m17f3m第十七波徒波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m給黎からwithCOVID/鹿児島県

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1433石油貯蔵施設立地対策等交付金広報

1431「この道路は石油貯蔵施設立地対策等交付金でつくったものです。」
香梅ケ淵上流方向

1434香梅ケ淵。鴨が飛び立つ。日本野鳥の会御推薦の「魔法の場所だ……」そうな。松原智恵子主演「ゆずの葉ゆれて」のロケ地だったとえる。
香梅ケ淵のブランコ

──そこにブランコかけてたら観光客,特にカップルの男の方とかが漕いじゃうだろ?
香梅ケ淵の淀みの色

この旧麓の水流は美しい,ということに帰りにやっと気づいた。
旧麓水流

旧麓水流2

旧麓水流の石垣

旧麓水流の石垣2

旧麓水流の石垣3

旧麓水流の分岐

旧麓水流と樹木

1456変な西郷どんから川沿いに野元方向へ。
1505仮屋崎橋。八幡川。
1506仮屋崎橋。遥かに桜島

1507野道と桜島

1510野元一号踏切,次いで八幡川を渡る。

1529特急って──IBUTAMA,指宿の玉手箱かよ!
「全席指定ですう〜」と説明受けてるうちに残念ながらドアは閉まってしまったので,とにかく乗る。乗車券は570円,さて特急券は?──750円!まあ身売りするほどじゃなかった。これで30分で鹿児島中央駅です。

1545間違えて乗ってしまいました「玉手箱」

た……確かに錦江湾が一望だああ。折角だから車内販売のコーヒーを頂きましょう。──何?交通系が使えない??お前,JRだろっ!!
いやしかし,なかなか良かった。海繋がりは全然なかったけどね……。

1612アエールP。オレンジのみ4日初売。
1618電車に飛び乗り。高見馬場下車。
1630ヴォアラ。今回はケニア・ノアール。
はるたでよもぎを購入。なぜか天文館から乗ってしまった電車,というところで1703。ふう。
ただ本日はまだ終われない。
1830涙橋 郡元温泉
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4日
第十一日

俺らの仕事は素因数分解みたいなもんやな。なんぼしんどうても,目の前の不幸から目をそらさんと,『なんでやあ〜』ちゅう想いで,素数になるまで割り切って割り切って真実を明らかにせんとあかん。お先。〔罪の声〕

0836victory cafe
白身魚サンド,アメリカン370

0912秋葉神社の公園

旧町名 恵比須町
(略)『倭文麻環』(しずのおだまき 1812)に「鹿児島市中の元始は,今の上恵比須町なり」とあり,室町時代の清水城の城下町に起源する町と思われる。当町には恵比須神の祠が建てられ,魚市が賑わい,のちには武具等を販売するものなども出てきた。また各地から多くの品物が運ばれて,2月2日に市を開いて初市といわれるようになった。(略)〔案内板〕

秋葉神社のある小公園

御祭神
秋葉大明神(火乃迦具土神 ひのかぐつちのかみ) あっかさあ
大国主命 でこっさあ
事代主命 えびっすさあ〔案内板〕

事代主命ということはこれが元の恵比須神ということでしょうか?

薩藩御城下絵図「鹿児島」(上)全体 (下)南林寺付近拡大

0936加治屋まちの杜公園

0931甲東中学校前下車。
南西には加治屋まちの杜公園。方形,これが河口ではないでしょうか。
ただぐるりに痕跡は見受けられず。
0936樋之口(ひのくち)通り

北東へ。樋之口(ひのくち)通りと表示。
微かに下ってる?
0940樋之口町1辺り

すぐ左折してみる。この通りははっきり盛り上がってる。この下に清滝川の暗渠があるらしい。〔後掲鹿児島市医報参照〕
ad.樋之口町1。0940
0941清滝川暗渠上

なぜかここは初めて歩きます。暗渠を挟む二本道へ右折
道の左手北西側はad.山之口町5。
0943
「天文館 清滝のこみち」表示
0945中央緑地から暗渠の中

石垣や水門がはっきり見えてます。0945
「二官橋」碑
ネットにもあった沈一貫の話が書いてあるけれど,なぜ「貫」が「官」になるのかが分からない。
暗渠の形成は

天文館公園から県道鹿児島加世田線までの約300mは,昭和39年9月,45年7月,48年11月に清滝川に蓋をして路上駐車場として整備し,平成21年3月まで多くの市民に利用されていました。〔案内板〕

0951平22二官橋画像

平成22年3月撮影の二官橋写真。まだこの頃までは川の風情だったわけです。
石垣は基層部も含めそう古くはない。縦の仕切りも最下部まで入ってるから多層ではない。
0953暗渠内

0955暗渠内縦接合面ライン

0956SunDaysInn裏手
1000天文館公園にぶつかる

0958天文館公園。右手にCAFERESTルパン,左手にセブン。川は公園の下でしょうか?
川方向に公園をまたぐと肌色の大きなアパートにぶつかる。
右から回り込む。
1007碑文

「舊四方限出身名士誕……」と題する碑文。ここに「四方学舎」というのがあったという感じの表記。案内板などなし。
1010タイヨー前交差点

公園北の道はタイヨー銀座店のある通りでした。タイヨー前で道は湾曲してる。現金問屋あけぼの。1009
1012銀座ハイツ前T字

肌色アパートは銀座ハイツ。その対面には道が続いてる。北東行。
1012船津町1・2間の道

ad.船津町2。左手が1。
道の傾斜は微かにある。北東へ登ってます。
浜崎歯科,ビジネスホテル天文館。
車道をまたぐと船津町5。
1019「水神地眼」祠

右手に「水神地眼」とある小祠
ad.新町2。左折,これでボサド通りになります。微かにですけどやはりここが最高所らしい。
1023呉服町5の十字路

呉服町5の十字路。これも僅かながら十字の南北が歪んでる。1023
いづろ通りから電車。

1044山田屋
サバ焼魚定食550
この時間でマグロ漬け,もう売切れ?
どうやら……奥手の数人の団体学生──桜島のコテージを下調べなしで3日も予約した一行が食い尽くしたらしい。
そういう流れでもなけりゃ食べなかったであろうサバが……これが無体な旨さ!昔の市場の鯖を思い出すけど……脂がむちむちとか身がふわふわとかじゃないんだけど,直球的な旨さに箸が止まらない。
何というか,鹿児島にあるのはこの普通に魚を食べれる定食

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実は甲荒以南の上荒田・下荒田・鴨池の地区は、田上川の扇状地性三角州であることは、等高線を一見すればわかることである。すなわち、二万五〇〇〇分の一地形図をみると、五メートル、二・五メートルの等高線が田上川の台地からの谷口を中心とする同心円の形態を持っている。また、とくに暗示的なのは道路である。すなわち旧谷山街道と高麗橋から鹿児島大学付近を通り 郡元に至る道路は、何いずれもこのデルタを南北に走っているが、このうち、とくに旧谷山街道はまさしく前記谷口を中心とする同心円的形態を示し、かつてのデルタ前面、場合によっては、砂丘を暗示する。この地区は決して甲突川のデルタとは考えられない。 〔後掲鹿児島市史第1巻/第二章 鹿児島市の地質と地形〕

 もともと上町地区は、単純な沖積平野ではない。国道一○号線で市内より磯に向かう途上、市電清水町の終点付近の右側の丘が、東福寺城のあった丘であるが、これは反対側琉球人松側で露頭がみられるように、主として姶良火山軽石流より下部の諸地層で構成されており、すなわち北部の吉野台地が南に突出した一尾根である。これに対し、左側の丘陵は、いわゆる下部シラスで構成され、右側とは対比される地層の高度が違う。地質、地形学上問題の存するところであるが、何れにしてもこの地区は、標高三七・七メートルを最高とする丘陵と、これから西に春日町につづく高さ一〇メートル前後の台地よりなる。その中を稲荷川が屈曲して流れ谷を刻んでいるので、台地は多少分断されているが、しかし大竜小学校を中心とする一帯は、明瞭な台地面を成している。 〔後掲鹿児島市史第1巻/第二章 鹿児島市の地質と地形〕

問題なのは、ここに中央平野とした地区のすべてが、単純に甲突川デルタといえるかどうかということである。すなわち朝日通り・いづろ通りより南部、すなわち松原町・南林寺町を経て塩屋町に至る地区は、むしろ砂嘴なのではなかろうか。したがって、天文館通りより真南に甲突川河口に至る線より西のみが、ほんらいの甲突川デルタではなかろうか。甲突川の現流路は、天保末年つけかえられたもので、それ以前はより東を流れ、下流は現在の 清滝川であったといわれるが(林吉彦 鹿児島の史蹟 48p) 、この線がほぼほんらいの甲突川デルタと砂嘴との境に近い。そしてまた、甲突川現在の下流は、甲突川デルタと前記田上川デルタの境であって、この位置を選んだのは、工事者の自然の知恵であろう。 ただ以上の考え方についての難点は、甲突川はもっと古くは城山山麓さんろくを東に流れ、俊寛しゅんかん堀ぼりを経て海に注いでいたという説のあることである(林ibid.) 。そうとすると、古い甲突川は、この砂嘴の根本を東に横断していたことになる。しかし、これが事実であるにしても、そのような状態から次第に砂嘴が南に発達し、甲突川の流路を南に押し下げて行ったとも考えられる。〔後掲鹿児島市史第1巻/第二章 鹿児島市の地質と地形〕

天保6(1835)年に薩摩を訪れた伊藤凌舎は、『鹿児島ぶり』のなかで次のように記述しています。
「南林寺の墓地には、石塔が何万基とあるといわれ、その数ははっきりしない。西田の川下で、いざ戦いという時、この墓石で川を塞き止めると、千石馬場の辺りは、湖のようになる要害である。南林寺の辺りは、果し合いが時々あるところである。墓地には京、大坂、江戸の人の墓地もある。琉球人の墓、角力取りの墓、酒のみの墓などもある。」
(略)城下外れの南林寺付近や”櫨の木馬場”(原良、永吉の甲突川河畔)は、果し合いの場所になっていました。〔後掲鹿児島ぶら歩き/昔の松原公園〕

 幕末に南林寺は廃仏毀釈で焼かれます。

大正元年8月、南林寺墓地の移転を前提として草牟田、郡元、興国寺墓地の造成拡張が始まり、大正2年に完成しました。
大正2年9月には、南林寺墓地への埋葬を禁止。大正8年4月に南林寺墓地は廃止され、各墓地への改葬が始まりました。
 大正8年6月7・8日、墓地廃止祭を松原神社内で、神式と仏式で行っています。〔後掲鹿児島ぶら歩き/昔の松原公園〕

 墓地跡の市街化計画案が何回か市会に出されましたが、利害が絡んだようでなかなか決まらなかったようです。
 ようやく大正12年6月の完工をめざして、街路工事が行われました。
 道路ができたところから順次貸し付けられ、大正12年12月から天文館に近い第一街区、第二街区で家屋の建築が始まりました。(略)墓地跡は賑やかで、商売が繁盛すると一般に言われていたそうです。〔後掲鹿児島ぶら歩き/昔の松原公園〕

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鹿児島市ハザードマップ(全体)

鹿児島市ハザードマップ

凡例

凡例

全体図

鹿児島駅方面

鹿児島駅方面

鹿児島中央駅方面

鹿児島中央駅方面

ボサド通り方面

ボサド通り方面

昔は上月川筋、柿本寺前の様に打廻り流れ候を黄門(家久)様御代に今の川筋に為相直の由その証拠に甲月八幡宮、今の義岡平太殿屋敷の後士屋敷の内に相建居御祭米迄相渡宮に而右の所本と川筋の故被召建置候處近年義岡弾正殿御代に御立願の故も有之候哉、只今の所へ御勧請に而祠堂銀等も為被相付由候〔伊集院兼喜「薩陽落穂集」1756〜1771(明和5~8)年,後掲鹿児島市地名散歩〕

史料中の「今の川筋」は甲突川、「本の川筋」は清滝川、甲突川の「本の川筋」があった証拠を残すため、「甲月八幡宮」が義岡家の屋敷付近に建立された。義岡家の位置は塩満郁夫編『鹿児島城下明細図』索引によれば「谷山街道の西、柿本寺馬場の東」の「千石馬場北」とある。新納殿小路と千石馬場がTの字に交わる北東角の屋敷が義岡屋敷で、現在の平之町9番地 東側(霧島温泉向側)にあたる。なお,新納殿小路は戦後の区画整理で、中ノ平馬場(国道3号)と千石馬場の部分が廃道になりその跡は宅地になっている。〔後掲鹿児島市地名散歩〕

文化14(1843)年にまとめられた『三国名勝図会』には、「(甲突川)一名、境川、大野川の名」もあるとし、甲突川の「旧流は府城の西隅柿本寺の後、和泉崎を通りて、柿本寺の下より府城の東南、若宮社の前を過ぎて海に入りしと口碑にあり。社前池塘其跡なりとぞ。のち河道を西に移し南林寺の背、清瀧川は其跡といひ、愈西にして今のごとしとぞ」と記し、これらは「口碑」であるとしている。先の史料を含め何れも口碑によるものであろう。
築城プランや城の内部構造などは防衛上の重要な機密で多くは伝わらなかったと推測される。〔後掲鹿児島市地名散歩〕

上山ノ城以前は甲突川、今の新上橋より東の方平(ひら)より城の下千石馬場・加治屋町を自在に流れ、俊寛堀辺りより下町の海へ流れたる由にて、萩原又は窪田瀬の有は清滝川とも云い、亦山之口地蔵堂の辺は少し高く、南林寺は歴代歌の通り海潮のなかなりしならん、城の立たるより支族諸士皆諸所より集まり宅地を広漠の地に立たりしならん、伊勢家地所は葭洲原なりしと聞くことなり、今の川筋は浅き瀬にて水は流れたる由なり〔『海老原清熙履歴概略』「甲突川架橋及び改修等の事」明治15年頃,後掲鹿児島市地名散歩〕

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