ad.孖塘路。でも──結構ハイクが入ってます。直進してみるか!梯云路を跨ぎ大沙塘路へ。1357▼▲
あ、正面は高台か。目的地は多分川向うです。
T字路──だけどバイクは直進してます。正面路地へ。1405。ad.织窝涌直街 同利巷。
出た!川沿い!手前に堥岸社という老夫婦神像の祠。橋も沢山ある。適当に北岸へ。
岸の石積も全く保護されてないけど古い。素晴らしい岸。行き止まりの割にはバイクが来るので──1415東へ進む。ad.石埗社直街三巷。
1417北路地。養源社という祠。やはりチャチい。
1419また北路地。
T字にまた祠。右聯「石路平安宅」左聯「屏開富貴花」
左手川に石橋。これも特に保護なし。
今度こそ左へ。1423。ad.黎地街
ad.翠竹中路から福基路へ右折。幸福総合市場という目出度いバス停。
1433左折してみる。ad.泰安路とこれまた目出度い。工場ストリートだけど途中見た岸の码头へはこれが近道のはず。順丝路。続けて立新南路。
1443幸福社区康楽中心。元の地名が何もない。
1445ad.27号
僅かに右へ屈曲。
1453社安連というほこら。ad.113
1455ad.135
1456ad.康宁大街になった?いや違う、横の道でした。ad.161
ad.200で右へ湾曲。15時丁度。橋。手前で左路地撮影。
公示牌によると川は容奇新涌。……なわけない。やはり古名は消されてる。──これを通らずさっきの川辺を通ろう。
ad.胜利一街。んなわけない地名。
川辺に永源社という祠。
もう一つ西にも同様の路地。
1510北の橋を渡る。
え?急に観光客が増えた?しめたトイレトイレ
ad.小河街
正面路地へ。1514
ad.竹器街。1517竹器横街から民信のある観光ストリート「旧马路」。いかんここは観光地!!!
318で帰ろう。「サンヤオパ」と口ずさみつつかなり待ってる客もいたけれど今度も割とするりと来ました。1530乗車。
大良安监分局で降りよう。これの終点は忌まわしい順徳客运兑站とある。──何とほぼ満席。さすがは五一。あとこれが明日からの土日も続くのか……。どう逃れる作戦がいいかなあ。
140枚撮ってるよ……。
ええ〜!!ラッシュなのか!──とにかく遠出しないことだな、これは。1558ようやく橋渡る。
そうか。多少遠くても、今朝の东乐路から地下鉄に乗ればどうだろう?
还城東南下車。おお!902がすぐ来た!东乐路地鉄下車。1621
1625とても座れない……。いや?钟楼で降りた客の席に座れた!
北滘公園。1650昔通りの無茶苦茶な押し合いだったけど──座れた。中国人民は死んでないなあ。
广州南站。ここからなら。
その間、復習してみる。
【図1】1990年代初期的容奇港(梁秉森摄)【档号:6-F1.4.1-010.51】〔容奇“水上区”的由来〕
【資料1】
共産中国初期の「容桂」には、二百ずつ舟を停める3つの湾があり、各舟に四人ずつが住んでいた──と次の資料は読むらしい。
1951年初,容奇水上派出所的中心任务是对容桂以及大黄圃、大岗、潭洲船舶的户口登记。
当时容奇设有3个停泊区,共有船艇647艘,人口2495人。水上派出所深入水上人家,发动船民编组自治,共设立50个居民小组、11个治安小组。除了治安和户籍管理外,水上派出所还负责组织建立民校、医疗所乃至妇女小组等社会工作。
该所的镇反工作具体计划提到,在第一阶段(1952年1月前)应与当地镇政府研究建立水上村或办事处。
〔容奇“水上区”的由来〕
※URL:https://mp.weixin.qq.com/s?src=11×tamp=1746172666&ver=5965&signature=6cSqtpdVU64jWAq-4vxS0EeOJ3InbomirH5x8YYqILFxYXYudM5H1EyAtCUO64JZJI8NRKtDAQINjx-zrgCcpZPw0ypiPmZXOBAHagzKJ7OdSN88t8j-HiTyqC6IR764&new=1
「镇反工作具体计划」が発動したということは、「第一阶段(1952年1月前)」では相当に力で押さえ込んだということです。
【資料2】
19C始め、最後の攻撃をした海賊として张保仔という族の名が伝わるという。伝承らしいけれど、この族が根城にしたエリアとして、「容桂」が伝えられるという∶「张保仔座驾尾部被容奇蚌岗炮击」。
位于近海口的德胜河,明清以来,历为海防前哨,防御外来入侵的海盗。清代嘉庆十四年(1809年),江洋大盗张保仔率船队闯入顺德,逼近大良城区,一时全城人心惶惶。顺德乡绅、农民积极自救,在北潮海面的激战中,张保仔座驾尾部被容奇蚌岗炮击中,他见势不妙,立即下令撤退。〔从河说起③丨在德胜河畔感受大良发展脉搏〕
※URL:https://m.163.com/dy/article_v2/I6UU46TS05129N6A.html
【資料3】▼▲▼▲
「德胜」も地名として疑わしいけれど、「容桂」はどうかというと、2000年に「容奇镇」と「桂洲镇」を足しただけの行政名らしい。
容奇+桂洲=容桂?
一提到“容桂”的地名由来,就不得不提容奇镇和桂洲镇。在2000年,后两者在行政区划的调整中被合并成容桂镇,显而易见,“容桂”这一地名便是在“容奇”和“桂洲”二者间各取一字合成的。尔后几经演变,容桂镇演变成今天的容桂街道办事处。〔顺德地名故事 | 容奇+桂洲=?_南方plus_南方+〕
※URL:https://pc.nfnews.com/9143/2760551.html
【資料4】
容奇の元になった「容山」と「奇山」は、ようやく明清史書に記されます。
容奇是位于西江支流的一个小渔村,关于容奇地名的缘起,相传乃是由于境内的两座小山岗而得名,这两座山分别为“容山”和“奇山”。
根据明代万历版的《顺德县志》记载:“以容山及奇山两个山脉合称为容奇”。
清朝咸丰版的《顺德县志》也有相似的说法,“以容山奇山为一堡之秀,两村中隔一海故以为名,大凤、大雁并在容奇。”
〔顺德地名故事ibid.〕
【資料5】また、「容奇」の名の初出は「堡」の一つとしてらしい。つまり「大良」、「伦教」、「桂洲」に並ぶ「堡」の名称として「容奇」地名は存在したわけです。
在明景泰三年(1452年)顺德建县后,建制为都、堡、图、村四级。全县分东涌、马宁、景安、西淋四都,分统三十八堡。(也有“三十七堡及新会白藤等堡”或“四十堡”之说)
其中,东涌都管辖大良、伦教、黄连、容奇、桂洲等12个堡。容桂堡辖4图2村,桂洲堡辖5图3村。
〔顺德地名故事ibid.〕
《顺德县志》(咸丰版)县营界属图〔顺德地名故事ibid.〕
つまり、共産中国に「発見」されるまで、「容奇」は蜑民の群れる「地点」名だったことになります。陸民の通常の意味での集落は存在しなかった。かつ、共産中国は少なくともその初期には党秩序の下に強引に取り込もうとし、結果として「なわけない」地名が連なる地域になってる。
この土地に適切な陸人居住域名は存在しないわけです。存在したのは、海上居住者の集積点としての「容山」及び「奇山」だった。これは語感としては「カタチ良い山」「ヘンな山」という程度の航行目標のようなものです。
「航拍德胜河。
德胜河北岸西段20世纪30年代位于德胜河西段的大良沙头地段被相中建起了当时中国第一间甘蔗机械制糖厂」〔从河说起③ibid.〕
1757梁記粉铺
酸胃三星(河)粉 400
「客似雲来」
1816全早緑点
鍋貼250
盛园美食餐庁というところでは魚が食えるのでは?
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