m141m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m唐館(入)

本歌:キリストの眉間の皺や夏の月〔星野〕

これまでの長崎で,媽祖巡りをしようと思ったことはありませんでした。


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

今も昔もあるものか

645発,佐世保BT発長崎行!──に乗ろうとしたら来ない。
 時刻表をよくよく見ると土日運休でした。
 0700発。0824,長崎駅前着。
 0846,本日のお宿IKホテルに荷を置く。とりあえず……空いてる間に新地へ向かってみるか!
 既にブレッド・ア・エスプレッソに長い行列が出来てました。
 0853,五島町から長電乗車。
 新地中華街電停に降りた時,9時の鐘を聞く。こんな時報,鳴ってたっけ?
 ワシントン前を通過し新地へ。中華街も流石にまだ人影は少ない。西行して抜ける。
 0906,ふいに開けた左手南側,唐人屋敷の北門が立つ。

▲0908域内に通ずる水路

まり気にしたことがなかったけれど,この西には小さな水路が通ってました。川底が岩棚になってて,しかも段が設けてある。
 菓子屋ネオ・クラシック・クローバー。
 唐人屋敷跡の門。でかでかと対聨。左聨「智山仁水有性情」,右聨「天経地義無今古」。──意訳するなら,山に智,水に仁と,あらゆる自然に情がある。天の理,地の義に今も昔もあるものか。

▲0915館内市場脇から土神堂

土神,福徳正神,土地公

を過ぐ。0911。旧住所表示(以下ad)は旧町名・広馬場町。
 入って右手は館内市場。静かです。今の賑わいは感じられないけれど,往時から,おそらく生活必需品など最低限の市が立った,あるいは許された場所かもしれません。
 この南正面に土神堂。古式な煉瓦造りです。とりあえず覗く。ad館内町15。

▲0918土地公像

爆では石殿だけ残った。それを昭52に再建した,と案内板にある。
 中の祠の祭壇には「福徳正神」と篇額。神像は老爺,典型的な土地公です。
 祠に向かって左に「■■土地祠■記」とある碑。
──長崎の墓に並置される丸石に朱書きで「土神」と書かれているのを,見かけた人は多いと思います。長崎特有の習俗で,まま中国伝来と伝わるけれど,土地公とは重なるようで重ならない。元々はその土地の地神を祀るわけで,名は同じでもそれぞれ独立して併存はできない道理です。中国のどこかの土地の地神なら,唐人町で共通の神にはなれないし,長崎の地神というなら墓に並置する意味が分からない。

館内町11の坂

▲0925館内町11,唐人屋敷西縁への階段

后はまっすぐ南だけど,あえて東へ左折。
 階段。右側に側溝がある,ということはおそらく古い。ここに段があるのはなぜだろう?
 段の半ば,階段と直行する南北方向に石垣が積まれてる。

▲0927南北方向に石垣跡

段はこの垣を切通してる。石垣というよりも,かなり分厚く堅牢な壁です。
 階段の前にはここに内城壁のようなものがあったと見えます。
 何のために?軍事的には西は高台なんだから,崖下にさらに壁を築く理由が分からない。

▲0929さらに登る。正確には斜面と階段が交互になってる。

の箇所で道も側溝もZ字に折れて東へ更に登る。
 東の上に前回の城壁が見えてます。adはやはり館内町11のまま。
 館内町東部自治会看板の十字路に至る。この十字路から東はad5。
 観光ルートは南行だけど,十字路からさらに東行。

東辺突き当たりの障壁

▲0932最上部から西を見下ろす

内町東部公民館。ここから東側は巨石に阻まれ進めず,階段道は行き止まりになってる。
 ここから南への脇道が,あってもおかしくないと期待したけれど,やはり地図通り見当たらない。北へは2本ある。

▲0934北への脇道の一つ

への脇道は,ここから更に登ってる。軍事的には,この高みが唐人屋敷の方形の北辺の障壁になってる格好です。
 崖下の余剰地を整地したようにも,要塞にも見える,この不思議な立地が,唐人屋敷の面白さです。おそらく前者は,長崎奉行側の意図で,その中で内実の防衛力を後者のように居住者側が備えさせたのではないでしょうか。

▲0935ここの溝の下にもやはり岩肌が続いてます。

934,十字まで戻って南行。
 この辺りの裏道にも,何か湿った景観が残ります。元は太い道などなく,こういう細道が不規則に伸びてたんでしょうか。

▲0936東登り坂の裏道

福建会館と幼稚園

本的に計画都市のはずだから,こういう雑居地のような場所が出来るのは,つまり東側の斜面は「悪地」で都市計画の設計外だったのかもしれません。先の公民館から南への道がなかったのもそれなら納得できます。
 0937右へL字。ad5。西部自治会名のゴミ捨て場。
 ここには東西に石垣がある。そのうち,今来た南行路の東脇に煉瓦造りで覗けないようになってる施設が現れました。地図を見ると,これが福建会館らしい。内城の核のような位置です。

▲0941保育園脇

ケ丘保育所。南に天后宮と観音堂の案内表示が出てます。
 この南北ラインにさらに石垣が伸びてる。高さは5mほど。沿っていこうか。0942。

▲0944保育所先の登り道

育所脇でZに折れた先は登りになりました。なぜ掘り下げずに登るんだろう?──と考えると,この道が出来た時代は道を平坦にする工作機械がなかった,つまり古い道だからでしょう。
 ad6。
 南縁の石垣が見えてきた。そばのアパートのネーミングが……コーポ館内?

何でもない脇道の奥に丸鳥居

▲0946何でもない景観の脇道に鳥居が見えてきました。

946,十字路。うち東側の奥に観音堂らしき丸い石造りのゲートが見えてきました。
 でも入ると……ここ保育所と地続きの敷地だぞ?
 いや,鳥居の形も建物の様式も確かに中国風。ここが媽祖宮でなくても,往時からの宗教施設の色は濃厚です。

▲0948観音堂の丸い入口ゲートが見えた。

■小レポ:一万人の唐人バレー

 唐人屋敷という地域は,これまでの長崎遍歴の中で何度も通過してきたけれど,何か妙な閑散を感じるだけでスルーしてきました。
 今,ここは,少なくとも表通りから見る限り,長崎郊外のひなびた通り,というだけです。だから今回調べてみてびっくりしました。
▲出島・新地・唐人屋敷の位置と江戸期当時の海岸線

位置:準軟禁地としての唐人屋敷

 長崎の昔を想像する時は必須ですけど,ここでは特に,まず現在の海岸線のイメージを一度クリアしないといけません。
 出島・新地・唐人屋敷は上記の地図とおり,海の上又は海沿いに北から南へ並んでました。
 出島と後の2つの中国人地区は繋がってません。新地と唐人屋敷は細い海上道で接続され,つまり統治側に管理されてます。これもイメージし辛いですけど,新地は,中国船の交易品を保管する,つまり勝手に売買できないように管理する倉庫専門エリアでした。
 中国船は,荷を新地に保管し,人を唐人屋敷に収用し,船を当番町に監視され,さらに船魂たる媽祖を寺に納めて,個別管理されることで自由に出入港できないようにされてわけです。
▲てゆーか積み過ぎじゃ!
江戸期の仁義なき入国管理

 中国船の長崎到着後の入国手続きを「ナガジン」がまとめています。現代のローカル国境みたいに,入国手続きは翌日までかかることもある厳重さだったようです。

●無事に到着した事を祝って船上で銅鑼や太鼓を打ち鳴らす。
●船に乗り込んできた奉行所の検視や通事から、日本ではキリスト教が禁止されていることなどの説明を受ける
●乗船している人数、出港地と前年にもらった信牌の確認
●配銅証文・積荷帳・人名帳・掟書請証文・風説書の提出
●踏絵を踏まされる
●唐人数名が新地蔵へ移動
●日本の人夫が唐船から荷物を漕船に積み出す
●新地蔵に荷物を運び込む
●唐船内に祀っていた唐船菩薩を市内の唐寺に運ぶ
※ ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「唐人屋敷の生活~唐人屋敷で暮らしてみた!」 同記載の原典:山脇佛二郎「長崎の唐人貿易」中「唐船の入港から出航まで」

 空船を監視する役は宿町(やどまち)・付町(つきまち)と呼ばれる当番町で,彼らは24時間体制で警備させられたらしい。おそらく固定した集団ではなく,何かあれば町全体が責任を問われるということでしょうから,必死になって船を睨んだでしょう。

規模:長崎の6人に1人は中国人

 唐人屋敷はいかにも狭い。
 単純な面積は出島の約3倍,7,528坪(約29,201平米)。居住建物は2階建が19棟。当初入居想定者は約5千人(4888名)。
※ 長崎大学の調査 転載元 mikio.world/唐人屋敷~江戸時代の平和な経済・文化交流
 けれど,中国船の来航はこの想定を遥かに越え,年間入港隻数はオランダ船の15倍以上[前掲ナガジン]。交易量ベースだと十数倍,例えば1662年の生糸輸入はオランダ3万斤に対し中国36万斤※。
※ 百度百科/长崎贸易
 長崎逗留は中国人の流行になっていたような記述もあり,人口ベースだと,当時の長崎人口5万に対し,中国人が1万を超えていたこともあるといいます[前掲百度]。
 3万平米に1万人!日本武道館の延床面積(中道場棟を含まない)が2万平米強,収容人員数1.4万人だから,武道館の客席に半分入った位の密度──で生活できたんだろうか?
▲唐人屋敷ジオラマ[前掲mikio.world]

地形:西の谷のチャイナマン

 この日歩いて身に染みたのは,平面図で見ると「城」,広東風に言えば「圍」に見える唐人屋敷は,実際には結構な谷間だということです。なかなか等高線を書いたものがないですけど,上のジオラマなどだと少し実感できます。
 通常の捉えだと,軍事的に脆弱です。周囲の崖上から内部が丸見えで,どこからでも攻め込める。日本武士の感覚ならそうでしょう。
 ただ内部がこれほどの密度で,それを理由に高層の建物を造り,周囲に壕を巡らし,崖の際まで家で埋めてしまうと──本当に攻め得るでしょうか?東西と南からは鳥瞰は出来ても多量の兵は投入できないから,北からしか軍隊は入れない。中の道は入り込み,家屋は高層で壕や壁,段差もある。ここで市街戦,ということにもしなれば,攻める日本側も血みどろになる覚悟が必要でしょう。
 何だかんだ言いながら,中国人たちは結構手強い「圍」を作ってしまってたんじゃないでしょうか。

時系列:目指せ年間2百隻!

 終戦直後の沖縄密貿易における「二十日ウェーキ」(20日間でひと財産ができた意味)の時代,沖縄-香港の一回の利益率は約10倍だったと言います(→m190m第十九波mm0(間奏)沖縄(大密貿易時代資料集asニライF65))。
 そこまでブッ壊れた時代ではない平時の江戸初期の利益率は,ではどの程度のものだったかと言うと,なぜか日本のものには記載が見つからない。百度が掲載していました。

仍以1600年一艘运往长崎的澳葡商船为例,其中白丝500—600担,广州价格每担银80两,长崎价格约150两,利润率约90%,各色丝绒,广州价格每担银140两,长崎为370—400两,利润率164%—186%,各种绸缎1700~2000匹,广州价格每匹1.1~1.4两,在长崎2.5~3两,利润率111%~127%[前掲百度]

 出典は定かでないけれど,1600年のポルトガル船の広州対長崎価格データとして
[白糸5~6万斤]
広州:銀80両/100斤
長崎:銀150两/100斤
∴利益率約90%
[ビロード]
広州:銀140両/100斤
長崎:銀370—400両/100斤
∴利益率164~186%
[絹織物34~40反]
広州:1.1~1.4両/2反
長崎:2.5~3.0両/2反
∴利益率111~127%
 日本で生糸価格が一番高かった17C前半の状況ではありますけど※,当時の主力輸入品・生糸類は中国から日本へ持って来ると2~3倍で売れたわけです。
※ →m132m第十三波mm川内観音(破)/■小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/2[経済]完全鎖国を選択できなかった17C日本/1646年にどこから何が輸入されたか?
 その結果,入港中国船の数は次の推移を辿ってます。
1634~44年平均 57隻/年※
1681年 10隻※
(1683年 鄭氏台湾滅亡)
(1684年 展海令)
1685年 85隻※※(以下同)
1686年 102隻
1687年 136隻
1688年 193隻
※ 前掲百度,オランダ側の記録として
※※ 前掲ナガジン

 長崎への寄港ラッシュの17C末に如何に長崎奉行側が慌てたかが察せられます。唐人屋敷は1688年に建設着手,翌年完成しています。

[参考]江戸末期の唐船側日本貿易利益率=20倍?

 松浦章は「清代海外貿易史の研究」(朋友書店,2002)中で 文政(1818~31年)の得泰船の事例として,一般乗組員の総利益率は20数倍と指摘しています。また,航海距離によって異なるけれど清代唐船一般では投下資本の数倍から数十倍の利益が得られると推定しています。
 利益率数十倍となると,最初に触れた戦後沖縄並みの一財産築ける利益を生むわけで,数倍の商売環境とは訳が違う。この数字の差がどこから出ているのかはさらに検討していきたいけれど,利益率に関してはそのクラスだったという説もあることを併記しておきます。

「台湾船とは知らなかった」長崎奉行所

 鎖国令から唐人屋敷竣工までは,いわゆる第五次鎖国令の1639年から半世紀の時差があります。
 通常,これは1684年の展海令まで中国からの交易船が来なかったから,と説明されます。1661年の遷界令で,鄭氏台湾と癒着しそうな海岸30里内の住民を強制移転,厳重な海禁を敷いたために交易が細った,と。
 けれど本稿では,既に前々章で17C半ばの中国生糸の輸入量を見ています。
▲(再掲)清代17C~19C前期唐船生糸輸入高(出典:前掲梁・方 原典:山脇悌二郎:「長崎の唐人貿易」,吉川弘文館,1995)
 中国船激増後の唐人屋敷建設期には,生糸の輸入は17C半ばに比べ大幅に減っており,この時期の中国船は砂糖など別の交易品を主力としていたと考えられます。
 では,1684年の展海令までの間,1660年頃をピークとする生糸輸入量は,誰が運んでいたのでしょうか?輸入先はもちろん同じ長崎です。
 山脇1995の数値からこの点を疑問視する研究者は少なくないらしい。龐2004にこんなデータもありました。
▲1674-84年長崎来航唐船数表
※ 龐新平「『華夷変態』から見た清初の海禁と長崎貿易」大阪経大論集・第55巻第1号,2004年 数値は「華夷変態」の記事から集計

 龐によると,遷界令の徹底されていなかった広東からの船や,当時鄭氏が実効支配した浙江からの船と称する台湾船が,長崎に来ていたメインストリームと予想しています。
 問題は,これを日本側が知っていたかどうかですけど──前々章で見た通り,幕府や長崎奉行の観察は相当正確です。この時期の日本は生糸が輸入できれば,相手が清から見て合法か否かは二の次なわけで,「知らないふり」をしていたとしか思えません。
 またこの時期に唐人屋敷構想が浮上していないのは,来航中国船側が「こっそり」来ていたからで,堂々と長逗留する者がいなかったのではないでしょうか。輸入側の日本にしても,17C後半のような厳格な対応をすると「知らなかった」ことにできなくなってしまうから,荷の授受を済ますや早々に退散を求めたのではないでしょうか。
 空前の生糸の買い手市場は,こんな「半公認密輸」状態で行われ,唐人屋敷の時代はその後のことと考えられます。

展望:華夷変態データ

 江戸期の対馬が徳川家光から「長崎から江戸には明・清の情報が次々に届いているのに,朝鮮経由の情報が全く来ない」と詰問されています(1647(仁祖25)年3月25日東莱府使閔應協・藤智縄(有田杢兵衛)文書)。幕府は唯一と言っていい対外情報源である長崎情報に聞き耳を立て,長崎奉行所の対幕府ポイントは対清収集情報の量で決した感があります。そのある意味陳腐な役人力学の結果ではありますけど,「唐船風説書」と総称される幕府への報告書が重宝され,華夷変態・全35巻として今に残る。
 なかなか手が出せない史料です。国立国会図書館のデジタルアーカイブでは参照できますけど(→巻1上),読めないのみならず,基本的に単発情報の蓄積なので,相当な根気で分析していかないと咀嚼できる情報にならないみたい。

 岡山大学の張さんが,船員データのとりまとめをしておられたので,ここではそれを紹介及びストックしておきたいと思います。
※ 張照旭「唐船貿易における唐船の出航地と唐船乗組員の出身地について――明治初期中国語教育の背景――」岡山大学大学院社会文化科学研究科紀陽第38号,2014.11
 まずは出航地のデータです。自分でまとめて地図に落としてみましたが……うーんうまくいかない。かなり中国南部の土地勘がないと傾向が理解しにくいのです。
▲失敗作:出航地別一覧

 同論文に役職×出身地の数値データもあり,確かに管理職は浙江方面だけど実務職は福建方面が圧倒的に多い,という非常に面白いデータです……
▲所掌×出身地クロス表
原文注:注1:‌地名の無・蘇・浙・松などの一字漢字はそれぞれ無錫・蘇州・浙江・松江・平湖・海鹽・杭州・湖州・寧波・鄞県・慈溪・鎮海・新安・寧徳・福州・閩県・候官・長楽・福清・恵安・厦門・同安・龍溪を表
わしている。
注2:‌「船主」:唐船の荷主に代わって貿易業務の一切を主宰するもの。
   「財副」:積荷の管理にあたり、船主を補佐する重要職。
「搭份」:人を使う役、隨使の長。
「隨使」:随員であるが、下僕を含むか。
「夥長」:航海の技術面を担当する長、航海士。
「總官」:船主の事務を処理して、船員を統率する、いわば事務長。
「目侶」:一般船員をいう。

とは思うんだけど,これも膨大過ぎて手に負えない。
 何かの観点に集中して深堀りするときのため,かつ頭の良い研究者の方のために,下記の形でこの2データをCSV化しておきます。メモ帳にコピペしてご利用ください。

出航地別データCSV

年号 ,西暦 ,船数 ,山 ,南 ,蘇 ,上 ,呉 ,乍 ,寧 ,普 ,舟 ,華 ,馬 ,後 ,祠 ,東 ,定 ,台 ,温 ,福 ,長 ,狼 ,沙 ,五 ,鎮 ,泉 ,晋 ,安 ,厦 ,? ,台 ,高 ,潮 ,掲 ,東 ,広 ,高 ,南 ,新 ,海 ,瓊 ,他 ,詳
貞享4 ,1687 ,136 ,0,0,0,25,1,0,19,6,0,0,1,0,0,0,0,0,1,34,0,0,0,4,0,0,0,0,13,1,2,0,1,0,2,0,3,1,0,0,1,3,18
貞享5 ,1688 ,194 ,0,0,0,22,0,0,32,5,0,0,0,0,0,0,0,0,1,42,2,0,2,1,0,7,0,1,27,1,4,0,7,1,11,1,4,3,0,3,0,14,3
元禄2 ,1689 ,79 ,0,0,0,14,0,0,17,3,0,0,0,0,0,0,0,0,1,11,0,0,1,0,0,3,0,0,4,3,1,0,2,0,6,0,3,0,0,0,0,10,0
元禄3 ,1690 ,90 ,2,0,1,11,0,0,15,7,0,0,0,0,0,0,0,1,1,7,1,0,2,0,0,5,0,0,7,5,2,0,4,0,4,0,2,0,0,1,0,12,0
元禄4 ,1691 ,90 ,1,0,0,16,0,0,21,7,0,0,0,0,0,0,0,2,3,9,0,0,0,0,0,4,0,0,6,3,2,0,1,0,3,0,2,0,0,0,0,10,0
元禄5 ,1692 ,73 ,2,0,0,8,0,1,19,0,0,0,0,0,0,0,0,1,1,12,0,0,0,0,0,4,0,0,5,2,1,0,0,0,3,0,5,0,0,0,0,9,0
元禄6 ,1693 ,81 ,1,0,0,7,0,0,13,6,0,0,0,0,0,0,0,1,2,11,0,0,2,0,0,3,0,0,4,4,3,0,4,0,1,0,3,0,0,0,0,16,0
元禄7 ,1694 ,73 ,1,0,0,6,0,0,12,3,0,0,0,0,0,0,0,2,2,4,0,0,3,0,0,6,0,0,2,5,1,0,3,0,2,0,2,0,0,0,0,16,3
元禄8 ,1695 ,58 ,0,0,0,4,0,0,14,3,0,0,0,0,0,0,1,3,1,6,0,1,2,0,0,3,0,0,2,2,1,0,1,0,4,0,0,0,0,0,0,10,0
元禄9 ,1696 ,81 ,2,0,0,2,0,0,8,4,1,0,0,0,0,1,0,1,2,1,0,1,2,0,0,4,0,0,3,2,3,0,2,0,1,0,1,0,0,3,0,13,24
元禄10 ,1697 ,102 ,3,1,0,6,0,0,9,6,4,1,0,1,0,0,0,4,5,9,0,0,4,0,0,3,1,0,3,7,3,0,4,0,3,0,3,0,1,1,0,19,1
元禄11 ,1698 ,71 ,1,0,0,18,0,0,17,3,0,0,0,0,0,0,0,1,3,5,0,0,1,0,0,0,0,0,2,0,2,0,0,0,0,0,3,0,0,0,0,13,2
元禄12 ,1699 ,73 ,0,0,0,22,0,0,23,3,1,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,0,1,0,0,1,0,0,5,0,3,0,0,0,0,0,2,0,0,1,0,9,0
元禄13 ,1700 ,53 ,0,0,0,22,0,0,18,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,3,0,5,0,0,0,0,0,2,0,0,0,0,3,0
元禄14 ,1701 ,66 ,0,0,0,22,0,0,23,1,1,0,0,1,1,0,1,0,0,2,0,0,0,0,0,0,0,0,2,1,3,0,0,0,0,0,2,0,0,1,0,3,2
元禄15 ,1702 ,90 ,0,0,0,12,0,0,12,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,2,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,4,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,56
元禄16 ,1703 ,80 ,0,0,0,8,0,0,7,0,1,0,0,0,1,0,0,0,0,1,0,0,0,0,1,1,0,0,3,0,12,0,0,0,2,0,0,0,0,0,0,5,38
元禄17 ,1704 ,84 ,0,0,0,21,0,0,14,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,1,0,0,6,1,14,0,0,0,2,0,0,0,0,0,0,3,21
宝永2 ,1705 ,88 ,0,0,0,8,0,0,2,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,75
宝永3 ,1706 ,93 ,0,0,0,9,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,10,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,2,69
宝永4 ,1707 ,84 ,0,0,0,12,0,0,2,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,4,0,0,0,1,0,0,0,0,1,0,3,61
宝永5 ,1708 ,104 ,0,0,0,45,0,0,23,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,4,0,8,0,0,0,4,0,0,0,0,0,0,5,14
宝永6 ,1709 ,57 ,0,0,0,19,0,0,8,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,23
宝永7 ,1710 ,52 ,0,0,0,14,0,0,12,1,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,1,0,0,0,3,0,0,0,0,0,0,5,14
正徳元 ,1711 ,62 ,0,0,0,0,0,0,4,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,55
享保2 ,1717 ,43 ,0,0,0,8,0,0,24,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,2,0,0,0,0,0,0,1,6
享保3 ,1718 ,23 ,0,0,0,11,0,0,7,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,1,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,1,1
享保4 ,1719 ,36 ,0,0,0,15,0,0,7,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,11
享保5 ,1720 ,35 ,0,0,0,24,0,0,3,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,3
享保6 ,1721 ,36 ,0,0,0,12,0,1,4,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,16
享保7 ,1722 ,30 ,0,0,0,14,0,0,10,2,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,2,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0
享保8 ,1723 ,34 ,0,0,0,11,0,3,9,4,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,2,3

所掌×出身地別データCSV

年号 ,西暦,船名,職掌,呉語区/無,呉語区/蘇,呉語区/浙,呉語区/松,呉語区/平,呉語区/海,呉語区/杭,呉語区/湖,呉語区/寧,呉語区/?,呉語区/慈,呉語区/鎮,呉語区/新,?語区/寧,?語区/福,?語区/?,?語区/候,?語区/長,?語区/清,?語区/恵,?語区/厦,?語区/同,?語区/龍,不詳,合計
安永9年,1780,元順,船主,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1
安永9年,1780,元順,副船主,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,,,,,1
安永9年,1780,元順,財副,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1
安永9年,1780,元順,附搭,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
安永9年,1780,元順,隨使,,5,,1,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,7
安永9年,1780,元順,小計(貿易に関する職),0,6,0,2,0,0,0,1,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,10
安永9年,1780,元順,総官,,,1,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,,,2
安永9年,1780,元順,夥長,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,1
安永9年,1780,元順,舵工,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,2,,,,2
安永9年,1780,元順,目侶,,,1,,,,,,,,,,,,20,,,,,,30,12,,,63
安永9年,1780,元順,炮手,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
安永9年,1780,元順,小計(運航に関する職),0,0,2,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,21,0,0,0,0,0,33,12,0,0,68
安永9年,1780,元順,合計,0,6,2,2,0,0,0,1,0,0,0,0,1,0,21,0,0,0,0,0,33,12,0,0,78
寛政元年,1789,安利,船主,,,,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,1
寛政元年,1789,安利,副船主,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
寛政元年,1789,安利,財副,,,,,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,1
寛政元年,1789,安利,附搭,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
寛政元年,1789,安利,隨使,,4,,,,,3,3,,,,,,,,,,,,,,,,,10
寛政元年,1789,安利,小計(貿易に関する職),0,4,0,0,0,0,4,4,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,12
寛政元年,1789,安利,総官,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,,1
寛政元年,1789,安利,夥長,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,1
寛政元年,1789,安利,舵工,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,1,,,,,,2
寛政元年,1789,安利,目侶,,,,,,,,,3,,,,,1,12,7,7,19,12,,,,,,61
寛政元年,1789,安利,炮手,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
寛政元年,1789,安利,小計(運航に関する職),0,0,0,0,0,0,0,0,3,0,0,0,0,1,12,8,7,20,14,0,0,0,0,0,65
寛政元年,1789,安利,合計,0,4,0,0,0,0,4,4,3,0,0,0,0,1,12,8,7,20,14,0,0,0,0,0,77
文化12年,1815,永茂,船主,,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1
文化12年,1815,永茂,副船主,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
文化12年,1815,永茂,財副,,,,,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,,1
文化12年,1815,永茂,附搭,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,,1
文化12年,1815,永茂,隨使,,1,,,3,,,,,,,,,,,,,,,,,,,4,8
文化12年,1815,永茂,小計(貿易に関する職),0,1,0,0,4,1,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,0,0,0,0,0,0,0,4,11
文化12年,1815,永茂,総官,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,1
文化12年,1815,永茂,夥長,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,1
文化12年,1815,永茂,舵工,,,,,,,,,,,,,,,,,,2,1,,,,,,3
文化12年,1815,永茂,目侶,1,,,,5,,,,1,1,2,1,,,1,9,7,16,4,,,17,,,65
文化12年,1815,永茂,炮手,,,,,7,,,,1,,,,,,,1,,,,,,,,,9
文化12年,1815,永茂,小計(運航に関する職),1,0,0,0,12,0,0,0,2,1,2,1,0,0,1,10,8,19,5,0,0,17,0,0,79
文化12年,1815,永茂,合計,1,1,0,0,16,1,0,0,2,1,2,1,0,0,1,11,8,19,5,0,0,17,0,4,90
文政9年,1826,得泰,船主,,,,,1,,1,,,,,,,,,,,,,,,,,,2
文政9年,1826,得泰,副船主,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
文政9年,1826,得泰,財副,,,,,,,1,,,,,,,,,,1,,,,,,,,2
文政9年,1826,得泰,附搭,,,,,4,,,,,,,,,,,,1,1,,,,,,,6
文政9年,1826,得泰,隨使,,7,,,1,,1,,,,,,,,,1,1,1,,,,,,,12
文政9年,1826,得泰,小計(貿易に関する職),0,7,0,0,6,0,3,0,0,0,0,0,0,0,0,1,3,2,0,0,0,0,0,0,22
文政9年,1826,得泰,総官,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,,,1
文政9年,1826,得泰,夥長,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,,,,1
文政9年,1826,得泰,舵工,,,,,,,,,,,,,,,,,,1,,,,1,,,2
文政9年,1826,得泰,目侶,,1,,,7,,,,2,1,,,,,,17,13,6,5,1,,31,1,,85
文政9年,1826,得泰,炮手,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,0
文政9年,1826,得泰,小計(運航に関する職),0,1,0,0,7,0,0,0,2,1,0,0,0,0,0,18,13,8,5,1,0,32,1,0,89
文政9年,1826,得泰,合計,0,8,0,0,13,0,3,0,2,1,0,0,0,0,0,19,16,10,5,1,0,32,1,0,111

▲密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ