FASE85-1@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#九月の今帰仁がざらついてきた\ 湧川神アサギ

※原句∶七月の電柱がざらついてゐる 開成
あかん61枚撮っとる……えっと……三章に分けてお届けします。

[前日日計]
支出1300/収入1250
    ▼13.0[363]
    /負債  50
[前日累計]
利益 -/負債 214
九月十九日(一祝)
0700ミスリ(宿前ベーグル)
黒糖ベーグル210
1355レストランハワイ
Aランチ750
1553宮里そば
ソーキそば400
[前日日計]
支出1300/収入1250
    ▼13.0[363]
    /負債  50
[前日累計]
利益 -/負債 214
九月二十日(二休)
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ベーグル ミスリの黒糖ベーグルで朝ご飯

ミスリのベーグルは,残念ながら低醗酵臭がむおんと来るユダヤタイプからはやや遠い。アメリカンテイストかというとかなり独自路線。でもこの黒糖はかなり完成度が高い。黒パンでも黒糖食パンでもない,ここでしか食べれない黒糖ブレッドを作ってしまってます。
0823ホテル前,我部祖河食堂の道を北へ。
膝の回復は上々。昨夜何度か内出血部の血が抜ける痛みがあった。左腕はまだ少しジュクジュクしてる。
空には黒雲も残るけれど晴れ間が大半。風も収まった。
いきなり道を間違えたらしい。戻ってR84へ。森のガラス館。間違いない。
へえ,ここにエンダーあるんだ。
0838為又(びまた)を直進。
本部半島の山並みが広がっていく

0848中山交差点からR72へ右折。
中山交差点を曲がった辺りの光景

0850今帰仁村へ帰ってきた。
今帰仁村集落(字)配置図〔今帰仁村〕

0855呉我山交差点右折,R123へ。呉我山共同売店からポップスが流れる。
呉我山共同売店

呉我山から谷あいの道を行く

谷あいのような道。
0903R505に出て左折。「侘助」矢印に沿って右折,脇道へ。日照。
0907三叉路を右へ。湧川。
湧川に入る

公民館からの湧川の集落光景

公民館横にバイクを停める。0910。手前西隣の高みが神アサギだろうか。
公民館から神アサギへの階段を登る

登って右側にスペース。毛アシビなどのための空間か。コンクリート製の祠の背後には森。本物です。
内部には三つ拝壇。ゴザを敷いた上に,左と中はお膳,右は木製の膳。
湧川神アサギの祭壇正面

供えはきちんとしてある。そこから一段高い場所に香炉。手前にそれぞれ,右から塩の皿,米の皿,酒のガラスコップ。
整然とした供物

祠背後にはシーソーとすべり台。老朽化したからか撤去してある感じ。
奥山との間に遊具類

公民館裏へ少し歩いてみると,共同の井戸らしいコンクリート施設に水がこんこんと湧いています。0926。
公民館裏の共同井戸

共同井戸奥の集落光景と「石敢當」

0934くろちゃん先のワルミ入口・バス停のT字路から,矢印が運天港と指す道へ。
0938十字路。交通安全ロボに再会。直進。
交通安全ロボ。なぜか彼の兄弟が今帰仁各所に立っている。

ポモドーロ矢印しかない三叉路

0942「ポモドーロ」矢印しかないT字路で左折。
勢理客の農地風景
勢理客集落光景
勢理客の道を行く

0949勢理客公民館。路肩にバイクを停める。後方で牛が啼く。
勢理客神アサギ全景

左手階段7段,神アサギ。
やはり遊具(ブランコ)がある。コンクリートの方形の祠のがらわどうにコンクリートブロックの香炉一つ。供物なし。
勢理客神アサギ祭壇正面

後方に樹木。小さなイビを成していると見ていいでしょう。唸るような蝉の声。
勢理客公民館裏の御嶽めいた岩場

ここから小さな尾根状に公民館裏の岩場に高みが続く。これも小さな御嶽を成していると感じます。
天底小学校発祥之地の碑

道路側に樹木に隠れるように「天底小学校発祥之地」碑。裏には「明治21年5月22日開校 昭和63年5月22日建立 天底性が創立百周年記念事業期成会」とある。▼▲
1007R505に戻る。バス停・山岳。右折北行。
1015やはりいち藤はお休み。橋を過ぎAcoopの前を左折。この辺りにちょっとだけ盛り場っぽい町並みがあります。
登ると高台に集落。これが玉城らしい。R72に出て右折,すぐ左折。▼▲
1029玉城公民館前停車。
左手裏山へ階段。登ってみる。

■地名レポ③:あみいす 天底▼▲

天底
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方言ではアミース・アミースクという。沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島東北部の大井川中流右岸で,運天水道を隔てて屋我地島に対する。今帰仁(なきじん)城の落武者豆按司と,その長男伊豆味下庫理が,伊豆味(いずみ)の内原に開いた大島の集落から始まったといわれる(伊豆味誌)。集落の西にはアミスガー(湧水)があって,県天然記念物のシマチスジノリ(淡水紅藻)が保護されている。〔角川日本地名大辞典/天底〕

王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方,はじめ今帰仁間切,のち本部間切,康煕58年(1719)からは今帰仁間切のうち。「高究帳」では今帰仁間切あめそこ村と見え,高頭21石余うち田13石余・畑8石余にすぎず,山林が大部分を占める小村であった。康煕58年本部間切のうちにあった集落を,今帰仁間切のうちに移した(球陽尚敬王7年条)。この時移動した先は,勢理客【せりきやく】村の水田地帯であったと思われる大井川沿いの低地や,湧水下の谷などであった。(続)(略)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治21年今帰仁間切の仲宗根村から東の地区を学区とする天底尋常小学校が兼次の今帰仁尋常小学校から独立,同29年現在地へ新築・移転した。(略)同41年今帰仁村の字となる。〔角川日本地名大辞典/天底(近世)〕

(続)今帰仁間切への移動直前の「由来記」によれば,拝所は別々だが伊豆味・天底2か村の御嶽として中森があり,天底ノロの祭祀。天底ノロは,伊豆味村・嘉津宇村の祭祀も司り,第2次大戦後まで続いた。今帰仁間切再編入後も,ウプユミの行事は勢理客ノロには属さず,独自に行った。近世末期からは山林の開墾も増え,運天水道に面する台地上に屋取のワルミ集落が形成された。〔角川日本地名大辞典/天底(近世)〕

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