog〕

「通路上は越屋根」〔後掲ALL-A blog〕

勝山市場北西端〔後掲江島〕

北西端に開店しておられた鶴田商店。2017閉店。〔後掲江島〕