Range(容奇立新勝利).Category:広東シン壱次(73) Phaze:七天容桂水道

献句
面の塵のまち 明日は種浸す
~(m–)m 本旅行の行程 m(–m)~
四鎮編四獣編対岸編
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
高徳地図(経路:文昌帝君~佳盛五金店:翠竹中路×福基路交差点付近)
:途中経由点は登録不能のため下記実行程と異なる(北へ直進しています)。始点・終点のみ参照

1358大沙塘路をダメ元と進む

ad.孖塘路。でも──結構ハイクが入ってます。直進してみるか!梯云路を跨ぎ大沙塘路へ。1357▼▲

大沙塘路前後参照地図 (左下)レストラン「九號私厨」 (中央上赤点線)再開発地域マーク

あ、正面は高台か。目的地は多分川向うです。
1400大沙塘路道沿いの風雅なベランダ

T字路──だけどバイクは直進してます。正面路地へ。1405。ad.织窝涌直街 同利巷。
1405北行路はこれしかない。织窝涌直街の路地へ。

1407织窝涌直街をただ北行

1408出口に水の匂い

出た!川沿い!手前に堥岸社という老夫婦神像の祠。橋も沢山ある。適当に北岸へ。
1409川沿いに!

1410出口角の堥岸社祠

1413川辺を東行

岸の石積も全く保護されてないけど古い。素晴らしい岸。行き止まりの割にはバイクが来るので──1415東へ進む。ad.石埗社直街三巷。
1414川に平行する石埗社直街三巷を東行

1417北路地。左手が養源社

1417北路地。養源社という祠。やはりチャチい。
1418養源社の祭壇

1418石埗社直街三巷を進もうとするけど──

1419また北路地。
1419北路地

1420石埗社直街三巷の東T字前

T字にまた祠。右聯「石路平安宅」左聯「屏開富貴花」
1421石埗社直街三巷の東T字祠

1422石埗社直街三巷の東T字祠の老人神

1422石橋。眼鏡橋形式

左手川に石橋。これも特に保護なし。
今度こそ左へ。1423。ad.黎地街
1424翠竹中路を抜ける

ad.翠竹中路から福基路へ右折。幸福総合市場という目出度いバス停。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
高徳地図(経路:佳盛五金店:翠竹中路×福基路交差点付近~新涌电影街付近)
:途中経由点は登録不能のため下記実行程と異なる。始点・終点のみ参照

1435泰安路を北北東行

1433左折してみる。ad.泰安路とこれまた目出度い。工場ストリートだけど途中見た岸の码头へはこれが近道のはず。順丝路。続けて立新南路。
1443幸福社区康楽中心。元の地名が何もない。
1444泰安路の路地アート

1444泰安路をさらに北北東行

1445ad.27号
1450泰安路を北北東行中の理髪店

僅かに右へ屈曲。
1453社安連。大きいけど放置されてはおらずギリギリ維持管理されてる感じ。

1453社安連というほこら。ad.113
1451泰安路を北北東行中のバイク屋

1455泰安路をさらにさらに北北東行

1455ad.135
1456ad.康宁大街になった?いや違う、横の道でした。ad.161
1501橋が見えた

ad.200で右へ湾曲。15時丁度。橋。手前で左路地撮影。
1502橋西口から左手北側、胜利(勝利)一街

公示牌によると川は容奇新涌。……なわけない。やはり古名は消されてる。──これを通らずさっきの川辺を通ろう。
橋から両側を撮影(1)

橋から両側を撮影(2)。どっちがどっちかは記録忘れ。

1506胜利一街へ入る

ad.胜利一街。んなわけない地名。
1505胜利一街の軒。祠多し。

1507永源社

川辺に永源社という祠。
1508川辺道と祠

1508胜利一街

胜利一街住所表示

何本も川辺への私道が延びる

1509胜利一街北側出口

1510もう一本西(川から遠い方)にも同様の路地。平行して川幅を狭めつつ発展した可能性も?

もう一つ西にも同様の路地。
1510北の橋を渡る。
1510ようやく橋を東へ渡る

え?急に観光客が増えた?しめたトイレトイレ
1512小河街付近

ad.小河街
1513小河街付近の市場

1514小河街付近の軒先

正面路地へ。1514
1515竹器街手前の路地

1516竹器街付近は一応市場の風情

1516それでは家に入れないだろ?という野菜の陳列。

ad.竹器街。1517竹器横街から民信のある観光ストリート「旧马路」。いかんここは観光地!!!
1517竹器街本通りはとてもお洒落な観光通りでした。

318で帰ろう。「サンヤオパ」と口ずさみつつかなり待ってる客もいたけれど今度も割とするりと来ました。1530乗車。
1558容桂水道を越え北帰行

大良安监分局で降りよう。これの終点は忌まわしい順徳客运兑站とある。──何とほぼ満席。さすがは五一。あとこれが明日からの土日も続くのか……。どう逃れる作戦がいいかなあ。
140枚撮ってるよ……。
ええ〜!!ラッシュなのか!──とにかく遠出しないことだな、これは。1558ようやく橋渡る。
そうか。多少遠くても、今朝の东乐路から地下鉄に乗ればどうだろう?
还城東南下車。おお!902がすぐ来た!东乐路地鉄下車。1621
1625とても座れない……。いや?钟楼で降りた客の席に座れた!
北滘公園。1650昔通りの無茶苦茶な押し合いだったけど──座れた。中国人民は死んでないなあ。
广州南站。ここからなら。
1747北京路の改札(出口)前。出るのはまだ出れるけれど、乗るのは悪夢の状況……。恐るべし中国五一!

その間、復習してみる。

【図1】1990年代初期的容奇港

【図1】1990年代初期的容奇港(梁秉森摄)【档号:6-F1.4.1-010.51】〔容奇“水上区”的由来〕
【資料1】
共産中国初期の「容桂」には、二百ずつ舟を停める3つの湾があり、各舟に四人ずつが住んでいた──と次の資料は読むらしい。

1951年初,容奇水上派出所的中心任务是对容桂以及大黄圃、大岗、潭洲船舶的户口登记。
当时容奇设有3个停泊区,共有船艇647艘,人口2495人。水上派出所深入水上人家,发动船民编组自治,共设立50个居民小组、11个治安小组。除了治安和户籍管理外,水上派出所还负责组织建立民校、医疗所乃至妇女小组等社会工作。
该所的镇反工作具体计划提到,在第一阶段(1952年1月前)应与当地镇政府研究建立水上村或办事处。
〔容奇“水上区”的由来〕

※URL:https://mp.weixin.qq.com/s?src=11&timestamp=1746172666&ver=5965&signature=6cSqtpdVU64jWAq-4vxS0EeOJ3InbomirH5x8YYqILFxYXYudM5H1EyAtCUO64JZJI8NRKtDAQINjx-zrgCcpZPw0ypiPmZXOBAHagzKJ7OdSN88t8j-HiTyqC6IR764&new=1
「镇反工作具体计划」が発動したということは、「第一阶段(1952年1月前)」では相当に力で押さえ込んだということです。
【資料2】
19C始め、最後の攻撃をした海賊として张保仔という族の名が伝わるという。伝承らしいけれど、この族が根城にしたエリアとして、「容桂」が伝えられるという∶「张保仔座驾尾部被容奇蚌岗炮击」。

位于近海口的德胜河,明清以来,历为海防前哨,防御外来入侵的海盗。清代嘉庆十四年(1809年),江洋大盗张保仔率船队闯入顺德,逼近大良城区,一时全城人心惶惶。顺德乡绅、农民积极自救,在北潮海面的激战中,张保仔座驾尾部被容奇蚌岗炮击中,他见势不妙,立即下令撤退。〔从河说起③丨在德胜河畔感受大良发展脉搏〕

※URL:https://m.163.com/dy/article_v2/I6UU46TS05129N6A.html
【資料3】▼▲▼▲
「德胜」も地名として疑わしいけれど、「容桂」はどうかというと、2000年に「容奇镇」と「桂洲镇」を足しただけの行政名らしい。

容奇+桂洲=容桂?
一提到“容桂”的地名由来,就不得不提容奇镇和桂洲镇。在2000年,后两者在行政区划的调整中被合并成容桂镇,显而易见,“容桂”这一地名便是在“容奇”和“桂洲”二者间各取一字合成的。尔后几经演变,容桂镇演变成今天的容桂街道办事处。〔顺德地名故事 | 容奇+桂洲=?_南方plus_南方+〕

※URL:https://pc.nfnews.com/9143/2760551.html

《顺德县志》(咸丰版)县营界属图〔後掲顺德地名故事〕
同《顺德县志》(咸丰版)县营界属图の「容奇」部拡大〔後掲顺德地名故事〕

【資料4】
容奇の元になった「容山」と「奇山」は、ようやく明清史書に記されます。

容奇是位于西江支流的一个小渔村,关于容奇地名的缘起,相传乃是由于境内的两座小山岗而得名,这两座山分别为“容山”和“奇山”。
根据明代万历版的《顺德县志》记载:“以容山及奇山两个山脉合称为容奇”。
清朝咸丰版的《顺德县志》也有相似的说法,“以容山奇山为一堡之秀,两村中隔一海故以为名,大凤、大雁并在容奇。”
〔顺德地名故事ibid.〕

【資料5】また、「容奇」の名の初出は「堡」の一つとしてらしい。つまり「大良」、「伦教」、「桂洲」に並ぶ「堡」の名称として「容奇」地名は存在したわけです。

在明景泰三年(1452年)顺德建县后,建制为都、堡、图、村四级。全县分东涌、马宁、景安、西淋四都,分统三十八堡。(也有“三十七堡及新会白藤等堡”或“四十堡”之说)
其中,东涌都管辖大良、伦教、黄连、容奇、桂洲等12个堡。容桂堡辖4图2村,桂洲堡辖5图3村。
〔顺德地名故事ibid.〕

《顺德县志》(咸丰版)县营界属图〔顺德地名故事ibid.〕

解放直後らしい容奇港画像。竹柴の輸送をする蛋民らしき人影が写る。

つまり、共産中国に「発見」されるまで、「容奇」は蜑民の群れる「地点」名だったことになります。陸民の通常の意味での集落は存在しなかった。かつ、共産中国は少なくともその初期には党秩序の下に強引に取り込もうとし、結果として「なわけない」地名が連なる地域になってる。
この土地に適切な陸人居住域名は存在しないわけです。存在したのは、海上居住者の集積点としての「容山」及び「奇山」だった。これは語感としては「カタチ良い山」「ヘンな山」という程度の航行目標のようなものです。
「航拍德胜河。
德胜河北岸西段20世纪30年代位于德胜河西段的大良沙头地段被相中建起了当时中国第一间甘蔗机械制糖厂」〔从河说起③ibid.〕

梁記粉铺の酸胃三星(河)粉

1757梁記粉铺
酸胃三星(河)粉 400

梁記粉铺の酸胃三星(河)粉どアップ

「客似雲来」
「客似雲来」

1816全早緑点
鍋貼250
盛园美食餐庁というところでは魚が食えるのでは?

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