▼▲1359来た!無人!うおおすごい坂道!線路の高架かい!德康路。恒沙隆农貿市場がある。左折して棠渓。ここから高架下の道を180°回頭、右折で
1407祥岗东街▼▲
すごい!後ろ南方を一枚、行く手北を一枚。
ここでとりあえず腹ごしらえ。
1412港哈軒城市快餐
魚、海老、豆腐 550
豆腐は豆干の煮物、海老は麻辣炒でしたけど、魚は青身の、イワシより少し大きくて蛋白なもので、それほど特殊な味付けをしたものでない──ように見え、半面はむしろ有り難く普通に頂きました。
一度は揚げてあるらしく頭はキザミのようにパリパリと食えましたけど丸ごとは外聞もあり止めておきまして──裏面を返すと、なんというか真っ黄色。汁に浸かった半面は清蒸に近い状態になっているようで、計算なのか未熟なのかはよく分からん。あるいは時間が経ったために揚げ衣が南蛮漬け状態になったのかもしれないけど、とにかく──半面はトロけるように美味かった!
1435祥岗后街を西へ。この前の交差点が一等高い。1437入口の小店に立つオヤジ。
ad.15から左折。登りからad.棠渓祥岗大街七巷
ピッタリだったらしい。宮の西側。何氏宗祠。右聯「庐江传世澤」左聯「岗山挺秀萬代興」と読めるけれど達筆で──。
すぐ西に毓林書舎。
1454南四巷へ左折南行。
ブロック内側にパティオのあるミニバ圍の構造。
何かの敷地が真南に。西から回り込む。ad.棠渓祥岗国强北街。中铁南方实业とあるアーチ前を左へ。15時ジャスト。
ad.国强西街
1503左脇道
また小雨。やや怪しい目のマッサージ屋。
帰国用に(臭くない)Tシャツを一枚購入。なぜか衣類の店が多い通り。泉州のように綿加工産業とかの歴史があるんでしょか?──微信がないというと現金を取りに他の店へ。
その間にすげぇ雨になる。5元紙幣を数枚握ってお姉様が走って帰り、軒の衣類を片付ける。
バス停・三元理大道北。対面のバス停からは何と北京路近くへの一本もあるけど車道を渡ってそちらに行くすべがない。中央には柵がある。……あれ──横断歩道かあれ?
しかしこれは──酷い分断を受けたものです。けれどそれだけに……本物でした。
832を呆けて待つ。ジャンジャンとバスは来るのに。
1540来た。三駅だけどこの区間が……距離的に物凄く遠い。──高架を経、しかもラッシュ!
高德地图は知らぬ間に気を利かすのか色んなモードに。今は対面信号が後何秒で変わるか示す。そんな要らん機能に紛れて乗り過ごしたのか──何かエラく南へ、きた。あるく。
1605、8号で南へ。座れない。文化公園までか。
陈家村前辺りでやっと着席。
やはり五一ラッシュでゴッタ返す北京路站を出て──
1640 盛园美食餐庁
水煮魚飯+荷包湯 450
「湯」と思ったのはご飯に卵を乗っけるだけだったのはお慰みとして──思いっきり魚がドン!
ただ麻辣の湯に漬け込んである感じで、他メニューに酸菜魚飯があることも考えますと、広州香港で流行中の貴州料理の流れを汲んだものと思えます。少なくとも、汁に魚の出汁を意識しようがありませんでした。
ただ貴州料理としては美味い。蛋白な魚──種類はどうも分からんけど白身、けれどミルクフィッシュほど特色はない魚の身に、とくに麻=花椒がピリリと来る麻薬的な危険な味覚はなかなか日本人から近くて遠い。
他の魚料理に
豆腐焖魚腩饭
魚腩炖饭
西兰花炒魷魚饭
があります。「焖魚」は魚の種類ではなく「煮魚」※みたいな意味。
[水などで]煮zhǔ;[やわらかく]炖dùn;[野菜などを]熬āo;[のり状に]熬áo;[とろ火でゆっくりと]煨wēi;[含め煮する]焖mèn.
煮た魚|炖的鱼.
ダイコンを~煮る|煮萝卜.
おかゆを~煮る|熬粥zhōu.
よく~煮る|煮烂zhǔlàn,炖透dùntòu.
ぐたぐた~煮る|咕嘟咕嘟地煮.〔日中辞典 第3版←コトバンク/煮る〕
あと
咖喱叉烧炒饭
というのも妙に惹かれます。
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※下記は聚龙古村についてのもので、上記の8号線の聚龙とは別の位置(11号線∶大冲口西)のもの
始建于清光绪五年(1879年),光绪十五年建成,由广东台山籍邝氏一族所建。是广州市区目前发现的唯一保存较完整的清末民居群。保留下来的19幢民居都是两层砖木楼房,基本形式是典型的粤中三间两廊式,经过向纵深方向发展,组合成民间所称的“三上三下”式楼房,具有浓郁的岭南建筑风格。〔維基/聚龙村〕
聚龙村人杰地灵,是有名的风水宝地,据传地下有一条龙脉,因而得名。村内出现过不少名人,有广州报刊创业先驱、清朝教育部官员邝其照,港澳著名“黄金巨子”(专营黄金)的邝衡石,知名商人邝明觉、邝伍臣等。〔百度/聚龙古村 清代古建筑群〕
最东面建有学堂(已毁,现芳村区教工楼),村正南面有一广场(曾建冲口小学于2009年7月13日拆除恢复广场),外设围墙,南面东西角各设一更楼(已毁,东南更楼于2024年复建)。围墙正门有一横匾,上刻“聚龙”。建房挖地基时因冒出红朱石水,被风水先生称为“龙出血”而得名。民国时期此地划入24乡,聚龙成为24乡中最小的一条村而改名为“聚龙村”。此横匾据初步了解被埋藏在中排倒塌了的第三幢房“文革”时挖的防空洞内。
全村20幢房屋全部座北向南,成井字形规划排列,东西向三条街巷(现只存二条,北面一条已被广州柴油机厂占有),南北向八条共十一条街巷。由南到北,第一排建房七幢,中排七幢(由东起第三幢已倒塌),后排六幢(由东起第一幢已倒塌),现存仅18幢和后增建的21号楼。〔維基/聚龙村〕
聚龙村是由邝氏族四大家族所有。
邝其照,曾任清末驻美商务外交官员和教育部官员,清光绪十二年(1886年)六月,《广报》的创办人,为广州市最早一份的报刊。产业有3、4、11和中排倒塌的一幢共四幢。
邝伍臣,是清末民初广州有名的富商,在广州创办邝美南兄弟鞋厂和天元茶楼(现清平饭店前身)。产业有5、10、12、15、16、18共六幢。
邝衡石,是清末民初广州有名的富商,在香港创办“丽兴金铺”,被省港澳人士称为“黄金巨子”。产业有2、6、7、8、9、17、20、21共八幢。
邝明觉,清末民初广州有名的富商,在广州商业闹市太平南路购置商业楼宇10幢,其中最著名的商铺“中美大药房”。产业有1、13、14共三幢。
〔維基/聚龙村〕
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